後編
***
発達心理学の講義に宮澤が現れた時、新入生ガイダンスで彼が、学生時代にイジメを傍観して苦しんだと言っていたことを思い出した。彼に聞けば新を助ける方法が分かるかもしれない。そんな望みを抱いて、その日の講義が終わった後、研究室の戸を叩いた。
幸い、宮澤は在室だった。
「一人?」
私の後ろを窺うように訊いてくる。
「そうですけど……」
生徒一人だけのために時間を割けないという意味かと思って不安になっていると、宮澤は笑った。
「大抵の学生はゾロゾロ来るから、珍しいなと思って」
それを聞いて安心する。もう少し覚悟した方がいいと言われて以来、宮澤には苦手意識があって、ここに来るのにもかなり勇気がいった。
宮澤は私に椅子を勧めて、ティーバッグで紅茶を淹れてくれた。講義室の冷房が効きすぎていたから、温かい飲み物がありがたかった。
「イジメは男子生徒がやってるの?」
私の説明をひと通り聞いた後、宮澤はそう尋ねた。
「仲が良かったと言っていたので、男の子だと思いこんでしまっていました。でも、言われてみれば、どっちなのか聞いていないです。『いじめている子』『いじめられている子』という言い方をしていたので、もしかしたら女の子なのかも」
反省した。心理実験実習でも、相手から正しく情報を引き出すことの重要性を散々教えられているのに、実践できていなかった。あの時、自分には何もできないと決めつけて、何も聞き出そうとしなかった。
「一言でイジメと言ってもいろいろな種類がある。男女ではイジメの性質が異なることが多いし、仲間うちでの揶揄いの延長線上のものなのか、特定の個人を激しく拒絶するものなのかによっても大きく違う。また、イジメを主導する生徒のクラス内における立ち位置も重要だが、イジメを取り巻く環境も非常に重要だ。他の生徒がイジメにどう関わっているか、教師や保護者など子供たちの周りに相談できる大人がいるか、その大人が相談を受けた時に積極的に解決に動こうとするか」
宮澤はそこまでひと息で話した。まるで講義を受けているようで、メモを取りたいくらいだった。宮澤はマグカップの飲み物をひと口飲んだ後、続けた。
「特に、他の生徒がイジメにどう関わっているか、についてだが、イジメは多層構造を取ると言われている。つまり、いじめる生徒といじめられている生徒を中心として、それに加担する生徒、囃し立てて鼓舞する生徒。その外側に、無関心、あるいはいじめられる方が悪いと考えて傍観する生徒。そして、そのさらに外側に、報復を恐れて見て見ぬ振りをする生徒がいる。見て見ぬふりをする生徒の中には罪悪感に苛まれている者も多く、いじめられている生徒にこっそりと、自分は味方だと示すようなこともある」
私が話についていけているかを確認するような間を空けたあと、宮澤はさらに続けた。
「ガイダンスでは少し誤解を与えたかもしれないが、イジメにおける一番の被害者は、無論いじめられている生徒だ。僕のケースでは傍観者が先に不調をきたしたが、それはいじめられていた生徒が、攻撃に対する防御性により優れていたか、あるいは何らかの支えがあったものと思われる。いずれにせよ、イジメにおいて最もケアされるべきは、いじめられている生徒だ」
私は頷いた。もっともな話だ。
「世間では、イジメにおいて、いじめられている生徒以外の全ての生徒を、傍観していただけの生徒も含めて、罪に問うべきだという声がある。だが僕は、岸本さんが心配する通り、罪悪感に苛まれている生徒もまた、ケアされるべき対象だと考えている。その子は、家族に迷惑をかけたくなくて、見て見ぬ振りをしていると言ったんだね?」
肯定した。
「すごく良い子なんです」
「良い子、というのはまた曖昧な表現だ。大人の言うことを聞くから良い子なのか、思いやりがあって良い子なのか、正義感に溢れているのか」
「そうですね。あの子はいつも人を思いやって、自分のことを後回しにしています」
「なるほど。いじめられている生徒とかつて友達だったことも、彼を苦しめている要因だろう。そして、話を聞く限りでは、教師は無関心なのだろうね」
同意した。このところ、教師という職業の在り方に問題意識を抱いている。
「情報量が少ないのと、僕自身もまだ答えを探しているところだから、これ、という解決策を、今ここで提示することはできない。だが、傾聴ーー話を聞いて共感すること。無理に為になることを言おうとしなくていいし、解決に向けて行動を起こす義務を感じる必要もない。ただ、彼の心に寄り添うこと。それが、現状、君が彼のためにできる最善のことではないかと思う」
宮澤はそう締めくくった。お礼を述べる私に、また何かあればいつでも相談に乗ると言ってくれた。
「先生は、どうして発達心理学を専門にされているんですか?」
ずっと不思議に思っていたことを尋ねてみた。
発達心理学というのは、胎児期から老年期まで、人の生涯における発達的変化を、心に焦点を当てて研究する学問だ。イジメの問題に向き合うなら、社会心理学や集団心理学など、もっと適した分野があるように思えた。
「イジメに限定せず、人の攻撃性が形成される過程について、理解を深めたいと思ったからだよ」
私の質問に対して、宮澤は端的に答えた。自分の興味の対象を明確に表現できることを、尊敬するとともに羨ましく感じた。
「岸本さんは将来何がしたいの?」
マグカップの中身がなくなったのか、宮澤は私に問いを残して、立ち上がって小型冷蔵庫の方へと歩いていった。有名なココア風味の麦芽系粉末をマグカップに振りかけている姿が、普段の彼からはかけ離れていて、少しおかしかった。
「まだはっきりとは決めていないんですけど、カウンセラーに向いてるんじゃないかって友達に言われて、スクールカウンセラーに興味が出てきたところです」
マグカップを手に戻ってきた宮澤にそう答えた。
「そう。なんでスクール?」
牛乳をスプーンでかき混ぜながら、さらに訊いてくる。
「イジメに限らず、周りに気軽に相談できる大人がいなくて苦しんでいる子供って、多いと思うんです。本当は教師が相談相手になるのが理想的だと思いますけど、忙しくてなかなか手が回らないのが現状だと思うので、スクールカウンセラーとしてサポートできたらと」
新のこともそうだけど、実采の言っていた自分の名前の由来を知る授業も、教師や周りの大人がもう少しケアすることはできなかったのかと残念に思う。陽咲も、生理が止まって誰にも相談できなくて怖かったと言っていた。親身になって話を聞いてくれる大人がいれば、一人で苦しむことはなかったはずだ。
そして、私自身の経験を振り返ってみると、眠れない夜を過ごしていた中学生の頃、保健室の先生が寄り添ってくれたことのありがたさを、今になって身に沁みて感じている。昼休みの間何も言わずに寝かせてくれて、午後の授業に出る私を、しんどくなったらいつでも戻っておいでと、優しい笑顔で送り出してくれた。
「まあ、向いてないとは言わないよ」
私の答えを、宮澤は歯切れ悪く受け止めた。
「臨床ももちろん大事だ。ただ、一個人の印象として言わせてもらえば、君は研究にも適性があるように思ったけどね」
思いもよらないことを言われて面食らった。私が研究なんて。
「でもわたし、頭良くないし、数学とか全然なので……」
「数学は確かに解析に必要だから頑張らなきゃだけどね」
宮澤は微かに笑みを浮かべたけど、すぐに真顔になった。
「頭の良さなんて曖昧なもので、自分の可能性を狭めるのはナンセンスだよ」
叱られたように感じて、背筋がピンと伸びる。
「君は、人のことを心配するのは良いけど、自分の問題にもちゃんと向き合ってる?」
何のことか分からなくて首を傾げたら、宮澤は躊躇うようにこめかみを掻いた。
「こんなことを言うのは適切ではないのだけど、僕も入学試験の採点に関わって、君の小論文を読ませてもらった」
そこまで言われても、すぐには思い出せなかった。入学試験を受けたのはたった数ヶ月前のことなのに、遥か遠い昔に思えた。
「あっ」
すっかり忘れていた。入学試験の小論文のテーマは、心理学を志す動機についてだった。私は迷った挙句、本当のことを書いたのだ。
「思い出した?」
頷く。
「すごくぶっちゃけたことを書いたのを思い出しました……」
受かったことで記憶から抜け落ちていたけど、私はあの時、受からなくても構わないと思っていた。
宮澤は、まっすぐに私の目を見つめてきた。
「僕は、岸本優芽という人間に会ってみたいと思った。だからといって採点に手心を加えたりはしていないけどね」
宮澤の眼差しに射すくめられて、この場から逃げ出したくなった。本心を知られていることが恐ろしくて。
「君は自分の心を知りたがっていた。研究の原動力は、知りたいという探究心だよ。だから、研究に適性があるのではないかと思った。それだけだ。強いるつもりはないし、忘れてくれて構わない」
宮澤は、それ以上突っこんだ話をする気はないというように、マグカップをゆっくりと傾けた。
「もう、諦めたので」
変に期待されたくなくて、私は話を蒸し返した。
「忘れることにしたんです。母が死んでも泣けなかったこととか、父を見て笑いたくなったこととか。そんなこと考えてる時間ないし、考えたって仕方ないし」
言い訳がましくなっていることを自覚しながら、浅く息を吸ってさらに続けた。
「もう父と暮らすのもやめたんです。向き合おうと努力したって、しんどくなるだけだから。そんなことにエネルギーを使うくらいなら、もっと有意義なことに使いたいし」
宮澤の前で、自分の言動を正当化したくて必死になった。そんな私を、彼はしばらく黙って見ていた。
「だから君はもう少し覚悟した方がいいと言ったんだ」
ひりつくような沈黙の後で、宮澤は口を開いた。
「逃げこめる場所を見つけたのなら、それは悪いことじゃない。でも、逃げてばかりでは君はいつまで経ってもつらいままだ。誰の心にも本当の意味で寄り添うことはできないよ」
腹が立った。何も知らないくせに。
「じゃあどうしたら良いんですか?わたしの母は、父のせいでボロボロになって死んだんですよ。わたしにもボロボロになって死ねって言うんですか?先生は父に会ったことがないから分からないんです。父は人間じゃない」
自分の声が、まるでお母さんみたいだった。お母さんも、いつもこんな風にヒステリックに喚いていた。
「すみません」
少し冷静になって、声を荒げたことを詫びた。
「お父さんはそんなにひどい人なの?」
宮澤は話を終わらせてくれなかった。
「はい。常識が通用しない人なんです」
小論文にどこまで書いたか、詳細には思い出せない。
「わたしの名前、優しい芽って書くんですけど。この名前をつけたのは父で。父は、優しさが循環してみんなが幸せになるっていうのを理想にしていて、わたしに優しさを始める人になれと。そこまでは、まあ、良いんです」
お母さんも、父親のそういう考え方に惹かれたと言っていた。
「ただ、父は優しさの意味を履き違えていて。目の前に困っている人がいたら、何をおいても力にならなきゃいけないと思うみたいで。例えばアクセサリーを欲しがっている女の人がいたら、勝手に母のものをあげてしまうし、お金に困っている人がいたら、勝手に娘のお金を渡してしまうし、もうめちゃくちゃなんです」
紅茶で喉を潤して、私はさらに続けた。
「母は、父に何とか常識を教えようとしてたけど、何を言っても伝わらなくて。挙げ句の果てに父は、わたしが中学生の時に、わたしの同級生を妊娠させてしまって。それも、好きだからとかじゃなくて、寂しがっていたから慰めてやったんだって」
本当にめちゃくちゃなんです、と繰り返した。
「それはひどいお父さんだね」
宮澤の相槌に、今度はなぜか父親を弁護したくなった。
「父はあまり自分の母親に愛されずに育ったみたいで、そういうところに原因があるのかもしれません。学校で作ったお菓子を母親にあげたら喜んでもらえたからっていう理由でケーキ職人になったような人で。父はとにかく目の前の人を喜ばせたいんです。その場にいない人のことは見えなくなっちゃうんです。たとえそれが家族でも。多分、人を愛することができない人なんです」
その代わり、目の前の人間に対してはあまりにも献身的で、私は幼い頃、父親に愛されていると信じこんでいた。
「君のお母さんは、お父さんのことをどう思っていたのかな」
宮澤が静かに問いを発した。
「君は、どうしてお母さんがボロボロになるまで諦めなかったのだと思う?」
それを知りたいのは私の方だ。
「君はこう書いていたね。『私は母を母方の祖母の家に連れていった。このまま父と暮らしていれば、母がおかしくなってしまうと思ったからだ。しかし母は父と離れた途端にどんどん弱っていき、ついには帰らぬ人になった』」
耐えきれずに目を伏せた。宮澤の視線を痛いくらい感じる。
「君は、お母さんが亡くなったことに罪悪感を抱いているのではないか?」
責められたように思った。
「わたしはただ、母を守りたかっただけなんです」
「分かっている。君のせいではないと言っているんだ」
宮澤は強い口調で断言した。
「ハインツ・コフートという人を知っているか?オーストリア出身の精神科医で、自己心理学という概念を打ち立てた人だ。日本ではそこまで知名度が高くないが、僕が留学していたアメリカではコフートに影響を受けた精神科医や心理士がたくさんいた。
コフートは、幼少期に十分な愛情を受けずに育った大人は、心ーーコフートは自己愛と表現しているがーー心がうまく育たず、人付き合いに難を抱える傾向があることを指摘した。そして、大人になった後でも心を育て直すことが可能だと考えた。他者との対話と共感によってね。
