2-空っぽの塔
教団の地下集落が何者かに襲撃され、追手から逃れた星火とニナは、街灯が殆ど消えている夜道を歩いていた。鈍色に赤い罅が入った空が見下ろし、割れた道路や家の隙間から草や木が生え、半壊した建物の瓦礫が時折道を塞ぐ。そこに同じ形の座椅子のような物が転がっている。この椅子は旧時代ではリフトと呼ばれ、空を飛んでいたらしい。
「星火……疲れてきたよ……」
教団に囚われ狭い部屋の中で生涯を過ごすはずだったニナは、日頃の運動不足が祟って既に足が重い。カンテラを持つ星火に遅れないよう足は止めないが、小さな体は限界が近かった。
「もう少し歩けるか? ここで休むのは危険だ」
「休んでいいの!? 頑張るぞ……」
「夜明けが近い。その前に比較的安全な場所へ行く」
夜が明けると水辺では凶暴な魚が活発に動き出す。水に近付かなければ良いというわけでもない。この地面のすぐ下に水があった場合、足下から地面を割って魚が飛び出すこともあるからだ。そんな規格外の破壊力を持つのはかなり巨大な魚であり、半壊する建物の殆どはそいつの仕業だ。なので壊れた建物の近くに長居するのは危険だ。
星火はニナに手を貸しながら瓦礫を越え、高く聳え立つ建物を指す。地下で天井ばかり見ていたニナは、こんなに背の高い建物を見るのは初めてだ。
「これは……ビル?」
「マンションだ。住居郡だな。ここを登る」
「え!?」
見た所、片手で数えられる程ではない階数だ。ニナはマンションを見上げ、頭がくらくらとした。
「ざっと十五階建てか? せめて半分は行きたいな」
「半分って……七階!? 八階に行くの!? もう足が棒だよ!」
「ニナはもう少し体力を付けた方がいい」
「でも今から急に体力が湧くわけじゃない……」
「あまり下の階だと荒らされてるだろうからな。折角なら何か食料とか、有用な物を見つけたい」
「食料……そう言えばお腹空いてきた」
「だろ? 登れる所まで登れ。それで七階以上に辿り着けなかったら僕が背負う」
「背負ってくれるの? うっかり惚れそうだった」
「勘弁してくれ」
旧時代の建物の強度はかなりのもので、少なくとも百年以上、放っておいてもしっかりと立っている。壁紙や塗装は所々で剥がれているが、石の壁は壊れていない。
マンションの一階には少し水が入り込んでいたが、大きな魚が泳げる深さではない。星火は躊躇わず堂々と、ニナは恐る恐る浅い水を歩いて階段へ向かう。
エレベーターは当然動かない。動かせたとしても、長年管理がされていなかった宙吊りの箱など恐ろしくて乗れやしない。
何も荷物を持っていないのにニナは足が重くゆっくりと登り、革鞄を背負っている星火の振り向く回数が増えていく。
「……五階か。頑張った方だな」
「が……頑張りました……」
邪魔になる革鞄をニナに背負わせ、手にカンテラも持ってもらう。星火は纏めて背負った。
「星火は疲れないの?」
「慣れた。それに男の方が力がある。十歳だと体も未熟だから、付いて来られると僕のプライドが傷付く」
「その割に滅茶苦茶歩かせたな……」
ニナを背負って、星火は十三階で足を止めた。
「この辺りでいいか」
「星火も十三階が限界か……」
「同じことを考える人が上にいたら面倒だからだ」
廊下を奥に進み、適当なドアを開ける。オートロックのドアだが、旧時代の崩壊により解錠されたか施錠されたままか、これは運だ。今回は開いていたので壊す手間が省けた。
「……荒らされてるな」
鍵が開いているならこうなっているだろうことも想像できた。驚くことでもない。下の階でドアを調べてから階段を上がることもできたが、他のマンションを探すニナの体力と時間は無さそうだったので確かめなかった。
「食料は無いってこと?」
「とりあえず休め。その間に物色する」
背から下ろされたニナは鞄を背負ったまま手前のドアを開けた。トイレだった。トイレでは横になれない。
奥の方のドアを開ける星火に倣ってニナも奥のドアを開ける。蓋の閉まった大きなカプセルが二個、横たわっていた。
