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壊れた空の迷い星  作者: 葉里ノイ


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5/8

5-灰色の世界


 星火(せいか)とニナは、彼の傷から糸が抜けるようになるまで神社で過ごすことになった。ナナは少々渋ったが、話し相手になってくれるならと承諾した。

 布団を敷いた社殿で星火は横になり、ニナはゴロゴロと暇そうに転がっている。教団の集落に居た頃と変わらないなと、彼女は暗い天井を見上げてぽつりと思う。

 ニナはころころと床を転がり、外へ繋がる戸をそろりと開けた。社殿の前でナナは布を敷き、適当に小さく切った魚と熊の残りを並べていた。

「……ナナちゃん、何してるの?」

「干してるの。保存食を作るのよ」

「干すと保存食になるの?」

「そうよ」

 ナナはニナの方へ一瞥すら向けず、布の上に肉を並べる作業を続ける。

「ナナちゃんはここに住んでるんだよね?」

「そうよ」

「ずっとここにいるの?」

「ずっとじゃないわ。雨が降ったら高い建物に移動する。お前達がここにいる間に雨が降って来たら、荷物を持ってさっさと避難するのよ」

「避難? 水没するの?」

「社殿の床は高いから中まで水が入ることはないけど、周りは水溜りになるわね。魚に囲まれて籠城したい?」

「!」

 水に囲まれて巨大な魚がぐるぐると泳いでいる光景を想像し、ニナは身震いした。そんな状況でゴロゴロ転がっていられない。

「お前、地下で育ったの? 星火と比べて随分と物知らずのようだし、地上で生きていく術を知らないみたい」

「…………」

「出自とか聞くつもりはないけど、もっと地上のことを知るべきよ。もし今回みたいに星火が動けなくて、私みたいに助けてくれる人がいなかったら、お前はどうするの?」

「……わからない」

「その言葉だけで、お前がどれだけ甘い環境で育ったかわかるわ」

「…………」

「ここにいる間、少しは地上を知っていきなさい」

 手は差し伸べないが、学ぶ機会は与える。安全な内に身を守る術を一つでも覚えられれば儲け物だ。

 ニナは俯いて床を見詰める。ニナは星火のように魚を追い払えるわけでも、足が速いわけでもない。ナナのように魚や熊を殺せるわけでもない。今まで地下でただ転がっていただけのニナにいきなり体を動かせと言われても、上手く動かす方法もわからない。星火の怪我が治るまでに何か身に付くとは思えなかった。

「自信な……あ。ナナちゃん、あれ何?」

「?」

 何を聞きたいのかとナナも顔を上げ、視線を辿って鳥居の向こうを見る。大きな鞄が歩いていた。人ではなく、動物でもない。

「ああ……あれは行商機よ。目がいいのね、お前」

「ぎょーしょーき?」

「その名の通り、行商してる機械よ。私がここに定住してるのを知ってるから、来てくれるの。頻度はそんなに多くないんだけどね。何か欲しい物があれば、星火に強請(ねだ)って買ってもらえば?」

「歩くお店!?」

 ニナは勢い良く体を起こし、布団に横になっている星火に駆け寄った。星火は目を閉じているだけで、眠っているわけではない。頭に響く足音で目を開ける。

「セイ! お店が来たよ! 行商機だって。何か買う?」

「……見てから決める」

「何売ってるのかなぁ」

 星火に手を貸して体を起こすのを手伝い、ニナは社殿の戸を大きく開けた。

 行商機はそこら辺の建物を漁るだけですぐに手に入るような物を売っているわけではない。滅多に見つからない物、人の手で作り出された物、食料、薬などを売っている。その多くは物々交換で仕入れた物だ。行商機は人ではなく機械なので、誰と何を交換したかなどは拷問しても絶対に答えない。もし珍しい物を交換し、その相手を明かしてしまえば、欲深い人間がその相手を襲いに行ってしまうからだ。その点を考えれば、機械は信用できる。

 ニナの身長よりも低いが、ガラクタを組み合わせてずんぐりと太った機械は二本足で歩き、その体よりも大きな荷物を背負っていた。円らな目が二つ、太い尾もある。尻尾で荷物を支えている。