君のお母さんも、コフートのように、お父さんを育て直そうとしたのかもしれない。ただし、この治療法には弱点があって、カウンセラーが良好な精神状態でないとうまくいかないんだ。患者、すなわちクライアントは、カウンセラーからの働きかけに対して、常に望む反応を返してくれるわけではない。それでもカウンセラーは常に平常心でクライアントと接することが求められるからね」
再び講義が始まったようで、自然と話に聞き入った。
「ただのカウンセラーとクライアントの関係であれば、カウンセラーは外の世界とも繋がりを持っていて、精神を安定させることができる。しかし、君のお母さんの場合は、夫婦として、お父さんからのフィードバックを求めただろう。そして、家族というのは非常に閉じた世界だ。そのような関係性において、大人を育て直すのは難しい。
それでもお母さんが諦めなかったのは、君のためもあるのだろうが、お父さんのことを大事に思っていたからではないのか」
宮澤はそこで言葉を切って、マグカップに口をつけた。
「そして君のお父さんだが、おそらく幼少期の母親との関係性から、一対一以外では他人と関係を築くのが苦手なのかもしれないね」
私は同意を示すために小さく頷いた。
父親はどの仕事場でもうまくいかなかった。ケーキ職人としての腕は確かだったようで、ケーキ屋では長く働いていたが、それでも度々トラブルを起こしていた。一度、父親が働くケーキ屋に連れていかれたことがある。私が熱を出した時のことだ。父親は、お母さんから私の看病を頼まれたのに、仕事を断りきれなかったのだ。事務所で寝かされた私は、朦朧とする意識の中で、何度父親がなじられているのを聞いたか分からない。それ以来、ケーキ屋が苦手になってしまった。
「ただね、エーリッヒ・フロムは、愛することを、与えることに喜びを見出すことだと述べているんだ。フロムは、社会心理学や精神分析、哲学を専門にしたドイツ出身の研究者で、新フロイト派とも言われているが、『The Art of Loving』という題名の本を書いたことで有名だ。
この本の中でフロムは、愛は特定の相手との間だけで完結されるべきではなく、最終的には全人類が愛によって包まれるべきだとしている。君のお父さんはある意味で、フロムにとても近い考え方をしているんだよ。優しさを循環させるという考え方自体は、心理学の在り方にも繋がる非常に素晴らしい考え方だ」
そこまで話して、宮澤は私の反応を待つように口を閉じた。私は、宮澤が何を伝えようとしているのか分からずにいた。
「すみません。わたしには難しすぎて理解しきれていないと思います」
心苦しく思いながら、正直に告白した。宮澤は落胆した様子もなく、むしろ満足げに頷いた。
「うん。僕の方も思いつくままに話した。今君が全てを理解することは期待していない。一番伝えたかったのは、もっと自分の内面と向き合って悩めということだ。いろいろと喋ったのは、そのためのヒントになればと思ってのことだ。
そして、これは大事なことだが、悩むときはまっすぐに悩むんだ。自分の醜い側面に気付いて愕然とすることがあるかもしれない。だが、そういった時に罪悪感のような余計な感情に囚われてはいけないよ。君は何も悪くない。そんなことで自信をなくすのはもったいないことだ。いいね」
念押しするように言われて、つい頷いていた。
「先ほどは、君のお父さんのことを悪く言うようなことをして悪かった。君の本音を聞き出したかっただけで、真意ではない」
宮澤はそう付け加えて、この話を終わらせた。
「話が長くなってしまったね。試験勉強は順調?」
その口調は、一転して親しみの込もったものに変わっている。
「あ、いえ……。正直、テストがいつからなのかもあやふやです……」
再来週かその次の週のどっちかだったと思うけど。
「大学に入って最初のテストだろう。何か他に気を取られていることでもあるのか?」
そう問われて、いろいろな心当たりが胸をよぎる。叶多の家で暮らすようになって、彼らの生活リズムに慣れる必要があったし、新のことが気がかりだし、このところは陽咲と一緒に数学をやっていた。でも、今一番私が気を取られているのは。
「恋人が最近触らせてくれなくて」
深く考えずに軽いお悩み相談的に呟いたら、マグカップの飲み物を啜っていた宮澤がむせた。
「あ、すみません、変なこと言って。何でもないです」
赤裸々に打ち明けすぎたことに気づいて、顔が熱くなる。
「君が傷つけるようなことでも言ったんじゃないの?」
咳きこみながら訊いてくる。
「そんなことはないと思いますけど……」
思い返しても分からない。叶多に最後に触れたのは、父親の家に迎えに来てくれた時だ。あの時はキスだってしたのに。
「キスより先は無理とは言ったけど、関係ありますかね?」
さらにすごいことを打ち明けている自覚はあったけど、相談に乗ってくれるのなら全部話してしまえという気持ちだった。
「それ、今は無理っていうつもりで言ったの?」
宮澤は平静を取り戻している。彼にはどうでも良いことだろうのに、親身に聞いてくれて優しい。
「ずっと無理っていうつもりです。わたし、父と同級生が、その、行為をしているところを見てしまったことがあって、すごく汚く感じてしまって」
「なるほどね」
宮澤が相槌を打つ。
「それ、君の恋人はちゃんと分かってる?拒絶されたと思って落ちこんでるかもよ」
「そう、なんですかね」
あの時叶多は平気な顔をしていたけど。
「まあ、学生の本分は勉強することだから、推奨する気はないけど、本当に好きなら無理だと決めつけなくてもいいと思うけどね。見るのと実際にするのは違うし。少なくとも、君が触れたいと思っていることは伝えてみたら?」
宮澤の言葉に初めて、自分は叶多にどうしようもなく触れたいのだと自覚した。マチョコの言葉の意味が今になって分かる。彼女は、好きな人には触りたくなるものだと言った。
いつの間にか叶多でいっぱいになっている心が、少し怖いような気もする。
宮澤にお礼を述べて、帰るために椅子に置いていた鞄を取ろうとしたら、手が滑って床に落としてしまった。ドンッと鈍い音がした。
「勉強する気ないね、君」
鞄から飛び出た物を見て、宮澤が笑った。大学の図書室で借りたアガサ・クリスティの小説本だ。
「いやっ、これは、その……」
完全に図星だったので、しどろもどろになる。
「まあ、不安なことを抱えているとミステリー小説が読みたくなる気持ちは分からなくもない。小説の中では問題が解決するからね」
でもちゃんと勉強するように、と釘を刺して、鞄と本を手渡してくれた。
目から鱗が落ちた気分だった。両親が言い争いを始めると、私は自分の部屋に閉じこもって、ミステリー小説を読んでいたものだった。あれは、一種の逃避行動だったのだ。
知らず知らずのうちにいろんなものに頼って生きてきたことを実感する。今度は私が誰かの支えになれるように、まずは自分の問題にきちんと向き合わないといけないなと思った。
***
翌日は、にわか雨に降られながら十五時すぎに帰宅した。
まだ寝ているだろう叶多を起こさないように、そっと玄関のガラス戸を開けた。いつになく静まり返った家の中で、規則的なアラームの音が微かに聞こえている。
アラーム音を辿って習字部屋の前に行くと、叶多が布団で眠っていた。寝込みを襲うようで部屋の中に入るのは憚られたけど、網戸から吹きこむ雨が叶多の髪を濡らしていて、意を決して足を踏み入れた。
音を立てないように窓を閉めて、叶多の枕元で鳴っている目覚まし時計を止めた。起こすべきかどうか迷いながらも、初めて見る彼の寝顔に引きこまれてしまって、少しだけ、とそばに腰を下ろす。
無防備に眠る叶多の頬に触れたい誘惑と戦っていると、あっという間に五分経っていた。
「カナタくん」
何か用事があってアラームを設定していたのだろうと思って、呼びかけた。全く起きる気配がない。
何回か呼んだ後に、肩をゆすってみた。ようやく叶多が薄く目を開ける。私の顔を眩しそうに見上げて、ふんわりと笑った。可愛い。
「アラームが鳴ってたから……」
やましい気持ちを抱えて弁解する私の方に、叶多が手を伸ばしてきた。と思ったら、腕を引っ張られた。びっくりしてされるままになっていると、布団の上に押し倒されて、叶多が覆いかぶさってきた。全身に彼の体温を感じて、途端に鼓動が激しくなる。
「えっ」
唇が触れる寸前に、急に我に返ったみたいに叶多が私から飛び退いた。
「わ、え、ご、ごめん。ホントごめん……どうしよう俺、シャワー浴びてくる。ごめん!」
何度も謝って、逃げるように部屋を出ていってしまった。
彼の熱が残る布団の上で、いつまでも動悸が治まらなかった。
コーヒーを淹れるためにヤカンでお湯を沸かしていると、肩にタオルをかけた叶多が台所にやってきた。
「本当に申し訳なかった。最低だ、俺」
深く頭を下げたまま、顔を上げない。私が首を横に振ったのも見えていないようだ。
「座って。コーヒー飲むでしょ?」
そう声をかけると、彼は小さく肩を跳ねさせた。そして、おずおずといった様子で、私から一番遠い椅子に腰を下ろした。
「嫌じゃなかったよ」
台所は暑いくらいなのに、叶多は寒そうに縮こまっている。
「すごくびっくりして、ドキドキしたけど、別に、嫌じゃなかった」
私は繰り返した。叶多ともう二度と、すれ違いたくない。
「カナタくんが最近わたしと距離を置いてるのは、わたしがキスより先は無理って言ったから?」
率直に尋ねたら、叶多は躊躇うようにしながら口を開いた。
「ユメちゃんが嫌がることなんか、絶対したくない。けど俺、舞い上がってるから。ユメちゃんも、俺にあんまり近づかない方がーー」
「わたしは、カナタくんに触れなくて寂しかった」
本音を口にするのは、とても不安で怖い。でも、私はもう叶多に本心を伝えることを諦めないと決めたのだ。
ゆっくりと叶多が顔を上げる。
「ごめんね。わたしがあんなこと言ったから、気を遣わせちゃったね」
やっと目が合ったけど、今度は私が彼に背を向ける。
「わたしさ、お父さんがわたしの同級生とセックスしてるの、見ちゃったことがあるんだ」
淡々とした口調を意識しながら、インスタントコーヒーの粉をすくうスプーンが震えている。昨日宮澤に話した時は、こんなに緊張しなかったのに。
「すごく気持ち悪くて、今でも時々夢に見る。カナタくんの前で自分もあんな風になるのかなって思ったら、わたしーー」
言い終わらないうちに、後ろから抱きしめられていた。
「いい。しなくていいから」
私の耳元で、叶多は囁くように言った。
「言ったでしょ。ユメちゃんがいるだけで、俺、すごく幸せなんだ。だからーー」
「でもね、」
叶多が早口で話を終わらせようとしてくれているのが分かって、遮った。
「でも、大丈夫かもしれないって、思ったの。お父さんたちとは違うし、見るのと実際にするのは違うらしいから……」
恥ずかしさが麻痺したみたいに、つい口を滑らせた。
「らしいって、誰かに言われたの?それ」
叶多が抱きしめる力を強くして聞き咎める。
「昨日ちょっと、用事があって大学の先生のところに行って、話のついでに……」
「先生って、女の先生?」
なぜだろう。叶多に怒られたくなった。
「男の先生。三十五歳独身の」
「男とそんな話すんなよ」
案の定、彼は怒った。深いため息をついている。
「ユメちゃん可愛いんだから、男は勘違いするよ。それで昨日遅かったの?夜道を一人で歩くのも危ない……うん、分かってる。俺、うるさいこと言ってる」
何だかまた落ちこませてしまったようだ。叶多の腕の中で身体の向きを変えた。一歩後ずさった彼の顔を見上げる。
「嬉しいよ、心配してもらえるの。怒られたくてわざと言ったの。ごめんね。心配させるようなことしないように気をつける」
正直に打ち明けた私の頬を、叶多が軽くつねる。そのまま、顔を近づけてきた。
「あっ」
もう少しで唇が触れるという時に、思わず声をあげた。叶多がピタッと動きを止める。今思い出したのだから仕方がない。
「アラーム鳴ってたよ。何か用事があったんじゃないの?」
叶多は、そんなことか、という顔をした。
「ユメちゃんが帰ってくる前に起きたかったんだよ」
つまらなさそうにそう言って、そばの椅子を引いてドカッと腰を落とす。拗ねたのか、私と目を合わせようとしない。
「そんな。わたしのために睡眠時間削らないでよ」
「早く寝たから大丈夫だよ」
やっぱりちょっといじけている。
屈んで、その唇にキスをした。離れようとしたら、肩を掴まれた。後ろでヤカンが鳴って、今度こそ離れようとしたら、叶多が私を捕まえたまま立ち上がって火を止めた。
玄関でガラス戸の開く音がするまで、彼は私を解放してくれなかった。
「ただいまー」
陽咲の明るい声を聞いてやっと私を放した叶多は、緊張で膝がガクガクしている私のことを見て笑った。椅子に優しく座らせてくれる。
「おかえり」
台所に現れた陽咲を、何もなかったみたいに笑顔で出迎えている。何でこの人はこんなに余裕なのだろう。
「何これ?」
陽咲がテーブルの上の紙袋に気づいて覗きこむ。叶多も今初めて気が付いたようで、私に目で問いかけてきた。
「大学で借りて」
うまく喋れない気がしたから、短く答えた。昨日大学の図書室に行ったのは、アガサ・クリスティの小説を借りるためではなかった。叶多が喜ぶかと思って、高校数学のおさらい的なものから理工学部の学生向けの難しそうなものまで、数学関係の本を適当に借りてきたのだった。本当は又貸しをしてはいけないのだろうけど。
