11-暗闇ホテル
壊れた夜空の下でカンテラを提げ、三人は廃墟と草木が蔓延る静かな街を歩く。
瓦礫の足元を照らし、星火はニナの手を繋ぎ、ナナは一歩後ろを歩く。
「――へくちっ」
「何、今の? くしゃみ?」
「寒いか?」
ニナは鼻を啜り、首を振る。
「夜は冷えるからな」
三人は上着を着用しているが、真冬では少し寒く感じる厚さの生地だ。耐えられないわけではないので夏以外はそれを着続けている。この時代で上着を何着も持っている者など稀有だろう。
「寒いなら何処かでマフラーでも入手するか?」
「集落を探すの?」
「見つかれば、だが。あとは行商機だな。人間の行商もいるが、大金を強請られるから勧めない」
「私も行商機がいい。また会いたい」
「行商機は文句を言わないし公平だからいいわよね。私も昔、話し相手になってもらったことがあるわ。返事は無かったけど」
「寝てたのかな?」
「起きてたわよ」
動いていたのだから起きている。ナナが話していた時は立ち止まっていたが、起きていたはずだと記憶を辿る。
「……ナナ。君の言っていた場所はまだ先なのか?」
「もうすぐよ。でもこの暗闇だったら見えないかも。何処か背の高い建物で夜が明けるのを待つ?」
「高い建物か……どのくらいの高さだ?」
「そうね……五階以上、とか?」
「マンションかビルか」
「ねぇ、あれは?」
ニナは然程離れていない場所を指差す。カンテラの光に照らされる範囲は狭いが、ニナの目には範囲外の大きな建物が映っている。
「ニナって夜目も利くの? 本当に目がいいわね。羨ましい。私、少し鳥っぽいのよね」
「少し……鳥?」
「鳥みたいに夜は目が見え難いの。鳥は見たことある?」
「ない」
「翼が生えてて、空を飛ぶのよ。私達は夜ばっかり歩いてるから見掛けないけど」
「鳥のことは星火にちょっと聞いた!」
「セイは見たことあるわよね?」
「ある。鶏を飼っていた」
「飼ってるの? 想像を上回ってくるわね。私、ペンギンを見てみたいの。飼ってる?」
「それは飼ってないな……」
三人はひそひそと囁きながら暗い夜道を歩いて背の高い建物へ向かう。風も無く草木は揺れず、まるで絵画のようだ。
「ペンギンってどんな鳥?」
「飛べないんだけど、泳ぐのが得意なのよ。水辺に現れないかしら? とっても可愛いのよ。行商機とちょっと似てる」
「鳥なのに飛べないの? 見てみたいな」
「鶏も飛べないけどね」
ニナが見た大きなその建物は近くで見ると一層背が高く見えた。割れた硝子のドアの向こうに広い空間があり、褪せた赤い絨毯が敷かれている。今は破れて汚れているが、座り心地の良さそうなゆったりとした椅子が転がり、背の低い机がそっぽを向いている。
「これマンションじゃないわね。ホテルだわ」
「ここで休むか?」
「ホテルはつまらないんだけど……他を探し回って体力を使うのも馬鹿らしい」
「僕もホテルには余り興味がそそられないな」
「階段はあるかしら?」
「非常階段しかないんじゃないか?」
非常口の案内を見つけ、壊れた調度品を跨いで三人は階段を目指す。
「何でホテルはつまらないの? ホテルはお泊まりする所だから、ベッドはあるよね?」
「ベッドはあるわよ。一般家庭よりちょっと良いベッドが。でも日常生活する人がいないから情報が落ちてないのよ。旧時代の情報集めを楽しんでるのに、宿泊者の骨しか落ちてない」
「ほ、骨……」
「ホテルでは食料も見込めないんだ。備蓄品はあっただろうが、目立つホテルの食料なんて皆思い付く。とっくに漁られて空っぽだ」
非常口のドアを開けると外だった。外壁に沿って金属製の階段が取り付けられている。当然と言うように錆び付いて朽ちていた。
「雨風に晒された鉄の階段……登る?」
「あまり上りたくないな」
「私が試しに上ってあげる」
「死のうとするなよ……」
「しないしなーい」
