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壊れた空の迷い星  作者: 葉里ノイ


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4-神様の居場所


 集落から少し離れて三階建ての住宅を見つけ、その三階に潜んで昼を過ごした。地下から出た者は追わない決まりでもあるのか、追手が扉から出て来ることはなかった。

 夜になっても地下の扉は開かず、安全を確認してカンテラに明かりを点し、青年と少女は再び無人の街を歩き出す。

「集落で過ごして、追手から逃げて……この繰り返しだな」

「次は普通の集落がいいよ……セイの家でもいい」

「何で僕の家なんだ」

「だって、甘い果物を食べられるんでしょ? 魚も肉も」

「食べ物目当てなら止めておいた方がいい」

「もしかしてお菓子って奴も食べられたりする!?」

「あそこは羨むような場所じゃない」

「否定しない……ってことは、セイはお菓子を食べたことある!? どうだった? 美味しい?」

「……そんなに言うなら、取っておいたお菓子をやる。だから家のことは……」

「お菓子あるの!? 食べたい!」

 星火(せいか)は溜息を吐き、壊れて倒れているが安定性のある分厚い塀に腰を下ろした。カンテラを置いて革鞄を下ろして漁る彼に、ニナは目を輝かせる。

 鞄から出て来たのは円柱形の缶詰だった。

「これは乾パンの缶詰だ」

「缶詰は前に教えてもらった! 食べ物が入ってる缶だよね」

 蓋に付いているステイオンタブに指を掛け、ゆっくりと蓋を持ち上げる。小麦色の四角くて薄い物がぎっしりと詰まっていた。

「前に見つけたんだが、食べる機会が無くてな」

「私が機会になってあげる」

 缶を差し出されるとニナは指を迷わせる。どれも同じ形と大きさだが、どれを取るか迷ってから一枚抓んだ。生まれて初めての菓子だ。

「凄い……感動する。一生忘れない思い出になる」

「そんなにか?」

 缶の中をちらりと見、まだたくさんあることを確認して思い切って大胆に齧り付いた。

「ん!」

「どうだ?」

「んー……思ったより甘くない」

「美味しくなかったか?」

「いつものパンより美味しい!」

「それなら開けた甲斐があった」

 星火は安堵して微笑み、自分も乾パンを一つ抓む。旧時代に非常食として一般家庭にも備蓄されていた乾パンは、地上を探索していると偶にお目に掛かれる。大きな缶が多く、食べ応えがある。

「……形はクッキーみたいだが、乾パンはパンと付くようにお菓子じゃないかもしれないな」

「もっと甘いお菓子もある?」

「あるが、滅多に拾える物じゃない。ニナが良い子にしていて、飛び切り運が良ければ、見つかるかもな」

「そういうフワッとしたことはいいよ。私が良い子なんて、生まれた時から無理だって決まってるし」

 ニナの親が犯罪を犯したわけではないのだが、犯罪者の遠い子孫であろうと罪はあると思っている。世界を壊した先祖は罰を受けていないのだから、誰かが罰を受けなければならないのだと。

「僕はニナが悪い子だと思ったことはないが。素直で良い子だよ」

「! せ……セイが私を口説こうとしてる……」

「してない」

 星火の微笑はスンと引っ込んだ。ニナはにやにやと煽るように笑っている。

「……食べながらでいい。もう少し進もう」

「セイはもっと笑うといいよ。いつも無愛想だから」

「…………」

 星火が手に提げる缶からニナは乾パンを取って頬張る。それなりに気に入った。

「セイー、乾パンと一緒に入ってる白い石って何?」

「石? ああ……それは氷砂糖だ。飴はわかるか?」

「飴? 言葉は知ってる」

「乾パンより氷砂糖の方がお菓子だな。食べられる物だから食べてみろ。甘いから」

「甘いの!? 石の方がお菓子だったとは……」

「硬いから、舐めて食べればいい」

 ニナは早速、親指の先くらいの白い石を抓み上げる。少し透けていて、よく見ると綺麗だ。

「石は石でも宝石みたいだね」

「玩具の宝石か?」

 持った感じだとかなり硬そうなので、舐めることにする。初めて見る氷砂糖を凝視し、ぱくりと口に放り込んだ。

 舌の上に載った瞬間、今までに感じたことのない甘味が口の中に広がった。菓子どころか砂糖も珍しい現代で砂糖を舐めた経験は無いが、これは名前の通りに砂糖なのだと直感的に思った。

「甘い! 何これ凄い……美味しい……舐めてる間ずっと甘いよ」

 地上に出て来て一番の笑顔を見せるニナに、星火は少し安心した。逃げるために成り行きで地上に出ることになってしまったが、辛いことばかりではなくて良かった。こんな壊れた世界でも笑える、ニナは強い子だ。