「お兄ちゃん、めっちゃ愛されてんじゃん」
陽咲が兄を茶化す。
「俺のことはいいから、テストどうだったんだよ。お昼は食べたのか」
叶多がぶっきらぼうに返した。要らなかっただろうか。そう思って少し冷静になる。
「友達と食べた。テストのことは聞かないで」
追及を拒むように、陽咲は台所を出て二階へと駆け上がっていってしまった。
「微妙だった?返してこようか?」
紙袋に手を伸ばすと、叶多はそれより早く手に取って、胸に抱きかかえた。
「妹にニヤけた顔見られたくなくて」
その顔でとても喜んでいるのが分かって、ホッとした。
「返すのは夏休み明けで大丈夫だから。夢中になって寝るの忘れちゃダメだよ」
うん、と生返事をしながら紙袋の中をゴソゴソしている。
「俺、ユメちゃんにもらってばかりだね」
ひと通り確認した後、叶多が呟いた。
「ユメちゃんのために俺にできること、何かある?」
私の方こそもらってばかりだと否定しかけて、ふと浮かんだ。
「そういえば、ちょっとお願いがあるんだけど……」
忙しい叶多にこんなことを頼んで良いのか迷いながら。
「お父さんとはもう関わらないつもりだったんだけど、やっぱりもう一回、会ってみようかなって思ってて」
叶多が大きく何度も頷く。
「それでね、もし大変じゃなかったら、一緒に来てくれると、心強いっていうか……」
「もちろん」
即答してくれた。
「むしろ一緒に行かせてほしい。ユメちゃんがうちにいるのに、俺、まだお父さんに挨拶できてないし」
「それは気にしなくていいけど、ありがとう、すごく心強い」
叶多はすぐにでも日にちを決めようとする勢いだったけど、夏休みに入ってからで良いと伝えた。決意を聞いてほしかっただけなのだ。
父親と向き合うよう、私の背中を押したのは宮澤かもしれない。でも、私に前向きなエネルギーを注いでくれるのは叶多だ。本当に、もらってばかりなのは私の方だ。
***
陽咲の期末テストから十日ほど遅れて、大学でもテスト週間が始まった。実采たちに構ってあげられずに悲しい思いをさせてしまうのが可哀想で、テストの少し前から千尋の家に泊めてもらった。
心理統計学は、叶多に見てもらったおかげで何とか理解できるレベルにまで到達したけど、鬼門は心理学概論だった。専門用語だらけで、千尋と悲鳴を上げながら覚えては忘れてのサイクルを繰り返した。
勉強の合間や寝る前に、千尋といろんな話をした。叶多の話や、その妹弟たちの話もした。最後の晩に、父親のことを初めて打ち明けた。
「やっぱりユメちゃんもいろんなこと抱えてたんだね」
そう言って、千尋は私を抱きしめてくれた。
夏休みの話もした。私は、おばあちゃんの家に帰省した後、車の免許合宿に行く計画を述べた。千尋は、数日間だけ帰省して、後はこっちでバイトをするそうだ。夏休み中に手話サークルの活動として聴覚障害を持つ子供たちとの交流会が予定されているらしく、「その前に髪の色暗くするんだ」と彼女は宣言した。金髪の根元がだいぶ黒くなっている。
「でも、休み明けて金髪のままでも呆れないでね」
と、千尋は冗談めかして笑った。
長かったテスト週間が終わって、久しぶりに叶多の家に戻って一日だけ過ごした後、おばあちゃんの家に帰省した。
おばあちゃんは気兼ねなく話せる相手に飢えていたようで、終始饒舌だった。私がもう子供ではないと思ってか、初めて聞くような話もあった。
例えば、お母さんと父親がデキ婚だったことを私は初めて知った。お母さんは三十五歳の時に八歳年下の父親と出会って私を産んだのだが、父親と出会ったばかりの頃、お母さんは長く付き合った恋人と別れたばかりで傷心だったのらしい。
「そんな若い男やめなさいって散々反対したのにマサミったら聞かなくて、挙句には妊娠して」
と、おばあちゃんはブツブツ言った。妊娠して生まれたのが、目の前にいる私なのだけど、それはおばあちゃんの中では切り分けられているようだ。
おばあちゃんは、私の中学や高校時代の同級生の動向についても、ベラベラと喋った。地域一帯の婦人会を取り仕切っているおばあちゃんは、私以上に詳しくて、誰々が就職に失敗してフラフラしているだとか、誰々が行っている大学のレベルが低いだとか、誰々の兄が心を病んで引きこもっているだとか、そんなゴシップを、ことさら面白そうに話した。
一緒に暮らしていた時にはそこまで違和感を覚えなかったけど、今は少し不快に感じた。でも、私の何倍も長く生きているおばあちゃんに、今さら価値観を変えさせることはできないとも思った。だから、せめてもの孝行として、黙って耳を傾け続けた。
延々と続く話を聞きながら、おばあちゃんと父親は正反対なのかもしれないなと思った。おばあちゃんは、自分と自分の大事な人さえ良ければ、周りはどうなっても構わないと考えている節がある。一方父親は、常に目の前の人を優先して、そのためには自分の家族でさえ蔑ろにする。優しさを循環させるという理想のもとに。お母さんは、父親に出会って自分の価値観が崩れるのを感じたと言っていた。もしかするとお母さんは、父親の生き方を尊重しようとして、でも家族として受け入れられないことばかりで、それで苦しんでいたのかもしれない。そんなことを思った。
***
おばあちゃんの家で二週間あまりを過ごして、免許合宿に行く二日前に叶多の家に戻ってきた。家の前の花壇には、みんなで植えたコスモスが青々と芽を伸ばしている。
叶多の弟三人は、叔母さん一家の旅行についていっていて不在だ。
「ヒナタがこんなものをくれたんだ」
お茶の間で寛いでいると、叶多がチラシを手にやってきて、嬉しそうに見せてくれた。データサイエンスやビッグデータなどの文字が躍っている。
「進路コーナーで見つけたんだって。目についたから何となくもらってきたけど、みたいな感じで渡してきたけど、俺のためにわざわざ取ってきてくれたんだろうな」
肩が触れるくらい近くに座った叶多は、デレデレした顔でそう言った。当の陽咲はバイトに行っている。
「それで、カナタくんはどうするの?」
チラシを返して尋ねた。私が大学で借りてきた本は、コツコツと読み進めているようだ。
「数学は趣味でいいと思ってたんだけどね」
叶多はチラシを大事そうに撫でて脇に置いた。
「ゆっくり考えてみるよ」
彼が前へ踏み出せることを、心から願った。
「カナタくんがどんな道を選んでも、応援する」
「本当?書道教室を開くのもいいなと思い始めてたんだけど」
「いいじゃん。カナタくん習字上手だったもんね」
叶多のお母さんから、叶多が書いたという字を自慢げに見せてもらったことがあった。
「まあ、何をするにしても、ユメちゃんに見限られないようにしないとな、なんて」
まるでそれだけが心配だという言い方をするから、彼の足をはたいた。
翌日、叶多と一緒に父親の家に行った。
行くことはちゃんと伝えてあったのに、家を出る前に念のために電話を入れたら、父親はまだ寝ていたようでなかなか出なくてイライラした。
『おう、分かったぁ』
やっと出た電話でそう言ったくせに、家に着いてインターホンを三回鳴らしても、何の応答もなかった。ドアを引いてみると鍵がかかっていなくて、「お父さん?」と呼びかけながら中に入った。
すると、石鹸の匂いとともに、正面の洗面所に父親の裸が見えた。信じられないと思った。私たちが来ると分かっていながら、お風呂に入っていたのだ。
「おお、ユメ」
こちらに気づいて歩いてこようとする。
「ちょっと、こっち来ないで。服着てよ」
尖った声で押しとどめた時、父親の向こうに小さな子供が立っているのに気づいた。
「レンヤぁ、姉ちゃん来たぞぉ」
父親がそう声をかけている。蓮哉がいるなんて聞いてない。
腹を立てながらとりあえず叶多をリビングに案内した。おもちゃやらお絵描きやらで散らかり放題だ。一体いつからいるのだろう。
「良かったら召し上がってください」
蓮哉とともに服を着て現れた父親に、叶多がゼリーの詰め合わせを差し出した。
「おお」
父親はお礼も言わずに受け取って、テーブルの上にぞんざいに置いた。蓮哉が、無言で包装紙を勢いよく破って、中からゼリーを取り出そうとする。
「レンヤくん、それまだ冷えてないよ。お腹空いてるの?」
そう尋ねたら頷いたので、まずは朝食にせざるを得なくなった。
父親がチャーハンを作る横で聞いたところによると、一週間ほど前に恵梨香がやってきて蓮哉を置いていったのだそうだ。父親が仕事に行っている間は一人で留守番をさせているという。その辺に散らかっているおもちゃの大部分は、私が子供の時に遊んでいたものを引っ張り出してきたものらしい。呆れたことに、恵梨香がどこに行ったのかも、いつ戻ってくるのかも、父親は知らなかった。
「エリカちゃんって、自分の親には頼らないの?」
恵梨香の母親は、恵梨香の妊娠が分かった時、いとも簡単に娘を切り捨てた。自らもシングルマザーとして恵梨香を産んで育てたはずだけど、娘も同じ道を辿ろうとしていることに絶望したのか、一切の関わりを拒んだ。
自分の母親に追い出されるようにして家を出た恵梨香は、少しの間うちで暮らしていた。それは一ヶ月かそこらだったと思うけど、私には恵梨香のいる空間が耐えられなくて、その間ほとんど叶多の家に泊めてもらっていたと思う。
お母さんは何とか恵梨香を親の元に帰そうとしていた。それなのに、何がどうなったのか、恵梨香は私の父親が借りたアパートに移った。その後のことは知らない。
「あいつは親に捨てられたんだぁ。今さら頼らねぇよぉ」
父親はそう答えた。どこまで正確に把握しているかは不明だけど、恵梨香の性格を考えると確かに意地でも頼らないような気がした。
炊飯器にご飯が少ししか残っていなくて、チャーハンは一人分しかできなかった。それで、父親は作ったチャーハンを全て蓮哉にあげると、自分は叶多が持ってきたゼリーの蓋を開けた。
「今、カナタくんの家で暮らしてるの」
音を立ててゼリーを啜る父親にそう告げた。
「すみません、挨拶が遅くなって」
私の隣で叶多が頭を下げる。
「おう、そうか」
父親は口をモゴモゴさせながら軽い調子で応えた。またゼリーの容器の縁に口をつけて、ズルズル啜っている。
「おうそうかって。心配とかしないわけ?娘が男の家に住んでるって聞いて」
詰め寄った私を、父親は不思議そうな顔で見た。
「何で心配なんかすんだよぅ」
「何でって」
やっぱりこの人は娘のことなんかどうでも良いのだ。諦めて会話を終わらせようとした私に、父親は続けて言った。
「そいつぁお前に愛をくれんだろぉ。そいつんとこにいたらお前ぇ、幸せなんだろぉ」
面食らった。父親の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。
「俺に言ったもんなぁ?お前」
父親が絡むように叶多に問いかける。
「ユメを守るってよぉ。泣かせたらただじゃおかねぇって言ったらよぉ、はいって言ったもんなぁ、お前ぇ」
叶多が背筋を伸ばすのが分かった。
「その気持ちは今も変わらないです」
彼は真剣な声でそう答えた。
「ただ、あの頃とは状況が変わってしまって、もし一緒に生きていくことになったら、ユメさんには苦労させてしまうかもしれません」
こんな父親相手にも、誠実であろうとしてくれる。
「苦労って。そんなのぁ、ダメに決まってんだろぉ!」
父親が急に声を荒げた。
「ユメはよぅ、俺とマサミの大事な娘なんだよぉ!幸せになんなきゃダメなんだよぉ!」
「今さら父親ぶんないでよ」
「ユメちゃん」
叶多にテーブルの下で手を掴まれた。
「すみません、分かります。僕も迷っています」
叶多は、父親の言葉を受け入れて、言葉を続けた。
「三年前に両親を亡くしました。妹が一人と弟が三人いて、一番下の弟はまだ五歳です。僕は、兄として彼らが独り立ちするまで見守りたいと思っています。だから、こんな人生にユメさんを巻きこんで良いものか、迷っていて」
そんな迷いは不要だと伝えたはずなのに、まだそんなことを考えていたのか。反論しようとしたら、叶多は私の手の甲を優しく撫でた。
「難しいことは分かんねぇけどよぅ」
父親が口癖のようなセリフを口にする。
「それだとユメが不幸になんのかよぉ?ああ?俺と違ってお前は頭が良さそうだからよぉ、何とかすんじゃねぇのかよぉ」
苛立っているような声でさらに言い立てる。
「俺は馬鹿だからよぅ、ユメのこと怒らしてばっかでぇ、ここにいたってユメはちっとも楽しそうじゃねぇや。お前はうまくやれんだろぉ。だからユメはお前んところに行ったんだろぉ」
「そうだよ」
たまらなくなって口を挟んだ。
「お父さんに判断してもらわなくたって、わたしはカナタくんと一緒にいるのが幸せなの。こんなところにいるよりずっと幸せなの」
父親がこちらに顔を向けた。眉間から皺が消えて、眉が下がるのが分かった。
「そんならいいじゃねぇかよぅ。何をごちゃごちゃ言ってんだよぉ」
私はまだ信じなかった。この人の中にそんな親らしい心があることを。
「マサミはなぁ、初めて優しくしてくれた人間でよぉ」
いきなり語り出した父親に、感情が迷子になりそうだ。
「店で子供がケーキをじっと見ててよぉ、可哀想で一つやったら店長に怒られてよぉ。そん時ぃ、マサミが助けてくれてよぉ。代わりに金ぇ払ってくれてよぉ」
そんな言葉足らずな説明に、叶多は頷いて理解を示した。
