袋小路の女
── モルフォセス第三十六共和国・陸軍省
天高く聳え立つくすんだ白色の庁舎の最上階近く、役員室にて、ある女が男から審問を受けていた。
重厚な扉に背を向けて佇んでいるその女。生物兵器開発室長、キルケ。彼女はその若さにもかかわらずこの国家におけるバイオテクノロジー研究の第一人者で、現在は生物科学の軍事転用に関する国家機関、そのうちの開発部門の責任者のポストにも就いている。肩に少し掛かる程度の長さの髪は生まれながらの栗色で、紫色のブラウスの蔭からチラリと覗く鎖骨の方へと内巻きに曲がりながら流れている。ブラウスの上には黒いコルセットを巻いていた。さらにその上からもう一枚、いかにも研究者然とした白衣を纏って全身を包み込んでいるため、浮かび上がりかけたその華奢なボディラインは巧妙に覆い隠されている。足元は、膝が少し覗く程度に丈の短い黒のプリーツスカートと黒いブーツとを履いていた。裾が揺れるたびに彼女の色白な、非常に細っそりとした太腿がチラチラと垣間見えそうになっているが、スカートよりもさらに丈の長い白衣がその視界を絶妙に遮っている。尤も、彼女は普段実験室に篭りきりで研究一筋の日々を送っており、今日とて当局の“お偉いさん”から呼び出しを食らったということで仕方なくこれらの“正装っぽい”服を引っ張り出して着てきたに過ぎず、衣服のコードというものに無頓着な彼女からすると『どういう服装をしたらどんな風に見られるのか』という点まで考えが及んでいるのかというと、微妙なところがある。
さて、彫刻の施されたどっしりとした紫檀のテーブルを挟み彼女と相対するは、省の審議官、オイディウス。この省に属する他の役付きの官僚達と同じく色立ち良いカーキ色の軍服を着込んでて、仕立て良く縫い込まれた襟章や肩章の装飾がその佇まいに荘厳な雰囲気を付加している。若い士官には持ち得ないいかにも歴戦の猛者というオーラを漂わせていた。彼には“オダ”という軍事作戦上のコードネームが割り振られていて、軍人としての通名はオイディウス=オダという。
「クックック、またやらかしおったな?キルケよ」
「大変、申し訳ありませんでした、オイディウス様」
キルケが深々と首を垂れる。
「このたびは、今月度の開発室予算の資金繰りを焦げつかせてしまいましたこと、心よりお詫び申し上げます。
日々キャッシュ・フローの動きに気を配りつつ数字の管理に努めて参りましたが、力及ばずショートさせてしまいました……」
顔を上げぬまま、キルケは思いつくだけの語彙を並べて、弁明の言葉を口にする。“焦げ付く”とか“ショート”とか、なんか専門用語っぽく聞こえる語句を使っておけば、『分かってはいたんだけど突然不測の事態に陥ってしまってこんな結果になっちゃいました』感が出てワンチャン見逃してもらえないかな……?などと、そんな僅かな可能性に望みを賭けた彼女だったが。
「この愚か者め。これが二回目の失敗ではないか。手形交換所であれば取引停止処分になっていたところだぞ?
今回こそは、それ相応の責任を取ってもらうぞよ」
オイディウスがテーブルにグッと体をもたせかけ、彼のかけている眼鏡、分厚いレンズがギラリと反射する。くっ、ダメか……。髪の毛が垂れてオイディウスからは陰になっている彼女の顔に、苦々しい表情が浮かぶ。
やはり、これまで研究一色の人生を送ってきた身にとって、マネジメント側の仕事まで任されるというのは荷が重過ぎたんだ。自分の研究に没頭すればそれでよかった頃とは異なり、把握しなければならない範囲が広すぎて一つのことに集中しがちな性質を持つ自分には管理職はどうも向いていなかったらしい……。
「上司がこの様では、今まで貴様の下で働いてきた魔獣士どもにも示しがつくまい?
