8-迷子の魚
とっぷりと陽が暮れた頃、星火はカプセル型ベッドの上で目を覚ました。疲れが溜まっているのか最近は寝坊が多い。また疾うに夜になっている。
(……? 何でベッドの上……? 僕は床で寝たはず……)
徐々に覚醒していく脳が胸に温もりを感じた。心地良く温かいそれに視線を下げ、小さな頭が目に入る。
「…………」
身動ぐと小さな頭も動き、大きな目を開いて彼を見上げた。
「起きた?」
「……僕は自分でベッドに?」
「ううん。起きたら床に座って寝てたから、頑張って引き上げたよ。私もまだ眠かったから一緒に寝た」
ニナは小柄なので、二人は何とか一人用のベッドに収まった。少し窮屈だが。
「引き摺られても起きなかったのか……余程疲れてたんだな。気を付けないと」
もし追剝にでも襲われたら骨しか残らない所だ。幾らマンションの上階に避難しているとは言え安心できない。
「探検、面白い物はあった?」
「疲れたからすぐに戻ってきた」
「そうなの? じゃあもっと寝ていいよ」
「もう大丈夫だ」
「その割に起き上がらないな」
布団の柔らかさが中々離してくれなかったが、星火は指摘されるとゆっくりと体を起こした。疲れた体は固い床よりも柔らかいベッドを欲していたようだ。
「寝ながら私を抱き締めてたよ。ぎゅーって」
「え」
「私はクッションじゃないよ」
「……家の犬と間違えたんだ……」
「犬!? 犬……? 動物だよね? 奏者って何でも飼ってるな……。……じゃなくて、私は犬じゃない!」
「ニナくらいの大きな白い犬で、よくベッドに潜り込んできたんだ。家に帰る気はないが、ヌイには会いたいな……」
「ヌイって犬の名前? イヌを逆から読んだだけじゃん! 犬は星の名前じゃないの?」
「犬は笛を吹かない」
「奏者の家なのに」
「期待し過ぎだ」
ニナも起き上がり、机に置いていた桃の缶詰に手を伸ばす。届かなかったのでベッドから降りた。両手で大事そうに抱え、目を輝かせてそれを星火に差し出す。お楽しみの貴重な果物だ。
受け取った星火はベッドから座卓へ移動し、缶詰を開ける。ニナはフォークを手に覗き込み、液体に沈む黄色くて丸い物を不思議そうに凝視した。甘い香りが漂う。
「その液体もジュースみたいな物だから飲んでいいよ」
「ジュース? 聞いたことある。野菜とか果物を搾った汁」
「間違いじゃないが、正解とも言えない。搾っただけでその甘さは出ない」
「そんなに甘いの? 早く甘い汁を吸いたい」
「それは意味をわかって言ってるのか?」
最近はよく甘い物に有り付ける。地上は宝の山だ。危険だからこそ、踏み荒らされていない場所が多く残っている。地上で荒らされた場所の多くは旧時代の人間の仕業だ。空が壊れた混乱で犯罪が横行した。現代人は地下に引き籠り、中々地上へは出ない。
ニナは両手で缶を持ち、零さないよう慎重に傾ける。
「! ――はあぁ……甘い……毎日飲みたい」
少し舌に流しただけで幸福感が脳を支配した。全身が幸せに溶けて無くなってしまいそうだ。
「一日一口なら数日持つんじゃないか?」
「そういうことじゃないの。毎日甘い缶詰一つずつ食べたいの」
「そんなにたくさんの缶詰が見つかることは無いだろうな」
「蜜柑の方もジュース入ってる?」
「入っているはずだ」
「じゃあちょっと……ちょっと後で食べる」
「ニナが食べたい時に食べればいいよ」
主役の桃をフォークで突き刺し、ニナの口よりも大きな桃を持ち上げる。半分に切ってあるようで、片側だけが丸い。
「よし、食べるぞ……」
小さな口では一口で全ては入りきらないが、三分の一ほどを頬張って蕩けそうな顔をする。そんなニナを見詰めているだけというのも暇なので、星火は立ち上がって部屋の物色を始めた。掃除が行き届いた部屋も、何百年も経てば埃の山だ。
壁際の机は埃を被っているが小綺麗で、小さな引き出しが幾つか載っている。その一つを開くと、小さな瓶が幾つも並んでいた。
(インク……? 多いな)
それはマニキュアだったが、化粧などほぼしない現代では馴染みの無い物だ。星火もまた正解に辿り着けなかった。
その下の引き出しには小さな棒や美しい彫刻が施された平らな物などが入っていたが、それが何なのかわからず首を捻る。平らな物を開けると色が並んでいる。全て化粧品だが、星火には初めて見る物ばかりだ。
(筆もあるし、パレット……? 絵を描く道具か?)
