23-出発の準備
商業ビルに展示されていた、もう購入者など現れないカプセル型ベッドは五人の疲労をすっかり取ってくれた。スイが得意気に設定してくれた疲労回復モードと言うものが格別だった。
「体が軽い。初めてこのベッドが欲しいと思った」
「普及してる理由がわかったわね。こんな物、窮屈で邪魔なだけだと思ってたけど」
繊細に銀笛を吹く星火と重い刀を振るナナは特に体が疲れている。回復モードの恩恵が素晴らしい。マッサージ機も良い物だったが、回復モードは別格だ。
「他にも音楽やラジオが聴けるみたいなんですけど、新品のベッドなので保存されてる音楽が無くて、ラジオも放送されてないので」
「音楽……旧時代の音楽は聴いたことがないな」
銀笛で旋律を奏でる星火は、旧時代の音楽と聞いて興味を示す。音楽が保存されているのは多くが小型の機械だ。小型の機械は劣化が激しく、現在も生きている物は無いに等しい。
「セイさんなら興味があると思って、見つけておきましたよ!」
スイは意気揚々と、預かっていたスティック型携帯端末を取り出した。彼は暇があればこの端末に夢中になっている。
「その端末でも音楽が聴けるのか?」
「この端末に保存されてる分は聴けるみたいです。聴いてみます?」
「ああ。笛以外の音楽を聴いてみたい」
「その音楽を魚に聴かせるとどうなるのかしら?」
ナナとニナも興味が湧いて端末を覗き込む。端末の上の何もない空間に文字が映し出され、左側に三角の印が付いている。
「これが音楽の一覧です。英語みたいなんですけど、読めます?」
「いや……英語はあまり習わなかった」
「適当に再生してみますね」
軽く指を上に弾くが、読める文字が出てこない。指を戻して三角の一つを突いた。
「!?」
その直後に全員の心臓がびくりと硬直して体が跳ね上がった。
次にしたことは皆同じだった。素早く両耳を塞ぎ、眉間に皺を寄せた。
「わ、す、すみません!」
しんと静まり返っていた広いフロアに大音量の音楽が跳ね回り、スイは慌てて音量を下げた。
「えげつない音量になってんな……」
持ち主は音楽の世界に浸るために大音量で聴いていたようだ。鼓膜を直接殴るような音量だ。
一同は恐る恐る耳から手を離し、小川のせせらぎ程度の音量になっていることに安心する。
「まだ耳がじんじんする」
「すみません! セイさんの笛に支障が出ないといいんですが……」
「この程度で旋律が壊れるようじゃ奏者はできないよ」
「か、格好いい……セイさんの語録を作りたい……」
「やめてくれ」
ナナは冗談を言って揶揄うが、スイの言葉は本気で慕う故に出る尊敬の言葉だ。そんな彼に難色は示し難いが語録を作られるのは嫌である。
「さすがに小さいですか? もう少し上げましょうか」
先程の音がまだ耳に残っている所為か少し音が遠い。周囲の反応を見ながらスイは少しだけ音量を上げた。
アップテンポなドラムとギターの音が喚く、良く言えば賑やかな、悪く言えば騒々しい音楽だ。題名は英字だが、歌詞は日本語だった。
「楽器が違うからかしら? セイの音楽とは似ても似つかないわね」
「僕は笛一本だしな。その音楽からは笛の音は聞こえない。打楽器と弦楽器……ピアノっぽい音もあるか?」
「へぇ、聴いたことがないのにわかるの?」
「旧時代の音楽はこれが初めてだが、楽器は笛以外も触ったことがある。家にピアノとバイオリンがあった」
「弾けるの?」
「笛と比べると……少しだけだな」
「才色兼備ってセイさんのために作られた言葉ですよね」
「そんな長生きはしてない……」
当然のように会話が進んでいるが、ニナと髭男は奏者の銀笛以外の楽器など知らない。叩けば音がする物を太鼓と言うことは知っているが、本物の太鼓は見たことがない。生きることだけで精一杯の現代では、音楽を楽しむ余裕などないからだ。
「でも算数とかの勉強に笛に他の楽器までって、滅茶苦茶詰め込まれてません? ちゃんと寝てました?」
「寝ていたが、今の方が眠れている」
「そんな……もう一回寝ときます?」
「いや、今はいい」
スイが列挙したこと以外にも、星火はこの世界の情報や水泳なども習っていた。彼の自由な時間は殆ど無く、雀の涙ほどの時間を兄との練習に割いていた。