「残しておいてくれたら、氷砂糖は料理にも使えるから使う」

「甘い味の魚になるの?」

「醤油があれば甘辛く煮込める……はずだ」

 料理はあまり得意とは言えないため、星火は少々自信が無い。だが氷砂糖は料理にも使えるはずだ。

「わからないけど美味しそう……」

 抓めばすぐに食べてしまえる距離にある菓子を我慢するのは難しい。ニナの指先は彷徨い、氷砂糖を掴もうとして慌てて乾パンに指を突っ込んだ。

「……珍しいな」

「ん?」

 小さく独り言を漏らした星火を、ニナは缶に手を突っ込んだまま見上げる。視線の先にはぽっかりと開く下り階段があった。

「集落の入口?」

「わからない。集落に利用している場合もあるが、出入口が崩落していない地下鉄は初めて見た」

「地下鉄?」

「旧時代の移動手段の一つだ。細長い箱に人をたくさん乗せて走る物があったらしい」

「細長い箱に……? 苦しくないのかな」

 荷物を運ぶ時に使用する窓の無い箱に人が詰め込まれている所を想像したニナは首を捻る。そんな移動手段は嫌だが、強ち間違ってもいない。

「下りるの?」

「いや……入口に扉の無い地下は水が溜まり易い。危険だ」

「じゃあ素通りする?」

「だがこんなに綺麗に階段が残っている地下鉄にはそう出会えない。下に何があるのか気になるな……」

「さすがセイ。そうこなくっちゃ。私も気になる。箱詰めされる移動手段、気になる」

 何だか出荷されそうな移動手段である。

 ニナは乾パンの缶を預かり、星火はカンテラを翳す。

「ニナは一歩後ろを歩け。階段の下が水だった場合、ニナまで水に入らなくていい」

「背後は任せろ」

 何を任せるかは知らないが、星火は階段に足を下ろした。階段は薄汚れており、瓦礫の欠片が転がり、罅割れから草が生えている。木の根が天井や壁を割って下へ伸びている。

 地下集落は人の住む場所として根があまり入り込まないよう細工されており、ここまで根が蔓延る光景を見る機会は殆ど無い。ニナもまた興奮を隠せずきょろきょろと見回している。

 階段は崩落している箇所も無く、ニナでも簡単に歩いて広い通路へ下りることができた。

「植物の生命力は凄いな」

「集落より広い……」

 ニナは思わず感嘆の声を漏らす。通路が狭く圧迫感のある地下集落の何倍も広い。通路の先に壁が見えない。明かりが点けば壮観だっただろう。

「水は無さそうだ。奥に行こう」

 乾パンの缶を抱いてニナは星火に寄り添い、辺りを見回し目を爛々とさせる。

 広い通路の壁に、突然真っ黒の壁が現れる。電気で表示される広告板だ。今は一切の明かりが無く、広告板も沈黙している。

「セイ、何か向こうが光ってるよ。生きてる機械があるのかな?」

 最初は疎らにぼんやりと、徐々に範囲を広げて壁や床が黄緑色に光っていた。それに接近し、カンテラで照らす。

「苔だな」

「苔が光ってるの?」

「いや、苔が発光してるわけじゃない。カンテラの光が届く所だけ光ってるだろ? 光を反射してる。苔は湿気の多い場所に生えるはずだが…近くに水があるのか? ニナ、滑らないよう気を付けろ」

 ぼんやりと光る苔はヒカリゴケだ。旧時代の洞窟などで稀に見られた珍しい苔である。機械化が進んだ旧時代では数を減らしていたが、空が壊れた後に生態が変化してこうして数を増やす生物は割といる。

