勉強嫌いの私が、夫に息子の勉強を見てほしいと言われました。むしろ私が教わりたいくらいです
「リリアーナ、今日からレオンの勉強を見てやってくれないか」
朝食の席で、夫のアレクシスがさらりとそう言った。私は口に含んだ紅茶を危うく噴き出しかけ、すんでのところで飲み下す。なんとか言葉を紡いだ。
「……私が、ですか?」
夫に思わず、マヌケな疑問をぶつけてしまう。私の名前まで呼んでおいて、まさか人違いでしたという訳がないのに。
「もちろんだ。君以外にリリアーナという名前の人間がここにいるか?」
私はわざと、ゆっくり辺りを見回した。控えている使用人たちが、どこか気まずそうに顔を背ける。そう、リリアーナは確かに私だけだ。だからいつまでも、首を捻っていては、夫に怪しまれてしまう。私は観念して、夫に向き直った。
ああ、こんなことでは時間なんて稼ぐことができない。
「君は母親だろう。それに、侯爵家の出だ。教養は申し分ないはずだ」
教養。その二文字が深々と胸に刺さる。
教えを請うべきは、むしろ私のほうだ。
実は侯爵家である私は、家庭教師を三人辞めさせた女だ。四人目には「お嬢様に教えることはありません」と泣いて去られた。学園の試験は全て、美貌と愛嬌と持ち前の押しの強さで乗り切ってきた。
つまり私は、この世界で一番勉強をしてこなかった公爵夫人であるのだ。
「ま、任せてくださいませ。私にかかれば造作もありませんわ」
私は扇を取り出し口元に当てる。見栄。精一杯の余裕を演じた。向かいで夫が、口の端をわずかに上げたような気がした。
「かあさま、これ、なんてよむの?」
午後。五歳になった息子のレオンが、分厚い本を膝に乗せて私を見上げていた。
開かれたページには、見たこともない古代文字がびっしり。いや、見たことはある、と思う。三十年前に、多分。
「こ、これは……あれですわ。ええと、その、つまり」
「かあさま?」
「も、文字ですわね」
「うん」
「立派な文字ですわ。それも貴重な」
「うん……」
レオンの純粋な瞳が痛い。
私は咳払いをして話を逸らすことにする。
「で、では算術にしましょう。二足す三は?」
「五だよ」
「正解ですわ! さすが私の子!」
「じゃあ、二十三たす四十七は?」
「えっ」
指を折る。足りない。ドレスの陰でこっそり折る。まだまだ足りない。
「そ、それは明日の宿題にいたしましょう!」
分からなかった。これが義務教育の敗北といわれるものなのだろうか。
その夜、寝室で私は枕に顔を埋めていた。それはもう、しくしくと、自分の情けなさに泣いてしまう。
「無理ですわ。何も教えられません」
「だろうな」
ふと、扉の方から、笑いを堪えた声が聞こえた。夫が壁にもたれて、完全に楽しんでいる顔でこちらを見ている。
「ま、まさか。貴方知っていましたの!?」
「もちろん。君が学園で、試験のたびに私の答案を覗こうとしていたことも覚えている」
「バレていましたの!!」
「首席だった私の隣の席を、わざわざ取ってきたのは君だろう? 忘れたとは言わせない」
顔が熱くなる。確かにそれは、半分は答案目当てで、もう半分は、その。恥ずかしくて、面と向かっては、言えないが。
「……では、なぜ引き受けさせましたの。意地が悪いです」
夫はベッドの端に腰を下ろし、私の頭に優しく手を置いた。
「強がる君が可愛いからだ。すまない、ちょっといじめてしまった」
「なっ!」
「それに、一緒に学べばいい。レオンと、君と、私で」
低く穏やかな声に、肩の力が不思議と抜けていく。
「ところで……二十三足す四十七は、七十で合ってますの?」
「正解だ。指は足りたか?」
「もう、からかわないでくださいませ!」
横に置いてあった枕を投げつけた。夫は笑いながら難なく受け止める。
勉強は今でも大嫌いだ。けれど、この人の隣でなら、多少は、やり直してもいいかもしれない。