「セイは奏者以外にしたいことないの?」
星火とは逆に、ニナは暇を持て余していた。教団の集落では毎日床に転がってクッションに埋もれ、薄暗い天井をぼんやりと見上げる日々だった。星火が護衛として連れて来られたことで彼女は外に興味を持ったが、星火自身は何に興味があるかなど自分のことを殆ど話さなかった。
「ん?」
何気ないニナの質問に星火は怪訝な顔をし、今まで考えたことのなかったそれを初めて考えてみた。家での教育に疲弊し、考える時間などなかった。
「……そう訊かれると難しいな。何も縛られるものの無い日々にも憧れるが、物心つく前から笛を持っていたし、奏者以外のことは思い付かない」
自由に生きてきたナナとスイは聞いただけで窮屈な気分になったが、それは自由を知っているからだろう。最初から自由の無い場所で育ったなら、自由という言葉すら知らなかったかもしれない。
自由を制限されていたニナにだけは、寂しそうな星火の表情の意味がわかった。
「笛を吹かない選択はできるわよ。私が魚を斬ればいいだけ」
「俺も手伝えます! 中距離くらいなら」
星火は困ったように微笑む。そう言ってくれる人がいるだけで、冷えてしまった心が温かくなる。
「護衛中だから、奏者の仕事を取らないでくれ」
「うおおおおおおぉぉん!」
「え?」
無言で会話を聞いていた髭男が突然大声を上げて泣き出した。猛獣の雄叫びのようだ。
「にっ、兄ちゃん……苦労してるんだなあ! 奏者って奴は懐ぬくぬくして澄ましてる奴ばかりだと思ってたよ! 奏者になるにはそりゃあ苦労もするよな……何せ奏者だ。そんな凄い奴が苦労しないわけない……」
「澄ましているつもりはなかったんだが」
「懐ぬくぬくは否定しないな。正直でいい奴だ」
髭男は大袈裟な涙を拭い、星火の肩を力強く叩いた。回復した体力が少し減った。
「何と言うか、悪いな。オレのためにこんな所まで」
「元々行き先の無い旅だから、そこは気にしなくていい。それより、外を確認して、問題なければそろそろ出発しよう」
「おお、そうだな。後どのくらいで着きそうだ?」
「水次第だが……もう二、三日は」
「そうか。水ってのは本当に厄介だ」
出発すると聞き、スイも音楽を切ってスティック型携帯端末を仕舞う。旧時代の音楽は、静寂に慣れた現代では少々刺激が強かった。
各々発つ準備をし、星火はニナに目を向ける。ニナはカプセル型ベッドに座って床を見詰めていた。
「ニナ、まだ耳が痛むか?」
「それは平気。少し眠いだけ」
「疲労は回復しているはずだから……薬を呑んでおこうか」
ニナは言われた通りに自分の鞄から子供用の汚染抑制薬を取り出す。疲労回復モードですっかり回復したと言うのに、また体が重くなってきた。薬を呑む間隔は人によって異なるため、ある程度の日数を掛けて自分で判断していくしかない。地上を歩き始めて一ヶ月ほどしか経たないニナはまだまだ体の様子を観察しなければならない。
「ニナの分の水筒も用意しないといけないな」
星火は自分の竹の水筒をニナに渡して薬を呑ませる。出発のために荷物の整理などしないナナはそれを聞いて挙手をした。
「台所用品ならさっき見たから場所がわかるわよ。水筒もあった」
「じゃあ使えそうな水筒があればニナに。あとニナにもナイフを持たせようと思うんだが、ナイフはあったか?」
「刃物もあったわよ。セイが外の様子を見に行く間、私が上を見てきてあげる」
「ありがとう。安全を確かめてくるよ」
星火は階下へ、ナナは上へそれぞれ向かう。必然的にスイがニナと髭男を見ておくことになった。
「……ナイフなら俺があげてもいいんだけど」
鞄を漁り、下敷きになっている使用していないナイフを手探りで取り出す。掌に収まる小さなナイフだ。だが小さ過ぎて使っていない。もう少し大きなナイフを作って、そちらを使用している。
「ニナ、起きてるか?」
「起きてる。ちょっと目が覚めてきた」
「このナイフ、持ってみろ」
「私のナイフ?」
「おう。あんまり大きいとニナには重いだろ? これくらいが丁度いいと思うんだ」
ニナはベッドから飛び降り、そわそわとスイの隣に座る。両手を差し出すと、ニナの小さな手にもしっくりと馴染む木の柄の小さなナイフが載せられた。