このような失態を犯してしまった以上、一つのけじめとして、貴様もあやつらと同じ立場へと堕ちてもらおうではないか」
「……っ?!ま、待ってください、オイディウス様!
それだけは!それだけはご勘弁を!!」
彼の口にした罰の内容を耳にした瞬間、ここまでなんとか平静を保っていたキルケは急に取り乱し、露骨に許しを乞い始めた。
“魔獣士”というのは、この国家の軍事力、その中核を担う生物兵器のことである。生身の人間の身体を素体にして、そこに動物由来のバイオエネルギーを注入するなどの改造を施すことによって、獣とヒトが合体したような異形の姿と超人的な身体能力を宿した存在へと変貌させることが可能なのだ。モルフォセスは、この魔獣士を中心に編成された師団を前線に次々と送り込むことによって、その勢力圏を拡大してきたという背景がある。そして“人間を魔獣士に改造する”という技術を深い研究によって確立した張本人というのが、何を隠そう、このキルケなのだ。そのメカニズムを熟知しているが故に、今から自分の身に降り掛かろうとしている事態の恐ろしさも当然彼女は理解しており、なんとかそこから逃れる糸口を必死で見出そうとしたのだったが……。
「なーにを躊躇っておるのだ、キルケよ?
この魔獣士生成技術の導入にあたってプレゼン資料に記されておった貴様の言葉を借りるならば、“魔獣士というものはヒトの知能と動物の身体能力を併せ持った謂わば人間の進化形と呼ぶべき崇高な存在で、よって魔獣士への改造手術というものは決して生命を弄ぶ人体実験などではなく、むしろこの国そのものを新たなステージへ押し上げるための高尚な行為なのだ”ということではないか?
その“高尚な行為”を、ついに自身の身体でもって享受する機会が与えられようとしているというのに、お前の側からすれば喜びこそすれ、何をそこまで抗う必要がある?」
ぐぐっ……とキルケは歯軋りする。確かにその文言は、彼女自身が記したものだった。あの頃の自分は、自身が開発した技術の凄さを一刻も早く多くの人々に伝えたいという欲に取り憑かれていて、多少強引な理屈さえ総動員して上層部に自分の研究を売り込んでいたのだった。しかし、その実績を糧にここまで上り詰めてきた以上、今となってはその当時の行いを表立って悔いることすら叶わない。
「ふむ、ここでいくら口答えしても無駄だということは分かっておるようだな。
話は以上だ。地下実験室へ連れてゆけ」
いつの間にか扉が開いていて、中に入ってきた若い将校二人がキルケを羽交締めにし、部屋から連行していく。
「ま、待ってください!オイディウス様、どうか、魔獣士化だけはご勘弁を!あのような異形の姿へと変えられることだけは!
後生でございます……!!」
廊下を引き摺られるように運び出されていくキルケの声は、オイディウスのいる部屋から徐々に遠ざかっていった。
◆
「んぐぐ……おのれ、オイディウス……!