ナナは楽しそうに笑い、跳ねるように階段を上がった。もっと慎重にと星火は声を上げたかったが、跳ねて壊れるようでは星火は登れない。
錆びてはいるが致命的な腐蝕は無く、ナナは跳ねながら五階のドアを蹴り破って廊下へ入った。軋んでぱらぱらと錆が落ちるが、頑丈に厚く作られた階段のようだ。
「ニナ、壁側を歩け。階段は無事でも柵は壊れるかもしれない」
「セイが落ちそうになったら、私が引っ張る役?」
「一緒に落ちるだろ。手は出さなくていい」
「死のうとするなよ」
「真似するな」
ニナはナナが死のうとしていた一件を知らない。あれを知らなければ言葉の真意は掴めない。
星火は階段の一段目に片足を乗せ、ゆっくりと体重を掛ける。両足を乗せて踏み締める。
「……思ったより頑丈だな。留め具も錆びているが、石の囲いがある。雨に晒され難くしてるんだな」
とは言いつつナナより確実に体重が重い星火はゆっくりと階段を上がった。それを見てニナも一段一段ゆっくりと足を上げる。ニナの体重で壊れるなら、ナナと星火は疾うに地面にいる。
二人が五階に到着した時には既にナナは客室のドアを蹴り付けていた。
「さすがに蹴破るのは無理だろ」
「全部鍵が掛かってるの」
「諦めた方が良さそうだな。鉄のドアは壊せない」
「チェーンソーとか、あればいいのに」
「電気で動かす物は当てにできないな……」
充電できる場所はあるが、何処にでもあるわけではない。潤沢に電気が供給される場所は稀だ。
「じゃあホテルの屋上に行くしかないじゃない。廊下に窓は無いし。さっきエレベーターの方まで行ってみたけど、このホテル二十六階建てだったわよ」
「に……二十六……」
ニナは数字を聞いて震えた。聞いただけで脚が棒になりそうだ。
「階段から見えないか? 目的地の方は見えると思うんだが」
「ああ……結構広いから見えるかも」
「階段から見ることにしよう。それまでは中で休む」
「そう? 私は何か面白い物がないか探してくる」
「君は元気だな」
「エレベーターの前に椅子があったわよ。そこを集合場所にしましょ」
ニナは二十六階を登ることにならずに済んで胸を撫で下ろしていたが、ナナは二十六階だろうと登る体力がある。早速廊下を見回し、ナナは非常階段の方へ身軽に歩き出す。
「ニナはどうする? ナナに付いて行ってもいいが」
「行きたいけど休む。これから面白い所に行くんだから、体力温存する」
「そうか。じゃあ僕もその辺を見て来るから、ニナはエレベーターの方で待っていてくれ」
「セイも行くの!? ……じゃあ私も行く……」
「体力温存するんじゃなかったのか?」
「体力……つける……」
「無理に僕に合わせなくていいよ。ニナとは体格も違って体力も差がある。ニナの方が先に疲れてしまうのは当たり前だ」
「探検楽しそうだから行く」
「五階に戻る体力は残しておくようにな」
「はい」
ニナは真剣な顔で頷くが、彼女はまだ体力の配分ができない。動けなくなった時は星火が背負うことになる。
それでも少しずつ体で覚えていけば良い。星火はナナが向かった非常階段とは逆のエレベーターの方へ行く。
直線の長い廊下の真ん中ほどで道が分かれ、左に曲がるとすぐにエレベーターがあった。壁際には一階にあったのと同じ椅子が四脚、あちこちを向いていた。
「やっぱり休むの?」
「いや。フロアの案内があればと見に来た。これも電子化されている場所が多いが、電子化されていない所もある……ああ、あった」
灰色の板にフロア案内が印刷されている。汚れを拭うと、所々剥げているが読むことはできた。
「上の方は客室……一階がロビーとカフェ、二階と最上階にレストラン……」
「カフェとレストランは……旧時代のご飯食べる所!」
「そうだ。最上階は諦めて、下のカフェとレストランを見てみよう。缶詰はあまり無いと思うが」
「決め付けるのは良くないと思う」
「その場で食事を提供する店で保存食を溜め込む必要はあるか?」
「わからない。そんな店は今ない」
