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第12話 最終出社日は静かだ


 最終出社日の朝、目覚ましが鳴るより少し早く目が覚めた。


 人は大事な日に限って、体が先に起きる。


 遠足の日の小学生みたいだな、と一瞬思ったが、向かう先が株式会社アーク・サポートなので情緒の方向性がだいぶ違う。遠足ならもっと夢がある。少なくとも紙コップのコーヒーは出ない。


 カーテンの隙間から入る光は明るかった。


 よく晴れている。


 よりによって、こういう日だけ天気がいい。会社人生の最終日くらい、少し曇っていてもよかったのにと思うが、まあ空に罪はない。


 顔を洗い、スーツを着る。


 いつもの手順だ。


 でも、いつもと違うのは、その手順にもう続きがないことだった。


 このスーツで会社へ行くのは、今日が最後になる。


 そう思うと、玄関で靴を履く動作まで少しだけ静かになる。


 電車に揺られ、駅を出て、見慣れたビルへ向かう。


 株式会社アーク・サポートの入った雑居ビルは、今日も相変わらず雑居ビルだった。特に感慨深そうな顔もしない。三年も通った人間が一人いなくなるくらいで建物が何かを悟るなら、それはもう建築ではなく神社だろう。


 だが自動ドアだけは、いつもより少し軽く開いた気がした。


 たぶん気のせいだ。


 でも、最後の日くらいはそういうことにしておく。


 事務所に入ると、空気は妙に整っていた。


 誰かが朝早くから片づけたのか、机の上の雑然とした紙束がいつもより少ない。コピー機の周りにも段ボールが積まれていない。営業の連中も、なんとなく声を控えめにしている。


 まるで、最終回だから背景の作画が少し丁寧になったみたいな感じだ。


「おはよう」


 黒田が言った。


「おはよう」


 今日の黒田は、いつもの飄々とした感じより少しだけ落ち着いて見えた。


「ついにだな」


「ついにだな」


「会社の空気、わりと葬式っぽいぞ」


「祝いと葬式の中間くらいにしてくれ」


「無理だろ。おまえが抜けるの、実務的には、ほぼ災害だし」


「最後まで正直だな」


「そこが俺の良さだから」


 良さかどうかはともかく、黒田は今日も黒田だった。


 その普通さに、少しだけ救われる。


 席へ着く。


 パソコンを立ち上げる。


 最後のログイン画面が出る。社員番号を打ち込みながら、これも今日で最後かと思うと、じわじわ妙な感覚が来る。


 社内メールを開くと、神谷弁護士から和解成立書面の最終確認が届いていた。


 >文言に問題ありません。本日、会社側でも署名押印が完了見込みです。貸与物返却は一覧に沿って対応してください。


 成立見込み。


 もうほぼ決着だ。


 数週間前、会議室で退職届を差し出された時には、こんなに整った形で終わるとは想像していなかった。


 もっとぐちゃぐちゃで、もっと消耗して、もっと嫌な気分のまま終わるのだと思っていた。


 でも、違った。


 ぐちゃぐちゃなのは会社のほうで、俺は記録と弁護士と制度のおかげで、意外なくらい整った出口まで来ている。


「どうだ?」


 黒田が聞く。


「ほぼ締まった」


「締まったか」


「うん」


「じゃあ今日は、最終回のエンディング前だな」


「BGMは流れてないけどな」


「コピー機の駆動音で我慢しろ」


 それはだいぶ味気ないエンディングだった。


 午前中は、最終の引継ぎ確認と返却物の整理で終わった。


 貸与スマホ。


 社員証。


 ロッカーの鍵。


 社用メールのデータ確認。


 会社支給の文房具まで一覧に入っていて、ここだけ妙に几帳面だなと思う。退職届は雑に机へ出したくせに、ボールペン一本の回収には真剣である。


 会社というのは本当に不思議な生き物だ。


 十一時ごろ、人事から大村がやって来た。


 今日はいつもの湿り気に加えて、少しだけ事務的な諦めが混じっている。


「白石くん、返却物の一覧、確認させてください」


「どうぞ」


 一覧を見せる。


 大村はひとつずつチェックを入れていく。


「社員証」


「はい」


「貸与スマホ」


「初期化前の確認済みです」


「ロッカー鍵」


「あります」


 やり取りは淡々としている。


 だが、その淡々さが逆に変だった。ほんの一か月前まで、こいつらは俺を役立たず扱いし、継続就労困難とまで言っていたのだ。


 それが今は、ロッカー鍵の受領確認をきっちり取っている。


 現代日本、すごい。


 人間を急に事務的にする。


「……お世話になりました」


 チェックを終えた大村が、小さく言った。


 俺は一瞬だけ、大村の顔を見た。


 本心かどうかは分からない。


 だが少なくとも、形だけでもそう言うしかないところまで来たのだろう。


「こちらこそ」


 とりあえず返す。


 それ以上は何もない。


 和解条項にも、人生にも、余計な一言はいらない時がある。


 昼前、榊原が寄ってきた。


 今日もまた、何か持っている。


 見ると、コンビニのプリンだった。


「何でプリン?」


「なんとなく」


「別れの品がプリンは軽すぎるだろ」


「重い菓子だと逆に湿っぽいかなって」


 なるほど。その判断は、意外と正しい気がした。


 榊原は机の端にプリンを置き、珍しく真面目な顔で言った。


「ほんと、いろいろすみませんでした」


「ざっくりしてるな」


「ざっくりしか謝れない量あるんだよ」


「それはそうだな」


「あと、助かってました」


「知ってる」


「知ってるのかよ」


「一覧見てみんな青くなってただろ」


 榊原は苦笑した。


 それから少し間を置いて言う。


「あのさ、おまえ、店やるなら連絡しろよ」


「何で?」


「客で行くから」


「トラブル持ち込むなよ」


「いや客としてだよ」


「営業トークで値切りそうだな」


「やらないやらない」


 やりそうだった。


 でも、そういう軽口が言えるのは悪くない。


 昼休み、俺は最後になるかもしれない非常階段へ出た。


 会社の中で、ここだけは少しだけ空が近かった。


 風が通る。


 下では配送トラックが止まっている。


 遠くで救急車の音が小さく聞こえる。


 都市の昼だ。


 スマホが震えた。


 真帆からメッセージが来ている。


 >最終日どう?


