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1-さようなら


 穏やかな午後である。

 一日の授業が終わり、校庭では部活動に励む生徒達の元気な声が響いている。

新那(にいな)! まだ寝てるの? 新しくできたカフェに行こって言ってたじゃん」

 隣の教室から軽い鞄を提げて飛び込んで来た少女は、机に突っ伏している友人の姿を見つけて声を上げた。

「起きてるよぉ、夜依(よい)

「今起きた所でしょ?」

 新那は一つ欠伸をし、ゆっくりと椅子を引いて気怠げに立ち上がる。午後の授業はまるで子守唄だ。寝ろと言っているようなものである。

 教室の中にはまだ疎らに生徒が残っている。それほど寝過ごしたわけではないだろう。

「最近眠くてさ。成長期かも」

「最近は過ごし易い天気だもんね。でも来週は雨の投影があるよ」

「内? 外?」

「内側の雨だよ。予報見なよ。内予報なんて外れないんだからさ」

「ずっと晴れたらいいのに。投影なのに雨にする必要ある?」

「はいはい。早く行くよ。カフェ絶対行列だって」

 夜依は新那の腕を掴み、早足で彼女を引き摺っていく。

 空が冒されて何年経っただろうか。このままでは人は暮らすことができなくなる。そう言われて人間は擬似的な空を頭上に創り出した。

 人工の空は汚染された空から人を守り、任意の天気を投影する。これが内側の天気、内予報という名で予定が報告される。人の手で操作される天気なので、当然外れることはない。

 擬似空(ぎじそら)より外側の空が内に影響を与える日も稀にあり、これは外予報という名で報告される。外が大雨だと内に染みてくるのだ。外の雨は健康を害する恐れがあり、雨量によっては外出が禁止される。

 人々はこの擬似空という装置に生かされている。これが無いともう人は生きられない。だが空が汚染されていると言われても、それを正確に理解している者は極一部だ。

 頭上に巨大な機械が浮かんでいても、人々は変わらず日常を送っている。最初は落ちてくるのではないかと恐れる者もいたが、擬似空は当たり前の景色となった。日常の空に恐怖する者など最早いない。

 駐輪場で新那と夜依は自動走行する板に乗り、踵で踏んで起動する。板は僅かに地面から浮き、速度を上げて自走する。昔に流行ったらしいスケートボードという乗り物から駒を取ったような形だ。駒は無いが、慣れない内は補助用のハンドルを付けられる。

 自転車はもう古い。駐輪場という名前に名残りはあるが、そんな物に乗っている人はもういないか余程の物好きだ。

 車は当たり前に空を飛ぶし、歩かなくてもリフトに乗れば道を進める。落ちたゴミは機械が拾い、清潔が保たれる。雑草も生えないし、害虫もいない。店の店員も皆機械だ。全てが整備され徹底的に管理された街で、人々は機械に守られて生きていた。

 新しく開店したお洒落なカフェに人は列を作り、二本の腕が生えた円柱形の機械が自走し数を数える。待ち時間に客はスティック型携帯端末を取り出し、空中に表示されたメニューに目移りする。

「ああ……タワーパフェもいいし空ケーキもいい……いっそ両方いく!?」

「私ベリータワーパフェ」

「一口ちょうだい」

「まだカフェに入ってもないのに」

 気の早い新那にからからと笑い、夜依は飾り気の無い端末の表示を切り替える。見慣れた顔が映し出された。

 新那の端末には色取り取りの御守りが幾つもぶら下がっていて重そうだ。主に良縁祈願の御守りだ。良縁を必死に望んでいるようだが、あれもこれもと気になる内に御守りを集めることが趣味になってしまっただけである。

「またやってる。擬似空管理者インタビュー」

無河(むかわ)……何とかと樫水雲藻(かしみうんも)? 仕方ないよ。擬似空は凄いもん」

「まあね。でも無河は樫水に喋らせ過ぎでしょ」

「無河は口下手だから」

「まあね」

 他愛無い話で時間を潰し、順が来て機械に案内される。

『イラッシャイマセ! オ待タセシマシタ。オ入リクダサイ』

 機械が働き、その機械の管理も機械がする。人が手を出す場面は無いと言っても過言ではない。人々は殆どが労働しなくても良くなった。

 それでも新たな物を生み出すには人間の脳が一番だ。突飛な発想ができるのは人間だけである。なので流行や擬似空のような画期的な装置を生み出すのは人で、その管理も人が行なっている。

 夜依が注文したとにかく堆く聳えるタワーパフェも、新那が注文した空中に浮かんでいるように見せ掛けてどの角度からでも見て楽しめる空ケーキ――正確には空飛ぶケーキも人が生み出した物だ。

