すっきりしない朝だな
「───た、そう、壮太。起きて。おはよう、起きれる?」
誰かに肩を揺さぶられて目が覚める。起き上がると背骨が悲鳴をあげた。どうやら部屋の勉強机に突っ伏してそのまま眠ってしまっていたらしい。心配そうにこちらを見つめる兄に、おはようと声をかけようとしたが声がかすれて上手く出ない。
「朝ごはんできたで。首とか痛ない?」
「……ん、……大丈夫」
「ふ、はは。壮、ほっぺ」
「ん?」
写ってるよ、と笑って頬を指さされる。近くにあった姿見で確認すると、自分の右頬にうっすらと鉛筆で書かれた文字が写っている。
ノートの上で顔を押し付けて寝てしまっていたようだ。少しだけ恥ずかしく感じて咳払いをしながら頬を指で擦った。
「何書いてたん?」
「新入部員の子たちに早よポジションの名前とか動きとか覚えて欲しくてノートにまとめてた。あとコンテの確認して、それから……考え事してたらいつの間にか寝てた」
「そっか。一生懸命で後輩想いなのはええ事やけど、昨日本番終わったばっかりやし、ちゃんと身体休めなあかんやろ? 関西大会まで日にちないのはわかるけど……心配なるから、ちゃんと布団で寝なさい」
「ん、わかってる」
広げられたノートを閉じて、整頓する。ノートやらプリントやら、散らかった机を片付けていると、昨日受け取った2枚の名刺が床に落ちる。
「ほら、なんか落ちたで」
兄は優しさの塊である。すばやく拾って手渡そうとするから、壮太は焦ってしまう。
「……ありがとう」
あまり見られたくないものですぐに陽史の手から抜き取ろうとすると、ぐっと指に力が込められて抜け出せなかった。
「はるくん、」
「アキハラ、エンターテインメント……? どうしたの、これ」
表情が曇った兄に、背筋が強ばる。一気に目が覚めていく感覚に、逃れようがないことに観念した。
「……えっと」
「"うーちゃん"の紹介? 」
「え?」
「え?って。アキハラエンターテインメントって、うーちゃんの事務所でしょ?」
少し驚いたように目を見開いて、笑顔で嬉しそうに名刺を返された。
「うーちゃん、って」
「うららちゃん。ほら、兄ちゃん雑誌とかでよう一緒に仕事してたし、母さんと一緒に映画してたやろ? 東京の家に何回か遊びに来てたやん。紅本うららちゃん」
「紅本……うらら」
その名前を聞いてとぼけることはできない。忘れたくて、忘れられない。忘れたことなど1度もない。
「……知らんよ。なんの話」
「うーちゃんに俳優やろうって言われたんじゃないの? スカウト的な」
「……うららは関西に引っ越してから1回も会ってへんよ。そもそもうららの事務所って知らんかったし。県大会の時にこの名刺の人達にスカウトされただけ」
「ふうん、でもスカウトはされたんや」
少しだけ嬉しそうに口の両端を上げる兄を見て、目を伏せた。
「そんなん断るよ」
「えっ! なんで? せっかくやねんから話だけでも聞きに行こうや。兄ちゃんついてったるで。弟が芸能人になったらめっちゃ周りに自慢しちゃう」
弟の前に両親が芸能人だろう。思わず苦笑いした壮太を見て両頬を大きな手で包まれた。
「壮太はイケメンやもん。アキハラさんも早よしな他の事務所に取られちゃう!って焦ってはると思うよ。そやなあ、壮お芝居? っていうかマーチングしてる時も表現力すごいから、俳優さんになれるよ。……ほんまはちょっと気になってるんちゃう?」
「……僕にはそんな才能ないんよ。ほんまにそういうの向いてるのはうららとか父さんとママとか……真緒とか。そういう人らだけやから。僕は普通に学校通って、大学行って、企業に就職して。ほんで趣味で一般のマーチングのバンド入れるのが理想やから。ほら、早くご飯食べに行こ」
兄の温かい手をそっと頬から引き離し、先に部屋を後にした。
「……真面目すぎるんよなあ」
陽史の独り言は、誰もいない部屋で、誰にも聞かれずに消えていった。
「……おはよ」
「おはよう。お待たせ」
食卓には既に真緒が座っている。そこに陽史も合流し、いつもの朝が始まる。祖父母がいない、子供たちだけの朝。手を合わせて、3人でいただきます、声を揃えた。
「昨日遅くまでなにしてたん。ずっと部屋の電気ついてたけど」
「ん? 新しいコンテの確認とか、県大会終わって1年生ピットに入るから、2年生と3年生にどう教えるか考えてた」
「壮、そのまま寝落ちしちゃったんよな〜」
「……言ってくれたら一緒にやったのに」
目玉焼きを箸で割りながら、少し不貞腐れたように真緒は眉間に皺を寄せた。
「真緒はダンスも教えなあかんやろ」
「でも───」
《おはようございます! 紅本うららです!》
テレビから流れる凛とした声に、3人は思わず同時にテレビへと視線を移した。どう言ったタイミングなのだろう。先程兄と話していた人物は、いつも毎朝付けている朝の情報番組に登場していた。
「うーちゃん、久しぶりに見た」
「中学生やし、あんまり朝の番組には生出演せえへんやろうな。真緒と壮太は朝早いし。兄ちゃんは結構夏休み入ってからテレビで見てるよ」
「……」
真緒も、陽史と同じようにうららと仲が良かった。教育番組のレギュラーになったり、注目されたり同じ境遇だったこともありうららが可愛がっていた。
《今日も素敵な1日になりますように! いってらっしゃい!》
きらきらと輝く笑顔は昔から何も変わらない。その笑顔が、壮太の表情も心も曇らせる。
「……真緒、あのさ」
「なに? ……うーちゃん、会いたいなあ」
スカウトされた事を知っている真緒に、アキハラエンターテインメントからのスカウトと伝えたらどうなるのだろう。事務所に行くように勧められるのが普通なのだろうか。マーチングに集中しろと怒るのだろうか。それとも、自分もまた演技をしたいと言うだろうか。……もしそうなれば、また自分が惨めになるだけだ。
「───やっぱなんもない」
「そう」
こちらを見向きもしない真緒に、陽史は苦笑いをした。