6-水底の記憶
最も古い記憶は、壁に囲まれた何も無い部屋で腐った人間が積まれている光景だった。
生きている人々は怯えた顔をして、寒そうに縮こまって震えている。その肌も土気色をしていて、次に積まれるのは自分ではないかと怯えている。
その中でただ一人、血色が良く生きた目をする少女がいた。年端も行かない、物心もついていない幼子だ。幼子は泣かず、じっと大きな瞳で死を見詰めていた。
「……ああ、またこの子、死体ばかり見てるわ。もっと楽しい物があればいいんだけど」
震える手と、もう殆ど見えていない目で、女はぼんやりと幼子を見る。
「この子だけは、何だろうな……ここにいる必要は無いんだ……」
「でも私達が何を言っても無駄よ。寧ろここにいてくれた方が、鬱々とした私達の気持ちが和らぐ」
外で怒号が聞こえ、人々は腐り落ちそうな手で泣かない幼子をあやした。
幼子も彼らと同じ、すぐに腐って死ぬはずだった。だが幼子はいつまでも血色の良い肌で、闇の中に浮いたように存在し続けた。
幼子が文章を話せる歳になる頃には、その部屋の中身は殆どが入れ替わっていた。そして隅に積まれた物が増えている。
彼女は死体に育てられたと言っても過言ではなかった。もうすぐ死ぬ人間しか、彼女に近付かなかった。
(皆、死んでいく。だったらもう……無くなってもいいんじゃないかな)
それでも彼女は生きていた。
名も存在意義も与えられず、空蝉のように虚無だった。
* * *
雨は二日間降り続き、水没した街が元に戻るまで一日掛かった。その間はナナが常備している干し肉や加工野菜、粘土を練って固めたような保存食などを食べて過ごした。
「……ねえ、気になってるんだけど、この子、寝過ぎじゃない?」
ソファを占拠して眠るニナにナナが言及したのは、神社へ戻ろうとした時だった。
「眠いんだろ」
「星火は何ともないの?」
「何がだ?」
「眠いとか体調が悪いとか」
「特に無い」
「二人はどれくらい地上で生活してるの?」
「半月ほど前に集落を出たが、その後に別の集落で一週間過ごした。……それがどうした?」
「ニナの体は地上を拒絶してる気がする。汚染の影響を受けてるんじゃない?」
星火は眠るニナを振り返り、顔色を窺う。別段悪いというわけでもない。教団の集落にいた頃も部屋でよく転がって寝ていた。あの時は何もすることがなくて暇だったからだが。
「起きたら本人に体調を訊いてみるが、集落にいた頃と地上に出てからとで違いは無いように思う。確かによく寝てるが、慣れない地上で疲れたんだろ」
「それならいいんだけど。薬は持ってる?」
「ああ。僕も定期的に摂取している」
「お前の体調が良い理由がわかったわ。ニナは?」
「呑ませてない。最初は症状が出てから呑むものだろ?」
「この眠りっぷりが症状じゃないといいけど」
神社に戻るためナナはニナを背負おうとし、持ち上げようとした所で彼女は眉を顰めて目を覚ました。
「ごはん……?」
「神社に戻るのよ。歩けるなら歩いて」
「歩ける」
目を擦りながら、ニナは自分の足で立つ。まだ眠そうだが、特に異常は見られない。
「ニナ、体調はどうだ? 集落を出てから、変わった所はあるか?」
「体調……? 別に何ともないけど」
「それならいい」
短い遣り取りに、ナナは星火の腕の傷を叩いた。
「……痛い」
「ニナ。何でそんなに寝るの?」
「え? 眠いから…?」
「寝過ぎだと思わない?」
「子供はよく寝るって聞いた」
「そうね。でも汚染の影響で『眠気』って症状もあるって聞いたことがあるのよ」
「初耳だな。頭痛や嘔吐などが初期症状として有名だが」
ナナと星火の会話はニナには初耳だった。空が壊れたことで外の汚染が流入したことは既知だが、汚染とは何なのか、症状とは何なのか、何も知らない。地下で暮らす人々の多くはニナと同じように知らないことばかりだが、特にニナは集落で情報を遮断されていた。
「汚染とか症状とかって何?」
「汚染のことは僕も詳しく知らない。旧時代の記録が見つかればいいんだが……汚染によって体に悪影響が現れるんだが、最初は頭痛や嘔吐、進行すると腐敗などが起こり、やがて死ぬ。この症状で旧時代の人の大半が死んだ」
「腐敗って……人が腐るの!?」
「腐敗も曖昧な表現だけどな」
「そ、それで……私にも何か……? 腐るの……?」
「いや。初期症状が出た段階で薬を呑めば進行しない。僕も呑んでる」
「ちょっと安心した……」
「僕がいつも近くにいるとは限らないから、先に薬を渡しておこう。丁度いい鞄も買ったからな」
「薬は貰うけど、いつも近くにいて!」
星火は返事をせずに自分の鞄から薬の入った袋を取り出し、別の袋に分ける。
