痛み、傷んで、惨む
「壮太、なんかあった?」
「え?」
「最近えらい気合い入ってるやん、マーチングリーダー。後輩たちにもビシバシ、同期にも幹部にも容赦ない。まあ、6年生に甘やかす方が問題やけど。言い方キツすぎて3、4年の子ら怖がってたで。低学年の子らは壮太くんかっこいい!ってなってたけど」
翌日の休日練習。昼休憩に差し掛かり、部長の赤井 裕翔と休憩前のストレッチをしていた。
裕翔は関西に越してきて初めて出来た友人だ。壮太たちの住むマンションのすぐ近くに住まい、6年生の男子部員は壮太と裕翔のたった2人だけという事もあり親友とも呼べるほどの仲だ。
「……考えてへんかった。ごめん、気をつける」
体育館の隅に寝そべって右足を曲げる。なんだか自分が以前よりも体が固くなったようで、痛みが生じる。
「いや、別に間違ったこと言ってないし八つ当たりしてたり理不尽じゃないからええけど、なあ。憧れの先輩ナンバーワンの壮太くん怖かったらみんな嫌やん?なんか悩みあるんやったら聞くで全然」
「……裕翔はさ。卒業した後とか将来のこと考えてる?」
「え? 悩みの規模でかない?俺らまだ小6でしかもまだ9月やで? 卒業シーズンならまだわかるけどさ」
驚いたように起き上がった裕翔。こちらは真剣だと言うのに、可笑しそうに笑う彼に思わず口を尖らせた。
「……早く大人になりたいって思う?」
そっぽを向いた壮太を宥めるような優しい声。追い詰められた時や途方に暮れた時、心の整理がつかない程落ち込んだ時。そんな時の裕翔のこの声にいつも本音が漏れてしまう。と言うよりも、裕翔はそれを狙っているのかもしれない。
「ううん、逆。まだ子供でいたい。まだ大人に甘えてたいし、まだ特別扱いされたい。もっと言うたら、もうすぐ中学生やねんからなんか言われたくない。大人になるって、なんか、いい事なんかな」
「壮太、」
「なんかな、……なんて言ったらいいんやろ、わからんねんけど、なんか徐々に子供じゃなくなってきてるやん、自分らが」
話している途中で裕翔が床に寝そべる自分の顔にタオルをかけた。恐らくそれは裕翔のタオルで、ふんわりと香る柔軟剤の匂いは優しく、自分の汗やら何やらを拭き取るのには気が引ける。
「ん〜、そうやんな。俺もいま図工の課題あるやん、ほら、"なりたい自分"を粘土で作るやつ。何にするか迷ってるし、今みたいに親にわがまま言えへんくなるよなあ」
裕翔もまた寝そべり、壮太にかけた自分のタオルの端で汗を拭った。そうすると自動的に壮太の顔からタオルが離れて、視界が広がる。裕翔の方に顔をやって、それでも彼とめをあわせずに口を開いた。
「……昨日な、夜ご飯がお赤飯やった」
「へえ。……ん?あー、なるほどね。そう言うこと。それで気にしてんの」
「ちゃうって。別にそうじゃなくてさ。……大人になるのが嫌って言うか……。俺さ、歩幅もわからんくなってきて1人だけ飛び出してるし。ダンスも前よりも踊りちっちゃくなってたし、足のサイズもすぐ変わる。今日着てるこの服もお兄ちゃんの借りてるし、みんなに厳しく言うくせに自分ができてへんくて、なんかほんまに、……怖い……」
どんどんと消え入りそうになる声に、裕翔はそっか、とだけ声をかけて頷いた。
「壮太はそう考えててんな。ごめんな、気付かんくて。せやな、みんないっせーのーでで大人になるわけちゃうし、壮太なんか1人だけゴリラみたいにガタイよくなってくし。壮太1人だけ見える世界変わったら怖くなるよな。1人だけゴリラになったことないからごめん、気持ちに気付いてあげれへんくて」
「……おい、ゴリラって言うなやっ」
「ぎゃッ!やばいやばい! やめてえや〜ッ!こしょば!」
冗談を言う裕翔に心が軽くなる。思わずくすぐると、くすぐりに弱いのか裕翔は体育館に響き渡る程に大声で笑い始める。
「ちょっとー、裕翔うるさい!」
「ええ、俺だけなん! ちょ、まじで壮太やめて! ほんまに無理!」
ひゃあひゃあと掠れた声で笑う裕翔。気付けば1つ年下の男子部員たちがそれに便乗してじゃれ合う。気付けば自分もくすぐられていて、それでも反撃でふざけて裕翔を床に押さえつける。体育館に響く副部長の注意と、部員たちの笑い声。可笑しくなって自分も笑いが止まらなくなって、目尻に溢れた涙を指で拭いて腹を抱える。そんな壮太を見て、安心しきったように裕翔は壮太の肩にぽんと優しく手を置いた。
