北極へ
「北極へ行きたい」
リビングへ飛び込んできた妻の第一声はこうだった。
「えっ?」
っとありきたりだが、当然の反応をする。
「北極へ行きたい」
「何で?」
「暑いじゃん」
「暑いね」
「だから、北極行きたい」
「何でそうなるかな」
ため息混じりに2週間前に買った車の雑誌に突っ伏した。
「行きたくないの?北極よ。オーロラに白熊、ペンギンに、氷がいっぱいあるのに」
「ペンギンは南極だろ。それに氷なら冷蔵庫にあるだろ。それで我慢しようよ」
「やだー。行きたい、行きたい。北極ー」
妻はソファーに寝転がっている俺にのっかかってきた。
そして、グリグリと肘で俺の後頭部を痛めつける。
「分かった。行くから。行くから、やめてくれ。頼むから」
「え?ホント?さっすが私の旦那様。物分かりいいー」
俺は呆れ顔の俺の頭をよしよししている妻の顔を見つめる。
妻のいいところは好奇心が強く何にでも興味を持つことだ。
結婚したのも彼女の好奇心の強さによるところが大きいので、それについてあまり悪いとは思わないのだが、ここまで来るとさすがに少しきつい。
去年の冬にはアフリカのサハラ砂漠に行った。
砂漠の暑さは尋常ではなかったが、それよりも苦になったのは夜である。
夜になると急激に冷える。
暑さ対策だけは万全にしてきたのだが、防寒具の一つも無いので砂漠のまん中で危うく凍死しかけた。
それにも懲りずに妻は北極に行きたいと言っているのだ。
呆れを通り越して、尊敬の念すらも抱いてしまう。
「でも、休みが取れたらだからな。冬に二週間も休暇を取ったんだから、難しいと思うけど…」
「大丈夫。お父さんが許してくれない訳ないじゃない」
妻は自信たっぷりにウインクして見せる。
アバタもえくぼとはよく言うが、人が見れば何とも言えない妻のチャーミングな仕草は、俺の胸の奥をくすぐるのだった。
「まあ、一応言わないと分からないだろ」
「大丈夫、大丈夫」
妻は俺を解放して、手をヒラヒラと振って自室へと戻って行った。
恐らく今から準備し始めるつもりなのだろう。
気の早いことだ。
こっちは上司に北極行きのことを言わなくちゃいけないと思うと、気が重いというに。
翌朝、課長であり、義父でもある田中勝也氏に休暇の申請をしていた。
課長は黙って休暇申請書類を眺めている。
当然だと思う。
そうそう部下の休暇を許していたら、仕事になどならない。
「・・・ついに北極へ行くのか」
「そうですね。この次は宇宙にでも行きたいと言いそうで、正直困ってます。旅行というよりは既に冒険に近いですからね。妻は専業主婦兼冒険家と言うところでしょうか」
「迷惑・・・かけるね」
課長は俺の顔をまじまじと見つめ、目を細めている。
少し言い過ぎただろうか。
「でも、私も何だかんだ言いながらも楽しんでいるので、何ともいえないのですが。本当は」
「そうか、そう言ってもらえると私も嬉しいよ・・・娘を頼む」
課長はそう言って、書類に判を押す。
意外なほどあっけなく休暇が取れた。
同僚から白い目で見られるのだろうなと皆を見回すと、一様に哀れみの目を向けている。
今までくぐった死線の数を考えると、この反応も仕方ないのだな、一人苦笑してしまう。
「そうか。北極へ。次で終わらせるつもりなのだな」
課長は窓に向かって独り言を言っている。
その姿を見ていると他人事のように、少し哀れんでしまう。
「ね、ペンギンいたでしょ」
明るい妻の声が無線機から聞こえる。
「でも、あれは・・・ちょっとねぇ」
スノーモービルで先導する自称現地ガイドのほうを見る。
彼は着ぐるみを着ていた。
妻曰く、これが現地の正装なのだと言っているということだった。
そんな子供でも信じないようなうそを言って放つ、怪しさ満点のガイドに連れられて、俺達は北極点を目指した。
「この先にオゾンホールの観測所があって、そこで一泊してから北極点に向かうそうよ」
妻が自称ガイドの言葉を通訳して伝えてくれる。
妻は伝えるだけ伝えると、落ち着き無く辺りのをキョロキョロと眺めている。
一面真白の幻想的な世界。
妻にとっては珍しくて仕様がないのだろ。
さっきからずっとこの調子である。
俺はというと、寒さにあえいでそれどこではなかった。
息苦しい、呼吸するのがこんなに痛いなんて思わなかった。
普段体験できないことを体験する、それが旅の醍醐味だとは誰が言ったのだろうか。
出来ればこんな体験はする必要は無い、と思ってしまうのは毎度のことである。
「見えたわ。あれよ」
舞い上がる雪煙の先に見えた小さな建物を見つけて、ようやく景色を楽しむことが出来た。
圧倒的な白。
冷酷で、何物も寄せ付けないような潔癖さを持つ。
