25-静寂に潜む音
二手に分かれた後、ニナを背負った星火と髭男、そしてアデリーはひっそりと暗い廊下を歩いていた。
湿った床は泥を含み、壁には所々にフジツボが付いている。魚のように巨大ではないが、小さくてもそれはそれで不気味だ。水を危険とし接近することが減少した現代では、水やその周辺に棲む生物は総じて奇怪に見える。
窓硝子は割れている所もあるが、綺麗に残っている場所も多い。頑丈な硝子のようだ。汚れていて部屋の中はよく見えないが、それが余計に気味の悪さを助長する。
「なあ兄ちゃん」
「何だ?」
「さっき兄ちゃん達が言ってた学校……っつうのは何なんだ?」
地上に出て知識を漁るか、知識のある者から聞かない限りは未知の言葉だ。何せ現代に学校は存在しない。旧時代では当たり前に存在していたそれはすっかり忘れられた言葉だ。
「学校はたくさんの子供……いや大人も含めて、知識を得て学ぶ場所のことだ。学習する内容は多岐に渡り、専門的な知識を学ぶ場所もある。子供の基礎的な学習は義務で、識字率はかなり高かったらしい」
「はあ……何か凄そうだな。オレは文字が書けるが漢字は苦手でな。専門的って辺りが頭が良さそうな感じだな」
「例えば奏者の学校があるとすると、銀笛の吹き方や手入れの仕方などを学ぶ」
「おお、成程な」
髭男も納得し、窓を見る。部屋の中は見えない。
目を凝らせば何か見えないだろうかと覗き込もうとし、目より先に耳が音を捉えた。
「何だ?」
調子っ外れな音が一つ聴こえた。余韻が無く不純物が混ざった音だ。闇に溶けず、ことんと置かれるような、そんな鈍い音だった。
「ピアノ……?」
そんな音でも、楽器の音だと星火は判断した。ピアノなら星火の家にもあり、弾いたことがある。こんなに濁った音ではなかったが、ピアノに類する楽器であることは間違いないだろう。
「ピアノってのは何だ?」
「楽器だ。笛は吹く楽器だが、ピアノは指で押す楽器だ」
「指で? じゃあこの音を出した奴がいるのか?」
「音を出すだけなら指じゃなくても、物が当たっただけでも鳴るが……」
追加でもう二つ、音が聴こえる。音楽にはなっていない。
「もし誰かいるなら、出口を知っているかもしれない。行ってみよう」
誰もいない暗闇で独りでに鳴っているなら不気味だが、幽霊より生身の人間がいることを先に想像した。星火は誰もいない地上を長く歩いている。魚や他の動物が立てた音などを何度も聞いた。その所為か幽霊という存在が簡単には頭に浮かばない。
「ハハ、人がいるとなると途端に安心するな」
魚よりは良いかもしれないが、人間も善人ばかりではない。行動範囲が広い分、人間の方が厄介なこともある。
同じ景色が続く廊下を進み、時折音が鳴る部屋を見つける。古い引き戸は軋みを上げ、少し力は必要だったが開けることができた。やはり鍵は掛かっていない。
「…………」
想像通り、目の前に大きなグランドピアノが重苦しく佇んでいた。音の出所はおそらくこれだ。鍵盤の蓋は開いているが、誰もいない。物も当たっていない。足元の泥に足跡も無い。
対面の窓には破れた黒いカーテンが掛かっているが、人が隠れていそうな膨らみは無い。机や椅子は散乱し、壁に並んでいる薄汚れた肖像画が虚ろな目でこちらを見ていた。
「誰もいないな」
「そうだな。壊れて勝手に音が出るようになっていたのか……?」
カンテラを翳してピアノに接近する。鍵盤に欠けた部分は無いが、傷だらけだった。試しに一つ指で押す。音は鳴らなかった。
「鳴らないな?」
「鳴る鍵盤と鳴らない鍵盤があるのかも。何百年も経ってるんだ、不具合は幾らでも出る」