「大丈夫やって壮太。笑えばなんとかなる! な! 大人になっても俺らは親友やからな」
「……せやな」
壮太の返事に満足したのか、裕翔はよし、と立ち上がる。
「ほら、飯食う時間なくなるぞ。荷物置き場まで競走やー!」
「ちょ、裕翔くんせこいっすよ!」
「待ってくださいよ〜って走んのはや!」
「ええやんもう。1人で走らせとこ〜……ってみんな走るやん」
仕方なしに自分も走ろうと床を思い切り蹴った、その時。
「───痛っ!いった……なに?」
ほんの一瞬、右足膝にズキンと痛みが走り、足を止めた。驚いて確認するが、見たところ特に変わったことはなくて、急に走り出そうとしたからか、それともただの気のせいか。別に一瞬であって、今は痛くない。
「……なんもないか」
何事も無かったかのように、裕翔たち男子部員の後を追いかけた。
*
「───ストップ! 壮太ぁー」
「はい!」
気付けば体育館の外は夕焼けで、窓からオレンジの光が差し掛かっていた。ダンス隊との打ち合わせがやっと終わり、壮太も前ではなく実際にマーチングの中に入って練習を進めていた。また歩幅が合っていないとでも言われるのか。舞台上からマイクを通さずに顧問から名前を呼ばれて返事をする。
「足痛いんかー? 」
「……え? 足、ですか?……いや、痛くはない、ですけど……」
顧問の予想外の言葉に首を傾げる。
「ほんまに?」
偶然隣にいた真緒の声が頭の中に響く。思わず真緒の方を見ると、心配と言うよりは嘘をつくなと訴えるような圧力を感じる。
「さっきから歩き方おかしいで。右足。引きずってるみたいなってるけど」
真緒は手に持っていたカラーガードを壮太の右足に向ける。
「嘘ついてないよ。ほんまに」
「じゃあちゃんと歩きいや」
「それはっ、……」
左足に体重をかける仕草。真緒が苛ついている時の癖だ。確かに昼頃、ほんの一瞬だけ右膝に痛みが走った。しかしそれ以降痛みもなにもなかった。
それに。いい加減壮太自身の事情を理解してほしい。身長が伸び続け、身体は成長し続ける。そんな中起こるちょっとしたトラブルに、カラーガードとダンスのリーダーである真緒は心配どころか、声をかけることもしない。だんだんと壮太も苛ついてきて、担いでいたチューバを降ろした。
「はい、兄弟喧嘩ストップ! 先生!続きやりましょ」
真緒に一言文句を言ってやろうと近付くが、裕翔がそれを阻止した。2人の間に割り込ん壮太を元の位置に戻るように促す。
「せやな、壮太、ちょっとでも足痛かったら抜けろよ」
「……はい」
とりあえず返事だけはする。自分はまったくそんなつもりはないのに。もう一度真緒に視線をやると、やはり圧を感じる眼差しで壮太のことを睨んでいた。
*
「「ありがとうございました!」」
「お疲れ様でした。みんなしっかりクールダウンして帰りやー。残りたい人は18時半まで。解散」
時刻は17時。練習が終わり、号令で解散となる。
「壮太ーもう帰る?」
「ううん、ちょっと残る。裕翔は?」
「壮太が残るんやったら俺も残ろうかな」
そう言って裕翔は前髪をヘアゴムで縛った。なんだかパイナップルのようで思わず笑ってしまう。
「気使わんでいいのに」
「ううん、壮太と一緒に帰りたいし。……やし、壮太の足心配やし」
「足? ほんまになんもないよ。それに痛かったら居残りせえへんし」
「そうか? それやったらええけど」
2人で居残りの練習を始めた。居残りには6年生の部員が多く、真緒は後輩にフラッグを教えていた。
「裕翔、まだ歩幅でかい?」
「ん? ううん、今ぐらいでいいよ。壮太、ほんまに足長いな」
「ありがとう。みんなより足長いから歩幅もでかなるみたい。62.5センチ守れへんわ。ごめんなスタイル良くて」
こんなに冗談を言えるのは裕翔に対してだけかもしれない。カラカラと笑う裕翔を見て思わず笑い方に吊られる。
「もう1回3曲目の頭やる? 俺テンポ叩くで」
裕翔はトロンボーンをスタンドに挿し込み、自分のスティックを手に取る。カン、カンと木材がぶつかり合う高い音でテンポを取り出す。