その無慈悲さに比例して、美しい。
施設の中は風が凌げるというというだけで外とあまり寒さは変わらない。
「こっちに来いって」
ここに来てようやく妻も不審に思ったのか、怪訝そうな顔をしている。
どこからどう見ても怪しいペンギンガイドは奥の部屋で床を引っ剥がし、その先にある階段を指さしていた。
「地下室に行くように言っているわ」
この先蛇が出るか蛇が出るか、どっちにしたってもう戻ることは出来ない。
「やぁ、よく来たね。ミス・スコーピオン。こんなへんぴなところだが、ゆっくりして行ってくれ。おや、そちらはミス・スコーピオンのパートナーかな?初めまして、私はクライバトル・エルシュタットです。どうぞ宜しく」
現れたのはガタイの大きな黒人の男性だった。
彼の着ているペンギンスーツのおかげで、妙に愛嬌のある印象を受ける。
彼は地下施設の案内を流暢な日本語でしてくれた。
客室は意外と狭く、それでもくつろげるだけの空間はあった。
妻によると外の状況が悪くならない限り、ここで一泊して明日にはここを出る予定らしい。
その夜、のどの渇きを覚え、ふらふらと彷徨っていた。
廊下を歩いていると、階段の上から聞き覚えがある声がした。
昼間の黒人の声、そしてもう一つは妻の声だった。
「ホント寿命が縮むかと思ったわよ。いつもあの服着てうろついている訳?今までよく沈まなかったものね。あれじゃ見つけてくださいって言ってるようなものじゃない。ここは相手のテリトリーの中だってことをわかっているの?」
「すまない」
妻のきつい叱責に、クライバトル氏はうな垂れている。
大柄である彼が子猫のように見えてしまう。
「今までどうしていたの?まさかあれで一度も襲撃されていないなんてことはないでしょ?」
「定期的に移動しているので襲撃はなかった。わざと目立つようにして、敵に悟られる前に移動している。いわば撹乱作戦の一つだと、そう思ってくれ」
「今までに一度もない?あれで?・・・」
いったい何の話をしているのだろうと疑問を持って、階段を上がろうとした時、けたたましいサイレンと共に、インド系の男性が慌てた様子で、駆け上がってきた。
「白熊が五機、こちらに接近してきます!!」
「何!?」
「やはり泳がされていたようね。私がここに来るのを待ってたってとこかしら」
「迎撃用意!取り付かせるな!」
クライバトルは部下に檄を飛ばす。
「旦那を使ってまでカモフラージュしてきたっていうに、これなら連れてくるんじゃなかったわ。なんて申し訳すればいいの。やっぱり、北極は焦りすぎた?・・・いや、南米を押さえたところで、また奪い奪われの繰り返し。ここで本当に終わらせなければ意味はない」
「白熊三機撃破。残り二機、ペンタロスに侵入しました!!」
「クライバトル、この船に搭載されているペンギンは何機?」
「先程白熊が侵入したのは格納庫だ。今動くペンギンが何機あるのかわからない。運が悪ければ、全滅している可能性だってある」
「何てことなの!」
妻は悪態をつく。
「船首に離脱用のが予備で一機あるが・・・」
「それで私の旦那を逃がして!私は格納庫を押さえて、ペンギンに乗って、敵の本拠地を叩くわ。あんた達はできるだけ派手にやって、囮になってちょうだい」
「そ、そんな囮なんて・・・」
「今までずっとやってきたんでしょ。囮は十八番のはずよ」
妻はおどおどする船員に冷たく言い放つ。
クライバトル艦長はゆっくりとその重い口を開く。
「ミス・スコーピオンの言う通りだ。これは我々が招いたミスだ。我々が何とかするのが筋だろう。まず艦内に侵入した白熊を掃討後、ペンタロス浮上、敵本拠地に向けて一斉射、敵を引き付けるだけ引き付けてから潜行。敵を撹乱しつつ、ミス・スコーピオンの敵本拠地撃破を待つ」
クライバトルが目配せすると、さっきの臆病風はどこへやら、その場にいた船員は敬礼一つして、持ち場へと速やかに移動するのだった。
「御武運をお祈りしています。ミス・スコーピオン」
「お互いに、でしょ。まずは旦那を捜してくるわ。とりあえずはそれからよ」
クライバトルの敬礼に対し、手をヒラヒラと振って答える妻。
階段で妻たちの会話を立ち聞きしながら、ずっと考えていた。
話を要約するとだな。
つまり、妻は主婦にして、実はアマゾネスで、今までの過酷な旅行は、実は戦場へ遠征していた、ということ。
そして、この北極には敵の本拠地があって、そこに攻め込もうとしたら、逆に攻め込まれてピンチになっている。
それから、今から俺は安全なところへ避難させられて、妻は敵の本拠地へと攻め込む、ということ。
悪い夢なら覚めて欲しい。