それを見て代わりにナナが面白そうに笑いながら口を挟んだ。
「あらあら、ニナはシャワーも星火と一緒なの?」
「え!? そ……それは……一人かも……」
現代で幾ら水が恐れられているとは言え、シャワーや台所では水を使う。さすがに湯船に溜めて入浴することはないが、シャワーの水を怖がったりはしない。ニナも一人で浴びられる。地上では少し怖いが。
「ニナ、薬だ。無くさないようにな」
「丸呑みすればいいんだよね?」
「ああ。大体三日から一週間くらいに一粒呑めばいい。もし呑み忘れたとしても翌日いきなり死ぬということはないから安心しろ」
「三日と一週間は全然違うよ?」
「症状によって呑む頻度が変わるんだ。僕は五日に一度だ」
「セイの症状はまあまあ酷いってこと?」
「地上にいる時間が長いからな。ニナも症状が現れたら、それくらいを目安に呑むといい」
「何か難しいな……」
小袋の中には白い錠剤が入っていた。数ヶ月は呑み続けられそうな量だ。
「地上を歩くのはそういうことだ。もし嫌なら、地下に住むしかない」
「セイとナナは地下に住まないの?」
尋ねられるとは思わず、星火とナナはきょとんとする。二人が地下を出ることになったのは自分の意志ではないが、地下に戻らないと決めたのは自分だ。星火はニナのためでもあるが、集落に定住することは考えていなかった。
「地上の方が面白い」
「同感ね」
「面白いかぁ……それはわかる」
譬え体が汚染されて薬を服用しなくてはならなくても、地上の広さと明るさ、そして未知は何物にも変え難い。それに星火の場合は、集落で人に囲まれていると彼が奏者であると露呈するのは時間の問題だ。
「取り敢えず神社に戻るわよ。私がいない間に侵入する人がいたら始末してやらないと」
腰に差した刀の柄に触れ、ナナは先に部屋を出る。彼女に会う前に鳥居を潜らなくて良かったと星火とニナは心底思う。危うく始末される所だった。
水が引いてまだそれほど経っていないので地面はまだ濡れているが、魚の姿は無い。一時的に増えた水の中に魚が現れ、水が引くといなくなる。何処かの隙間に水と共に下がったのだろうが、行方は誰も知らない。
神社は出た時のままそこにあり、人が来た痕跡も無かった。
社殿の床はナナの言った通り濡れていない。
「肉を干さなきゃ。手に入れた味醂で味醂干しも作りたいわね」
ナナは再び肉を外に干すために避難させていたそれを確認し、星火は社殿に布団を敷いて定位置となったそこに腰を下ろす。
ニナはうろちょろとナナの周囲で肉の様子を窺っているが、その足元がいつもより覚束無い。
「……ニナ、足を怪我したか? それとも前に噛まれた傷が治ってないのか?」
唐突な問いに、ニナは足を止めて不思議そうに振り向く。
「してないし治ったよ。痕はまだあるけど」
星火は下ろした腰を上げ、ニナの方へ足を伸ばした。ニナの顔が少し赤く見えたからだ。座ったことでニナに目線が近くなって気付いた。
きょとんと見上げる彼女の前に蹲み、小さく華奢な手を握る。続けて額に手を当てた。
「熱いな。熱が出てる」
「熱?」
「体内に異物が入った所為で、体がそれを排除しようと発熱するんだ。つまり……汚染の症状が出てる」
「わからない……。死んじゃう?」
「いや、薬を呑めば大丈夫だ。呑んで一日もすれば熱も下がるだろ。熱が出ている間は布団で大人しく寝ているように」
「暇」
「普段はよく寝てるのに何でこんな時だけ動こうとするんだ」
星火は負傷していない手でニナの手を掴み、引き摺るように布団に連行した。フラフラと覚束無い足取りの彼女は足に力が入っておらず、本当に引き摺られていたかもしれない。
彼女のために布団を敷くと文句を呟きながらもニナは寝転んだが、先程まで眠っていたので眠気は無い。
「この子、風邪をひいたことないの? 健康なのね」
「僕が出会ってからは、ひいた所は見たことがないな」
「空気中の汚染が微弱だとしても、魚を食べたんだから遅かれ早かれだと思ってたけど」
「あ」
ナナの発言で、星火は『しまった』という顔になる。わかりやすい変化に、ナナは嘲るような笑みを浮かべた。
「なぁに? 忘れてたの? まあ奏者は日常的に魚を食べる狂者みたいだから、忘れてても不思議じゃないけど」
「そうか……魚は汚染されてるから……」
空が壊れて地上が汚染されているのだから、そこを泳ぐ魚も当然汚染されている。それを食べれば汚染物質を体内に取り込むことになる。
薬を呑めば問題ないので、奏者はもう気にせずに魚を食べている。薬があるから大丈夫、と毒を食らっているのだから、他者から見れば狂者でしかない。
「ごめん……ニナ。もっと発症を遅らせることができたのに」
