第13話 和解金が口座に落ちる
和解金の振込予定日が近づくと、人は妙に口座を見てしまう。
いや、近づかなくても見る人は見るだろうが、少なくとも俺はこれまで、自分の口座残高を一日に四回も確認するタイプではなかった。
朝起きて一回。
朝食後に一回。
昼前に一回。
そして、振込予定日の当日などは、もはや天気予報を見るより高頻度で銀行アプリを開いていた。
人間、金の動きには弱い。
ましてそれが、自分が雑に扱われた時間の対価であるならなおさらだ。
最終出社日から数日、俺は人生で初めてちゃんと休んでいた。
目覚ましをかけずに寝る。
午前中に洗濯をする。
昼にちゃんとした飯を食う。
夕方に散歩へ出る。
それだけのことで、体の中に溜まっていた何かが少しずつ沈殿していく感じがした。
会社勤めの時は、休みの日ですら頭の片隅に、月曜の朝の自動ドアみたいなものが立っていた。
今はない。
その不在が、まだ少し不思議だった。
振込予定日の朝、俺はベッドの中で銀行アプリを開いた。
まだ入っていない。
時刻は七時十二分。
当たり前である。
銀行だって朝礼前だろう。
にもかかわらず確認した自分に対し、少しだけ冷静さを取り戻そうとしたその時、スマホが震えた。
真帆からだ。
>入った?
>まだ
>早いよ
>知ってる。でも見る
>小学生がプレゼント待つやつじゃん
>性質は近い
>夢がないプレゼントだな
>いや、夢はある。かなりある
その通りだった。
現金は夢がないようで、かなり夢に近い。
少なくとも、家賃の支払い能力とコーヒー豆の購入可能性に直結するあたり、夢としてはだいぶ優秀だ。
午前十時を過ぎた頃、俺は近所の喫茶店にいた。
最終出社日以来、少しだけ贅沢をしている。
紙コップのインスタントではなく、ちゃんとカップで出てくるコーヒーを飲む生活。客席は静かで、店員は必要以上に話しかけてこない。隣の席では、年配の男性が文庫本を読んでいる。
いい。
とてもいい。
俺が欲しかったのは、たぶんこういう空気だったのだ。
レジ横の焼き菓子までおいしそうに見える。
財布に余裕があると、フィナンシェが以前より人格者に見えるのはなぜだろう。
コーヒーを飲みながら、また銀行アプリを開く。
まだだ。
十時二十三分。
銀行の振込処理に対して、こちらだけが先走っている。
俺は自分を落ち着かせるため、喫茶店の壁を見た。小さな棚にコーヒーカップが並んでいる。白、青、薄い飴色。店の照明は少し低めで、窓から入る光がテーブルにだけきれいに落ちていた。
こういう店、いいなと思う。
うるさくない。
急かされない。
必要以上に人を削らない。
会社というものを経験した後だと、静かな店内そのものが一つの文明に思える。
そこへ、黒田からメッセージが来た。
>どうだ億万長者
>まだだ
>銀行を信じろ
>おまえのほうが信じてるな
>会社の経理よりは信じられる
>それはそう
黒田はすぐに続けてきた。
>社内、ちょっと変わったぞ
>何が?
>残業申請、急に通るようになった
>うわ
>あと、森山が前より声でかくない
>それは健康にいいな
>だろ。おまえが労働審判で会社を矯正した犬みたいになってる
>表現が最悪だな
でも少し笑った。
完全に変わるわけではないだろう。会社はたぶんこれからも会社のままだ。榊原はたぶんまた見積を間違えるし、コピー機は紙を食うし、社長は偉そうな椅子に座るだろう。
でも、少なくとも前よりは、雑に人を切って済ませられる場所ではなくなった。
それだけでも、十分に意味がある気がした。
十一時を回った頃、俺はついに見た。
銀行アプリの入出金明細に、新しい一行が増えている。
振込。
金額。
見慣れない桁数。
数秒、画面を見たまま止まった。
入っている。
ちゃんと入っている。
俺が深夜に送ったメールも、休日の着信も、会議室で差し出された退職届も、全部ひっくるめて、最終的にこの一行へたどり着いたのだと思うと、妙な感覚だった。
達成感と、安堵と、少しの脱力。
そして、現実感。
金額は記号じゃない。
家賃になる。食費になる。休む時間になる。次の場所へ動くための足場になる。
つまり未来だ。
俺はすぐに真帆へ送った。
>入ったぞ
>おおおお。生還報酬じゃん
>そうかもな
>泣いた?