「機械だ。機械だよ! 星火!」
「それはベッドらしい。確か非常電源がどうとか……」
一旦物色を止め、ニナの寝床を確保する。星火はカプセルに手を這わせ、それらしきスイッチを探り当てた。いざと言う時に気付かなければ非常のスイッチの意味が無い。カプセル型ベッドのことを知らなくても探り当てられるデザインに感謝した。
「ひっ!?」
ゆっくりと蓋が開いたカプセルの中には骨が収まっていた。頭蓋骨から爪先まで綺麗に並んでおり、この中で眠りながら死んだことを窺わせた。
「骨を取り出してから寝ろ」
「ま、待って待って! 骨が寝てたベッドで寝ろって!? それはちょっと……」
「我儘だな。贅沢なんて言ってられない世界だぞ」
「まだ地上に足を踏み入れたばかりだから大目に見て……」
魚に食われてしまったが旧時代の生き残りの少女を思い出しながら、星火はもう一つのカプセルの蓋を開けた。あの少女も本来ならこうしてカプセルの中で骨になっていたのだろう。
二つ目のカプセルには何も入っておらず、ニナは覗き込んで胸を撫で下ろした。鞄を下ろし、寝心地の良いベッドに横になる。旧時代のベッドはとても柔らかくてすぐにでも眠ってしまいそうだ。
「絶対、蓋は閉めないでね」
「わかった。二つ共開けておく」
「撤回。骨の方は閉めて」
注文が多いと思いながら、星火は言われた通りに骨が眠るカプセルの蓋をきっちりと閉めた。
革鞄を背負い、星火はカンテラを手に物色を開始する。
ニナが明かりを攫われ暗いと喚かないことに安心する。一人で暗い地下の部屋にいた所為だ。親が生きていた頃は薄暗い部屋で親も共に過ごしていたが、それ以降は彼女は一人で、独りに慣れてしまった。
星火がニナに出会った頃にはもう彼女の親はいなかったので、どんな親だったのかは知らない。星火が攫われてきたのは護衛を遣らせるためだが、ニナを独りにさせないためでもある。
(台所も荒らされてる。食料は期待できないな……)
棚の扉は殆どが半開きになっている。隙間から見える中身は空っぽだ。
(残っているのは腐った食材……だけか?)
長い年月を経ても食べられる物と言えば缶詰くらいだ。人の多い都市部は空が壊れた直後の混乱で荒らされている場所が多い。
食料など無さそうだが、引き出しも開けて確認する。調理道具が収まっているだけだった。
(他の家も見てみるか)
ニナが眠っていることを確認し、星火は廊下へ出た。こんなに不気味な世界でもすぐに眠れるニナは大物だ。そこだけは感心する。
一人残されたニナは、窓から差し込んだ光で目が覚めてしまった。空は鈍色で太陽もよく見えないが、カンテラなどいらない程の明るさになっている。地下にいると、昼は明るく夜は暗いということもわからないため、夜が明けたと認識できなかった。
こんなに明るい部屋は初めてだ。ニナは目を擦り、欠伸をしてベッドから降りる。光差す窓を覗くと、眼下に壊れた街が広がった。
「わ……凄い。明るくてよく見える。これが……昼? 森に街が生えてるみたい……ん? 街から森? どっちだ?」
キラリと光るのは水だろう。近付いてはいけない場所だ。
何もかも初めてだ。こんなに広い街も、明るさも、草木も、それをこんなに高い場所から見下ろすことも。星火から話は聞いていたが、実際に見るのとではやはり違う。感動と共に腹が鳴った。
「星火ぁ、食料は見つかった?」
振り返るがそこには自分の影しかなく、声どころか物音も聞こえなかった。
「星火?」
聞こえなかったのだろうかと部屋を出、他のドアを開ける。台所があり、棚の扉は殆どが開け放たれていた。
「おお……」
台所なら地下集落にもあったが、近寄らせてもらえなかった。刃物を使うので危ないと言われた。
調理道具や置物などが転がった床を跳び越えて台所へ両手を掛ける。半開きの扉から包丁が見えた。
台所の隅には無骨な鉄の塊が鎮座している。あれが調理を行う機械だ。
(無骨な機械は旧型、洗練されたのが新型、って星火は言ってた。あれは……旧型?)