「魚は美味しいから問題ない」
「狂者教育成功ね、セイ」
「…………」
そんなつもりは勿論、毛頭無い。
「薬が効くまではせめて汚染されてない物を食べさせたいな」
「私に言ってるの? じゃあお前が鞄に入れてる缶詰でもあげれば? 私は普段その辺の汚染された草か魚ばかり食べてるんだから」
「…………」
「何よ。笛にしか気付いてないと思った? 私が泥棒だったら真っ先にそのケーキを奪ってたわよ」
黙っていろと言いたそうに星火はナナを睨む。ナナは気持ち良くなって笑った。
「フフ……内緒のお菓子だったってこと? 残念だったわね」
「お菓子!? ケーキってどんなお菓子?」
わざとニナに聞こえるように言ったナナは更に意地悪そうに笑う。星火は不貞腐れたような顔になってしまった。
「もっと特別な……良いタイミングで食べようと思ったんだ」
「ニナ、あいつお菓子を独り占めしようとしてるわよ」
「それは許せないな。ケーキって何? 氷砂糖より甘い?」
「氷砂糖って、乾パンの缶詰に入ってるあれよね? あれも美味しいけど、氷砂糖は砂糖そのものって感じだから、お菓子と言っていいかわからないわね。ケーキはとても甘い、歴としたお菓子よ」
「甘いの!? 早く食べたい! セイ、今が特別だよ!」
飛び起きてしまったニナの肩を押さえ、渋々星火は彼女の口に汚染抑制薬を突っ込んだ。
「まずは薬だ」
「うむ」
「……僕も熱が出た時は甘い果物やお菓子を食べさせて貰った。特別と言えば特別……なんだろうな」
薬を清潔な水で呑み込ませ、星火は鞄から円柱の大きな缶詰を取り出した。
「地上を探索している時に偶然見つけたんだ。シフォンケーキと言うお菓子みたいだが、僕も食べたことがない」
色褪せているが、缶詰にはマーブル模様のスポンジの絵が描かれており、プレーン&チョコレートと表記されている。
「チョコレートは旧時代では一般的なお菓子ね。よく空っぽのゴミを見掛けるから」
「ああ。よく見るってことは、それだけ人気だったってことだ。きっと美味しい」
「奏者も食べたことないの? 更に食べたくなってきたわ。たくさん恩を売っておいて良かった」
「早く食べようよ。チョコレートって何?」
先程から知らない言葉ばかり並べられ、ニナは蚊帳の外で詰まらない。
「何かね、頭がふわふわで、なのに体は重くて、楽しくなってくるの」
「かなり高熱が出てそうだな。お菓子を食べたことを忘れそうだ」
「セイのことを忘れても、お菓子のことは絶対覚えてるよ!」
「そうか。短い二人旅だったな」
「えっ……やっぱり忘れないよおぉ……置いて行かないでよおぉ……」
「精神状態が大分浮いてるな」
初めての発熱で頭が混乱しているようだ。動いてはいけない高熱なのに、高揚して動きたがっている。
「何かね、熱いのと寒いのが一緒に来てる。へへ」
「とりあえず僕の上着を貸してやる」
缶詰を開ける前に外套を脱ぎ、ニナに掛ける。聞く限り苦しそうだが、楽しそうな顔をしている。早く缶詰を開けた方が良いだろう。食べないと寝そうにない。
ステイオンタブに指を掛け、燻んだ銀色の蓋を開ける。ニナとナナが身を乗り出して覗き込むが、まだだ。銀色の紙を剥がし、漸くその姿を拝む。紙を剥がした瞬間に、これまで嗅いだことのない甘美な香りがふわりと広がる。五感の全てが、これは美味だと結論を出した。
「切り分けた方がいいな。皿にでも出して……」
「ここに」
ナナは素早く皿を取り出した。そこらの建物によく残っているので、食器には困らない。
「私も準備できた」
ニナもいつの間にやらフォークを持って構えている。
皿の上にケーキを取り出し、その全身に見入る。缶に描かれているようにマーブル模様が美しい。缶詰と同じ円柱形だ。大きい缶と言っても片手に載る大きさなので、本来は一人分なのだろう。
ナイフを構え、星火はふと停止する。
「三等分……か」
二等分か四等分なら簡単だが、三等分は直感で切るには難易度が高い。
「セイはお菓子を食べたことがあるみたいだし、少し少なくてもいいと思うわ」
「私は熱で特別だから、多めでいいと思う」
「じゃあまず半分に切って、片方をニナに、もう片方を半分にして僕とナナが食べるか?」
「いいと思う」
「私はセイより多めがいいわ」
「気持ち多めにしておく」
「気持ち重めにしておいて」
「重め……? 増やせってことか?」
とりあえず半分にしようと刃を入れるが、目分量なので正確に中央には入れられず、少し逸れた。面積の大きい方を気持ち重めに逸らして二つに切る。
音も無く分けられたそれを食い入るように頭を突き出す二人が邪魔で、星火からはケーキが見えない。
「もう食べていい?」
