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短編小説どもの眠り場

勉強嫌いの私が、夫に息子の勉強を見てほしいと言われました。むしろ私が教わりたいくらいです

作者: 那須茄子
掲載日:2026/10/27

「リリアーナ、今日からレオンの勉強を見てやってくれないか」


 朝食の席で、夫のアレクシスがさらりとそう言った。私は口に含んだ紅茶を危うく噴き出しかけ、すんでのところで飲み下す。なんとか言葉を紡いだ。


「……私(わたくし)が、ですか?」


 夫に思わず、マヌケな疑問をぶつけてしまう。私の名前まで呼んでおいて、まさか人違いでしたという訳がないのに。


「もちろんだ。君以外にリリアーナという名前の人間がここにいるか?」


 私はわざと、ゆっくり辺りを見回した。控えている使用人たちが、どこか気まずそうに顔を背ける。そう、リリアーナは確かに私だけだ。だからいつまでも、首を捻っていては、夫に怪しまれてしまう。私は観念して、夫に向き直った。

 ああ、こんなことでは時間なんて稼ぐことができない。


「君は母親だろう。それに、侯爵家の出だ。教養は申し分ないはずだ」


 教養。その二文字が深々と胸に刺さる。

 教えを請うべきは、むしろ私のほうだ。

 

 実は侯爵家である私は、家庭教師を三人辞めさせた女だ。四人目には「お嬢様に教えることはありません」と泣いて去られた。学園の試験は全て、美貌と愛嬌と持ち前の押しの強さで乗り切ってきた。

 つまり私は、この世界で一番勉強をしてこなかった公爵夫人であるのだ。


「ま、任せてくださいませ。私にかかれば造作もありませんわ」


 私は扇を取り出し口元に当てる。見栄。精一杯の余裕を演じた。向かいで夫が、口の端をわずかに上げたような気がした。





「かあさま、これ、なんてよむの?」


 午後。五歳になった息子のレオンが、分厚い本を膝に乗せて私を見上げていた。


 開かれたページには、見たこともない古代文字がびっしり。いや、見たことはある、と思う。三十年前に、多分。


「こ、これは……あれですわ。ええと、その、つまり」

「かあさま?」

「も、文字ですわね」

「うん」

「立派な文字ですわ。それも貴重な」

「うん……」


 レオンの純粋な瞳が痛い。

 私は咳払いをして話を逸らすことにする。


「で、では算術にしましょう。二足す三は?」

「五だよ」

「正解ですわ! さすが私の子!」

「じゃあ、二十三たす四十七は?」

「えっ」


 指を折る。足りない。ドレスの陰でこっそり折る。まだまだ足りない。


「そ、それは明日の宿題にいたしましょう!」





 分からなかった。これが義務教育の敗北といわれるものなのだろうか。

 その夜、寝室で私は枕に顔を埋めていた。それはもう、しくしくと、自分の情けなさに泣いてしまう。


「無理ですわ。何も教えられません」

「だろうな」


 ふと、扉の方から、笑いを堪えた声が聞こえた。夫が壁にもたれて、完全に楽しんでいる顔でこちらを見ている。


「ま、まさか。貴方知っていましたの!?」

「もちろん。君が学園で、試験のたびに私の答案を覗こうとしていたことも覚えている」

「バレていましたの!!」

「首席だった私の隣の席を、わざわざ取ってきたのは君だろう? 忘れたとは言わせない」


 顔が熱くなる。確かにそれは、半分は答案目当てで、もう半分は、その。恥ずかしくて、面と向かっては、言えないが。


「……では、なぜ引き受けさせましたの。意地が悪いです」


 夫はベッドの端に腰を下ろし、私の頭に優しく手を置いた。


「強がる君が可愛いからだ。すまない、ちょっといじめてしまった」

「なっ!」

「それに、一緒に学べばいい。レオンと、君と、私で」


 低く穏やかな声に、肩の力が不思議と抜けていく。


「ところで……二十三足す四十七は、七十で合ってますの?」

「正解だ。指は足りたか?」

「もう、からかわないでくださいませ!」


 横に置いてあった枕を投げつけた。夫は笑いながら難なく受け止める。 


 勉強は今でも大嫌いだ。けれど、この人の隣でなら、多少は、やり直してもいいかもしれない。

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