教えてもらったことを思い出しながら、コンロに触れる。
(熱くない。当たり前か)
地下では遠目にしか見られなかったが、旧時代の物との違いはわかる。
(換気のできない地下では滅多に火を使わないけど、地上では火と電気を使うって星火は言ってた。地下では専ら鉱石。カンテラも鉱石だよね)
教えてもらったことはちゃんと覚えている。頭の中で得意げになる。
(旧時代にあった火とか電気とか……何か色んなのが結晶化して便利な鉱石になって、転がってるんだよね……ここには何も転がってないみたいだけど)
暫く物色してみたが、一人だと物足りなかった。星火はいつも一人で探検していたが、楽しかったのだろうか。話を聞くのは楽しかったが。
「……星火、トイレまだぁ? 開けるよ」
言うや否やニナはトイレまで走り、ドアを叩いた。返事が無い。
「星火? お腹痛い? 返事しなかったら開けるよ」
三秒待ち、何も聞こえなかったので意を決してそろりとドアを開けた。
「……あれ?」
中には誰もおらず、使用した痕跡も無かった。
ドアを閉め、もう一度考える。嫌なことを思い付いてしまった。
「まさか……置いて行かれた!?」
他のドアも全て開けて誰もいないことを確認し、ニナは大慌てで廊下に飛び出した。廊下からも鈍色の空が見える。
「星火あぁ! 置いて行かないでよお!」
きっともう食料を見つけてマンションを下りてしまったのだ。親切にベッドまで見つけてくれたのは、ニナが寝ている間に置いて去るためだったのだ。ニナは泣きそうな顔で、登ってきた階段を駆け下りる。少し寝ただけだが、体力が回復したお陰で足が軽い。
「!」
勢い良く一階の床に飛び降りたニナは、水飛沫が散って目を丸くした。
「みっ、水!? 何で!? 来た時より増えてる!?」
来た時は靴底が浸かる程度の浅さだったが、今は足首まで浸かっている。早く水から出なければと思うが、出て行った星火を追うなら水の中を進んで出口へ行かなければならない。
「ど、どうしよう……ううん、大丈夫! このくらいの深さだったら大きい魚は泳げないよね」
早く追わなければ追い付けなくなってしまう。ニナは水を蹴り、抵抗を受けながら突き進んだ。
「……ん?」
地面は固いはずなのに、柔らかい物を踏んだ。布でも落ちていただろうかと視線を落とし、血の気が引いた。
「わああああ!」
踏んだのは魚の尾だった。地面の灰色と同化し、気付かなかった。足を上げ慌てて後退しようとするが水は浅くても重く、思うように動かせず尻餅を突いてしまった。
浅い水の中でもするりと泳ぐそれは平たい魚だった。厚みはあまりないが、体長は一メートル以上ある。
魚は踏まれた腹癒せか、平たいのに大きな口を開けてニナに飛び掛かった。
後退するが、水中では魚に勝てない。頭は引いたが足に噛み付かれ、ニナは叫ぶ。今まで感じたことのない痛みが襲った。自由なもう片方の足で魚を蹴るがびくともせず、立ち上がろうとしても噛んだ足を引かれて転び、水を呑む。
「……がぼっ! っあ……ああ!」
足が食い千切ぎられる。何か掴まる物をと探すが、ニナの力では魚の力に抗えなかった。
無駄な抵抗をする彼女を食おうと魚は尾を振るが、不意にぴたりと歯を上げる。突然徐ろにニナから離れて方向を変え、マンションを出て行こうとした。
「…大丈夫か?」
耳に微かに澄んだ音色が聴こえていた。ニナは涙を零しながら、階段から飛び降りてきた彼の服を掴んだ。
星火は片手に銀笛を、もう片手に包丁を持っていた。その包丁を、逃げる魚――カスザメに向かって投げた。包丁が頭に刺さって口が留められた魚は尾を叩いて暴れるが、もう一撃受けると徐々に大人しくなった。
「逃がすか。食料」
「びええええ!!」
助けが来たことで安心し、ニナは大声で泣き出してしまった。
水を赤く染めていく彼女をまず担ぎ、星火はもう片腕で、動かなくなった魚の尾を掴んで引き摺った。水から出て、駆け降りた階段を再び上がる。
