忍と亜希
「この木の葉が全部散ったら死ぬんだとかいう話なかったっけ?」
「ああ、昔英語かなんかの授業でやった気がするな」
「その木が落葉樹じゃなくて常緑樹やったらどうかな?」
「どうかなって言われても」
「例えば松とか」
「松はなんか雰囲気でんなあ」
「じゃあソテツとかやったら?」
「時代背景が原始時代やったら合うか・・・いや、合わないか?」
病室のベッドの上から外を眺める弟の着替えを入れ替えながらそんな話をしていた。
「他に洗うもんないな?」
「最期にもう一度マンモスの肉が食いたかった・・・とかになるんかな?」
「いや、マンモスとかどうでもいいから。洗いもんないかって?」
「ない・・・でもマンモスの肉っていっぺん食ってみたくない?」
「いや」
「何で?おいしいかもしれんで?」
「だって象の肉やぞ。俺は牛の方がええわ」
「昔、アニメでやっとったやんか。なんて名前か忘れたけど、原始人のアニメ。それにマンモスの肉が出てきておいしそうとか思ったけどなあ」
真剣に考え込む弟ににんまり笑って、病室を出ようとしたとき、入り口に弟と同じ年ぐらいの女の子が立っていた。
花柄のパジャマを着た可愛らしい女の子だ。
この子も弟と同じくこの病院に入院しているのだろうか。
「忍ちゃん。今日はお兄さんがお見舞い?」
「うん。今日は体の調子いいの?」
「大丈夫。全然息苦しい感じもないし、絶好調って感じ」
「忍、この子は?」
「あ、兄さん。この子は宮部亜希ちゃん。二週間くらい前に入院してきた子」
「はじめまして。宮部です」
「おう、忍と仲良くしてやってくれ。それじゃ俺飯食ってくるから」
「うん、分かった」
生まれながらに心臓に疾患のあった弟は、今状態が悪化していつ心臓が止まるか分からないという状況だ。
ペースメーカーを付ける手術を、激しく嫌がっていたあの弟が、手術を受ける決心をしたのはあの女の子のおかげかなと一人ほくそ笑む。
電波がいろいろなところで飛び交っている現代において、ペースメーカーは結構不自由なものかもしれない。
けれど、いつまでも胸に爆弾を抱えたままでいる訳にはいかない。
小さいころは不整脈があるくらいで、心臓に負担をかけないように生活していれば問題なかった。
このまま何の心配も無く過ごしていけると思っていたのに、なぜ弟がこんな目に遭うのだろうと恨みをこめてエビフライを串刺しにする。
病院の食堂で日替わり定食を食べ終えた頃、さっきの女の子が熊のもふもふしたスリッパをならしながら近づいてきた。
「どうも。えっと宮部ちゃんだっけ?俺に何か用かな?」
「はい。忍ちゃん、もうすぐ手術受けるんですよね?」
「うん、受けるよ」
お茶が熱すぎて、冷ましながらちびちび飲む。
「私も受けるんですけど、私が手術受けるの怖いって泣いてたときに忍ちゃんに励ましてもらったことがあって。それでそのときはありがとうって。手術頑張ってって伝えてもらえませんか?」
「別に全然かまへんけど。そういうことなら本人に直接言った方がいいんじゃない?その方が早いし」
「でも、面と向かって言うのはなんだか恥ずかしくて」
「まあそういうもんか。わかった。伝えとくわ」
「ありがとうございます。お兄さん。それじゃ、失礼します」
彼女の両側で縛られた髪がひょこひょこして可愛らしい。
お兄さんという響きも女の子に言われるとまた違った趣がある。
家に帰ったら親に妹が欲しいとねだってみようか。
いや、絶対しないけど。
「忍も青春してるんやなぁ」
生まれてこのかた色恋沙汰とは縁の無い生活を送ってきた自分には正直弟が羨ましい。
そんなことを思いながら秋晴れの気持ちのいい空を眺めながら二杯目のお茶を口にする。
やはりお茶はまだ熱かった。
「言えた。あぁ緊張した」