「何カ、ゴ入用デスカ?」

「面白い物はある?」

「ドウゾ、ゴ覧クダサイ」

 行商機は荷物を地面に下ろし、腕を伸ばして鞄を開ける。

「機械……喋るんだ……」

「私はもう聞き慣れたけど、会話に支障が無いくらい喋るわよ」

「行商機って襲われて荷物を奪われたりしないの? その……奏者みたいな……」

 星火の前で奏者を例に出したくはなかったが、他に良い例えも浮かばなかった。星火はニナを一瞥するが、彼女の言いたいことはわかる。別に咎めることでもない。

「行商機を襲ったら蜂の巣にされるわよ」

「はちのす!? ……って何?」

「穴だらけ、ってこと」

「あ……穴だらけ……!?」

 どうすればそんなことになるのか、銃を知らないニナは疑問を浮かべながら震えた。

 話題に上がっている行商機は自分のことだと思っていないのか無視しているのか、黙々と商品を並べる。調味料に保存食、食べ物関連が多いが、護身用のナイフなども売っている。

「……その瓶は何だ? 透明の液体が入ってる」

「コレデスカ?」

 行商機は確認のために指を差し、星火は頷く。

「コレハ味醂デス」

「味醂!?」

 星火とナナは同時に声を上げた。ニナは何かわからず首を傾げているが、二人は動揺している。

「みりんって何?」

 二人は顔を見合わせ、喋ると傷が痛む星火はナナに説明してもらうことにした。

「味醂は調味料の一種で、酒よ。米で作るの。米なんてもう無いと思ってたわ……それとも米の代替物でもあるのかしら?」

 気になるが、何処で手に入れたかは教えてもらえない。悔しいが指を咥えているしかない。

「僕が買う」

「黙って怪我人。今すぐ糸を引き千切るわよ。私が買う」

「金なら……」

「行商機は金より物品! 私が作った干し肉と交換よ。今すぐここから放り出されたくなければ私に譲りなさい」

「…………」

 自分はともかくニナを放り出されては困る。星火は悔しいが、滅多に拝めないだろう味醂を譲ることにした。星火自身もこの負傷だと満足に笛を吹けない。手は動くが、腕と顔の負傷が演奏に支障を来す。ほぼ丸腰で地上を歩くのは危険だ。

「……わかった。味醂は譲る。他に米に関連した物はあるか?」

「米デスカ? 原材料ノ把握ハ困難デスガ、米ガアリマス」

「?」

 他人が作った加工品の材料は機械ではわからない。旧時代では原材料が丁寧に外箱に記載されていたが、現代でそんな義務は無い。それは理解できるが、最後の言葉が繋がらない。

