中編
***
それから私は、二、三日に一回くらいの頻度で叶多の家に顔を出すようになった。
日々はおおむね平穏に過ぎていった。
実采の不機嫌はいろいろなことが積み重なった結果のようで、きっかけは、叶多が夜勤を始めて幸多の夜泣きが再発したことらしかった。春休みの間は少しくらい睡眠を妨げられても問題なかったのが、学校が始まってじわじわと寝不足が蓄積されてしまったのらしい。
そして、五月の連休の前半に兄弟全員で叔母さんの家を訪ねた時に、何か困っていることはないかと訊かれた実采は、幸多の夜泣きがうるさいと正直に答えて、新に黙ってろと怒られるわ、知らなかった叶多に問いただされるわ、問題視した叔母さんが叶多を責めるわで、大騒ぎになってしまったのだそうだ。それで、自分がとんでもなく悪いことをしてしまったような気になって、いじけてしまったのだと、陽咲が教えてくれた。
また、幸多の夜泣きを知った叶多がそれまで以上に幸多に構うようになったのも気に入らず、連休の後半は熱を出して楽しみにしていた水族館にも行けず、すっかり不機嫌になってしまったのらしかった。
ただ、叶多に言わせると実采の不機嫌は今に始まったことではなく、一年前に幸多が叔母さんの家に預けられていた間は兄と姉に構ってもらえたのに、幸多が戻ってきてからは注目を独り占めできなくなって、それ以来ずっと拗ねているとのことだ。
それでも、曇りの日の晴れ間のように、実采は私に向かって不意に笑いかけてくることがあった。笑うと目尻が下がって口元ににえくぼが浮かんで、下の歯が抜けているのも相まって、とても愛らしかった。それだけでなくて、実采は笑うと昔の叶多にそっくりで、なおさら私は実采が可愛かった。叶多は以前ほどは私によそよそしくなくなったけど、妹や弟たちに見せるような笑顔を、決して私には向けてくれなかった。実采に笑いかけられると、その寂しさが紛れる気がした。
私の思いが伝わっているのか、実采は私に甘えた。私の膝に座って、日々の出来事を話すのを好んだ。最初のうちは遠慮がちにお尻を乗せるだけだったのが、次第に気を許したようで、背中までべったりと預けてくるようになった。ドッジボールで最後まで残ったとか、上の歯がグラグラだとか、誰々が誰々に意地悪したからケンカしたとか、そんな話を、台所で晩ごはんを作る陽咲の後ろ姿を眺めながら、ゆっくりと聞く時間を過ごした。
「いいなあ」
時々そこに叶多が乱入して来ることがあった。
「ちょっと貸してよ」
そう言って実采にちょっかいをかける。そうすると実采は毎回慌てたように、
「兄ちゃんは大人だからダメっ」
と、誰も狙っていないのに私の膝にしがみつく。そこから二人のじゃれ合いが始まって、最終的には叶多が実采を抱き上げて、思いっきり甘やかせてやるのだった。だから本当は、叶多の『貸してよ』は、私に向かって『ミコトを返してよ』と言っているのだ。
叶多は、妹と弟の一人ひとりをとても大切にしていて、それを表現するように努めていた。
陽咲のことはもう安心だと思ったのか、心配の対象は新に移ったようだ。新が何に興味があって将来どうなりたいと思っているのか分からないと、陽咲にこぼすのをよく耳にした。
新は、いつも静かだった。時々実采をたしなめることを除いては、大きな声を出すことも大笑いすることもなく、何の感情も見せなかった。
幼少の頃の彼の活発さを知っている私としても、新のことは気がかりだった。新が髪を切ろうとしないことは、円形脱毛症が改善してないことを示唆していた。でも、私には挨拶を交わすのがやっとで、どうしても新との会話の糸口を掴むことができなかった。
大学の授業は、心というよりは脳や知覚器について生物学的に学ぶものが多く、宮澤が覚悟をしろと言ったような、自分の内面と向き合わされることは、まだ無かった。
授業の内容は、専門用語を暗記しなければいけない大変さは別として、自分の身に置き換えてみればすんなりと理解できるものが多かった。
ただし、【記憶の変容】だけは例外だった。
研究によれば、記憶が事実と違うように変化してしまうことが、健康な人の脳でも起こるという。その変化の種類は、出来事が起きてからその記憶が定着するまでの段階のうち、どこで起きたかによって三つに分類される。一つめは、記憶が刻まれる際に、誤認識などによって事実とは異なる記憶が形成されるというもの。二つめは、出来事が起きてからその記憶を取り出すまでの間に与えられた関連情報が、何らかの形で元の記憶に影響を及ぼすというもの。三つめは、記憶を想起する際に、辻褄が合うように常に記憶の再構成が行われるというものだ。一つめと二つめはまだ理解できるけど、三つめは、感覚的に受け入れられなかった。
もしも、思い出す度に記憶が変化してしまうのだとしたら、私が持っている思い出と、叶多が持っているそれとが、全く異なってしまっていることもあり得るのだろうか。講義を聞きながらそんなことを考えて、どこまでも寂しい気持ちになった。
千尋は手話サークルに入って、指文字という、あいうえおの五十音に対応する指の形を覚えるのに必死だ。大抵の言葉にはそれを表す手話表現があるのだが、固有名詞や新しい言葉の場合は、指文字を使って表すことがあるという。この指文字は、手話表現を覚えていない、あるいは忘れてしまった場合にも役に立つので、初心者は指文字から始めることが多いのだそうだ。
千尋は、聴覚障害を持つクライアントとも向き合えるカウンセラーになりたいと言う。彼女を見ていると、将来のビジョンもなく何の努力もしていない自分は、本当にダメだなと思う。千尋は私にカウンセラーが向いているのではないかと言ってくれたけど、父親と話す度に自分の器の小ささを思い知らされる。
父親の言動の一つひとつに、いちいちイライラしてしまう。
食事ひとつとっても、父親は何回言っても作りすぎてしまうから私が夕飯を担当することにしたのに、連絡もなく外食してきたり、気まぐれに私の分まで買ってきたりして、何度も食べ物が無駄になった。それで各自で食事を用意することにしたのだが、私が台所で作っているところに後からやってきて調理スペースを占領したり、私が買ってきた食材を断りもなく使うので、怒鳴りたくなってしまう。
食事だけではない。好きな時間に寝起きして、私が寝ていようが平気で大きな物音を立てるし、私がお風呂に入っていようが着替えていようが、構うことなく脱衣所に入ってきたりする。
それらの行為に対して、やめてほしいといくら言っても聞いてくれない。その場では謝るけど、次の日になれば忘れている。私が本気で迷惑していることを理解していないのだ。同じことをやり返してやろうかと何度も思っては、自分の器の小ささを自覚して落ちこむことを繰り返している。
恵梨香は、五月半ばの日曜日の昼下がりに、蓮哉を連れてやってきた。父親とは子供の認知だけで婚姻関係を結んだことはなく、蓮哉を定期的に会わせるような取り決めは無いはずだが、蓮哉をダシにして月々の養育費とは別に父親から少しでも多くのお金を巻き上げようとしているのだ。
「お金、足りないの」
蓮哉が父親に向かってそう言った。恵梨香は澄ました顔をしている。四歳にもならない子供にそんなことを言わせるなんてと愕然としていると、父親が私の顔をじっと見てきた。
「五万、いや、一万でいい」
先月私の十万円を勝手に渡したことなどすっかり忘れたかのように、平然と要求してくる。
「無理だよ」
うんざりしながら断った私に、恵梨香が家賃の話を蒸し返してきて、ますますゲンナリした。しかも、今回は家賃の話だけでは済まなかった。
「離婚しなかったんだから、ヒロアキさんにはマサミさんの遺産の相続権があるはずでしょ?それはどうなってるわけ?」
父親に訊いても無駄だと知っているようで、私に尋ねてくる。なぜ恵梨香に説明しなければいけないのだろうと思ったけど、それで納得するならと正直に答えた。
「お父さんは分かってるはずだけど、この家をお父さんが相続することで話がついたって聞いてるよ。ここ、お母さんが買ったんだよね?」
睨みつけるようにして同意を求めたら、父親はオロオロしだした。
「む、難しい話はよせよぉ。エリカが可哀想だろぉ」
諌めるような口調で言ってくる。まるで私が悪者みたいだ。
「金に困ってるっつってんだからよぅ、ちっとぐれぇ分けてやってもいいだろぉ」
私の家なのに、ここに私の味方はいないのだ。
「ちょっとぐらいってーー」
「じゃあさ、」
私が言い返そうとしたのを、恵梨香が涼しい顔で遮った。
「ヒロアキさんがこの家を売ろうが何しようが、ユメちゃんには関係ないってことだよね?前からこんな立派な家にいつまでも住んでることないじゃんって思ってたんだよね。さっさと売らせてアパートでも借りさせるわ」
正しいことを言っていると信じこんでいる様子の恵梨香に、狂気に近いものを感じる。
「おいおい、それだけは勘弁してくれって言ってるだろぉ。この家にはマサミとの思い出がいっぱいあんだよぉ」
途端に慌てだした父親を見て、恵梨香は大げさなため息をついた。見下すような目をしている。
「死んだ奥さんとの思い出と、息子のレンヤの将来、どっちが大事かヒロアキさんでも分かるでしょ」
「そんなこと言ってもよぉ」
恵梨香の目がキッと釣り上がるのが分かった。
「いい加減にしてよ!あたしだってユメちゃんみたいに大学行って遊びたかったよ。ヒロアキさんみたいな馬鹿な大人に引っかかんなかったら、レンヤなんか産まないで済んだのに!」
「エリカちゃん」
私が彼女の名前を呼んだのと、父親がコップのお茶を恵梨香の顔にかけたのは、ほとんど同時だった。
「何すんの!」
「それだけはぁ、言っちゃいけねぇだろぉ!」
そう怒鳴った父親は、顔を真っ赤にして、肩で大きく息をしている。
「し、信じらんない。クリーニング代払ってもらうから。行くよ、レンヤ」
父親の剣幕に恐れをなしたのか、恵梨香は蓮哉の手を取って、逃げるように家を出て行った。
恵梨香は激高した父親を初めて見たのだろうか。私にとって、こんなことは日常茶飯事だった。父親にはいろんな場所に地雷があって、お母さんがそれを踏む度に怒鳴っていた。地雷を取り除こうと突っかかるお母さんに、手をあげることもあった。
