表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/14

第1話 不当解雇の日


 月曜の朝というのは、どうしてこう、世界のすべてが一段ずつ重くなるのだろう。


 駅の階段は重い。改札は重い。会社へ向かう足取りはもっと重い。


 そしてうちの会社の自動ドアは、まるでこちらの魂の残量を読み取っているかのように、毎朝ぎりぎりの速度で開く。


 株式会社アーク・サポート。名前だけは未来志向のくせに、中身は昭和の根性論と平成のサビ残でできている、従業員四十名ほどの中小企業だ。


 俺こと白石湊は、その会社の営業事務兼カスタマーサポート兼雑用兼火消し係として三年働いてきた。


 兼務が多い?


 いや、多いという表現では足りない。もはや俺は職種ではなく現象だった。


 朝一番で社用車の鍵を探し、十時までに見積書を三件作り、昼前にクレーム客へ謝罪の電話を入れ、午後にはなぜか壊れた複合機を叩いて直す。定時後は営業の誤送信メールを回収し、さらに経理が泣きついてきたら請求書の確認までやる。


 俺がいなくても会社は回る、と社長はよく言う。


 回るには回るだろう。洗濯機にレンガを入れても一応は回るのと同じ理屈で。


 始業五分前、俺は自席に鞄を置き、パソコンを立ち上げながら給湯室で紙コップのコーヒーを淹れた。


 インスタント。社費。味は、疲れた胃に対する暴行。


 そこへ、同期の黒田が顔だけひょこっと出した。


「白石、おまえ今日やばそう」


「毎週月曜に言ってないか、それ」


「今日は特に。部長の機嫌が、台風の前の海」


「穏やかってことか?」


「海面の下に全部あるタイプのやつ」


 嫌な比喩だった。


 俺は熱すぎる紙コップを持ち直し、自席に戻る。画面には未読メールが二十七件。うち五件が件名からして火薬庫だった。


 そのうち一本は、営業二課の榊原からだ。


 >件名、至急対応願います。

 >本文、白石さん、先方が怒ってます。うまくやっといてください。


 うまくやっといてください、で済むなら、日本の労働問題の三割は解決する。


 返信を書こうとしたところで、頭上からぬっと影が落ちた。


「白石くん」


 人事の大村だった。


 五十代後半、眼鏡の奥の目がいつも曇りガラスみたいな男だ。声まで湿っている。


「部長と社長がお呼びです。会議室へ」


「今ですか」


「今です」


 その言い方には、温度がなかった。


 何かある。


 その瞬間、胸の奥で小さな警報が鳴った。


 大事な話をするとき、人はたいてい前置きをする。大村はしない。前置きを省くのは、相手に選択肢を与えないためだ。


 俺はパソコン画面をちらりと見た。まだ起動しきっていない社内チャットの通知が、ぽつぽつ点灯している。


 嫌な予感が増える音がした。


 会議室はいつも寒い。人の話を穏やかにするためではなく、判断力を鈍らせるために冷やしているのではないかと思うくらい寒い。


 長机の向こうに、部長の森山と社長の中津川が座っていた。


 森山は四十代半ば、数字で人を殴るのが趣味の男だ。社長の中津川は六十過ぎ、偉そうに座ることだけは国宝級にうまい。


 大村が扉を閉める。


 その音で、逃げ道がひとつ減った。


「まあ、座れ」


 社長が言った。


 座ると、机の上に紙が一枚あるのが見えた。退職届だった。


 いきなりクライマックスが来ている。


 まだ一話目なんですが、と心の中でつぶやく。


 森山が咳払いをした。


「白石くん、単刀直入に言う。君には、もう会社にいてもらうのは難しい」


「……理由を伺っても?」


「総合的に判断して、だ」


「総合的とは?」


「だから、総合的に」


 総合的。便利な言葉すぎる。無能な会議ほど総合的に進む。


 俺は紙コップのコーヒーを持ってこなかったことを少し悔やんだ。今の一言に対抗するには、せめて苦い飲み物が必要だった。


 社長が腕を組む。


「君はな、周囲との協調性に欠ける。受け身だし、自発性がない。それに仕事も遅い。ミスも多い」


 あまりにもすらすら出てきたので、事前に練習したのだろう。たぶん鏡の前で。


「具体的には?」


「具体的?」


「はい。どの業務で、どのようなミスがあり、それに対してどんな指導があったのか、教えていただけますか」


 森山の眉がぴくりと動いた。


 俺だって伊達に火消し係を三年やっていない。あいまいなクレームに対しては、具体を求める。すると大抵、相手は急に煙になる。


「そういう態度だよ、白石くん」


「態度、ですか」


「いちいち理屈っぽい。素直じゃない」


「つまり、解雇理由は素直じゃないから、ですか」


 大村が咳払いをした。止めろという合図だろうが、もう遅い。


 社長のこめかみに血管が浮いた。


「言葉尻を取るな。会社には会社の判断がある」


「就業規則上のどの条項にあたるのでしょう」


 森山が目をそらした。


 ほら来た。


 うちの就業規則、俺は前に総務の手伝いで電子化したから、だいたい頭に入っている。普通解雇には手順が必要だ。指導歴、改善機会、客観的根拠。少なくとも、月曜の朝一番に会議室へ呼び出して、退職届を書かせるやり方ではない。