あの、現場の苦労も碌に知らぬ、口だけは達者な、単なる一端のテクノクラート風情め……!」
キルケの口端から屈辱を噛み締める言葉が漏れ出る。
庁舎の真下に位置する地下室、実験場の最奥、その牢屋にて彼女は収監されていた。白衣は邪魔になるので脱がされ、ブラウスにコルセット、スカートにブーツという格好で手首足首を壁面に鎖で繋がれ大の字の体勢に縛り付けられており、身動きを取ることができない。拘束させる側の立場で見慣れているこの場所に、まさか自分が拘束される側で入れられることになるとは……。
「おぉ……キルケ様、なんと痛ましい……」
その牢屋の前、見張りの役目を命じられた一体の魔獣士、白狼の“オデュッセウス”が、檻の外からキルケのことを気の毒そうに見つめている。その姿は、筋骨隆々とした人間の身体に、気高き狼の頭が付いているというような容姿である。狼の遺伝子をベースに、筋肉量が多い他の動物の特徴も混ぜ合わされているようだ。全身がフサフサとした毛で覆われているので、衣服を着る必要もない。その裸の肉体、腰周りには黒いベルトのような物が巻かれていて、その前面部分、ヘソの少し下辺りには銀色の肉厚な楕円状のバックルのようなものがくっ付いている。そのバックルにはこの国家の国章が彫られているのだが、実はこのバックルは装飾品などではなく歴とした魔獣士の身体の一部分として埋め込まれているものである。このエンブレムこそが、その者が魔獣士であるということを最も如実に象徴している箇所であるとも言える。
オデュッセウスは、何らかの事情によって魔獣士化させられた元軍人で、紆余曲折を経て現在は生物兵器開発室に所属しキルケの下で働いている男だ。見張りの対象がまさか自分の上司だとは思っていなかったようで、声音にはまだ困惑の色が含まれているように聞こえる。
「ふふふ……、見苦しいところを見せてしまったな、オデュッセウスよ。
自業自得とは分かっていても、いざ自分が断罪される側になってみれば、いくらでも恨み言が湧いてくるものらしい……。
しかし、お前も私と時をともにしてきた手前、実質的な共犯者と言えるのではないかね?」
オデュッセウスの視線に気付いた彼女は、愚痴を聞かれた罰の悪さを誤魔化すように、軽口を叩いてみせる。その言葉は、今回彼女が犯した失敗についてのこと。
浮世離れした性格も相俟って彼女の金銭感覚には元々怪しい部分があったのだが……。思えば数ヶ月前に、実験室横の休憩所に置くためにバカでかい壁掛けテレビを分割クレジットで購入してしまったことが致命傷になったと言える。ずっと顕微鏡を覗いて生物の細胞やら何やらちっさいものを観察し続けるような日々だったから、ついついバカでかいものが欲しくなったのだ。あとどうしても、お昼休みに皆でご飯を食べながらヒル◯ンデスが観たかった……。
というわけで、キルケは一緒にヒルナ◯デスを見ていたオデュッセウスも共犯者に当たるのではないか?という旨を言っているのだ。
「私はちゃんと『予算は大丈夫なんですか?』と忠告しておりました」
「冗談に決まっておろうが、つまらん奴め」
こんな時ですら崩れない彼の生真面目な勤務態度に、キルケは苦笑する。
さて、少し気が落ち着いてきたところで、キルケはここを抜け出してからどう動こうかと考えを巡らせ始める。魔獣士化させられるという罰の内容を聞いた時点で、連れて来られる場所と言えば、まず最寄りで最も設備の集中しているこの地下実験室だろうと予想はついていた。であれば、そこにはオデュッセウスもいるということになる。
オデュッセウスは、キルケの言うことを忠実に守る部下だ。それは本人の気質自体も実際そうではあるのだが、それ以前の話、“魔獣士の肉体の仕組みとしてそうなっている”と言った方が正しい。どういうことかと言うと、魔獣士というのは人間よりも高い戦闘能力を持った生物兵器なのであるから、もし人間の意に背く行動を取ったり謀反を起こしたりすることがあれば人間国家にとって大きな脅威となってしまう。そのことを見越して、キルケはあらかじめ魔獣士化のメカニズムの中にそうした反抗を防ぐための“印象付け”のプロセスを組み込んでおいた。コンピュータのプログラムにも近いその“印象”は魔獣士の腹に付いたエンブレムの内部に物理的にしかと刻み込まれていて、魔獣士自身がどのように考えていようとも、それに逆らう行動は取れないようになっている。
魔獣士の導入に当たって上層部からは『そういった反乱に対する安全装置の仕組みはちゃんと用意してあるのか』という点だけは重々念を押されていたので、勿論一通りの仕様情報は渡してあるのだが、何しろメカニズム自体が非常に難解であることから、連中がそのアルゴリズムの全貌を完全に理解できている訳はないし、キルケ自身が敢えて開示しないままにしておいた断片情報もいくつか残っている。それこそ、こんな状況に陥った時に切るための手札として。
オデュッセウスに関して言えば、彼はキルケの直属の部下であり、それは今この瞬間も変わりない。この場合は、『組織内の上司の直接口頭での命令に背いてはならない』というアルゴリズムが適用されるはずなので、彼女が命令しさえすればオデュッセウスはその脱出に協力せざるを得ない。まぁ、普段の彼との仲からして、仮にそうしたアルゴリズムがなかったとて素直に頼み込めば助けてくれるだろうが……。彼女は彼の魔獣士としての母親なのであり、且つ仕事先での同僚として少なくない時間を共にしてきた間柄であって……、その関係性を一言で表すのは難しい。彼を巻き込んでしまうのは忍びないが、しかしそれ以上に、今や彼は彼女にとって最も信頼のおける存在にまでなっていて、もはや彼という存在を抜きにこの先生き抜いていくことを考えることさえ難しく感じ始めているのだった。
でも、彼の人生を引っ掻き回してまでここから逃げ出したとして、これから私は一体、どんな未来を描いていったらいいのだろう……?