自分の病室へ戻る途中、一人そうこぼす。
まだ心臓がばくばくと鳴っている。
お兄さんに言うのでもこんな調子なのだから、直接本人になんてできる訳が無い。
病室に戻って、一つ大きな息をつくとヒューと音がする。
自分でも知らずに足早になっていたのだろうか。
宮部亜希は両手を胸に添えて、規則正しく鼓動する心臓とその後ろで自分を苦しめている肺を思い浮かべた。
後何日かすれば、気管支を広げる手術をして、苦しい思いをしなくて済むはずである。
ふと、カレンダーに目をやると、手術日は黒く塗りつぶされ、他の日にまではみでている。
そして、その黒を囲むように赤で力強く丸が描かれている。
黒く塗りつぶしたのは自分で、赤で囲んだのは忍である。
「この日はお前が生まれ変わる日だろ。だからこんなにグチャグチャにすんなよ。いい日なんだから」
「忍ちゃん・・・言ってて恥ずかしくない?」
「何で?っていうか、ちゃんづけやめてくれって」
「いいじゃない。忍ちゃんの方が年下だし。それに忍ちゃん可愛いから大丈夫」
親指を立てて嬉しそうな亜希に対して忍はげんなりした表情である。
「大丈夫って・・・っていうか、可愛いってどういうこと?男が可愛いって言われても嬉しくないんだけど」
「そう?褒められたら誰でも嬉しいと思うけどなあ」
「俺は嬉しくないの。可愛いなんて言われても」
「忍ちゃん・・・」
亜希はすっと忍に顔を近づける。
二人の距離が5センチほどになったとき、もう一度亜希が忍の名を呼ぶ。
「忍ちゃん・・・可愛いよ」
忍はゆでだこのように真っ赤になって後ずさりする。
「忍ちゃん、耳まで赤くなって。やっぱり可愛いね」
ほどほどにしないと忍の心臓に悪い。
「ねえ、忍ちゃん。本当にいい日になるかなあ」
玉のように笑い転げていた亜希は、いつの間にかカレンダーを見つめ、しんみりしていた。
「なるに決まってるだろ」
ヒューヒューという息遣いとともに嗚咽が混ざる。
笑い過ぎて小さな発作が起きているのだ。
「ほんとに?」
亜希は自分でも苦しくて泣いているのか、それとも不安で心細くて泣いているのか分からなかった。
「本当に。だから泣くな。馬鹿」
「忍ちゃん、可愛いけど、優しくない」
「優しくなくて結構。っていうかお前泣き過ぎ。この前も泣いてたじゃん」
「だって、忍ちゃんも手術受けるんでしょ。全然怖くないの?」
「怖い訳ねえだろ。馬鹿にしてんのか?」
「ごめん。でも忍ちゃんって顔に似合わず男らしいんだね」
「顔に似合わずってのは余計だ」
亜希は瞳に涙を溜めて、忍と微笑みあった。
今ではその黒く塗りつぶされた日にちを見ても不安にはならない。
その日のことが思い出されて、ただただ心が暖かくなるばかりだ。
ため息ばかりが出る。
忍ちゃんこと豊島忍はたまらなく後悔していた。
彼は注射が嫌いである。
注射を打つときは絶対に注射から目をそらして堅く目をつむる。
少しだけちくっとしますよと医者が言うたび、ちくっとするなら止めてくれと心から願う。
もっと科学が発展して痛くない注射針ができればいいのにと思う。
多分俺は生まれてくる時代を間違えたのだと本気で思う。
苦しいのも嫌いである。
だから、苦しいのを耐えている彼女のことを尊敬する。
後二年経ち、彼女と同じ歳になろうとも苦しいのを耐えることは自分にはできないだろうと思う。
彼女のことは尊敬するが、同じように苦しいのを我慢できる体になりたいとは思わない。
できれば手術だって逃げ出したいのだ。
しかし、彼女の前で手術を受けると言ってしまった以上受けざるを得ない。
タイムマシーンで過去に戻って手術を受けると言ったことを無かったことにしたい。
いや、でも待てよ。
タイムマシーンってどうやって作るんだ?