 社長が露骨に苛立った。


「白石くん、君のためを思って言っているんだ。自主退職という形にしておけば、今後の経歴にも傷がつきにくい」


「では解雇ではないんですね」


「話を聞け」


「退職勧奨ですか」


「だから話を」


「その場合、断ることも可能ですよね」


 森山が机を軽く叩いた。


「誰に吹き込まれた」


「日本国です」


 一瞬、沈黙が落ちた。


 自分でもちょっと面白い返しだったなと思ったが、誰も笑わなかった。労使交渉にユーモアは育ちにくい。


 大村が退職届をこちらへ押した。


「今日付で出していただければ、会社としても円満に」


「円満って、どなたのですか」


「白石くん」


「昨日まで普通に業務をしていた社員に、月曜の朝、いきなり退職届を書かせるのが円満なら、戦国時代の停戦交渉もだいたい円満です」


 森山の顔が見事に赤くなった。


「君の代わりはいくらでもいる!」


 その一言だけ、やけにはっきり会議室に響いた。


 ああ、なるほど。


 理由はそれか、と俺は思った。


 会社はたぶん、本気でそう思っているのだ。事務も、顧客対応も、営業の穴埋めも、誰でもできると。


 その「誰でもできる仕事」を誰も全部はやりたがらないだけで。


「わかりました」


 俺は言った。


 三人の目が一度に動く。


「退職届には署名しません。必要なら正式な通知をください」


「白石くん!」


「あと、解雇理由は書面でお願いします。貸与品の返却や私物の整理についても、指示は文書でいただけると助かります」


 社長が露骨に顔をしかめた。


「脅してるのか」


「確認しているだけです」


「君みたいな社員は、どこへ行っても通用しないぞ」


「その評価も、できれば文書でいただけますか。記念に」


 森山が立ち上がりかけ、大村が慌てて袖を引いた。


 その瞬間、俺は確信した。


 こいつら、準備していない。


 勢いで切れると思っていたのだ。いつも通り、現場に押しつけておけば回る、なんとかなると信じて。


 俺は静かに立ち上がった。


「失礼します。今日の件は、記録に残しておきます」


「待て」


 社長が言った。


「会社に不利益なことをするなよ」


 その台詞は、録音されていたらかなり良くない。


 もちろん、されている。


 俺は、会議室に入る前、スマホの録音アプリを起動していた。


 用心深い性格を、昔の彼女は面倒くさいと言った。今日ばかりは褒めてほしい。


 会議室を出ると、事務所の空気が妙に薄く感じた。


 席に戻るまでの数十歩で、何人かと目が合った。すぐ逸らされた。社内の噂は光より速い。


 黒田が椅子を少し寄せてくる。


「え、なに。顔がもう、退職代行を呼ぶ人の顔」


「それより悪い。代行じゃなくて本人だ」


「は?」


「クビだってさ」


 黒田の口が半開きで止まった。間抜けな鯉みたいな顔になっている。


「いやいやいや、待って。白石を? なんで?」


「『総合的に』、だって」


「うわ、雑な呪文きた」


「退職届も置いてあった」


「えっ、もう打点高すぎるだろ。ブラック企業甲子園ならベストエイトには入るぞ」


 俺は苦笑したが、喉は乾いていた。


 パソコン画面に、またメールが一通届く。榊原からだ。


 >件名、至急。

 >本文、先方さらに怒ってます。白石さんじゃないと収まらないかもです。


 俺は思わず天井を見た。


「黒田」


「ん?」


「俺、いま会議室で、会社から『お前なんかいらない』って言われたんだけど」


「うん」


「その五分後に、俺じゃないと収まらない案件が飛んできた」


「芸術点高いな」


「この会社、脚本家が性格悪い」


 黒田がふきだした。つられて俺も少し笑った。


 笑うと、呼吸が戻る。


「で、どうする」


「証拠を集める」