 楽しい時間はあっと言う間に過ぎてしまう。談笑しながら流行を食べた二人はカフェの前で別れ、空バスに乗って帰宅した。空バスとは空を飛ぶバスである。

 乗り物は空を飛ぶが、家は飛ばず地面に張り付いている。新那は自宅のあるマンションに入ってエレベーターで八階に上がり、誰もいない自宅のドアを開ける。誰もいないのはいつものことだ。両親は健在だが、労働の必要が無く時間がたっぷりとあるので、いつも何処かへ遊びに出掛けている。労働をしない殆どの人は機械が得た収入を分配して生活している。

(宿題……の前に仮眠しよ)

 自室に鞄を置き、蓋の開いたカプセル型ベッドへいそいそと潜り込む。現在はこのカプセル型ベッドが一般的だ。快適な眠りを約束するこのベッドは忽ち人々の心を掴んだ。そして不眠症というものがこの世から消えた。

 起床時間を設定し、カプセル内の酸素濃度を確認して蓋を閉める。外部の雑音を遮断することも忘れない。蓋が閉まればすぐに睡魔が襲い、深い眠りへ誘われる。

(ケーキ美味しかったなぁ……できればケーキかパフェの夢が見たい……)

 残念ながら見たい夢を設定できる機能はまだ開発されていない。今後に期待だ。

 深い眠りは誰にも邪魔されることがなかった。携帯端末が鳴いても気付かない。

(……あれ?)

 新那が目を覚ましたのは、ベッドの目覚まし機能のお陰ではなかった。カプセル型ベッドに寝て、自力で目覚めるのは初めてだった。

「あ!? 電源落ちてる!?」

 何でもそうだが、物が動くにはエネルギーが必要だ。電力が絶たれてしまったら機械は役立たずだ。

「非常電源使うの初めてだけど……これかな?」

 手探りでスイッチを見つけ、押してみる。聞き慣れた音を上げてカプセルがゆっくりと開いた。

「やった! 故障なのかな? 修理してもらわないと……」

 機械化が進んだ世界でも故障はある。修理をするのも機械で、その機械を家に呼んで直してもらうのだ。

 カプセルから足を下ろした新那ははたと首を傾げた。少し寝るだけのつもりだったので、部屋の明かりは消していないはずだ。なのに明かりが消えていた。真っ暗で、物の輪郭が朧げに見える程度だ。

(ママが消したのかな?)

 明かりを点けようとするが、点かない。どうやら停電らしい。どれだけ発展した世界でも、停電が起きる可能性は零ではない。

 だが新那が生まれてから、停電など初めてだった。不安を覚えながらも暗い部屋の中で手探りで窓に辿り着き、光を遮っているカーテンを開ける。

「……え?」

 外の光を取り込もうとしただけだったのに、そこにいつもの街が無かった。鈍色の空には所々に稲妻が走ったかのような赤い線が引かれている。曇天の投影なら珍しくないが、こんな不気味な天気は初めて見た。

 地上もおかしい。何も空を飛んでいない。車もバスも無い。地面に落ちていた。

 雑草など生えないはずの街で何らかの植物が伸び、見慣れた建物や地面は我が物顔で這うそれに覆われて緑色に染まっている。新那の部屋からも、触れられる距離に蔓が伸びているのが見えた。

「な……何これ?」

 夢だろうかと頬を抓るが痛い。夜依に尋ねてみようと携帯端末を起動させようとするが、何も反応が無い。

「ま……ママ!? パパ!?」

 何が何やらわからず、帰宅しているかもわからない両親を探す。だが家の中には誰もいなかった。

「ごほっ! 何か埃っぽい……」

 靴を履く時間ももどかしく、躓きながら家を飛び出し、エレベーターの前で立ち止まる。

「エレベーターって非常電源ないの!?」

 仕方無く八階の高さを階段で駆け下りた。

「よ、よし……高校生の体力に感謝……でも登りだったら駄目だったかもしれない……」

 出入口の自動ドアは開いており、やっとマンションの外へ出ることができた。

「げ」

 マンションは一段高く立っているが、前の道路が水浸しになっていた。浅い川のようになっている。

「誰もいないし、リフトも落ちてる……。地図も見れないし、どうやって夜依の家に行けばいいの……?」

 途方に暮れるが、足は動かすことにした。動いていないと不安で崩れてしまいそうだった。

「誰か……誰かいませんかぁ……」

 あまりに静かで大声を出すのは躊躇い、尻窄みになってしまう。街は時が止まってしまったかのように音が無い。人の声も機械の駆動音も聞こえない。半壊した建物もあり、道路には罅が入って隙間から知らない草や木が生えている。道路の浅い川には鰯ほどの大きさの魚が泳いでいた。