そんな時、私は自分の部屋に行っているように言われて、本を読みながら時間が過ぎるのを待った。アガサ・クリスティの推理小説は、そんな時に読んでいたものだった。父親が逆上すると、お母さんはますますヒートアップした。言葉で敵わない父親がお母さんをいつか殺してしまうのではないかと恐ろしくて、でも自分はあまりにも非力で、そんな夜はどうしても寝つくことができなかった。
「自分の母親のことでも思い出した?」
テーブルにこぼれたお茶を布巾で拭きながら、父親にそう尋ねた。
「お父さんも子供の頃、産まなきゃ良かったって言われてたの?」
やめなさい。そんなお母さんの声が聞こえた気がした。でもこれはきっと、空の上からお母さんが警告を発しているわけではなくて、私の恐怖心が生み出した幻聴だ。父親に殴られるかもしれないと思うと、身体が震えた。
父親がこちらを見たのが分かった。怖くて目を合わせられなかった。地雷を踏みに行ったことを既に後悔していた。私はただ、ムカついてやり返したかっただけだ。お母さんみたいに、父親のためを想って言ったのではない。
「おう、悪いなぁ、茶ぁこぼしてぇ」
それは気の抜けた声だった。拍子抜けして父親の方を見ると、感情が抜け落ちたような目をしている。
「……うん。大丈夫」
途轍もない罪悪感が胸の中に広がった。ごめんなさい、そう謝りたかったけど、喉の奥につっかえて声にならなかった。
お母さんからよく聞かされた。お父さんは悪い人じゃないのよ、と。親から愛されなかったせいで人を愛することに不器用なだけなのよ、と。父親は自分のことをあまり話さないけど、子供の頃ネグレクトを受けていたのだろうとお母さんは言った。母親が家を出ていってしまって、家賃が払えずにアパートを追い出されて、しばらく路上で暮らしていたこともあるという。
そんな人に向かって、私はひどいことを言った。実の娘なのに。心について学んでいるのに。
「仕事変えるかなぁ」
気にしていないのか、気にしないふりをしてくれているのか、父親が頭の後ろで手を組んで呟いた。
「お父さんは夜勤とかしないの?」
罪悪感から相談に乗る気になってそう尋ねた。叶多のように深夜労働をすれば、夜勤手当てが出て少しは収入が増えるのではないかと思ったのだ。
「夜勤はきちーからなぁ。やったことはあるけどよぉ、しんどくてすぐにやめちまった」
もう二度とごめんだというように顔をしかめている。
「そうなんだ。何がキツいの?働く時間は変わらないんでしょ?」
「そうなんだけどよぉ。やっぱ人間てのぁ、朝起きてぇ、夜寝るようにできてんじゃねぇかぁ?」
「ふぅん」
そしたらやっぱり叶多は無理をしているのだろうか。そう思って、またムクムクと心配になる。
父親はノソッと立ち上がって、リビングを出て行った。そして、何も言わずに家を出ていった。本当に自由な人だなぁと、窓からその姿を見送りながら思った。
***
六月に入って、実習のグループワークが長引いたり、レポートやら小テストの勉強が忙しかったりで、一週間以上叶多の家に行けない日が続いた。
少し落ち着いた日の晩、陽咲に明日行ってもいいかとメールしたら、すぐに電話がかかってきた。陽咲がマシンガントークで捲したてて言うことには、幸多が叔母さんの家に連れていかれてしまい、実采は学校に行っていないのだという。明日は新の授業参観で、実采を一人で家に置いていきたくない叶多が、実采に明日は学校に行けと言うわ、実采が嫌だと言うわ、新は授業参観に来るなと言うわで、揉めて大変なのらしい。私が行ったら邪魔なのかと思ったらそうではなくて、むしろ来て実采に構ってやってほしいと頼まれた。その話の流れで、明日は叶多の家に泊まることになった。
自宅に寄ってから叶多の家に行くと遠回りになるので、泊まるための荷物を持って大学に行った。それが良くなかった。
「ゆーちんじゃん。お泊まり?」
大きめのリュックを背負って帰ろうとしているところを吉木に見つかって、声をかけられた。地べたに座って友達と喋っていたようだ。
「途中まで一緒に行こーぜ」
立ち上がってお尻をはたいている。叶多の家に泊まることを知られたら面倒だと思ったけど、拒む理由が思いつかなかった。
「んで、どこ行くの?」
吉木は本当に何でもズケズケ聞いてくる。
「カナタくんの家」
仕方なく正直に答えた。帰り道が一緒だから、隠してもどうせバレるだろう。変に隠してごちゃごちゃ言われるよりは、今言ってしまった方がマシだと思った。
「マジかよ。あ、じゃあ俺も行く」
さも名案だというように吉木が手を叩く。とりあえず聞き流した。
「マチョコちゃん一緒じゃないの珍しいね」
吉木と話しているといつも睨まれるのに、今日はその視線がない。
「あー、あいつはこの後の講義も取ってるからさ。つか、いつも一緒にいるわけじゃねーよ?サークルも違げーし」
「そうなんだ」
少し意外だった。
「そうだぜ?俺は軽音部だけど、マチョコは山岳部だし」
「へぇ、山登るんだ。ボーリングも上手だったし、マチョコちゃんって結構体育会系なんだね」
「体育会系つーか、まあ、あいつも頑張ってんだよ」
吉木が独り言のように言う。
「あのさ、マチョコちゃんと付き合ってるわけではないの?」
気になっていた疑問をぶつけてみた。
「そんなわけねーじゃん。告られたけどフッたし」
千尋の推理通りだ。
「それなのに一緒にいるの?」
「だって、友達のままでいいってゆーからよ」
それが何か?という口ぶりだ。
「ひどいことしてるね」
「それ、ゆーちんが言う?」
笑われた。何のことか分からなくて、反応に困る。
「まーいいけど。ゆーちんはサークルどこ?」
吉木もそれ以上は言わず、話題を変えた。
「サークルは入ってないんだ」
「え?何で?」
何でと言われても。
「別に、入りたいサークルもないし」
「せっかく大学入ったのにもったいねー。あ、軽音部来る?」
断った。楽器には興味がない。
会話が途切れたかと思ったら、吉木がまた口を開いた。
「答えたくなかったらいーけどさ、ゆーちん中学ん時転校したじゃん。何で転校したの」
語尾を上げない訊き方だ。そのくらいのデリカシーはあるのらしい。
「お母さんの実家に行ってたの。親がうまく行ってなくてさ」
隠すこともないかと思って事実を伝えた。
「そーなんだ。親はヨリ戻したの?」
駅の改札を抜けて階段を降りる私を追いかけるようにして、吉木がさらに尋ねてくる。
「ううん。お母さん死んじゃって」
吉木は少し絶句したようだった。
「ゆーちんがあんま笑わなくなったのって、そのせい?」
少しの間の後で、吉木はそんなことを言った。
「昔はさ、いつももっと笑ってただろ。本栖恵梨香にどんなに嫌み言われてもニコニコしててさ。そんなゆーちんが、あんまし笑わなくなって、自分のこと知りたいってゆーから、俺、すげー気になってて」
今度は私が絶句した。私がうまく笑えなくなっていることを、この男に見抜かれていた。叶多ではなく、吉木に。
「ゆーちんさ、長谷川に構ってる場合じゃねーだろ。もっとちゃんと自分のことに向き合えよ。俺は、俺だったら、一緒にさ……」
チャラいだけの男かと思っていた。調子のいいことばかり言っているのかと思っていた。でも、それだけではなかったのかもしれない。
「ありがとね」
ありがたいと頭では思うのに、嫌悪感を抱いてしまうのはなぜなのだろう。昔からずっと、私は吉木のことがどうしても苦手だった。
次の言葉が見つからなくて、駅のホームで俯いた。
「そんな困った顔しなくても、無理なら無理って言やぁいいのに」
吉木が笑って肩を組んでくる。こんな話の後でも距離感を変えないのはさすがだなと感心する。
「そーいや心理学の教科書見してよ。すげー興味あるわ」
何事もなかったかのように言う。それで、電車に乗ってから駅に着くまでの間は、お互いの教科書を見せ合って過ごした。
「それ、重そうだけど何入ってんの」
駅を出て歩きながら、吉木が私のリュックを指して訊いてきた。この男といると本当に沈黙が生まれない。
「大したものは入ってないよ。あ、パソコン入ってる。授業で使ったから」
「じゃあ重くね?持つよ」
その申し出を一度は断ったけど、それでも持つと言うので、背負っていたリュックを渡した。
「本気でカナタくんの家までついてくる気?」
もちろん、と肯定してくる。冗談かと思っていた。
「カナタくん夜勤明けで寝てると思うよ」
まだ十六時にもなっていない。今日は新の授業参観だと言っていたけど、帰ってきて寝ているだろう。
「え、ゆーちん、もしかして寝込み襲おうとしてる?」
「そんなわけないじゃん。ヒナちゃんいるし」
「あ、ヒナちゃん会いたい。長谷川よりむしろヒナちゃんに会いてーわ。かわいーし」
何とか思い留まらせようとしたけど無理そうで、陽咲に確認を取ろうとスマホを取り出した。
その時、私の横で吉木が「おう」と声をあげた。スマホから顔を上げると、向こうから叶多が歩いてくるところだった。手に買い物袋を提げている。
「久しぶりだな、長谷川」
声の届く距離まで近づいてから、吉木が呼びかけた。
「吉木か。久しぶり」
叶多は少しやつれているように見えた。私に視線を移して、作ったみたいに微笑んだ。
「今日泊まってくんでしょ。あれユメちゃんの荷物?」
吉木の肩に掛かっているリュックを指して訊いてくるのを肯定した。それで叶多が吉木から引き取ろうとしたけど、吉木は「俺が持つ」と言って渡さなかった。
「ミコトくん学校行ってないって?」
叶多と並んで歩きながらそう尋ねた。
「そうなんだよ。でも今日はちゃんと学童まで行ってる。ユメちゃんに話すネタがないでしょってヒナタに諭されて」
「そっか。じゃあアラタくんの授業参観行けたんだ?」
「うん、今その帰り」
静かだなと思って吉木の方を振り向くと、ニヤリと笑われた。不気味だ。
「吉木も上がってくか?」と叶多に訊かれて、吉木が「おう」と当然のように応じる。
家に着くと陽咲が出迎えてくれた。
「ヒナちゃん!髪黒くしたんだ。雰囲気違うね」
吉木が驚いたように大きな声を出す。何を今頃と思ったけど、吉木はメイドカフェで会って以来かと納得した。私はもうすっかり陽咲の黒髪を見慣れている。