隣の引き出しにはキラキラと輝く小さな石が嵌め込まれたアクセサリーが納まっていた。これなら星火にもわかる。装飾品は現代にも存在する。地上から持ち出した物を身に付ける者もいる。
「わあ、キラキラで綺麗!」
缶詰を片手に、いつの間にかニナも彼の手元を覗き込んでいた。
「座って食べろ。転んで落としても知らないぞ」
「この机に置くから大丈夫。それより、それ綺麗だね」
「生きる上では必要ないが、欲しいなら貰ってもいい」
「いいの!? わー、どれがいいかなぁ」
引き出しを外して前に置いてもらったニナは、輝くネックレスを抓み出す。一粒の丸い石が付いただけのシンプルな物から、花束のようなカラフルな物もある。
「親が金持ちっていうのは本当らしいな」
「何? セイの家の話?」
「この家の住人だ」
「へぇ?」
キラキラと輝く石は宝石なのか只の色硝子なのか星火には鑑定ができないが、金持ちなら宝石の可能性が高い。ニナのような十歳の少女が身に付けるような物ではないだろう。
「――あ、これ! これにする! セイと仲間っぽい!」
それは水色の星形の石が一粒付いたネックレスだった。星の名を与えられる家系の星火と繋がりのある星を選んだ。
「それだけでいいのか?」
「うん! これどうやって付けるの?」
「貸してみろ」
輪になったアクセサリーの留め具を外して星火はニナの背後に回り、彼女の首へ星を飾る。
「待って、そこだと見えない……。手に付けられる?」
「ブレスレットにするのか? 引っ掛けて千切らないようにな」
ネックレスを持ち上げ、差し出された細い左手首にくるくると巻き付けて留める。
「綺麗だぁ」
「ニナ、これはどうだ?」
「?」
別の引き出しから拾ったそれをニナの前に置く。彼女は不思議そうに眉を寄せた。
「知らない物は無闇に触れない所は褒めてやる」
「へへ、ありがとう。これ何?」
それは白く、渦を巻いている。掌で転がせる程の小さな物だ。
「これは貝殻だ。これは殻だけだが、元は中身がいた。水の底にいるらしい」
「ってことは、魚!? こんなに小さいのもいるの?」
現代では水の中に棲む生物の総称として魚という言葉を使っている。貝であろうと水中にいるなら魚だ。
「僕も殻を見るのは初めてだが、これは旧時代に生きていた個体だ。今だと大きさが変わってるかもしれない」
「セイも見たことないの?」
「何せ水の底にいるからな。陸地からは中々見えない。中身だけなら缶詰で見た。この家にもあった」
星火は背負っていた鞄を下ろし、中から平たい缶詰を一つ取り出す。ちゃっかり確保している。
「……ああ、これは二枚貝だな。形は違うが、貝であることに違いはない」
缶詰には『ほたて』と書かれている。それは缶詰を積んだ時にニナの目にも入っていたが、何なのかわからなかったので取らなかった缶だ。
「こいつが貝殻の中にいたのか……魚だと思わなかった」
「貝は奏者でも中々食べられる物じゃない。貴重な物だ」
「美味しそうに見えてきた……。私は知らない物がいっぱいで、美味しそうな物も逃しちゃう……もっと教えてほしい!」
「目の前に出て来たら教えてやるが……言葉だけ聞いても、形を想像するのは難しいだろ?」
「そうだけど……」
見ない限り知らないままというのはむず痒いものだ。だが星火も教えるのが得意ではない。
「セイは全部家で教えてもらったの?」
「……ああ。机の前に何時間も縛り付けられて、奏者に必要な知識を叩き込まれた。何度地上に脱走したか」
「それで反抗期か……」
「でも今はその知識もそこそこ役に立ってる。帰りたくはないが」
星火の拒絶は相当のものだった。話を聞くより実際に体験してみないと、この苦痛はわからないだろう。
「何か知らない物あるかなぁ」
机に備え付けられた引き出しを開けて見るが、特に変わった物はない。筆記具は無く、何だかわからない細長い機械や平らな機械、小さな機械が収まっているだけだ。それらは当然、画面を黒くしたまま何も映さない。
「こういうのはもう動かせないんだよね?」
「劣化しているからな。場所によっては水没もしてる。充電して動くなら試してみるが、充電できる場所も少ない」
「じゃあいらない物だね」
「ニナのいた集落の近くに充電できる場所があったんだが、あの辺りはもう行けない。死体が見つからないニナを捜してるかもしれないからな」
「ま、まだ捜してるかな……諦めてないかな?」
「皆が一番殺したいのは罪人の子孫だろ。今頃、血眼だろうな」
「うぅ……眠れなくなったらセイの所為だよ!」