 窓の大きな雑貨店の中も真っ暗で、接客をする機械も沈黙して植物の蔓が這っている。商品は棚に殆ど無く、幾つかが転がって埃を被っているだけだった。

 こんな景色は知らない。建物や道は記憶にあるのに、今見えている景色が記憶と重ならない。変な世界に迷い込んでしまったようだった。

「誰かぁ……」

 何十分、当ても無く歩いただろうか。何かが地面に落ちるような、着地するような音が微かに聞こえた。目が覚めてから初めての自分以外の音だった。

 音の方向がわからず振り返るが誰もいない。周囲を何度も見回し、半壊した建物の隙間から現れたフードを被る人影と目が合った。そいつは背が高く、体格からしておそらく男だ。背に革の鞄を背負って黒い外套をすっぽりと纏い、新那と目が合うと被っていたフードを更に引き下ろした。

「ひ……人だぁ……」

 漸く自分以外の人間を見つけ、新那は安堵する。世界に一人だけになってしまったかのような不安があったが、少し気持ちが軽くなった。

 駆け寄る新那に男は半歩足を引くが、視線は逸らさずじっと彼女を観察する。

「あのっ! この……これ、何があったんですか!?」

「?」

 男は怪訝な顔をし、目だけで周囲を見渡す。言葉は発さなかった。

「えっと……これ……この壊れた家とか、草とか……水浸し……あっ、あの空も、初めて見る天気ですよね? 学校から帰って、ちょっと寝てたらこんなことになってて……。そうだ! 充電できる所とか、ありますか? 友達と、ママとパパに電話したいんですけど……」

 わからないことをとりあえず矢継ぎ早に質問し、彼の反応を待つ。ちょっと寝たつもりが、ベッドの故障で丸一日くらい寝ていたのかもしれない。丸一日あればこの変化も……納得できるわけがないが。

「……充電できる所は、ないわけじゃないが」

「!」

 男は落ち着いた静かな声で、探るように言葉を発した。

 やっと答えてもらえたことで、新那はもう一歩男に近付く。会話ができたことで、一気に進展した気がした。男は一歩下がった。

「何を充電するんだ?」

「これ、これです! 連絡が取りたくて」

 御守りの束がぶら下がったスティック型携帯端末を取り出して男の方へ手を伸ばす。男は不思議そうに携帯端末を――いや御守りを凝視した。色取り取りの刺繍が施された小さな袋は、キラキラと輝いて見えた。

「何だその色の塊は?」

「え? いやいや御守りじゃなくて……これは御守りですよ御守り! あちこちの神社に行って集めたんです。良縁の御利益があるんですよ。あ……! もしや、これが良縁でしょうか!?」

「空……初めて見る天気だと言ったな。僕は生まれた時からこの空しか見たことがない」

「……? 生まれて何日ですか……?」

 生まれて数日の人間が流暢に話し、二足で歩けるはずがないが、そう問わずにはいられなかった。

「六千……いや、十九年だ」

「十九……年!? 私、十九年も寝てたんですか!?」

「……。何処で寝てたんだ?」

 青年は訝しげな顔のままだが、新那との会話を続けてくれた。

「家ですけど……カプセル型ベッドに入って寝て……故障か停電で目覚ましが起動しなくて、非常電源で開けて出て来たんですけど」

「……少し理解できた」

「本当ですか!? それで……この草とか、急に生えてきたんですか?」

 その質問には答えず、青年は無言で歩き出した。

「え? お、置いて行かないでくださいよ……」

 先に歩く青年を慌てて追い、足元を確かめながら歩く。平坦に舗装された道は罅割れ、瓦礫が転がり、草が行手を阻んでいる。こんなに歩き難い道路は初めてだ。

「あの、名前……私は野地(やち)新那って言います。貴方は……」

「……星火(せいか)

 愛想は無いが、青年は何かを考えるように少し黙った後、ぼそりと名乗った。

「苗字ですか? 名前?」

「この時代は家族の繋がりより個人を見る。苗字は廃れてる」

「へぇ……よくわからないけど苗字は無いんですね……わっ、と」

 罅割れた道の段差に躓き、新那は何とか踏ん張って辛うじて転ぶことは避けた。

「リフトなら楽なのに……」

「リフト?」

「あそこに落ちてる椅子みたいな奴ですよ。頭の上にあるレールに沿って飛んでたんです。目的地まで座ってるだけで着いたんですよ。知らないんですか?」

「……。驚くかもしれないが、そのリフトとやらが飛んでいたのはもう百年以上も昔の話だ」

「百年……?」

「正確な年数は知らない。君は空が壊れる前に生きていた人間なんだろ。カプセル型ベッドと言う物はたぶん見たことがある。建物を調べていた時に見た大きな丸い機械だな? 君は機械の故障で仮死状態にでもなって、運良くこの時代まで密閉されて保存された。空が壊れる前の時代は旧時代と呼ばれてるんだが、旧時代の人間はもう皆死んだ」