 ヒカリゴケはカンテラほど明るくはないが、足元の障害物の位置は示してくれる。

「凄く綺麗だね、セイ。こんな場所ばっかりだったらいいのにな」

「地下は地上からは見えないからな。ニナが見たことのない不思議な景色が他にもあるかもな」

「本当!? 集落にいたら見られなかったね! セイに感謝しないと」

「感謝? 僕も必死だったからな……ニナが生きていればそれでいい」

「一緒にお墓に入りたいってこと?」

「飛躍させるな」

 光の道を歩き進むと改札口が現れた。星火は地下鉄は知っていても改札口は知らない。何だろうと首を捻り、向こう側の通路へ行く門のような物だろうと推測する。

 横に幾つも同じ物が並んだ門を通過する。ニナは楽しそうにバシバシと叩きながら門を通過した。

 カンテラに照らされる通路に、黒い壁ではなく色が出て来る。褪せていたが、機械化が進んでいた世界では珍しい物だった。

「……紙だ」

 壁に等間隔に紙のポスターが何枚も並んでいた。地上では中々見られない物だ。

「ニナ、安心していい。水に弱い紙がここまで綺麗に残っているなら、水が近くにあったとしてもここは水没の危険は無い」

「やった。――あ、ねえ、あれ何かな?」

 並ぶポスターの中で気になった一枚を指差して駆け寄る。変な生き物がたくさん写ったポスターだ。

「首が長いのと、鼻……? が長いのと……あっ、この隅の可愛い! 持って来なかったけど、前に貰ったぬいぐるみと似てる」

「動物園のポスターだな。キリンと象、隅のは兎だ」

「どーぶつえんって?」

「多くの珍しい動物を飼育して展示していた施設のことだ。キリンと象は人の何倍も大きいらしい。地上で見ることもあるかもな」

「え!? こんな変な生き物がいるの!? そんな大きいのが地上に……? 食べられる……」

「今言った動物は草食動物で、肉は食べない」

「良かった……」

「こっちの虎や熊は肉を食べるから、食べられないようにな」

「急に怖くなってきた……」

「魚以外の動物は滅多に見掛けないから、頭の隅に置いておくだけでいい。地上で見掛ける頻度が高いのは鳥だ。鳥は障害物の無い空を飛ぶから、居れば目立つ」

「鳥も人を食べる?」

「屍肉を漁ることはあるかもしれないが、食べるために襲うことはないはずだ。鳥肉は最も手に入り易い肉で、僕も食べたことがある」

「に、肉……! 私も食べられる?」

「飛ぶ鳥は仕留められないが……低い位置にいれば魚を利用して仕留められるかもな」

「奏者の笛ってそんなことに使っていいの?」

「使い方にルールなんて無い」

「言ってることは不良だけど格好いいな」

 動物の写真を目に焼き付け、止まっていた足を動かす。

 暫くもしない内に今度は星火が足を止めた。

「これは……地図だな」

「地図はわかるよ」

「近くに神社があれば方向が……ん、あるな。あまり大きくは無さそうだが」

「神社あるの? そこに行こう!」

「覚えられるが、念のためにメモを取る」

 星火は鞄を下ろし、防水袋に入った紙と鉛筆を取り出す。地上では廃れた物だが、地下では現在も紙は使用されている。

 ニナに記憶力が良くないと言われたことを気にしているのだろうかと思いながら、ニナはカンテラを預かり大きな地図を見上げて書き終わるのを待った。

 大雑把に書き写して鉛筆を仕舞って鞄を背負う星火にカンテラを渡し、ニナは乾パンを一つ頬張る。

「この先に出口があればいいが……先に進むか? 戻るか?」

「先に進みたい」

「わかった」

 ポスターの列はやがて途切れ、下り階段が現れる。下りなくてもその先にも道は続くが、向こうに同じような下り階段がある。

「……下に下りろと言ってるみたいだな」

 階段の上から照らすが、ヒカリゴケの光は下まで届かず闇に沈んでいる。

「深いな」

「一歩後ろを歩けばいいんだよね?」

「下りるのか。……まあいい、見てみよう」

 足元を照らし、水が無いか視覚に集中する。

 床まで下りるが、警戒を余所にそこは乾いていた。胸を撫で下ろす。

「……いや、水があるな」

 ニナを階段の下に置き、星火は途切れている床の向こうにカンテラを向けた。低くなった地面に水が溜まり、壁に生えるヒカリゴケの仄かな光が映って水面に星を散らしている。その透けた水底に線路が見えた。魚も疎らに泳いでいる。星火の立っている床から水面の高さは僅か数センチメートルで、乾いた床も何れ水没しそうだ。

 左右の闇を見、終わりが見えない川に肩を落とす。

 然程離れていない背後も同じように床が途切れ、水が溜まって魚が泳いでいる。こちらも底に線路が伸びていた。

「……ニナ、これ以上は無理そうだ。上がろう」

「大きい魚いた?」

「大型はいなかった」

「食べられる?」

「やめよう。水が深い。僕は狩りが得意じゃない」

「残念だな」

 背中を押され、ニナは渋々階段を上がる。星火も続こうとし、ふと違和感を覚えて振り返る。

 通路の奥、闇の中に光る二つの点が見えた。

(何だ……?)

 止まっていた二つの点は上下に動き出す。まるで何かが歩いて近付いてきているようだった。

「……ニナ、なるべく早足で上がれ」

「うん?」

「振り返るな。早く」

 疑問はあったが、ニナは足を速めた。星火が走れと言わないのは、治って間も無い彼女の足を気遣ってのことだろう――ニナはそう思いながら上がるが、まさか背後の何かを刺激しないためとは思わない。

 ニナが階段を上がると星火は更に急かして走らせた。結局走らされ、ニナは頭に疑問符を増やす。

「セイも早く神社に行きたいってこと?」

「喋るな。舌を噛む」

「む……」

「後ろから何かが追って来てる」

「!」

「だから、振り返るな」

 ニナの背を押し、星火も階段を上がり切る。強く押し過ぎたようで、体勢を崩して乾パンが幾つか床を叩いた。

 その音に反応したのかは不明だが、階段の下で石を爪で掻くような音がした。小さな音だったが、警戒が感覚を鋭敏に尖らせていた。

「またか……!」

「え?」

「落とさずにしっかり持ってろ」

 星火はニナを抱え上げ、彼女も驚いて缶を抱き締める。

 集落を出てから走ってばかりだ。もっと体力を付けることを検討しておく。

 通路を戻って改札を出、来た道ではなく反対の方向へと走った。掠れた出口の表記と、先程の地図がこちらの道の方が神社に近いと示していた。階段を下りなければ、幸い水の心配は無い。

「わ、え? 何か追いかけて来る!」

 両目を光らせた黒い塊が上下に揺れて接近する。かなり速い。

「追い付かれる……ニナ、試しに乾パンを幾つか投げろ」

「わ、わかった!」

 奏者の銀笛(ぎんぶえ)は魚を鎮めるための物だ。それ以外の生物に聴かせたことは無いが、効果があると聞いたことはない。笛を吹くためには立ち止まらなければならず、効果もわからない相手にそんな危険は冒せない。