「コレデス」

 行商機はくすんだ布袋を取り出し、開けて見せた。そこには白い艶やかな粒が詰まっていた。

「米!? ……っ、つ……」

 思わず大声を出してしまい、星火は顔を顰めて傷に手を当てた。まさか米そのものが出て来るとは思わなかった。米の材料など答えられるはずがない。米は米である。

「米ガ食ベテミタイト言ッテイタノデ」

 星火はそんなことを言った覚えはない。ニナも行商機に会うのは初めてだ。星火はナナの方を見、彼女は頬を紅潮させて初めて笑顔を見せた。

「大昔に言ったわ……見つけてくれたの?」

「機会ガアッタノデ」

「買うわ。干し肉、足りるかしら……」

 こうしてはいられないとナナは社務所に駆け込んだ。社務所を食料庫にしているらしい。社務所に入るのも階段があり、水没はしない。

 箱に一杯の干し肉を抱えて戻って来たナナは、行商機の品定めをそわそわと待つ。

「足リナイデスネ。価値ガ到底釣リ合イマセン」

「! やっぱり米は高いのね……今干してる分も合わせたら買えるかしら?」

「難シイ交渉デスネ。数ヲ用意シテモ味醂カ米、ドチラカデス」

 ナナは愕然とし、必死に頭を回す。目の前に喉から手が出るほど欲しい米があるというのに、金が無い。

「……じゃあ僕が買う」

「! 待ちなさい……その口、縫い付けるわよ」

「いや、僕が食べるわけじゃない。手当てしてもらって場所も提供してもらったから、お礼だと思ってくれ。少しニナにも食べさせてあげてくれれば、それでいい」

「お礼……? 何が望みなのかしら……」

「深読みしなくても、僕は何も望んでない」

「信じられない……お人好しなんて存在しないと思ってたわ。とっくに淘汰されてるものだと。しかもあの威張り腐ってる奏者……」

「僕は威張っているつもりはないんだが……」

「他の奏者のことよ。お前みたいなのは初めて」

 この時代では優しさは搾取され生き残れない。奏者だから許されているのかとナナは納得しようとしたが、それでも生き残っているのが不思議だ。彼は今まで見てきた奏者とは別の生物のようだ。

「……まあいいわ。吐き出せって言われても出さないんだから」

 星火が金を払い、一袋の米をナナが受け取る。精々一人前の米だが、確かにここに存在する重みに口元が綻ぶ。

「後は醤油と……ニナは何かいるか?」

「私もいいの?」

「ああ。僕が払う」

 ニナは社殿の階段を飛び降り、行商機が並べる商品の前に蹲む。調味料や食料のことはわからないので星火に任せ、気になる物を一つ指差した。

「これにする!」

「鞄か」

「うん。私も欲しかったの。拾った物を入れておけるし」

 星火の背負う鞄よりは小さいが、小柄なニナにはぴったりだ。試しに背負わせてもらい、ぴょんぴょんとその場で跳ねる。缶詰が十個ほど入りそうな布鞄だ。

「だったらニナにもカンテラが必要だな。あるか?」

「カンテラハ売リ切レデス。灯シ石ナラアリマス」

「灯し石は少し熱を発するからな……そのまま持つわけにはいかない。だが貰っておこうか」

 カンテラを手に入れた時のために買っておく。持ち運ぶことはできないが、待機する際に地面に置いて使用することはできる。

 星火とナナは束の間の買物を済ませ、行商機を見送った。行商機はどんな瓦礫でも乗り越え、水も渡る。生物ではない行商機は魚に襲われないのだ。何処でも食料を届けてくれる行商機はこの時代で重宝されている。

「米……どうやって食べようかしら?」

 突然手に入った垂涎の米にナナは頭を悩ませる。とりあえず必要無くなった干し肉の箱を社務所へ戻しておく。

 その時、ぽつりと冷たい物が頭を叩いた。ナナははっと我に返り、星火に叫ぶ。

「雨よ! 干し肉を社殿に引き上げて!」

「! ……わかった」

「あ、雨? 水没しちゃう!」

「まだ慌てなくていい。この雨量ならすぐには……」

 痛む腕を庇いながら星火は階段を下り、敷いている布の端を持って干している肉を包む。こうすれば一気に持ち運べる。

 その間に雨脚が激しくなり、乾いた地面が無くなった。

「……前言撤回だ。急ごう」

 社務所の高い位置に干し肉の箱を置いたナナは急ぎ折り返して社殿の中を確認する。肉は避難できたようだ。

「二人共、荷物を持って付いて来て。少し走るわ。走れないなら背負うけど、どう? 星火」

「僕は走れる。ニナを背負ってほしい。雨で滑って転びそうだ」

「米代だと思ってあげるわ」

 星火は鞄を背負うが、ナナは身軽に刀だけ腰の紐に差す。荷物を持てと言うが、彼女は持ち出す物が無いようだ。

 薄く溜まった水を跳ね、二人は近くに見えるビルへ走った。瓦礫を乗り越え、雨音が耳を支配する。

 五階建ての雑居ビルを駆け上がり、五階の一室へ迷わず飛び込む。避難する部屋は予め決めてあり、数日は過ごせるよう快適に整えられている。掃除された部屋には畳まれた布団の他にソファもあり、小さな台所もある。旧時代では何らかの会社の事務所だったようだ。