「!?」

 いきなり何を言い出すのか、新那は頭が真っ白になった。少し寝ただけのつもりが知らない間に百年以上の年月が経過し、全ての人間が死んだ。そんな馬鹿な。普通なら信じないだろう。だが今は変な空が頭上にあり、街の様子も変だ。

 では何故自分だけが生きているのか。指先が震えた。

「じゃあ……ママとパパはもういなくて……夜依も死んだ……?」

「連絡を取ると言っていたが、知り合いはいないだろうな」

「う……嘘だ……、な……何でそんなことになったの!?」

「この世界が、と言う質問なら、空が壊されたからだ。ある人の手によって空が破壊された。その凶悪な犯罪と、犯した樫水雲藻は現代の人も皆知ってる。空が壊れたことで外の汚染が中に広がり、弱い人間から死んでいった」

「樫水雲藻!? 擬似空を管理してた人……。それじゃ……人間は全滅したってこと!?」

「まず落ち着いて、僕のことを認識するといい」

「あ……ああ! 生きてる人がいるから、貴方が生きてる!」

「そうだ。人は壊れた空から逃げるために地下へ行った。今は地下で暮らしてる。地上に、しかも昼間に人がいるなんて珍しいと思った」

「地下に? もしかしたら夜依の子孫がいたり……?」

「逞しいな」

「何か現実味が無くて……。今は地上にいても平気なんですか?」

「汚染を抑える膜が開発されて頭上に張られているらしい。だが完全に遮断できるわけじゃない。切迫していて開発に時間が掛けられなかった所為だ。僕のように地上を歩く人は物好きだな」

「良かった……物好きに出会えて……。やっぱり御守りの効果かも。お近付きの印に一ついりますか? 欲しそうに見てたし」

 一時はこの世界を恐れたが、あまりの現実味の無さで震えが止まった。或いは現実を見るのを避けている。

「…………」

 欲しそうな顔をしたつもりは無かったが、星火は差し出された御守りを受け取った。小さな群青の袋に桜の刺繍が施され、糸がキラキラと光っている。

「綺麗だ」

 歩を進めていると大きな瓦礫が道を塞いでいた。星火は辺りを見回し、迂回するより乗り越える方が早いと瓦礫に足を掛ける。

「登れるか?」

「任せてください! 私、体育の成績は良かったんです!」

 慣れている星火よりは時間が掛かったが、新那も何とか瓦礫を乗り越えることができた。百年以上寝ていても体力は衰えなかったようだ。

「……所で、何処に行くんですか?」

「充電できる所だ。必要ないか?」

 まさか自分のために歩いているとは思わず、新那は熱を帯びたように目を輝かせた。

「必要です! ありがとうございます! 優しい人に会えて良かった……」

「僕も興味があったからだ。旧時代のことに。現代で旧時代のことを知る人は殆どいないからな。旧時代は殆どの資料を機械化し、読み取る機械を動かせない現代では見ることができない」

「確かに……学校でもノートを取るのは機械だし、昔はたくさんあったらしい文房具って物も廃れて、機械ばっかりだったなぁ」

「……待て」

 家の間を抜けると、道路が大きく割れて陥没していた。そこに水が溜まり、深い池のようになっている。池の端からは川のように壁の向こうへ水が伸びていた。

「これは渡れないですね」

「迂回する」

「……あ、魚! さっきも水溜まりで見たんですけど、何の魚かな?」

 迂回路を探す星火を横目に、新那は蹲んで池を覗き込んだ。小さな魚が三匹、気持ち良さそうに泳いでいる。池の水は澄んでいるが底は暗く、何も見えない。

 目を離したのは僅か数秒だった。

「星火さん、魚の名前ってわか」

 水面が揺らぎ、不自然に盛り上がる。水音に気付いて振り向いた時には目の前に巨大な魚がぽっかりと大きな闇を開け、整列する鋭利な牙が肉に食い込む瞬間だった。深海魚のラブカに似ているが、それよりも大きい。三メートルはある巨大な魚が少女の頭を食い千切った。