このモルフォセスにおいて、研究手腕一つで国家機関の中枢にまで上り詰めるという完璧なキャリアを手にすることには成功した。しかし、そのような理想的な人生というものは運の要素なしでは、単に自分一人の力だけでは実現し得ないということを、歳を重ねる中で彼女は悟りつつあった。
思えば、それは高等教育機関の修了にあたって自分の進路選択に悩み苦しんでいたあの時も同じだった。初等教育から博士後期まで優秀な成績で貫き通し、順風満帆に経歴を重ねるのが当たり前のように思っていた彼女がやがて直面した問題とは、『就職市場における生物学博士への需要の低さ』というあまりに身も蓋もない実情だった。そんな苦しい状況の中で見つけたのが、『モルフォセス第三十四共和国の軍事関連研究員』の求人募集だった。政情に不安定な部分が多いとは言え地域内屈指の大国の、それも国家公務員というステータスも、実力重視で裁量も大きいという条件も、当時の彼女には非常に魅力的に映った。今となっては『第三十四共和国ってどういうことだよ……。お前らどれだけ革命起こせば気が済むねん……』というツッコミばかりが浮かんでくるが……。いざ応募してみると、野心に溢れていた彼女の佇まいが人事担当の目に留まったおかげか、割とすんなり採用が決まった。当時の彼女は自分の実力一つで内定を勝ち取ったように思っていたが、今から思い返すと、タイミングや巡り合わせの問題もかなり大きかったという気がした。
あるいはせめて……、卒業当時付き合っていたあいつと結婚できていたならば……。もしかしたら今頃は、家庭に入って子供を育てながら、地味ではあってもささやかな幸せを少しずつ積み上げていくような、そんな人生を送ることができたのかもしれないのに。
そんな風に、彼女は無意識に、『自分は一体、どこで人生の選択を間違えたのだろう』という思考の迷路に陥りつつあるのだった。本当はそれよりも、国家から懲罰されようとしている今この状況をどうすべきか、考えなければならないのに……。
そんな彼女の胸中など知らずに、オデュッセウスは牢屋の傍で、設備の操作を始めているようだった。おそらくは上層からの指令を受け、魔獣士化手術の準備作業を進めているらしい。無情にも、タイムリミットは迫ってきていた。まだ脱出後のプランは固まっていないが、とにかくオデュッセウスが受けた指令を彼女の口頭命令によって上書きしなければ何も始まらない。
「よせ、オデュッセウスよ。魔獣士化手術の準備を止め、装置を停止させるのだ。
これは上官命令だ」
しっかりと自分の組んだアルゴリズムに引っ掛かるよう確かめながら、彼に直接投げかけたのだが。
「申し訳ありません、キルケ様……。
先ほどから私もなんとか自分の体を食い止めようとしているのですが、自由が利かないのです……」
そう言って彼は、自分の腹に付いているエンブレムを指差した。そこに刻まれた国章がいかにも生物の一器官であることを主張するように鼓動し、彫られて凹んでいる箇所から生体エネルギー由来の光が透けて明滅している。
なに……?命令が効かない……?!