「旧時代は保存食が無くても生きていけたんだ。わかるだろ?」
「それはわかる。昔の人はいい物を食べてた」
「そうだな」
二人は来た道を引き返し、ゆっくりと非常階段を下った。夜が明けるまでまだ時間が掛かる。
階段から再びホテルに入り、カンテラで暗いロビーを照らし、カウンターの方へ光を動かす。手前の方にカフェらしき店は無い。
先にカウンターの方へ、中を覗く。砂塵が積もり、足跡は無い。暫く誰も立ち入らなかったと推測できる。
カウンターの上には空っぽの花瓶があるだけで、他には何も無い。カンテラを置いて跳び入り、カウンターの下も確認する。幾つかの大きな黒い板があり、割れている物もあった。
「面白いのあった?」
ニナの身長では自力でカウンターの上に乗ることが難しい。彼女は星火が移動するとカウンターの前で一緒に移動し、背伸びをして覗く。
「機械ばかりだ。面白い物は無い」
「動かせる?」
「無理だ」
奥にあるドアを開け、カンテラを翳して中を照らす。端に寄っている机と倒れた椅子、そして機械だけがあった。
「宿泊記録は全て機械で管理されている。機械を動かせたとしても、面白くはないな……」
宿泊者の名前を見ても、旧時代で知っている人間の名前など数える程だ。見ても面白くない。
ドアを閉めてカンテラをカウンターに置き、跳び越えてニナの方へ戻る。
「カフェに行く?」
「行く」
カンテラを持ち、穴の空いた絨毯に足を掛けないように注意して奥へ行く。平坦な床は、瓦礫が転がる外より歩き易い。
奥へ進むとすぐにカフェらしき囲いが見えた。硝子の壁の囲いは殆どが割れてしまっている。
入口には小さな机があるが倒れており、上に載っていた機械の画面が落ちて割れていた。
カフェの中はテーブルと椅子がごちゃごちゃと方々を向いている。
「机と椅子しかない」
「営業するどころじゃなかったんだろうな」
食事の最中なら皿やコップが残されているはずだが見当たらない。
「ホテルの最後は、宿泊より避難で訪れる人が多かったんだろ」
「ナナちゃんが骨って言うからちょっと怖かったけど、落ちてないね」
「客室の中にあるんじゃないか?」
「セイはすぐそうやって怖がらせる……」
「そんなに怖がらせたことがあったか?」
厨房も覗いてみるが、調理道具が散らばり、調理機械が道を塞いでいるだけだった。
「あ……人に営業の余裕が無くても、旧時代は機械が全部やっていたんだったな。と言うことは……営業は可能だったが、客に食べ物を提供するくらいなら、ホテルの従業員が食べる……といった所か」
「ホテルの人が皆食べちゃったの?」
星火は灰色の大きな箱に手を掛ける。箱は軋みを上げて重い扉を開いた。
「おそらく冷蔵庫だと思うが、何も無いな。調味料の瓶は幾つかあるが、とてもじゃないが味見する気になれない」
疾うに消費期限が切れたそれは、口にした瞬間に腹を下すだろう。腹を下すだけならまだ良い方だ。
「こんな大きい冷蔵庫、見たことない! 私も入れそう」
「入るか?」
「よしきた。入る」
本来なら、食べ物を保存する箱に土足で入るなと注意される所だが、もう充分汚れた冷蔵庫に汚い靴で入ろうが咎める者はいない。現代では見慣れない業務用の大きな冷蔵庫は、今は只の箱だ。
「お邪魔します」
大きく口を開く冷蔵庫に目を輝かせながら入り、隅に蹲む。小柄なニナには丁度良い個室のように見える。
「閉めてみて」
「いいのか?」
「うん」
しっかりと確認を取って星火は冷蔵庫のドアを閉めた。カンテラを持たないニナは何も見えない本当の闇を味わっているだろう。何をしているのかわからないが、子供にとっては秘密基地のようなものかもしれない。星火も少し覚えはある。冷蔵庫に入ろうと思ったことはないが。
ドアを閉めてすぐにニナは『開けて』と声を上げたが、星火には聞こえなかった。冷気を微塵も逃がさないよう閉じられたドアは分厚かった。
