第2話 証拠は裏切らない
火曜の朝、会社の自動ドアは昨日よりもさらに渋く開いた。
たぶん俺の魂ではなく、会社の未来を読み取っている。
株式会社アーク・サポートは今日も元気に営業中だったが、現場の空気は明らかに変だった。コピー機の前で営業が二人、取扱説明書でも読むみたいな顔で立ち尽くしている。電話は鳴る。誰も取らない。取ったと思ったら、保留のまま固まる。
俺は自席に座る前に、まずその光景を三秒眺めた。
昨日の午前に役立たず認定された男がいないだけで、会社がすでに学級閉鎖一歩手前なのは、どういう理屈なんだろう。
いや、理屈は知っている。
俺がいままで理屈抜きで埋めていた穴が、まとめて口を開けているだけだ。
「白石ぃ!」
営業二課の榊原が、通路の向こうから半泣きでやって来た。
三十代前半、見た目だけは爽やかな営業マン。中身はメールの誤送信と書類の置き忘れでできている。
「先方がやばい、あの件ほんとやばい、昨日の見積、どこまで進んでたっけ」
「どの件ですか」
「えっ」
「どの件ですか」
俺は丁寧に二回言った。
榊原は口をぱくぱくさせた。人は想定外の質問をされると、だいたい魚になる。
「いや、ほら、あの、S工業さんの」
「S工業さんだけで今三件あります」
「えっ、三件も?」
「あるから昨日まで生きてたんですよ、俺は」
榊原は完全に絶望した顔になった。少し気の毒だが、俺も昨日まではこの顔をしていたので、相殺である。
「頼む、助けて」
「業務指示の範囲が文書で明確化されていませんので」
「うわ出た、昨日のやつ」
「昨日のやつです」
「そんな判例みたいに言うなよぉ」
ちょうどそこへ、黒田が椅子ごと滑ってきた。
「榊原さん、いま白石はレアキャラなんで。話しかけるには条件を満たしてください」
「条件って何?」
「礼儀と、具体性と、できれば菓子折り」
「急に顧問弁護士みたいなこと言うな」
俺は笑いそうになるのをこらえ、パソコンを立ち上げた。
メールの未読は昨日の倍になっていた。
件名の一覧を見るだけで、胃が細くなる。
>至急確認
>取り急ぎご相談
>何とかしてください
「何とかしてください」は件名ではない。願望だ。
昨日の退職勧奨じみた面談のあと、会社は俺を切る準備に入るかと思ったが、実際には俺を切った後の想定を一ミリもしていなかったらしい。
人事からはまだ何の文書も来ていない。
代わりに、現場からヘルプが無限に来る。
それが何よりの証拠だった。
俺は自席で静かにスクリーンショットを取り始めた。
チャットの相談履歴。業務依頼の偏り。夜十時台のメール送信履歴。休日の着信メモ。営業が投げた案件を俺が回収し、経理の確認不足を俺が埋め、人事が作っていない引継書まで俺が作っていた痕跡。
まるで遺跡発掘だった。
出るわ出るわ、過去の俺。
しかも全部、疲れている。
九時四十分、森山部長から内線が鳴った。
「白石くん、ちょっと来てくれ」
「文書でお願いいたします」
「……は?」
「昨日の人事面談以降、業務指示の範囲が不明確なため、文書でお願いいたします」
「君ね、ふざけてるのか」
「いえ。記録のためです」
電話の向こうで沈黙があった。受話器越しでも、額に血管が浮く音が聞こえそうだった。
「じゃあメールする」
「ありがとうございます」
切れた。
黒田が口元を押さえて肩を震わせている。
「おまえ今、木刀持ってない剣豪みたいだったぞ」
「社会人だからな。木刀の代わりに証拠を持つ」
「かっこいい。なのに地味だな」
十分後、森山からメールが来た。
>件名、顧客対応支援依頼。
本文はやたら丁寧で、昨日までの態度が嘘みたいだった。支援依頼。いい言葉だ。昨日は役立たず。今日は支援依頼。明日あたり救世主になるかもしれない。
俺はそのメールも保存した。
そして、あえて最小限だけ返信した。
>承知しました。対応履歴の整理のみ行います。対外連絡はご担当にてお願いいたします。
これでいい。
必要最低限。会社の生命維持装置にはなるが、人工心肺にはならない。
午前中いっぱい使って、俺は証拠フォルダを整えた。
項目は三つに分ける。