「先ほど、こちらにオイディウス様が見えられて、処遇が確定するまでキルケ様の権限を一時的に停止する旨と、『キルケ様に魔獣士化手術を施すように』と直接私に命令されていったのです……」
な、なんと横暴な……!単なる職務上のミス一つで、一時的とは言え構成員の地位を宙吊りにするなどとは!その上、オイディウス自らが口頭で伝えたことによって、その命令をさらに上書きすることが事実上困難になっているのだった。
「おのれおのれおのれ……、オイディウスッ!!」
彼女の怨嗟の言葉も虚しく、魔獣士化手術装置は起動し始めた。あまりにあっけなく、その時間は訪れた。
「お許しください、キルケ様……。
少しでも施術が楽に終わりますよう、お祈りいたします……」
「ま、待て!やめっ……!」
オデュッセウスの震える指が装置の施術開始ボタンを押し、人体を作り替える紫色のエネルギー波がキルケの全身に浴びせかけられ始めた。
「うにゃああああああっ!!?」
魔獣士化“手術”とは言うものの、その施術過程で人肌にメスを入れたりだとか注射針を打ったりだとか、そうした外科的な処置が施される場面はほとんどない。必要な細胞だとか遺伝子情報だとかを装置にインポートしたならば、あとはそれをエネルギー波に乗せて被験体に浴びせかければ済むのだ。その昔、物体転送装置を開発しようとしていた科学者が実験事故によってハエと合体してしまい、体が徐々にハエ化していったという出来事が確認されていたのだが、その現象のメカニズムを解析し一部応用しているところがある。
施術の過程は何段階かに分かれている。
まず、被験体の身体の表面を“洗い流す”必要がある。身につけている衣服や余分な垢、体毛などをエネルギー波によって分解するのだ。
キルケの身につけていたブラウスとコルセット、スカートとブーツ、そしてその下の肌着までもが、波動によって焼け落ちるように分解され、その残骸が床に落ちるよりも早く宙に霧散していく。そうして、彼女の非常に華奢な裸体が、大の字に繋がれたその姿を露わにしていった。波動に揺さぶられ、腰が引けたような状態になる。覆う物のなくなった両胸が、身体の振動によってフルフルと揺れる。
「うぎゃああああっ!私の一張羅がっ!」
結構高かったのに!せめて一回くらいはオデュッセウスに「そういやその服可愛いですね」って言ってもらいたかった!
というか、いつの間にかスッポンポンになってる!!裸体をオデュッセウスに目撃されちゃってる!……見るな見るな見るな!多分、彼は邪な気持ちなどは少しもなく、本当に私の身体が心配で、よそ見もせずにこっちを見守ってくれているのだろう。だがそれはそれで、こっちとしてはなんか変な気分になってしまいそうになる!
……って、いたたた!?腰が痛い?!一瞬、この手術による痛みなのかと思ったが、よくよく考えたらそれは身につけていたコルセットがなくなったがための痛みであることに気付く。実験中は終日ずっと椅子に座ったまま顕微鏡を覗いた姿勢を取り続けることも珍しくないと言う生活を送っているので、慢性的な腰痛に悩まされていた。苦肉の策として、日常的にコルセットをはめる習慣ができていた。今やってる研究が落ち着いたら整骨院行かなきゃ……。久しぶりに顔見せた患者さんが魔獣士になってるもんだから、さぞビックリされるに違いない……。
それにしても、魔獣士は生物兵器として作られる訳なので、これまでこの手術の被験者は身体能力の優る男性がほとんどであった。ゴリゴリマッチョな軍人を施術する時に内心ドキッとしたりだとか、ごくたまに女性を施術する際に少し感情移入してしまったりだとか、そういう何とも言えない妙な気持ちになったことが今までにないとは言えないけれども……。実際自分が施術される側になってみると、やっぱり景色が全然違う!