 呼ばれた声と水音を聞いて振り返った星火は、後方へ数歩下がり水から離れた。透けた池の水に赤い血液が煙を撒くように広がっていき、頭を失った新那の体は傾いて地面に転がった。

 魚はもう顔を出さないが、水面の近くを旋回している。まるで星火に水に近付けと言っているかのようだった。

「……この時代では無闇に水に近付くな……言うのを忘れてたな」

 空が壊れて以降、雨や壊れた水道管などにより溜まった水に、獰猛な魚が現れるようになった。詳しい経緯は記録が無く不明だが――正確には、世界が狂って古生物が再び出現するようになった。古生物以外も現存する種はあるが、環境の違いで多くの生態は変化している。大きさや形状が異なるもの、多くは巨大化して凶暴になり、淡水でも鹹水(かんすい)でも構わず泳ぐ。現代では水中を泳ぐ生物はどんな形でも全て魚と呼ばれている。

 深海魚のラブカに似た魚はクラドセラケと言う。現代では少々異なる点はあるが、簡単に言うと大昔の鮫だ。人間の味を知っている魚は昼間に活発に動き、人間が接近すると容赦無く襲い掛かる。現代の常識だ。

 星火は革鞄から小さな穴が幾つも空いた細い銀色の棒を取り出す。それを横向きに、唇を当てて澄んだ音色を奏でた。アイリッシュピッコロに似ているが異なる楽器だ。水琴窟のような儚く心地良い音に、水面に波を立てていた魚は徐々に大人しく池の奥へと戻って行った。水面を乱す波紋も消えてしんとなる。

 折角の旧時代の生き残りだったのに残念だ。

 あまり残念そうではない顔をしながら銀笛(ぎんぶえ)を仕舞い、星火は目的地を変え地下へ戻った。

 地下で暮らすようになった人々は、暗い地下に住居を築いた。徹底的に機械で自動化された旧時代とは異なり、手動で日々を過ごしている。機械も無いわけでは無いが、極一部だ。

 背負っている革鞄から四角いカンテラを取り出して灯し石に明かりを灯し、黒い石の壁に囲まれた暗い地下を歩く。壁の片側に等間隔に明かりはあるが、間隔が広いため足元がよく見えない。

 いつもより遠くまで歩いてしまった星火は足早に拠点へと戻り、通路を塞ぐ厚い扉の見張り番へフードを脱いで顔を見せる。

 見張りの二人は彼の顔を確認すると、流れ作業のように無言で扉のハンドルを回して開けた。星火が地上へ出るのは珍しいことではなく、寧ろ頻繁で、一々挨拶を交わすのも面倒だ。昼間に地上へ行く星火を異端者のように、顔を顰めながら道を通す。

 蟻の巣のように入り組んだ通路を迷わず突き進み、人々の生活する集落へ入る。生活圏は先程までの通路よりも明るい。人口の多い旧時代の都市のように大きな街ではないが、貧しいながらも現代でも生活はできている。

 その中に屈強な見張りが立つ部屋へ、星火は顔を見せて通してもらう。この集落に星火の顔を知らない者はいないだろう。

 部屋に入っても幾つか小さな部屋が収まっているが、足を止めることなく星火は一つのドアを叩き、静かに開けた。あまり物が無い退屈な部屋の中にはゆったりとしたワンピースに身を包んだ幼い小柄な少女が長い髪を広げ、何重にも敷いた絨毯とクッションの上で大の字になって無防備に眠っていた。

 星火はカンテラの明かりを消し、近くにあった机上に置く。かつん、というその小さな音で、少女は目を覚ました。

「あれ……星火……? 帰ってたの?」

「今帰った。地上で面白い物を見つけた」

 好奇心旺盛な少女はその一言ですぐに脳を覚醒させ飛び起きた。

「えっなになに?」

「御守り……と言う奴らしい」

 貰った群青に桜の御守りを取り出し、少女の眼前にぶら下げる。角度を変えてキラキラと光るそれに少女も目を輝かせた。

「御守り!? ……って何だっけ?」

「神社で貰う御利益のある物らしい」

「ふぅん。神社って? くれるの?」

「これは僕が貰った物だ。こっちにまだある」

 拾って来たスティック型端末に花束のように幾つもぶら下がった御守りを見せると、少女は歓声を上げた。

「凄い何これ! 綺麗!」

「ニナに名前が似た旧時代の人間に会って貰った」

「旧時代の……!? 今日の探検は凄い話が聞けそうだ……」

 ニナと呼ばれた少女は散らばるクッションを整えてその一つを抱き、胡座をかいて聞く体勢を作った。ニナは星火が持ち帰る地上の話を聞くのが大好きだった。

「その人はどうしたの? 連れて来た?」

「いや。魚に食われて死んだ」

「え!? 星火がいるのに?」

「人助けは趣味じゃない」

「奏者の癖に……」

「好きで奏者になったわけじゃない」

「さすが不良エリート。もっと話を聞かせて」

 旧時代には無かった職業が現代にはある。それが『奏者』だ。奏者は銀笛と呼ばれる特殊な笛を奏でることで、荒々しい魚の気を鎮める。ただ笛を吹けば鎮められるというものではなく、笛の力を引き出すための資質が必要だ。現代ではなくてはならない存在だ。