「うわ、強い」


「あと、就業規則と雇用契約書を確認する」


「急に六法全書の主人公になったな」


「転生してない。見た目は相変わらず社畜だ」


 俺はメールを自分の記録用フォルダに保存し、勤怠データのスクリーンショットを取った。残業時間の一覧。深夜帯のメール送信履歴。休日対応のチャット。


 画面の数字が、妙に生々しい。


 三年分の疲労に、値札がつき始めた気がした。


 昼休み、俺は会社の裏口階段に出た。風が冷たい。


 スマホで検索する。


 >不当解雇 相談

 >退職勧奨 断る

 >労働審判 流れ


 出てくる単語はどれも硬い。だが、硬い言葉は嫌いじゃない。柔らかい言い方で人を切る連中より、ずっと信用できる。


 >労働局。労基署。弁護士。法テラス。


 世界には、会社以外のルールがある。


 それだけで、少し息がしやすくなった。


 画面を見つめていると、メッセージが一件届いた。差出人は妹の真帆だ。


 >生きてる?


 唐突すぎる。


 俺は返信した。


 >たぶん


 すぐ返ってきた。


 >なにそのゾンビみたいな返事


 >月曜だからな


 >かわいそう


 >他人事すぎるだろ


 >じゃあコーヒーでも飲みなよ


 >仕事中だ


 >仕事、あるの?


 >ある意味なくなった


 数秒、既読がついて止まった。


 それから、


 >え、また会社?


 >また、ではない。初だ


 >なら記念日だね。録音した?


 >した


 >えらい。じゃあ勝てるよ



 その短い一言が、妙に胸に残った。


 勝てる。


 そんな発想、今朝までなかった。せいぜい、耐えるか、諦めるか、その二択だった。


 だけど違う。


 これは我慢比べじゃない。


 ルールのある場所へ持っていけばいいのだ。あるいは俺がそこへ行く。


 俺はスマホを閉じ、冷えた手をこすった。


 遠くで配送トラックがバックする音がする。事務所の窓の向こうでは、誰かが慌ただしく走っていた。たぶん、俺が普段やっていた何かが、もう滞っている。


 少しだけ、胸がすっとした。


 ざまぁ、とまではまだ思わない。


 でも、ちゃんと困れ、とは思う。


 俺をレンガみたいに洗濯機へ突っ込んで回してきた報いを、会社にも、せめて脱水くらいは味わってほしい。



 午後一番、森山から社内チャットが飛んできた。


 >至急、顧客対応の件で打ち合わせ。


 その文面を見て、俺はゆっくり椅子にもたれた。


 さっきまで役立たず。今は至急。


 便利すぎるだろ、俺。


 俺は返信欄を開き、数秒考えた。


 それから、丁寧に打つ。


 >本日、人事面談にて今後の就労継続が困難とのお話をいただいたため、業務指示の範囲について文書での明確化をお願いいたします。


 送信。


 黒田が横から覗き込み、肩を震わせた。


「強っ」


「普通のこと言っただけだ」


「その普通を、この会社は一番嫌うんだよ」


 知っている。


 だからこそ、効く。


 俺は画面の隅に映る自分の顔を見た。少し疲れていて、少し青い。


 でも今朝、会議室へ入る前の顔よりは、ずっとましだった。


 逃げるだけでは終わらない。


 泣き寝入りもしない。


 この国には、異世界みたいな王様も勇者もいない。魔法もなければ奇蹟チートもない。

 その代わり、書面と記録と制度がある。


 剣より地味で、魔法より時間はかかる。


 だが、たぶんそのほうが確実だ。


 俺は新しいフォルダを作った。


 名前は、『労働審判準備』。


 少しだけ迷って、括弧書きでこう付け足した。


 『会社を沈めるやつ』


 自分でも小物っぽいなと思ったが、やる気は出た。


 人間、だいたいそんなものである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