徒に怖がらせたくはないが、警戒はしてもらわないと困る。星火は魚には立ち向かえるが、人間相手には非力だ。
ニナはそんな話は聞きたくないとばかりに机から離れてベランダへ出た。怖くなったのだ。幸いなことに眼下の廃墟に人影は無い。
「……セイ、あれは何?」
「何だ?」
引き出しを閉めて星火もベランダへ出る。ニナが指差す――いや指さなくてもわかった。高枝切り鋏のような二本の脚を構えながら、八本の細長い脚を立てて進む赤い何かがいた。その体は地上から離れ、建物の三階ほどの高さにある。
「か……蟹?」
「かに?」
「普段は水底にいるはずなんだが……ナナの言っていた大きな水溜まりから歩いて来たのか……?」
「魚なの!? 水が無いのに歩いてるよ!? と言うか脚がある!」
その巨大な蟹はタカアシガニだ。旧時代でさえ脚を伸ばすと三メートル以上にもなる個体がいた、世界最大の蟹である。星火の言う通り、深い海底に棲んでいる蟹だ。
現代ではそれより更に大きく、何故か水から出て歩いている。まるで怪獣だ。現代は旧時代の常識が引っ繰り返されている。
「蟹は陸地を歩く奴もいるらしいが……」
「前の大きい魚みたいに体当たりしてくるかな!? こっちに気付いてるかな……」
「笛は効くと思うが、近くに水が無い場合は何処へ帰るかわからないな……。こっちに気付いてないなら笛は吹かず、遣り過ごそう」
「ナナちゃんならスパって斬るかな?」
「蟹の殻は硬いが、ナナの刀なら斬れるかもな。あいつならその後、食べるだろ」
「蟹ってどんな味かなぁ」
「缶詰にあった。ほら」
鞄から取り出したのは蟹の絵が描かれた平たい缶詰だった。
「既に確保してたか……。でもこの絵とちょっと違うね。あの蟹の方が脚が凄く長い」
「違う種類の蟹なんだろ。僕は大きな分類なら判別できるが、細かい種類となるとお手上げだ。そういうのを覚えている途中で攫われた」
教団の集落は一生彼の記憶に残るだろう。ニナはまた自分が悪いと考えてしまう。彼が攫われなければ、もっと多くの知識を身に付けたはずだ。ニナとこうして彷徨することもなかった。
「ナナは細かい種類も口にしていたから、この蟹の名前もわかるかもな」
「ナナちゃんは凄いね」
何処かでくしゃみのような音が聞こえた気がした。今頃、噂をされて神社でナナがくしゃみをしているだろう。
眼下のタカアシガニは二人のいるマンションを通過し、少し過ぎた所で立ち止まってしまった。小さな目をきょろきょろとしている。
「見つかった?」
「いや……水を探してるんじゃないか? さすがにずっと陸地にいることはないだろ」
「随分遠くに来てしまった。家に帰ろう。って考えてる?」
「そうかもな」
だがタカアシガニは来た方向へは戻らず、直角に曲がって歩き出した。水の場所がわからず迷子になっているのかもしれない。
「あの上に乗ったら移動が楽そう」
「魚に乗るなんてよく思い付くな……」
「あいつはまだ攻撃してないし、大人し」
そう言った直後、進行方向にあって邪魔だった三階建ての建物を、その巨大な鋏で殴り始めた。建物は徐々に罅割れ、半分ほど瓦礫になる。
「……。大人しいか?」
「大人しくない……」
「夜までに何処かに行ってくれればいいが……夜になっても活動していたら、離れてくれるまで待とう」
「ナナちゃんがいてくれればなぁ……」
星火よりも歳が近いナナに親近感が湧いていたニナは肩を落として少し寂しそうだ。ニナは集落にいた時も友達と呼べる存在はいなかった。教祖と友達なんて、教団の子供達が無垢だったとしても大人が許さない。星火は友達ではないとしても、そこそこは心を開いて親しんでいる。だが飽くまでそこそこだ。星火が心を開かないからだ。
「僕もいざとなれば笛で追い払う」
「笛で殴るの?」
「音で何とかする」
眺めていると視線に気付かれるかもしれない。ベランダから一旦離れて部屋で休むことにする。
だが夜が訪れても蟹はうろうろとマンションの近くに留まっていた。
留まるだけでなく、マンションに嫌な振動も響いた。
「……僕達に気付いたと言うより、進行方向にあって邪魔なんだろうな」
「ど、どうする…?」
部屋で休んでいた星火は姿勢を低くしてベランダから眼下を覗く。暗くて全ては見えないが、タカアシガニが二本の細い鋏で二人の居るマンションを殴っていた。
「脚が三本減ってる……?」
暗くて断言はできないが、体を支える細い脚の間隔が広くなっている。
(瓦礫に挟まって折れたか、それとも……?)