「私のナイフ!」
「折り畳み式の方が持ち運びは楽だけど強度が落ちる。まあニナはそんな力持ちじゃないから折り畳みでも充分だろうけど、生憎持ち合わせがなくてな。この革で作った鞘に刃を納めるんだ」
「格好いい」
「使えそうならあげるけど。重くないか?」
ニナはナイフの柄を握り、何度か素振りをする。ナナの刀は重くて振れなかったが、小さなナイフなら容易だった。
「これなら持てる! 戦えるかはわからないけど」
「いざって時にな。率先して立ち向かわなくていいぞ。ナイフはな、進路を塞ぐ草を切ったり、道具を作る時にも使えて、料理にも使える」
「道具と料理は難しいけど、草は切れる」
美しく研がれた刃に朧ろげに彼女の顔が映り、ニナの顔から急速に表情が抜けていく。小さなナイフを見ると思い出す。集落の夜会で信者達に血を呑ませるため、ナイフで傷付けられたことを。
「ニナ?」
ニナは振り返り、髭男の位置を確認する。少し離れた場所で眠気覚ましの運動をしている彼は二人の方を見ていない。声を潜めていれば聞こえない距離だ。
「……スイ……。私のことは別にどうでもいいよね?」
「え? 何だ急に。汚染の影響か? 具合が悪いのか? 悪いなら少し出発を遅らせてもらって……」
「セイは知ってるし、ナナちゃんにも話したんだけど、スイは別にいいかなって」
「何の話だ? 俺だけ蚊帳の外……? セイさんが知ってるなら俺も聞いといた方がいいな」
「自分の意志はないの?」
「う……ニナに言われるとは……」
スイはごにょごにょと口籠り、自分の意志を探す。何の話をしようとしているのか全く見当がつかないが、星火とナナが知っているなら旅の仲間として知っておきたい。
「ニナが話してくれるって言うなら聞くけど、話したくないなら無理にとは……」
「じゃあいいか。何回も同じ話するの疲れるし」
「え」
「セイとナナちゃんと内緒話してても聞かないでね」
共に旅をするなら話しておいた方が会話に気を遣わなくて済むと考えたが、話をするのも体力を使う。ニナが話したいのは彼女の祖先のことだ。この世界を壊した犯罪者なのだから話題に出ることはこの先も何度もあるだろう。その度に襤褸が出ないかと気を遣う労力を考えると、先に話しておいた方が気持ちが楽になる。ニナはすぐに襤褸が出そうになってしまう。
「なっ、内緒話に入れてもらえないのはちょっと……あのオッサンならともかく、俺はセイさんに付いて行くって決めたし」
「じゃあ裏切っちゃ駄目だよ。私、弱いから」
「裏切らない」
スイは表情を引き締めた。
「私の祖先の話なんだけど……」
「祖先? そんな昔のことを知ってるのか。凄いな」
スイが知っているのは父親と祖父だけだ。それより前は聞いたことがない。
「ずーっと昔の祖先が、樫水雲藻なの」
「…………え?」
「二度は言わない」
「お、おう……。そうなのか。子供を作ってたんだな。知らなかった……」
樫水雲藻は擬似空を破壊した後、行方を晦ませた。逮捕された記録も人伝の噂も無く、警察は犯罪者を捕まえられないまま旧時代が終わった。犯罪を犯す前に子供がいたという記録は無く、恋人がいたとも知られていない。
「私は樫水雲藻を称える集落で生まれて育ったの。集落の人達は皆犯罪者の信者だった。犯罪者の子孫をずっと称えてた。でも情報が漏れて、襲われた。セイが助けてくれたから、私はまだ生きてる」
「ぁ……」
スイは途端に『不味い』という顔になった。以前、樫水雲藻の写真を見た時にニナに似ていると言ってしまった。祖先なのだから面影があっても不思議ではない。あの時の慌てた様子のニナを同時に思い出した。
「ご、ごめんな……俺、前に写真を見た時、無神経なことを言った……。犯罪者が祖先なんて嫌だよな……。それとも、称えられて気持ち良かったとか……?」
「スイは無神経だな」
「ごめん、本当にごめん。やっぱり嫌だよな。セイさんはニナのことも助けたんだな。やっぱりセイさんは凄いな……」
「セイは私の護衛に攫われてきたんだけど」
「俺が行商機で追えなくなったのはその所為か……。そんな集落、行商機でも中に入らせてくれるわけないよな。道理でニナのことも見たことないはずだ。合点が行った」