「ニナの分は大きいから二つに分けよう。楽しみを二日に分けてもいいか?」
「明日も食べられるってこと? その発想はなかった。凄くいいと思う」
星火はニナがケーキを食べたことを忘れるのではないかと懸念して分けることを提案したのだが、彼女は別の解釈をしたようだ。
ニナの分の半分を缶に戻し、三人はいよいよシフォンケーキとやらに対峙した。ニナはフォークで突こうとしたが、星火とナナが手で抓むのを見て、手を使うことに切り替えた。
指で掴むとスポンジよりも柔らかく指が沈む。柔らかくて一口で全て食べられそうだったが、一口で食べ切るのは勿体無い。三人は同じことを考え、小鳥が啄むようにケーキを齧った。
「この黒い部分がチョコレートか……? 甘みが濃くて美味しいな」
「これがお菓子……肉からでは得られない甘さ……」
「魚より美味しいかもしれない……」
感動と言うよりは放心と言った方が的確かもしれない。三人はケーキのようにふわふわとした気持ちで、永遠に舌の上で転がしていたいと思いながら名残惜しく喉の奥へ送った。
「もう死んでもいいかも……」
そう言うとニナはぱたりと布団に倒れた。
「死んだわ」
「寝たんだろ。薬が効いてきたのかもな」
「ケーキを食べたこと、覚えてるかしら?」
「どうだろうな」
手放さなかったフォークを取り上げ、布団を掛けておく。いつから熱が出ていたかは不明だが、無理をしていたのだろう。眠る表情は固く、眉間に皺ができている。
「……僕の鞄の中を見たと言っていたが、もう何も言い出さないだろうな?」
「他にも食料はあったけど、食べ尽くそうなんて思ってないわよ。ケーキはおやつだけど、非常食は非常時に取っておく物だもの」
「いや……食料じゃ…………うん……まあいい」
「見られたくない物があったの? どれがそうなのか私にはわからないけど。教えてくれたら揶揄ってあげるわよ」
「絶対言わない」
残したケーキを入れた缶と共に、星火は自分の布団に移動する。縫合した傷は徐々に塞がってきている。安静にしていれば完治は早そうだが、まだ気は抜けない。
「寝るの?」
「ああ。動かない方が早く怪我が治る」
「……ちょっと手伝ってほしいことがあるって言ったら、手伝ってくれる?」
「手伝い……? 怪我に障らないことならいいが」
「じゃあちょっと来て。見せたい物があるの」
「時間が掛かることか?」
「うーん……少し?」
その間ニナを一人残すことになるなら、また以前のように星火を探し回るかもしれない。星火は防水袋に入った紙を一枚取り出して一言書き置いた。地下集落には学校という物は存在しないが、必要なことは大人達が子供に教えている。ニナもまた集落で日常に必要なことを教わっており、文字の読み書きもできる。星火は日常に必要ない地上の『余計なこと』などを内緒で教えていた。
ナナに連れられ、星火は神社を出る。日中ではあるが、壊れた空で太陽の姿を見ることは叶わない。陽光は降り注ぐが、現代の人々は太陽を見たことがない。
近場かと考えていたが予想以上に案内された場所は遠く、神社は建物の陰に隠れて見えなくなってしまった。雨が止んだ現在は神社の周囲に水は無く、魚が襲う心配は無いが、熊のような凶暴な動物が他にもいないか少々気掛かりである。ナナが神社に住んでいて問題が無いのだから信用しているが。
「あの瓦礫の向こうよ。足元に気を付けて」
倒壊した家の瓦礫を越え、眼前に広がった大きな水溜まりに星火は目を丸くした。まるで湖だ。
「これは……雨宿りの時に話していた水溜まりか?」
「それとは別よ。それはもっと遠いから。水溜まりの真ん中辺りに陸地があるのが見える?」
「ああ……木が生えてるのか?」
「そう。それよ。木の実が付いてるのも見える?」
「ん……? 微かに色が見える……?」
「あの木の実を取りたいの」
「…………」
星火は閉口してしまった。どれだけ跳躍力があっても、人間の跳躍力では到達できない距離に陸地がある。
「何十メートルあるかわからないが、僕に笛で魚を鎮めろと言いたいのか?」
「そうよ。だから手伝ってほしいの。雨宿りの時にたくさん話して、信用できると判断したの。あの木の実の味が知りたい」
「こんな明るい内に?」
「暗いと見えないじゃない」
不安はあるが、ナナの言うことも尤もだ。
「魚は鎮められると思うが、どうやってあそこまで行くんだ?」
「私が言ったこと、忘れた? 私は泳げるの」
「泳いで行くのか? 幾ら魚を鎮めていても、魚の棲家に飛び込むのは……」
「心配してくれるの?」
「一応は」
「優しいのね。だから信用する。私は大当たりの名家の奏者の腕を信じるわ」