蟹の他にも凶暴な生物が潜んでいるなら、ここに長居するのはあまりに危険だ。
「ニナ、いつでも出発できるよう準備しておけ」
「いつでも大丈夫だよ!」
「僕の傍を離れるな」
「わかった」
ニナも星火に倣って姿勢を低くしてベランダに顔を出す。彼の隣で恐る恐る眼下を覗いた。
「脚が減ってる」
「やっぱり減ってるよな。いっそ脚が全部無くなってくれたら動かなくていいんだが」
「それも怖いような……」
脚が減ってはいるが、凶暴な二本の鋏が残っている。タカアシガニはマンションを殴り続け、鋏を突き立てている。
以前の鯨の時はマンションの高さもあったことで相当な揺れを感じたが、この蟹はまだ余裕がある。細い腕ではあの巨大鯨ほどの威力は出せないようだ。
「これなら暫く待て、ば…」
そう上手くはいかないようだ。みしりと嫌な揺れ方をする。鋏に揺らされていると言うより、マンションが破壊に耐えられなくなったというような揺れだ。
星火は急ぎニナを抱え、跳び退くように部屋へ飛び込んでカプセル型ベッドから布団を引き抜く。
「ニナ、暫く喋るな。舌を噛む」
頷くニナを布団で包んで玄関のドアに手を掛けた。
「っ……!」
がくんと下に引かれるような揺れがあり、壁にぶつかりそうになる。
このままだとこのマンションは倒壊する。衝撃で少し歪んだドアを蹴り開け、壁に手を突いて廊下へ出る。
廊下から見える外には、揺蕩う水面が見えた。乗り出して暗い眼下を覗き込み、水面の揺れを確認する。魚がいそうな揺れは無いように見えるが、街灯の数が少なく死角が多い。
(一階は完全に浸かってる……?)
ベランダの方ばかり見ていて、廊下側が水没していることに気付かなかった。
(不味いな、逃げ場が……)
それでも今は下に行くしかない。四階から跳び移れる建物が近くに無い。逃げ道は階下しかない。
階段へ回ろうとし、壁や天井が軋む。罅割れた箇所から砂塵が降る。このマンションは元々罅が多かった。執拗な攻撃に耐えられない。
がくんとまた下に引かれるような衝撃があり、廊下の向こうで外壁が割れた。砕けた石は眼下の水溜まりに飛沫を上げる。
「っ……!」
足が滑る。建物が傾いている。下まで階段で下りる時間は与えられないようだ。
「……ニナ、大きく息を吸って、止めろ。なるべく長くだ」
「!」
包んだ布団の中で小さな手が動く。星火の服を掴もうとしているが、布団に阻まれて掴めない。
瓦礫が降ってきても衝撃を和らげられるよう布団を巻いたが、今は取り払うべきなのだろう。だがそんな暇は無い。
躊躇っている時間は無い。一瞬の迷いが、判断の遅れが命取りになる。星火は柵に攀じ登り、息を吸って柵を思い切り蹴った。暗闇に身を躍らせ、両足が宙を裂く。ニナを離さないよう頭を抱えて強く抱き締め、爪先から激しく飛沫を上げて黒い水面に飛び込み、黒い星を散らした。
水に入る寸前まで、コンクリートの建物が悲鳴を上げていた。割れて擦れ崩れる音が聞こえていた。すぐに水面に顔を出すのは危険だ。一旦闇の中へ潜り、建物の影から出るよう斜め方向へ泳ぐ。
水面を叩く曇った音が沈んでいく。
暗闇から水を揺らす気配が肌に届く。
(これだけ騒々しければ当然、出て来る)
水中で魚に敵う者はいないだろう。更に今は夜で、水中も真っ暗だ。笛を吹けない星火はナイフを取り出し、見えない前方に突き出した。
直前まで何も見えない闇に突如、牙が並ぶ大口が開かれる。人間の頭をぺろりと簡単に呑める程の巨大なクラドセラケだ。その柔らかい口内をナイフが裂き、古代の鮫であるクラドセラケは堪らず尾を翻した。
(他にもいる……が、この血の臭いに寄って来るはずだ)
魚の血を囮に星火は静かに水を蹴って離れる。
(早く水から出ないとニナが持たない)
降ってくる瓦礫を避けながら水面へと急ぐ。
全ての魚が血に誘われるわけではなく、様子を窺いながら星火の後を追う魚もいる。
水を強く蹴り、掴む力が弱々しいニナを抱え、水の外へ手を上げる。地面を掴んだ。濡れて重くなった布団を剥がしながらニナを先に地上へ転がし、噛み付こうとする先程とは別のクラドセラケの下顎を蹴り付けて星火も水から上がった。