エネルギー波に神経が昂ってきたのだろうか、彼女は自分がだんだん興奮状態に入っていくのを感じていた。自分が数少ない女性の被験者の一人になろうとしているということもあるのか、不思議な高揚感まで湧いてくる。手術のせい……、この妙な感覚は、全部手術のせいだから……!
「んーぬぬぬぬぬっ……!」
言葉にならない感情を発露させるようにキルケが叫ぶ。オディッセウスは、せめて術後の彼女の身体が無事であるようにと祈るような目で見守っていた。
今度は実際に動物のバイオエネルギーを注いでいく段階へシームレスに移っていく。紫色だったエネルギー波が徐々に動物の血の色を彷彿させるドス黒い色へと変わっていった。
「ふごっ!?ふごっこほっ……?」
キルケの鼻が徐々に平べったく大きくなり、上を向いて吊り上がり始めた。身体の変化が始まったのだ。
彼女の両耳が大きく尖った形へと膨らみながら、頭の方へと徐々にせり上がっていく。歯が鋭く尖り、とりわけ四本の犬歯が獣の牙のように大きくなっていって、口の中に収めきれずに唇から飛び出してくる。手足の爪も鋭く伸びて、それぞれの指の間をよく見ると、水掻きが広がって幕を張り始めているのが分かる。晒け出されたお尻から、皮膚の一部が少しずつ長くなっていき、ワインボトルの栓抜きを思わせるプリリンとした尻尾が生えてきて、それは豚のそれによく似ていた。
さらに、彼女の身体に起きた変化の中で最も特徴的だったのは、両手から両太腿へとピンと張られた膜のように、大きく広がった翼だった。大の字に貼りつけになった彼女の手の小指から、前腕、二の腕、脇下、脇腹から背中側へ緩やかなカーブを描いて曲がっていき、尻尾の邪魔にならないようその横を素通りして、太腿と、そして膝の裏側の柔らかい部分へと繋がるように、皮膚が膨張し翼を形作っていく。拘束された姿勢であることも相俟って、彼女の華奢な体格が急に大きくなったようにも感じさせる翼のその表面積の大きさは、正面からよく確かめることができた。
他の魔獣士たちと同様、その身体はいくつかの動物の身体的特徴を混ぜ合わせた形を目指して形成されたようだったが、あくまでメインのモチーフとしてはコウモリが選択されていることが見てとれた。肌の色はまだ人間の時のままであることもあって、今のキルケはまるで生まれたてで体毛も生え揃っていないコウモリの赤ちゃんのような、そんな無防備な姿を晒しているのだった。
「あああああっ!見るな!見るな、オデュッセウスッ……!」
「おぉ……、おいたわしや、キルケ様……!」
あられもない姿を彼の眼前に晒け出しているという状況にほとんど頭が沸騰しているキルケ。その様子を『魔獣士の身に堕とされようとしていることへの苦痛と憤怒によって恐慌状態に陥っている』と受け取って、初めは沈痛な面持ちで見守っていたオデュッセウスだったが……。
「んほおっ……!!おおっ……!
