第八章 呪核の胎動、暴かれる過去と女の真名
ジロウは魔核の前に立ち尽くしていた。
蒼黒く脈動する球体。それは呼吸をしているように、じわりじわりと空気を歪ませている。
(魔核……いや、違う。これは……)
「ようやく気づいたようね。
それは“呪核”。魔核とは似て非なる、もっと深く、もっと黒いもの」
低く、艶のある声が地下に響いた。
現れたのは仮面の女。
漆黒のローブ、左腕には封印の刻印、仮面の奥の瞳は妖しく揺れていた。
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「魔核と呪核の違い、知ってる?」
「……魔核は自然に発生する魔力の結晶。扱いを間違えなければ街の魔力炉にもなる」
「そう。だけど呪核は、人の“負の感情”から生まれる。憎しみ、嫉妬、喪失……そういうものを蓄えて、増殖する」
ジロウは舌打ちした。
(だから空気が重い。だから子どもまで体調を崩し始めてるんだ)
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女は仮面の隙間から笑みを漏らす。
「この町は幸せすぎたのよ。皆が笑って、穏やかで、美味しいごはんに囲まれて。
だからこそ、私は試したくなった。“幸福”の上に、“絶望”をひと匙、垂らしてみたくなる衝動――わかる?」
「……正直、わかんねえな。
俺は、“幸せが当たり前”なことが、どれだけ貴重かって知ってるからさ」
ジロウの返しに、女はひらひらと仮面に指をかけた。
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「あんたの名前は?」
「……イヴァ。かつて“呪詠士”と呼ばれた者よ」
「呪詠士……?」
(その名、聞いたことがある――遥か昔、“感情を呪力に変える術”を使い、王都を半壊させた裏の術師組織の生き残り)
「この町を“実験場”にするつもりか?」
「実験じゃない。“揺さぶり”よ。あなたたちがどれほど本物か、知りたいだけ」
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そのとき――
《ジロウ、聞こえるか?》
エレシアの魔力通信。
《魔核の反応が、町の水脈にも干渉してる。遅くとも半刻以内に、全域が瘴気に包まれる》
(くそっ……時間がねぇ)
「イヴァ、一つだけ聞いていいか?」
「何かしら?」
「お前……本当に、世界が壊れるのを望んでるのか?」
沈黙。数秒後、仮面の奥から――
「私は、“壊したい”んじゃないの。“壊れてることに気づいてほしい”だけよ」
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(……この女、完全に狂ってるわけじゃない。心のどこかに、まだ――)
魔核が震える。瘴気が空間に滲み始めた。
「選べるのは今だけよ、元・勇者ジロウ。町を捨てて生き延びるか、
それとも、また“誰かのために”戦うか」
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「選択なんて、最初から決まってる」
ジロウはコートを脱ぎ、厨房用の包丁――否、“仕込み用魔具”を構える。
「俺のやることは、昔から変わらない。
誰かの食卓を壊そうとするヤツには、全力でぶつかるだけだ」
イヴァの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。