「ソファ、使っていいわよ。怪我人を優先してあげる」

「助かる」

 ナナはニナを下ろし、窓の外を眺めた。硝子を叩く雨は止む気配が無い。

「っくし!」

 背後で大きなくしゃみが聞こえ、ナナは無言で棚に置いていたタオルをニナに放った。風邪をひいて移されたくない。

「ナナちゃんは何も持って来なくて良かったの?」

「米は持って来たわ」

「見たい」

「しっかり拝むのよ」

 滅多に見られる物ではない米を机に置き、袋を開けて見せる。白く輝く宝石のようだ。ニナの瞳も輝く。

「わあ、これってどうやって食べるの? そのまま?」

「洗って炊くんだけど、詳しい遣り方を知らないのよね。たぶんだけど……星火、お前、知ってるわよね?」

「……何でそう思うんだ?」

「知ってそうだもの。初めて見たって顔じゃない」

「…………」

「黙ったって無駄。顔に書いてある。奏者は良い物たくさん食べてるって」

「……そのイメージ、やめてくれ」

「事実じゃなかったら否定してくれていいわよ。私も正しい知識が欲しい。ニナに食べさせてあげたいんでしょ? 米」

 そう言われると星火は何も言えなくなった。米など見たこともない、栄養不足のニナに食べさせてやりたい。

「確かに僕は米を食べたことがある。だが複雑な料理は……材料が足りない」

「材料の問題は仕方無いわね。シンプルな調理でいいわ。それと……星火、ある日の一日の食事を教えてよ。面白そう」

「覚えてない」

「嘘が下手ね。何処を縫い付けられたい?」

「私も知りたい! セイはどんなのを食べてたの?」

 逃げ場の無い狭い部屋で、星火は追い詰められた。ソファに座った所為で背凭れに阻まれ逃げられない。

「この際、一品でもいいわ。どんな米料理を食べてたの?」

 ナナは好奇心を手に込め、星火の腕を握った。そこは縫合した場所である。わざとだ。星火は眉を顰めながら耐えた。

「り……リゾット……」

「リゾット!」

 米をバターなどで炒めて炊き上げる料理であり、様々な調味料や具材を加える。つまり現代では九割以上の人間が一生食べられないような豪華で高価な料理である。ニナは理解できず怪訝な顔をしているが、ナナには心当たりがあるようだ。