 小さな手で鷲掴みした乾パンを投げ、床を打つ音が離れていく。追う何かは速度を落としたが、乾パンには目もくれず再び速度を上げた。

「効かないよ!」

「動きからして何らかの動物だな……僕達を追うなら肉食獣か?」

「肉食!? 食べられちゃうの!?」

「下の水にいた魚を食べて生活していたのかもな……そこに飛び込んできた僕達を食料だと思って追い掛けてきたのか」

「何でそんな冷静なの!? ……あっ、後ろの奴、滑ったよ」

「苔に感謝だな」

「セイは滑らない?」

「靴に滑り止めが付いてる」

「凄い靴だ」

 角を曲がると上り階段が現れる。正念場だ。

 だが相手の方が足が速いのだから、階段で差は縮まる。

 しかも飛び出した地上は、目の前に大きな水溜まりができていた。近くに生きている街灯があり、水面がよく見える。階段の上は地面から一段高くなっていて地下には水が流れ込まないが、これから向かいたいのは水の向こうだ。

「已むを得ない。突き切る」

「ええ!?」

 水位は足首までだが、小さな魚の姿が見える。笛を吹く余裕は無く、飛沫を上げて飛び込んだ。

 旧時代の魚なら水面を叩けば驚いて逃げることだろう。だが現代の魚は逆に寄って来る。現代では人間が魚を狩るのではなく、魚が人間を食う。水面に何か飛び込めば、餌だと思って近付いてくる。

 浅い水には大型の魚はいない。大きくても平らなら踏めば良い。小さな魚なら蹴散らせる。

「奏者って……もっと賢くて格好いいと思ってた」

「こんな場面で頭を使う時間は無い」

 水の中では陸上の生物なら動きも鈍るだろう。そう思いながら星火は背後を一瞥する。黒い大きな塊が階段から飛び出して来た。

「――熊か!」

 街灯に照らされ、漸くその姿を捉えられた。星火とそう変わらないだろう体躯の大きな熊だ。

「ぁ……わ……」

 動物園のポスターに写っていた熊は野生を忘れた温厚そうな顔をしていたが、野生の熊は凶悪な顔をしている。

「食ってやるぞって顔してるよ! セイ!」

「あんまり喋るな。舌を噛む」

 瓦礫を跳び越え、何とか水溜りを抜け出す。最後に蹴り上げた水と共に小さな魚が地面に打ち上げられ、ぴちぴちと跳ねて必死に水へ戻ろうとする。

 熊も水でやや速度が落ちたが、乾いた地面に乗ってからは速かった。熊はあっという間に距離を詰め、大きな腕を振り上げる。

 避けられない。片腕に抱えたニナにだけは当たらないようにと星火は体を捻って彼女を隠した。

「……っ!」

 熊の前に出すことになったもう片方の腕を、大きな爪が抉る。

(駄目だ……逃げ切れない!)

 もう一方の爪は星火の頭を狙い、咄嗟に地面に転がった。毛先が爪に掠るが、頭は無事だ。ニナを腕の中に隠すように抱き、星火は耐えることを選んだ。ニナだけ逃すことも考えたが、彼女に狙いを定められた場合、彼女は抵抗も耐えることもできない。

 背中の丈夫な革鞄を熊に向けて身を縮めるが、そう上手くはいかない。熊の爪は容赦無く星火の頭を狙った。

「ぐっ……!」

 胸に顔を押し付けられ、ニナは声が出せない。抱き締める力が強くなると彼女は震えて彼の服を握った。

 魚は危険だ。大型が跋扈する水には近付いてはならない。管理されていない地上など以ての外だ。そう教えられる現代の人間が、魚ではなく陸上の熊に襲われるなどどうして想像できるのか。

(どうしよう……! 星火が死んじゃう!)

 折角手に入れた自由が、幕を下ろそうとしている。

 武器の一つも無い、非力な少女には何もできなかった。

 小さく呻く声が、ニナの目に涙を溢れさせる。このまま動かないことが正解なのか。ニナの体は恐怖で震えて動かなかった。

(星火ぁ……!)


「私の縄張りで、何してるの?」


 いつの間にそこまで走っていたのか、見上げられる距離に大きな石の鳥居が立っていた。

 その上から壊れた空を背に髪の短い十代の半ば程の少女が、細長く鋭く輝く物を手に冷ややかに見下ろしていた。

「聞く耳はまだある?」

 少女は鳥居の脇の柵に飛び降り、地面へと降り立つ。顔を上げずに星火を殴り続ける熊に向かい、細い物を嫋やかにその黒い首へ振った。硬い肉と骨にそれは食い込み、両手で握った柄に体重を乗せて振り抜く。熊の首は一瞬宙に浮き、重く鈍い音を立てて地面に転がった。まだ脳からの命令が残っている太い腕も宙に刎ねる。