「……何で下に下りたんだ?」
その声はとても静かで、怒っているようだった。
「せっ……星火が……置いて行ったぁ……」
「置いて行ってない。他の家も物色してただけだ」
「そんなの……知らない……」
「目覚めるのが早過ぎる。もっと寝てろ」
ニナはぼろぼろと大粒の涙を零し、口を固く結ぶ。痛みと不安と安堵で頭がおかしくなりそうだった。
「……怪我をさせたことは悪いと思ってる。護衛失格だ。ごめん」
「…………」
「浅くても水は危険だ。水位は上がることも下がることもある。僕がいない時は近付くな」
ニナは星火の服を掴み、顔を押し付けて涙を拭いた。鼻水も拭いたかもしれない。
血を流すニナを元の階まで運ぶことはできず、四階で断念して適当な家に入る。仕留めた魚は玄関に置き、浴室にニナを座らせた。
「痛み止めは無いから暫く我慢してくれ」
「……初めて怪我した」
「痛みを知ったら今後は慎重になれるな」
鞄を置き、カンテラを灯して置く。隅にあった低い椅子の上に負傷した足を載せて確認する。
「刺さった牙を抜く」
「い……痛い……?」
「刺さってる方が痛い」
ニナは歯を食い縛り、治療に耐えた。幸い、縫合必須の傷ではなかった。星火が駆け付けるのが早かったからだ。血を拭って止血し、消毒をして包帯を巻く。ニナの涙は止まらなかったが、声を出すことは耐えた。
「これが君の足に刺さっていた」
抜いた二本の牙をニナの前へ翳し、彼女は顔を顰めて口をへの字にした。
「記念に持っておくか?」
「嫌がらせか……」
「教訓になっただろ。そんなに僕が信じられなかったか?」
「……ごめんなさい……星火が言葉足らずの所為……」
「……努力する」
星火はニナを抱え、奥の部屋のカプセル型ベッドへ彼女を座らせた。この部屋にはカプセルが三つある。
「食べる物を用意する。置いて行かないから待ってろ」
「……わかった」
「こういうのを見つけた」
灰色のぬいぐるみを渡し、星火は部屋を出た。ぬいぐるみという存在は知っているが、触るのは初めてだ。ふわふわと手触りが良い。何の生き物かわからないが、耳が長い。
玄関から何かを引き摺る音がし、少し間を開けて床にびたんと落ちる音がする。
寝転がって待っていると、ニナはまた眠ってしまった。置いて行かないと言われ、安心したのだろう。
今度は軽く肩を叩いて起こされ、目の前に皿を差し出される。皿の上には焼いた白い塊が湯気を立てていた。
「……何これ?」
「さっきの魚だ。骨があるから気を付けろ」
「私を食べようとした魚を食べるの……?」
「魚は地上で最も入手し易い食料だ」
「それ奏者だけなんじゃ……」
ニナは魚なんて食べたことがない。魚は大きな口を開けて鋭利な歯がびっしりと並び、美味しそうには見えない。身を見ただけで凶悪な顔が浮かぶ。
だが目の前でベッドに座って自分の分の魚を食べる者がいる。贅沢など言えない地上では好き嫌いはできない。渡されたフォークを手に、ニナは眉間に皺を寄せながらも空腹には抗えず齧り付いた。
「! 美味しい! 何で!?」
「何で……? 僕の味付けが良かったか? 油を少しと、塩を振っただけだが」
淡白な味だが、それ故に味付けによって様々に化けそうだ。骨から簡単に外れる身は、魚を初めて食べるニナにも食べ易い。
「先に言っておくが、僕は凝った料理は作れない。あまり調味料を持ち歩けないし、腹を満たせたらそれでいい」
「魚って、どの魚でも美味しいの?」
「当たり外れはある。泥臭くてとても食べられたものじゃない奴や毒のある魚もいる」
「食べたの?」
ニナはよく食べ、地下の圧迫感から解放された所為か、おかわりもした。眉間の皺はすっかり解けている。
「ニナ、髪を切るか?」
「え?」
最後の一切れを咀嚼していると、星火はやや躊躇うように提案した。ニナはきょとんとし、最後の魚を飲み込む。