裕翔はトロンボーンを吹きながら太鼓を前に担ぎ、動きながら叩く打楽器───通称バッテリーもこなす。これは壮太も同じく、チューバ、バッテリー、そしてダンス、フラッグを担当する。これはマーチングバンドにしては人数が少ない、葉月第2の特徴とも言えるのかもしれない。1人の部員に対する兼任が多いのだ。ユーフォニアムとトロンボーン、何か管楽器とバッテリーの掛け持ちなどはざらにある。大会ではむしろそれが評価されていて、昨年の全国大会でも壮太はチューバ、トロンボーン、バッテリー、そしてダンスと言うその適応能力の高さが評価された。
「そこのレフトちょっと遅くなるよな。もう1回やってもいい? 1回楽器なしで動きだけでやるから裕翔見といて」
「おっけー。カウントー。1、2、3、4」
正面を向きながら後ろへと下がり、左を向く。頭の中で動きをイメージしながら右足を後ろへと下げたその時だった。
「いッ!?っ、」
昼のようにまた右の膝に痛みが走る。痛みの衝撃で足がもつれてしりもちをつき、そのまま床に蹲った。
「壮太?……壮太ッ!?」
ズキン、ズキンと痛みが何度も響く。駆けつけた裕翔の声にも返事出来ず、動けば余計に痛くなる一方でじっと痛みが引くのを待つしかない。
「足痛いんか? 壮太? 聞こえる?」
だんだんゆっくりと痛みが消えていく。足を怪我することは多かったが、動けなくなるほどの痛みは初めてだ。
「落ち着いた?」
「……うん、ごめん……。みんなも」
様子がおかしい2人に気付いたのか、いつの間にか周りには居残りをしていた部員たちが心配そうに集まっていた。
「壮太、足痛いん?」
裕翔が手を重ね、誰よりも心配の眼差しを壮太に向ける。こんな顔をされたら、友人思いの彼に嘘をつくことすら申し訳なくなる。
「……なんか、ちょっと。ほんまにちょっとだけ、膝痛かった。もう痛くないねんけど」
「……気ぃ使うなや、あほ。ちょっとだけの痛がり方ちゃうかったやん。びっくりした」
今にも泣き出しそうになる裕翔の頭に手を置く。
「……ごめんほんまに。みんな、自主練戻りな。ごめんな、びっくりさせて」
ぞろぞろと自主練習に戻る部員たち。しかしそこには真緒だけが立ちすくんでいた。
「壮太、帰るで。おじいちゃんかはるくんに車で迎えに来てもらうから」
「いや、真緒まだ残るやろ? 1人で歩いて帰るから。おじいちゃんもうビール飲んでるやろし、はるくんバイトあるからいい」
「もっと痛くなったらどうするん!? 大会出れへんくなるかもしれへんねんで!?」
「まあまあまあ。落ち着いて。とりあえず俺が壮太送ってくから。真緒も壮太もそれでいいやろ? まだフラッグ教え終わってなさそうやし、な?」
相変わらず双子の扱いを分かっている。納得したのか、真緒もふ、と息を吐いている。
「わかった。裕翔、ごめんやけど頼む。壮太、迎えに来てもらわん代わりに絶対これだけは守って。……はるくんに足痛いってちゃんと伝えて。約束守れへんねやったら明日の練習は先生たちに言って参加させへんから」
「……わかった」
真緒に壮太の練習参加を決断する権利などどこにあるというのか。そう言いかけたが、本当に練習に参加できなくては困る。帰ると決めてからはそこからはすぐだった。チューバを片付けて荷物を取りに行くはずが、座っていろと言われて結局裕翔が片付けているのをぼんやり眺めていた。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「ほんまに?」
「ほんまやって」
壮太のエナメルバッグまで持とうとするのはさすがに断り、薄暗くなる帰り道をゆっくりと2人で歩いた。
*
その夜。ベッドに入った壮太は、じわじわと痛くなる膝を抱えて丸くなっていた。しかも右だけではなく、うっすらと左膝も。
「……ほんまに、なんなん……」
真緒との約束通り、陽史に右膝が痛くなったことをきちんと伝えた。昼休憩も居残り練習も、どちらも急に痛んで、直ぐに痛みが引いたこと。今は何ともないこと。ついでに、オーバーワーク気味だとも。間違ってはいないし、嘘はついていない。
「また痛くなったら絶対すぐ言ってや」
心配性な兄は、そう言って壮太の肩に両手を置いたのだ。
「……あー、痛い」