「兄ちゃん……知ってるか? 幽霊って奴を」
「…………」
唐突に髭男は非現実的なことを言い出した。
「知っているが、信じてるのか?」
「半信半疑だな。だがいると考えると、妻が何処かで見てくれてる気がしてな」
彼の妻は集落の食料争奪に巻き込まれて殺された。あまりに突然の死を受け入れられないのも無理はない。星火は幽霊をよく知らないが、髭男に話を合わせることにした。
「もしかしたら……貴方の運がいいのは、奥さんが守護してくれているからかもな」
「おお……あいつが憑いてくれてると心強いな」
髭男は寂しそうに笑う。憑いていたとしても、彼にそれは見えない。虚しい沈黙が流れた。
部屋の奥にある肖像画を見上げ、部屋を出ようとした時だった。また空虚なピアノの音が一つ鳴った。
背を向けていた星火と髭男は振り返りピアノを見る。カンテラの明かりが遠く、輪郭がはっきりと見えない。そこに何かが動いた。
「手……?」
星火はカンテラを翳し、ピアノへ再度近付く。元は艶やかな黒いピアノは今や輝きを失い、濁った色をしている。
「やっぱりオレも触っていいか? 楽器なんてもう触る機会が無いだろうしな」
髭男は何かが動いたことに気付かなかったようだ。星火達の好奇心が伝染したのか髭男は鍵盤に手を伸ばし、大きな蓋の下で何かが動いた。
「待て!」
言葉で制止するより動いた方が早い。星火は髭男の手を掴もうとし、それより速く蓋の下から手のような影が飛び出した。
「!」
「兄ちゃん!」
大きな鎌首をもたげたそれは星火の手に食らい付いた。
異変を感じ取ったアデリーは脚を伸ばして駆け付け、蓋の下から伸びるそれに躊躇わず嘴を突き刺した。
それでも口を離さないそれに、アデリーは嘴を何度も振り下ろして噛み付き、力尽くで引き剥がす。
「蛇……?」
蛇は尾を振り上げて巻き付こうとするが、アデリーは太い蛇を床に叩き付け、足で頭を押さえ付けた。
星火は膝を突き、噛まれた袖を捲る。くっきりと牙の刺さった痕があり、血が流れている。
「セイ……」
安静にして幾らか回復したニナは不安そうに星火の背から覗く。細長い生き物が彼に噛み付いた所を見た。ニナは慌てて背から下り、鞄から布を取り出す。放っておいて良い傷ではないことは彼女にもわかる。
「私……な、何をすればいい……?」
「…………」
噛まれた箇所が熱を帯びて痺れる。体験したことのない痛みだった。熊の爪で裂かれた時とは違う痛みだ。小さな傷口からは想像もできない激痛だ。
「たぶん……毒だ……」
紫色に染まっていく傷を押さえて毒を搾り出そうとするが、まずは動かさないよう心臓より低い位置に下ろして竹の水筒から綺麗な水を掛ける。
「セイ……」
苦しそうに荒い呼吸を繰り返す彼に、アデリーも只事ではないと悟る。尾で巻き付こうとする蛇を振り回して叩き付けてとどめを刺し、部屋を飛び出した。
普段は羽毛に隠れている脚を目一杯伸ばし、アデリーは両翼を広げて廊下を駆け抜けた。
突き当たりを曲がり、見慣れた姿を発見する。廊下は暗いがカンテラの明かりは隠せない。気付いた二人もアデリーに駆け寄った。遅れて二羽のペンギンも遣って来る。
アデリーは両翼をぱたぱたと興奮しながら訴えるが、ナナとスイには伝わらない。だがペンリーとギンリーには伝わり、三羽で訴える。そしてアデリーはナナの服を咥えて引っ張った。
「やっぱり星火に何かあったんだわ」
ペンギンの言葉はわからずとも、焦燥は伝わった。ナナとスイはすぐに向かう意志を見せ、アデリーは先に走り出す。
距離は然程離れていないが、焦燥の所為で何倍も時間が掛かった気がした。