「……名家でも、皆が才能を持ってるわけじゃない」
「へぇ、そうなの? でもセイは才能があるでしょ? 大きな魚を退けたってニナが言ってたわ」
「それは……」
「私はお前に命を預ける」
凛と星火を見詰める双眸は冗談を言っているわけでも過信しているわけでもない。だが何処か空虚だった。
「預けられても、もし溺れても僕は助けられないからな」
「泳げないの?」
「怪我人を泳がせようとするな」
「フフ……泳げなんて言わないわよ。訊いてみただけ。もし溺れたら、放っておいていいわ。それまでの命だってだけ」
「命を懸ける価値があるのか?」
「さあ? ただ、あそこに行ってみたいだけ。生きる理由もそんなものでしょ? 大志を抱いて生きる人なんて、そういないわ」
「……僕は引き留めるようなお人好しじゃないが、命を懸ける程の物には見えない」
ナナは彼の言葉に満足したように笑った。
負傷していない肩に掛けていた鞄から銀色の笛を取り出す星火を見て、ナナも腰から刀を外して上着を脱ぐ。
薄着になり、背負うように刀を装着する。腰に差していると泳ぐ時に邪魔だからだ。
「期待した?」
「何をだ?」
「上着の下が裸か、って」
「もし裸なら服を着せる。水の中に鋭利なゴミが漂ってるかもしれないから危ない」
「真面目ね」
もっと動揺するだろうと期待していたナナだったが、星火は呆れたように溜息を吐くだけだった。顔が整っている分、何度も女性に絡まれたことがあるのかもしれない。ナナは少し詰まらなく思う。
「命を懸けるんなら真面目にやれ」
「私にとって命はぺらっぺらに軽い物よ」
そう言った彼女の目はもう笑っておらず、冷たく何の感情も浮かべていなかった。思わず星火の背筋に冷たいものが流れる。彼は彼女のことを何も知らない。彼女の発言の意味も理解できなかった。
「……死に急ぐなよ」
ナナは巫山戯ているわけではない。ただ命の重さを知らずか忘れてか、何も感じない。彼女は浮き玉のように中身が空っぽの硝子玉のようだった。
だが彼女が本気であることは伝わる。星火は銀笛を口元に構えた。彼女が何故そこまで命を軽んじるのかはわからないが、命を捨てたいだけなら奏者を頼らないだろう。
「今まで見た奏者の誰よりも様になってるわ」
両手と両足を順に振り、ナナは水に近付いた。
星火は静かに息を吸い、銀笛に口付ける。微かに波打っていた水面が、透き通った音色に撫でられ大人しくなった。
ナナは蹲み、静かに水面に爪先を浸ける。幾ら魚を鎮めているとは言え、騒々しく飛び込むと音色を掻き消してしまう。銀笛の音は、並の声量で簡単に乱されてしまう程の音量だ。遠くまで届くよう星火はなるべく大きな音を出そうと心掛けているが、鯨を追い払った時よりも遠い今回の距離が届くのか、向こう側に立つことが無い彼にはわからない。
音を立てずにするりと水の中に体を落としたナナはゆっくりと四肢を動かして泳ぎ出す。水面に顔を出したまま、波もあまり立てず音色を乱さない。
(僕は家で訓練を受けたが、訓練を受けずここまで泳げるのは凄いな)
彼女が水の中にいる間、笛を吹き続けることになる星火を気遣ってナナは速く泳ぐ。まるで魚の尾や鰭が生えているかのようだ。感心と言うより見惚れてしまう。
星火の位置から水溜まりの陸地まで、丁度真ん中辺りまで滑るように進んだが、魚の影は見当たらない。試したことは無かったが、想像以上に笛の音は遠くまで通っている。
(この距離を泳げるんだな……百メートル以上ありそうだが)
冷えた体を温めるために火でも用意しておいた方が良かっただろうかと考え始めた時、水面に出ていたナナの頭がとぷんと水中に消えた。
(潜った……?)
心中で首を捻る。水中に何か見つけたか、潜った方が速く泳げるのか。その答えは直後に知ることになった。
勢い良く飛び出したか細い手が慌てたように水面を爪弾く。
「!?」
その手も吸われるように水中に戻る。
(溺れた……!?)
だが助けに行ける距離ではない。泳いだ距離はもう目的地までの半ばを過ぎている。星火も泳ぐことはできるが、その間は笛が吹けない。吹くことを止めても一、二分程度は余韻があって魚は大人しいが、その短時間ではナナの所まで行けない。
(どうする……? 笛を吹き続けても止めてももう……)
助けられない。
人助けは趣味ではない。それは関係の浅い見知らぬ者に対しての話であり、ナナは星火とニナを助けてくれた恩人だ。恩人を見捨てるほど冷めてはいない。
「!」
乱れた水面に頭が飛び出す。必死に息を吸おうと口を上に向け、水中から伸びた赤っぽい太く長い物が逃がすまいと顔面に貼り付いてナナを水中へ引き戻した。
(何だ……? 魚……? 蛇? ナメクジ?)