ナイフはすぐに地面に捨て、鞄から銀笛を抜く。濡れた銀笛を一振りして水を払い、音が出るよう祈りながら音色を奏でた。
最初は鈍い音が零れたが、すぐに星火の心象を汲み取り、濡れている状態での最高の音が奏でられた。はらはらと散る儚い音の中に激しい熱を孕む。『去れ』――その二文字を魚の全身に叩き込む。
魚は殺気を受けたかのように尾を返して水底へ消えていく。それを見送る前に星火は笛を口から離し、ぐったりとするニナの頬を軽く叩いた。
「ニナ、起きてるか? ニナ?」
ゆっくりと空気を吸っていたニナは瞼を震わせて薄く目を開ける。星火の顔を見ようと頭を傾けると咳き込んだが、意識は鮮明だ。
「せい……か……」
「体に何処か違和感はあるか?」
「ない……と思う……。喋るのは、ちょっと疲れる……」
「わかった。もう喋らなくていい。もう大丈夫だ」
ニナはもう声を出さなかった。その代わりにふらふらと手を上げ、星火を――その後ろを指差した。
「?」
彼が振り返る前に、その首に、細いが大きな鋏がぱくりと開かれる。首をちょん切ろうとする冷たい感覚が皮膚に走った。
「!」
鋏の先が背後から視界に現れた時、それは宙を舞っていた。鋏は地面を跳ね、瓦礫の上を転がる。暗がりに石を踏む音が高く響き、微かな光で細い波が闇に立つ。
「ナナ……?」
瓦礫の上に見慣れた少女が立っていた。少女は刀を一振りして滴を払い、布で刃を拭いて鞘に納めた。
「……奏者は貧弱だから、もう少し見送ってあげようと思っただけよ」
「……そうか」
丸一日見送られていたとは、気付かなかった。
「ニナは大丈夫なの?」
「少し水を飲んだかもしれないが、意識ははっきりしてる。綺麗な水で口を濯げば大丈夫だ」
「そう、それなら良かったわ。鋏を失うとさすがに逃げたわね」
「……脚を斬ったのは君か?」
「退治してあげようと思ったのよ。斬ったら暴れ出したけど」
「……。まあいい、まず安全な場所に行きたい」
竹の水筒に入った清潔な水をニナに飲ませて口を濯がせた星火は彼女を抱え上げる。彼女はまだ胸を上下させて必死に息を吸っている。
「私がいれば大体何処も安全よ」
「ずっといるんだな?」
「…………」
ナナは言葉に詰まった。そろそろ言い訳が苦しい。丸一日見送った時点で充分おかしい。
「べ……別にちょっと数日誰かと一緒にいたからって、一人が寂しくなったわけじゃないから」
「……そうか」
「ちょっと待ってて」
「?」
水辺に魚の気配が無いことを確認してナナは逃げるように走り去った。
このまま戻って来ないかもしれないことも考えながら、星火はニナを抱えて水から離れる。
振り向くと、水の上に倒れたマンションがあった。大きな亀裂が幾つも入った建物は水に橋を渡すように横たわっていた。あれが全て水中に沈むと想像して焦燥を殺しながら泳いでいたが、底へ沈んだのは僅かだったようだ。
「セイ、ニナ、少し……ほんの少し迷惑を掛けたかもしれないから、これで詫びるわ。タカアシガニは食べられる蟹だから大丈夫」
顔を前へ戻すと、ナナが脇に細長い巨大な赤い棒を抱えていた。先程斬り落としたタカアシガニの脚だ。三本斬っていたが、細いとは言え子供一人の胴体ほどある脚は一本抱えるだけで精一杯だ。
「ふ……」
その姿があまりに想像通りで、星火は思わず口角を上げてしまった。緊張の糸が切れたのかもしれない。
「セイが笑ったわ……お前、笑えるの?」
「え? 私見てない……私も見たい」
ナナの方を見ていたニナも下から声を上げる。呼吸はもう落ち着いていた。ニナと星火の付き合いは四年ほどになるが、彼は偶にしか笑わない。
「……釈然としない」
まるで珍獣でも見つけたかのような反応だ。星火は笑わないのではなく、笑うような出来事が無いため笑う機会が無いだけだ。
「セイは無愛想だから、あんまり笑わないんだよ」
「そんな理屈があるか。歩けるなら自分で歩け、ニナ」
「服が重い」
「僕もだ。安全な場所で乾かそう。風邪をひく」
「だったらビルの屋上がいいわ。屋上は風通しがいいから火が使える。冷えた体に暖も取れるし一石二鳥よ」
蟹の脚を抱えているので一石三鳥だろう。
「その脚を持って階段を上がるのか?」