>まだ。でもちょっと変な感じ
>それが普通だよ。じゃあ今日はちゃんと高いコーヒー飲みな
>高いのってうまいのか
>少なくとも紙コップよりは
それは絶対そうだった。
メッセージを閉じても、しばらく画面を見ていた。
数字は冷たい。
けれど、冷たいからこそ、ここまで来たことがちゃんと分かる。
怒鳴り声も、空気も、協調性という曖昧な言葉も、最終的にはこの口座の一行より弱かった。
現代日本、たまにすごい。
会計で、いつもより少し高いブレンドと、焼き菓子を追加で頼んだ。
フィナンシェだ。
以前はこういう時、無意識に値段を見るふりをして諦めていた。
今日は違う。
いや、浪費するつもりはない。
むしろ逆だ。この金は、適当に散らしていいものではない。俺の三年が、ようやく現金へ変わったものだ。
だからこそ、その使い道は雑にしたくなかった。
喫茶店を出たあと、俺は駅前の書店へ寄った。
目的は小説でも雑誌でもない。
棚の一角にある、店舗経営とか、カフェ開業とか、そういう本の並ぶコーナーだ。
前から気になってはいた。
でも会社員の時は、そこへ立つだけで後ろめたかった。今の自分には関係ない未来だと思っていたからだ。
今日は違う。
手を伸ばして、何冊か抜く。
『小さなカフェの始め方』。
『自家焙煎の基礎ではなく、経営から考える店づくり』。
『失敗しない物件選び』。
タイトルが露骨だなと思いながら、ぱらぱらめくる。
やばい。
面白い。
レジカウンターの導線とか、席数の最適化とか、原価率とか、開業資金の考え方とか。難しいのに、会社の業務フロー資料よりずっと夢がある。
人を擦り減らす段取りではなく、人が落ち着ける段取りだからだろうか。
気づけば三冊抱えていた。
財布の紐は少し緩んだが、頭はむしろ締まっていく感じがする。
これだ。
いきなり店を出すわけじゃない。そんなに世の中は甘くない。
でも、考えていい。
見ていい。
調べていい。
その資格が、自分にようやく発生した気がした。
昼を過ぎ、俺は真帆と待ち合わせた。
駅前のカフェチェーンではなく、少し奥まった小さな店だ。木の扉、白い壁、席数は少なめ。真帆は着くなり俺の顔を見て言った。
「なんか、顔が違う」
「整形したみたいに言うな」
「そうじゃなくて。会社の人の顔じゃなくなった」
それは少し分かった。
ここ数日、鏡を見るたび、自分の顔からうっすらと何かが剥がれていく感じがしていた。疲労だけではない。ずっと身につけていた会社用の表情が落ちていくのだ。
真帆はメニューを開きながら言う。
「で、何に使うの?」
「何を」
「お金」
直球だった。
だが、嫌いじゃない。
「全部は使わない。生活防衛資金は残す」
「えらい」
「あと、少し休む」
「もっとえらい」
「それから、店を見に行きたい」
「おお」
「いきなり開くわけじゃないけどな」
「うん。それでいいと思う」
真帆はアイスコーヒーを頼み、俺は深煎りのブレンドを頼んだ。
カップが届く。
香りが立つ。
ひと口飲む。
うまい。
「兄ちゃん」
「ん」
「なんかさ、よかったね」
その一言で、初めて少しだけ喉が詰まった。
泣くほどではない。
でも、胸の奥のどこかがゆるむ。
「……うん」
「大変だったでしょ?」
「まあな」
「これからはさ、人のミスを拾うんじゃなくて、自分のやりたいもの拾いなよ」
その言い方が、妙に良かった。
自分のやりたいものを拾う。
いままで俺は、誰かが落としたものばかり拾っていた。
営業のミス。
経理の漏れ。
上司の判断不足。
顧客の怒り。
それを拾い続けて三年過ごした。
これからは違う。
拾うなら、自分が欲しいものを拾いたい。
静かな席とか、ちゃんとした豆とか、窓際の光とか、働く人が少し休める空気とか、そういうものを。
帰宅してから、俺は机の上に書店で買った本を並べた。
その横に、ノートを一冊置く。
新品だ。
まだ何も書いていない。
表紙を開き、最初のページの上に、少しだけ迷ってから書く。
店のこと
雑だなと思う。
でもいい。
最初はだいたい雑でいい。
そこから細かくしていけばいい。
ページの下に、思いつくまま書き足す。
・静か
・コーヒーがうまい
・席数少なめ
・急がせない
・働く人が休める
・残業させない
最後だけ急に経営理念みたいだなと思って、自分で少し笑った。
だが、それがいちばん大事かもしれない。
店をやるなら、誰かを紙コップみたいに扱う場所にはしたくない。
夜、黒田からまたメッセージが来た。
>入ったか
>入った
>おめでとう
>ありがとよ
>で、何買った
>本
>堅実だな
>開業の本
>うわ。始まるじゃん
>まだ始めないけどな
>でも始まったんだろ。頭の中では
>そうかもな
メッセージを閉じる。
部屋の中は静かだった。
会社のチャット通知も鳴らない。
メールの着信もない。
俺はコーヒーを淹れた。
まだ家の安い豆だが、それでも会社の紙コップよりずっとましだ。
湯を注ぐ。
香りが上がる。
カップを持つ。
口座に落ちた数字は冷たかったが、この湯気は温かい。
その両方が、いまの俺には必要だった。




