表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

11/14

第11話 退職日が決まる


 和解の方向性が固まった翌週、会社は妙に静かだった。


 いや、静かというより、余計なことを言わない感じだ。


 電話は鳴る。コピー機は今日も紙を食う。榊原はたぶんどこかで何かを一文字ずつ間違えている。物理現象としての会社は相変わらずだ。


 でも、人の口数が減った。


 特に俺に対して。


 ブラック企業というものは、雑に強気な期間と、急に繊細になる期間があるらしい。


 いまは後者だ。


 自動ドアをくぐると、受付の女の子が前より少し深く会釈した。


「おはようございます」


「おはようございます」


 丁寧だ。


 とても丁寧だ。


 その丁寧さの一滴一滴に、会社の疲労がにじんでいる。


 俺は自席へ向かいながら思う。


 和解って、すごいな。


 人を急に礼儀正しくする。


 席へ着くと、黒田が椅子ごと寄ってきた。


「おはよう。今日の会社、完全に大雨の翌日の運動会だぞ」


「開催はするが誰も元気じゃない、みたいなやつか」


「そう。それ」


「分かる」


「で、どうなった?」


「文言調整中」


「うわ、急に法務っぽい」


「実際そうだからな」


 パソコンを開く。


 神谷弁護士からメールが来ていた。


 >和解条項案の修正版を確認しました。退職日は月末、解決金支払期日は翌月末でほぼ整理できそうです。離職票等の書類発行も明記させます。


 退職日は月末。


 その一文を見た瞬間、俺は少しだけ画面から目を離した。


 月末。


 具体的だ。


 いままで、この会社を出たいという気持ちはずっとあった。でもそれは、疲れた日に天井を見ながら、どこか遠くへ行きたいと思うのと似た種類の願いだった。


 月末、になると違う。


 それは願望ではなく日付だ。


 人は日付になると、急に現実味を帯びる。


「どうした?」


 黒田が聞く。


「退職日、月末になりそう」


「おお」


「おお、だな」


「じゃあもう、カウントダウンじゃん」


「そうなる」


 黒田は少し黙ったあと、妙な顔をした。


「なんか、寂しいな」


「おまえが?」


「いや俺は別に、毎日助けてもらえなくなるのが大変ってだけで」


「寂しさの成分が九割実務じゃないか」


「会社員の友情なんて、だいたい業務でできてるだろ」


 それは妙に正しかった。


 朝の共有フォルダ、昼の修正依頼、夕方の泣きつき。そういう細かい往復の中で、人はなんとなく仲間っぽくなる。


 不思議なものだ。


 十時ごろ、大村からメールが来た。


 >件名、今後の出社および返却物について。


 ついに来た。


 本文は、和解成立を前提に、最終出社日の調整と、会社貸与物の返却方法について事務的に整理したいという内容だった。


 すごい。


 ついに会社が、退職届を机に出す以外の退職処理を思い出している。


 文明の進歩を感じる。いや文明の到達か。


 俺はメールを保存し、神谷弁護士へ転送する。


 すぐ返事が来た。


 >最終出社日については有給消化の扱いも含めて確認を。貸与物返却は一覧化して、受領確認を取りましょう。


 有給。


 そうだ、まだそこがある。


 会社との戦いに夢中で、自分の休みをあまり数えていなかった。現代日本の社畜は、たまに自分の権利を荷物みたいに置き忘れる。


 俺は就業システムを開く。


 残日数を見る。


 ある。


 かなりある。


 いや待て、こんなにあったのか。


 それを見て、ちょっと笑いそうになった。


 休めるはずだった日々が、数字で残っている。


 まだ失われきってはいないのだ。


 黒田が画面を覗き込む。


「何その顔?」


「有給が思ったより生きてた」


「うわ、遺産じゃん」


「縁起でもない言い方をするな」


「でも使えるなら勝ちだろ」


「だな」


 午前中は、最終出社に向けて自分の机の中を少しずつ整理した。


 会社支給の文房具。


 古い付箋。


 誰のものか分からないクリップ。


 過去案件のメモ。


 そして、紙コップのインスタントコーヒーの予備。


 見つけた瞬間、ちょっとだけ遠い目になる。


 三年分の苦さが、引き出しの奥から出てきた感じだ。


 隣で黒田が笑う。


「それ、戦利品にする?」


「いらん。呪物だろもう」


「おはらい必要そう」


「塩よりミルクが欲しい」


 整理しているうちに、妙なものも出てきた。


 去年の繁忙期に書いたと思われる、俺自身の手書きメモ。


 >納期確認 榊原

 >請求先修正 田辺さん

 >森山確認待ち

 >顧客折返し必須

 >複合機たたいても直らず


 最後だけ急に原始的で笑ってしまった。


 うちの会社の業務フロー、最後はたまに物理だった。


 昼休み、俺は近くの公園へ出た。


 ベンチに座る。


 空は明るい。風が少しある。昼の会社員たちが遠巻きにスマホを見たり、おにぎりを食べたりしている。


 どこにでもある平日の景色だ。


 だが俺には、少し違って見えた。


 月末で終わる。


 そう思うと、公園の木陰までいつもより静かに見える。


 スマホが震えた。


 真帆からだった。


 >退職日決まりそう?