解雇理由の不合理。
業務実態。
残業と休日対応。
こうして分類すると、人生が急にファイル管理の問題に見えてくる。実際、半分くらいはそうだ。人間関係の地獄も、記録にすると表計算で殴れる。
昼休み、俺は会社を出た。
ビルの一階にあるチェーンのカフェは、いつ来ても冷房が効きすぎている。働く人間の頭を冷やすためなのか、早々に追い出して回転率を上げるためなのか、たぶん両方だろう。
窓際の席に座り、ホットコーヒーを頼む。
昨日の夜、かなり調べた。
労働審判という制度のこと。
通常の裁判より早いこと。
解雇無効や未払い残業代も争点になりうること。
そして、証拠が命だということ。
だから今日、俺は相談予約を入れていた。
労働問題に強いという法律事務所の初回相談。三十分。
三十分で人生が変わるなら、スマホの機種変更よりずっと有意義だ。
時間ちょうどに、席へ一人の女性が来た。
「白石さんですか。神谷です」
三十代半ばくらい。紺のジャケットに、いかにも忙しそうな薄いファイルを持っている。目だけがよく働く人の目だった。
「お時間限られているので、結論から整理しますね」
座ってすぐ、それだった。
仕事のできる人は雑談で場を温めない。代わりに、無駄を省く。整理して片付ける。
俺は昨日の録音データ、面談の経緯、勤務実態のメモを順に見せた。
神谷弁護士は、時々うなずきながら、必要なところだけ質問する。
「退職届には署名していない?」
「していません」
「解雇通知書はまだない?」
「ありません」
「ただ、口頭で継続就労困難と言われ、退職届を差し出された?」
「はい」
「勤務時間は?」
「定時は九時から六時です」
「実態は?」
「平均で二十時半くらいです。遅い日は二十二時を過ぎます」
「固定残業代は?」
「なしです」
神谷弁護士が初めて、少しだけ口角を上げた。
「それは会社にとって、だいぶ嫌な情報ですね」
その言い方が妙に良かった。
世の中には救いの言葉がいろいろあるが、いまの俺には「大丈夫ですよ」よりも、「相手にとって嫌な情報ですね」のほうが効く。
「これ、勝てますか」
思わず聞いていた。
神谷弁護士は即答しなかった。そこも信用できた。
「勝てるかどうかは、相手の出方と証拠の厚みによります。ただ、会社側の進め方はかなり雑です。退職勧奨なのか解雇なのかも、整理できていない。能力不足を理由にするなら指導記録や改善機会を設けることが必要ですが、いまの話だとあるようには思えない」
「はい」
「あと、残業代の請求余地はかなりあります」
「かなり」
「かなりです」
俺はホットコーヒーを一口飲んだ。
うまい。
人生で初めて、コーヒーが司法の味に感じた。
「あの、労働審判って、すごく大ごとですか?」
「響きは重いですが、通常訴訟よりはずっと速いです。三回程度の期日で話し合いと判断を進めることが多いので」
「三回」
「会社からすると、かなり嫌です。表に出したくないことが短期で整理されるので」
今日二回目の、「会社にとって嫌」という評価だった。
効く。
「じゃあ、やるなら?」
「まず証拠整理です。感情より時系列。誰が見ても分かるように」
「それ、得意かもしれません」
「営業事務の方はそこ強いですよね」
「人の尻拭いで鍛えられました」
「それは立派な職能です」
立派な職能。
その言い方は、少し変な感じがした。
うちの会社では、俺の仕事はいつも『ついで』扱いだった。誰かが落としたものを拾い、こぼれたものを拭き、怒っている人をなだめ、締切に間に合わせる。形になった成果は、だいたい別の誰かの名前で呼ばれる。
でも、外の人はそれを職能だと言った。
たったそれだけで、胸の奥のどこかが静かに起き上がる。
「一点だけ」
神谷弁護士が言う。
「会社とやり取りする時、電話は減らしてください。できるだけメール。録音があるなら保全。私物スマホと会社端末はきっちり分ける」
「わかりました」
「あと、相手が急に優しくなっても、油断しないことです」
「もうなってます」
「でしょうね」
笑いそうになった。
相談は三十分のはずだったが、少しだけ延びた。