アデリーが飛び込んだ部屋にナナとスイも駆け込み、足元に長く伸びて息絶えている蛇に驚いて足を止めた。
「へっ、蛇!?」
「まさか……」
膝を突く星火を見つけ、ナナは蛇を跳び越えて彼の前に蹲んだ。
「噛まれたのね!? 毒を吸い出すわ」
「おい、毒だぞ!?」
躊躇せず言い放つ彼女に、スイは青褪める。
「私はそんなものに負けない」
「お前……」
ナナはスイの制止を振り切り、星火の腕を取って手首にある牙の痕を躊躇なく咥えた。
「オレを庇ったんだ……オレが迂闊に手を出したんだ」
「よく手を出そうと思ったな、オッサン」
「ピアノに触ろうとしただけなんだ。そしたらその長い奴が飛び出してきたんだ!」
「セイさん……優し過ぎる……」
感動と動揺で顔が引き攣ってしまった。スイは自分の大きな鞄を漁り、ペンのように細長い物を一本取り出した。
「セイさん、これは血清です。毒なんてそこら辺にありますからね。一本は持っておくといいです。これを打ちます。セイさんは注射は平気ですか?」
「ああ……」
ナナを退かして上着の袖を捲り、スイは星火の腕に親指ほどの太さの短い棒を突き立てた。押し当てると針が飛び出す仕組みだ。突き立てた瞬間にちくりと刺さる感覚がある。
「効果が出るまで少し掛かるので安静にしていてください。……おいナナ、譬え負けないとしても吸い過ぎだ。吸血鬼か」
「全部吸い取れたかしら?」
「全部は無理だろ」
綺麗な水で口を濯いで吐き捨て、ナナは沈黙する蛇へ視線を向けた。
「頭を切り捨てたら食べられるかしら?」
「食おうとすんな」
「冗談よ。今は時間が無いものね」
時間の問題ではなかったが、ナナに構っていられない。星火の容体を注視する。
「アデリーがすぐ呼びに来て良かったです」
「血清……僕も持ってるんだが、取り出す余裕が無かった」
「やっぱり持ってますよね、万能血清。毒の回りが早かったんですね。元気な人ほど回るって言いますし、元気な証拠ですよセイさん」
「この場合……嬉しくないな」
「まだ痛みますか?」
「少し痛みが引いてきた気がする。二人共……アデリーも、ありがとう」
ナナとスイは擽ったく、アデリーは両翼をぱたぱたと振った。
「本当にすまねぇ! こんな危険な生き物がいたとは……魚じゃないんだよな? 水が無いし……」
「あれは蛇よ。脚が無いけど魚じゃない。水の中にいる海蛇っていうのもいるらしいけど、あれは違うわ。脚が無いけど結構速いのよ。本気で巻き付かれたら……ねぇ、あの蛇、誰が殺したの?」
「アデリーだ」
「さすがだわ」
「強いなペンギン……」
話題に出されたアデリーはそれを察したのか両翼をぱたぱたと振った。ペンリーとギンリーはそれを見て大きく何度も頭を縦に振った。
「……ごめん、急がないといけないのに」
「いいわよ。もしここが沈んだら私が泳いで運んであげる」
「いや。そうならないよう行こう。だが……ニナを背負えないかもしれない」
「大丈夫だよ、セイ。私もう一人で歩けるよ」
その声はまだ本調子ではなく微かに掠れていたが、一人で立ち上がった彼女は確かにしっかりと立てている。喋る体力はまだあまり無いが、歩くことはできる。
「ニナは俺が見るので、セイさんは回復に専念してください」
「セイは私が背負う?」
ナナは気を利かせているのか揶揄っているのか判然としないことを言う。星火は首を小さく横に振った。
「そっちに階段はあったか?」
「まだ見つけてないわ。ヤドカリが出たのよ。ペンリーとギンリーが助けてくれたわ」
「そっちにも生物がいるのか……分かれた方が早いと思ったが、一緒に行動した方が良さそうだ」