「軽蔑する?」
「え? ニナをか? 何でだよ。ニナは子孫ってだけだろ? 寧ろ被害者だろ。言い難いこと、言ってくれてありがとな。俺みたいな奴、中々信じられなかったよな」
「うん。セイよりナナちゃんより、一番時間が掛かった」
「そう言われると……出会い方が最悪だった気がしてきた……」
「最悪だよ。覗き野郎だもん」
「すみません……」
初対面の星火にファンだの行商機を使って覗いていただの、そこからよく信用を得られたものだ。星火に会えた嬉しさでスイは舞い上がってしまい、ペラペラと喋ってしまった。地上で暮らしていたナナはともかく、地下暮らしだった星火とニナは警戒心が少し薄い。
「でもスイは遊園地で遊ばせてくれたから。これからはうっかり口を滑らせないかびくびくしなくていいから、これでちょっと安心」
「おう……そうだな。もしかして、擬似空の管理施設の場所とか……知ってるか?」
「それは知らない。集落の人に訊けば何か知ってる人がいたかもしれないけど……皆殺されちゃったかも」
「本当に危ない所だったんだな……。やっぱり憎む奴はまだいるんだな。あのオッサンにも話すのか?」
「あのおじさんはちょっと一緒にいるだけだから内緒。言ったら絶交」
「わかった。内緒な」
「もし口を滑らせそうになったら、ナナちゃんが刀を抜く」
「本当に抜きそう……」
既にその経験をしたスイは身震いした。ナナなら首を刎ねてもおかしくない。
「ナナのヒエラルキーってどうなってると思う?」
「ひえ……アデリーの時に言ってたやつ?」
「そう」
「うーん……ナナちゃんはねぇ……一番はペンギン」
ニナは目線の高さに手を遣り、軽く振って位置を示す。
「人じゃないのか……」
「ちょっと下にセイと私。ずっと下の方にスイ」
その手を少し下ろし、スイの位置は床に付くほど下ろした。手と共に視線も下ろし、スイの目は床に伏せられた。
「ずっと下の方……命の危険を感じる……。こんなことならもっと言葉を選んでおくんだった……」
「後悔先に立たずだよ」
「難しい言葉知ってんな」
「セイが色々教えてくれた」
「さすがセイさん……旧時代なら先生になれそう」
「スイは覗きで逮捕されそうね」
「そう……え?」
ニナからではなく背後から声が聞こえた。スイは振り向き、たくさんの水筒を抱えた少女と目が合う。底辺の虫螻を見る蔑んだ目だ。
「何言ってんだそこの女ぁ!」
「ナナちゃん!」
ナナは無感動な目でスイを凝視したまま、抱えていた水筒をニナの前に下ろした。瞬きもせずに視線を送られ続け、スイは堪らず目を逸らした。
「ニナ、そのナイフはどうしたの?」
「スイがくれた」
「あら、いいじゃない。こっちは果物ナイフくらいしか見つけられなくて。果物ナイフじゃ心許ないと思ってたのよ。私の刀はいい物だから、そいつから貰ったんならナイフも使えるでしょ」
「スイも役に立つ」
「こういうことだけね」
「おい」
水筒を一つずつ床に並べ、ナナはもうスイに顔を向けない。溝は深い。
「大人用は大きいから子供用ね。金属製は重いわよね。軽いとなるとプラスチックなんだけど……外に置いてたわけじゃないからまだ使えるのかしら?」
ニナは色々な色や柄が入った水筒を順に眺め、スイは一番端にあったプラスチックの水筒を一つ手に取る。
「これは……猫? 猫かな」
「ずっと室内にあったんならある程度は使えるだろうけど、それでも劣化はしてる。水を入れてどれくらい耐えられるかだな」
「外とか室内とか、そんなに違うの?」
「紫外線や熱が劣化させるんだよ。ずっと外に置いておくと触るだけでボロボロに砕ける。旧時代の末期にはプラスチックも相当強化されたらしいけど、四百年だからなぁ……」
「じゃあ重いけど金属の方がいい?」
「錆びてなければな。でも中にゴムが使われてるのは駄目だ。ゴムは劣化してる。硝子があればいいけど……落とすと簡単に割れるから硝子の水筒は無いな。セイさんの水筒は竹だろ? 竹があれば俺が作ってやるんだけど」
「竹は何?」
「細長くて中が空洞になってる木だ。俺の弓も竹」
「中身が無い木なの? 内臓が無いみたいな?」
「例えがエグいな。まあ中身が無い点で言えばそうだな」