い、嫌じゃ、嫌じゃ!人外になどなりとうない!」
「……もしかして意外と楽しんでおられますか?」
「これこれよさぬかオデュッセウス!」
身体の変化も佳境を過ぎたからなのか、だんだんキルケの声にいつもの余裕の色が戻ってきたことに気づき、安心感が戻り始めたオデュッセウスだった。
手術はとうとう仕上げの段階に入っていく。
彼女の全身が、徐々に本物のコウモリを彷彿させるような浅黒い色へと染まっていく。同時に、それまで素っ裸で無防備な状態のままだった身体を保護するためだろうか、茶色の体毛が身体の至る所に生え始めた。髪の毛から続いて首、肩、背中、両脚の間の局部、太腿とふくらはぎにかけて、素肌を覆って鬱蒼と毛が生え揃う。しかし、顔や両手のひら、両足だけではなく、彼女の胸とお腹、臀部の部分には毛は生えてこず、他の箇所よりも浅黒さが控えめなそれらの箇所の素肌は晒け出されたままだった。もしかしたら、コウモリの飛行能力を実現するために空気抵抗を軽減する意図なのかもしれない。
また、これらの過程の中でいつの間にか、彼女の華奢な腰回りには黒いベルトのような物が巻かれていた。彼女の腰があまりにも細すぎるためか、そのベルトのようなものはウエストのくびれに締まって定着しようとするのを諦めたようで、そこよりもう少し下、腰骨に引っかかるような形でその位置を落ち着けた様子だった。結果的にそのベルトが掛かる下腹部、一般的な雄の魔獣士と比べるともう少し低いところになる訳だが、そこに例によって国章が掘り込まれた銀色のバックルが内側から生えて形成されていき、そのものが定着したことを確かめるように紋章が鼓動を打ち始め、生体エネルギーが明滅を開始した。このバックルが、キルケの身体が完全に魔獣士へと変貌を完了したことを証明しているのだった。
こうして、キルケの魔獣士化手術は完了した。彼女はコウモリをメインモチーフに、そこに豚など他の哺乳類の要素も所々取り込んだ雌の魔獣士に生まれ変わったのだ。
もう用は済んだとばかりに、彼女の両手両足を拘束していた鎖が自動で解錠される。身体を支えていたそれらが急に外されたことで、細い両脚がプルプルと震え、キルケはその場に倒れ込みそうになる。魔獣士化したばかりの身体ではまだ上手くバランスを取れないのかもしれないし、手術によって身体が消耗しきっているのかもしれない。もしくは、単にコルセットのない腰が痛いのかもしれない。
「キルケ様!」
オデュッセウスは急いで牢屋の鍵を開けて中に入り、彼女に駆け寄ってその身体を支える。
「キルケ様、お身体の具合はいかがですか?」
「なに、大丈夫だ。自分で作ったものだからな……。いかに優秀なシステムであるか、自分の身でよく確かめられたよ」
強がる言葉とは裏腹に、彼女は心細そうな表情をオデュッセウスに向けていた。
「それにしても、私もとうとう、お前と同じ人外の身へと堕ちてしまったな……。このような身の上である以上、いつかはこんな日も来るのかもしれないと考えたことはあったが……」
自身の下腹部に現れた人外としてのしるしをツーっと人差し指でなぞる。
「いざその時になってみると、やはり不安だな。これから私はどうなるのか、不安で仕方がない」
「キルケ様……」
魔獣士になっても彼女の華奢な骨格はそのままで、コウモリの特性が強調されたせいもあるのだろうか、オデュッセウスの腕にかかる彼女の体重はあまりに軽く、頼りなく感じられた。
「魔獣士に変えられたとなれば、もしやすると、研究者としての立場も取り上げられて、前線で働く駒として使い捨てられるのかもしれぬ……。そうでなくとも、気高く美しいお前とは異なり、私はこの変わり果てた姿を晒しながら生きていく自信がない。もう、私はもう……」
蔭が差してこれっきりだと言うように背けられかけたその視線を、オデュッセウスは自分に向け直す。彼の手から伝わる熱に驚いて、彼女の言葉が詰まる。
「私があなたを支えます」
今度こそは冗談ではないのだと、オデュッセウスの目が彼女に語りかけてくる。
「自分の身体で上手く立てないのなら、私がその身体を支えます。
自分の身体を晒しながら人前を歩くことに恥じらいを感じるのなら、私があなたの前を歩きます。
あなたの少し前を歩くこの私が、あなたを導きます」
彼女の背中に腕を回して、少しでも自分の体温を移すように、彼女の中に灯った火が萎んでいかないように、自分の持つ熱を残さず伝えようとしている。
「だから──私と一緒に生きませんか。
穏やかではない世の中だけれど、一緒にやれるところまではやってみませんか。
どん詰まりのまま、薄暗がりのまま、二人で幸せになりませんか」
彼女の目はいつしか潤んでいたけれども、彼の熱がちゃんと伝わったおかげだろう、勝ち気な表情と呆れたような笑みを目の端に浮かべて、
「……やれやれ、弱っている女を押し切ろうとするなんて、お前も意外と悪い男だったのだな?」
翼のついた腕を持て余すでもなく、優しく彼を包むようにそっと自分からも彼の背中に腕を回して、
「仕方がないな?今の私は、新しい身体に宿った熱に浮かされ、弱っておるのでな?