 >月末っぽい


 >おお。じゃあ祝いだね


 >何を祝うんだ?


 >ブラック企業脱出記念


 >語感は軽いのに中身が重いな


 >で、有給ある?


 >かなりある


 >よかったじゃん。兄ちゃん、人生で初めてちゃんと休めるのでは


 >その言い方ひどくないか


 >事実でしょ


 事実だった。


 返す言葉がない。


 真帆は続けて送ってきた。


 >で、そのあとどうするの


 この前より、その問いが近く感じた。


 会社を辞めたあと。


 有給を使って、少し休んで。


 それから。


 少し考え、返信する。


 >店を見たい。小さいカフェとか


 >いいじゃん


 >まだ妄想だけどな


 >最初はだいたい妄想だよ。でも兄ちゃん、たぶん向いてる


 >根拠は?


 >人の顔色見て仕事回すの得意じゃん


 >ひどい言い草。


 >でも今度は搾取される側じゃなくて、店回す側になればいいだけ


 その言い方に、少し考え込んだ。


 たしかに俺は、人の困り顔を見ると先に動いてしまう。


 それは会社ではずっと損にばかりなっていた。


 でも場所が変われば、違うのかもしれない。


 不思議と、そう考えることができた。



 午後、会社へ戻ると、森山部長に呼ばれた。


「白石くん」


「はい」


 以前のような威圧感は、もうほとんどない。


 あるのは疲労と、少しの気まずさだけだ。


「最終の引継ぎで確認したいことがあるだが」


「何でしょう」


「この業務一覧の中で、月末締め前に注意が必要なものを、補足してもらえるか」


 言い方が丁寧だった。


 丁寧すぎて、逆に気まずい。


 俺は少しだけ考えたあと、うなずく。


「文章で整理して送ります」


「助かる」


 助かる、か。


 この会社でその言葉を正式にもらうのは、もしかすると初めてかもしれない。


 遅い。


 遅いが、ないよりはましだ。


 俺は席へ戻り、引継ぎ補足をまとめ始めた。


 月末請求の注意点。


 よく詰まる顧客。


 納期の誤認が起きやすい案件。


 営業がやらかしやすい手順。


 書いているうちに、自分が本当にこの会社を支えていたんだなと改めて分かる。


 そして同時に、こんなものを一人に載せて平気でいた会社は、やっぱりだいぶおかしかったんだなとも思う。


 夕方、社長の中津川が珍しく事務所へ出てきた。


 いつもなら社長室という高台から指示だけ飛ばしている人が、今日は地上に降りてきている。


 珍獣かと思った。


 いや、珍しいだけで獣ではある。


「白石くん」


「はい」


「少し、いいか」


 黒田が横で気配を消した。たぶん耳だけはめちゃくちゃ立っている。


 社長は咳払いをひとつした。


「……色々、あったが」


 始まった。


 社長の、色々あったが。


 日本の中年男性が謝罪に失敗する時の前置きランキング上位である。


「会社としても、君には助けられていた部分があった」


「そうですか」


「今後のこともあるし、円満に」


「代理人を通してください」


 ぴしゃり。


 我ながら、だいぶ反射が良くなった。


 社長は一瞬だけ苦い顔をしたが、もう前のように怒鳴ったりはしなかった。


「……そうだな」


「はい」


「それでも、一応伝えておく。今までの働きには感謝している」


 言った。


 とうとう言った。


 感謝。


 この会社にまだその単語があったのか、と少し驚く。


 正直、感動はしない。


 遅すぎるし、安い。


 でも、三年前の俺なら、こういう言葉ひとつで全部許してしまったかもしれない。


 今は違う。


 言葉は言葉。


 金額は金額。


 退職日は退職日だ。


「承知しました」


 それだけ返す。


 社長はうなずき、去っていった。


 黒田がすぐに寄ってくる。


「何て?」


「感謝してるらしい」


「うわ、最終回直前のラスボスみたいなこと言い出したな」


「急に人間味を出すなって感じだった」


「でも、ちょっとは効いた?」


 少し考える。


「……前なら効いたかもな」


「今は?」


「もう、金額と日付のほうが効く」


 黒田は笑った。


「強くなったな」


「現代日本でな」


 定時を過ぎるころ、引継ぎ補足を送り終えた。


 今日の作業ログも保存する。


 大村のメール。


 有給残日数の確認。


 引継ぎ資料。


 社長との会話メモ。


 全部フォルダへ入れる。


 そして新しいフォルダを一つ作った。


 名前はこうした。


 退職日が決まるやつ


 我ながら雑だ。


 だが、分かりやすい。


 帰り際、自動ドアの前で黒田が言った。


「白石」


「ん」


「会社やめたら、まず何する?」


「寝る」


「大事」


「そのあと、ちゃんとしたコーヒー飲む」


「もっと大事」


 外へ出る。


 夕方の光が、ビルの窓に反射している。


 少し風があって、遠くで電車の音がした。


 月末。


 その日付が、頭の中でちゃんと形を持ち始めている。


 会社を出る日が決まるというのは、思ったより静かなことだった。


 大歓声も、花火もない。


 ただ、自分の人生のドアが、今度はちゃんと軽く開く気がする。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