「あまり髪が長いと動き難いだろ。それにそのスカートも。足場の悪い地上ではズボンの方がいい。……怪我が治るまではスカートでも構わないが」
「いいよ。でもずっと長かったから、急に短くなると寂しいな……お母さんが、長い方が可愛いって言ってた」
「…………」
屈託無く笑うが、星火は発言を取り下げるか迷った。まさか母親との思い出があるとは思わなかった。ニナの両親はもうこの世にいない。譬え犯罪者の血を引いていようと、ニナの味方になってくれる人は死んだ親だけだった。
「一度に短くは……半分にしよう。まずは」
ニナの髪は膝ほどまである。半分切り落としてもまだ長い。
「もっと切らないの?」
「一気に切って後悔するより、徐々に慣れていこう」
「後悔するって決め付けないでよ」
髪なんて放っておいてもまた伸びる。後悔したならまた伸ばせば良いだけだ。何故切る側の星火が躊躇するのかと、ニナは理解できない。
星火は空になった皿とフォークを回収して台所へ運ぶ。食器はこの家にあった物だ。律儀に洗いはしない。捌いた魚も血塗れでそのまま床に転がっている。
鋏を持ってニナの所へ戻り、まずは軽く髪を梳く。長い髪は地下から逃げ出す内にすっかり縺れてしまっている。
「ねえ、何で急に集落が襲われたんだろうね。これまでずっと隠れられてたのに」
「推測だが、おそらく内部に裏切り者がいたんだろ」
「!?」
「夜会は集落の皆が一箇所に集まる。皆殺しには最適だ。集落の場所、更に夜会の日時を知るのは内部の人間だけだ。顔を隠していたのは、知人に見られたくなかったからだ。声を掛けられたら、自分も教団にいた抹殺対象だと知られることになるからな」
「何で……」
「親が犯罪者を崇めていたとしても、その子供まで崇めるようになるとは限らない。血が繋がっていても思想が同じとは限らない。ニナが犯罪者と同じ思考を持たないのと同じだ」
「皆、崇めてるんだと思ってた……」
「集落の外には空を壊した犯罪者を憎む人がごまんといる。その人達を見つけて仲間を募り、決行した。内部の手引があったなら、ニナの死体が無いことも訝しむ。もう少しあそこから距離を取るまで、あまり顔を晒さない方がいい」
「あっ……だから髪を切るの? 変装?」
長い髪が次々と床に落ちていく。ニナには切る音が聞こえるだけだが、少しずつ頭が軽くなっていくのを感じる。
「そこまでは考えてなかったが。内部の人間なら僕のことも知ってるだろうな。水辺に近寄れば水に落としてやるんだが」
「人助けをする奏者が蹴落とそうとしてる……その潔さ、嫌いじゃない」
足の傷は痛むが、話している間は少し忘れることができた。一人じゃなくて良かったとニナは心から思う。
「……できた。結構短くなったな」
引き出しを物色して見つけた手鏡を前に出し、受け取ったニナは思わず声を漏らした。膝ほどまであった髪がばっさりと肩甲骨の辺りまで短くなっている。
「頭が軽い」
「切った髪はどうする? 記念に持っておくか?」
「何でも記念にしようとしないで。いらないよ。ゴミじゃん」
ニナは潔い。星火の方が躊躇ってしまう。
「新しい髪型、どう思う?」
振り返ったニナの目はキラキラと何かを期待していた。星火はすぐに察した。おそらく彼女の母親のように『可愛い』と言ってほしいのだと。可愛いと言ってもらった長い髪を切り捨て、名残惜しい気持ちも少しはあるのかもしれない。
「いや別に何も」
だが星火は期待に応えなかった。本当に何も思わなかったのである。
期待はしていたが想像通りの言葉だ。ニナは剥れたが、突然『可愛い』などと言われても途惑う。容姿は良いのだから、星火の口が上手ければ今頃周りに女性を大勢侍らせていることだろう。口が上手く回るはずがない。
「そんなことより、行き先が無いんだが、何処か行きたい所はあるか? 無いなら教団跡地から離れる方向にまっすぐ歩くが」