その馴れ初めはお母さんからも聞いたことがあった。父親が働いていたケーキ屋の前に、見るからにひもじそうな子供が立っていたのだという。お母さんが声をかけようか迷っていると、父親がその子供にケーキを一つ恵んだのだそうだ。店長に見咎められて責められている父親が不憫になって、そのケーキをお母さんが買ったことにしたのだと言っていた。
「俺ぇ、人に優しくされたの初めてでよぅ、すっかり惚れちまってよぉ。俺が作ったケーキ、おいしいつって食ってくれてぇ、ますます好きになってよぉ。そんでぇ、ユメが生まれた」
だいぶ端折って、父親は私が生まれた経緯を話した。端折ったつもりもないのかもしれない。そこに至るまでにお母さんがどれだけ苦悩したか、父親は知らないのだろう。
「俺ぁ幸せだったよ。ユメに笑いかけられただけでよぉ、生きてて良かったって思えてよぉ。んでよぉ、周りの人間にも分けてやりてぇと思ったんだけどよぉ、何でか分かんねぇけど、マサミぃ、怒ってよぉ。怒らんねぇように頑張ったんだけどよぉ、俺ぇ馬鹿だから、何やっても怒られてよぉ。マサミのことぉ、幸せにしてやれなくてよぉ」
この人の中にお母さんを幸せにしたいという気持ちがあったことを、今初めて知った。その一方で、お母さんの言葉は全く届いていなかったのだということも。
「無理なんだなぁ。みんなを幸せにするなんてこたぁよぉ。一番大事な人間も幸せにしてやれねぇんだもんなぁ」
父親はそう呟いて、何が言いたかったのかをまとめることなく、唐突に話を終えた。
次に言葉を発したのは叶多だった。
「難しいですよね、誰かを幸せにするのは。それが大事な人だとなおさら」
父親のまとまりのない話に、応えようとしてくれているのらしい。
「僕も、親が死んだ後、妹たちを幸せにしたいと思ったけど、いくら心を注いでも、かえって不幸になっていくようで」
せっかく叶多が応えようとしてくれているのに、父親は興味なさそうにゼリーの空き容器をスプーンでカラカラさせている。
「どんなに大事に思っていても、それだけでは足りないのだと思い知りました。妹たちには、受け取ることだけじゃなくて与えることも、僕自身が幸福であることも、必要だったんだなって」
叶多は、目も合わせない父親に向かって、辛抱強く話しかけ続けている。
「そのことを僕はユメさんに教えてもらったんです。だから、お父さんにも感謝しています。ユメさんの素敵な生き方は、お父さんから受け継がれたものですよね」
父親が、ハッとしたように顔を上げた。
「俺に感謝してるって言ったかぁ?」
「はい。感謝しています」
叶多が大きく頷いて繰り返すと、父親は「そうかぁ。そりゃ良かった。ガハハ」と、品のない笑い声をあげた。
せっかく叶多が真剣に向き合ってくれているのに、父親には何も伝わっていない。そう思って私は心底失望した。
「とにかく、エリカちゃんに連絡して、レンヤくんのことどうするか話し合ってよ。一人で留守番させるなんてありえないからね」
早口で話を切り上げた。これ以上ここにいてもしょうがない。
「レンヤくん」
不意に叶多が蓮哉に声をかけた。
「良かったら、お父さんが仕事に行ってる間、俺の家に遊びに来ない?今はちょっと旅行に行っちゃってるけど、あさってには弟たちも帰ってくる。レンヤくんと歳が近いから、一緒に遊べるよ」
とんでもないと思って首を横に振った。私が家にいるのならまだしも、明日から免許合宿でいないのだ。そこまで叶多に迷惑をかけるわけにはいかない。
「おお、そいつぁいいなぁ」
父親が呑気に賛同する。
「なあ、レンヤぁ。俺が仕事行ってる間ぁ、こいつんちに行っとけ」
「待って。簡単にそんなこと頼まないでよ。お父さんとエリカちゃんの問題なんだから、そっちで解決して」
「ユメちゃん」
叶多が宥めるように私の名前を呼んだ。
「そんなに俺に気を遣わなくても大丈夫だよ。レンヤくんはユメちゃんの弟なんだから、俺も無関係じゃないでしょ」
諭すようにそう言って、父親に向き直った。
「その代わりと言うわけではないのですが、お父さんに一つご相談があって」
その言葉に父親が反応するのが分かった。人に頼られるのが大好きなのだ。
「八月の最後の日曜日が僕の一番下の弟の誕生日でして、もしも可能でしたら、お父さんにケーキを作っていただけたりはしないでしょうか。もちろん材料費はこちらで持ちますし、無理でしたら全然、忘れてください」
「カナタくん」
そんな大事なことを父親に頼むなんてありえない。
「おう、いいぞ」
思った通り父親は二つ返事で引き受けた。仕事のシフトも何も確認せずに。
「安請け合いしないでよ。仕事とか入ってないわけ?だいたい、ケーキ作ったって車持ってないんだから運べないでしょ」
「ああ、仕事なぁ。八月の最後の日曜つったかぁ?」
父親は焦る様子もなく、冷蔵庫の前に行ってシフト表を確認している。
「おう、空いてる空いてる」
そう軽い調子で答えた。
「にしたって運ぶのが」
何も考えていない父親に、苛立ちが募る一方だ。
「それなんですけど、」
叶多が、落ち着いた声で提案を持ちかける。
「もし良かったら、うちの台所を使ってください。人の家の台所なんて使いにくいかもしれないですが、母もよくケーキを焼いていたので、基本的な道具は一通り揃っていると思います」
「おう、そうするか」
話は決まり、と言うように父親が簡単に頷く。
「本当に大丈夫なの?急に仕事が入ったり他の用事ができたりしても、断れるの?」
全く信用できない。
「全然、その時はそちらを優先していただいて。近所のケーキ屋で買うこともできますので」
叶多がフォローを入れる。
「おう。大丈夫だぁ」
父親が能天気に言った。
一時間ほどの滞在で父親の家を後にした。来た時よりも気温が上がっていて、すぐに全身から汗が噴き出す。
「お父さんにケーキなんか。コウタくんの大事な誕生日なのに」
叶多に日傘を差しかけながら、咎めた。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
私の手から日傘を取って、叶多がのんびりと言う。
「大丈夫じゃないよ。話してて分かったでしょ?何も考えてないんだよ、あの人。向き合うなんてやっぱり無理だった」
「そんなことないと思うよ。お父さんがユメちゃんのことを大事に思ってるの、よく伝わってきた」
反論したかったけどやめておいた。きっと私のために気休めを言ってくれているのだ。
「レンヤくんのことだって。カナタくんがそこまでしてくれる必要ないよ」
帰り際に住所を伝えていたから、父親はきっと本気にして明日からでも蓮哉を預けに来るだろう。
「ユメちゃんがそれを言うの?俺の兄弟にはすごく良くしてくれるのに」
「それは、カナタくんの大事な兄弟だから」
私はここで告白しなければならない。
「正直言って、わたし、レンヤくんのこと全然可愛いと思えないんだ」
恵梨香が妊娠した時、家に警察が来た。未成年を妊娠させたことで、父親が罪に問われる可能性が高かったからだ。その時、私も父親のことを訊かれた。当時の私はまだ、父親のした行為の非常識さをきちんとは理解できていなかったけど、警官の口ぶりから、父親がとても恥ずかしいことをしたのだと分かった。
蓮哉を見る度に、あの時の、自分も同類に見られているような、恥ずかしくてたまらない気持ちを思い出して、目を背けたくなるのだ。蓮哉に罪はないと頭では分かっていても。
「俺は、今日初めて会ったけど、レンヤくんのことを愛おしく感じたよ」
私の告白を受け入れるように相槌を打った後で、叶多は言った。
「ユメちゃんもこんな気持ちでコウタたちと接してくれてるのかなって思って、嬉しくなったよ」
照りつける日差しの下で、彼はこちらを見て微笑んだ。
「俺がレンヤくんにしてあげたいんだ。だから、ユメちゃんは何も心配しなくて大丈夫だよ」
優しい眼差しで見つめられて、自分の余裕のなさがほとほと嫌になった。元はといえば、私が父親と向き合いたいと言ったから、一緒に来てくれたのに。
「そんな顔しないで。それよりさ、コウタのプレゼントを買いにいくの付き合ってくれない?ていうか、せっかく二人きりだしデートしようよ」
ぐいぐいと密着してくる。ありがとう、と素直に言えずに、無言で頷いた。
「でも、暑いからくっつかないで。傘も返して」
日傘が小さすぎて、私の上しか日差しが遮られていない。叶多の手から日傘を奪い取った。
「えー、くっつきたい」
攻防を繰り広げているうちに追いかけっこみたいになって、駅に着く頃には二人とも汗だくになっていた。
電車で数駅揺られてショッピングモールに行った。幸多の誕生日プレゼントを選んで、レストランで昼食を取った後、叶多と映画を見た。
それはよくある冒険ものだったけど、映画の中で、親友の死に責任を感じて立ち直れずにいる主人公を、仲間が『悔やんでいても始まらない。僕らは前へ進むしかないんだ』と励ますシーンがあって、ふと宮澤の言葉を思い出した。
宮澤は私に、お母さんが死んだのは私のせいではないと言った。余計な罪悪感を抱かずに自分の内面と向き合えと勇気づけてくれた。
その時、長年の疑問の答えが、急に胸に落ちてきた。解けてしまえば、なぜ分からなかったのだろうと思うくらい、それは単純なことだった。
お母さんの葬儀で父親を見て笑いたくなったのは、そう、ひどく安心したからだ。
お母さんが死んだのは自分のせいだと思っていた。お母さんは、父親と暮らすのはうんざりだと言った私のために実家に戻って、その途端に病気になって急激に弱ってしまった。だから、お母さんを父親から引き離してしまったことに、ずっと罪悪感を抱いていた。
それと同時に、怖くてたまらなかった。お前が殺したのだ。そう誰かに責められることを恐れていた。
だから、おばあちゃんが父親を責めるのを見て、ああ良かった、お父さんが全部引き受けてくれるんだと、お父さんが全部悪かったことにしてくれるんだと、心の底から安心したのだ。私は、父親を悪者にすることで、自分の心を守っていたのだった。
どうして私の心は無意識にそんな鎧をつくったのか、なぜ今その鎧が見えるようになったのか、疑問が広がって、私は心の仕組みについてもっと知りたくなった。
映画を見た後は、半券を使ってボーリングをした。叶多も初めてで、二人してひどいスコアだったけど、自分でも訳が分からないくらい楽しくて、ずっと笑っていた。
夕方、バイト終わりの陽咲が合流して、手芸洋品店に行った。私にワンピースを作ってくれるという。膨大な種類の布の中から、陽咲は淡い水色のリネン生地のものを選んだ。
それから、陽咲のチョイスで韓国料理店に入った。どの料理もかなり辛くて、それを「全然大丈夫だし」と顔を真っ赤にしながら頑張って食べている陽咲が可愛かった。
チゲ鍋をつつきながら、幸多の誕生日会について相談した。幸多が保育園の友達を呼んでバーベキューをしたいと言っているらしく、人手が要るというので、千尋を誘ってみることにした。
帰り道、陽咲がクレープを食べたいと言い出して、三人でクレープ屋に入った。前に陽咲と二人で行った店だ。新たちが生まれる前に家族四人でよく来ていたのだそうだ。そんな他愛もないことを知れるのが、嬉しかった。
家に帰ったらすぐに、陽咲の部屋で採寸された。
「あたしは多分、車の免許は取らない」
私の満腹のお腹にメジャーを巻きつけながら陽咲は言った。明日から行く免許合宿の話の流れだ。
「被害者になるのもつらいけど、加害者になるのはもっとつらいと思うから」
その頭を撫でた。動かないでと怒られるかと思ったけど、陽咲はされるままになっている。
「どうしてもの時は運転できるように、頑張るね」
サラサラの黒髪が手の平に心地良い。
「もしかしてユメちゃんが免許取るのって」
こちらを見上げておずおずと尋ねてくる陽咲に、笑いかけた。
「それだけじゃないけど、取っといた方がいいかなって」
私はもう、叶多たちのいない未来を、思い描くことができなかった。
合宿にはマチョコがいて、大学に置いてあったパンフレットから申しこんだとはいえ、その偶然に驚いた。
マチョコは相変わらずの塩対応だったけど、話しかければ応えてくれた。山岳部の活動で必要だから、と免許を取る理由を教えてくれた。
この夏休みはまだ吉木と会っていないと言う。それで、吉木と一緒に幸多の誕生日会に来ないかと誘ってみた。マチョコは、「何であたしが」みたいな反応だったけど、翌日になって、「ジュンペーが空いてるって言うから」と渋々参加の意を表明してきた。そして、不承不承といった様子で私と連絡先を交換してくれた。
何とかスケジュール通りに免許を取得して、二週間ぶりに叶多の家に戻ると、蓮哉がすっかり馴染んでいた。こんな風に笑う子だったんだなと知って、初めて可愛いと思えた。
父親に対する実采や幸多の懐きっぷりもすごかった。父親は、蓮哉を迎えにくると、家に上がりこんでしばらく子供たちと床を転げ回って遊んだ後、蓮哉を連れて満足そうに帰っていくのだった。
いつもは末っ子で甘えている幸多が、蓮哉に対してはちゃんとお兄ちゃんをしていて、それを見るのも面白かった。私が知らなかっただけで、保育園では下の子の面倒をよく見ているのらしい。
実采は、会わない間に上の歯が抜けていて、ご飯が食べにくいと文句を言っている。かと思えば、幸多の歯がぐらぐらしているのを見て、まだ抜けちゃダメ、と謎の牽制をしている。実采と幸多の張り合いは当分、あるいは永遠に続くのだろう。それはもはや、愛おしい日常の一部である。
新は、イジメのことを叶多に話したと私に教えてくれた。夏休みに入る前、新と二人になった時に、イジメについて少し詳しく聞かせてもらった。でも私は、宮澤の助言に従って、新の気持ちに耳を傾けただけだった。新は自分の力で前へ進んだ。耳の上を刈り上げた髪型が涼しげで、私はまた一つ、子供の持つ強さを学ぶのだった。