 星火は代々奏者を務める名家の出身で、彼だからこそ危険な地上の昼間も一人で歩ける。

 だが彼は名家の奏者であることを煙たく思っている。

「その旧時代の人間は機械の故障で、おそらく仮死状態で保存されていたらしい」

「旧時代は完全な密閉技術で消費期限ほぼゼロの缶詰を開発してたし、不思議じゃないね」

 ニナは星火を奏者だとちやほや持ち上げたりはせず、対等に見ている。それを星火はありがたいと思っている。ニナもまた持ち上げられる存在なので、気持ちがわかるのかもしれない。

「地上に転がってる謎の椅子の正体も判明した。リフトと言う乗り物で、空を飛んでたらしい」

「空! 旧時代はよく空を飛ぶ! あー……私も自由に地上に行きたいなぁ」

「ニナは禁止されてるだろ。説得なんてしたくない。面倒だ。我慢しろ」

「星火だけずるい……」

「そういえばあの女、樫水雲藻が犯罪者だと言ったら驚いてたな。普段は犯罪なんか犯しそうもない人物だったらしい」

「どんなに善良そうな人でも犯罪を犯したら終わりだよ。クズだね」

 ニナはふんとそっぽを向き、不満げに毒突く。いつもはこんなことで不機嫌にはならないのだが。

「機嫌が悪いな。何かあったのか?」

 スティック型端末に下がる御守りをニナの前で揺らし、彼女は不貞腐れたように指を差す。

「星火が探検してる間にまた婚約者候補の話! 私まだ十歳だよ? 何人勝手に候補を作るんだか」

「大変だな」

 素っ気無く返し、指を差された金糸が煌めく鳥の刺繍が施された白い御守りを外して手渡した。ニナは少し機嫌が良くなり、白い御守りを翳してキラキラと揺らす。

「他人事みたいだけど、星火も婚約者候補だよ。顔良し家柄良し相手に不足ナシ! だって」

「勘弁してくれ」

「私も勘弁よ! 私は誰とも結婚しないし子供なんて産まない! 絶対に私でこの血を絶ってやるんだから!」

 地団駄を踏むニナの足音でも聞こえたのか、ノックの音が響いた。ここでは滅多なことを言うものではない。開くドアに緊張が走った。

 ドアを開けた物静かな女は星火を一瞥した後、ニナに目を合わせる。

「我らの崇高な一等星、樫水ニナ様。本日は夜会の日なので、そろそろご準備を。星火様はご退室お願いします」

 星火はニナを一瞥し、無言で荷物を持ち部屋を出る。女は星火に頭を下げて部屋に入り、音を立ててドアを閉めた。

「…………」

 婚約者候補なのに随分と素っ気無い扱いだ。鞄を背負い、星火は市場へ行くことにした。

 部屋の中ではニナが表情を消し、世話を焼く女に丈の長い黒いローブを頭から羽織らされ、長い髪を梳かれる。その間もニナは星火から貰った御守りを握り締めて離さなかった。

 夜会と言われているが、宴を催すわけではない。月に一度行われる、ニナにとっては億劫で辟易する行事だ。

 ニナは生まれた時から崇められていた。

 旧時代、平穏を望む人々の中で、それを不自然だと嘆く者達がいた。頭上に広がる擬似空は常に人々を見下ろしている。それを監視されているだの空を奪ったなど、良く思わない者達がいた。

 不自然な空はそれを管理する一人の男の手によって破壊された。壊れた空に人々は混乱し恐怖し、流れ込んだ『汚染』により、多くの人が命を落とした。大多数がその犯罪者を糾弾したが、不自然な空を破壊した彼を歓迎する者も密かにいた。

 擬似空を破壊した樫水雲藻は彼を支持する者達の手によって匿われ、捕まることなく生き延びた。そして熱狂的な支持で彼らは教団となった。恐ろしい空を破壊して解放してくれた素晴らしい彼の血を絶やすまいと、今日まで良き相手を用意して子を生し継承している。ニナはその末裔である。