「ユメちゃんと一緒にメイドカフェに来てくれてさ」
何で陽咲のことを知ってるんだという顔をした叶多に、陽咲がそう説明した。
ダイニングテーブルに、叶多と向かい合って座った。私の隣に吉木が腰を下ろす。陽咲はコーヒーを淹れるために調理台に立った。
「しっかし久しぶりだなー、長谷川。中学卒業以来だよな。苦労してんだって?」
吉木が、ヘラヘラと叶多に話しかけた。
「吉木はますますチャラくなったね。すごい金髪」
叶多の返しは少し嫌みっぽく聞こえた。
「すごい金髪って。ヒナちゃんもこんくらいの色だったじゃんね?ゆーちんが一番仲良い友達も金髪だし。相変わらず考え方が優等生なのな」
吉木のははっきり嫌みだ。嫌みを言うくらいなら来なければ良かったのに。
「ユメちゃんと同じ大学なんだって?」
叶多は落ち着いた口調を崩さない。
「西大だよ。え?もしかしてゆーちんがどこに通ってるか知らなかった?」
吉木に挑発するように言われて、叶多が言葉に詰まった。
「え、マジなのかよ。カマかけただけなのに。え、学部も知らねーの?」
吉木が追い討ちをかける。
「どうだっていいじゃんそんなこと」
叶多が吉木に責められているのが不愉快で、口を挟んだ。
「良くねーよ。ゆーちんはさ、サークルも入んねーで長谷川んちの問題に首突っこんでんのに、長谷川はゆーちんのこと何も知らねーのな」
「だから、サークルは入りたいところがないだけだって言ってるでしょ」
私が声を尖らせたのも意に介さず、吉木は叶多に向かって続ける。
「俺はずっとゆーちんのこと知ろうとしてきたからさ、ゆーちんのこと分かるよ。ゆーちんはお前のことが心配で仕方ねーんだよ」
陽咲がちょっと困ったような顔で私たちの前にコーヒーを並べた。
「でもな、それが好意だなんて勘違いすんなよ。俺は小学生の時からゆーちんのこと知ってる。ゆーちんは昔っから、嫌な奴にこそ優しくするような、そんな子だったよ」
「ちょっと、本当に何?やめてよ」
言葉で制止しても、吉木は止まらない。
「お前も苦労してんだろうけど、ゆーちんにだっていろいろあんだよ。お前の問題に巻きこむんじゃねーよ」
「帰って。吉木くんには関係ないでしょ」
力づくで追い出そうと立ち上がった私を、吉木が見上げてきた。
「関係ある。言っただろ、俺はゆーちんが好きだって」
吉木のシャツを掴んだまま固まる。その話はさっき済んだはずなのに、どうしてまた叶多の前で持ち出してくるのだ。
叶多の様子を窺うと、彼は私の視線に気づいて、口元に嘲るような笑みを浮かべた。
「くだらない。それが何なんだよ」
ゾッとするくらい冷たい声だった。
「好きとか嫌いとか、そんなままごと、こっちは付き合ってる暇ないんだよ」
テーブルの上で握り締めた拳が、小さく震えている。
「ユメちゃんも、二度とここに来ないで。来てくれなんて頼んでないし、巻きこむつもりもなかった。こんな言われ方をするのは心外だ」
「ちょっと、お兄ちゃん……?」
陽咲が不安と非難の込もった声で呼びかけたのを、叶多はジロリと睨んだ。
「ヒナタももう連絡するな。いいな」
「何でそうなるわけ?」
妹の声を無視して立ち上がる。
「帰ってくれ。お前らと違って忙しいんでね」
舌打ちをして吉木も立ち上がった。
「行くよ、ゆーちん」
私に声をかけて、さっさと台所を出ていった。
帰りたくなかった。でも、帰るしかないことも分かっていた。叶多は私のことをずっと拒絶していた。それなのに、私が出しゃばり続けていたのだ。
「ごめんね。余計なことばかりして」
私のリュックを拾い上げる叶多の背中に向かって謝った。
「違うって。お兄ちゃん本心じゃないから。ね、そうだよね」
陽咲が間に立とうとする。叶多は応えない。
「ヒナちゃん」
陽咲に向けて首を横に振った。陽咲の目に涙がたまっていく。中途半端に首を突っこむくらいなら、何もするべきではなかったのだ。
「ゆーちん」
玄関の方で吉木が呼ぶ声がする。
叶多がこちらを振り向いて、私にリュックを押しつけてきた。受け取って玄関に向かおうとしたら、腕を掴んで引き寄せられた。痛みを感じるくらいの、強い力だった。
「吉木は、ああ見えて、良い奴だから」
叶多は私の耳元で囁くように言った。
「元気でね、ユメちゃん」
図書館で再会した時と同じ言葉を、あれから何も無かったことにするみたいに、口にするのだ。
私の腕を掴む手から力が抜けて、離れた。肩を押されて玄関に向かいながら、叶多に掴まれた右腕がズキズキと熱を持ち始める。
玄関で靴を履くと、吉木にリュックを取り上げられて、左手を掴まれた。吉木の手はひんやりとしていて、振りほどきたい衝動に駆られた。それを我慢して、手を引かれるままに叶多の家を後にした。
「悪かったね、ゆーちん」
しばらく歩いた後、やっと手を離して吉木が謝った。
「あいつだってそりゃ本心じゃないだろうけど、それにしたってあれはひどすぎーー」
「やめて」
叶多を責める言葉をそれ以上聞きたくなくて、強い口調で制したら、吉木は口をつぐんだ。
「吉木くんは、本気でわたしのことが好きなの?」
私の問いに、「好きだよ」と吉木は答えた。
頭の中がひどく混乱していた。好きだと言ってくれるのなら、その気持ちに応えるべきだと思えてきた。
「じゃあ付き合う?」
そう尋ねたら、吉木がふらりと一歩後ずさった。
「でも、ゆーちんは俺のこと好きじゃないよね」
そう返されて、腹が立った。
「いいから付き合おうよ」
重ねて言うと、吉木は私にリュックを差し出してきた。
「次会った時におんなじこと言ってくれたらね」
そんな条件を出して私に背を向ける。そのまま、ひらひらと手を振って帰っていった。
吉木に対して腹が立って仕方がなかった。叶多に掴まれた腕が、いつまでも熱くて、痛くて、たまらなかった。
ぐちゃぐちゃな気持ちのまま家に帰ると、父親がソファーでテレビを見ながら寛いでいた。靴下を床に脱ぎ散らかしている。
「おう」
私に気づいて軽く声をかけてきた。泊まることは伝えたはずなのに、帰ってきたのを何とも感じないようだ。
「ただいま」
いろいろと文句を言いたいのを堪えて、父親の靴下を洗濯カゴに入れにいく。
「そういやぁ、さっきよぅ、あのボーズ見かけたぞ」
そのまま二階の自分の部屋に行こうとしたけど、父親が話しかけてくるので、洗面所からリビングに戻った。
「ボーズ?」
「あー、何つったかなぁ、前にここ来てよぉ」
要領を得ない話にイライラが募る。
「悪いけど疲れてーー」
「ユメのことが好きなーー」
声が被って、疲れているなら、と父親は話を終わらせようとした。
「わたしのことが好きな?」
そんな気になるところで止められても困る。
吉木のことだろうか。いや、吉木をうちに連れてきたことは一度もないはずだ。そもそも、吉木が私のことを好きだなんて父親が知っているわけがない。私ですら今日の今日まで知らなかったのに。
「おう」
おうじゃなくて、と心の中でツッコむ。
「誰のこと?」
父親の座っているソファーに並んで腰かけた。
「何つったっけなぁ、あいつん名前ぇ。度忘れしちまったなぁ。こないだもすれ違ってよぉ。何かこう、ツナギみてぇなの着てよぉ」
「……もしかして、カナタくん?」
私のことが好きな、というのが分からないけど。
「おお、それだ、それ」
「いや、何でお父さんがカナタくんのこと知ってるの?」
私は叶多の家に行くばかりで、自分の家に呼んだことは一度もない。でも、そういえば叶多の方も父親と面識があるような口ぶりだった。
「だからぁ、時々会うんだよぉ。会うといつも挨拶してくれてよぉ。こないだもーー」
「そうじゃなくて、何がきっかけでカナタくんのことを知ったわけ?」
イライラしているのを自覚して、深呼吸をした。
「だからよぉ、前に家の前まで来ただろぉ」
叶多が私を家の前まで送ってくれたことは確かにあった。でも、そんなことくらいでは、この人の記憶には残らないだろう。四年以上も昔の話だ。
「何で覚えてるの?」
質問を変えた。
「そりゃあ、お前ぇ、愛をあげるとか何とか言ってよぅ、忘れらんねぇやぁ」
何の話だ。やっぱり叶多のことではないのだろうか。でも、他に思い当たる人もいない。
「何だよぉ、お前ぇ覚えてねぇのかぁ?」
私が首を傾げたのを見て、父親がニヤニヤした。
「俺ぁはっきり覚えてるぞ。出かけようとしたらよぉ、外でお前がボソボソ喋ってたんだ。そしたらボーズがよぉ、俺が愛をあげるから負けないで、つったんだよぉ。覚えてねぇかぁ?」
首を横に振る。ただ、負けないで、という言葉は、やっぱり記憶の琴線に触れる。この前、叶多の口から発された時と同じように。
「どんな奴が喋ってんだと思ってよぉ、俺ぇ、そいつんこと追いかけてったんだ」
半信半疑のまま、父親が話を続けるのを聞いていた。
「お前、どういうつもりでユメにあんなこと言ったんだって訊いたらよぉ、あいつ、まず名乗った。思い出したぞ。長谷川叶多。忘れねぇ。ユメのことを好きだって言った奴だからなぁ」
フルネームを出されては、もはや叶多のことであることは疑いようがなかった。
「僕はユメちゃんのことが好きですって、あいつ、俺に向かってはっきりそう言いやがった。ありゃあ嘘のねぇ目だ」
父親が熱っぽく話すのを聞きながら、夢でも見たんじゃないかと思った。叶多は友達だった。一度だけ、手を握ってくれただけの。
『家に帰りたくない』
叶多が家の前まで送ってくれた日、私は叶多に弱音を吐いた。
『家に帰ると、誰にも優しくなれない気持ちになるの』
冷たい雨の降る冬の日だった。手袋をした手で、叶多は私の手をギュッと握った。『負けないで』。あの時叶多は、そう言ってくれたのだっただろうか。
「ユメがこっち戻ってくる前にもよぉ、ボーズにばったり会ってよぉ、俺ぇ、ユメが戻ってくんだって話してよぉ。そうですか良かったですね、なんてぇ、あいつ笑ってよぉ」
そんなの初耳だ。ということは、図書館で会う前から、叶多は私が戻ってきたことを知っていたのだ。私が会いにいくのを待っていたのだろうか。
いや、それはない、とすぐに自答した。もし好意を寄せてくれていたのだとしても、それは遠い昔のことだ。今はもう違う。全てが変わってしまった。