「行きたい所? んー……特に何も……あ! 神社は? 神社って奴に行ってみたい」
「御守りのか?」
「うん! 御守りを貰える場所ってどんな所かなって」
「機械化が進んでも神への信仰心は衰えずに神社は残っているはずだが……正確な場所がわからない。かなりの数があるようだから歩いていたらどれかには辿り着きそうだが」
「星火も見たことがないの?」
「攫われる前に見たことがある」
「それって、星火の家の近く?」
「そうだが、今は家の場所もわからない。攫われたからな」
「何か私が悪いみたいに聞こえてきた……」
「別にそこを目指さなくていい。神社はその一つだけじゃない」
「上から見たらわかる?」
「そうだな。神社には目立つ鳥居がある。見ればわかるはずだ」
「鳥居? 何かわからないけど星火しか見つけられなさそう」
ニナは早々に諦め、あっけらかんと笑った。
「歩くのは夜になってからだ。それまで休んでろ」
「寝ても置いて行かない?」
「置いて行かない。怪我をしている間くらい大人しくしておいてくれ」
星火は溜息を零しながら隣のベッドへ腰掛け、革鞄から銀笛を取り出した。細長い銀色の笛は光を受けて輝く。
銀笛は現状唯一の武器だ。手入れは怠れない。ベッドに横になるニナに見られながら笛を分解して掃除をする。
「その笛、私でも吹ける?」
「練習をすれば吹けるはずだ。だがただ吹くだけじゃ魚は追い払えない」
「吹かせて」
「…………」
星火は溜息を吐き、分解したばかりの銀笛を組み立てた。一度吹かせてやれば満足するだろう。後にまで何度も言われるより先に吹かせておいた方が煩くなくて良い。
ニナは目を輝かせながら星火の真似をして横向きに笛を持ち、指で穴を押さえる。大きく息を吸って吹き込み、案の定音は出なかった。
「不良品だ」
「勝手に不良品にするな。僕は吹ける」
「これ難しいよ。全然音が出ない。何かエリートって言うのがわかった」
一日練習しても吹けないだろう。星火に教われば一つくらい音が出そうだが、教えるのが得意とは思えない。納得しながらニナは銀笛を返却した。
「星火はどのくらい練習して音を出せるようになったの?」
受け取った笛を再び分解し、掃除を再開する。
「言葉を話せるようになる前に音は出せていたそうだが、旋律を奏でられるようになったのは……三歳か四歳だな」
「さすが名家……凄い英才教育」
「拙い旋律だったが、それでも並よりは上達が早かったらしい。普通は五、六歳……らしい」
「天才だったのか……」
素直に感心するニナを一瞥し、星火は笛掃除に精を出す。
「私が吹けるようになったら、魚は尻尾巻いて逃げてくれるかな?」
「大きさによる。僕の血筋だと完全に追い払えるが、それ以外だと小さい魚しか払えないらしい」
「ふぅん。特別な血なんだね。前にも聞いたかな?」
「少し話した。小さい魚でも、払えないよりマシだ。さっきニナを噛んだ魚くらいなら追い払えると思う」
「あれで小さい方!? 大きいのは会いたくないな……」
「僕が会った旧時代の女は大型に遣られた」
ニナは横になったままぷるぷると震えた。大型は意外と身近にいるらしい。
恐怖で眠れないかと思いきや、ニナは話を聞きながら眠ってしまった。初めての地上で疲れ、星火の声も物静かだからだ。寝てばかりな気もするが。
夜まではまだ時間がある。銀笛の手入れを終えた星火も仮眠を取っておく。
(子守は疲れるな……)
仮眠のつもりだったが、星火も疲れていたようだ。
辺りが暗くなった頃、先に星火が目を覚ました。
「しまった……寝過ぎた」
夕刻頃に目を覚ますはずが、とっぷりと暮れてしまった。外はもう真っ暗で、部屋の中もよく見えない。
出発が遅れると移動できる距離も少なくなってしまう。急いでベッドから足を下ろし、一秒も経たない内に慌てて引き上げた。
(水……!? ここは四階だぞ!?)