 夜会はその血を崇拝する場だ。ニナはその血を残すつもりなどなかった。

 ニナの親は早世だったため、血を継いで子を生すことができる者はもうニナしかいない。教団は彼女を失うわけにはいかなかった。彼女は大切に扱われ、この狭い部屋から滅多に出されない。地上など以ての外だ。ニナが子を産むまで彼女を死なせてはならないと必死だ。

 彼女の住む集落は彼女の信者しかいない。誰もニナの気持ちなど知らない。その中で星火だけが異端だった。

 誰もがエリートと呼ぶ程この時代では重宝される正義の奏者が、犯罪者を崇める集落に居着くはずがない。彼は護衛として半ば攫われるようにこの集落に来た。抵抗をすれば逃げられたかもしれないが、星火は抵抗しなかった。それは彼が好奇心旺盛で、犯罪を崇める集落に興味があったからだ。

 退屈な夜会の間、星火は空っぽになった市場を歩く。彼は不良ではあるが、犯罪を肯定しているわけではない。空が壊れなければ、奏者なんて面倒な職業も生まれなかった。首が据わった頃から銀笛を握らされることなんてなかっただろう。おそらく何かを感じ取ったのだろう、最初に銀笛を握らされた時、星火は思い切り笛を床に叩き付けて投げたらしい。彼は全く覚えていないが。

 捨てずに銀笛を持ち続けたのは、子供らしい遊びなど知らなかったからだ。知らなければ求めることはない。好奇心が旺盛なのは、その反動だろう。

(夜会はおよそ二時間。その間に食事を済ませよう)

 護衛をしているが、夜会の間は外部の者が部屋に入ることは許されない。

 簡単に木を組んだり石を積んだり布を張ったりして作られた店が並ぶ市場を歩き、パンを売る店に辿り着く。店先に置かれた固いパンを掴み、隅にあった空の木箱に座ってパンを千切って口に放り込む。教祖様の護衛は無料で飲食ができる。勿論、常識の範囲内だが。犯罪者を崇めていても、常識という言葉は知っているらしい。

(集落を築いた地下で魚が出ることなんて殆ど無い。仕事は無いが、飲食無料は良い)

 二個目のパンを取ろうとした所で、不意に悲鳴と物音が聞こえた。

「……?」

 千切ったパンを咥え、音のした方を向く。夜会を行なっている大部屋の方だ。部屋の中には水が無く、魚は現れないはずだ。

 害虫でも出たかと興味本位で夜会の部屋へ向かう。魚は巨大化しているが、虫は現代でも巨大化していないため、虫で騒ぐことはないのだが。

 悲鳴と物音は大きくなり、部屋の扉は開け放たれていた。

「きゃああああ!!」

「な、何なんだお前達は!?」

 夜会の最中だった信者達は逃げ惑う。

「犯罪者集団め! 遂に居場所を突き止めたぞ!」

「根絶やしだ! 全員、殺せ!」

 黒い布を巻いて顔を隠した者達が大振りのナイフを持ち、信者達を襲っていた。天幕は破られ、既に事切れた信者が血溜まりを広げて転がり、教祖様の座席も破壊されていた。

(ニナ……?)