 漸く熊は力を失って倒れ、少女は丸くなっている青年に目を遣った。頭と腕から血を流して動かない。その腰に少女は靴底を当てて一度揺らした。

「生きてる?」

「…………」

 呻き声と殴る衝撃が無くなり、腕に抱えられていたニナはゆっくりと顔を出した。押さえ付けていた手の力はもう彼女にさえ振り解けるほど弱々しかった。

「子供? この子を守ろうとしたの?」

「…………」

「耳はまだ付いてるみたいだけど、気を失った? ……久し振りに人間と話をしたいし、手当てしてあげようか?」

 少女は血の付いた長い刃を一度振り、布で血を拭って鞘に納めた。

「子供、鞄が重いからお前が持って」

「……わ、わかった……」

 まだ涙が溢れるが、ニナは手当てすらできない。この知らない少女に従うしかなかった。

「セイは……生きてる……?」

「頭は付いてるし、鼓動も聞こえる」

 それを聞き、ニナは急いで星火から鞄を下ろし、落ちていたカンテラも拾う。

 少女は自分の身長よりも大きな星火を背負い、鳥居を潜った。

「本当は誰も入れたくないんだけどね。話をしたら出て行ってもらう」

「ここに住んでるの?」

「そう」

「地上に住んでるの……?」

 少女はそれ以上は答えず、背負うことに集中した。何せ気を失った体は重い。

 ニナは神社を知らないが、ここは特別な場所なのだと察した。他の場所とは空気が違う。広い空間に木が何本も生え、見たことのない形の建物がある。木は地面が割れて生えているのではなく、元々地面が舗装されていなかったようだ。石畳の道を歩き、階段を上がって奥の厳かな社殿へ入る。

「床が割れてる所があるから気を付けて」

 中は然程広いとは言えないが、集落に居た頃のニナの部屋よりは広く、奥には小さな階段と何かを置く台のような物がある。

「御神体は疾うに無くて空っぽだから、行儀が悪くてもバチは当たらないわよ」

 端に丸めていた布団を広げながら、少女は冗談を言う。だがニナには御神体やバチが当たると言われても、知らないことばかりだ。

「切り刻んでやりたいけど、服を手に入れるのも大変だから脱がすわね。手伝って」

「う、うん……あっ! これ……使えるかな!?」

 星火の鞄の中から赤い液体が入った瓶を取り出す。彼から流れる血を見て思い出した。

「それは何?」

「お医者さんが言ってた……万能薬があるって。きっとこれのことだ! セイも薬だって、木から採ってた」

「どんな木?」

「大きいキノコみたいな木だよ」

「……ああ。その医者に知識が無いか、変異してるのね。今回は使わないけど、貰っておくわ」

 少女は何かを納得したように、瓶を受け取った。

「え? 使わないの!?」

「だって乾燥させないと。それにこういう傷に塗る薬じゃない」

「……確かに私の傷には塗ってなかった……で、でも、お医者さんは、知識じゃわからないことがあるって……言ってた気がする……」

 教団の集落を出てから立ち寄った若者ばかりの集落で、ニナは医者のウルキから怪我の手当てを受けた。そして星火が食料を調達しに行っている間、ニナはウルキと二人切りになり、少し話をした。ウルキは医者と呼ばれているが医学を学んではおらず、独学で判断して処置をしていると。現代では学ぶ場所などなく、旧時代の知識は入手が困難だ。その中で思い付くことを試しながら、医者と呼ばれるまでになった。

 星火が聞けば会話になっていたかもしれないが、ニナは話を聞くことしかできなかった。その話の中で、赤い万能薬があると彼は教えてくれた。それが彼を一気に医者に押し上げたのだと。

 この世界の生物は多かれ少なかれ変化している。旧時代の知識ではわからないこともあり、最早使えない知識も多い。

 少女は会話をしている余裕が星火にあるとは思えず、ニナには答えず彼に目を戻した。

「頭を守るために腕を犠牲にしたのね。千切れなかっただけマシかしら。鞄も良い物みたいね」

 負傷した腕を袖から抜く時に眉を一層顰めて小さく声が漏れたが、構っていられないので少女は無感動に引き抜いた。上半身を裸にし、カンテラに明かりを点けて置く。そして少女は裁縫道具を取り出した。

「私、裁縫は得意なの」

 傷口にこびり付いた邪魔な血や汚れを拭い、道具箱から細い針を取り出す。

「子供、離れてなさい。それから、持ってる食べ物を全て出しておいて。私の縄張りに入ったんだから、通行料よ」

「た、食べ物……」

 血の気の引いた肌に糸を通した針を刺すのを見てニナはびくりと目を逸らし、持っていた乾パンの缶を見下ろす。折角貰ったのに、あまり食べていない。だが星火とニナを助け、彼の手当てまでしてくれている彼女に何も礼をしないわけにはいかない。

「わ、私は、食べ物に入る……?」

「は? 人間なんて食べたら病気になりそうなんだけど」

「よ、良かった……」

 ニナは壁際まで下がって座り、乾パンと氷砂糖をこっそり一つずつポケットに仕舞った。残りは缶ごと前に出す。その隣に名残惜しく、地下森林で拾った赤い実の袋も置いた。星火の鞄にも食料が入っているかもしれないが、言われたのはニナだ。星火の鞄を背負い、大事に守る。

 外が明るくなる頃には手当てが終わり、一仕事終えたと少女は深呼吸をする。

「しつこく目を覚まさないわね。いつ起きるのかしら?」

「手当て、できた……?」

「できたけど、まだ暫く寝たいみたいね。私は起きてるから、お前は寝ていいわよ」

「私も起きてる」

 ニナは閉じそうになっていた両目を見開いて立ち上がった。またすぐに瞼が下りそうになるが耐える。いつもは星火が警戒して、ニナは安心して眠ることができた。今日はニナが警戒して星火を守るのだ。

