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第10話 会社が値段を覚える


 第三回期日の朝、空はやけに晴れていた。


 こういう日に限って人生の重たいイベントがあるのは、何かの嫌がらせだろうか。せめて空くらい曇っていてくれれば、こちらも気分の責任を天気へ押しつけられるのに。


 俺は最寄り駅のホームで電車を待ちながら、スマホの画面を見ていた。


 神谷弁護士から、朝一番で短いメッセージが来ている。


 >本日で大きく動く可能性が高いです。落ち着いて、事実だけで大丈夫です。


 短い。


 短いが、効く。


 人は長文で励まされるより、こういう整理された一文のほうが、かえって腹に落ちる時がある。


 電車が来る。


 乗り込む。


 つり革につかまりながら、窓に映る自分を見る。


 相変わらず、くたびれたスーツの会社員だ。主人公感はあまりない。だが、この数週間で学んだことがある。


 現代日本の主人公は、だいたい見た目が地味だ。


 聖剣も持ってないし甲冑も着ていない。


 代わりに、鞄の中身が強い。


 今日も強い。


 提出済み資料の控え、追加整理した一覧、会社側からの和解水準メモ、やり取りの時系列。もはや俺の鞄は、仕事道具というより小型の法的反撃装置である。


 裁判所の支部へ着く。


 もう手荷物検査にも慣れた。慣れたくはなかったが、ベルトを外すか迷う時間が短くなっただけでも人は成長と呼ぶべきなのかもしれない。


 ロビーはいつも通り静かで、床はちゃんときれいで、案内表示は最低限しか喋らない。


 うちの会社に一週間だけこの空気を吸わせたいと思う。


 たぶん半分くらいの部署が浄化される。


「おはようございます」


 神谷弁護士が現れる。


「おはようございます」


「顔色は悪くないですね」


「会社に行く日よりはましです」


「それは非常に分かりやすい比較です」


 応接スペースの椅子に並んで座り、最終確認をする。


「相手方は、昨日の時点でさらに水準を上げてきました」


「ほう」


「前回よりはだいぶ現実に近いです。ただ、まだこちらの見立てより少し低い」


「会社もようやく値段を覚え始めた感じですか」


「そんなところです」


 神谷弁護士はファイルを開く。


「今日の争点は、もう大きくは絞られています。初回面談の問題、残業代の認識、そして解決金の水準。会社はここで終わらせたい。こちらとしても、不合理に長引かせる理由はありません」