少々無言で待ってから、こんなことで時間を潰すのも勿体無いと思い直して星火は勝手にドアを開けた。隅で膝を抱えて顔を埋めていたニナが慌てて飛び出して星火に飛び付いた。
「骨になるかと思った」
「冷蔵庫が開けられないほど力が無いのか?」
「あっ」
「押せば開くから、今度からは自分で脱出できるな」
「冷蔵庫に入る機会はそんなにないと思う」
「じゃあ行くか」
「セイも入る?」
「入らない」
「滅多にない体験ができるよ」
「体験しなくてもいい。咎めはしないが、さすがに行儀が悪いな」
「入ってから言う!?」
掴まるニナを剥がし、星火は冷蔵庫を閉めた。
厨房を後にし、収穫の無かったカフェを出る。ホテルは何処もこんな感じだ。良い物なんて残っていない。
「部屋のドアが開かないなら、鍵を探せばいいんじゃない?」
「鍵も機械化されている。電気が通っていないと開かない」
「何でも機械、何でも電気だなぁ……充電できる所って持ち運べないの?」
「充電できる場所の下には巨大な電気石が埋まってるんだ。電気石は少量だと、電気の発生も微量で意味が無い」
「灯し石とか熱し石みたいに持ち歩けたらいいのにね」
「電気石は旧時代の頃にはトルマリンとも呼ばれていたそうだ」
「トル……? って、旧時代からあるの!? じゃあ灯し石とかとは違うんだね」
「厳密には電気石も旧時代から変化しているそうだが……旧時代では静電気が発生する程度だったらしい。現代では石の量や質によって、充電できる程の電気が発生する。旧時代の石は僕も詳しく知らないが」
旧時代の電気石は熱や圧力を加えることで静電気が発生した。その特殊な性質から電気石と呼ばれ、現代では性質を強めてその名を表している。
「何か凄い」
「そうだな。一度は見てみたい。珍しい上に埋まっているから見るのは難しいが」
「持ち運び用があったら便利だね。ドアが全部開く」
「もっと他に使い道があるだろ」
「調理機械を動かして、旧時代の料理を作ってもらう」
「他に……いやそれもいいな」
旧時代のレシピは今も残り、星火も実家では旧時代から続く料理を食べていた。だが旧時代に食べられていた物そのままの料理なのかはわからない。手を加えられている可能性もある。現代ではもう手に入らない材料もあるかもしれないが、旧時代の完全なレシピで食べられるなら味わってみたいものだ。
「そろそろ集合場所に戻るか」
「え? もう?」
「歩き詰めだろ? 休もう」
星火はまだ歩けるが、ニナはそろそろ休ませるべきだと判断する。暗い夜の内は歩き続け、今日は休むはずの日中まで歩く予定をしている。子供の体力では厳しいはずだ。
二人は収穫の無かった一階を離れ、非常階段を慎重に登って五階に戻る。エレベーターの前にナナはまだ戻っていなかったので、椅子の上を軽く払って座っておく。
「……げほっ、ごほっ」
布製の椅子は旧時代ではふかふかと柔らかく座り心地が良かったのだろう。現在は砂塵を被り、其処彼処破れて穴が空き、萎んで固くなっている。ふかふかの最初の『ふ』程度しか残っていない。それでもニナは肘掛けに頭を載せ、もう片方の肘掛けに脚を載せて寛ぐ。小柄だと狭い場所でも寛げて快適だ。
星火も休める時に休んでおこうと目を閉じる。目を閉じるだけでも多少は休まる。
ナナが集合場所に戻って来たのは、たっぷりと時間が経過してからだった。三人の中で一番体力があるのは間違いなく彼女だ。
「ただいま」
「……ん……おかえり」
目を閉じていることはわかっていたがナナは声を掛けた。ニナは起きないが、目を閉じていただけの星火は目を開けて返事をする。ナナはパッと嬉しそうに顔を明るくし、手を背に回して星火に駆け寄った。
「言ってみたかった台詞がやっと言えたわ」
「良かったな」
返事をされて初めて成立する台詞と言えるだろう。ずっと独りだった彼女にそれを言う機会は今まで無かった。
「星火達はずっとここで休んでたの?」