「私はさっきの熊を処理してくるから。布団は勝手に使っていいわよ」

 少女も立ち上がり、カンテラを持ってニナの置いた食料を見下ろす。乾パンはわかるが、隣の袋がわからない。拾って口を開くと小さな赤い実が詰まっていた。

「……これは?」

「木の実だよ」

「木の……? へぇ、珍しい」

 甘い物など久し振りだ。少女は一粒抓んで舌で転がし、ゆっくりと歯で潰した。

「にが……」

 すぐに険しく眉間に皺を寄せ、緊張した面持ちで見上げるニナを無言で見詰めた。

「鳥の餌にはなるかしら……」

 赤い実の袋を持ったまま、少女は社殿を出て行く。外で口の中の苦味を吐き捨てた。

 明かりを持って行かれたので社殿の中は暗くなり、ニナは慌てて星火のカンテラに光を灯した。

 照らされた星火の顔は少し迷惑そうな顔に見えたが、声は出ていない。寝息は静かだが、生きていることがわかる。上半身に彼の上着が掛けられているので縫合した傷は見えないが、顔には隠し切れない傷が幾つもある。上手く避けたのか幸い顔は抉れていない。

(痛そう……。私にできること、何かないのかな……)

 布団の傍らに腰を落とし、カンテラの光を少し離す。星火を護衛として雇っているが、こんな怪我を負うような護り方をされるとは思わなかった。警戒するのは魚だけだと思っていた。魚なら銀笛で追い払える。奏者の星火が居れば安心だと高を括っていた。

 星火の眠りを守るつもりだったが、睡魔には抗えずニナは彼の隣で眠ってしまった。誰も起こす者は無く、平穏だった。

 陽が暮れ始め、先に目を覚ましたのは星火だった。妙に重い瞼を開け、朧げな視界に見慣れた穏やかな寝顔が映る。

「ニ……」

 名前を呼ぼうとして頬が攣り、痛みで顔を顰める。顔は傷だらけで、縫合した傷や瘡蓋になった傷が突っ張る。

(ここは……?)

 床に直接敷く布団なんて、地上では滅多に見ない。カンテラに照らされる床は板張りで、穴が空いている所もある。その向こうには木の格子の戸がある。

(相当古い……和風の建物……。神社か……? ニナがここまで僕を? ニナの力で運べるのか……? いやそれより、僕は生きてるのか……?)

 刀を持つ少女が助けてくれたことを星火は知らない。彼女が現れた時にはもう星火の意識は無かった。

 見る限りニナに怪我は無く、寝顔も穏やかだ。あの凶暴な熊をどうやって退けたのか、疑問が尽きない。

(手当てなんてできたのか……)

 まだ上半身が痛くて起き上がれそうにない。最初に庇った片腕と、顔や頭にガーゼや包帯が巻かれている。体に被せられた上着も、裂かれて空いた穴が綺麗に縫合されていた。

(もう少し……休むか……)

 再び目を閉じ、静寂が幾らか過ぎた頃、ニナもハッと目を覚ました。起き上がる衣擦れの音で、星火も閉じていた目を開ける。

「せっ、セイ! 起きたの!?」

 口を動かすとまた痛みが走るため、星火は小さく頷く。頭を動かすだけでも痛かった。

「あ、あのね、知らない女の子が助けてくれたの! 熊の首と腕を切って、スパーッて! それから、セイの手当てもしてくれたんだよ!」

 星火の疑問が一気に解け、助けてくれた人がいるらしい感謝と、親切さに警戒をする。

「…………」

「セイはどうしたら元気出る……? お腹空いた? 食べ物全部出せって言われたけど、乾パンと氷砂糖を一つ取っておいたから食べる?」

 星火は無言で首を横に振る。

「いらないの……?」

 乗り出していた体を戻し、ニナは離していたカンテラを引き寄せた。

 同時に背後で戸が開く音がして振り返る。壊れた街を背に、少女が肩に大きな魚を担いで立っていた。

「!?」

 ニナと星火は目を瞠り、星火は顔の皮膚が攣り眉を顰めた。

「起きたの? それじゃ御飯にしましょう。布団ごとここまで引き摺ってきて」

「は、はい!」

 踵を返す少女に遅れを取らないよう、ニナは星火が横になる布団を掴んで力の限り引っ張った。

「ぐぅ……っ」

 少しは動いた気がするが、あまり滑らない床のようで、進んでいる気がしない。

 布団が動く気配が無いので星火は痛む体に鞭打って無事な片腕を付いて起き上がり、無事な足で歩いた。ニナは漸く布団を引けるようになり、空っぽの布団を戸の前へ引っ張った。