「はい」


「重要なのは、安く丸められないことです」


「それはかなり思ってます」


 思っていた。


 最初の頃は、会社が困っていること自体に少し救われていた。


 だが今は違う。


 困っているだけでは足りない。ちゃんと払うものを払って、雑に扱った時間に値段をつけさせるところまで行かないと、終わった気がしない。


 会社側がロビーへ現れた。


 中津川社長。


 森山部長。


 大村。


 代理人。


 前回と同じ顔ぶれだが、今日は全員の輪郭が少しだけ崩れて見えた。眠れていない人間の顔だ。


 とくに社長がそうだった。


 もともと偉そうに座ることだけは得意な人だったが、今日は座る前から疲れている。威厳ではなく、単に高い椅子に慣れていただけだったのかもしれない。


 森山に至っては、もはや付箋色を通り越して、消しかけの蛍光マーカーみたいな顔をしている。


 大村は相変わらず湿っているが、今日はもう湿度というより結露に近い。


 そして代理人だけが、硬い革鞄と共に人間の形を保っていた。


 職業倫理ってすごい。


 審判室へ入る。


 机の配置は同じだ。狭い。静か。だが会社の会議室よりずっと空気が平等だ。


 手続きが始まる。


 審判官が淡々と、前回以降の整理状況を確認していく。


 会社側代理人が、まず追加主張を述べた。


「相手方としては、申立人の業務負荷が一定程度高かった点、初回面談において誤解を招く表現があった点については、真摯に受け止めております」


 誤解を招く表現。


 出た。


 退職届を机に置くことを、ずいぶん上品に言い換えたものだ。


 神谷弁護士がすぐに返す。


「誤解ではなく、その場で継続就労困難との発言があり、退職届への署名を促しています。申立人の受け止め方の問題ではありません」


 静かだ。


 静かだが、すごく斬れる。


 言葉の温度を上げずに、相手の逃げ道だけをきれいに塞いでいく。まるでプロの配管工事みたいだ。違法な漏れ口を全部埋めていく。


 続いて金額の話へ移る。


 今日の中心だ。


 俺は姿勢を変えずに、机の上の資料を見ていた。


 数字は冷たい。


 だが、冷たいからこそ信用できる。


 会社側代理人が、修正後の水準を出す。


 前回より、確かに上がっていた。


 かなり上がっていた。


 俺は無表情のまま、心の中でだけ計算する。


 未払い残業代のベース。


 解決金の上乗せ。


 退職の整理。


 生活再建に必要な余白。


 まだ少し安い。


 でも、前回のファミリーセール感は消えた。ようやく、こちらが売り場ではなく人生を持ち込んでいることが分かり始めたのだろう。


 審判官がこちらを見る。


「申立人側としては、なお隔たりがあると」


 神谷弁護士が答える。


「はい。とくに残業代について、相手方の認識は依然として低いです。また、初回面談の違法性が解決金へ十分反映されていない」


 審判官が会社側へ視線を移す。


「相手方として、ここで解決する意思は強いですか」


 代理人が言う。


「会社としては、可能であれば本日中に一定の方向性を」


 その言い方の裏にある気持ち、すごくよく分かる。


 もう終わりたいのだ。


 そりゃそうだろう。


 録音があり、数字があり、審判官の心証も良くない。このまま長引けば長引くほど、会社にとって得なことがひとつもない。


 審判官が、残業代の認識差について具体的に踏み込む。


「会社側は、深夜メールや休日対応の評価をなお限定的に見ていますが、提出資料全体からすると、申立人へ相当程度業務が集中していたことは否定しにくいように思われます」


 会社側代理人が少し沈黙し、それから言う。


「その点も含め、会社として再考の余地はあります」


 再考。


 いい言葉だ。


 つまり、もっと払う可能性があるということだ。


 休憩に入る。


 神谷弁護士と小さな打ち合わせスペースへ移る。


「かなり寄ってきましたね」


 俺が言うと、神谷弁護士はうなずいた。


「はい。会社は本気で終わらせに来ています」


「こちらは?」


「もう一段、上でまとめたいです。今日を逃すと、次は審判になりますが、相手もそこは避けたいはずです」


 俺は水を一口飲んだ。


 喉が少し乾いている。


「迷いはありますか」


 神谷弁護士が聞く。


 少し考える。


「戻りたい気持ちは、まったくないです」


「はい」


「ただ、安く終わるのも嫌です」


「はい」


「あと、金だけ取れればいいとも思ってないです」


「そこは大事ですね」


 神谷弁護士が静かに言う。


「今回の和解は、過去の精算であると同時に、次へ進むための資金でもあります」


 次へ進む。


 その言葉に、昼休みの公園で真帆から聞かれたことを思い出した。


 お金取れたらどうするの。


 静かな場所に行きたい。


 うまいコーヒーが飲みたい。


 最近はそれに、もう少し輪郭がついてきていた。


 毎朝、自動ドアの機嫌で一日を始めない場所。


 誰かのミスを自分の呼吸みたいに回収しなくていい場所。


 できれば、小さな店。コーヒーの匂いがして、席数は多くなくて、急がせる声よりカップの音がよく聞こえるような場所。


 そんなイメージが、少しずつ頭に残るようになっていた。


「神谷先生」


「はい」


「もし今日、まとまったら」


「はい」


「俺、たぶん会社辞めますよね?」


「辞めますね」


「ですよね」


「そのほうがいいと思います」


「ですよね」


 少し笑った。


 それで気持ちが軽くなる。


 再開。


 審判室へ戻る。


 会社側は短い協議のあと、さらに修正した案を出してきた。


 それを聞いた瞬間、俺は初めて、あ、ここまで来たか、と思った。


 前回までの安さとは違う。


 こちらの主張を全部は呑んでいない。


 だが、会社が本気で値段を覚え始めた額だった。


 未払い残業代も、かなり現実に寄った。


 解決金も、初回面談の問題をある程度織り込んでいる。


 完璧ではない。


 でも、もうこれは、雑に丸める金額ではなかった。


 神谷弁護士が、細部を確認しながら条件を詰めていく。


 支払期日。


 退職日。


 離職票の扱い。


 秘密保持の範囲。


 互いの追加請求放棄の文言。


 すごい。


 人生が急に条項になる。


 だが、その条項の一つひとつが、ちゃんと未来に関わる。


 審判官が最終的な方向性を示す。


「双方、この内容で和解の可能性はありますか」


 神谷弁護士が、俺のほうを一度見る。


 目で確認してくる。


 ここだ。


 ここで、怒りだけで突っ張ることもできる。


 もっと取りたいと思えば、そういう道もある。


 でも同時に、ここでまとめることは、負けではない。


 会社が値段を覚え、雑に扱った時間へ現実の額をつけ、俺がそこから離れる条件が整うのなら、それは十分に勝ちだ。


 俺は小さくうなずいた。


 神谷弁護士が言う。


「申立人としては、最終的な文言調整を前提に、この方向での解決は可能です」


 会社側代理人も同意する。


 その瞬間、部屋の空気が少しだけ緩んだ。


 社長が目を閉じる。


 森山部長はほとんど崩れ落ちそうな顔をしていた。


 大村は、もう湿度ではなく排水後のスポンジみたいな気配だった。


 終わるのだ。


 この会社との、少なくとも法的な殴り合いは。


 期日を終えて廊下へ出る。


 肩の力が、ようやく少し抜けた。


「お疲れさまでした」


 神谷弁護士が言う。


「まとまりそうですね」


「はい。文言を詰めれば、かなり固いです」


「……ありがとうございます」


 素直にそう言った。


 神谷弁護士は少しだけ首を振る。


「白石さんが記録を残して、整理して、途中で折れなかった結果です」


 それが、妙に嬉しかった。


 誰かに、過程ごと肯定されるのは久しぶりだった。


 裁判所の外へ出る。


 空はまだ明るい。


 風があって、庁舎前の植え込みが揺れている。


 スマホを見ると、黒田からすぐにメッセージが来た。


 >どうだった?


 >会社が値段を覚えた


 >それはすごい進化だな


 >だいぶな


 >まとまりそうだ


 >うわ。じゃあもうゴール見えてるじゃん


 >たぶんな


 >おまえ、会社やめたら何すんの


 その問いに、少しだけ立ち止まる。


 少し前なら答えられなかった。


 でも今は、前よりちゃんと見えている。


 >小さな店で、うまいコーヒーを出したい


 送信すると、すぐ返ってきた。


 >似合うな。あと、その店、絶対残業なさそう


 >そこは絶対だ


 画面を見ながら笑った。


 駅前の喫茶店へ向かう足取りが、いつもより少し軽い。


 会社が値段を覚えた。


 それだけで終わりじゃない。


 その値段で、俺は次の場所へ行ける。


 静かな場所へ。


 うまいコーヒーのあるほうへ。


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