「眩暈がするような言葉だわ。奏者って何処で米を入手してるの? まさか作ってる?」

「作ってる」

「成程……あの行商機、奏者の所で米を手に入れたのね。手持ちの材料で作れる簡単な米料理ってある?」

「僕は料理人じゃないから作れる料理は少ない。おにぎりなら……まあ……」

「いいわ、それで。奏者が握った物なら縁起が良さそう」

「奏者を何だと思ってるんだ」

 奏者の家系に生まれたと言うだけで特別扱いされることに星火はげんなりとする。だがちやほやされる内はまだ良いのかもしれない。

「おにぎりは作るから、一つ約束してほしい」

「何? 抱かせて、は無しよ」

「……。そういうのはいい」

「あら、冗談なのに」

「あまり名前を呼ばないでほしい。名前を呼ばれると奏者だとバレる。ニナみたいにセイと呼ぶか、適当に呼び方を変えてほしい」

「じゃあ私もセイって呼ぶわ。もしかして……知り合いの奏者が殺されたりした?」

「…………」

「頼られるくらいなら寧ろ嬉しいでしょ? 金を稼げるんだから。そんなに忌避するなら、嫌なことがあるはず。強盗に襲われた?」

「助けてもらったお礼だと思って話しているが……そろそろお礼の方が多くなってないか?」

「律儀なのね。別に無視してくれてもいいんだけど」

「君は悪い人には見えない」

 ナナは目を丸くし、堪らずに笑い出した。腹を抱えて笑い、机に腰掛ける。

「あははは! 私が人助けをするなんて只の気紛れよ。お前……セイとは知識の共有ができそうだから助けてるだけ。もし無断で鳥居を潜ってたら殺してたかもしれないし」

「……。その覚悟は一応している」

「ニナ、お前の保護者って面白いわね」

 何が面白いかはニナにはわからなかったが、機嫌が良いなら陰らせることは言わない方が良いだろう。ニナは幼いが空気は読める。

「ここで作っていいなら今からおにぎりを作るが、水はあるか?」

「あるわよ」

 そう言って台所の小型冷蔵庫を開ける。電気は通っていないので只の棚として使用している。

(きよ)め石で濾過した綺麗な水よ」

「米は、とにかく水がいる」

「そうみたいね。私、三角のおにぎりがいいわ」

「本当に物知りだな」

「知識を探すしか遣ることがないんだもの」

 星火が台所へ行き、空いたソファにナナが座る。少し間を開け、ニナも隣に座った。

「ニナは無知なのに地上なんて彷徨いて、何処かに行く途中だったの?」

「神社だよ」

「え? 神社が目的だったの? 何をしに……?」

「御守りを見に!」

「御守り……あの小さい袋のことかしら」

「あるの!?」

「あったけど、水で流れていったんじゃないかしら。探せばあるかもしれないけど」

「こういう御守り?」

 ニナは星火から貰った白い御守りを取り出して見せる。ナナは「へぇ」と興味深そうに指先で触れた。

「縁結び……じゃあ私達の出会いはこの御守りのお陰? 神仏は信じてないけど、運命とかって考え方は好きよ」

「セイはもっと持ってるよ」

「あら……強引に引き寄せられたのかしら」

 くすくすと笑うナナの視線が星火の背中に刺さり、彼の背筋にぞわりと寒気が走った。

「ね、ナナちゃんはどうしてあんなに強いの?」

「ん? そうね……刀を振り回してたらあんな感じになったわ」

 真面目に答える気などないようだ。ナナは脚を組み、止まない窓の外へ目を向ける。

「鯨も倒せる?」

「鯨? 鯨はまだ見たことないわね」

「この前見たの。すっごく大きい奴! この建物より大きい」

「へぇ……そんなに大きい魚は見たことないわね。殺せるかしら?」

「セイが笛で追い払ってくれたよ」

「奏者の笛って不思議よね。時代遅れだけど、その能力は評価してるわ」

「本当? セイは凄いんだよ!」

「気になってたんだけど、奏者の笛の音って深い水底まで届くの?」

「セイー、届く?」

「……試したことはない。だが深ければ深いほど音は散る。届かない場所はあるだろうな」

「じゃあ届かない場所から魚が一気に水面に上がって飛び出して来たら、さすがの奏者もお手上げなのかしら?」

 嫌な雑談だ。そう思いながら星火は米と水を入れた鍋を熱し石に掛ける。ナナもまた好奇心が旺盛で、知らない人などいないほど有名だが滅多に聞けない奏者の話を執拗に聞き出そうとする。

(家族に触れられないだけいいか……家族の話になるのが一番嫌だ)

 炊き上がるまで、近くにあった折り畳み式の椅子を引っ張って座る。錆びた脚が軋みを上げた。

 煩わしく思っていることを察したのかナナもそれ以上は尋ねず、米が炊き上がるまで雨の音だけが部屋に静かに流れていた。

 炊き上がった米は一人前といった量だったが、半分に分けて三角に握った。ナナが食べる方を少し大きくしておく。シンプルな塩握りだ。

 大きな手で小さなおにぎりを作るのは難しかったが何とか形になり、二つを皿に載せて二人の前に出す。二人は初めて見る物体に顔を寄せて凝視する。彼女達の目は艶やかな白い粒と同じくらい輝いていた。

「これが米……。味わって食べるのよ、ニナ。今後一生食べられないかもしれないわ」

「わかった。滅茶苦茶味わう」

「只の塩握りで、中には何も入ってないからな」

「米が詰まってるなら充分よ」

 ナナは星火にソファを返し、立ったままニナと同時に真っ白な塩握りを頬張った。貴重な米だが、躊躇わずに齧り付いた。

「!」

 二人は無言で咀嚼し、最初の一口を飲み込む。星火の言った通り味付けは塩だけで、炊き立ての熱がある。握り方は少々固めだが、粒を零さずに食べられる。

「噛むと甘みがあるわね……もう少し米があれば丼にしたかったわ」

「甘い……? そうかなぁ……」

「お子様にはまだ早かったようね」

「セイも食べる?」

「ニナが食べていい。苦手なら僕が食べ……ナナにあげろ」

 言葉の途中でナナに無言で見詰められ、彼女に譲った。

 ナナの視線が刺さったが、ニナは一人で塩握りを食べ切った。魚の方が美味しい。

 食べた後はうとうとと、ニナは雨音を子守唄に寝てしまった。星火はソファの端に寄り、大部分をニナに譲る。

 ナナは折り畳み式の椅子を運び、窓辺に腕を敷いて外を観察する。廃墟と木々に降り注ぐ雨は、天気予報など無い現代ではいつ止むのか全くわからない。灰色に烟る世界を眺めているしかない。

