壁ドンの上書き
カイルが公爵を継いで、半年ほどたった。
宰相のお父様の補佐をしながら、歴代最年少の公爵として日々頑張っている。
気になっていることがある。
カイルが、我が家の書庫に入っていくのを見ない。
そこそこ書物も充実しているし、遊学前はよくそこにいたので、原因として考えられるとしたらあれしかない。
まだ気にしているのか……意外と繊細なんだな。私などあれ以来入り浸っている。
結構不便なんじゃないかな……と、思う。そうだ、思い出を良い方に上書きすればいいんじゃないかな。
ある日、休日の昼下がり。
カイルに勉強を教えてもらっていた。
「確か、聖堂の図書館にこのあたりの詳しいのがあったはずだ」
「我が家の書庫にも簡単なのならあるんじゃないかしら」
「そうだな。……後で探してみるといい」
さて、と、次に行こうとするカイルを止める。そろそろ休憩したい。
「お兄様、書庫を避けていらっしゃいません?」
カイルの動きがピタ、ととまる。
「不便でしょ? お兄様、前はよくそちらにいらっしゃったのに」
「そうだが……」
言い淀むカイルの手を取って、私は立ち上がった。
「ちょっと来てください! あっ、誰もついてこないでね!」
完全再現である。まずは人払いだ。
私やカイルに付き添っていた使用人に声をかける。
皆、ニコニコしている。だれも止めようとはしない。
お嬢様のブラコンは知れ渡っており、最近はカイルが慌てる姿がみんなに好評なのだ。カイルに多少きついことを言われても、この顔を見ると全然許せる、らしい。そんなわけでノワール家の雰囲気はとても良くなった。
あと、私がべたべたしてくるのを困惑して逃げ回っている姿を見て、「あ、この人、あんなに格好つけてたのに、本当に何もしてないな」と、知れ渡ったのもよかったのだろう。
腕をとって、書庫まで引っ張っていく。
当然、全力で抵抗されればなすすべもないのだが、なんだかんだで私に甘い。大人しく引っ張られてくれる。
「おい」
書庫に押し込み、扉を閉める。鍵……、え、後ろ手で鍵かけるのって意外と難しい。
上手くいかなくてもだもだしていると、カイルが慌てて言った。
「せ、せめて扉は開けておいてくれ」
ん、生娘かな?
少し赤くなって恥じらう姿(いや、たぶん恥じらっているわけではないと思うのだが)の、あまりのかわいらしさにキュンとした。
「かっ 可愛…… 危険だわやっぱりこの人」
そのまま壁際に追い詰めようと、じりじりと近づく。カイルは私の迫力に気圧されたのか、後退る。完全に妹に負けている。何が起きているか分からないようだ。
本棚の間、あの思い出の場所に追い詰める。
「ようし!」
「マグノリア?」
気合を入れて、私は壁ドンした。
細身とはいえ、カイルも青年である。私とは体格が違う。背も高いし、壁ドンと言っても、顔の横まで手が届かない。
腕の左右に手をつく。かろうじて触れてはいないけれども、抱き着いているみたいになっている。触れてはいないけれども。いい匂いがする。触れてはいないけれども。
「お兄様、うまくできないので屈んでください」
「何がしたいのか、よくわからないんだが」
「わからないですか!? 壁ドンです!」
きりっとした顔で、カイルと目を合わせる。ほとほと困り果てた顔で、眉毛が八の字になっている。少し眼鏡がずれている。
かわ……いい
しばし見つめあうと、カイルはこらえきれなくなったように噴き出した。
「ははっ」
「あっ、笑った!」
こっちは真剣なのに、笑うとは失礼である。ムッとしていると、突然片方の手を取って、くるりと体制を入れ替えられた。
私の顔の左右に手をついて、まさに壁ドン返しをされてしまった。
「壁ドン? ていうのか? ああ、壁にどんと手をついてるからか」
「かっ壁ドンするキャラのくせに、壁ドンと言う概念を知らない……?」
カイルといえば壁ドン。と思っていたので、衝撃である。『よーし壁ドンするぞー』って思ってやってたわけではないのか。それはそうか。え、じゃあ天然なの?
そう考えていたら、私を見つめる顔が、ふわっと優しくほころんだ。
それはもう、ものすごい衝撃だった。
まるで、愛しいものを見るような、恋人になったように錯覚してしまうような、そんな微笑だった。
顔が熱くなる。え、これ私、ものすごく赤くなってるんじゃない!?
