紫の君
醤油の求め方で人間性を推し量るのは、世界共通の仕草だと思う。
「醤油をとってくれる?」
浅川は同棲中の板倉にそう言われると、すぐさま立ち上がって冷蔵庫へ醤油を取りに行く。板倉に頼まれた通り彼の目の前に醤油を置くと、彼は醤油を出す口を指で弾き、醤油入れのガラスは低い木目の机の上へ軽やかな鈍い音を立ててお皿をかたかたならした。その後に醤油がこぼれて広がって、白いクロスに黒い跡が徐々に広がる。
「ごめんね」
と私が謝ると、彼は笑って、
「バカだなあ、浅川は」
と微笑む。その後すっと立ち上がって、対面に座った浅川ににじり寄ると、壁の方に追い詰められていく様を見て、ニヤリとしたり、申し訳なさそうな顔をしたりして、そして腕を振り上げた。浅川は短く悲鳴を上げて、両手のひらで顔を覆い隠して彼のことを見ないようにする。
「どうしたの、そんな風に顔を隠して」
「だって」
「僕は醤油を取ってほしいと言ってるんだよ」
「ごめんなさい」
「別に謝って欲しいわけじゃないんだ、僕は。そんな風に体勢をとったら、まるで僕が君のことを殴ってしまうみたいじゃないか」
「そうよね、ごめんなさい。板倉君はそんなことしないものね」
顔から手を離して、彼の顔をそっと覗き込むと、パチンと甲高く乾いた音が鳴って、続いて熱を持った痛みが後から頬に追いついた。
ワンルームに詰め込まれた、ソファや遠くに見える冷蔵庫を交互に目で追って、棚の上の紫色のネックレスや彼のスリッパを、視界を倒して見つめていた。
朝川が叩かれた頬を押さえて彼を見つめる。
「ほら殴らなかっただろう」
そう言うと板倉は机の上の醤油を取って、自分のベーコンエッグにかける。
「これがとってあげるっていうことだよ」
板倉はそのままベーコンエッグを全て平らげた。
大学4回生の板倉は卒業論文で忙しいらしく、朝早くから大学へ行く。彼の食事を作った後はテーブルの上の食器を流しにおいて私も部活動へ出かける。高校時代にスポーツ推薦で大学へ入学した私は、同じ陸上部に入っていた板倉先輩に新入生歓迎会で声をかけてもらい、それから四日もたたないうちに付き合い始めた。同棲し始めてからは既に1年が経過している。板倉先輩は3回生の終わり頃、足を痛めたと私に話してはさっさと部活を辞めてしまって、それから私の家に転がり込んできたのだ。
とはいえ、学部が違うので日中はあまり会うことがなく、私が部活動を終えた後に再び落ち合って帰路に着くのが日課となっている。
枯れた並木道を一人と一人で歩いて行く。露出した首筋は風が入り込んでいて寒そうだが、板倉は全く気にした様子はない。私はと言うと、朝に叩かれた頬は午後になって熱が冷め、今は乾いた寒空の湿度の低い空気が心地よく頬の奥まで冷やしている。彼はいつも、私よりも先立って歩く。歩幅は大きく、ついていくのがやっとである。
「あーもう、またレアが引けなかったよ」
板倉はそう言うと、画面を爪で何度も弾いた。何度も画面をタップするうちに、進むことができなくなったのか、スマートフォンを右のコートのポケットにしまい、ふと立ち止まる。
「ていうかさ、待ってるんだけど」
この待っているというのは、どのパターンだろうか。彼のことを頭からつま先までくまなく観察する。例えばこれは、髪型を少し変えたとか、そういう外見の変化のことについて言ってるのだろうか。あるいは、何か動作としてしてほしいことがあるのだろうか。乾いた風が自分の体を通るたびに湿り気を帯びてきて、もともと冷たい汗をさらに冷やしていく。
ギロリとこちらを見ると、左の肘をくいくいと動かしている。あっと私は感づいて、彼の肘に抱きついた。そしてまた二人でそろそろと歩き出す。彼の歩くスピードに合わせて、それでいて追い抜かないように細心の注意を払いながら、枯葉があまり溜まっていないところを歩いて行く。
それでいて、例えば高校生の頃に初めて板倉の走りを見たときや、初めて一緒に暮らし始めた時の事を頻繁に思い出しては、それ以外の朝のことや昨日できたたんこぶのことは一時的に記憶から薄らいでいく。そういう意識の混濁が、目の前の抱きついている腕を愛しく思わせて、頭を上腕二頭筋にそっと寄せたりしてみせた。
「お前汗臭いな」
「え嘘」