「そうだったんだ」
淡々とそう返した。今となってはどうでもいい。
「何だよぉ、あっさりしてんなぁ。会ってねぇのかよぉ?せっかく好いてくれてんだからよぉ、また仲良くしたらいいだろぉ」
「だったら」
思わず声を荒げてしまった。
「何で今頃になってそんなこと言うの?もっと早く言ってよ。そしたら……」
そしたら何?と冷静にツッコむ自分がいる。何かが変わったとでも言うのだろうか。こんなのはただの八つ当たりだ。
「ごめんよぉ」
父親が口癖のように謝ってくる。
「さっきボーズを見かけて思い出したんだよぅ。あいつ、ベンチに座りこんでてよぉ、死にそうな顔してたぜ。大丈夫かよぉ、あいつ」
確かに叶多はやつれていた。でも、私にはもうどうすることもできない。
「知らないよ。わたしには関係ないし」
「何だよぉ、冷てぇなぁ」
父親が咎めてくるのを無視して二階に上がった。自分の部屋でベッドの上にうつ伏せに倒れこんだ。
忘れよう、忘れようと思うのに、父親の声が耳から離れない。俺が愛をあげるから……。叶多の声で再生されていく。授業で習った【記憶の変容】。こうやって記憶は書き換えられていくのだろうか。それとも、本当にあったことなのだろうか。
『負けないで』
叶多の言葉に背中を押されるようにして、家のドアを開けた私。玄関にいた父親にぶつかりそうになる。その横をすり抜けるようにして、家の中に入る。お母さんがソファーで脱力したように座りこんでいる。
『どうしてヒロアキくんは分かってくれないのかな』
私に気づいたお母さんが、力なく呟く。
『お母さん』
私はお母さんの前に立ちはだかる。
『もうお父さんのことは諦めてよ。こんな毎日もううんざり。わたし、お父さんのこと大嫌い。この家にいたら気が変になりそう』
私の言葉に、お母さんの目から、ひと筋の涙がこぼれる。
どこまでの記憶が正しくて、どこからが作り物なのかは、もう分からなかった。
ただ一つ、はっきりしたことがある。
あの日、私は、お母さんの心を殺したのだ。
***
翌週の月曜日、倫理の授業で吉木と一緒になったけど、彼は私に話しかけて来なかった。私の方も吉木に話しかけなかった。
「吉木くんと何かあった?」
いつもは鬱陶しいくらい話しかけてくる吉木がさっさと教室を後にしたのを不思議に思ったようで、千尋がそう尋ねてきた。それで私は一連の出来事を彼女に話した。
「ひどいよ」
千尋は全てを聞き終えた時、静かに言った。
「ユメちゃんが吉木くんのことを苦手なのってさ、吉木くんの気持ちに応えられないからだよね。たぶんユメちゃんって、人から望まれたことを叶えられないと、自分のことが嫌いになっちゃう人なんだ」
千尋は、まるで私の心の中を見てきたかのように説明した。
「ユメちゃんはさ、吉木くんに好かれてることに昔から気づいてたんだよ。でも応えられないから、吉木くんがチャラいってことにしたんでしょ。自分だけじゃなくて、誰にでも言ってるんだって。だから応えなくても大丈夫だって」
そうでしょ、と千尋が言葉を切る。
「それが本当なら、わたしってひどいね」
ピンと来なくて、他人事みたいに返した。千尋は、頷くことも首を振ることもなく、真剣な表情で再び口を開いた。
「もっとひどいのはさ、吉木くんに付き合おうって言ったことだよ。ユメちゃんさ、そのカナタくんって人のこと好きなんでしょ。でも望みがなくなって、それなら応えてやってもいいやって、ヤケになって吉木くんにそんなこと言ったんだよ」
そうなのだろうか。ますますピンと来ない。
「それってさ、吉木くんに対してもひどいけど、自分に対してもひどいよ。自分のこと全然大事にしてないじゃん。って、自殺しようとした私に言えることじゃないけどさ」
千尋が私の両手を握った。
「私、ユメちゃんのこと大好きだよ。だから、私のためにもさ、もっとちゃんと自分のこと大事にしてよ」
私は自分のことを大事にしていないのだろうか。大事にするには、具体的に何をどうしたら良いのだろう。全然分からない。
「分かった?」
真剣な目で問われて、ゆっくりと頷いた。少なくとも、千尋が私のためを思って何かを伝えようとしてくれたことは分かった。
サークルに出ると言う千尋と別れて帰ろうとしたら、正門の横にマチョコが立っていた。
「お疲れ」
そう声をかけると睨まれた。
「あんたに話があるんだけど」
横を通り過ぎようとした私を、マチョコが唸るような声で引き止めた。彼女から私に話しかけてくるなんて、初めてじゃないだろうか。
先に立って歩くマチョコの後を追いかけて、駅前のカフェに入った。
「あの、話って?」
二人掛けの小型テーブルに向かい合って座り、吉木のことだろうかと思いながら水を向けた。
「ジュンペーから聞いた」
案の定、マチョコはそう言った。
「ジュンペー、全然いつも通りみたいにしてたけど、倫理の時、あんたに話しかけなかったから」
千尋と同じようにマチョコも変だと思ったようだ。
「ジュンペー困ってた。好かれてないって分かってるのに付き合うのって嫌だよなって、あたしに言った。あたし、ジュンペーの気持ちすごい分かる。あんたってマジ最低」
初めてマチョコの顔を正面から見た気がする。メイクがキツいだけで、柔らかい顔立ちをしていた。
「うん。ごめん」
素直に謝った。吉木に対してだけでなく、マチョコに対してもひどいことをした。
「ジュンペーに謝ってよね」
「うん。謝る」
「連絡先知ってんの?」
「知らないけど」
「適当か」
絶妙な間合いでツッコまれた。
「いや、ごめん。適当なつもりで言ったんじゃないんだけど……」
「分かってる。今呼ぶから」
「え、呼ぶの?ここに?」
「適当なつもりじゃないって言ったじゃん、今」
「そうだけど、まだ心の準備が」
「知るか」
すごい勢いでスマホに文字を打ちこんでいる。
「マチョコちゃん、吉木くんのこと本当に好きなんだね」
マチョコの真剣な表情を見て、改めて思った。彼女は目を上げて、それが何か、という顔をする。
「わたしさ、フられたんだよね。多分好きだった人から」
「多分て」
「分かんないんだ。自分の気持ちが分かんなくてさ」
「変なの。心理学部なんじゃないの」
「だから心理学部に入ったんだろうね」
マチョコはスマホをテーブルの上に投げ出して、アイスコーヒーのストローを吸った。
「好きだったって。もう好きじゃないわけ」
どうでもいいけど、というトーンで訊いてくる。マチョコのスマホに吉木から『マジか。秒で行きやす』と、ダッシュしている絵文字付きのメッセージが来たのが見えた。
「分かんないけど、フられたら諦めなきゃいけない気がして。だから、マチョコちゃんのことすごいなって思う」
「馬鹿にしてんの?」
「え、してないよ」
褒めたつもりだったのだけど、気分を害してしまっただろうか。
「まあいいけど」
ムッとした顔をしたのは一瞬のことで、マチョコは鞄から学生証を取り出した。
「あたし、自分の名前が嫌いなんだよね」
そう言って私の前に置いた。マチョコの顔写真の横に、『本間千代子』と書かれている。
「昭和通り越して大正かって。このババくさい名前が嫌で、名前で呼ぶなって周りに言ってて」
恥を晒したみたいに、マチョコはすぐに学生証を鞄の中にしまった。
「そしたら、だいたいみんな本間さんって呼ぶじゃん。あたしもとっつきやすい性格じゃないしさ、名字呼びだと何となく距離が縮まんなくて。だからか知んないけど、あんまりクラスに馴染めなかった」
私と目を合わせずに、アイスコーヒーの氷をストローで混ぜて、カラカラと音を鳴らしている。
「でも、高二の時にジュンペーと同じクラスになって。あいつ、誰にでもグイグイいくじゃん。女子のことも平気で名前で呼ぶ奴だからさ、名前で呼ぶなって言ったら、じゃあ、本間千代子だからマチョコなって。そんで、あいつがそう呼ぶから、みんなもそう呼ぶようになって、何となくクラスの輪に入れて」
それでマチョコなんだなと納得した。
「くだらないと思うでしょ。たったそれだけのことでって。でもあたしにとっては、世界が変わるくらいの出来事だった」
マチョコの言葉に、首を横に振った。
「くだらないなんて思わないよ。素敵な話だなって思った」
「そんないいもんじゃないし。あたし、そんなふうに優しくされたことなかったから、ジュンペーが全てみたいになっちゃってさ。ジュンペーがいないと不安で、ずっとついて回ってた。だから大学も一緒。ストーカーかって。自分でも気持ち悪い」
マチョコは自虐するように片頰を上げて笑った。
「でも、サークルは別のところに入ったんでしょ?」
吉木の言った言葉の意味が今になって分かった。
「さすがにいつまでも一緒ってわけにはいかないし」
「吉木くん言ってたよ。マチョコちゃんのこと、頑張ってるんだって」
そう言ったら、マチョコはまたムッとした顔をした。
「あんたに知ったようなこと言われたくないんだけど。元はと言えば、あんたがジュンペーに最低なことしたから、あたしがあんたを呼び出したんだからね」
立場の違いを主張してくる。
「うん。反省してます。ごめんなさい」
「だいたい、何なの、好きだったかもしれないって。はっきりしろっての」
「はっきりしてるマチョコちゃんがすごいんだと思うけど」
「好きかどうかくらい分かるでしょ普通。他の女と楽しそうに喋ってんの見ると嫌だなとかさ」
「うーん。ないからなぁ、そういうことが」
マチョコは露骨に面倒くさそうな顔をした。
「じゃあ、会ってない時につい考えちゃうとか。触りたいとか、キスしたいとか」
「え?」
動揺した自分に戸惑った。マチョコが少し笑った気がした。
「ほら、想像してみなよ、キスしてるとこ」
叶多とキスなんて。無理だ。絶対無理だ。
「赤くなってんじゃん。ウブかよ」
「知らねー間に仲良くなってんじゃん」
不意に上から声が降ってきた。
「遅いよジュンペー。仲良くなってないし」
マチョコが私の頭の上に向かって文句を言う。
「これでも速攻で来たし。マチョコとゆーちんが喋ってるとこなんか想像つかなかったからさ。心配することなかったな」
「全然喋ってないし。ジュンペー早く来いって思ってたし。ほら、ここ座りなよ」