何かはわからないが、ナメクジは泳がないはずだ。
星火は奏でるのを止めて鞄から折り畳み式のナイフを取り出し、躊躇わず自分の腕を傷付けた。
「っ……」
熊に殴られた時と比べればどうと言うことはない。近くに転がっていた拳ほどの石に、眉を顰めて傷から流れる血を擦り付けた。それを振りかぶり、水の際まで爪先を滑らせ力の限り投擲する。ナナの居る方向とは横に逸らして投げた石は、彼女には到底届かない距離で大きな音を立てて水に落ちた。
(これでいい……後は興味を向けてくれれば……)
星火の位置からでは水中に大きな影があってもよく見えない。水中の様子がわからず、近くに落ちている石をもう一つ拾って血液を付着させ、先程と同じ場所に投擲した。
嫋やかさと弾力のある太く長いそれは、水底の奥から伸びていた。光の届かない闇に身を潜め、姿を現さない。
最初に足に絡んで水中に引っ張り、刀を抜こうとする彼女の背のそれごと体にも巻き付いてきた。人の大腿部ほどもある太いそれは逃れられないほど力が強い。
(何これ……? 動いてるから生き物よね……? 締め付け……られる……)
体中の骨が粉々になりそうだ。思考も困難なほどの痛みが襲う。軋む体が壊れるのが早いか、息ができず溺れるのが早いか、最悪な二択が脳裏を過ぎる。
(魚をたくさん食べてきたから……今度は私が魚の餌になるのかしら……)
既に水を呑んでしまったナナは、酸素が吸えずに限界だった。
抵抗が無くなったことで、絡み付く何かは彼女を本体の潜む水底へと引き摺り込む。
遠ざかる光に伸ばした手は水を掻いて虚しく沈んでゆく。
(ああ……あの時と同じだわ……)
脳裏に、幼少の頃の水中の記憶が揺れる。溺れて死ぬのだと思ったあの日、無意識に掻いた手が、足が、水に導かれるように泳いでくれた。
今はそんな奇跡は起きないらしい。
体は沈んでいくのに、光を受けて輝く泡沫が揺らぎながら水面へ上ってゆく。それは偽物の空には浮かばず、彼女も見たことがない煌めく星のようだった。
(綺麗……この空の下で死ねるんだわ……)
最後に何を考えるかと思えば、そんな諦観だった。笑いそうになる。
水面に伸ばした手は何を求めていたのだろうか。死にたがったのに、滑稽だった。
(……?)
その視界で、水面から射す光が微かに揺らいだ。不自然な波紋が走ったように見えた。
音が聞こえた気がする。笛の音ではない、もっと粗雑な音だった。
心無しか、締め付ける力が少し緩んだ気がした。
もう一度、今度は確かに音が聞こえた。水面に何かが落ちる音だ。
締め付ける力は解けはしないものの更に緩み、抵抗できるようになった。
(……まだ……死ねないんだわ)
緩んだそれを引き千切らんばかりに剥がし、そいつを蹴って水面に向かう。顔を出して泳ぐより、潜水して泳ぐ方が得意だ。
水に沈んだ陸地に両手を掛け、目一杯、自分の体を押し上げる。逃げた獲物を追い、太く長い物が伸びた。振り向く勢いで刀を抜き、それを斬り捨てる。幾つもの吸盤が並んだそれは地面を跳ね、水中へ落ちた。
(きっと星火だわ……星火は優しいけど、助けてくれるなんて思わなかった。こんなの、顔を合わせられないじゃない……)
水に入る前は無意識に死にたがったが、独りで死ぬのは無意識でも怖かったのだろう。信用できる誰かの傍で死にたかった。その無意識は二人に会う前から存在していた。
なのに、いざ死が近付くと無意識を認識し、怖くなってしまった。
恥ずかしくて顔を見せられない。きっと年相応の少女の顔が、真っ赤に染まっている。
水面を注視しながらもう一つ石を拾おうとした時、湖の真ん中の陸地にナナが勢い良く頭を出した。
「!」
ナナは素速く陸地に上がり、その後を追って水中から伸びる赤っぽい太く長い物を振り向き様に切断した。切り離されたそれは陸地でビチビチと跳ねて水に落ちる。
(良かった、無事……いや、足を引き摺ってる……のか?)
遠くて出血しているかはわからないが、少し足が重そうだ。それでも彼女は目的の木に下がる果実に刀を伸ばして切り落としている。
(余裕があるなら大丈夫か……)
声が届くかもわからない距離なので様子を見守ることしかできないが、笛はいつでも吹けるように構え、足元に石を拾って置いておく。血の臭いで魚に餌だと認識させてナナから引き離そうとしたのだが、役に立ったかは星火の位置からではわからなかった。
持参した袋に木の実を詰める姿を緊張しながら見守り、星火の方を向いて手を上げる彼女の度胸に感心する。水中で襲われた直後にまた水に入る勇気があるとは恐れ入る。
(やっぱり死に急いでるようにしか見えない)
戻って来ないといけないのでどうしてももう一度水に入らなくてはいけないのだが、見ている星火の方が不安になる。
(今更だが……やっぱり夜に決行した方が安全だったんじゃ……)
夜でも活動する魚はいるが、昼間ほどではない。夜は明かりが無く木のある陸地の方向を見失う可能性はあるが、襲われるよりは良いだろう。
星火も手を上げて了承し、血を付着させた石を斜めの方向へ投げた。横目でナナが水に入る所を見届け、血液付きの石をもう一つ投げる。痛みで笛を落としそうだ。