「いや。一階を少し見た。何も無かったが」
「でしょうね。私は最上階に行ったわ」
「二十六階か……? 登ったのか。何かあったか?」
やはり彼女は体力がある。地上で暮らしていたナナは日頃から動き回っていた。その結果だ。
「食料は無かったわよ。店って奴には真っ先に人が集る。たくさん物が置かれてることがわかってるから。でもね、」
後ろに隠していた手を前へ出す。繊細なカットが施された硝子のコップが握られていた。立体的なカットは光を方々へ弾き、宝石のようにキラキラと輝いている。切り子細工だ。
「綺麗なコップを見つけたの。他のは割れてたけど、奇跡的に欠けてないのが一つあった。硝子は脆いけど、年月を経ても汚れを取れば綺麗だわ」
「汚れを取っていて戻って来るのが遅かったのか。確かに綺麗だな」
「これで飲む水は格別だと思うわ」
「ナナの鞄に入るのか? 手に持って歩くのか?」
ナナはコップを持ったまま星火に期待を向けた。持てと目で訴えている。
「缶詰に当たって割れないといいが」
「ニナは危なっかしいから、星火に任せるわ。でも確かに星火の鞄は缶詰で一杯ね。もう少し待ってて」
戻って来たかと思えば引き返し、ナナの体力は底を知らない。
星火は背負っている革鞄を下ろし、中を確認する。少し整理をしておく。
(笛は取り出し易い所に、缶詰は重いから下、細かい物は上……コップを入れる場所がない……?)
大量の缶詰を発見した時に詰めた物がまだある。ニナから預かっている蜜柑の缶詰もまだあり、これが嵩張る上に重い。星火は眠るニナに訴え掛けるように目を遣るが、彼女は起きない。
重い物は上に載せた方が軽く感じるが、鞄の中では下の物が潰れてしまう。左右の重さが均等になるように缶詰を移動させ、場所を空けるためにも一つ食べておくことにした。
また当分戻って来ないだろうと考えて帆立の缶詰を開ける。だがナナは想定よりも早く戻ってきた。星火が帆立を頬張っている時に滑り込んで来た。楽しそうに弾んでいた彼女の表情が一変する。
「星火!」
「!」
大声を出すので星火は慌てて口元に人差し指を当ててニナを一瞥する。ナナも察した。
「内緒ってことね」
今度は声を抑え、足音を忍ばせてナナは星火の足元に蹲む。
「何食べてるの?」
「帆立」
「あ――ん」
見つかれば強請られると思っていた。鳥の雛のように口を開けて餌を待つ彼女に仕方無く帆立を一つ与える。一人で開けたが、独り占めしようと思っていたわけではない。
「鞄を少し軽くしようと思ったんだ」
「美味しい。貝は初めて食べたわ。貝を獲るには水に潜らないといけないから」
「危険なことはするなよ」
「しないわよ。深い水の底って何処にあるかわからないもの。この前の烏賊だか蛸だかだって、どのくらいの深さにいたかわからない」
急に湧いては引く水の深さは高が知れている。問題は時間が経っても水位にあまり変化が無い水溜りだ。狭ければ然程ではないが、広い水溜りの深度は誰にもわからない。
「烏賊だか蛸だかは食べたのか?」
「あれは……固かったわ。始末の仕方を間違えたかも。この貝は柔らかくて……調理法を知りたいわ」
ナナは悔しそうに帆立を味わい、本題はこっちだと空き缶を取り出す。缶の絵は殆ど剥げて褪せているが、トマトの缶詰だ。中には白い物が詰まっている。
「拾った空き缶に、外に生えてた花を緩衝材として詰めたの。これで割れないわ。それに食べられる」
完全に埋まっていて見えないが、先程の繊細なコップが中に入っている。小さな白い花が丸く集まっているそれは白詰草で、旧時代の昔に硝子製品を運ぶための緩衝材として詰められていたことが名前の由来だ。そして食べられる植物だ。
「よく取り出す笛からは離して入れておく。取り出す時にぶつけそうだ」
「私、これも食べたいわ」
鞄にコップを仕舞う星火の手元を覗き込み、ナナは蜜柑の絵が描かれた缶詰を指差す。
「これはニナのだ。欲しいならニナに言え」