ペンリーとギンリーは自分達の話題だと気付いているのか、星火をじっと凝視した。目を逸らさず瞬きもしない。まるで何かを待っているかのようだ。
「……ペンリーとギンリーも活躍したんだな。凄いな」
ペンリーとギンリーは『それだ!』とでも言うように両翼をぱたぱたと振った。星火に労ってほしかったようだ。アデリーにどんな話を聞かされているのか気になってきた。
「セイさん、立てますか?」
「ああ」
それでもスイは手を貸し、星火もそれに掴まった。一人でも立てるが、折角の気遣いを無視したくなかった。
気にしないようにしていたが、部屋を出る時にスイは壁に並んでいる肖像画を横目で一瞥した。
「……あの顔の絵……不気味ですね。写真だと何とも思わないのに、絵だと不気味に感じるのって何なんでしょうね」
「生きていないのに生きているように見えるからか? いやそれなら写真も……」
「セイに喋らせるんじゃないわよ」
ペンリーとギンリーは最後尾を守り、アデリーは勇ましく先頭に立つ。負傷した星火を護るための布陣だ。頼もしいペンギン達に緊張感も和らぐ。ペタペタと左右に揺れながら歩く愛らしい姿で、異常に巨大だということを忘れてしまう。
「この階は天井にフジツボが無いから、上に上がったら休みましょ」
ピアノの音はもう聴こえない。犯人はあの蛇だったのだろう。やはりこんな所に人なんているはずがない。
改めて誰もいないことを認め、ひやりとした空気が足を重くさせる。
「ぴゃっ!?」
静かな廊下にニナの声が響き、その声にスイは驚いて大きく跳び退いた。
「…………」
無言の注目を浴び、スイは顔が赤くなり小さくなった。
「スイをビビらせてどうしたの? ニナ」
「何かが見てる……」
「!」
ナナは反射的に刀の柄に手を掛け、ニナが指差した窓に目を凝らす。暫く見詰めるが、何も動かない。
「……ニナ。何かって生き物? どんな顔してる?」
「小さい……?」
「さっきの蛇より?」
「うん」
ナナはペンギン達に目を遣る。動き出す気配は無い。もし危険な生物が潜んでいるなら呑気に毛繕いはしないだろう。毛繕いの途中でペンリーはギンリーを突いてちょっかいを出している。
柄は握ったままで、ナナは窓に接近する。柄に添えていない手で窓を擦って汚れを拭う。
「……これかしら? 大丈夫よニナ。死んでる」
「し、死んでる……?」
漸く柄から手を離し、ナナはニナを持ち上げる。ニナにもそれがよく見えた。
「これ何?」
「蛙ね。標本かしら」
「食べる物?」
「見るための物よ」
「見るためだけに、ずっとここにいるの?」
「そうだと思うけど。研究か……インテリア?」
「いんてりあ……?」
「部屋を飾る……生きていく上で特に必要のない物よ」
「難しいな」
「セイのお母さんの趣味は覚えてる? ああいう飾り付けた物のことよ」
「わかった」
母親の趣味を掘り起こされ星火は穴があったら入りたいが、スイは知りたそうに彼を見る。ほいほいと教えるわけがない。
ナナはニナを下ろし、雑談をしている暇など無いと先を急ぐ。
「早く階段を見つけなきゃ」
ペンギン達も毛繕いを止め、気を引き締める。
「……ん?」
足音に混じり、乾いた音が聞こえた。規則的にこんこんと音がする。
「また楽器か?」
もし楽器だとしても今度は迂闊に触れないよう髭男も気を引き締めた。
「先の方ね。見てくる……」
ナナは前に出ようとしたが、その前に前方の壁から白っぽい物が飛び出した。それは反対側の壁にぶつかり、方向を変えてこちらへ転がった。
「部屋の中から? それとも曲がり角かしら?」
「あの白いのは何だ? こっちに来る……」