銀笛に唇を当て、何処か物悲しくもある儚い音色を奏でる。奏者が奏でる音は決まった楽譜があるわけではなく、奏者によって旋律が異なる。練習では楽譜を用いるが、実戦では各々の心象を音にする。音を出す才能、奏でる才能、どちらも無くてはならないものだ。
復路は直線ではなく大きく迂回するように遠回りをし、ナナは一度潜り、真ん中の陸地に上がった時よりも勢い良く星火の前へ飛び出した。
水飛沫が視界を埋め、星火はナナに突き飛ばされるように弾かれたが、笛を離して彼女を受け止めようとする。
その背後から太く長い物が何本も畝りながら伸びて追い、星火を乗り越えるナナから彼へ標的を変更した。
「わっ」
星火の足に絡み付いたそれは、水の中へ引き摺り込もうとする。抵抗しようとするが、瓦礫を掴んだ手は呆気無く剥がされた。
体勢を立て直したナナは刀を抜き、足を負傷しているとは思わせない軽捷な動きでその太く長い物を切断した。
切り離されてもなお足を離さないそれを、ぬるぬると滑って苦戦しながら無理矢理引いて剥がす。イボのような突起が並んでいる奇妙な物だ。
「奏者より私の方が強いって証明されたかしら」
「こんなのに引っ張られてよく無事だったな……」
「セイが気を逸らしてくれたお陰よ。足しか見えなかったけど、烏賊かしら? それとも蛸?」
「わからない」
「ダイオウイカかしら? 後で食べましょ」
「足は? 痛めたんだろ?」
血は出ていないが、少し腫れている。彼女の脚はズボンや靴下で隠れているが、何となく不自然だ。無事な脚で隠すように体を捻り、ナナは近くの瓦礫に腰掛けた。
「バレてた? 骨、折れたかも。セイこそ大丈夫なの? 私の所為で怪我させちゃった」
「僕は別に。熊に比べたら何てことない。それより、折れてるなら泳がず助けを求めれば良かったのに」
「助けを求めたら舟でも作って迎えに来てくれた? 嫌よ。そんなに待ちたくない」
ずぶ濡れの袋から採取した木の実を取り出す。ぽこぽこと丸い玉が連なっているような赤い果実だ。未熟なのか緑色も混ざっている。その連なる玉はくるんと輪や螺旋を描くように曲がっている。
「果物と言うより、豆っぽいな」
豆の莢が裂けるように、口が少し開いている。そこに刀の刃を入れて半分に割った。玉が連なるような形の莢に、黒い種が覗く親指の先ほどの大きさの実が入っている。それは赤い実だったが、ナナが持ち帰った物の中には白い実を覗かせている物もある。
「味見しましょ」
見たことのない木の実を受け取り、星火は一つ抓んでまずは眺める。
「……食べられるか?」
恐る恐る口に近付けるが、先にナナが口に入れてしまった。眉を寄せて訝しげに瞬きをしている。
「んっ……ん……少し、甘い?」
「色が違うのは熟してないからか? 白い方はどうだ?」
口に入れると確かに甘味はある。だが甘味以外もあった。酸味もある。それは星火が感じた通りマメ科の植物、マニラタマリンドと言う物だ。旧時代でも食べられていた。
「白い方も同じね。少し甘くて、独特な……苦味? もあるわ」
「甘い果物は人が改良した結果であることが多い。元々はもっと酸味が強かったり、甘さが控え目だったりな。これは自然に近いんじゃないか? 旧時代の植物園や庭などから道端に広がった例は多いはずだ。それの多くは食用として栽培されていたわけじゃない」
「そうね……。これ、置いてたら熟して甘くなるかしら?」
「それはわからない。多少の変化はあるかもしれないが」
「もっと甘い物だと思ったわ」
ナナは不満そうに唇を尖らせた。折角苦労して採取したのに、文字通り骨折り損ではないか。
「……つまらないわ。先に甘いケーキを食べた所為で期待し過ぎちゃった」
「この水溜まりの水位は変わらないのか? 下がるなら陸地が増えて木に行き易くなる」
「行き易くなる程の変化はないわ。だから私はここを生け簀みたいに扱ってる。サーモンを獲ったのもここよ。さっきみたいなうねうねした奴は初めて見たけど」
「僕も初めて見た。足が長いのか、本体まで笛の音が届いてなかったみたいだな。ごめん」
「あら、謝ってくれるの? 自分を傷付けてまで助けてくれたのに」
ナナは苦笑する。ここまで謝られてはナナにも罪悪感が湧く。
「僕のケジメみたいなものだ。君が死に急いでいても、奏者として……と言うのは癪だが、魚を退けられなかったんだから謝る」
「……本当に真面目な人ね」
「またさっきの奴が出て来たら大変だ。水から離れよう。歩けるか? 背負うか?」
「時代遅れの奏者に背負われるのは屈辱ね。歩くわ」
「悪化しても知らないぞ」
入手した物を袋に詰めて立ち上がるナナに手を差し出すが、彼女は取らずに立って歩き出した。上半身は凛としているがその足元は蹌踉めき、瓦礫に躓きそうになっている。誰が見ても痩せ我慢だとわかる。
星火は溜息を吐き、背負っていた鞄から片腕を抜いて彼女を無理矢理背負った。ナナは嫌がったが、足を払うと倒れるように星火の背に乗ってしまった。
「屈辱……」
「その足で歩くと時間が掛かる」
「お前だって怪我してる癖に」
「足は何ともない」
お人好しではないと言いながら、とんだお人好しだ。