薄っすらとだが、水を踏む感触があった。枕にしていた革鞄からカンテラを取り出し、灯し石に明かりを点ける。照らされた床には水溜まりができていた。水深わずか数ミリメートルの水溜まりだが、ここは四階だ。この部屋の何処からか漏れた水でない限り、階下は全て水中ということになる。
眠るニナの姿を確認し、窓へと歩む。魚は水面を揺らすと寄って来る。飛沫が上がるほど水を揺らすと確実に付近にいる魚が来るため、なるべく波を立てないようにする。
窓外を見下ろし、彼は眉を顰めた。
「ここは沈下した場所か……」
この部屋から染み出した水ならどれほど良かっただろう。四階から下は全て水に浸かっていた。外はまるで海のようだ。一刻も早く上階へ避難しなければならない。
「ニナ、起きろ」
少し強めに肩を叩いてニナを起こす。彼女は半開きの寝惚け眼で星火を見上げた。
「おはよう……朝ご飯」
「寝惚けていてもいいから、僕の背中に乗れ。早く」
片足を負傷しているニナを歩かせるわけにはいかない。鞄を背負わせ、小さな体を支えながら何とか負ぶう。
「いっ……」
「我慢しろ。足元は水だ。落ちるなよ」
「水……? ……えっ!? 何で……?」
「地面が沈下している場所らしい。地下を掘り回ったために徐々に地上が下がって、その窪みに水が溜まるんだ。僕もここまで水位に差が出る場所は初めてだ」
「昨日の夜は何ともなかったのに!?」
「水位が上下する周期がきっちり一日じゃないんだ。水の謎は多く、もっと調べてみ」
「とにかく全部水に沈んじゃったんだね!?」
もどかしく玄関のドアを開け、二人はぽかんと口が開いてしまった。
マンションの外に、体長は優に十メートルを超える巨大な魚が大きな頭を覗かせている――古生物の鯨、リヴィアタン・メルビレイだ。
「わ……あ、ぁ……」
「絶対に手を離すな!」
星火は片手でニナを支え、階段へ走った。下へは行けない。上に逃げるしかない。
鯨の動きは緩慢で、二人の動きを目で追いながら方向を転換する。
星火が階段を駆け上がり始めた所で漸く鯨は二人が出てきた家に向かって大きな口を開いた。並んだ鋭利な歯が覗く。
ニナは震えながら、星火の首を絞めんばかりに両腕で必死に掴まった。鯨がマンションの壁に齧り付き、足元が揺れて転びそうになる。あんなに大きな魚に齧り付かれたら足が千切れる所か体がバラバラになるだろう。
「し……死ぬ……百人は食い殺したって顔してる……」
「少し手を緩めてくれると助かる……」
何度目かの振動で倒れそうになりながら、星火は屋上のドアを開けた。体力があると言っても限界はある。へとへとだ。肩を大きく上下させ、全身で呼吸をする。
「はぁ、はぁ……人を背負って駆け上がるのは……」
首を絞めるニナの手を軽く叩き、カンテラを持たせる。代わりに星火は銀笛を持ち、鯨のいる方へ、柵の際に立った。眼下を見下ろし、マンションを叩き折ろうとしている姿を捉える。
距離はあるが、銀笛の音色は通りが良い。怯まずに澄んだ儚い音を奏で、鯨はぴたりと動きを止める。そのまま静かに大きく畝り、呆気無いくらいに興味を失ってさっさと水の中へと沈んでいった。
「行った……?」
「……あそこまで大きい魚は初めて見た。さすがに追い払えないかと思ったが……効くんだな」
「な、何であんな大きいのが……何処から来たの!? と言うか今は夜だよ!? 夜は大人しいんじゃないの?」
「殆どの魚は大人しいが、全てじゃない。ああいう大型は奏者の間では風船魚と呼ばれている。増水と共に何処からか現れ、膨らんだ風船のように巨大化する。特定の種をそう呼ぶわけじゃなく、巨大化する魚をそう呼んでいる」
風船魚は同名の魚が存在するが、それとは別だ。
「風船ってそんなに大きくなる……?」
「僕も本物の風船を見たことはないが、表現として旧時代から残ってるんだと思ってる。……疲れたな」
ニナを下ろし、星火もぐったりと腰を下ろした。まだ息が上がっている。
「もう一日休む?」
「どのみちこの水位じゃ移動できない。水が引くまで待機だ。これ以上は増えないと思いたいが……念のため休憩所は最上階にしよう。……これだけ沈下してもこの規模の建物が倒れず立っているのは凄いな。旧時代の技術はそれだけ高いのか……」
「星火、おんぶ」
「また背負うのか……」
「星火のプライド、頑張って」
あと一階分は頑張ろう。星火はそう気合いを入れて背を向け、ニナを背負う。一日分の体力を一気に使い果たした気分だ。