何度も寝返りをうって、手で温めてみたり。なにをしても痛いのだ。昼間夕方のようにズキズキと激しく波打つような痛みではなく、ギシギシと少し動く度に響く痛み。我慢しようと思えばできるが、練習中のように気を張っている訳ではなく、どうしても眠れない。時刻は日付を跨いで深夜の1時。明日───今日も1日中練習がある。もしこの痛みが治まらなかったら。もしなにか骨の病気だったら。真緒の言う通り大会に出られなくなったら。次々と脳裏に不安が浮かび上がり、心做しか痛みも増していく。
我慢できなくなって、それでも壮太はゆっくり立ち上がった。
「っ、いた、痛い……」
一筋だけ、涙が頬を流れた。壁に手を当てて伝い、ゆっくりと歩く。やっとの思いでたどり着いた兄の部屋。扉からいつもは漏れている電気が消えていて、痛い以外の感情でさらに涙が溢れる。
ノックをするが、当たり前に返事がない。もう一度ノックをしよう。もしそれで返答が無ければ諦めて自室に戻ろう。そう決めて、もう一度ノックを3回した。
「……はるくん、……」
深夜ともなれば、いくら大学生でも疲れている。涙を拭って、部屋に戻ろうとした。
「……んん、そおたぁ?」
扉が開き、そこにはほとんど目を閉じている兄がいた。
「はるく、……」
「ん? 壮太? ……しんどい?」
泣いている弟を見て、陽史はすぐに意識を覚醒させた。
「足、痛くて……」
「あ、そうか……。せやったな。足のどのへん?膝?」
こくんと頷くと、兄は優しく壮太の頭を撫でた。
「そっか。どうしてほしい?」
「わからんっ、……」
兄の声に安心して、どんどんと涙が溢れてくる。
「……とりあえず、パパとママの部屋で寝よか。ベッドも2つあるし。おんぶしよか?」
陽史と壮太の体格はほぼかわらない。しかも両親が関西に帰ってきた時に利用する寝室は陽史の部屋の隣で、普段なら遠慮するが、あまりの痛さに甘えることにした。
「……起こして、ごめん」
兄の部屋着は壮太の涙で濡れてしまっている。何一つ文句を言わず、壮太を背負ってなるべく揺れないようにゆっくりと歩いている。
「ううん。言ってくれてありがとう。壮太が我慢することならんくてよかった」
両親の寝室に入り、ゆっくりとベッドの上に降ろされ、足を伸ばして座る。
「お水飲める?……痛いのどっちの足?」
「どっちも、でも、右の方が痛い」
グラスの水を少しずつ飲み、陽史に残りを渡して横たわる。
「触ってもいい?」
「……ん、」
ごめんね、と一言かけてそっと膝に触れる。痛みが増すと思っていたが、陽史の温かい手の温度に、少しだけ痛みが引いていく。
「痛いの、ここ?」
そう言って陽史は壮太の膝を優しく撫で続ける。
「はるくん……それ、してて」
「ん? 痛くない?」
「なんか、ましになってる」
そう言うと床に座って様子を見ていた兄はベッドの端に座り、優しく撫でた。次第に痛みが薄れていく。浅かった呼吸も自分が気付かないうちに落ち着いている。
「……明日、病院行こうか」
「でも、はるくん、朝からバイトあるやん……」
「バイトは誰かに代わってもらうから大丈夫」
兄の予定を狂わせるのが申し訳ない。でも、と声に出すと、兄は首を振った。
「はるのバイトの代わりは他にもいっぱいおるけど、ブラバンで壮の代わりは誰1人おらんやろ? じゃあ、1日休んででも早く良くならなあかんから。やから、な? 行こう」
「ん、……」
「もう寝れそうやったらそのまま寝よ」
兄の声に口を開くが、上手く言葉が出ずに瞼が重くなる。
「おやすみ」
壮太が最後に覚えているのは、兄の優しい声だった。
*
「───はああぁ……」
完全に眠りに落ちた弟を見て安心して力が抜ける。あんなにも痛がる壮太を見るのは初めてで、あまり騒ぎ立てると不安になってしまうからと冷静を装っていたが、本当はパニックになっていた。大きくため息をついて、そのままベッドで眠る壮太の隣に倒れ込んだ。
「なんやろ、成長痛……? とりあえず病院探さな、」
倒れ込んだまま、携帯を開く。日曜日に開いている病院はあまりない。もしかすると、少し遠くまで行かなければいけないかもしれない。
「……あった、午前営業、9時から、か」
見つけた整形外科の場所は北原。幸い車を走らせて20分ほどの場所にあった。
「朝イチで予約して、ばあちゃんに言って、……バイトも代わり探して、……───」
朝になったらやらなければならない事をぽつぽつと口に出していたが、瞬きをするつもりで1度目を閉じる。それが、次に陽史が朝に目を覚ます前の最後の記憶だった。