「……もっと高慢で貧弱だったら良かったのに」
「?」
ぼそりと耳元で囁かれた言葉は星火には理解できなかった。
ただ、首筋に温かい滴が伝って襟を濡らした。
「助けてくれなくて良かったのに……私に優しくしてくれるなんて、セイとニナくらいよ。私には勿体無い。私は死ぬはずだったんだから」
「…………」
ぼそぼそと耳元に囁かれる言葉は独り言のようだった。それなら、水を差さずに喋らせておく。
「私、悪い子だから。皆……殺しちゃった。集落を水に沈めちゃった」
「……事故か?」
「ううん。私がこっそり防水扉を開けたの。私もその中にいた。火事場の馬鹿力って奴かしら……何か泳げちゃったのよね」
「それであんなに泳げたのか」
歩きながら静かに話を聞く星火に、ナナはつい話してしまった。生まれて初めて人の優しさに触れ、甘えたくなったのかもしれない。出会ってまだ数日だが、星火は無愛想な顔をしているが頭ごなしに否定をすることは無かった。子供――ニナに懐かれているなら、悪い人ではないのだろう。
「……私の生まれた集落でね、疫病が流行ったの。罹患した人達と健康な人達が毎日喧嘩して、病人は隔離された。私の両親もね。誰も病気を治せなくて、有効な薬も無かった。汚染の症状に似てたけど、汚染を抑える薬は効かなかった。奏者の笛にも縋ったけど、笛は万能じゃなかった。それで私が物心つく前に親は死んじゃった」
「…………」
「私は何とも無かったんだけど、発症直前の母体から産まれたから、隔離されたわ。不思議なことに、私は今も健康なんだけどね。ずっと地上にいるけど、汚染の影響も受けてない」
「抗体でもあるのかもな」
「隔離部屋の奥に使われてない防水扉があったの。向こう側が瓦礫で埋まって、出入りできない扉。出入りはできないけど、子供でも開けることはできた」
「それを開けたのか」
「毎日喧嘩の声ばかり聞いて、隔離部屋から外に出ることもできない。罹患した人はすぐに死んで終わりだけど、健康な私は何十年も死ねない。外に出られないのに、生きてる意味なんてあるのかしら。そんな集落が嫌になって、皆、無くなっちゃえばいいと思ったの。そう思う頃には集落の殆どが発症してた」
「疫病を絶やす、一番手っ取り早くて残酷な方法だな」
独り言のように囁く彼女に時折相槌を打つ。後悔はしていないが悪いことをしたと思っているナナは、見えない彼の顔を透かして見ようとするように後頭部を見詰めた。一人だった時は何も感じていないはずだったのに、誰かが傍にいる温もりに触れて、覚えのない感情が溢れてしまったようだ。水に沈めてたくさん殺してしまったことを、ずっと懺悔したかったのかもしれない。
「……責めたりしないのね、セイは」
「僕は人助けは趣味じゃない。知らない人達のことでとやかく言わない。それに君は既に辛そうだ。だからもう死に急ぐなよ。外に出られたんだから、もう死ぬことなんて考えなくていい」
予想外の言葉だ。いっそ奇妙な生物だと思う。人助けは趣味ではないと言いながら、ナナのことは自傷してまで助けた。彼はきっと澄んだ空気の中で生きていたのだろう。澱んだ空気の中にいたナナとは違う。とても眩しい、星の光のようだ。
「もっと早く会いたかったな……」
それだけ最後に言うと、ナナは神社に着くまでもう何も話さなかった。一人で生きていると問題が起こっても一人で解決しなければならないが、とても気楽で、自由を謳歌しているつもりだった。心の何処かで閉じ込められた自分が、悪いことをしたのだから死ねばいいと嘯き、その裏でずっと独りは寂しいと呟いていたことに気付かなかった。ずっとあの水の中に溺れていた。
名前を貰えたことが嬉しかったなんて、口が裂けても言えない。名前を貰ったことで、世界が鮮やかになってしまった。存在を与えられた気がした。
(私……辛そうにしてたのね……)
鳥居を潜って神社に戻った時、ニナはまだ眠っていた。薬がよく効いているようだ。ナナを社殿に下ろし、星火は置いた手紙を回収した。
「折れてるなら添木があった方がいいな。良さそうな物がないか探してくる」
「そこまでしなくていいのに」
「僕の怪我は手当てしてくれただろ」
「仕返しってこと?」
「一人で生きてると強がるようになる。そうしないと生きられないからだ。君は一人の時間が長くて……強がり過ぎだ」
他にも何か言おうとしたが打ち切り、ぴしゃりと言って星火は社殿を出た。長々と話している時間は無駄だ。
ナナは靴を脱ぎ、腫れた足を摩る。折れたと言ったが、捻挫しただけかもしれない。そんな気がしてきた。
神社の境内に生えている木から枝を折って戻って来た星火は、自分のために敷いた布団に寝ているナナを見て脱力した。
(子守は大変だな……)
脚に触れると起きるかもしれない。星火は隅に丸めてあった布団をもう一つ引き摺り、自分のために敷いて腰を下ろした。二人の寝顔を一瞥して苦笑し、銀笛の手入れを始める。
マニラタマリンドはメキシコやペルーなどの国で自生している木です。砂漠など乾燥した場所に生えてます。
色がとても綺麗です。甘いやつもあるみたいです。種子も食べられるとか。