「……無理かしら?」
長い脚は階段を曲がることができない。ナナは渋ったが、持って行けないのは事実だ。関節の箇所を切断することにした。
ニナに歩けるか確認したが、周辺には瓦礫が散乱している。ニナの小さな体では乗り越えるのに時間が掛かる上に不安定で危険だ。星火の鞄はナナに背負ってもらい、彼はニナを背負ってカンテラを提げた。
関節で切断したと言っても引き摺るほど長い蟹の脚を抱くナナを先頭に、四階建てのビルに入る。先程倒壊したマンションと同じくらい年季の入った建物だ。この周辺は開発が遅れていた地域なのかもしれない。
ビルの屋上は貯水タンクなどが半分ほど占めていたが、三人が座るには充分の空いた場所があった。
ナナは一旦蟹の脚を置き、登って来た階段を引き返す。
星火はニナの鞄を下ろしてやり、上着を脱ぐのを手伝う。濡れて体に貼り付く服は一人では脱ぎ難い。
星火も自分の上着を脱ぎ、ナナが枝の束を抱えて戻って来た。それを足元に置き、熱し石を二つ取り出す。熱し石は衝撃を与えると徐々に温度を増すが、温度が上がりつつ石を二つ叩き合わせると火花が散る特徴がある。持つ手は勿論熱いが、火傷しない温度の内に素早く叩き付ける。
火花が木の枝に降って徐々に火が大きくなっていく。二つの熱し石を枝の方へ転がし、火の様子を窺う。充分に火が大きくなったことを確認して蟹の脚を引き摺り、火の上に先を翳した。全て焼けるまで何分掛かるのだろう。
「ナナ、ニナの服を脱がせてやってくれ。それと上着を貸してやってくれるとありがたい」
「いいわよ。一人分の上着しかないけど、セイは全裸でいいの?」
「下は脱がない」
上半身の服を脱いで上着と共に火の前に置いておく。下は着用しながら乾かせばいい。火があれば寒くはない。
星火が後ろを向いて待つ間に、ナナはニナの服を脱がせて自分の上着を貸してやる。
「あら? ニナ、手にそんな物つけてたかしら?」
上着の袖が長いので隠れていたのかもしれないが、服を脱がせて初めて、手首に巻かれている一粒の水色の星が付いたアクセサリーに気付いた。
ニナはそれを嬉しそうに、ナナの前へ持ち上げる。
「さっき拾った。セイと仲間っぽい」
「へえ、いいわね」
星形の物を何も持っていないナナは少し羨ましかった。
「それにしても、よく生きてたわね? 倒壊する所を見てたけど、死んだと思ったわ」
「生きてると仮定して来てくれて助かった。ありがとう」
「な」
直球の素直な感謝にナナは面食らう。神社で一人でいた時は当然感謝の言葉など聞く機会はなかったが、地下集落に住んでいた頃でさえそんな言葉は掛けられたことがない。その言葉はナナにとってとても擽ったくて、心臓の鼓動が早くなる不思議な言葉だった。その言葉が忘れられなくて見送り続けてしまったと言っても過言ではない。
「私もセイの『ありがとう』好きだよ」
「! 『も』って何? 私はそんな言葉どうだっていいわよ」
「ナナちゃん照れてる」
「照れてないわ」
火に照らされて楽しそうに笑うニナの顔を引っ叩きたくなったが、屋上であっても騒げば魚が興味を示す。この壊れた世界で大騒ぎは御法度だ。
「もう振り向いていいか? もう少し近くで火に当たりたい」
「いいよ」
「一生後ろを向いてなさい」
「何でだ」
ニナの返事を信じて星火は振り向き、ナナが睨んだ。ナナは照れを恥だと思い、晒したくない。感情を他人に見せるのは恥ずかしいことだ。
「鞄を返してくれ」
「忘れてたわ」
上着を脱ぐ時に下ろした重い鞄を星火に返し、彼は銀笛を取り出して分解を始める。水を被った笛は掃除をしておかなければ今後に関わる。
「前より重くなってるけど、何か増やしたの?」
「さっき倒れたマンションに缶詰が豊富に残っている家があった」
「あら羨ましい。何も無い建物だと思ったから無視しちゃったわ」
「変わったマンションだったよ。少し不気味だった。旧時代からも取り残されているような感じだった」
「へぇ?」
ナナは柵から眼下を見下ろすが、倒壊したマンションの中はもう確認できそうにない。壁が崩れて部屋は埋まっている。
「何も無いなんて、どう判断したんだ?」