小石にでも当たったのかそれは一度跳ね、ナナは無表情で見詰め、スイは息を呑んだ。ニナは後退して近くにいたギンリーに抱き付いた。
転がるそれは通り過ぎて行こうとしたが、ナナは足でボールを受けるように止めた。
「頭蓋骨ね」
「踏むなよ!」
足を退け、元々罅割れていたそれを見下ろす。汚れているが、顎が欠けていることはわかる。
「骨になってから割れたのか、生きてる時に齧られたのか、どっちかしら?」
「それよりそれが何で転がってきたのかだろ!」
「アデリー、何かいると思う?」
動物の方が人間より勘が働くだろう。ナナはアデリーを信じている。
アデリーは両翼を広げ、頭蓋骨が転がってきた方向へ走り出した。
「あっ……見てこいって言ったわけじゃないのよ」
ペンギンの黒い背中は光の無い闇に溶け、すぐに見失ってしまった。
追うか迷うが、幾らも待たない内に闇にぼんやりと白い物が浮かんだ。
「幽霊とか……やめようぜ……」
「スイ、アデリーのお腹だよ」
「あいつがでかいばかりに……」
小さなペンギンの腹なら幽霊だとは思わなかっただろう。巨大ペンギンの腹は子供に見間違える大きさだ。
「こっちを向いてるのに戻ってこない……ってことは、何かあるのね?」
ナナはカンテラを掲げ、躊躇なくアデリーの腹に向かって走った。
頭蓋骨が飛び出してきた横道へカンテラを翳して覗き込む。そして足元を見回した。
「皆! 階段があるんだけど、下から水が上がってきてるわ! 急いで!」
「セイさん、走れますか!?」
「この距離なら大丈夫だ」
「ニナは俺と手を繋ごう」
「うん」
「セイさんも繋ぎますか?」
「いや、僕はいい」
片手が余っていたので差し出したが、取ってもらえなかった。手を下ろすとギンリーが繋いでくれた。
「ギンリー……繋ぐ必要性は感じないけど、走るぞ!」
ギンリーは繋いでいない方の翼を上げた。
頭蓋骨を避けて一同は直線の廊下を走り、薄い水を踏んで焦る。水音は徐々に大きくなっていく。まだ靴底を濡らす程度だが、階段から水が滲み出ている。
「狭いから一人ずつね。セイ、先に行って」
階段は瓦礫で半分ほどが塞がれている。
「僕は笛を吹いておく。最後でいい」
「怪我人は先に行って。奏者の仕事は一旦休んで。いい?」
ナナは冗談を言っているわけではない。真剣な表情で星火の背中を強く押した。
「……わかった」
「次はニナ、おじさん」
順に登らせ、ペンギン達も先へ行かせる。水はあっと言う間に足首を呑み、膝に上がってくる。
「ほら、スイも行って」
「お、おう……」
ナナの中で彼の優先順位は低いが、彼女自身よりは上であったことに驚きつつも、スイは階段に足を掛けた。
それと同時に水面が揺れる。尖った背鰭が覗いた。
「来たわね」
「魚か!?」
暗くてよく見えないが鮫のようだ。大きさは現代の中では小さい方だろう。ナナは抜刀し、飛び出した二メートル程の鮫に刀を振った。魚は真っ二つに両断され、死んだことに気付いていないのか血を撒き散らして床を跳ねる。
「……ちょっと。助けてなんて言ってないわ」
スイはナナの背中に手を当て、彼女を支えていた。足元が水に浸かっていると踏ん張れないと思ったのだ。
「安全なお前の後ろに避難したとでも思ってくれ」
「…………」
スイは彼女の背を軽く押し、先に階段を上がった。ナナは不満げにもう一度水面を確認し、二段飛ばしで駆け上がる。
三階の床にも隅に土は溜まっていたが、フジツボは確認できなかった。浸水するとしても精々足が隠れる程度だろう。漸く一息吐くことができる。
「まだ上がありそうだな」
階段は塞がっておらず、そのまま四階へ上がることができたが、そこまでだった。上に続く階段があるが、土で埋もれている。