「わ、あ……うわ……」

 社殿の外には大きな鍋があり、その向こうには剥いだ熊の毛皮や骨が転がっていた。ニナは思わず身を引いた。

 星火も布団の上にゆっくりと腰を下ろし、担いでいた大きな魚を刀で捌こうとする少女に面食らう。

「久し振りの魚以外の肉を持って来てくれたお礼よ」

 鍋の中にはぶつ切りにした熊の肉が入っている。それを灯し石を置いて作った即席の焜炉の上に載せている。

「男ってのは体が大きいからよく食べる生き物でしょ? おまけに怪我もしてる。熊だけじゃ足りないと思って、魚も狩ってきたわ。魚を食べるのは初めてかしら?」

 ニナはそろりと星火に横目を向ける。凶暴な魚を食べようとする人間など、星火だけだと思っていた。

「お前、奏者でしょ?」

「!」

「隠しても無駄よ。鞄の中に笛が入ってたもの」

 ニナははっとし、急いで鞄を下ろして中を確認した。銀笛がきちんと中に収まっていて安堵する。

「寝てる間に鞄は開けたけど、何も盗んでないわよ。盗んだらお礼をする意味が無いじゃない」

「奏者と……知って、助けたのか……?」

 顔は痛むが、ここは星火自身が話すべきだろう。痛みで息が上がるが、話せない程ではない。

「別に。奏者なんて古臭いことやってるのね、と思っただけ」

「古臭い……?」

「奏者は笛で魚を追い払うだけでしょ? 古いのよ。これからの時代は魚を追い払わず、ぶち殺す」

「…………」

「ただ殺すだけじゃないわよ。食べるの。貧しい食料問題も一気に解決ね」

「魚は食べたことがあるが……」

「! ……気に入ったわ」

「…………」

 何故気に入られたのかわからなかったが、気に入ったのなら悪いようにはしないだろう。

「じゃあこの魚は何かわかる?」

「……名前までは知らないが、食べたことはある」

「地上で生きる人は知識がある。知識がないと地上ではすぐに命を落とすから。お前も知識があるのね。これは巨大キングサーモンよ。さすがキングね。しかも孕んでる。運がいいわね。ご馳走を作ってあげる」

 その魚は体長が二メートル程もある。旧時代にここまで大きなキングサーモンはいなかったが、現代ではあらゆる生物に変化が起こっている。常識など無い。大型化もよくある現象だ。

 地面に綺麗な布を敷き、少女は魚の腹を一息に裂く。輝く赤い粒の塊が腹から溢れた。イクラだ。

「米があれば良かったんだけど、さすがにこの時代じゃ手に入らないわ。水を恐れてるのに、水田なんて誰も作らない。それに小さな一粒一粒の殻を手で剥いて……茶碗一杯に何粒入るのかしら……気が遠くなる」

「詳しいんだな」

「空が壊れる前のこと、気になったから」

 手慣れた様子で魚を捌きながら、少女は寂しそうに笑う。滅んだ世界が地上に残っているというのに、機械化が進んでいた所為で資料を得られる場所が極めて少ない。少女が知識を得るまでの苦労が窺える。

「――そうだ。お前達、名前は?」

「ニナ」

「……セイ」

 少し悩んだが、星火は本名を名乗らなかった。少女は途端に目を細め、感情を消す。

「へぇ、私を信用してないのね。お前の笛は見慣れない星の刻印があったから、名家の出だと思ったんだけど。名家の奏者は星の名を持つって知ってるのよ? 肉はお預けかしら?」

 ニナは星火を見上げる。ニナの目は既に目の前の肉に興味津々といった感じだ。涎が垂れそうな顔をしている。それに気圧される。

「……君が名乗れば、僕も言う」

「あら? 私まだ言ってなかった? それは失礼。私は名無しよ」

「名無し……?」

「名前が無いの。親に名前を貰えなかった。私を呼ぶ人もいないから今まで不便は無かったんだけど、お前達は不便?」

「……星火、だ」

「ふふ。こんな名無しに教えてくれてありがとう。私を呼ぶ時は適当に呼んでくれていいから」

 丼鉢に細かく千切ったパンを入れ、切った橙色の美しい魚肉をこんもりと載せ、零れそうな輝く筋子を切り分けてその上に置く。最後に醤油を回し掛けて完成だ。

「貧弱で高慢な奏者しか見たことがなかったけど、お前みたいな体を張る度胸のある奴は好きよ。――はい、食べて」

 星火とニナに丼鉢とスプーンを渡し、名無しの少女も社殿前の階段に座って丼鉢を抱える。旧時代に食用として広まっていた生物が水面に出て来るのは珍しい。古生物の方が獰猛で、食い散らかしてしまうのだ。なのでこの特盛りサーモンイクラ丼は貴重なご馳走である。

「食料には、苦労してなさそうだが……」

「魚はあちこちにいるけど、熊は珍しいのよ。近くの動物園の生き残りかしら?」

 星火は名無しの少女に警戒を続けるが、演技を見抜ける自信は無い。もし見抜けるなら集落で追われずに済んだだろう。少女の親切はいつまで続くのか、気が休まらない。

 ニナは見慣れない鮮やかな色の魚肉と魚卵を見下ろす。魚肉を見ていると今までの――集落を出て歩いて来たことが、水中で浮かび上がろうとする泡のように脳裏に浮かんできた。水のようにそれは頭の中に湧いてきて、ぽろぽろと目から零れた。