 だが彼女の姿は無い。もう殺されてしまったのか。星火は黒いフードを目深に被り、暗がりに身を潜めて見渡す。

「――星火! 私を逃がして!」

「!」

 黒いローブを脱ぎ捨てたニナが星火の背後に潜り込み、怯えた表情で服を掴んでいた。小柄な彼女は大人達の陰に隠れながら逃げて来たようだ。

 星火は考える前にニナを抱え上げ、部屋の前から駆け出した。

「おい! 誰か逃げたぞ!」

「一人も逃がすな! 子供も皆殺しだ!」

 夜会の間、集落の住人は全て大部屋に集まっている。皆殺しにするには人手がかなり必要だ。逃げたたった二人を追うために人数は割けない。同数の二人が追って来た。

 市場を抜け、暗くなる細い通路を突き進む。安全な道ではなく、未使用の道の方だ。

「せっ、星火! 道が違う! 私でもわかるぞ、明かりの少ない方は危ないって!」

「こっちでいい。静かにしてろ」

 人助けは趣味じゃない。そう言っていたが、勝手に体が動いた。毎日のようにニナの話し相手をさせられたからかもしれない。

「あいつ……逃げ足が速いな。絶対名のある奴だ! 逃がすな!」

「あの空の恨み……! 何でオレ達がこんなドン底の生活を強いられなきゃならないんだ!」

 薄暗い通路が更に細くなり、星火は足元にあった小石を蹴って細い通路を駆けた。

 蹴られた小石は小さく音を立てて暗がりを揺らした。怒号と足音に掻き消され、追手にその音は聞こえていない。

 黒く揺蕩う地面にも気付かなかった。追手は通路が細くなっていることにも気付くのが遅れ、片足がその水の中へ入った。

「み、水!?」

「地下水だ! 不味い!」

 慌てて引き返そうとしたが遅い。小石の音で様子を窺っていた巨大な魚がその大きな口を開け、手前にいた一人の下半身を食い千切った。クラドセラケだ。

「うわあああ!!」

 魚が飛び出した水飛沫で足を滑らせたもう一人は転び、その瞬間に噛み付かれて水の中へ引き摺り込まれた。

 魚に脚は無いが、大きい鰭を使って少しなら水から出て暴れることができる。そうして追手を食い散らかした。千切れた部位と錆びた鉄の臭いが閉じられた空間に充満する。

 その様子にニナは呼吸も忘れて見入り、動けなくなった。星火は片手で鞄から銀笛を抜き、彼女を一旦下ろす。

 澄んだ良く通る音色が反響し、凶暴な魚は星火達に定めていた視線を下げる。既に殺した人間達で満足するために、死体を咥えて魚は水底へ沈んでいった。

「この先は行き止まりだ。次の追手が来る前に引き返して地上に出る」

 銀笛を鞄に戻し、立てるかとニナに手を差し伸べた星火は一拍置いて彼女を再び抱えた。彼女は呆然と血溜まりを見ていて立てそうにない。

 言葉が出ないまま、ニナは星火に抱えられ、細い階段を駆け上がった。長い階段を休まず登れるのは、日頃から地下と地上を往来しているからだ。

 ハンドルを回して軋む扉を開け、ニナは初めて地上へ出た。地上の機能は全てが失われたわけではない。機械の管理が足掻き、街灯が生きている所もある。その疎らな光に朧げに照らされた月も星も無い夜の壊れた街に、ニナは目を丸くした。

「広い……」

 壁と天井が窮屈な狭い地下とは違う。天井の無い地上は何処までも見上げることができてクラクラとした。

「連れ出しはしたが、行き先は無い。ここからはお互い平穏に暮らせるといいな」

 星火は草が茂る割れた地面にニナを下ろし、鞄を背負い直して歩き出した。

「えっ、ちょっと! 置いて行くの!? 連れて行ってよ!」

「部屋の中なら別にいいが、外で子守りをする気は無い」

「薄情! ここまで助けておいて、見殺しにするの!?」

「血を絶やしたいんじゃなかったのか?」

「絶やしたいけど私は生きたい……」

「我儘だな」

 行こうとする外套の長い裾を掴んで離さないニナに溜息を吐き、星火は座り込む彼女の前に蹲んだ。

「つまり、教団が壊滅しても僕は護衛を続けるのか?」

「っ……続ける……ほしい…………続けてください」

 ぼそぼそと言い直しながら、ニナは星火と目を合わせられなくなり徐々に俯く。自分のために他人の自由を束縛することに躊躇いがあった。だが危険な地上で殆ど知識も抵抗する術も持たないニナは生きていけない。誰かに頼るしかなかった。

「なら金は? 奏者代は高い」

「え!? 有料なの? 有料か……」

「……君の教団から護衛の前金を幾らか貰ってるから、少しの間なら護衛を続けられるが」

「!? それを早く言って! 前金を貰ってるのに逃げようとしたの!? じゃあ護衛を続けて、その間に私はどうにか収入を得て……」

 一度上げた顔が再び俯いていく。どうやって収入を得るのか、毎日部屋の中で転がって退屈な日々を送っていた少女には何も思い付かなかった。

 何か案はないかと目だけを上げ、そこにもう星火がいないことに気付いた。

「あれ!?」

「何をしてる? 置いて行くぞ」

 いつの間に歩いたのか十メートルは先の道に立つ星火に呼び掛けられ、ニナは慌てて走った。

「置いて行かないで!」

 こんなに必死に走ったのは生まれて初めてかもしれない。

 魚は寝静まっているが、明かりが殆ど無い地上では夜であろうと危険であることに変わりはない。星火はカンテラの灯し石に明かりを点け、足元を照らす。灯し石の内部が炎のように揺らめく。

 行く当ては無いが、襲われた教団の集落からはもう少し離れた方が良いだろう。ニナの歩く速度よりは速いが普段よりは遅く歩き、星火は彼女を待ちながら壊れた暗い地上を歩いた。


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