帰り際、神谷弁護士はファイルを閉じて言った。
「白石さん、これは『復讐』の話に見えるかもしれませんけど、違います。『取り返す』話です」
その一言を持って、俺は会社へ戻った。
午後の事務所はさらに混沌としていた。
榊原が電話口で謝り、経理の田辺さんが印刷ミスで青くなり、森山が誰かに怒鳴っている。昨日まで俺が中継地点になっていたトラブルが、今日は全部むき出しのまま流れていた。
そして俺の机の上には、紙のメモが一枚置かれていた。
>白石さん
>昨日の件、気をつけて
>勤怠データ、月末に直されることある
>総務共有フォルダのバックアップ見て
名前はない。
だが字を見れば分かった。総務の杉原さんだ。ふだん静かで、給湯室の観葉植物にだけ優しい人。
俺は息を止めた。
勤怠データ、直されることがある。
その一文の破壊力は、下手な脅しよりずっと大きかった。
すぐには動かない。
まず、平静な顔でメールを処理する。三件だけ返信する。相談履歴を保存する。周囲から見れば、俺はまだただの地味な事務員であるべきだ。
そうしてから、共有フォルダを開いた。
年度別。
総務。
勤怠。
バックアップ。
フォルダ名が雑すぎて逆に助かる。
中を開くと、月ごとのデータがごろごろ出てきた。現行データと見比べる。数字が違う。残業時間が削れている日がある。休日出勤が、なかったことになっている日もある。
うわあ。
声には出さなかったが、心の中ではかなりうわあだった。
犯罪映画で金庫を開けた時より興奮しているかもしれない。出てきたのが札束ではなく、改ざん前の勤怠ログというだけで。
黒田がまた椅子ごと寄ってきた。
「どうした? 顔が宝くじ当たった人みたいだぞ」
「逆だ」
「逆?」
「会社が当たりに来た」
「なにそれ怖い」
「いや、怖いのは向こうだ」
俺はモニターを軽く隠しつつ、スクリーンショットとバックアップ保存を進めた。私用クラウドにも控えを取り、紙にも一部印刷する。デジタルだけを信じるほど、俺はこの会社に優しくない。
夕方、森山からまたメールが来た。
>件名、今後について。
ようやく来たかと思って開くと、内容は社長との再面談の打診だった。文面だけはやけに柔らかい。
俺はしばらく画面を見た。
優しい。
昨日まで石を投げていた人間が、今日は急に毛布を差し出してくる感じの優しさだ。寒いのはおまえのせいだろうが。
返信は保留した。
代わりに、神谷弁護士へ追加資料送付のメールを書く。
件名は簡潔にした。
>勤怠バックアップ確認
文章の最後に、こう添える。
>会社側でデータ修正の疑いがあります。証拠保全を急ぎたいです。
送信。
その瞬間、不思議なくらい気持ちが落ち着いた。
やることが明確になると、人間は少し元気になる。
昨日まで俺は、ただ切られかけた社員だった。
でも今日は違う。
記録を集める人間だ。
この会社が雑に踏んできた日々に、番号を振り、名前を付け、順番に並べている。
証拠は、裏切らない。
人は裏切る。上司も会社も、だいたいあっさり裏切る。
でもログは裏切らないし、送信履歴も裏切らない。深夜二十三時四十八分のメールは、俺が家でのんびりヨガをしていたことにはしてくれない。
定時を過ぎ、窓の外が群青色になっていく。
事務所ではまだ電話が鳴っていた。
俺はパソコンを閉じる前に、新しいフォルダをひとつ作った。
名前はこうした。
『会社が嫌がるやつ その二』
自分でも少し幼稚だと思う。
だが、昨日より確実に前へ進んでいる。
帰り際、黒田が小声で言った。
「白石」
「ん」
「なんかさ、おまえ、昨日より顔がいい」
「それは会社の照明から離れる時間が増えたからでは?」
「いや、そういう物理じゃなくて」
黒田は少し考えてから、言った。
「反撃できる人の顔してる」
俺は笑った。
会社の自動ドアを抜ける。夜風が冷たい。
ビルのガラスに映った自分は、相変わらずスーツのくたびれた会社員だった。
でも、昨日とは違う。
昨日はただ、冷めたコーヒーみたいだった。
今日はまだ苦いが、少なくとも、自分で淹れ直せる気がした。