自分の肩とか服とかを嗅いでみる。洗剤の香りがちょっとだけした。
「俺が嘘つきだと?」
「そういうわけじゃないけど、部室棟のシャワーでちゃんと洗ってきたはずなんだけど」
「お前ってそういうのに無頓着なところあるよな」
「そうかな?何か香水とかつけたりした方がいい?」
「その手があったな。今度買ってやるよ」
まさか板倉の口からプレゼントの提案が出てくるとは!ますます腕が愛しくなって、抱きしめている力がさらに増した。
彼が抱きしめている腕を2回振ると、それまでのぽおっとなっていた浅い意識に焦点があって、すぐさまパッと手を離した。
「ん」
彼はコンビニの方を指さしている。
「何か買ってきて欲しいものがあるの?」
「アイスを買って帰ろうか」
「わかった何がいいの?」
「まさかお前が買ってくる気じゃないだろうな。俺が買ってくるからここで待ってろよ」
「え、う、うん。ありがとう」
板倉はそう言って、左手を浅川の前に差し出す。ああ、これはお金は私が出すのね。鞄から黄色の財布を出すと、500円を財布から取り出した。コンビニのアイスならこれで十分だろう。
板倉の左手の上に500円玉を乗せるが、彼は身じろぎひとつしなかった。
「え?」
彼がどうしてコンビニに入って行かないのか思いつかずに、枯れ木と彼へ交互に焦点を合わせながら、次の彼の言葉を待った。しかし彼は喋ることがない。右足が段々と貧乏ゆすりを踏みはじめる。500円ではなかったということだろうか?その値段以上のアイスクリームを買うということを想定してお金を渡さなければいけなかったのかもしれない。
500円を板倉の手から取り上げ、代わりに1000円札を置いた。まだ動かない。財布の中を見て、それ以上のお金があっただろうかと確認すると5000円札がまだあった。それを彼の手のひらに置くと、少しだけ私のことを値踏みしたように止まっていたが、そのまま踵を返すように、コンビニへ入っていった。
5000円もするようなアイスがコンビニに売っていたかな?5000円で満たせたと思う、私の物欲を振り返って、そうして重要でないものから心の中で諦めていった。
心の中で、欲しい大人の香水が中学生御用達のリーズナブルな制汗スプレーに置き換わった頃に彼はコンビニから出てきた。
「買ってきてやったぞ」
と言うと、板倉は袋の中から棒付きのアイスを取り出して浅川に渡した。
「やっぱり冬はこのアイスだよ」
浅川に渡したアイスとは違うアイスを袋から取り出して、頭からくわえると、彼はその袋を浅川に渡した。
「なんだよその目は。買ってきてやったんだからありがとうぐらい言ったらどうなんだ」
「ありがとう、本当に嬉しい」
「ん」
また、一人と一人で並んで歩き出す。ポケットの中から小さなカードを取り出すと、裏の銀の部分をきれいに剥がして、隠れていた番号をスマートフォンに打ち込んだ。
5000円と書かれたカードは使い道が失われたらしく、近くのゴミ箱に捨てられた。
そしてようやく、アイスにかぶりついていない私に気づいたようであった。
「あれ、それ」
陸上の試合が近い私にとって、このカロリー高めのアイスクリームは食べるのに勇気がいる。
「家に帰ってから食べようと思って」
そう行ったのは別に嘘ではない。つまりは大会が終わってから家でゆっくり食べれば別に嘘にはならないはずだ。
「んだよ、陸上の大会が近いんだったら、そうやって正直に言えばいいのに」
「あっ」
板倉は浅川の手からアイスクリームの袋を取って奪うと、それを袋から取り出した。
「ひとつやるよ」
そうやって下手投げでアイスクリームを雀の方に向かって投げた。雀は自分たちの近くに物が落ちてきたことに驚いて、一斉に飛び立って行ってしまった。
「おい、雀も食わねえってよ。あいつらもはデブっていたのかね……おい、遅れるな」
何も言えずに驚いて立ち尽くしていた浅川を大きな声で呼ぶ。ハッとして駆け寄るが、浅川が近づいてきているのを見て、板倉は、もうさっさと歩き出してしまっていた。
「ねえ、本当に雀がアイスクリームを食べると思ってしたの?」
板倉は答えなかった。スマートフォンをポケットへしまっている。5000円のカードはすでにゲーム会社に支払われてしまった後のようだ。そして、もう5000円の成果には興味を失くしていたようだった。彼は立ち止まって、遠くの枯れ木の方を見ていた。