マチョコが立ち上がって、椅子を勧めている。
「ん。サンキュー」
吉木は勧められるままにマチョコが座っていた椅子に腰を下ろした。
「じゃあ、あたしは帰るけど。ちゃんと話せよ」
私に釘を刺して、マチョコは本当にカフェを出ていった。
吉木と二人になって、途端に気まずくなる。
「あの、さ。あの、あ、何か飲み物買ってくる?」
核心を切り出せずにカウンターを指差したら笑われた。
「いーよ。付き合うのやっぱナシって話っしょ?」
「や、いや、そうなんだけど、違くて……」
吉木に気を遣うのなんて初めてかもしれない。つくづく私はこの男の気持ちを蔑ろにしてきたのだなと反省する。
「あの、謝りたくて。わたし、吉木くんにすごくひどいことした。してきた。ごめんなさい」
「いーのいーの。何かもう途中で気づいてたし。あ、これ俺、当て馬になるパターンじゃね?って」
「当て馬?」
「好きだろ、長谷川のこと。自分の気持ちに気づいただろ?」
マチョコに変なことを言われたせいで、顔が熱くなった。そんな私を見て、吉木が口元を緩める。
「今でも長谷川はやめとけって思ってるけどさ。しょうがねーじゃん、好きなんだったら。止めねーよ、もう」
あーあ、と声を出してため息をつきながら、手を頭の後ろで組んでいる。
「でも、フラれたし……」
止めねーよも何もないと思って、そう呟く。叶多は、そんなままごとに付き合っている暇はないと言った。
「あれをフラれたとは言わないっしょ。何?諦めちゃうの?」
「だって、もう来るなって言われたんだよ?」
「本心じゃないって、あんなの」
「それにわたし、カナタくんに何もしてあげられないし」
陽咲や実采に懐かれて、良い人間になれた気がしていた。でも、そんなのはまやかしだ。本当の私は、自分のこともよく分からずに、ふらふらと彷徨っている。
「何でそんな自信なくなっちゃったの?」
吉木が不思議そうに言った。
「ゆーちんって、もっと自信あったじゃん。毎朝みんなに元気よく挨拶してさ。本栖恵梨香にうざいとかひどいこと言われてもやめなくてさ。ちゃんと本栖恵梨香にも毎朝声かけて、どんなに嫌なこと言われても笑顔で話しかけてて。勝ったじゃん、そんで。最後には本栖恵梨香と仲良くなってたじゃん」
吉木は私のことを、そんなふうに見ていたのだなと思った。
「俺、正直、ゆーちんって馬鹿なのかなって思ってたよ。話しかけたって、結局嫌な感情ぶつけられるだけなんだから、やめといたらいいのにって」
吉木はテーブルの上に身を取り出して、片肘をついた。
「だからさ、結構俺的には衝撃的だったんだよね。あの本栖恵梨香が、ゆーちんに笑顔を向けてさ、家に遊びにいくって言うの聞いた時。そん時分かったんだ。ゆーちんは馬鹿なんじゃなくて強いんだって。自分のやってることに自信があるんだって」
吉木は、笑おうとしてうまく笑えなかったみたいに目を伏せた。
「俺、それでゆーちんのこと好きになったんだよ」
彼の言葉が、胸の中にざらざらと広がって、澱んでいく。
全てはもう遠い過去のことだ。私がまだ父親のことを好きで、自分の名前に誇りを持っていた頃の。優しさが世界を救うと、本気で信じていた頃の。
「ありがとね」
真実を伝えるわけにもいかなくて、短くお礼の言葉を返した。
吉木は結末を誤解しているのだ。恵梨香は私を受け入れたわけではない。私の父親を好きになっただけだ。
父親は私に、優しさを始められる人になれと言った。世の中はつらいことばかりだけど、ふと誰かに優しくされたら幸せな気持ちになって、また違う誰かに優しくなれる。そうやって幸せな気持ちが広がれば、世界が優しくなるはずだ。だから優芽は最初に優しさを始められる人になれ。そんなことを、繰り返し私に言った。
私はそれを真に受けて、そんな人でありたいと思った。だから、みんなが気持ちよく一日を始められるようにと、毎朝明るくクラスの一人ひとりに挨拶するようにしていたのだ。
恵梨香は、そんな私を鬱陶しいと言った。そう受け取る人がいると思わなくて、私は挨拶を続けた。でもそのうちに恵梨香が本気で迷惑がっていることが分かった。そしたら、恵梨香の他にも言わないだけで不快に思っている人がいるのかもしれないと不安になった。自分が今までしてきたことの全てが間違いだったのではないかという気がして、私は泣きながら、父親にどうしたら良いかと尋ねた。
今になって思えば、父親が私の言ったことを完全に理解していたかどうかは疑わしい。でも、娘のために何かしてやろうと思ったに違いない。当時ケーキ職人だった父親は、ケーキを作ってやるからその子を家に連れてこいと言った。私が、父親と恵梨香を引き合わせたのだ。
恵梨香のお母さんはシングルマザーだったから、恵梨香は男親からの愛情を知らずに育ったのだろう。それに、クラスで孤立していたから、友達の家に遊びに行く経験があまりなかったのだと思う。初めて会った私の父親に対して、恵梨香は愛情を求めた。それは、初めのうちは親としての愛情だったのが、異性としての愛情へとエスカレートしていった。
家で二人が性行為をしているのを見たことがある。中学生になったばかりの頃だ。恵梨香が父親の上にまたがって、喘ぎ声をあげていた。その時はまだ、その行為の意味することが分からなかったけど、いけないものを見てしまったような気がして、お母さんに言えなかった。
お母さんは早い段階から気づいていたと思う。中学生になる前から、恵梨香が家に出入りするのをやめさせようとするようになった。父親に懇々と、娘の友達が父親目当てに家に来ている状況がいかに変なことであるかを説明していた。
お母さんは決して、そこに法律を持ち出したりはしなかった。弁護士だからこそ、持ちこみたくなかったのかもしれない。不倫だとか淫行だとかそんな言葉ではなくて、妻を悲しませる行為だとか、大人としての責任だとか、そんな言葉を使って、感情に訴えるやり方で恵梨香との関係を咎めた。
父親は、お母さんの主張を理解しなかった。俺はお前を愛しているのだから、悲しむのはお前の勝手だと言った。恵梨香のことを可哀想な子だと言って、求められたら与えるのが優しさだと言い張った。父親は恵梨香に同情していたのだ。同じように親からの愛情に飢えた身として、共感もしていたのかもしれない。
お母さんと父親の口論は、いつも堂々巡りだった。
そんな日々の中で、私は叶多と出会い、叶多の家に入り浸るようになったのだ。
優しさを始められる人になりたい。父親がどんなに非常識なことをしても、それは呪縛のように私の目標であり続けた。でも、両親が常に言い争っている家では、優しさを始めるのは難しくて、だから私は叶多に弱音を吐いた。家にいると優しくなれない気がするの、と。
「カナタくんね、わたしに、負けないでって言ったの」
私がそう呟くと、吉木は小さく一つ頷いた。
「挫けそうになったわたしに、俺が愛をあげるから負けないでって、そう言ってくれたんだ」
どうして忘れてしまっていたのだろう。思い出すのがつらかった。家を離れなければいけなかったから。それだけでなく、時を経るごとに自分の父親がしたことを理解できるようになって、自分の血が恥ずかしくてたまらなくなったのだ。
「わたし、多分もう、カナタくんのことしか好きになれないと思う」
声に出して言ってみて、自分で納得した。私は、叶多のことが好きだ。友達以上に独占的な感情で。
「うん。だったらもう何も迷うことねーじゃん。自信なくしんてんじゃねーよ」
吉木は、茶化したり詳しく聞き出そうとしたりせずに、ただニッと笑った。吉木を良い奴だと言った叶多の正しさを認識する。
「行きなよ。俺はもうちょいゆっくりしてから帰るわ」
吉木の言葉に背中を押されるようにして、私はカフェを後にした。
スマホを取り出して、陽咲の名前をタップする。彼女はワンコールも鳴らないうちに電話に出た。
『ユメちゃん!?』
焦ったような声だった。
「どうしたの?」
自分の話どころではなくなって、そう尋ねる。
『それが、ミコトが朝から習字部屋に閉じこもって出てこなくて。あたしさっき学校から帰ってきたんだけど。お兄ちゃんはドアをぶち破ろうとしてる』
「え、ミコトくんは大丈夫なの?」
『元気は元気みたい。ユメちゃんに会えなかったから拗ねてるの。それで……、来てもらうのって、難しいよね……?』
電話の向こうで、ヒナタ、と諌める叶多の声がしている。少し揉めるような話し声の後、陽咲が押し切ったらしい様子が聞こえてきた。
「行くよ。すぐ行くから待ってて」
そう言って電話を切った。
実采の心が繊細なバランスで保たれていることを、私は知っていた。それなのに、自分のことでいっぱいで、実采の気持ちに思いが至らなかった。そんな自分のことが、ほとほと嫌になった。
***
叶多の家の呼び鈴を鳴らすと、新が出迎えてくれた。私の顔を見て、無言でペコリと頭を下げてくる。
少し遅れて陽咲も出てきた。
「ごめんね。こないだお兄ちゃんがあんなこと言ったばっかりなのに」
「ううん。わたしが約束破ったから、ミコトくんを傷つけちゃったね」
家に上がって陽咲の後について習字部屋に行くと、部屋の前に叶多が立っていた。気まずそうな顔で、目を合わせずに「ごめん」と謝ってくる。
「ミコト、ユメちゃん来てくれたよ」
陽咲が部屋の中に呼びかけている。
「嘘だ」
中から実采の声がする。
「嘘じゃないって。いいから開けて」
陽咲が戸をバンバンと叩く。
「ミコトくん。金曜日は、来るって言ったのに約束破ってごめんね」
私が来たことを信じてもらおうと思って呼びかけた。返事が聞こえるまで少し間が空いた。
「ユメちゃんは、俺のことなんかどうでもいいんだ」
実采の声は、聞いているこっちの胸が痛くなるくらい、悲痛な寂しさを帯びていた。
「ミコト。ユメちゃんは家族じゃないんだ。わがままばっかり言って困らせたらダメだろ。いいから早く開けろ」
叶多が叱りつけるように言う。
「そんな言い方」
叶多を見上げて軽く咎めると、少したじろいだようだった。
「ねえ、ミコトくん。わたしがどれくらいミコトくんのことを可愛いと思ってるか知らないでしょ」
考えるような間が空いた後、「どれくらい?」と探るような声がした。