「ねぇ、星火達はこのあと何処に行くの?」

「……決めてない」

「ふぅん。じゃあついでだから教えてあげる。おにぎり代ね。こっちに来て」

「?」

 寛いでいた腰を上げ、振り向かないナナの所へ行く。降り続く雨は既に地上を浸水させていた。

「この方向に真っ直ぐ行くと、大きな水溜まりがあるわ。今は視界が悪くて見えないけど」

 指差す先を見るが、硝子を打って流れる景色の向こうは灰色に塗り潰されてよく見えない。

「湖みたいな大きな水溜まりでね、迂回するのは大変だから水の上を進むことをお勧めするわ」

「まさか泳げなんて言わないよな?」

「まさか」

 ナナは予想外の言葉に笑い出す。水中には魚がうじゃうじゃと泳いでいて、魚を退けられる奏者がいても、水に入れば笛は吹けない。泳げなんて無茶は言えない。

「ニナなら沈まず行けるわ。星火はどうかしら?」

「舟……か?」

「じゃあお楽しみってことで」

「水に関しては命が懸かってるんだ。巫山戯てられない」

「あら、水に限らず地上は全て命が懸かってるでしょ?」

「なら尚更、巫山戯てられない」

「その水溜まりの向こうには、()()()、ニナが喜びそうな物があるわ」

「……?」

「右の方へ行けば動物園がある。動物がいるかはわからないけど」

 星火の反応を待たずに、ナナは指先を動かす。その先には雨の幕があるだけだ。

「左の方へ行けばビル群があるわ」

「行ったことがあるのか?」

「さあ? どうだったかしら?」

「行ったことがないのに知っているのか?」

「昔ね、地図を見たの」

「地下鉄のか?」

「あー……もっと広域の地図ね。旧時代なら遊び場所として申し分無いわね、この世界は。今は全部廃墟だけど」

 楽しそうに、だが少し寂しそうに彼女は笑った。その声は灰色の雨音に溶けていく。

「……ずっと一人だったから、二人が行ってしまうと少し物足りないかも。揶揄うのって、一人じゃできないのよ」

「…………」

「あ、魚が跳ねたわ。美味しい魚かしら」

 目測で一メートル程度の魚だ。膝の上くらいまで水没していそうだ。

「星火、もし暫く雨が止まなくて、ここから出られなかったら、魚を狩るために笛を吹いてよ」

「奏者は古臭くて時代遅れなんじゃなかったのか?」

「あら、不貞腐れてるの? 水没して足場が無いと、狩った魚を拾う時に水に入らないといけないでしょ?」

「水に入るのか……?」

「私、泳げるもの」

「珍しいな」

「水没した地下集落から泳いで逃げたことがあるの」

 ぽつりと何気なく漏らされた言葉は、極自然に染み込んだ。地下にある集落は簡単に水に沈んでしまう。防水扉はあるが、それは絶対ではない。管理を怠れば劣化も早い。水没は珍しいことではない。

「それは……不運だったな」

「そう? でも、そうね……奏者に生まれなかった人達は皆、不運ね」

「奏者は別に……」

「私は奏者になれなくてもいいけど。時代遅れだもの」

 ナナは星火を揶揄っているだけだ。からからと軽い調子で笑う。

「星火、おにぎり美味しかったわよ」

「唐突だな」

「さっき言ってなかった気がして」

「ああ……聞いてないな」

「ふふ」

 ナナは途切れつつもぽつりぽつりと星火に言葉を投げる。星火は座って休みたかったが、ソファに戻ろうとすると言葉を掛けられる。どうやらナナは話し相手が欲しいようだ。会話も一人ではできない。

 名前も貰えず一人で暮らしてきた彼女は、久し振りに機械ではない誰かと会話をした。それは彼女にとって知識を得るより有意義なことだった。ゆっくりと話す機会を与えてくれる雨には、少しだけ感謝をした。


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