***
幸多の誕生日は雲一つない晴天だった。
父親は、私たちがまだ朝食を取っているところに蓮哉を連れて現れた。肩から下げた大きなクーラーボックスに、前の晩のうちに仕込んだというスポンジ生地やら材料やらが詰めこまれていて、気合は十分だった。
私たちが朝食を終えるとすぐに、父親は作業を開始した。それを遠巻きに見ていると、陽咲に手招きされた。軽い気持ちでついていった私は、陽咲の部屋に入って目を見張った。
正面の窓のカーテンレールに、ワンピースが掛けられていた。手芸用品店で買った淡い水色のリネン地に、白いレースの襟が付いている。胸元には見事な刺繍があしらわれ、ウエストにはワンピースと同じ生地で作られたベルトが巻かれ、スカートの裾はふんわりとフレアになっている。促されるままに手に取ってよく見ると、半袖の袖口はゴムで絞ってあって、背中はファスナーになっていた。目立たないところに丁寧にポケットまで付いていて、洋服を一から一人で作ったのが初めてだとはとても信じられない出来栄えだ。高級なブティックで売られていても不思議ではない。
「着てみて」
と、陽咲は軽い口調で言った。
無理無理、と手と首を振って固辞したら、「せっかく作ったんだから着て」と怒られてしまった。それで、陽咲に着せられるままに恐る恐る足と腕を通した。陽咲が背中のファスナーを閉めてくれる。
ワンピースは膝丈で、全てがジャストサイズだった。それなのに、陽咲に指示されて恐々と身体を動かしてみたら、ちゃんと動きやすくできていた。
陽咲は私を部屋に残して一階に降りて行き、やがて叶多を連れて戻ってきた。
「見て。あたしが作った」
じゃん、という身振りで私が着せられているワンピースを示す。
「完成したのは知ってたけど……」
叶多はそこで言葉を詰まらせて、しばらくの間、口をポカンと開けてこちらを見ていた。
「どうしよう。ヒナタのこともユメちゃんのことも、どっちも抱きしめたい」
言葉を取り戻した叶多が、困ったように陽咲と私を交互に見て、
「そこはヒナちゃんでしょ」
「そこはユメちゃんでしょ」
と、私たちをハモらせた。
そうこうしているうちに呼び鈴が鳴って、玄関へ走っていく子供の足音がした。
「汚れたら困るし、一回着替えてもいい?」
陽咲に許可を求める。
「着替えちゃうの?」
と、叶多が名残惜しそうにしながら部屋を出ていった。
「いいけど後で写真撮らせてね」
と、陽咲は条件付きでワンピースを脱ぐことを許してくれた。生きた心地がしなかったからホッとした。
下から、「こんちはー」と吉木のよく通る声が聞こえてくる。
「おー、長谷川。ゆーちんは?」「え、見たい見たい」「いてっ、蹴ることねーだろ」と、叶多の声は聞こえないながらも、吉木の声だけで何が行われているのかが想像できた。
「吉木さんと仲直りできたみたいで良かったね、お兄ちゃん」
脱ぐのを手伝ってくれながらそう言って、陽咲はクスクスと笑った。
無事着替えを終えて下へ降りていくと、お茶の間に千尋が立っていた。私に気づいて、「よっ」と手を挙げてくる。
駆け寄って、千尋のことを抱きしめた。
「おう。お熱いねー」
吉木に軽口を叩かれたけど、千尋の髪の色の意味を知っている私には、そうせずにはいられなかった。
「あなたがチヒロさんなんですね。長谷川叶多です。ユメちゃんからよく話は聞いています」
自己紹介がまだだったのか、蓮哉を抱っこした叶多がマイペースに挨拶をして、
「あ、すみません、こんな体勢ですけど、川崎千尋といいます。お邪魔してます」
と、千尋が応じている。
「あ、チヒロさん、髪の色変わってる。モカブラウンですか?似合う」
私が千尋を解放した頃に、陽咲が二階から降りてきて朗らかに言った。
「え?ホントだ」
今頃気づいたらしい吉木が、マチョコに頭をはたかれている。
その後も来客が続いた。実采のクラスメイトだという男の子が五、六人来て、家じゅうを駆け回った。それから幸多の保育園の友達が母親に連れられて三組来て、一気に人が増えた。母親たちがお茶の間で子供たちを見守りながらおしゃべりに興じる傍で、父親は台所で黙々と作業を続けている。
私は最初、庭で千尋たちとバーベキューの準備をしていたのだが、食材を切りに台所に行ったら、父親を手伝うハメになった。
しばらくして、「ずいぶん賑やかね」と言いながら、叶多の叔母さんが二人の子供を連れて現れた。女の子の方は中学生くらいで、男の子の方は新と同じくらいだ。そういえば新がいないなと思っていると、同級生だと思われる女の子と一緒に現れて、陽咲に「ミコトに作ってあげてた魚のあみぐるみの作り方、後で教えてあげてくれない?」と頼んでいるのが聞こえた。
ここまで人が増えると、もう誰がどこにいるのか、そもそも誰が誰なのかすら分からないくらい、カオスだった。そこで、最低限、父親と蓮哉の挙動にだけは注意しておこうと心に決めて、汗だくで炭に火を付けるのに苦戦している千尋たちを尻目に、そのまま父親の手伝いを続けることにした。
それにしても、父親の段取りの良さには驚いた。同時進行で三種類のケーキを作っていて、鍋でチョコレートを溶かしていたかと思えば、卵白を泡立てて作ったメレンゲをクッキングシートの上に手際よく押し出していき、次の瞬間にはまた別のことをしていた。
「この方は、ユメさんのお知り合い?」
叶多の叔母さんは、幸多の友達のお母さんの会話に交ざりながら、チラチラこちらの様子を窺っていたかと思うと、好奇心に負けたように台所にやってきて私に小声で訊いてきた。
「父です」
紹介するタイミングを逃していた。
「まあ。凄いお父様がいらっしゃるのね」
感心したように、父親が透明なフィルムの上にチョコレートで模様を作っていくのを眺めている。
父親のことを褒められるのは、何だかくすぐったいような居心地が悪いような、変な感覚だった。
幸多たちと遊んでいた蓮哉にも聞こえたようで、こちらにやってきて、「僕のパパだよ」と胸を張った。
「あら、ユメさんの弟さんだったのね」
叶多の叔母さんの言葉に、蓮哉は少し変な顔をした。
当の父親は、すっかり没頭していてこちらの会話が耳に入っていないようだ。叶多の叔母さんも、しばらく興味深そうに見ていたけど、「邪魔しちゃ悪いわね」と元いた場所に戻っていった。
父親のケーキ作りがひと段落したので、途中になっていた食材を切り終えて、庭に戻って肉を焼き始めた。匂いに釣られて、二階でバタバタしていた実采たちが集まってくる。
裸足で庭に出ようとする男の子たちを、玄関で靴を履いて外から庭に回りこんでくるよう促していると、蓮哉を肩車した叶多がやってきた。
「レンヤくんが食べたいものはあるかな?」
叶多に問いかけられて、蓮哉が何やら指差しながら「とこもろち!」と答えた。叶多が「いいね。トウモロコシ食べるか」と応じて、蓮哉を地面に降ろした。蓮哉は幸多たちがいる方へ走って行った。
「思ったよりたくさん来てくれたな」
私の隣で叶多が呟く。
「うん。お父さんケーキ作りすぎじゃないかなと思ってたけど、意外とちょうどいいくらいかも」
「ユメちゃんのお父さん来てくれて助かったよ。すごいって叔母さんも感心してた」
言って回るくらい感心したのか、とまたむず痒いような気持ちになる。
「あ、ミコトの奴、自分が最初にもらう気だな」
先頭で紙皿を持って肉が焼けるのを待っている実采を見て、叶多が苦笑いする。でも、何かを思い出したように、その笑みを小さくした。
「ミコトのリュックの中にさ、ライターが入ってたんだ」
私にだけ聞こえるくらいの声で言う。
「ライター?」
聞き返すと、叶多は頷いた。
「前に籠城とか言って、ミコトが習字部屋に閉じこもったことがあったでしょ?あの時もしかして、最悪火をつけるつもりだったのかなって」
「え?!」
驚いて思わず声をあげた。
「いや、俺の勝手な想像だけどね。時代劇で城に火をつけるシーンあるじゃん。ミコト、時代劇よく見てるからさ。もしもそうだったらと思って、ものすごく肝が冷えた」
確かにあの時、実采は追い詰められていた。でも、叶多の思い過ごしだと信じたかった。
「だからさ、ミコトがご飯食べたりわがまま言ったりしてるの見ると、安心するんだ。ちゃんと生きようとしてるんだなって思えて。情けない兄ちゃんだな、俺は」
叶多の腕を抱きしめた。取り返しのつかないことになっていたかもしれないという実感が胸に押し寄せて、鳥肌がたった。
「ごめん、変な話して。こんな話、ユメちゃんにしかできなくて」
首を横に振った。叶多がそれを吐き出せる相手になれて、良かったと思った。
「おいおいおい、イチャついてねーで手伝えよ、長谷川」
吉木に見咎められてしまって、叶多も焼く側に回った。
バーベキューが終わった後は、ケーキの用意ができるまで思い思いの場所へ散らばった。叶多は、幸多にせがまれて、子供が十人くらい入れそうなビニールプールを汗だくになりながら膨らませている。
「兄ちゃん兄ちゃん」
そこへ実采が走ってきた。
「オシュージして!オシュージ」
叶多が疲れたように額の汗を腕で拭う。
「今?」
「ワタルくんもリクくんも、墨ゴリゴリするのやりたいって」
それを聞いて、習字のことかと納得する。
「あ、お前、墨触ったな」
実采の手を取って、叶多が笑いながら怒った。手が黒くなっている。
「みんなも手真っ黒か?後でやるから、何にも触らないで手洗ってきて。石鹸でね。友達もだよ」
「分かったー」
実采が走り去っていく。この暑いのに元気だ。
「ホント大変だなー、お前」
バーベキューの片付けをしている吉木が、その様子を見て同情するように言った。
「まあね。でも、そう悪くないよ」
「うっわ、大人ー」
叶多の顔が暑さで真っ赤になっているのに気づいて、クーラーボックスからスポーツ飲料を取り出して手渡したら、
「ユメちゃんにこんなこともしてもらえるしね」
と、叶多が勝ち誇ったように吉木に見せびらかした。別に火種を作りたかったわけではないのだけど。
「あれ、ゆーちん、俺のは?俺も汗だくよ?」
吉木が鬱陶しく絡んできて、マチョコにまた頭をはたかれている。
叶多がプールを膨らませ終えたタイミングでケーキの用意ができたようで、子供たちが騒ぎ始めた。
「カメラ、カメラ」と叶多が家の中に駆けこんでいく。
千尋たちと一緒に中に入ると、陽咲がスマホで写真を撮っているところだった。
「え、すご」
横で千尋が驚きの声をあげる。
テーブルの上に、五種類のケーキが所狭しと並べられている。幸多の目の前には、幸多が好きなアニメキャラクターをかたどったケーキが置かれていて、他には、メレンゲ菓子が配置されたブルーベリーのショートケーキ、チョコレート細工があしらわれたチョコレートケーキ、オレンジやキウイ、パイナップルなど色とりどりのフルーツが乗ったフルーツタルト、そしてシンプルなレアチーズケーキがある。
「これ、ほとんど全部ここで作ったんですって。すごいわねえ、あなたのお父様」
叶多の叔母さんが私に気づいてまた褒めてきた。
ろうそくに火を灯して、定番のバースデーソングを歌った後、プレゼントの受け渡しが行われる中、ケーキを切った。何をどう計算したのか、叶多に言われた通りに切ったら、全員が二種類のケーキを受け取れるように分けることができた。
私は千尋と四種類のケーキを分け合った。食べながら、千尋から聴覚障害児との交流会に行った話を聞いた。子供の多くが手話を使えなかったようで、手話を覚える以上に伝えようとする熱意が大事だということを学んだという。そして、言葉の発音に不自由しながらも、懸命に何かを伝えようとしてくる子供たちの姿に胸を打たれて、サポートに行ったつもりが逆に励まされた気がすると、千尋はしみじみと語った。夏休みを経てますます世界を広げていく友達が眩しくて、私も頑張らなきゃなと思った。
ケーキの評判は上々で、みんなから口々にお礼を言われた父親は、上機嫌で縁側にどっかりと腰を下ろした。
「久しぶりに作ったけどよぉ、手が覚えてんだなぁ」
隣に座った私に、興奮したように話しかけてくる。
「お父さんがケーキ作ってるとこ、久しぶりに見た」
こんなに穏やかな気持ちで父親と話すのは、いつ以来だろう。
「ユメが小さい時ぁ、よく作ってたなぁ」
学校から帰ってきて、家の前で甘い匂いがしてくると、ワクワクしたものだった。
「何で作らなくなっちゃったの?」
いつからか父親は、家でケーキを作らなくなった。
「そりゃあ、お前がよぅ、もう作らないでっつったからだ」
「え?わたしそんなこと言った?」
聞き返しながら思い出した。父親がケーキを作るのをやめれば、恵梨香が家に来ることもなくなると思ったのだ。私は、恵梨香に父親を取られたくなかった。
「もったいないね、お父さん」
こんな才能を眠らせているなんて。
「またケーキ屋さんで働いたらいいのに」
まだ四十代だろう。技術を持っているのだから、働き口はいくらでもあるはずだと思った。
「もうケーキ屋では働かねぇよぉ」
父親は、うんざりしたようにその可能性を否定した。
「俺ぁよぉ、ケーキで金取んのは嫌だったんだよ。何かよぉ、幸せを金で売るみてぇでよぉ」
そう言って黙ってしまった。私もそれ以上は言わなかった。こうやって目の前の人のためにケーキを作るのが、父親らしいと思ったから。
ケーキを食べた後は、みんなで写真を撮る流れになった。恐ろしいことに、私はまた陽咲が作ったワンピースを着せられることになった。