「悪いな急用ができたよ、先に帰っててくれ」
「急用って何のこと?」
板倉は浅川の鎖骨の上をドンと拳で押すと、まだ枯れきっていない木々の中へ黙々と歩いて行き、姿を消してしまった。浅川は枯れた葉っぱがにわかに冷えていく様を見て感じ取り、落ちたいちょうの葉と混ざり合って濁っていく、その道の上を脳が火照っていくのを感じながら家路をゆっくりと辿っていった。
1階の狭い1DKの安いアパートが浅川たちの住処だ。荷物をベットの下に放り込むと、わざと乱暴にベッドに座って、天井を見る。窓から夕日が鈍角差し込んでいて、部屋はチョコレート色に染まっている。最近は時々こんな風に一人でいることが増えている気がする。こういう風に手持ち無沙汰になる時には、台所から包丁を持ってきて、背の部分を人差し指と中指の先でつまんでゆっくりとなぞって、撫でてあげる。鋭い切っ先の裏の、誰も傷つけない部分。そこにやさしい気持ちを投げかけたくなって、小指の先端を立てて筋肉がやや緊張するほどに強く愛でてやるのだった。
部屋の空気を勢いよく吸い込むと、まだ彼が吸っていたタバコの残り香が鼻孔をうつ。まだ電子タバコに切り替えることへ踏ん切りをつけることができない彼の、現状を変えることのできないそのだらしなさにすがることしかできない性格が、私の新しい包丁をなぞるという趣味のモチベーションを高く保たせていた。
一体彼は今何をしているんだろう。急な用事はまだ終わらないのだろうか。彼が去っていった並木道を振り返ってみる。そこに誰かいたのだろうか。いたとすれば誰が。何を見て急用を思い出したのか。それを考えることが今の自分にとっては必要な時間であるということは分かっていた。
朝に片付けることのできなかったお皿を洗って、彼の帰りを待つ。1枚洗っても2枚洗っても、3枚拭いても4枚拭いても彼はまだ帰ってくる様子はない。
だんだんと暗くなっていく部屋の中で、彼が寒い思いをしているんじゃないかと心配になってくる。手元が段々と見えなくなってきたので電気をつけて、その紫色のカーテンを閉める。あれ、うちのカーテンって、こんな色だったかな。
しんと静まり返ったリビングで、ぼんやりと立って彼の帰りを待つ。
どれだけ彼が私のことをないがしろにしていても、私だけはちゃんとわかっている。彼は本当に私のことを大切に思ってくれているのだということを。
例えばタバコだってそうだ。板倉がタバコを吸うのもきっと私のために違いないと心の底から分かっている。例えば、今朝の醤油についてもそうだ。彼は私のことを本当に大事に思ってくれている。だから、私に醤油を取っておいてほしいと頼んで教えてくれた。
いつ彼は帰ってくるんだろう。
そればかりが胸の奥で気になり続ける。
心は離れたくないといつも思っているし、できれば体だって離れてほしくないんだ。
どうしてこういう言葉が頭の中に浮かび上がってくるんだろうか。それは彼のことを信じることができていない自分がまだ胸にいるからじゃないだろうか。
今朝叩かれた頬の跡に手のひらをそっとのせる。痛みは既に引いてしまっているけれど、彼に叩かれた、あの感触をいまだに頬が覚えている。そっと触れ続けていると、また彼の事がまただんだんと恋しくなって、寒そうな首筋に手を沿わせたくなった。
「ただいま」
浅川の体は引きつって、ソファーの上で硬直する。それから、はっとして頬に血が回り始めた。
「おそかったね、寒かったでしょう。おかえりなさい」
板倉はコートをソファーの上に投げて、紫色のマフラーを外す。機嫌は悪くないみたいだ。急用とやらは上手くいったのだろう。
「晩御飯どうしようか、一緒に考えたかったの」
そう言って彼を出迎えようと立ち上がって彼に歩み寄ると、背中に彼と同じ背の丈の女が板倉に体温を預け渡す花のように、寄り添っていることに気づいた。
「ん」
と、板倉は背中に張り付いていた女に手を差し伸べると、薄い紫色のコートを脱いで彼に手渡し、
「お邪魔します」
と言って、浅川のことをちらりと見た。
「誰?」
「あー、同じ学科の女の子だよ。最近いろいろと相談に乗ってもらってて。お礼の意味を込めて、一緒に晩飯でも食べようと思ったんだよ」