「うーん、ここからだとうまく伝えられないかな」
「どうして?」
「だって、ギューッてしたいもん」
また少し間が空いた。やがて、そっと引き戸が開いた。
「兄ちゃんたちはダメ!」
手を入れて大きく開けようとした叶多に向かって実采が叫ぶ。
「ユメちゃんだけ!」
「ミコト、いい加減にーー」
「分かった。ミコトくん、お邪魔するね」
叶多の声を遮って、戸の隙間をくぐるようにして部屋に入った。
実采が戸を閉めて、つっかえ棒を設置して開かないようにする。
「朝からここにいたの?」
そう尋ねたら頷いた。
「そしたらお腹空いたでしょ」
既に十七時をまわっている。
「ううん。俺は用意周到なんだ」
その言葉の意味することはすぐに分かった。
「すごい。ちゃんと食べるもの用意してるんだね。飲み物も」
食パンやお菓子、ペットボトルの水が置かれている。実采一人だったら数日は持ちそうだ。
「布団だってあるし、ゲームだって、パソコンだってあるよ」
順番に指差して実采が説明する。
「すごい、快適だね。トイレは大丈夫なの?」
そう尋ねたら、実采は恥ずかしそうに小さい声で何やらごにょごにょ言った。聞き取れなくて聞き返したら、実采は繰り返す代わりに部屋の奥を指さした。見るとオムツのパックが置かれている。ちゃんとお尻拭きまである。
「なるほど。賢い」
「これぐらい当たり前だよ。ロージョーなんだから」
「ロージョー?あ、篭城してるんだ、ミコトくん。すごいね、一人で」
「一人じゃないよ。ユメちゃんもここで暮らそう」
私を見上げる瞳が、拒絶しないで、というように心細そうに揺れている。
実采の小さな身体を抱きしめた。
「今日は朝から何してたの?」
身体を離してそう尋ねると、座ってというように手を下に引っ張られた。正座した私の膝の上に、いつものように背中をべったりくっつけて座ってくる。
「ゲームして、YouTube見て、あと、時代劇見た」
「へえ。ミコトくん、時代劇見るんだ」
「見るよ。あのね、篭城するんだけどね、負け戦になってお城を取られちゃいそうになったら、火をつけて燃やしちゃうんだよ。お城の価値を下げるためなんだ」
「そうなんだ。それで篭城なんて難しい言葉知ってるんだね」
「うん。こないだも兄ちゃんと一緒に時代劇見たよ」
「へえ、カナタくんと?」
「うん、二人で見た。それでね、二人でお昼ごはん食べたの」
「そう。何食べたの?」
「お蕎麦。時代劇でお蕎麦食べてたから」
「美味しかった?」
「うん。でも兄ちゃんは本当は寝てる時間なの。だから、眠いって言ってちょっとしか食べなかった」
しょんぼりしたように、実采は声を沈ませた。
「カナタくんと二人で過ごせて良かったね」
そう言ったら、大きく頷いた。
「でも、兄ちゃん分かってないんだ。学校で嫌なことあるのかとか、いじめられてるのかとか、そんなことばっかり聞いてくる。俺、学校が嫌で休んだんじゃないのに」
叶多が心配する気持ちも分かる。
「どうしてお休みしたの?」
私の問いに、実采はすぐには答えなかった。私の腕を自分の身体の前に持ってきて、ギュッと抱えこんだ。
「兄ちゃんといたかったから」
やがて小さな声でぽつりと言った。
「そっか」
相槌を打つ。それっきり黙ってしまって、横からそっと顔を覗きこむと、実采は声も出さずに泣いていた。
「どしたの、ミコトくん」
彼の頰に顔を寄せると、実采の涙が私の顎を濡らした。この子は、わがままを言っているように見えて、いつも我慢している。
実采はついに声をあげて泣き出してしまった。
抱き上げて、正面から抱きしめた。頭を撫でて、背中をさすった。少しでもこの子の寂しさを癒やしてあげられないかと。
実采はしばらく泣いていた。苦しそうにしゃくりあげながら、私にしがみついて泣いていた。その身体が熱くて、熱があるのではないかと心配になるほどだった。
「兄ちゃんは、俺のこと嫌いなんだ」
嗚咽が収まった後、実采は淡々と言った。
「俺がいつもわがまま言って困らせるから。コウタが連れてかれちゃったのも、俺のせいだから」
叔母さんが幸多を連れていってしまったのだと陽咲が言っていた。詳しい事情は知らないけど。
「カナタくんがミコトくんのことを好きじゃないなんてことは、絶対にないよ。こんな可愛いミコトくんのこと、大好きに決まってるでしょ」
実采の柔らかい頬を両手で包みこんで、涙でいっぱいの目に言って聞かせた。
実采は、それには応えず私の膝から降りた。ただの気休めに感じただろうかと思いながらその背中を目で追うと、彼は書道作品が並んでいる壁の前に立って、上の方を見上げた。そこには叶多たち兄弟の名前が並んでいる。
「俺、よそからもらわれてきたんだよ、きっと。だって、俺だけ仲間外れだもん」
どういう意味か分からなくて、その先を待った。でも、実采はそこでまた泣き出してしまった。
「ミコトくん。どこも仲間外れじゃないでしょ」
そばに行って、その手を取って話しかけた。
「だって、兄ちゃん、困ってたもん。名前の由来を聞く宿題が出た時、兄ちゃん、俺の名前の意味、答えられなかったもん」
またしゃくりあげていて苦しそうだ。
「それは悲しかったね。でも、だからって仲間外れってことにはならないでしょ?」
背中をさすりながらそう言ったら、実采は首を大きく横に振った。
「俺だけ仲間外れだよ。俺だけ違うもん。みんな、名前がタで終わるのに、俺だけ、ミコトだもん」
口を尖らせて、そう主張する。カナタ、ヒナタ、アラタ、ミコト、コウタ……。
『どうしてミコトくんだけ違うの?』
この部屋で、叶多のお母さんに尋ねたことがある。あの頃実采はよちよち歩きをしていて、幸多は生まれたばかりだった。
「ミコトくん、わたしそれ知ってるよ。ミコトくんのお母さんから聞いたことあるよ」
そう言ったら、実采は涙の溜まった目を大きく見開いて、こちらを見つめてきた。濡れたまつ毛から雫がこぼれ落ちて、真っ赤な頬を流れていく。
「ミコトくんが生まれた時ね、すっごく可愛かったんだって。お兄ちゃんたちももちろん可愛かったけど、ミコトくんは特別可愛かったんだって。もう可愛くて可愛くて、お兄ちゃんとお姉ちゃんも一緒になって、きっとすっごく甘やかしちゃうと思ったんだって」
叶多のお母さんの、幸せそうな口ぶりを覚えている。懸命に歩く実采を見つめる、優しい眼差しも。
「ミコトくんの名前の二つめの漢字は、掴み取るっていう意味なんだって。甘えっぱなしの子にならないように。自分から掴み取れる子になるようにって、そう願って、お母さんはミコトくんにこの名前を付けたんだって」
実采の名前を指し示しながら、そう説明した。
「タで終わる名前にこだわってるつもりはなかったって言ってたよ。ミコトくんの名前を付けてから、そういえばって思ったけど、仲間外れだなんて思わせないくらいみんなが可愛がるから大丈夫なんだって、そう言ってミコトくんのお母さん、笑ってた」
私がこの話を覚えていたのは、実采の未来に想いを馳せたからだ。優しさしか存在しない世界で生きていくことを信じて、とても温かい気持ちになれたからだ。家に帰れば永遠に分かり合えない両親の、終わることのない言い争いを聞かされる日々の中で、優しい世界があることを信じて、心が癒されたのだ。
「その話、ホント?」
目をぱちくりさせてそう確認してくる実采に、大きく頷くことで応えた。
「そっかぁ」
実采は小さな肩いっぱいに深呼吸をして、少しの間自分の名前を見上げていたかと思うと、腕で涙を拭った。
「兄ちゃん、怒ってるかなぁ」
心配そうに訊いてくる。
「篭城、おしまいにするの?」
そう尋ねたら、こくりと頷いた。
「カナタくんはミコトくんのことを心配してるだけだよ。安心させてあげよう」
実采は再び頷いて、入口にかけていた棒を外した。戸を引き開けて、わっと声を上げる。
「籠城してたのか」
ドアの前に立っていた叶多が、実采を抱き上げた。
「根性があるな、ミコトは」
そう言って笑いかけている。
「ごめんな、名前のこと。そんな風に思ってるなんて知らなかった。ユメちゃんが覚えててくれて良かったな」
叶多は実采を降ろすと、しゃがんで目線を合わせた。
「コウタのことは、ミコトは何も悪くないよ。連れていかれたのは、ミコトのせいじゃない。俺が夜勤を始めたからだ」
部屋の前でずっと聞いていたのらしい。
「コウタが夜泣くようになって、ミコトも寝れなくてしんどかったよな。寂しい思いをさせるのは分かってたよ。でも俺な、昼間に働くのはもう嫌だったんだ。去年ミコトが熱出した時、どうしても仕事休めなくて、誰にもミコトのこと頼めなくて、独りぼっちにさせちゃったことがあっただろ。あんなことはもう二度としたくなかった。ミコトのせいじゃなくて、俺が、耐えられなかったんだよ」
私のところからは実采の表情は見えない。でも、その背中は、叶多が真剣な顔で話すのを、じっと聞いている。
「コウタはまだ小さいし、父さんと母さんのことを覚えてないのが可哀想で、ついついいっぱい構うけど、ミコトのことだっていつも大事に思ってるよ。ミコトと二人でゆっくり過ごせて、俺も楽しかったよ」
叶多に優しい顔で見つめられて、実采がギュッと両手を握りしめた。
「俺だって、」
それは、耳を澄ませないと聞き取れないほどの小さな声だった。
「お父さんとお母さんのこと、覚えてない。学童から帰る時、みんなお父さんとかお母さんが迎えにくるけど、俺だけ、アラタ兄ちゃんなの」
言いながらまたしゃくりあげている。その身体を叶多が抱きしめた。
「寂しいな。でも、学童が終わる時間になったら、アラタがすぐに迎えにきてくれるだろ。あいつも学童に行ってたから、ミコトの気持ちが分かるんだよ。だから、ミコトが少しでも寂しい思いをしないように、早めに行ってくれてるんだよ。あんな優しい兄ちゃん、どこを探してもいないよ」
身体を離して、実采の涙を手の平で拭いながら叶多は続けた。
「覚えてないって言うけど、ミコトは母さんの膝に座るのが好きだったんだよ。だからユメちゃんの膝に座ると落ち着くんだろ」
嗚咽で上下する実采の背中を、叶多がポンポンと叩く。