「お、お兄様、そのお顔は反則ですわ」
「顔?」
ものすごく恥ずかしくなって、顔を手で覆う。でも、その微笑からは目を離せなくて、指の隙間からしっかりと見つめてしまった。
「目が、離せません」
「嫌か?」
嫌ではない、嫌なわけないじゃないか。しかもこの「嫌か?」は、いじわるでも何でもなく、素直に嫌ではないと伝えないと絶対やめられてしまう感じの、本当の意味での「嫌か?」だ。
私は誘惑に抗えずに、首を横に振った。こういう状態で、やめないで、というのはなかなか勇気がいる。は、恥ずかしい。
しかし、このまましばらく、堪能させていただきたい。カイルの顔が私の顔のすぐ上にあって、見下すように見つめている。前よりは距離は遠い。あの時は肘をついてたのでもっと近かった。でも、今は表情が優しすぎて、本当の距離はもっと近い気がする。
眉間の皺もなく、青白い顔でも無い。
伸びた背。大人びた顔。細いなりに逞しくなった身体。華奢な印象はなくなった。
雰囲気が違うのはキャラが変わったからだけじゃ無い。確かに二年分、身体も成長していた。
もちろん、眼鏡ごしの切長の目や薄い赤い唇は変わらない。
なんて綺麗なんだろう。
そう思って見惚れていたら、カイルはさらに追い打ちをかけてきた。
「ここから、どうするんだ?」
「ひえっ?」
純粋に、どう動いたらいいか聞いてくる。
確かに目的がないと動けない人ですから。
ここで二人で甘いひと時を過ごすとか、語らうとか、脳内のメニューにないのだろう。
いや、たぶん、「この娘を落とそう」とかそういう目的があればいくらでもできるんだろうけれど。もう落ち切っている私にはしてくれないだろうな……メリットがないもんな……
「マグノリアは、どうして欲しいんだ?」
こっこの人、私をどうしたいのよ!!?? す、好きにして、とか言ったら、普通に帰っちゃうんでしょ!? 私から仕掛けたことだもの。「もう終わりでいいんだね」、って平然と帰っていくのが想像できる。
「いっ、一般的には」
この時間を引き延ばすためならば、私は本当に、何でもする。
「前回お手本のような脅し系壁ドンをやってのけた方に言うのは大変恐縮ではありますが」
あれもう一回やってくれても私は全然いいんだけど。いやでも、今この顔で顎ガッとつかまれて顔近づけられたら卒倒する。さすがにキャパオーバーである。
「こう、ラブな感じの壁ドンの場合は顎ではなくて頬に優しく手を添えて」
私はいったい何を言っているんだ……
少女漫画とかで、俺様キャラとか悪人ではない人が壁ドンしていると、さすがに顎はつかまないような気がする。そうすると、頬とか頭とかに手を添えて、こう……唇を……あ、すみません無理ですそれはダメですね。
え、ならば本当にどうしたら
するとカイルが右手を壁から話して、ゆっくりと私の頬に添えた。
「ひゃっ」
中指が耳に触れた。びっくりして、ちょっとぞくっとして、肩が跳ねる。
「それで?」
「そ、それでとは」
「次は? 僕はどうすればいい?」
すっかり主導権を握られてしまい、私は手のひらで転がされるだけである。
「ねぇ、マグノリア、黙ってたらわからないよ。教えて?」
少し顔を近づけて、親指でゆっくり頬をなぞる。優しい仕草と強い視線。弧を描いた唇が、ゆっくり降りてくる。
「お、お兄様、」
「こう言う時くらい、カイルって呼んでみてほしいなぁ」
止めようとして声をかけたが、調子に乗ってしまったのか、突然名前を呼べと言われる。
この状況で、名前を呼んでしまったら。
……兄妹でなくなってしまったら?
そう思うと鼓動がうるさい。顔が熱い。カイルの事しか考えられない。
「……」
「ん?」
……もういいか。いいじゃないか。だってカイルだし。
私など好きにしてくれてよいのだ、逆らえるわけがないのだ。
この後どうなった所で、なにか問題があるだろうか? ないない。問題など一つもない。
私の心をかき集めて、まとめて、全力で囁く。
「カイル」
その瞬間、カイルがフリーズした。
目を開けたまま、息まで止まっている。
「カイル?」
そして、近づけていた顔を戻して頬から手を放し、大きなため息をついた。
「いや、すまない、想定外の衝撃で……」
などとぶつぶつと呟いている。
え、え、どうしたの、私間違えた!?
壁についていた手もはなし、身を起こす。今まで感じていた温かさが遠ざかり、急に寂しくなる。
「負けた。僕の負け。それでいいだろう?」
「えっ いつから勝負してました!?」
カイルは今まであったことが嘘のように、口の端を上げて笑いながら、手を振って出ていこうとする。
え、ちょっと待って、女の子にここまで思わせといてそれはなくない!??
ちょっとからかっただけ、にしては、ひどくない!?