板倉は白いマグカップにコーヒーメーカーから注いで渡すと、女は黙ってそれを受け取り、大きな胸を邪魔そうに寄せて、口紅のついた唇で啜った。
「急に?」
名前も知らされず、初対面の女を私の家に上げないでよ!そう言おうと口を開くと、その知らない女は腕をさっと振り上げた。浅川ははっとして、怒りが抑えられる。今朝の頬の痛みが思い出された。
「お邪魔でしたか?」
女は手を下げる。
「ああ気にしないで、こいつそういうところあるから」
板倉は私が買ったベッドにどっかりと座って、招かれてもないのに女は板倉の隣へ腰かける。
「ちょっと待ってよ、それって、私が彼女の気にするようなことをさせたっていうこと?」
「ちょっと静かにしててよ、浅川。あそうだ、コンビニでドリアを二人分買ってきて頼んでくれない?お酒とアイスは買ってきたんだけど、飯買い忘れちゃって。ベーコンが入ってないなら何でもいいからさ」
「なんで、私が」
「えー?板倉君って、ベーコン嫌いなの?」
「そうなんだよ、毎朝こいつが入れるんだけどさ」
「そうなんだ、そういう苦手なことって、大切な人同士なら、お互いに言い合えるんじゃないの?」
「こいつが話してくれねえんだよ、なぜかわかんないけどさあ」
お互いに目を合わせあって、板倉は口の端で穏やかに笑い、女は口元に手をやって、少し後ろにのけ反りながら、ちらっとこっちを見てふふふと笑う。
一体、ふたりはいつからこんな穏やかな縁を結び合っていたのだろうか。
「ちょっと、その人本当に誰なの?」
「まだ行ってなかったのかよ、コンビニ」
女は前髪をふわりとかきあげ、板倉の二の腕を少しつまみながら、頭をもたせかけた。
「おなかすいちゃったね」
心は離れたくないといつも思っているし、できれば体だって離れてほしくない。しかし今、体はあの女の方が今はぴったりとくっついていて、浅川の方は離れている。心はいつも板倉を想っていたが、板倉は離れたくないと想っているのだろうか?
台所の方にあった包丁を持ち上げると、女は目ざとく私の行動をあげつらって言う。
「え、ドリア作れるんですか?」
作れないことを前提に聞いているらしい女の目は、尊敬の色なく笑っている。
「無理すんなよ、失敗作よりはコンビニ飯の方が1000倍うまいぜ」
「そうよね」
浅川が包丁を投げると、しん、とその場が静まった。
「何投げてんだよ、おい!」
「痛い!」
急に詰め寄った板倉は朝倉の襟髪を掴み、ぎりりと耳の奥に音が響く。
「なんで、こんな物を投げた!なんでだ?」
その顔が怖くて、口を動かすことができない。答えることの出来ない私を見て、答えられないことへの怒りがそこに加わる。
ピシッと乾いた音が頬を貫き、後から痛みが響いた。もう一度、反対側に同じ音が貫く。
「ごめんなあ、折角俺が招待したのに、こいつが馬鹿なことをしてさ」
板倉は、女に頭を下げた。
女は何も表情を浮かべずにそこにいる。止めもせず、笑いもせず、そこにいる。
「馬鹿がよ、早くコンビニ行って来いよ!お客さんだぞ。」
でも、だっては許されない。
部屋の外に出ると夜は一段と寒く、一生懸命に照らしている蛍光灯は、安心を与える程には道を照らしていなかった。コンビニへ行くために、家をぐるりと回る。
私の家で、二人きりになった彼らは、どうしているんだろう。
窓の方から部屋の中を見ると、カーテンが開け放たれており、全てが一式紫色に染まっていた。かけてある、コートやその上にくるまるマフラー。板倉は今朝、あんなマフラーを巻いていたっけ?
ネックレス、スリッパ、カーテン、ベッドカバー。全てが紫色に彩られ、真ん中に板倉と知らない女がいた。二人は顔を近づけて、スマートフォンを見ている。
一体、この部屋のどこに、自分の色のものがあるのだろうか?見つからない。
テーブルの上に、口紅のついたマグカップが置いてある。
板倉はアイスクリームを一口すくうと、女に食べさせている。
ただ、自分の家に、自分の知らない女を家にあげて、同棲相手がアイスクリームを食べさせているだけだ。
早く、一刻も早く。
汗がジワリとにじみだしてくる。道路脇、白線のレーンをはみ出さないように走りぬける。
浅川はコンビニに向けて全速力で走り、夜の闇に消えた。