悪い狼に押し切られてやろうではないか……」
そうして互いの腹、そこに付いたそれぞれの存在の証を重ね合い、その存在を確かめ合う。
誰もがそれぞれの袋小路に、自分なりのやり方で対峙していっているようだった。必死で掘削してみたり、潜り抜けられる穴がないか探し回ってみたり、はたまたその場でじっとして力を蓄えたり……。
彼と彼女はどういうやり方を取ろうとしているのか、それはまだ分からない。それでも、とりあえずまたここから始めてみよう。そんな風に思っていることだけは分かった。
◆
「クックック、これはまた懐かしいものが出てきたわい……」
深夜の庁舎、事務室に一人残ったオイディウスは、傍に人事用ファイルを広げ、電子計算機に向かって作業をしていた。そのファイルを捲るうち、とある履歴書を見つけ出した。それは、キルケが応募当時に送ってきたものであった。
「クックック、そうそう、随分トンチキなことを言う奴が応募してきたと思ったものだったわ。
どれどれ、志望理由が『人外に憧れているから』だとか何とか書かれておるな……。あまりに意味が分からなすぎて、逆に面白そうだから採ってみるかという話になったもんで、よく覚えておる。当時はウチも、そんなノリで人を集めるほどの余裕があったのだなぁ……」
オイディウスは今、キルケの人事情報の変更内容を人事管理クラウドに入力しているところだった。属性が“人間”から“魔獣士”に変わるのでその内容を更新するのと、ついでに古い内容を精査してしまおうと、履歴書のファイルを取り出してきて確認しているのだ。
なお、キルケの役職は、開発室長から変更はない。あれだけの能力を持った人間を現場から遠のかせる理由はないからだ。ただ、もう少し金銭感覚がマシになってくれればと正直思ってはいるが……。
今回はお灸を据えるという意味で、彼女にはしばらくの間、魔獣士として過ごしてもらうことにした。尤も、そのうち魔獣士の身体のままでいいと言い出す可能性も高いのではないかとオイディウスは予想してる。求人応募時の言葉の通り、今日まで彼女が魔獣士の姿に向けてきた熱っぽい目線というのは、常軌を逸していたから……。あれは明らかに、研究に対する情熱とか、そういう枠に収まりきらないものだった……。まぁ、今回自分の身でもって採集したデータを今後の研究活動に活かしてくれれば、どちらにしろ構わないのだが。
ついでに、白狼のオデュッセウスとの仲にも何か進展があれば一石二鳥だ。あやつら、あんなに仲が良いのになかなか話が進まないから、側から見ていてヤキモキしておったのだ……。おそらくキルケは結婚しても仕事は続けたいというタイプであろうから、ここは二人の関係性を活性化させることによって彼女らのQOLを高めてやることが、組織からしても最善手であると言えよう。
「ふーっ」
一通りの仕事を終え、オイディウスは電子計算機と睨めっこばかりしていた体を起こし、伸びをする。
壁掛け時計を見遣り、「今日はいつもよりは早く帰れそうだの」と思いながら電子計算機をオフにしようと筐体に手を伸ばしかけるが。
「……慶弔規定だけ確認しておこうかの」
そう呟いて、就業規定のデータが入ったフォルダを開き直す。こんな調子で、今夜もなかなか家に帰れないオイディウスであった。
了
オフィスラブのつもりで書きました。嘘です。
異世界ものに初挑戦してみようと思って書き始めました。序盤早々諦めました。