そう思ってとっさに腕を掴んだ。
妙な体勢で体重をかけてしまい、カイルの腕に飛び込む形になる。が、カイルは残念ながら支えきれずにそのまま尻餅をついた。
「うわっ」
「きゃっ」
カイルの上に落っこちてしまう。
カイルの胸に、顔を埋める格好になってしまった。
とっさに守ってくれようとしたのか、背中に腕が回っている。
少し、苦しそうに目を閉じていたが、衝撃が収まったのか目を開けて、
「だ、大丈夫か?」
と、私を心配してくる。
どう見ても、大丈夫じゃないのはカイルだ。
「ええ……」
倒れ込んだ姿勢でカイルと目が合う。
眼鏡がズレて、ちょっとマヌケな感じだ。
可愛いな、と思って笑うと、つられたのかカイルも笑う。2人ですこし、クスクスと笑い合った。
起き上がらなきゃ、と思うが、背中にカイルの腕がある。抱きしめられているみたいでドキドキするが、離れるのももったいなくて頭を胸につけた。
心臓の音が聞こえる。ああ、生きてるんだな。良かったな。と、改めて思った。
そういえば前も、ここに転がされたカイルの眼鏡がズレていた。ここまで再現するつもりは無かったのになぁ。
壁ドンして、本当に私は大丈夫だから気にしないで、と伝えるくらいのつもりだったのだが。
ふいに、カイルの胸が不自然にひくりと強張った。
「お兄様? 痛い?」
驚いて起き上がる。変なところを押さえてしまっただろうか。
カイルは慌てて片腕で顔を隠す。反動で眼鏡が額の方へずれた。それをもう片手でとって、起き上がりながら掛け直した。
「いや、何でも」
カイルはそこまで言って息を飲んだ。胸がヒクヒクと不自然に動いている。見たこともない顔をしていた。いや、昔々、幼い頃にはたまにこんな顔をしていた記憶が、マグノリアの記憶の中にある。
辛い事、理不尽な事があった時、小さな失敗を責められた時。そんな時の、全部我慢している顔だ。
泣いてもいいよといったら、プライドが傷つくだろうか。今は差し出すクッキーもない。
放っておくことも出来なくて、手を伸ばして、髪を撫でた。
縋るような目で私を見たと思うと、乱暴に抱きつかれる。苦しい。今まで壊れ物のように扱われていたから、力の強さに驚いた。
涙を堪えている苦しそうな音がする。泣いても良いのに。そう思って背中をさすった。
よしよし。カイルは良い子だ。本当に、良い子だな。
しばらくそうしていると、
「ずっと、後悔しているんだ」
ぽつりとカイルが言った。
「……わかってますよ。もういいじゃないですか。やり直すの間に合ったんだから」
間に合わなかったら、死んでたんだし。生きてるだけで成功だ。
「自分が許せないんだ」
「ふふ、真面目だなあ」
心の奥底で、前のマグノリアが笑った気がした。
「ああそうだ、じゃあ……その分、これから私を甘やかすのとかどうですか。今まで基本塩対応だったし」
なんとなく、前のマグノリアがしてもらいたかった事をしてあげて欲しくなった。
自分をちゃんと見てほしい。そう思っていても結局何もしなかったんだからあまり同情はしてないのだけど、カイルはきっと今、あの時のマグノリアに謝っている。
心に暖かいものが広がるのを感じながら、だんだん落ち着いてきたカイルの背をぽんぽんと叩く。
「……わかった」
「え?」
思い切りよいYESの返事に驚く。
さっそく、とばかりにもう一度ぎゅっと抱きしめられた。さっきの力任せの感じではなく、愛おしそうに、大事そうに。優しく私の頭を撫でる。
そして立ち上がるとまだ座っている私の手をとって、気障ったらしく腰を折って口付けた。
「お、お兄様!?」
「そのくらいならお安い御用だ。何でもしてあげよう」
まだ目が赤い。でも、次の行動が決まったカイルはスッキリしたようだ。
しばらく書庫を見渡していたがふと思いついたようにニンマリと笑った。ろくなことを考えていない顔だ。
やたらと甘い作り笑顔を浮かべて、私を立たせる。なんだか久々に見た胡散臭い顔だ。
そのまま腰を抱きよせられ、頭を押さえられて吐息混じりの砂糖水のような低い声を耳に流し込まれた。
「すまなかった。愛してるよ、やり直そう」
「ぶはっ」
そのくすぐったさと、あまりにも嘘くさいセリフに吹き出した。
なんでこうなるんだ。極端すぎる。あまりにもカイルのイメージに合わない言葉のチョイスだし、口説くにしても雑だ。
私はツボに入ってしまって、しばらくカイルにしがみついて笑っていた。
その時、カイルが後悔と羞恥で顔を真っ赤にしていた事を、私は知らない。




