第六章 美食家の楽園、町に忍び寄る影と小さな騒動
――事件は、何でもない午後に起きた。
「ねえ、リディア。さっきからお客さんが全然来ないんだけど」
「珍しいですね。天気もいいし、市場もやってるはずですが…」
メイド服のリアナとリディアが、扉の向こうを交互に見ては小首をかしげる。
厨房では、ジロウがスープの味を見ながら、静かに言った。
「……変だな。この時間、近所の子どもたちが寄ってくるはずなんだけど」
そして、店の前の通りに人の気配がないことに、全員が気づく。
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その異変は、市場通りで続発していた「すり事件」がきっかけだった。
犯人は子どもたちの間に紛れ込む、小柄な黒ずくめの影。
「財布がない!」「いつの間に!?」
「またか!今週でもう三件目だ!」
――町はざわついていた。
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「これは、放っておけないわね」
そう言って立ち上がったのは、浴衣姿からエプロンに着替えたエレシア。
目は真剣。声には魔王としての威厳が滲む。
「盗みは、支配でも反抗でもない。ただの愚かな欲だ。私は、そういうものが一番嫌いだ」
「エレシアさんが言うと説得力あるね…」とリアナがぽつり。
「姉さん、笑ってる場合じゃありませんよ」とリディア。
ジロウは鍋の火を止めると、
「よし、今日は営業を早めに切り上げて、俺たちで“市場警備隊”だ」
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ジロウは町の警備隊に協力を申し出て、リアナとリディア、エレシア、ミナトたちもそれぞれ通りの見張りについた。
リアナは路地裏で、怪しい影を見つけて追いかける。
「待ちなさーい!」
「姉さん!それ、逆方向!」
「えっ!? あーもう、こっち!?」
リディアは冷静に人混みの動きを観察し、見事に逃走経路を読んで立ちはだかる。
「…次はこっちへ逃げると思ったんですよ。さて、観念しますか?」
そして――
「ふっ、逃がすかよ」
エレシアが屋根から飛び降り、黒ずくめのフードをはぎ取る。
出てきたのは、泣きそうな顔の小さな少年だった。
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「……お腹が、すいてたんだ」
少年はうつむいて、小さな声でつぶやいた。
「親もいなくて、住む場所もなくて……だから、仕方なく……」
リアナが、少年の肩をそっと抱いた。
「だったら、うちにおいでよ。美味しいごはん、たくさんあるよ」
リディアも静かにうなずく。
「うちの店、子ども割ありますからね」
エレシアは一歩下がって腕を組み、
「甘すぎる気もするが……人の命を支配するより、人の心を満たす方が、面倒で難しくて……だけど、いいものだな」と小さくつぶやいた。
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少年は、「ありがとう」と言って泣き崩れ、町の大人たちも彼を保護することに決まった。
小さな事件は、静かに幕を下ろした。
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その夜、「美食家の楽園」は特別メニューの子どもプレートを用意した。
少年が、「こんなに美味しいもの、初めて……!」と笑った時、リアナが嬉しそうに拍手し、リディアが静かにうなずいた。
エレシアは厨房のドアにもたれて、ジロウにぽつりと言う。
「……私も、少しずつ分かってきたかもな。“守る”ってのが、どういうことか」
ジロウは鍋をかき回しながら、
「うちの店に来た人が、帰る頃には笑顔になってる。それが一番うれしいんだ」
――美食家の楽園。そこは、今日も誰かの心を満たす居場所だった。
その夜、ジロウはカウンター席で一息ついていた。
リアナとリディアは、笑顔で後片付け。
エレシアは、厨房の隅で余ったデザートをつまみながら静かに言った。
「……こうして町が穏やかだと、私まで気が抜けそうになるな」
「気を抜いていいよ。たまには、な」
ジロウの声は穏やかだった。
けれど――その頃、町の外れにある古い石造りの倉庫では。
誰も使っていないはずの場所に、黒いローブの男が何人も集まっていた。
「計画は、順調か?」
「すでに“魔核”は町の下に仕込んだ。あとは……奴らが油断した時が好機」
月明かりに照らされるその輪の中心に、歪んだ仮面をつけた女が立つ。
「楽園、ね……ふふ。どれだけ美しい夢でも、現実の痛みに勝てはしないわ」
――街の平和の裏側で、静かに牙を研ぐ影があった。