「泣くようなことなんて何にもないだろ。ここにいる人はみんなミコトの味方だよ。姉ちゃんなんかミコトのためにカレー作るって今材料買いに行ってるんだ。……あ、帰ってきたかな?」
叶多の言う通り、玄関でガラス戸が開く音がした。実采が、部屋の外に顔を出して玄関の方向を見つめる。
「おはよ。やっと会えたね」
向こうの方から陽咲の声がして、足音が近づいてくる。
「何泣いてんの、ミコト」
買い物袋を手に提げた陽咲が現れて、実采の頭をポンポンと叩いた。
「姉ちゃん、ごめんね」
実采が陽咲に抱きつく。朝から一悶着あったのだろう。
「おいで。カレー作るの手伝ってくれる?」
実采が大きく頷く。陽咲がその頭を撫でながら、私をチラッと見た。そして、しゃがんだままの叶多に視線を移す。
「お兄ちゃんは、ユメちゃんと話すことあるよね」
「え?いや……」
叶多が言葉を濁しながら立ち上がる。
「あるよね?」
有無を言わせない口調でそう繰り返した陽咲に圧されるようにして、叶多が部屋の中に後ずさってきた。少しふらついたようにも見えた。
「さ、行こ」
陽咲は実采を連れて台所の方へ行ってしまった。叶多と二人、習字部屋に残される。
何をどこから話そうかと思っていると、叶多が崩れ落ちるようにその場に座りこんだ。
「だ、大丈夫?」
慌てて近寄った私を、問題ない、というように手で制してくる。
「ただの寝不足」
叶多が端的に原因を述べる。
「じゃあ横になる?布団こっちに持ってこようか?」
「ううん、今横になったら起き上がれない気がする」
今日も仕事に行くつもりなのだ。
「ごめん、ユメちゃん。こないだは言いすぎた。余裕がなくてどうかしてたんだ。申し訳なかった」
眩しそうに私を見上げて、謝ってくる。
「でも、本当に巻きこむ気はないんだよ。今さら何言ってるんだって思われるかもしれないけど……」
「わたし、巻きこまれたなんて思ってないよ」
叶多の前に膝をついて座った。
「むしろ、わたしの方こそ出しゃばってごめん。カナタくんがわたしを遠ざけようとしてるの、分かってたんだけど、」
それでも私がここに来るのをやめなかったのは、陽咲や実采のことを気にかける以上に。
「カナタくんに会いたかったの」
叶多にもう来るなと言われて初めて、そのことを自覚したのだ。
「じゃあどうしてこっちに戻ってきた時、すぐに会いに来なかったの」
語尾を上げずに叶多が問う。
「それは……」
訳を説明しようとして少し迷った私に、叶多が固い微笑みを向けた。
「理由が知りたいんじゃなくて、俺に会いたいなんて嘘だよねって話。俺にまで優しくしてくれることないよ」
話は以上だと言わんばかりに叶多が立ち上がろうとする。
「好き」
引き留めたくて、喉の奥から絞り出した。叶多が動きを止める。
「くだらないって思われても、ままごとみたいだって言われても、わたしは、カナタくんのことが好き」
ありったけの勇気を出した唇が震えている。少しの沈黙の後で、叶多がハハッと乾いた笑い声をあげた。
「冗談でしょ。こんな高校も出てない男なんか」
胡座をかいた足に目を落として、掠れた声で言った。
「そんなの関係ないよ。いや、ちょっとはあるかな。もしカナタくんがすごい大学とか行ってたら、好きだなんて言えなかったかも」
叶多は目を伏せたままだ。
「こっちに戻ってきた時、すぐに会いに来たかった。戻ってくる前からカナタくんにずっと会いたかった。本当だよ。でも、怖かったの。わたし、わたしね、自分の父親のことが恥ずかしくて、カナタくんに知られてドン引きされたらって思ったら、会いに来る勇気が出なくて、それで、カナタくんの家の周りをうろうろしてたの。図書館にいたのも、バッタリ会えたりしないかなって期待してたから。情けないでしょ」
叶多がちらりと視線をよこした。
「お父さんのことって、子供のこと?」
彼の口から発された言葉に、冷水を思いっきり浴びせられたように胸が冷たくなった。
「母さんから聞いた」と叶多は言った。
確かに叶多のお母さんは私の家の事情を知っていた。だから私を快く受け入れてくれていたのだ。でも、叶多が知っているとは思わなかった。
「でも、そんなことーー」
「じゃあ、知ってる?」
何かを言いかけた叶多の言葉を遮った。
「お父さんが妊娠させたのは、わたしの小学校の時の同級生で、妊娠した時まだ中二だったんだよ。そういうことをし始めたのは、まだ小学生の時だったのかもしれない」
ヤケクソのような気持ちになって、恥を全部さらした。叶多が今まで、父親のことを知った上で私と接していたのだという事実に、耐え難いショックを受けていた。
「知ってるよ」
叶多の答えに、胸が張り裂けそうになった。
「ユメちゃん。でも、そんなことで誰もドン引きしたりしないし、ユメちゃんが引け目に感じることもないよ。そうでしょ」
再会して以来、一番、叶多がこちらに歩み寄ってくれているのを感じる。でも、今度は私が、叶多の目を見ることができない。
「俺は兄弟の面倒を見ないといけないからさ。あいつら大きくなるまで時間かかるからさ。だから、俺のことなんか忘れてーー」
そこで叶多が言葉を切ったのは、私の目から涙がこぼれたことに気づいたからだ。何が悲しいのか自分でも分からなかった。お母さんが死んだ時は、涙ひとつ出なかったのに。
「ここで泣かれたら困るよ……」
本当に困り果てた声で、叶多が言う。
「うん、ごめん」
泣き顔を隠すために立ちあがろうとしたら、叶多がこちらに身を乗り出してきて、私の手首を掴んだ。
「俺、ユメちゃんのことが大事なんだ」
叶多がまっすぐに私の目を見てくる。掴まれた手首が痺れるみたいに熱い。
「大事だから巻きこみたくないんだよ。だから、もう俺のことはーー」
「何で」
対する私はみっともないくらいの鼻声だ。
「負けないでって言ってくれたカナタくんが、わたしに諦めろって言うの?好きになってほしいって言ってるわけじゃないのに」
私はもう叶多のことを諦めないと決めたのだ。父親のことを叶多が知っていたことに動揺している場合ではない。叶多に伝えられずに飲みこんだ言葉がたくさんある。私はもう二度と、叶多を諦めたくない。
「そんなの、とっくに好きだよ」
叶多が私から手を離して言った。
「昔から好きなままだよ。この前、くだらないとか言ったのは、自分にそう言い聞かせてたんだ」
叶多は、こちらに身体を乗り出していたのを戻して座り直した。呆気に取られた私の視線から逃れるように目を伏せて、こめかみを掻いている。
「あの時、何でユメちゃんの隣に吉木が座ってるんだって、どうして俺だけこんな目に遭わなきゃいけないんだって、思って、思ってしまって、そんな自分が許せなかった。それであんな言い方したけど、ユメちゃんは自由に恋愛とか、サークルに入ったりとか、大学生らしいことをしたらいいんだよ。俺はさ、何もしてあげられないし、一緒にいたって退屈なだけだ。俺より良い奴なんていくらでもいるでしょ。吉木ーー」
「なめないでよ」
私の強い言葉に、叶多は少し驚いたようだった。
「わたし、カナタくんに何かしてほしくて好きって言ってるんじゃないよ。ただ一緒にいたいだけなの。むしろカナタくんのためにできることがあるんだったら、何でもしてあげたい」
今度は私の方から身を乗り出した。
「だから、カナタくんのそばにいさせて」
恥ずかしさも遠慮も捨てて、裸の言葉をぶつけた。叶多の瞳が揺れている。一、二秒ほど見つめ合った後、顔を背けられた。
「ダメだよ、やっぱり。ユメちゃんは知らないんだ。俺が最低な人間だって。ユメちゃんに好きになってもらえるような奴じゃないんだよ」
何が叶多をそんなに頑なにさせるのだろう。知りたくて、でも訊けなくて、凝縮された沈黙が流れた。後に戻ることも、先に進むこともできずに、私は祈るような気持ちで叶多の言葉を待った。
叶多は長いこと逡巡の表情を浮かべていたけど、やがて覚悟を決めたように口を開いた。
「父さんと母さんを轢いた居眠り運転のトラックの運転手だけど、」
そんな風に彼は話し始めた。
「若い男でさ、向こうも足に後遺症を負った。おそらく一生満足には歩けないだろうって。そいつが、一度ここを訪ねてきたことがあるんだよ。俺の叔母さんが勝手に住所を教えたんだろうな。松葉杖をついて、両親に支えられて、立つのもやっとって感じで、玄関の前に立ってた」
そこまで淡々と話して、叶多は肩で大きく息をついた。
「俺、そいつを突き飛ばした」
痛みを堪えるような声だった。
ギュッと握りしめた拳がまるで、彼の心を表しているようで、たまらなくなって口を挟もうとしたけど、叶多は止まらずに少し早口になって続けた。
「それだけじゃない。死ねとか、人殺し、とか、思いつく限りの暴言を吐いた。そいつは親が助け起こそうとするのを拒んで、動かない足を引きずって這いつくばるようにして必死に土下座しようとしてた。けど、俺はそいつが持ってきた菓子折りか何かを投げつけて、何も聞かずに戸を閉めた。それっきり、会ってない」
叶多は、自分のしたことにどれだけ傷ついただろう。彼の胸の痛みを想って、また一つ涙がこぼれ落ちた。
「ユメちゃん、言ってたでしょ。名前の通り、優しさの芽になるんだって。マイナスの感情を終わらせて、優しさを始められる人になるんだって。俺はそんなユメちゃんに憧れた。俺もそういう生き方をしたいと思ったし、ユメちゃんが挫けそうになった時に支えられる人になりたかった。でも、俺には無理だよ。俺、そんなできた人間じゃなかったんだ。こんな俺、ユメちゃんに好きになってもらう資格ないんだよ」
叶多が言い終わる前から私は首を横に振っていた。何度も横に振っていた。
「そんな生き方、わたしだってできてないよ。わたしなんか、全然ダメだよ」
父親からの優しさを何度終わらせてきただろう。その形が気に入らないからという理由で。
「昔のわたしは、世間知らずだったし、カナタくんがいつも味方でいてくれてたから、頑張れてただけなんだよ」
叶多は私のことを美化していたのだと思った。
再び静寂が落ちた。台所の方から実采の楽しそうな笑い声が聞こえる。叶多の喉仏が大きく上下した。
「俺のこと、軽蔑しないの?」
叶多は静かにそう尋ねた。
「軽蔑も何も、お父さんとお母さんを死なせた人を許せないのなんて当然でしょ」