「学校っつうのは大きいんだな。まだまだ上があるのか?」
「何階建てかは学校による。ここも何階あるかわからない。上に上がれる階段があるか探しながら、休める場所を見つけよう」
登ってきた階段から少し離れ、一行は鍵の掛かっていない引き戸を開けた。一人用の机と椅子の殆どが端に寄り、複雑に絡まっている。
床に倒れている机と椅子を人間の人数分起こし、各自腰を下ろす。ペンギンは椅子に座らないので、立ったまま人間の動きを観察している。
机上にカンテラを置き、星火はナナから返してもらった鞄から缶詰を取り出した。
「ニナ、食欲はあるか?」
「疲れた。折角貰ったカンテラも無くしたから元気はない」
ニナはしゅんと肩を落とす。カンテラは鉄砲水に呑まれた時に紛失してしまったようだ。
「カンテラくらいまた拾えばいいって。材料があれば俺も作れるしな」
命があるのだからカンテラくらい何とでもなる。スイはニナの肩を叩いて励ます。
星火は開いた鞄の中を彼女に見せ、食べたい物はあるかと尋ねる。すぐに気分は持ち直せないが、ニナは周囲を一瞥し、そろそろと蜜柑の缶詰を指差した。
「皆、これはニナ優先でいいか?」
「いいですよ」
「勿論よ」
「こんな小さい子が頑張ってるんだからな、遠慮せず食え食え!」
快諾を貰い、星火は大事に預かっていた彼女の缶詰を開けた。少し開けただけで隙間から脳を蕩けさせる甘い香りが漂い、快諾した三人も生唾を呑んだ。
フォークを受け取り、ニナは甘いシロップの海に泳ぐ艶やかな橙色を追い掛けて突き刺す。持ち上げると甘美な蜜が滴り、膨らんだ粒の一つ一つがカンテラの光でキラキラと輝いた。気分を持ち直したかもしれない。
皆の見守る中、ニナは小さな蜜柑の実を頬張り、じっくりと咀嚼して味わった。甘い汁が口の中に広がる。
「おいひい」
「良かった」
幾らか疲労が回復した顔で、嬉しそうに口元を綻ばせる彼女に安堵する。
「セイも」
次の実を突き刺し、ニナは星火の口元へ持ち上げた。
「僕も? ニナが全部食べていいよ」
「セイも大変だった。頑張ってた。食え食え」
「…………」
毒蛇に噛まれて散々だったことは記憶に新しい。星火は皆の注目を浴びながら、ニナの厚意を拒否することもできず蜜柑を受け取った。
「美味しい?」
「甘くて美味しい」
「ナナちゃんもあげる」
「!」
物欲しそうに見ていたナナはやや途惑いつつも口を開けた。
そうしてニナは全員に一つずつ餌付けをしていった。
「こんな甘い食べ物は初めてだ! これは何なんだ?」
「甘いシロップに漬けた蜜柑だ。蜜柑は果物だ」
「果物!? これが……? そんな高級品を食べる日が来るとはな……妻にも食べさせてやりたかった……。感謝する。嬢ちゃん」
「皆で食べると美味しい。でも最後の甘い汁を啜るのは私」
ペンギン達を振り返るが、彼らは蜜柑に興味は無いようだ。或いは蜜柑なんて見たことがないのだろう。
星火にばかり食料を出してもらうわけにはいかない。スイは背負っていた大きな鞄から乾パンの缶詰を二つ出した。
「ニナも食べていいからな。それだけじゃ腹が膨れないだろ」
「甘い汁を付けたら美味しい?」
「それは……美味いだろな」
「試してみる」
水分の乏しい乾パンを一つ抓んでシロップに浸すニナをナナは物欲しそうに見たが、それは貰えなかった。
退屈なペンリーとギンリーは部屋を出て行くが、アデリーはその場に留まる。星のペンダントが誇らしげだ。
束の間の休息を噛み締め、後は皆、無言で乾パンを咀嚼した。
ナナは特殊です。毒蛇に噛まれても「口で」吸い出してはいけません。危ないです。