「ニナ……?」

「?」

 星火と少女も訝しげに彼女の様子を窺う。

「変わった色かもしれないが……食べられる」

「ああ……赤い卵が怖いの?」

 ニナは首を振り、鼻を啜りながら訥々と言葉を拾った。

「……違う……。セイが……」

「僕?」

「もう、護衛なんていい……」

「…………」

「私が……集落から出なかったら良かったの……殺されてれば良かった……」

「……ニナ」

「護衛なんて、もういい……頼んで、ごめんなさい……」

「ニナ」

 星火は丼を置き、ニナの頭に手を置いた。負傷していない手だが、上げると体のあちこちが軋んだ。

 ニナはまだ十歳だ。産まれた時から罪人の子孫として祭り上げられていたが、まだ幼い少女だ。箱入りの日常だったが安全は保証されていた。なのに突如それは壊れ、命を狙われ、集落を捨てることになった。好奇心旺盛な性格が恐怖と不安を隠していたが、話にだけは聞いていた危険な地上で本当の危険を経験し、好奇心では隠せなくなってしまった。星火が死にそうになった実感が、徐々に湧いてくる。

「僕は、ニナに嘘を……吐いていた。謝る」

「嘘……?」

「護衛の……前金を、貰っていたと言ったのは、嘘なんだ」

「!」

「後払いだった。だから寧ろ、最後の数日は……タダ働きだ」

「じゃあ……何で……?」

「ニナとの付き合いも……長いからな。勝手に、体が動いた。それに……怯えている子を、無視して……目の前で死なれたら、寝覚めが悪い」

「…………」

「死に掛けたが、ニナを庇って……後悔はしてない。あのまま死んでいても……少しは、後悔したかもしれないが……気にする程じゃない」

「……よくわからない」

「人の気持ちを……理解するのは、難しい。だが……護衛解雇と言うなら、無理には……。この人の方が強いから、この人に付いて行くのも、アリだ」

 突然話に上げられた少女はスプーンを落としそうになった。

「星火って人助けが趣味なの?」

「趣味じゃない。君こそどうなんだ」

「ふぅん? 私も趣味じゃないわよ。私は子守りなんて嫌よ。お前達って兄妹なの? 恋人ならちょっと歳が離れてる気がするし。まあ恋人だったとしても否定はしないけど」

「こ、恋人……!?」

「どっちも違う」

 途惑うニナに対し、星火はすぐに否定した。

「ま、どうでもいいけど、とりあえず食べない? 折角新鮮なんだから」

「…………」

「ニナ……だっけ? 恩人の前で否定するのは止めた方がいいわよ。折角助けた命、否定したら恩人が浮かばれない」

「僕は生きてる」

「こういう時は感謝だけすればいいの。さあ食べて。食べないと殺すわよ」

 滅茶苦茶だ。

 ニナはスプーンを見下ろし、気が乗らないながらも言われた通り魚を少し掬った。人参のような橙色の魚と赤い卵なんて今まで見たことがない。綺麗だとは思うが、本当に食べられるのだろうか。

 赤い木の実のように苦いのではないかと警戒しながら歯の先で齧り、口の中で弾けて驚く。予想に反した味に間髪容れず、スプーンに山盛り掬った。それを大きな口を開けて頬張る。弾けるイクラに、脂の乗った魚肉が蕩ける。

「おいひい!」

「気に入ったみたいで良かったわ。お腹が空くと余計なことを考えるものよ。子供は余計なことなんて考えずにヘラヘラ馬鹿みたいに笑ってればいいの」

「馬鹿は嫌だけど……」

「それで死んだら仕方無い。それだけ」

 辛辣だが、丼の美味さが余計な思考を霞ませる。考えた所で解決まで行けない幼い頭では、考えても落ち込んでしまうだけなのかもしれない。

 星火は大口を開けられず、スプーンに少しだけ載せてゆっくりと味わう。久し振りに食べたが、やはりこの鮮やかな魚肉は美味しい。

「……君は、奏者が貧弱だと……言っていたが、それは、おそらく僕の……血筋じゃない。血筋以外の、奏者は……笛の効果が弱い」

「そうなの? 会った奏者全員の笛は確認してないけど、じゃあ血筋に会うのは初めてね」

「そうか」

「お前が私を警戒する気持ちはわかるわよ。奏者は金を持ってるって皆知ってるから。殺して金を奪おうとする」

「…………」

「安心して。私はそういうの興味無いから。もし金が欲しいなら、何度も奪う機会があったしね」

 二人は会話を切り、丼を掻き込むニナに釘付けになる。もう涙は止まっている。何も考えていない良い食べっぷりだ。単純な子供だ。

「……熊肉はいらなかったかしら?」

「むぐむぐ……熊も食べてみたい!」

「食欲旺盛ね。星火は思ったより食べないし。誰のために狩ってきたと思ってるの? 食べないと死ぬわよ」

「そうだ! 名無しさんの名前、ナナちゃんにしようよ!」

「何でもいいけど」

 小さな体に掻き込むニナを見て、今は痩せているが太ろうとしているのかもしれないと思いつつ、ナナは突き出された空の丼鉢におかわりを装う。ちまちまと小動物のように食べる星火の丼鉢には、空になる前に勝手に次を盛り付ける。

 いくら美味しくても限度はある。それに二人が気付くのはもう少し後のことである。


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