ナナが持ってきた水筒に木製の物は無い。安価で軽いプラスチック製か、保温に優れた金属製ばかりだ。何百年も使用することを考えられていない。
「近くにそんな細長いのは見えなかったよ」
「だよな……山の方に行かないと竹はあんまり見ないな」
「山?」
「陸地が高く盛り上がってる所……って言ってもわからないか」
「マンションより高い?」
「低いのもあるけど、殆どは高い。平地より高いから増水の影響が無くて、魚も少ないから安心っちゃあ安心なんだけど」
「魚が少ないの!? じゃあ皆、山に住めばいいのに」
「そうなるよな。山には山の怖い動物がいるから安全じゃないんだよ。――っと、セイさん遅いな? まさかセイさんに限って何か……」
「お話を楽しんでなさいよ。私が見てくるわ」
暇そうに聞いていたナナはポケットに手を突っ込んでさっさと立ち上がった。スイは逮捕されるかもしれないが、ニナの先生としては申し分ないようだ。
擬似空が破壊されてからは日中も薄暗く遠方まで見通せるほど視界は良くないが、地上を歩いていたらいつか山も目にする時が来るだろう。
ナナは数段飛ばしで機械の階段を飛び降り、一階の床を確かめる。所々に薄い水溜りは残っているが、水はもう引いたようだ。
「セイ――?」
カンテラで周囲を照らすが、人影が無い。
「何処まで安全を確認しに行ったの――?」
足音も返事も無い。
(外かしら?)
一階に水が無いからと言って、外にも無いとは限らない。暗い出入口へと向かい、小さな光が動いているのが見えた。
「セイ――」
ナナは他に明かりの無い暗闇に向かってカンテラを頭上に掲げ、小さな光も返事をするように持ち上がる。
小さな光は降下し、揺れながら大きくなる。瓦礫の上にでも乗っていたのだろう。ナナも光に駆け寄った。
「ナナか?」
「そうよ。中々戻らないから様子を見に来てあげたの」
「遅かったか? ごめん。ナナは鼻がいいか?」
「鼻? どうかしら? 普通じゃない?」
「海の匂いがするんだ」
「海? 私、海には行ったことないの」
「微かだが、潮の匂いが混ざっている気がするんだ。地図に海は描かれていたが、ここはそんなに近い場所じゃない。潮騒も聞こえない」
「それは何が問題なの?」
「地図で見た以上に海が侵蝕していることになる。地上で湧く水は殆どが淡水だ。海に近い場所では海水が湧くこともあるが……陸の海水は潮の満ち引きで残された物だ」
「じゃあさっきまで溢れてた水は海水だったの?」
「いや……その時は海の匂いを感じなかった。淡水の量が多くて掻き消されてしまったのかも」
「それじゃ、もっと大回りで集落に向かう?」
「そうだな。海はわからないことが多い。今は潮騒が聞こえないが、満ち引きで変化する水の量を僕は知らない。無闇に近付かない方がいい」
海を見たことがないナナは海が気になるが、危険なことも承知だ。一人で行動しているなら好奇心のまま接近してみるが、団体行動中に勝手なことはしない。特に護衛をしている今は無茶はしない。
背後で物音が聞こえ、二人はビルの入口に目を遣る。ニナとスイ、そして髭男が覗いていた。スイはカンテラを翳し、脅威が無いことを確認して二人に駆け寄った。ニナと髭男も後に続く。
「水、すっかり引いてますね。これなら歩けます」
「もう少し大回りして行こうと思う。海が近い気がするんだ」
「海が……? それだと相当地形が変わってないですか? あれいつの地図なんだ……」
「護衛の時間は少し延びるが、構わないか? 料金は変えない」
護衛対象にはそれが一番の問題だ。髭男にも確認を取る。
「そのくらい構わないさ。寧ろ安全を考えてくれて助かる。地図はな……オレもいつの物なのか知らないんだ。オレが生まれる前からあるみたいだから、古い物ではあるんだが」
暗闇にカンテラを翳し、歩き出そうとした時だった。
「何の音だ……?」
何かがぶつかるような砕けるような音と――
「水……?」
警戒した時にはもう足元から水が迫っていた。人の足では逃げることが叶わない速度で襲い掛かった水は生き物のようにうねり、一瞬の内に全てを呑み込んだ。
星火は手の届く距離にいたナナの腕を咄嗟に掴んだが、護衛をせねばならない二人には届かなかった。