「一階は見てみたのよ。空っぽか、最低限の家具だけって感じだった。元々空き家が多かったのね」
「ああ……僕は最上階を見たんだ」
「上まで行けば良かったわけね……昔見たきりだから。昔は体力が無かったのよ。ずっと閉じ込められてたから」
疫病の所為で、健康体だと言うのにナナは感染者と共に隔離されていた。地上どころか地下ですら歩かせてもらえなかった。座るか寝転ぶだけの死体のような日々だった。
「私と一緒だ」
ニナはナナとは状況が異なるが、閉じ込められていたことに違いはない。
二人は互いに相手の置かれていた状況を知らないが、詮索はしなかった。
「だったらこれから頑張れば、ニナも体力が付くわよ」
「本当? 頑張るぞ」
「まずは食べなさい」
焼けた蟹の脚を差し出され、ニナは恐る恐る指先で突く。火に炙っていたので熱く、殻は石のように硬い。
「どうやって食べるの? 歯が折れそう」
「中の身を食べるのよ」
ナナは星火に蟹の脚を支えさせ、刀で鮮やかに一刀両断する。竹を割ったかのように真っ直ぐ切断された。
「ナナちゃん格好いい!」
ナナは満更でもなく、ふいと顔を逸らして刃を布で拭った。
「重い。倒すのを手伝ってくれ」
子供の胴ほどある蟹の脚は、少しでも傾ければ体が釣られて転んでしまいそうだ。星火は両手で支えながらナナに訴える。
「男の力でも一人でできないの?」
「丸太を持つようなものなんだぞ。一人でできるわけないだろ」
「丸太なんて持ったことないわ」
「僕もだ」
関節で切断したとは言えまだ長い脚を半分ずつ横へ倒す。丸太よりは軽いが、気持ちは丸太を持つようなものである。
三人は横に並んで座り、大きな流し素麺のようなそれにフォークを突っ込んだ。細い繊維の束を、スパゲッティを巻くようにフォークで絡める。三人の内、スパゲッティを食べたことがあるのは星火だけだったが。
白い身は焚火の明かりを受けて輝いている。
「魚は色んなのがいるなぁ」
「魚なんて変なのばっかりよ。だから食べ甲斐がある」
「これ食べたら、また薬を呑まないといけないの?」
「この前呑んだから当分平気よ」
「じゃあ食べる!」
フォークに絡めた身を豪快に頬張り、ニナは幸せそうな顔をした。今までの魚と全く違う。新しい味だ。
「おいひい! 今までの魚の中で一番……かはわからないけど、美味しい!」
「私は一番でいいわ。全部一番だから」
「えっ、一番がいっぱいあってもいいの!?」
「私の一番は私が決める」
「か、格好いい……!」
「贅沢三昧奏者的にはどう?」
「あのな……」
星火は溜め息を吐き、少しだけ事情を話すことにした。ここまで付いて来たナナがすぐに神社へ折り返すとは思えない。それに、星火を信じて彼女は自分の辛い過去を話した。星火も彼女を信じて良いだろうと思えた。
「僕は暫く家に戻ってない。四年ほど質素な食事だ」
「それ以前は贅沢三昧だったんでしょ? その他の集落では一生食べられない物ばかり食べたんでしょ? この蟹の味は舌の肥えた奏者を満足させられたのかしら?」
四年ほどの質素など、十九年生きた内のほんの僅かに過ぎない。ナナは不敵な笑みを浮かべて星火を突く。
「……まあ、上位には入る」
「そんなに? ニナ、たくさん食べときましょう。蟹味噌を逃がしたのが残念ね」
「わーい」
蟹を食べる時は旧時代でも無言になる。三人は黙々と巨大蟹を堪能した。
腹一杯に蟹を詰めて満足をした星火とナナは、焚火に当たりながら暫し呆然とする。ニナは蟹の殻が気になり、一人で触って遊んでいる。
「……ナナ、一つ訊いてもいいか?」
「何?」
「君は好奇心旺盛で知識もある」
「褒めてる? 褒めても何も出ないわよ」
「壊れる前の空を管理していた無河無霧は知ってるよな?」
「ええ。有名人だもの」
「その人に娘がいたことは知ってるか?」
ナナの知識の豊富さを買い、星火はマンションの一室で見た物を話した。擬似空が壊れた後の混乱は、残っている記録が少ない。未曾有の混乱の中で記録を残す余裕のある者はそう多くはない。
「詳しくは知らないけど、娘が二人いたのよね?」
「! 知ってるのか? じゃあ事実なのか……」