外に出て写真を撮ろうとした時、カメラを手にした叶多が、「あれ?お父さんは?」と聞いてきた。さっきまで座っていた縁側にはいない。お手洗いだろうかと言って待っていると、大きな帽子を被った女が庭に入ってきた。
それは恵梨香だった。リゾートにでも行っていたのか、胸元のざっくり開いた派手なワンピースを身に纏っている。彼女に続いて、父親がスーツケースを手に現れた。
「あ、ママ!」
蓮哉も気づいて、恵梨香の方に駆け寄っていく。
「何でこんなところにいるわけ?」
サングラスを取った恵梨香が、尖った声で父親に尋ねた。
「いやぁ、あのよぉ、誕生日会でよぉ」
のんびり話す父親に、恵梨香が目に見えて苛立っている。蓮哉の頭をひと撫でしてから、大股で私の方に近づいてきた。
「え?え?もしかして本栖恵梨香?」
驚いている吉木を横目でじろりと睨んで、恵梨香は私の前で立ち止まった。
「ユメちゃん、全然家に帰ってこないって聞いたけど、こんなところに入り浸ってたんだ。今度はちゃんと家賃払ってるの?」
場の空気などお構いなしで、嫌味たっぷりの口調で言う。
「こんな可愛い服着ちゃって。ユメちゃんって、もっと地味な格好が似合うのに」
「触らないで」
ワンピースに手を伸ばして来たから、思わずキツい声を出してしまった。それが恵梨香をますます怒らせたのが分かった。
「ねえ、ひょっとしてあんたの誕生日会なの?こんな真ん中に立っちゃって、お友達も随分いて楽しそう。あたしはあんたの父親に人生狂わされたっていうのに!」
「エリカちゃん、ちょっと」
子供もいる前でやめてほしいと思ったけど、恵梨香は止まらない。
「昔から気に食わないんだよ。ヘラヘラヘラヘラして、見てるだけでムカつく。馬鹿なくせにあたしに気安く話しかけて来てさ。あんたが話しかけてこなければ、あたしはレンーー」
「エリカちゃん!」
続く言葉が分かって、大きな声で遮った。蓮哉が聞いている。
恵梨香が手を振り上げた。ぶたれるのを覚悟したけど、それより先に父親が恵梨香の手を掴んだ。
「俺んこたぁ悪く言っても良いけどよぉ、ユメんこたぁ悪く言うんじゃねぇよぉ」
「そ、そうだぞ!」
吉木が応戦する。
「何があったか知んねーけど、いやウソウソ、何となく想像ついたけど、ゆーちんはぜってー悪くねーし。つーか、ゆーちんはお前なんかとわざわざ仲良くしてくれてたんだろ!」
「何なの!あたしが悪いって言うの?」
「悪いだろ。謝れよ。昔いじめてた分も全部、謝れよ!」
「吉木くん、もういいーー」
私が言葉で止めようとしていると、蓮哉が恵梨香を庇うように吉木の前に立ちはだかった。
「ママをいじめないで!」
吉木がハッとしたように口を閉じた。圧縮された沈黙が流れる。
「偉いなぁ、レンヤくんは」
沈黙を破ったのは叶多だった。
「エリカさん、初めましてですよね。僕は長谷川叶多といって、ユメちゃんとお付き合いをさせていただいています。レンヤくんは、あまりにも可愛いので僕がここに連れてきてしまいました。勝手なことをしてすみませんでした」
そう言って、恵梨香に向かって深々と頭を下げた。蓮哉が、頭上の会話を見上げて、不安そうに目をキョロキョロさせている。
「今日は僕の弟の誕生日会で、今からみんなで写真を撮るところなんです。良かったら、ユメちゃんのご家族として、一緒に写りませんか?」
にこやかに恵梨香を誘った。恵梨香が入るわけがないだろうと思ったけど、それも叶多の計算なのかもしれない。
「家族なわけないでしょ。帰るよ、レンヤ」
恵梨香は声を荒げることなく、あっさりと引き下がった。
「そうですか。残念です。楽しかったな、レンヤくん。またね」
恵梨香に手を引かれてつんのめりそうになりながら、蓮哉が叶多に向かって小さく手を振る。そのまま恵梨香はスーツケースを引いて帰っていった。まるで嵐が通り過ぎた後のように、みんな固まってしまっている。
「さあ、写真を撮りましょう、と言っても、難しいですよね」
叶多が笑って言う。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「な、何だったの?さい、再婚してらっしゃるということ?随分お若かったですけど」
叶多の叔母さんが、混乱した様子で私と父親を交互に見ながら尋ねてくる。
「別にいいじゃん。そんなこと、どうでも」
陽咲が助け舟を出そうとしてくれる。
「どうでも良くないわよ。だって、ユメさんはカナタくんとお付き合いしているのよね。そのお父様なんだから、カナタくんの親代わりとしては知っておかないとダメだわ」
「いや、俺ぇ、ユメの父親じゃねぇんです」
急に父親が言葉を発したからギョッとした。その嘘に二度びっくりした。
「あ、本当のお父様ではないとか、そういう……?」
叶多の叔母さんが、何とか辻褄を合わせようとしている。
「じゃあ、俺ぇ、帰ります。ケーキも作ったし、疲れちまった。じゃあなぁ、ユメ」
「なっ」
こんな状態で置いていくなと思った。
「すみません、わたしたちのことは気にしないでください」
そう言い残して、父親の後を追った。
靴を手に家に上がった父親は、台所に置いていたクーラーボックスを肩に担いで、玄関へと歩いていく。
「ちょっと待ってよ、お父さん」
そう声をかけたら、父親は顔だけ振り向いた。
「おう、悪かったなぁ」
「悪かったなぁじゃなくて。父親じゃないって、どういうつもりであんな嘘言ったの」
父親が玄関に靴を落とす。答えないつもりかと思ったら、靴を履いてこちらに向き直った。
「俺ぇ、お前の邪魔しかできねぇだろぉ。俺が父親だとぉ、お前ぇ、迷惑なだけだろぉ。だからよぉ、もう、俺のことぁ、親だと思わなくていいからよぉ、カナタと幸せに生きろよぉ」
「な、何言ってんの?」
本当に何を言っているのか理解できなかった。それなのに、なぜか涙が込みあげてきた。
「何で泣くんだよぉ。俺がいなくなったら嬉しいだろぉ。ああ?笑えよぅ」
「嬉しいよ!そんなの清々するに決まってんじゃん。わたし、お父さんのことなんか、大っ嫌いなんだから」
後から後から涙があふれて、ワンピースの胸元を濡らした。
「そぉだろぉ。俺といるとよぉ、ユメは怒ってばっかりだもんなぁ。ここだとお前ぇ、楽しそうだもんなぁ。俺ぇ、お前が幸せなのが一番だぁ」
父親は満足そうに笑って、再び私に背を向けた。そのTシャツの背中を掴んで引き留めた。
「言ってくれなきゃ分かんないじゃん。言葉にしなきゃ、何考えてんのか全然分かんないよ。わたし、お父さんはわたしのこと、大事じゃないんだと思ってたよ」
ひどい言葉をたくさん投げつけたのに、こんな娘の幸せをまだ願ってくれていたなんて。
「そんなわけないだろぉ。俺ぇ、お前のこと大事じゃねぇなんて、いっぺんも言ったことねぇだろぉ」
父親が再び振り向いたから、掴んだTシャツが手から離れた。空っぽになった手が、心細さを訴える。
「だって、お父さん、わたし以外の人にばっかり優しくして、わたしのもの勝手にあげちゃって、そんなことされたら、大事にされてるなんて思えないよ」
お父さんとの共通言語をあまりにも失っていて、何をどう話せば伝わるかも分からなくて、それでも私は、手探りをするように話し続けた。
「何でそんな誰にでも優しくするの?お父さんがそうしろって言うから、わたしにこんな名前付けるから、わたしも頑張ったけど、何にもいいことなかったよ」
恵梨香に優しくしなければ良かった。恵梨香の言う通り、私が彼女に話しかけなければ、恵梨香が家に来てお父さんに会うことはなかった。お母さんがあんなに苦しむこともなかったのに。
「ごめんなぁ」
まるで自分が全部悪いというみたいに、お父さんは謝った。
「俺ぇ、馬鹿だからよぉ、そういう風にしかできねぇんだよ」
全部が間違いだったというみたいに言った。
「金もなぁ、出せ出せ言って悪かったなぁ。俺ぇ、家売るわ。俺よぉ、初めてでよぉ。出てけって言われない家ぇ、マサミが俺に初めて買ってくれてよぉ。だけど、しょうがねぇよなぁ。レンヤに金が要るもんなぁ」
後半は独り言のように呟きながら、背を向けて、私から遠ざかっていく。今離れたら、もう二度と会えないような気がした。
「置いてかないでよーー」
靴を持ってこなかったから裸足でたたきに降りようとしたら、ガラス戸を開けたところでお父さんは立ち止まった。戸の向こうに叶多が立っていた。
「おう、ユメのこと頼むなぁ」
そう言って横をすり抜けようとするけど、叶多が通れないように立ち塞がっている。
「通してくれよぉ」
強引に押し通ろうとして無理だったのか、お父さんが困ったような声を出した。
「僕、お父さんに、ユメさんを泣かしたらタダじゃおかないって言われました」
「いやぁ、それは言ったけどよぉ。何で泣いてんのか分かんねぇんだよぅ。俺と縁切れたらよぉ、嬉しいはずだろぉ」
何で分からないんだと腹が立った。
「ユメさんはお父さんのことが大好きなんです。だから、お父さんに縁を切るなんて言われたら、悲しくて泣くに決まってるじゃないですか」
叶多は、こちらが戸惑うくらいシンプルな言葉で、私の涙の訳を説明した。
「いやぁ、だって今ぁ、大嫌いって言われたぞ」
お父さんが狼狽えたように私を指差して反論する。
「嘘ですよ、そんなの。子供が拗ねた時によくつく嘘です。僕もしょっちゅう弟に言われる。そんな言葉一つで、娘を置いていくつもりなんですか?」
「いや、俺ぇ、ユメに幸せになってもらいたくてよぉ」
「それは知ってます。でも、お父さんに縁を切られたら、ユメさんは絶対に幸せになれません」
叶多の剣幕に押されるように、お父さんが一歩、二歩と家の中に後ずさってくる。叶多が後ろ手で戸を閉めた。
「何でそんな簡単に離れようとするんですか?僕はもう、自分の親に、会いたくても会えないのに」
ハッとした。私はお父さんに対する拒絶の言葉を口にすることで、叶多のことをずっと傷つけ続けてきたのかもしれない。今頃になってそう思い至った。
「いろんなことがあったのは知ってます。ユメさんがそれで苦しんだのも。でも、終わらせる理由になんてならないでしょ。お父さんは、一生ユメさんのお父さんで、親子の縁を切ることなんか絶対にできないはずだ」
新しい涙がまた一つ、頰を伝い落ちた。叶多は私に、逃げることは許しても、諦めることは許してくれなかった。それは、知っているからだ。別れも言えずに唐突に終わってしまうことがあることを。
「ケーキ、本当に美味しかったです。お金を払おうとしても、喜んでもらえたらそれでいいからって、受け取ってくれなくて。僕、お父さんのそういう不器用で優しいところが、大好きです。もしもユメさんと家族になれるなら僕は、お父さんとも家族になりたい」
「お、俺ぇ、俺もぉ、お前のこと好きだぞぉ。だってぇ、ユメに愛をくれるってよぉ、ユメのこと守るってよぉ、言ってくれたもんなぁ」
お父さんは何度も、遠い日の叶多の言葉を口にするのだ。
「ありがとうございます。恐れ知らずの生意気なガキだった僕の言葉を、ずっと覚えていてくれて。その約束を守るためにも、お父さんをこのまま行かせるわけにはいかないんです」
叶多に至近距離で見つめられて、お父さんが怯んだようにまた一歩私の方へ後ずさってきた。
「お父さんも、約束してくれませんか。もう二度とユメさんと縁を切るなんて言わないって。お父さんの優しさは、もしかしたら時々ユメさんを傷つけることがあるかもしれない。でも、その時は僕がユメさんのそばにいて、泣かせないようにするから。もし僕がそばにいれなくなっても、僕以外の誰かにそう誓わせるから」
叶多の掴みかからんばかりの迫力に、お父さんがまた一歩後退して、私の手の届くところまで帰ってきた。
「おぉ、そうかぁ。そこまで言うんだったら、そうだなぁ。本当にいいのかぁ?俺が父親のままでぇ」
振り向いて私に尋ねてくる。
「いいに決まってるよ。わたしの親はもう、お父さんしかいないんだよ。お母さん、死んじゃったんだよ」
言いながら、嗚咽が漏れそうになった。私は初めてお母さんの死をちゃんと悲しんでいるのかもしれない。生きていればまたやり直せたかもしれないのに。
「ごめんね。わたしがお父さんをそこまで追い詰めたんだね。ひどいこといっぱい言ってごめん」
「な、何でユメが謝るんだよぉ。お前は何も悪くねぇだろぉ。何だよぅ、泣くなよぅ」
バシバシと腕を叩いてくる。お父さんが動く度にクーラーボックスが脛にぶつかって、両方とも結構痛い。
「はい、お父さん振り向いて」
叶多の声に何事かと顔を上げると、シャッター音が鳴った。いつの間にか叶多がカメラを構えている。逆光で見えなかったけど、ずっと首から下げていたのらしい。お父さんは叶多の迫力に気圧されたのではなくて、カメラによって物理的に押されていたのかもしれない。そう思ったら、おかしくて吹き出してしまった。
「あ、いいねぇ。お父さんも笑って」
唐突な撮影会が始まって、「もう顔ぐちゃぐちゃなんだからやめてよ」と怒っても、さらに三枚くらい撮られた。
お父さんは結局、明日朝早いとかでそのまま帰っていった。先ほどの集合写真は、私たち抜きで一枚だけ撮って、後はまたそれぞれの場所に散らばったのらしい。叶多の叔母さんは何やら都合よく解釈してくれたようで、複雑な関係なのに口を出して悪かったわねぇとむしろ反省していたそうだ。
二階で慎重にワンピースを脱いで、汚れてもいい服に着替えて庭に出ると、幸多たちがプールを楽しんでいた。吉木たちもホースから水を出して足だけバチャバチャやっている。千尋が私に気づいて駆け寄ってきた。両手をギュッと握ってくれる。幸多の友達の母親たちと話していた叶多も、こちらにやってきた。