「ふぅん。星火ってよく荷物持ちするのね」
「…………」
重いなら代わりに持とうと特に抵抗も疑問も無く預かっていたが、そう言われると都合の良い人間のようだ。
「機嫌を悪くした? 揶揄ってるわけじゃないのよ。優しいわね、って言いたいの」
ナナは少し照れ臭そうに笑い、口を開けた。食べ足りないらしい。餌を貰うために褒めたようだ。小さい缶詰なので中身は多くない。
「あのな……」
ナナが同行することになってから、星火は地上で安心して眠れている。ニナと二人だと彼女の身を気遣い、あまり深く眠れない。疲れて眠ってしまう時はあるが、そうなるのは数日に一度程度だ。ナナは脅威を振り払う力があり、星火が眠っていても安全が保証される。彼女とは交代で睡眠を取り、口には出さないがそれに感謝をしていた。
これは感謝の気持ちだ。大粒の帆立をフォークで突き、顔を上げる。餌を強請る雛が二人に増えていた。
「あ――」
いつの間に目を覚ましたのか、ニナもナナの隣で口を開けて待っていた。
「僕は親鳥じゃないんだが」
そうは言いつつも、ナナに与えると決めた帆立だ。突いた帆立を彼女の口へ入れる。ニナだけ無しというのも可哀想だ。ここで差別をすると蟠りが残る。ニナの口にも帆立を入れてやる。
「もう遣らないからな」
「ケチ」
「あと一個しかないんだ。もう取るな」
「それなら仕方ないわね。ありがと、美味しいわ」
「おいひい。これ何?」
「帆立だ。前に教えただろ? 貝の一種だ」
「あー。あの時の! こんなに美味しい物だったとは……」
少し弾力があり、噛むと旨みが口一杯に広がる。甘辛い醤油の味付けが食欲をそそる。
星火も最後の一つを頬張り、満足して缶をナナに差し出す。旧時代なら空き缶を渡されたらゴミだと突き返すだろうが、ナナは缶を傾けて残っている僅かな汁を端に寄せ、ありがたく飲んだ。
「いいなあ」
「日頃の行いって奴かしら」
「私も頑張る。何をすればいい?」
「そろそろ夜明けだから、外を見ましょ」
「わかった!」
空き缶を壁の隅へ置き、ナナは率先して非常階段へ向かった。しっかり睡眠を取ったニナも元気に後に続く。星火も革鞄を背負って付いて行く。
先に廊下を出た二人は夜が明けた世界を一望し、感嘆の声を上げて錆びた柵に寄り掛かった。二人の体重を受けて柵は呆気なく折れた。
金属が擦れる不快な音を聞き、星火は駆け足になる。柵が地面に落ちる遠い音は静寂を少し乱した。
「大丈夫か……?」
ニナの首根っこを掴んだナナはけらけらと笑いながら振り向いた。
「ニナが一緒に落ちそうだったけど、大丈夫だったわ」
「……心臓が、きゅってなった……」
「地上の柵は信用するな」
ニナを壁まで下げ、改めて前方を見る。変わらぬ廃墟と木々が広がっているだけだった。
「違うわ。あっち」
ホテルの壁の陰になっている方を指差す。ニナと星火も体を傾けて覗き込む。
色々なくすんだ色がぶら下がる巨大な円い木、空中を這う線、大きな船や、誰が使うのか大きなティーカップが見えた。
「何だ……?」
「遊園地よ。星火も知らないの?」
「名前は知ってる……実際に見るのは初めてだ」
「当然ね。遊園地はそんなにあるわけじゃないもの」
大きなテーマパークは数が少なく、中小規模の遊園地は殆どが閉園して取り壊されている。最新の技術で常に新しい物を提供できなくなった遊園地は、旧時代の人々から忘れ去られてしまった。だが全てが無くなってしまったわけではない。数は少ないが、こうして最後まで動いていた遊園地もある。
「ゆーえんちって何?」
「大きな玩具で遊ぶ施設よ」
「あれが玩具? どうやって遊ぶの?」
「やっぱり動かないとつまらないかしら? 近くに行ってみましょ。動かなくても雰囲気は楽しめるかも」
明るくなったのでカンテラは仕舞い、三人は非常階段を下りた。
地面には水が湧いていない。前方に集中して歩くことができる。目指すは楽しい遊園地だ。