「娘が二人いた、ってことしか知らないわよ。無河無霧みたいに空に関与してなかったんでしょ。目立ってたらもっと情報が落ちてるはずだもの」
「僕は娘がいることも知らなかった」
「セイが見つけた記録を信じるとすると、あんまり良い印象は無さそうね。単に被害妄想かもしれないけど。セイは旧時代の人間が気になるの?」
「いや……元々はそんなに。だが最近、偶然、旧時代の人間に会って、少し興味が出た」
「待って。旧時代の人間? 旧時代の人って何百年も生きるの……?」
「機械の事故で……偶然が重なって生き残ったみたいだ」
星火は教団の集落にいた頃に出会った旧時代の少女についてナナに話した。教団の集落のことは伏せておくが、旧時代の少女のことは隠すことでもない。ナナは言葉を失って驚愕していたが、証拠品の綺麗な御守りとスティック型携帯端末を見るとこくりと喉を鳴らした。ナナがいた神社で見つけた御守りは色褪せて薄汚れていたが、星火が見せた御守りは色鮮やかで美しい。まるで最近作られた物のようだ。
「……こんな面白いこと、何でもっと早く言ってくれなかったの!?」
「そこまで親しくない」
「わかったわ、今日から友達! 親友になりましょ!」
ナナは星火の手を取って強く握り締める。こんなに興奮する情報は初めてだ。鈍色の空に色が付きそうな程に。
「友達って、そんな感じでなるものか……?」
「友達だから、お前の旅に付いて行ってあげる」
「それは……付いて来る口実を探していただけだろ」
「セイと彷徨するの、楽しそうだもの! 集落の人達みたいに腐ってないし、他の奏者みたいに貧弱でもない」
ナナは今までで一番、目を爛々と輝かせた。止まっていた時が動き出し、生気が宿ったようだった。
蟹の殻で遊んでいたニナも聞き耳を立てて振り返る。
「ナナちゃんは、お目が高いですね」
「でしょう?」
星火はともかく、ニナには歳の近い友人がいても良いだろう。彼女は教団の集落では友達どころか同年代と話す機会すらほぼ無かった。
「……ニナはどうだ? 人数が増えることで食料の分け前が減ることもあると思うが」
「神社では大丈夫だったから、大丈夫だよ! ナナちゃんと旅するの楽しいと思う」
「ニナがそう言うなら、僕も邪険にはしない」
渋々といった感じだが、実際はナナがいると心強いと思っている。奏者として笛が吹けない場面が今後もあるかもしれない。そんな時にナナの刀は頼もしい。
「ありがと。何だか縛られてたものから解放された気分だわ」
「じゃあ今後は、僕が奏者だということはペラペラと話さないでくれ。面倒なことは避けたい」
「奏者なのに? 奏者なんて自分から奏者ですって大声で触れ歩きながら手を振る生き物でしょ? 普通の奏者は自慢げで高圧的に名乗って金銭を求めるわよ。星の一族だって嘘を吐く人もいるし」
「奏者のことが自棄に知れ渡ってる理由がわかった……」
つまり星火の家系以外の、後から笛を覚えた者達が己の力を誇示して回っているようだ。星火のように生まれた時から奏者の教育を施されているとそれが当たり前のこととなり、わざわざ自慢するようなことではない。後からその力を欲して努力して手に入れたものなら、自慢したくもなるだろう。
「その口振りだと、君は僕以外の奏者に何人も会ったことがあるのか?」
「私は隠れないし、目立つ鳥居のある神社に留まってたから。ひ弱な女子供がお家に帰れず困ってると思ったのね。奏者に鴨になると思われたの。何人か生簀の魚に食べられたわよ。後は逃げた」
「君が貧弱と評していた理由もわかったよ」
「でしょ? ――ってことで、これから宜しくね、セイ、ニナ」
「……宜しく」
「私は貧弱だけど宜しくお願いします」
「まず体力を付けなさい」
「はい」
三人の中でニナだけが脅威に対抗する術を持たない。守ってもらうだけになってしまう。ナナは一言加えてから笑い、星火も気にするなと言葉を添える。
「取り柄なんてなくても、ニナの食べっぷりは見ていて面白いわよ」
「言い聞かせておけば勝手な行動もしないしな」
「何か解せないな……」
水族館で見掛けることもあるタカアシガニ。あの脚が長い、でっかい蟹です。
旬の物はとても美味しいそうです。私も食べてみたいです。