そんなことを真剣に悩んでいたとき、兄が帰ってきた。
「よう、忍。青春してるか?」
「は?何言ってんの?そんなの今の状況でできるわけないだろ」
「ん、ああ。そうか。いや、亜希ちゃんから伝言頼まれてな。手術頑張れってさ」
亜希の名を聞いて喜ぶかと思いきや忍は大きなため息をひとつついただけだった。
「なあ、兄さん。タイムマシーンってどうやって作るんだ?」
「タイムマシーン?確かタイムマシーンって理論上不可能じゃなかったっけ?」
「不可能を可能にするのが科学じゃねえのかよ。兄さんの役立たず」
「その科学で不可能だって言ってんだろ。というか俺科学者じゃ無いし」
「やっぱり無理なのか。タイムマシーン」
「無理だろうな」
「冷たいよ。兄さん」
「冷たいな。もうすぐ冬だからな」
手術当日がやってきた。
タイミングよく二人の手術日が重なり、その日の朝は二人とも言葉少なに語り合っていた。
まるで今生の別れでもしているようなやり取りだったので、思わず飲んでいたお茶を吹きそうだった。
確かに大変な手術なのだろうが、生きる死ぬというのはいささかオーバーな気がしてしまう。
それにしても最近は医療の情報の開示が進んでいるらしく、弟さんの手術の様子を見ますかと言われた。
謹んでお断りした。
それは俺が薄情だからでも、楽観主義者だからでもなく、単に血が嫌いだからだ。
小学生の頃、フナや蛙の解剖で気を失って保健室に担ぎ込まれたのは、たぶん俺だけではないはずだ。
いざ手術が始まると、手術中は意外に暇なのだと気が付く。
仕方がないので病院の周りをぶらぶら散歩することにした。
病院横の楓の並木道は葉が舞っていて美しい。
俺はふと、弟の言った『この木の葉が全部散ったら…』のフレーズを思い出した。
フッ。
俺は馬鹿馬鹿しいなと思いながらも、弟の病室前の楓の木の葉にセロハンテープを貼ることにした。
木登りなどずいぶん久しぶりだったが、案外うまく登れた。
ようやく貼り終えて降りようとしたとき、世界が回った。
落ちながら俺の頭によぎったのは走馬灯ではなく、猫が高いところから落ちたとき、クルクル回転しながら見事に着地するシーンだった。
動物名珍場面集を見ていてよかったぜと心から思う。
さあ、猫のように華麗に美しく膝を抱えて回転しようとしたとき、地面が足を強打した。
痛みに悶絶しながら、ゴロゴロと地面を転げまわった。
一通り暴れまわった後、痛みで見える幻覚の猫が鼻で笑って通り過ぎていった。
「骨折したんだって?」
何の因果か、病院の配慮か、弟と同じ病室で寝かされている。
「何でまた、そんなことに」
そんなことは聞かないでくれ、弟よ。
兄心からとはいえ、木から落ちたなんて理由を言える訳がない。
「まあ、言いたくないならいいけど」
ありがとう優しい弟よ。
いや、これは彼女ができた男の余裕なのだろうか。
くそっ。
「元気だせよ。俺みたく兄さんも病院で出会いがあるかもしれねえじゃん」
俺はうずくまっていた布団から顔だけ出して、弟を見つめた。
「そうか?」
「ああ、そうだな。あの木の葉が全部散るぐらいにはできてんじゃねえの
抹茶小豆先生
山羊ノ宮さんの作品は、常習性がありますね。
「クセになる美味しさ」とでもいうのでしょうか。
今後も作品を楽しみにしております。