しかし、けたたましく鳴る警報音と鉄製の階段から伝わる冷たさに、これは現実だと思い知らされる。
「やぁ」
驚きすくむ妻に対して気の抜けた挨拶をする。
笑おうとはするが、引きつって笑顔を作れない。
「さっきの話聞いていたの?」
「んー、まぁ大体はね」
「なら話が早いわ」
妻は俺の腕をつかみ、速足で駆け出す。
俺を避難させるために船首へと向かうのだろう。
「どこへ行くんだ?」
「この先にペンギン、小型の潜水艇があるの。とりあえずそれであなたをここから逃がすわ」
「一緒には・・・逃げないんだよな。やっぱり」
妻の足がぴたりと止まる。
「えぇ・・・私にはやらなきゃならないことがあるから」
妻の困惑した表情は、やがて戦士の顔付きへと変わる。
「・・・サハラを横断し・・・樹海をさまよい・・・エベレストにも登った」
「???」
「そして最後には銃弾の雨の中をくぐるか・・・悪くない」
「えっ!?」
「さぁ、急ぐんだろ。死線なんてもう何度もくぐったんだ。今更気にすることはないさ」
俺は妻を抱き抱え、走り出した。
「今度は本当に危ないのよ!本当に。死ぬかもしれないのよ」
「それならなおさら一人で行かせられない。死ぬときは一緒だろ」
「・・・馬鹿」
俺達は自分たちの部屋により、荷物をとり、船首へと向かった。
「それにしてもミス・スコーピオンは無いよなぁ。丸っきり俺のこと無視してるみたいで、嫌な感じだ」
目の前で轟音が鳴り響く。
3メートル程の白熊型アンドロイド、通称白熊が倒れる。
「それはしょうがないわ。だって本当に私は独身だっていうことに、なってたんだもの。だからこそ夫婦でいること自体が、カモフラージュになってたんだから」
妻は両手に持った小さなリボルバー式の拳銃を小気味よく撃ち鳴らす。
「今度はそこに!」
彼女がそう言うと、俺は彼女の拳銃に弾を込めるのを止め、床に転がる毒々しい薬莢につまずかないように、壁に爆弾をセットした。
「あと、もう少しだから頑張って」
そう言って、妻はリボルバーから空薬莢を抜き落とし、俺に投げてよこす。
それと同時に新しく弾を装填した真っ赤な拳銃を彼女に投げると、後ろ手に受け取る。
白熊の巨体で道が塞がらぬよう、引き付けながら撃ち倒す。
リズミカルな発砲音は、まるで楽器をかき鳴らすように響く。
「行くわよ」
白熊たちの隙間を抜け、走り出す。
「もう少し、あともう少し」
妻は自分に言い聞かすようにつぶやく。
俺は妻の作り出した血路を、息を切らせてやっとのことで追いついている。
そして、薄暗い通路を抜け、明るい光溢れる場所へ出た。
そこは大きなドーム状の広場だった。
「ここが・・・目的地?」
荒い息を整えながら、妻へ質問する。
妻はこちらを向かず、一点だけを見つめていた。
「そう、ここが目的地・・・北極点よ」
「・・・何も無いな」
俺は率直な意見を口にする。
妻も同意したように頷く。
「敵の本拠地の中心だから、もっとすごい歓迎を受けると思っていたけれど。正直拍子抜けだわ」
二人は中心に向かい歩き出す。
「それはだね」
正面の通路から声がした。
妻はとっさに構える。
暗い通路からゆっくりとした足取りで、声の主が現れる。
「それはここが我々にとって聖地だからだよ。主にここは祭事に使われる。お前達が望むような組織の施設はここより放射状に広がっているんだ。しかし、それもお前達がここに来るときにほとんど破壊してしまって、もう役には立たないだろうがね」
妻は引き金を引くことができなかった。
その男が二人の目の前に来るまで、俺たちは蛇に睨まれた蛙のように固まっていた。
「課長・・・」
ようやく俺の口は動いた。
かすれた小さな声が静かなドームに響いた。
「お父さん」
妻のワンテンポ遅れた声には、明らかに困惑の色が見えた。
「初めはね、こんなことになるなんて私は想像もしていなかったよ。自分の娘がスパイ先の戦士となり、次々と戦果を上げていく。私が何度手を引くように言っても、聞き入れようとはしない。頑固なところは私によく似てしまったようだ。だが、今更何を言っても遅い。お前達がここまで来た以上もう後には引けない。例え、実の親子だとしてもね。それは・・・分かっているね」
課長は懐から銃を取り出し、妻へ向けた。
「そんな!お父さん!一言言ってくれれば・・・」
「組織を抜けたというのかい?きっと抜けることはなかったはずだ。なぜなら・・・」
課長の銃の照準がゆっくりと俺に向く。
「私と彼の命を天秤にかけなくてはならなくなるからだ」
課長の言っている言葉の意味が分からなかった。
なぜ組織を抜けるのに、俺と課長の命をどちらか選ばなくちゃいけないんだ?