「俺、ミコトに頼まれたから習字部屋行ってくるね。何かあったら声かけて」
そう言って家の中に入っていった。
「大丈夫?」
千尋が心配してくれる。吉木とマチョコもこちらにやってきた。
「うん。ごめんね、すごい空気にしちゃって」
「それはいいけどさ」
四人で縁側に座った。バーベキューのお礼とせめてものお詫びにと、冷凍庫に入れていたアイスキャンディーを振る舞う。
「いや、すげービビったわ」
吉木がまだ余韻を引きずっているみたいに言って、マチョコに「うるさい」とはたかれている。マチョコは今日ちょっと吉木のことをはたきすぎじゃないだろうか。
「まあ、ご想像の通りだよ。父親じゃないとか言ってたけど、あれは嘘。うちの父親さ、さっきのエリカちゃんーーわたしの小学校の時の同級生なんだけど、エリカちゃんを中二の時に妊娠させて。生まれた子がレンヤくん。父親は一緒に暮らしてないってか、結婚もしてないんだけど、エリカちゃんが旅行に行くとかでここ何週間かレンヤくんのことを預かってたんだ。まさか今日迎えにくるとは思わなかった」
そう説明した。しばらく誰も何も言わず、しゃりしゃりとアイスを齧る音とプールで騒ぐ子供たちの声だけが聞こえていた。
「やっぱ黙ってらんねー。ひでー話だな!自分が何週間も子供預けといて、あんな人攫いみたいな言い方ねーし!ホントあいつ、嫌な女っぷりにますます磨きがかかってるわ。てめーがゆーちんに嫉妬してるだけだろ!」
吉木が耐えかねたように捲したてた。
嫉妬か、と思った。あんなに可愛い子供がいるのに、恵梨香は自分の幸せを感じられないのだろうか。そう思ったら、少し可哀想な気がした。
「ありがとね、吉木くん。さっきは庇ってくれて。でも、やっぱり悪いのはうちの父親だし、エリカちゃんがああいう風に言うのも、間違ってはないと思うんだよね」
「それでもーー」
吉木が反論しかけて、堪えるように言葉を飲みこんだ。
「吉木くん、わたしのことすごいって言ってくれたでしょ?毎日挫けずにエリカちゃんに挨拶して、最後は仲良くなったって。違うんだよ、本当は。わたし、エリカちゃんと仲良くなったことなんてないの。エリカちゃんがうちに遊びにきてたのは、わたしの父親に会うためだったんだ。否定しなくてごめんね」
「そんなこと……」
吉木は一瞬躊躇いを見せた後で続けた。
「そんなことねーよ。それでも、ゆーちんが無視されても挫けずに挨拶し続けたのは事実だし。俺、それ見てゆーちんのこと、すげー奴だって思ったんだし」
吉木にそう言ってもらえて、心が少し軽くなった。私は思っていた以上に吉木に対して負い目を感じていたみたいだ。
「わたしの母親はね、二年前に死んじゃったんだけど、本当は強い人だったんだよ」
私がもし、吉木の言う『すげー奴』だったのなら、それはお母さんのおかげだ。
「自分で決めたことは最後までやりなさいって言うのが、口癖だった」
強かったから、ボロボロになるまで闘ったのだ。
千尋が私の背中を撫でた。涙腺が馬鹿になってしまったみたいだ。涙がどんどん溢れ出てくる。
「情けないな、わたし。お母さんにそうやって育ててもらったのに、すぐに投げ出そうとして。大学に行くのも、カナタくんのことも、お父さんのことも、わたし一人だったら、きっと投げ出してた」
何てダメな人間なのだろう。私はずっと同じ場所をぐるぐると回っている。
「でも、結局投げ出さなかったじゃん」
千尋が私の背中に手を当てたまま言った。
「ユメちゃん、『記憶の変容』について習った時、思い出す度に記憶が変わるなんて嫌だって言ったの覚えてる?」
そう問われて頷く。叶多と同じ思い出を共有していないのかと思って、寂しくてたまらなくなったのだ。
「教科書には、辻褄を合わせるように記憶を変容させる、なんて書いてあったけど、あれさ、思い出す度に、自分の血肉になるように進化させていくってことなんじゃないかなって、思った」
私が理解できていないのが分かったのか、千尋は言葉を探すように目を落とした。
「最初にインプットされた情報は、そのまんまの形じゃあんまり意味がなくてさ、自分の中のいろんなものと混ぜ合わさることで初めて、自分だけの価値のあるものに昇華するんじゃないのかな。でさ、そのためには、忘れる必要があるんだよ。一回忘れて、新しい気持ちで解釈し直すっていうのが、きっと大事なんだよ。
だから、もしお母さんに言われたことを忘れちゃってたとしても、それは心に染み込ませるための大事なステップなんだ。思い出したことによって、ユメちゃんはお母さんの言葉を、より深く理解できるようになったんだよ」
言いながら納得したように、千尋は一つ頷いた。
「やっぱりすごいな、チヒロちゃんは」
宮澤は私のことを研究者に向いているのではないかと言ったけど、千尋の方がよっぽど向いていると思う。
「ありがとう。チヒロちゃんにもらった言葉は全部、大事な宝物だよ。この先も何回も思い出して、心に刻まれていくんだと思う。チヒロちゃんと仲良くなれて、本当に良かった。新入生ガイダンスで振り向いてくれてありがとう。わたしからは多分話しかけられなかった」
改めて感謝を伝えたら、千尋は「めっちゃ金髪だったからね、私」と笑った。
髪の色は関係なかっただろうと思う。あの時の私は、自分から誰かに話しかけるような前向きさを、すっかり失っていた。
「ありがとうは私の方だよ」
ガイダンスの時のことを思い返していた私に、千尋はポツリと言った。
「ユメちゃんがいつも私の話を真剣に聞いてくれたから、自分はまだやれるって思えた」
長袖からチラリと手首の傷跡を覗かせた。
「あの時さ、振り向くのめっちゃビビってたんだよね。金髪ってだけで拒否反応起こされたらどうしよって。でも、うん、振り向く勇気が出せて良かった。大好きだよ、ユメちゃん」
千尋と愛を伝え合って、二人で笑った。
「いいよね、その髪」
マチョコが、千尋の向こうで呟くように言った。
「すごく似合ってる。何か私、自分は何で金髪にしてるんだっけって、思っちゃった」
千尋が嬉しそうにマチョコの腕を組む。
「マチョコもこっち側に来なよ。何回も染めなくていいし、楽だよー」
マチョコの後ろで金髪の吉木が身を乗り出すのが見えた。
「何かピンクとかも似合いそーだよな、マチョコ」
そんな空気を読まない発言をした吉木に、千尋が立ち上がって蹴りを入れている。
陽が傾き始めた頃、幸多の友達とその母親たちがぞろぞろと帰って行って、叶多の叔母さんとその子供たちがそれに続いた。見送るために習字部屋から出てきた叶多は、濃紺の浴衣に淡い水色の帯を締めていて、よく似合っている。
それから程なくして、習字部屋から実采たちが飛び出してきて、二階へと駆け上がっていった。友達が帰ってしまった幸多が乱入して、飽き始めていたところにトドメを刺したのらしい。
浴衣姿の叶多は、無人になったプールで吉木が一人でバチャバチャやっているのを、しばらく冷めた目で眺めていたのだが、結局巻きこまれて、「脱がすな、脱がすな」と叫びながら全身びしょ濡れになっている。
するとその声を聞きつけた実采たちがドタドタと降りてきて、服を着たままプールに飛びこんでいった。叶多は、子供たちと思いっきり遊んだ後、「はい、プールおしまい!」と空気を抜いてしまった。実采たちは一瞬名残惜しそうにしたけど、次の瞬間にはテンションを回復させて、ずぶ濡れのまま外へ駆け出して行った。
叶多と吉木がビニールプールを片付けているのを、手伝う体力もなく縁側に座って見ていると、新が女の子と一緒に二階から降りてきた。
「お邪魔しました」
女の子は家の中から叶多に向かって行儀よく挨拶した。
「あ、リサちゃんだったよね」
叶多が数歩の距離を駆け寄ってきて確認する。
「はい」
「ごめんね、俺こんなびちょ濡れで。いつもは濡れてないんだけど」
叶多が、ウケを狙ったのか何なのかそう言って、吉木だけがツボに入ったようだ。
「編み物か何かやってたの?」
気を取り直したように叶多が尋ねる。
「はい。あみぐるみの作り方をヒナタさんに教えてもらいました」
「うまくできた?」
「うーん」
女の子は小さく首を傾げた。天然なのかわざとなのか、シナを作っているように見える。話し方も少し舌足らずだ。
「上手だったじゃん」
答えに困っている様子の女の子を、新が優しくフォローする。
「アラタと仲良くしてくれてありがとうね。夏休みはどこか行ったの?」
叶多がさらに問いを重ねた。
「あー、塾に行ってました」
「そうなんだ。受験するの?」
「はい、んー、女子校に行きたくて」
「そっか。男子は嫌?」
「そういうわけではないんですけど」
女の子が新の方をチラッと見た。
「兄ちゃん、もういいでしょ」
新が助け舟を出す。
「ああ、うん。勉強忙しいだろうけど、良かったらまた遊びに来てね」
「はい、お邪魔しました」
女の子は再びシナを作って、帰っていった。
「すっごい女子力。私も見習お」
彼らがいなくなってから、千尋が女の子のお辞儀の仕方を真似する。
「多分、意識してないんだよ、あの子」
叶多はそう呟くように言った。
千尋たちは夕方のチャイムを聞いて帰っていった。入れ違いに実采たちが戻ってきて、実采の友達は習字をした半紙やら荷物やらを回収すると、あっという間に退散した。
全ての来客が帰って、お茶の間で兄弟五人とホッと一息ついた。
「あー、疲れた」
畳の上に大の字になった叶多の上を、実采と幸多が取り合う。いつかも見た光景だ。だけど、新に目配せをされて、実采は幸多に譲った。そんな実采の頭を、叶多がグリグリと撫でている。
陽咲は、二階から巾着袋を持って降りてきて、溢れんばかりに入っている色とりどりのニモのあみぐるみを私に見せてくれた。さっきまで、新の友達と従姉妹に作り方を教えてあげていたのだという。
「コウタ、楽しかったか?」
叶多が誕生日の弟に尋ねた。
「うん。あのね、ケーキがおいしかった!」
可愛いえくぼを浮かべて幸多が答える。
「美味しかったなぁ。あんな立派なケーキはなかなか食べられないんだぞ」
「兄ちゃん、花火しよ」
幸多の興味は既に次に移っている。
「花火は、晩ごはん食べて、もう少し暗くなってからなぁ」
ぐったりして動こうとしない叶多のことを、幸多がバシバシと叩いた。
かと思えば、今度は実采が何かを思いついたように急に立ち上がって、二階へと駆け上がっていった。ものの数秒で戻ってくる。
「これ何?奥の机の中にあった」
新に何かを見せている。
「奥の机だったら兄ちゃんのだよ」
新が寝そべったままの叶多を指差したので、実采は振り向いて叶多の顔の上にそれをかざした。
「おー、懐かしいの持ってきたなぁ」
叶多はそれをひと目見ると、興奮した声を出して、幸多を抱きかかえたまま起き上がった。
「ヒナタ、これ覚えてる?」
実采から受け取って叶多が陽咲に見せる。木でできた彫刻のようだ。翼を広げた鳥の形をしている。
「何それ。……あ、お父さんが作ったやつ?」
陽咲の言葉に、叶多が大きく頷く。
「うん。ヤジロベエだ」
弾んだ声で言った。
「ヤジロベエ?」
叶多の膝の上で、幸多がおうむ返しにする。
「そう。ヤジロベエっていうおもちゃだよ。さすがにアラタはちっちゃかったから覚えてないよな」
叶多は後ろにいる新を手招きして輪の中に入れた。
「ほら。こうやって乗せると、グラグラするけど落っこちないだろ」
説明しながら、鳥のクチバシの部分を新の人差し指の腹に乗せる。叶多の言う通り、鳥の彫刻は、クチバシの先しか支えられていないのに、グラグラしながらも水平に不思議なバランスを保っている。叶多が翼の部分をつついても、揺れが大きくなるだけで、新の指先に乗っかったまま落ちない。
「父さんが作ったんだよ。俺がどんぐりで作ったヤジロベエをヒナタに見せてたら、もっとすごいの作ってやるって。何でも本気でやる人だったな」
叶多はそう回想した。新は、自分の指の上で鳥の彫刻がゆらゆら揺れるのを、口を開けて眺めている。
「結局ヤジロベエって何なわけ?」
陽咲が、湿っぽくなるのを嫌ったのか、話を逸らした。
「どんぐりのもそれもヤジロベエって言われて、あたし混乱してたんだけど。全然違うじゃん」
少し怒っているような声だ。そうすることで別の感情を隠しているのかもしれない。
「え?小学校の理科の授業で習わなかったか?」
陽咲が首を横に振る。新も同じように否定した。叶多が縋るような目でこちらを見てくるので、「わたしは習ったよ」と彼を援護した。ジェネレーションギャップということで片付きかけたところに、叶多が「ヒナタはどうせ授業聞いてなかったんだろ」と決めつけて、妹を怒らせた。
「どんぐりのもこれも、倒れたり落っこちたりしない原理は同じなんだよ」
叶多が優しい口調に戻って陽咲に言った。
「地球上のものは全部、重力によって下に引っ張られてるよね。だから俺たちは宙に浮かないし、物も下に落ちるんだ」
叶多は新の手からヤジロベエを取って、右手から左手に落としてみせた。
「それから、物を支える点を支点といって、この鳥は今、ここが支点になってる」
今度は自分の指の上に載せて、クチバシの先を指差した。
「物に対して支点が小さければ小さいほど、普通は不安定になるよね。例えば、その編み針を縦に置くのは難しいだろ。それは、重力がかかる方向と支点がズレやすいからなんだけど」
急に理科の授業を始めた兄の膝の上で、幸多はウトウトしている。