 >まだいる


 >知ってるよ。感想


 >会社が妙に片づいてる


 >それ感想なの?


 >わりと本質だぞ


 >まあそうか。で、泣いてる?


 >泣いてない


 >えらい


 >褒める基準が低いな


 >ブラック企業を法的に脱出した兄に必要なのは、まず低いハードルだから


 それもそうかもしれない。


 しばらく画面を見てから、返信する。


 >たぶん、ちょっとほっとしてる


 >それが一番だよ


 短いやり取りだったが、それだけで十分だった。


 泣いてはいない。


 怒りも、最初ほどは鋭くない。


 ただ、本当に少しだけ、体の内側の張りつめたものが緩んでいる。


 午後、社内メールで最後の引継ぎ補足を送った。


 月末締めの注意点。


 顧客ごとの例外処理。


 請求周りで営業がやりがちなミス。


 我ながら、よくこれだけ頭に入っていたなと思う。


 そして同時に、よくこれだけ一人に載せて平気だったな、この会社、とも思う。


 送信して少しすると、田辺さんがわざわざ席まで来た。


「白石さん」


「はい」


「これまで、すみませんでした。あと、助かってました」


 また助かってました、だ。


 最終日に急に感謝の在庫一掃セールが始まっている。


 遅い。


 でも、ないよりはずっといい。


「こちらこそ、お世話になりました」


 それで十分だった。


 十五時を過ぎた頃、社長の中津川に呼ばれた。


 最後だろうな、と思う。


 社長室へ入る。


 この部屋へ初めて呼ばれた時、俺は退職届を差し出された。


 今日は違う。


 机の上にあるのは退職届ではなく、和解関連の確認書類だった。


 文明の進歩である。


「座ってくれ」


 社長の声には、もう以前のような圧がない。


 偉そうな椅子に座っているが、椅子だけが偉そうだ。


「和解書面の確認と、最後の手続きだけだ」


「はい」


 事務的に内容を確認する。


 退職日。


 支払期日。


 離職票の送付。


 貸与物の返却確認。


 すべて、もう条項になっている。


 条項は便利だ。


 感情より遅いが、感情より信用できる。


 確認が終わると、社長は少し黙ってから言った。


「……結果的に、こういう形になってしまったことは、会社として重く受け止めている」


「そうですか」


「君にも、負担をかけた」


「はい」


 反射的にそう答えていた。


 否定する気にも、慰める気にもならなかった。


 事実だからだ。


 社長は苦い顔をしたが、続けた。


「次のことは、決まっているのか」


「これからです」


「そうか」


「はい」


「……どこへ行っても、真面目すぎると損をすることもある」


 その言葉に、少しだけ笑いそうになった。


 最後にそれを言うのか。


 おまえの、この会社が、それを最も実践していた側だろうが。


 だが口には出さない。


「今度は、損しない場所を選びます」


 そう返すと、社長はしばらく黙っていた。


 それから小さくうなずいた。


「それがいい」


 それで終わりだった。


 拍手もない。


 和解成立のファンファーレもない。


 でも、十分だった。


 社長室を出る。


 事務所へ戻ると、黒田がこっちを見る。


「どうだった?」


「終わった」


「マジで?」


「マジで」


 黒田は一瞬だけ黙り、それから立ち上がった。


「じゃあ、見送るか」


「大げさだな」


「こういうのは形が大事なんだよ」


 気づけば、何人かがこちらを見ていた。


 榊原も、田辺さんも、総務の杉原さんもいる。


 全員が集まるわけではない。


 でも、何人かは立っていた。


 妙な感じだった。


 会社で人を送り出す時、こういう空気になるのか、と今さら知る。


 ロッカーの中身を持ち、机の引き出しを最後に閉める。


 紙コップのコーヒーの予備は置いていく。


 呪物だからだ。


「じゃあ」


 俺が言うと、黒田がすぐ返す。


「おつかれ」


 榊原が言う。


「店できたら連絡な」


 田辺さんが頭を下げる。


「本当に助かりました」


 杉原さんは、いつもの無表情のまま、少しだけ会釈した。


「お元気で」


「みなさんも」


 それだけ言って、歩き出す。


 自動ドアの前までの数メートルが、妙に長い。


 でも、足は重くなかった。


 自動ドアが開く。


 最後まで、今日は少しだけ軽い気がした。


 外へ出る。


 夕方の光が眩しい。


 風がある。


 駅前のパン屋から甘い匂いが流れてきて、遠くで電車の音がする。


 それだけのことなのに、世界が少し広く見えた。


 会社の外は、こんなに普通だったのか。


 普通で、静かで、ちゃんと空がある。


 俺はビルを振り返らなかった。


 振り返らなくても、終わったことは分かるからだ。


 代わりにスマホを取り出して、真帆へ短く送る。


 >終わった


 すぐ返ってきた。


 >おめでとう。コーヒー飲みに行こう


 それに、少し笑う。


 うまいコーヒーを飲みたい。


 静かな場所に行きたい。


 その二つが、今日はもう願望だけじゃない気がした。


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