妻はその答えを知っているのだろうか、険しい顔付きで課長を睨みつけていた。
「私と一緒に来るか、それとも彼と一緒に組織に戻るか?」
妻の目から涙が落ちる。
それでも流れ落ちる涙を拭おうとはせず、両手に真っ赤な拳銃を構えたまま首を振った。
「私は・・・」
妻は涙声で訴える。
「私は彼と、お父さんと一緒に組織を抜ける。それで、今度は一緒に楽しい旅行に行こうって。ハワイとか、グアムとか、在り来たりだけど、すごく楽しい旅行に行こうって思っていたのに」
課長は眼鏡をくっと上げると、
「甘いな」
冷たく言い放った。
課長の指が動く。
照準は俺の方を向いたまま。
くぐもった銃声が響いた。
いつもパリッとしているYシャツが、血で染まっていく。
俺の耳元を通過した銃弾のせいで、耳鳴りがキーンと響いている。
そして、課長はゆっくりと倒れた。
「お父さん!!」
妻はお義父さんへ駆け寄る。
悲しいかな俺は腰が抜けて、すぐ駆けつけることができなかった。
妻は血溜まりの中に沈み込むお義父さんを抱き起こす。
「お父さん・・・」
「この奥・・・に・・・私の乗ってきた・・・ペンギンが・・・」
「もういい、しゃべらないで。さぁ、一緒に戻りましょ。それで今度は楽しい旅行に」
「いや、私はこれでいいんだ・・・コホッ。正直ね・・・私は・・・怖かったのだよ。お前の言う通り・・・こうなる前に打ち明けていれば・・・違う結末が・・・あったのかもしれない。でもね、私は真実を知って・・・軽蔑されるんじゃないかって、怖かったんだよ・・・コホッ。お前を・・・仲間を裏切っている。そんな私に救いなんてないのに・・・ただ無性に怖かったんだ・・・だから今心安らかに逝ける。娘に看取られて死ねるなんて、結構私は・・・満足しているんだがね」
お義父さんは優しい笑みを浮かべて、静かに目を閉じた。
妻の目からはとめどなく涙がこぼれ落ちる。
俺は気の利いた一言も言えずに、ただ彼女を抱き締める。
弱々しく震える柔らかな体をきつく抱きしめる。
俺はここにいると存在を主張するかのように。
「行こうか・・・」
「えぇ」
俺達は二人で支え合いながら立ち上がった。
そして出口へ。
「お互い無事で何より!」
ペンタロス艦長クライバトルが、満面の笑みで俺達を迎えてくれた。
「一時はどうなることかと思ったけど、何とかなるものね。いろいろ無茶なお願いしたけど、緊急事態だったって事で許してちょうだいね」
「いえいえ、こちらこそご迷惑をおかけして。あれぐらいの無茶は大丈夫ですよ。ハッハッハッ」
クライバトルの豪快な笑いが、艦内を響いた。
「じゃあ、無茶なお願いついでにもう一つお願いしてもいいかしら」
クライバトルの顔が固まり、笑いながら一時停止状態になる。
「私達今度バカンスにハワイかグアムあたりに行こうと思ってるの。エスコートお願いしていいかしら?」
「そ、そんな御用でしたらお安い御用です。どこへなりとも行きますとも。ハッハッハッ」
一抹の不安を抱えたまま、クライバトルの安堵の笑いが再生される。
そんなクライバトルの様子を妻と顔を見合わせて、微笑み合うのだった。
「今度こそ、楽しい旅行になりそうね」
「あぁ!」