「この鳥の場合は、左右の翼の重さがほとんど同じで、かつ胴体よりも重たくて低い位置にある。こういう時、重心は支点の真下にあるんだ。この状態で右に傾けると、重心の位置が上に上がることで、そこに重力が働いて、重心を元の低い位置に戻そうとする。その反動で今度は左に傾くから、今度は逆方向に戻ろうとする力が働く。こうやって、片方に力がかかった時にそれを打ち消す力が働くことで、バランスを保つことができるんだ。こういう原理のものをヤジロベエっていうんだよ」
叶多はそこで初めて陽咲が耳を塞いでいるのに気づいて、苦笑いした。
「ジューシンって何?」
そう尋ねたのは実采だった。はりきって重心の説明を始めた叶多に、陽咲は「きも」と容赦ない。実采が話についていっている様子なのが驚きだ。
ふてくされた陽咲を宥めながら、叶多の指の上で揺れる木製の鳥を眺めていた。子供の頃、ヤジロベエの何が面白いのか分からなかった。ゆらゆら揺れるだけでどっちにも傾かないのが、はっきりしない感じがして好きじゃなかった。でも今、ヤジロベエから目が離せない。
ああそうか、と思った。私たちはヤジロベエでいいのだ。
覚えて、忘れて、また思い出して。掴んで、諦めて、諦められなくて。迷って、決めて、それでも迷って。そうやって私たちは、自分の中の軸を知るのだ。もしも形が変わって、軸が変化しても、揺れながらまた見つけていけばいい。そう思ったら、消し去りたい記憶も、ぐるぐる回っている自分も、少しは受け入れられる気がした。
「おなかすいた!」
起きた幸多が大きく動いた弾みで、叶多の指先からヤジロベエが離れて、両翼を立てた状態で床に落ちた。
「支点が変わっちゃったよ!」
実采が慌てた声を出す。
「支点が二個になったから安定したな」
叶多にそう言われて、実采はしばし考えこんでから、
「グラグラしてた方が面白い!」
と、閃いたように人差し指を立てた。
晩はピザを取ることにして、出前を待つ間、家の中を片付けて回った。
「さっきはごめんね」
子供部屋で散乱したものを整理しながら、陽咲に先ほどの恵梨香の発言を謝った。恵梨香は、陽咲が私のために作ってくれたワンピースを、似合わないと酷評した。
「いろいろあって、あの人はわたしのことを悪く言いたかっただけだからね」
念を押す私に、陽咲はにっこりして「全然気にしてないよ」と言った。
「あたしはユメちゃんによく似合ってるって思ったし。デザイナーはそう簡単に人の意見に左右されないんだよ」
後半は冗談めかすようにして、照れたように笑った。本当に強くなったなと思った。
「あたしのことより、ユメちゃんは大丈夫なの?」
逆に私のことを心配してくれる。
「言いたくなかったらいいけど、あたしにもいつか、ユメちゃんが抱えてること、教えてくれたら嬉しい。好奇心とかじゃなくってさ、知ってたらちゃんと庇えるかもしれないから。ほら、叔母ちゃんとか何でもズケズケ訊いてくるからさ」
躊躇いがちに話す陽咲の、気遣うような表情が、ドキッとするほど美しくて、なぜか無性に寂しくなった。
「ありがとう。後で話すね。ドロドロした話だからヒナちゃんの耳に入れたくないと思ってたけど、ヒナちゃんももう子供じゃないもんね」
ランドセルを背負って、親の愛情を求めていた少女は、思い出の中にしかいない。
「そうだよ。あたしもう大人だよ。でも、たまには甘えるからね」
甘えるの?と尋ねたら、ギュッと抱きついてきた。いつかこの子を思いっきり甘やかせてくれる誰かが現れることを、寂しさを押しこめて、願っている。
片付けを手伝うために習字部屋に行くと、洋服に着替えた叶多が、長机の前で腕組みをして何やら考えこんでいた。
「何してるの?」
声をかけると、驚かせてしまった。
「ごめん、邪魔しちゃった?」
「ううん。ユメちゃんいいところに来た」
そう言って手招きしてくる。机の上に『優芽』と書かれた半紙が三枚並んでいるのが見えた。
「どうしたの?それ」
近くに行って覗きこむ。見惚れるくらい美しい字だ。
「あそこに貼ろうかと思って」
叶多が壁を指差す。その先には、叶多たち兄弟の名前が並んでいる。
「昔、ユメちゃんの名前も貼ってたでしょ?あれ、俺が剥がして捨てちゃって。本当に馬鹿なことしたと思ってる。でも、そうしないと俺、つらくてどうしようもなかったんだ。それで、新しく書いてみたんだけど」
「あ、そういう……」
急に胸がいっぱいになって、途中で言葉を切った。
「重いかな、こんなことしたら」
反応が薄いと思ったのか、叶多が不安そうにこちらを見上げてくる。首を横に振った。何度も振った。
「ううん、嬉しかったの。今ちょっと、泣きそうだった」
叶多と再会してこの部屋に来た時、名前がなくなっているのを見て、自分はもうよそ者なんだなと思った。あの時の胸の痛みが、今やっと癒されていく。
「本当?でも泣くのはやめてね。お父さんと約束してるし」
本気なのか冗談なのか、真面目な顔で言う。叶多の隣に座った。
「カナタくんは気づいてないだろうけどさ、」
彼に言いたいことがあった。
「わたし、ずっと引っかかってるんだよ。さっきもお父さんに、わたしを泣かさないように俺じゃない誰かに誓わせるって。俺じゃない誰かって、誰?わたし、カナタくん以外となんて、考えられないからね」
彼の肩に寄りかかって、反論の隙を与えずに続けた。
「カナタくんが、わたしに苦労させるかもしれないって心配してくれてるのも、この先何が起こるか分からないって不安に思ってるのも、分かってるよ。でも、信じて。この先もずっと幸せだって、信じてよ。信じないと、幸せじゃないでしょ」
私はずっと不幸だった。お父さんに大事に思われていないのではないかと疑っている間、不幸せだった。目に見えないものは、信じる方が幸せだ。
「それともカナタくんは、わたしが別の人と一緒になっても平気なのかな?」
黙ってしまった叶多に、最後は冗談にして言ったら、
「んなわけないだろ」
と、肩を抱き寄せられた。
反対側の手で、叶多の指がぎこちなく私の頬をなぞる。
「信じるよ。臆病でごめんね」
そう囁く叶多の瞳に捕らえられた。それは、言葉が要らないくらい、愛しさ溢れる眼差しで。まるで、世界に二人だけになったみたいに。
「ユメ、俺とーー」
「あ!イチャイチャしてるー!」
幸多の声に、慌てて叶多から離れた。心臓が飛び出るかと思った。
「コウタ、俺たち今大事な話を……」
叶多が幸多に回れ右をさせようとしているところに、呼び鈴が鳴った。
「あ!ピザ!」
幸多が玄関へすっ飛んでいく。私も立ち上がった。
「ごめん、続きはまた今度言わせて」
申し訳なさそうな顔をする叶多の肩を掴んで、思いっきり背伸びをした。少し屈んだ叶多に届いて、ほんの一瞬キスをした。
「待ってるね」
そう言ったら、叶多は弾かれたように何度も頷いた。
ピザを食べた後、兄弟たちは庭に出て花火を始めた。実采と幸多は大興奮で、火の付いた花火を振り回して陽咲に怒られている。
その様子を縁側に座って眺めていると、叶多がやってきて隣に座った。
「ユメちゃんはいいの?」
「うん。ちょっと疲れたし、ここで見てる方が楽しい」
「そうだね」
花火の勢いが急に激しくなって、キャハハと実采と幸多が同時に笑い声を上げる。
「アラタのことだけどさ、」
年相応に花火を楽しんでいる様子の新の方に目をやりながら、叶多が言った。
「今日来てた子ーーリサちゃんが、イジメに遭ってる子なんだってね」
「そうだったの?」
知らなかった。確かに、女の子のイジメだとは聞いていた。男の子に媚びているような態度が反感を買って、イジメに発展したようだと新は言った。本人にそのつもりは全くないのだとも。
「俺も初めて会った。アラタ、母さんたちが生きてた時はしょっちゅう友達をうちに連れてきてたのに、事故の後、パタっと連れてこなくなっちゃってさ。リサちゃんとはその頃に仲良くなったみたい。俺、あの頃余裕がなくて、そういうの全然、把握できてなかった」
後悔しているように、叶多が声を沈ませる。
「アラタ、何にもできなくてつらかっただろうな。きっとリサちゃんに励まされたこともあっただろうのに」
新の花火の火花の色が変わって、弟たちがまた楽しそうに笑っている。
「今度家に連れてこいって言ったんだ。まずは助けたいと思ってることを伝えてみようかって。あいつはちゃんとやった。だから今度は俺が、学校に相談に行くんだ」
叶多は決意の込もった声で、そう宣言した。
「アラタ、おいで」
新が花火をバケツに捨てたのを見て、叶多が手招きする。
「ここ座って」
叶多に促されて、新は素直に私たちの間に腰を下ろした。
「リサちゃん、可愛い子だな」
茶化したのではなく、印象を述べるように叶多が言った。
「別に、そういうのじゃないよ」
新が足をぶらぶらさせながら俯いて口を尖らせる。
「リサちゃん、何か言ってた?」
叶多に問われて、新はさらに俯いた。
「受験して違う中学行くし、無理しなくていいよって」
消え入りそうな声だ。
「そっか。じゃあまた何もしないで過ごすか?」
パッと兄を見上げた新のことを、叶多が優しい眼差しで受け止めた。
「諦めたくないんだろ、アラタ。じゃあ、諦めちゃダメだ」
新は答えず、再び自分の膝に目を落とした。
「俺、アラタに何にも諦めるなって言ったな。ごめんな、それは無理だよな。諦めなきゃいけないことって、多いよな」
叶多は空を見上げた。晴れた夜空に星が瞬いている。
「俺の話、聞いてくれるか?」
新がまた叶多の方をチラッと見た。
「聞いてるよ」
「はは、そうだな」
小さく笑って、叶多は話し始めた。
「俺、高校辞めて、働き始めてさ。正直、しんどいなって思うこともあった。高校辞めなくても何とか暮らしていけるだけのお金はあったからさ。けど、そうしてたらアラタたちは叔母さんの家か施設に預けなきゃいけなかったと思う。高校も遠かったし。
俺は、兄弟で過ごす時間とか、みんなが不自由なく暮らすことを、どうしても諦めたくなかった。だから、それを諦めない代わりに、高校に行くのを諦めたんだよ。だって、全部を諦めないのは無理だもんな」
膝に目を落としたまま、新は黙って聞いている。
「自分のことを諦めれば、アラタたちを守れるって、俺、本気で信じてた。そのせいでアラタたちのことを余計苦しめてるってことが、分からなかったんだ」
ごめんな、と叶多が再び謝る。
「しょうがないよ。兄ちゃん、必死だったから」
ぼそっと新が呟いた。あまりにも小さな声で、背の高い叶多の耳には届かなかったようだ。たまらなくなってその背中に手を当てたら、新は小さく肩をすくませた。
「今はもう自分のことも諦めてないよ。ユメちゃんがいてくれて幸せだしさ。大学に行くのだって諦めてないからな。最近、数学の勉強してるんだ。大学行って勉強するのも面白そうだなって思ってるよ。そういう仕事に就くのもね。それだけじゃない。書道も好きだから、その道を極めて習字の先生をやるのも楽しそうだなとも思ってる。色々やってるうちに、他にもやりたいことが出てくるかもしれないな。アラタに新しい世界を見せてもらうのも楽しみだよ」
叶多にならって私も空を仰いだ。そうしないと涙がこぼれそうだった。叶多が自分の将来について前向きに語るのを初めて耳にして。
「だからな、アラタ。何も諦めるなとは言わないけど、俺はアラタに何でもかんでも諦めるような人にはなってほしくない。どうせ無理だからとか、迷惑かけるからとか、諦める理由なんてたくさんあるけど、諦めたくないことはしっかり持っておくんだ。俺が、俺だけじゃない、この家のみんながアラタを応援してるんだから、諦めたくないことはもう、諦めちゃダメだよ」
滲んだ星空を見上げて、ゆっくりと時が流れるのを感じた。花火が勢いよく噴出する音ともに、再び実采と幸多の笑い声が響き渡った。
「リサちゃんのこと、助けたい」
心細そうな声で、新が呟いた。
「大事な友達なんだ。向こうはそう思ってないかもしれないけど……」
そこで途切れて、また少しの時間が流れた後、叶多が勢いよく立ち上がった。と思ったら、新のことを軽々と抱き上げた。
「わっ」と新が声をあげる。
「重くなったな、お前」
「あ!アラタ兄ちゃんが抱っこされてるー!」
実采たちが花火を持ったままこちらに来ようとして、陽咲に止められている。
「降ろしてよ」
新が恥ずかしがるのも構わず、叶多は新を深く抱きしめた。
「俺に任しとけ。おっきくなったつもりでいるかもしんないけど、まだこんな簡単に抱っこできるんだからな」
私と目が合って、嬉しそうに笑いかけてくる。
「分かったから、もう降ろして」
「もうちょっといいだろ。久しぶりなんだから」
「嫌だ。姉ちゃん、助けて」
陽咲は、助けを求める弟を一瞥して「無理」と一蹴した。口元が笑っている。新に暴れられて、叶多が渋々降ろした。
「最悪。もう」
簡潔な捨て台詞を吐いて、新は花火の方に行ってしまった。
「寂しいな。もう」
分かりやすくしょんぼりしながら、叶多は再び私の隣に座った。
「ミコトとコウタもそのうち抱っこさせてくれなくなるんだろうな」
ますます落ちこんでいる。半分本気だろう。
「いつか、別の子を抱っこすることになるかもよ」
口に出してしまってから、顔が熱くなった。
でも、叶多の反応がなくて、聞こえなかったかなと安心していると、急に横でガバっと立ち上がった。立ったり座ったり忙しい人だ。
「絶対」
私に背を向けたまま叶多が呟く。
「あいつらには抱っこさせてやらないからな」
そう言い残して、妹弟たちの方へ大股で歩いていった。
「俺にも花火ちょうだい」
再び兄弟五人で花火に興じている。
今はただ、彼らのことを、いつまでもいつまでも見つめていたいと思った。
〈完〉