私の答えに、叶多がまだ迷うような目をしている。
「今の話を聞いてもまだ、俺のことを好きだって言ってくれるの?」
不意に、さっきマチョコに言われて叶多とのキスを思い浮かべたことを思い出した。
「何回も言わせないで……」
耳まで熱くなる。
「俺、諦めはいい方だけど、諦めないって決めたものには執着するよ。いいの?」
こっちの気も知らないで、叶多がしつこく確認してくる。
「勝手に諦めないでよ」
顔が赤いのを隠したくて頬を覆う。叶多が息だけで笑った。
「うん。諦めはいいはずだったんだけど、ユメちゃんに会うのはつらかった。ミコトが甘えてるの見て、割と本気で嫉妬したりしてさ」
「嘘でしょ。あれはミコトくんのことを独り占めしてるわたしに嫉妬してたんでしょ。すぐにわたしから取り上げてさ」
「いや、取り上げたのは、重くないかなって」
「全然重くないし。ミコトくんって、昔のカナタくんにそっくりで可愛くて仕方がな……」
恥ずかしい発言をしてしまったのではないかと気付いて、途中で言葉を止めた。
「可愛い、ね……」
叶多はなぜか少し落ちこんだようだった。
「あれが重くないなら、ちょっといい?」
「え?」
叶多は隣にやってきたかと思うと、横になって私の膝の上に頭を乗せた。目が合って、照れくさそうに身体の向きを変えている。
「ミコトが時代劇見るのが好きでさ。お殿様が膝枕してもらってるシーンがあったんだけど、半分寝ながら見てたらユメちゃんにしてもらう夢見て。まさか正夢になるとは思わなかったな」
「へ、変な夢……」
ふふ、と叶多が笑う。こっちは心臓バクバクで死にそうだというのに。
「重くない?」
「う、うん、大丈夫」
全身が痺れてしまったみたいで、重さを感じる余裕もない。
「初めて会った時のこと、覚えてる?」
ガチガチに緊張している私をよそに、叶多はそんなことを訊いてきた。
「保健室、だったよね」
何とか落ち着いた声を出せた。
「うん。俺、ユメちゃんに女の子だって勘違いされて」
「ごめんね、あの時は」
六年越しに謝る。叶多がまた息だけで笑った。
「それまではさ、全然背が低いのとか気にしてなかったんだけど、あの日からめっちゃ牛乳飲んで、筋トレした」
そこまで傷つけていたとは知らなかった。
「俺ね、あの時にユメちゃんのこと好きになったんだよ」
「え?」
驚きの声をあげた私を、叶多が頭を浮かせてチラリと見上げた。
「知らなかった?」
「し、知るわけないじゃん」
そんなやりとりをして、叶多は声をあげて笑った。
「俺が頭に鉄棒をぶつけてたんこぶができたって言ったら、ユメちゃん、俺の頭に触って、本当だって嬉しそうに笑ってさ。何でそんなに嬉しそうなのって訊いたら、人が笑ってるの見たら幸せな気持ちになって痛みが飛ぶかなあと思ってって」
「……そんな変なこと言ったっけ、わたし」
会話の内容までは覚えていなかった。
「完全に心を鷲掴みにされたよ。だから、悔しかったんだ。ユメちゃんに女の子だって思われたのが」
「だって、可愛かったんだもん。俺男だよって言ってくれたら良かったのに。制服姿見てめちゃめちゃびっくりしたんだからね」
私の恨み言に、叶多がまた笑い声をあげる。
「ユメちゃんが俺のことを覚えててくれて、嬉しいような、忘れててほしかったような、複雑な気分だったな。でも、ユメちゃんに話しかけられて、こんなチャンス二度とないかもって思ったから、勇気を振り絞って家に誘ったんだ」
初耳だった。誰でも気軽に誘っていたのかと思っていた。
「図書館で会った時さ、ユメちゃんに初めて会った時のこと思い出した。あの時も俺、頭にたんこぶができて、ユメちゃんが撫でてくれたでしょ。それで、好きになった気持ちとか、女の子だと思われて悔しかったこととか、男らしくなりたくて筋トレしたこととか、ぶわーって思い出して、そしたら勝手に涙が出た」
そういうことだったのか、と納得した。あの時は、痛くて泣いているのかと思って焦った。
「そんな自分に動揺した。もうそういう感情は捨てたつもりだったから。だから、本当はユメちゃんに会ったら普通に友達として接しようって決めてたのに、必要以上によそよそしくしちゃって」
ごめんね、と謝ってくる叶多に、言葉を返す代わりにその頭を撫でた。
「感情を捨てるなんて」
彼の言葉を拾って呟いた。
「カナタくんが全部背負いこむことないのに」
兄弟のことを一人で抱えてきたのだ。
「でも、俺のせいだから。父さんたちが死んだの」
叶多はそんなことを言った。
「俺、高校入ってバイトしてさ、最初のバイト代を父さんと母さんに渡して、二人で出かけて来なよって言ったんだ。母さんは、コウタがまだ小さいからって渋ってたけど、コウタももう三歳になったし俺たちが面倒見てるから大丈夫だって押し切って、それで、日帰りで温泉に行くくらいならって出かけた。そこで事故に遭ったんだよ」
頭を撫でる手を止めた私を見上げて、叶多は小さく微笑んだ。
「俺がそんなことしなかったら、父さんたちは死ななかったんだよ。叔母さんは、三歳の子供を置いていくなんてって母さんのことを悪く言うけど、俺が悪いんだよ。母さんは、俺の気持ちを汲んで行ってくれたんだ」
悔やむような声が、彼が今も罪悪感に苛まれていることを示している。
「カナタくん、最初のバイト代はお母さんたちのために使うって言ってたもんね。それで、その次に、わたしのところに会いにきてくれるって」
癖になったみたいにまた泣いている。
「メール読んでくれてたんだ」
叶多からのメールにそう書いてあったのだ。
「読んでたよ。鬱陶しいなんて思ったことない。いつも嬉しかったよ。本当は、会いにきてくれるの、待ってた」
私の涙が叶多の頰に落ちた。慌てて拭こうとしたら、手を掴まれた。彼の頰から耳に向かって、雫が流れていく。
「会いにいけなくて、ごめんね」
首を横に振る。ぽたぽたとまた涙が落ちて、鼻を啜りながら上を向いた。謝らなければいけないのは私の方だ。私がメールに返事をしていれば、叶多は一人で抱えこまなかったかもしれないのに。
「あ!」
不意に実采の声がした。部屋の入り口を見ると、もう姿はなく、パタパタと遠ざかる足音が聞こえる。そういえばさっきからカレーの匂いがしている。叶多が跳ね起きて声のした方を見ながら固まっている。
「姉ちゃん、姉ちゃん、あのね、兄ちゃんが、お殿様のヤツやってた」
実采の興奮した声がここまで聞こえてくる。陽咲の声は聞こえないけど、何か受け答えをしているような間の後で、「そう、膝枕!」と実采が叫んだ。
「ちょっ、ミコ……」
叶多の慌てた様子がおかしくて、思わず吹き出した。戸が開けっぱなしなのに大胆だなとは思っていた。
「やっとユメちゃんの笑った顔見れた」
私の涙を指で拭いてくれながら叶多が言った。
「……わたしが笑わないの、気づいてたの?」
叶多は気づいていないかと思っていた。
「そりゃ気づくよ。吉木に馬鹿にされたけど、俺だって本当はユメちゃんのこと知りたくて、我慢してたんだから」
また泣きそうになって俯いた。
「ごめん、重かったよね。俺、調子に乗っていつまでも頭乗せてたから」
何を勘違いしたのか叶多がまた謝ってくる。ぐっと涙を堪えて顔を上げた。
「お殿様になった気分になれた?」
そう冗談めかして尋ねたら、叶多は照れたように頭を掻いた。
「いや。もっと落ち着くものかと思ってたけど、ドキドキしちゃって」
「普通に話してたじゃん」
「そう?」
じっとこちらを見つめてくる。なぜか、叶多の考えていることが分かった。
「キスしていい?」
それは多分、私もしたいと思ったからだ。
でも。
「見らーー」
足音が近づいてきているから、見られると言おうとしたのに、叶多の顔が近づいてきて、私の口の端に触れた。それと同時くらいに、部屋の入り口にスカートを履いた足が現れたのが見えた。
「カナタくん……」
「あたしだって邪魔したくないけどさ」
陽咲の声に、叶多がビクッとして身を引く。
「お兄ちゃん今日も仕事行くんでしょ。もう結構いい時間だよ」
「え、もうそんな時間?」
ハッとしたように壁にかかった時計を見た。私も一緒に見上げると、十九時をだいぶ過ぎている。
「ヤバ。ユメちゃんどうする?泊まってく?」
自分より先に私の心配をしてくる。
「今日は帰ろうかな。明日の課題をやらなきゃいけないから」
「そっか。じゃあ夕飯食べてってよ。送るから」
「いや、いいよ。カナタくんフラフラじゃん。仕事休みなって言いたいくらい」
「大丈夫、めっちゃ元気出た」
「はいはい、そういうのは後にして。お腹空いたよね、ミコト」
陽咲が割って入って、後からやってきた実采が頷く。台所に向かいながら、叶多が実采に、いつもより早く家を出ることの許可を求めている。何としても家まで送ってくれる気だ。叶多も割と頑固だ。
二階にいた新も降りてきて、五人でカレーを食べた。
「ちゃんとユメちゃんに謝ったの?」
陽咲が私の頭越しに叶多に念押しするように尋ねる。私は、いつもは幸多が座っている、陽咲と叶多に挟まれた席だ。
「謝った、つもりだけど」
叶多が歯切れ悪く答える。
「うん、そんなに謝らなくていいのにってくらい謝ってたよ」
私がフォローすると、それならいいけど、と陽咲はひとまず納得したようだ。
「叔母ちゃん、今度の土曜日にコウタ連れてくるんでしょ?」
陽咲に訊かれて、叶多が肯定する。
「コウタ奪還計画だけど、」
陽咲が策士のような言葉を口にした。実采が、ダッカンケイカク?と繰り返す。
「叔母ちゃんはさ、夜、未成年しかいない家に未就学児童を置いておくことを問題にしてるわけじゃん。そしたら、ユメちゃんがいるってことにすれば良くない?」
「そんなことできるわけないだろ」と叶多が一蹴する。
「いや、だから、本当にいる必要はなくてさ、いるってことにすればいいじゃんって話。叔母ちゃんだって、なんだかんだ理屈付けてるだけなんだから」
「無理やり連れ戻したって、コウタが幸せとは限らないだろ」
叶多がカレーを頬張りながらモゴモゴと言い返す。陽咲はムッとしたようだった。
「じゃあどうすんの?」
「どうもしないよ。叔母さんが本気で引き取ってくれるって言うんだったら、その方が良いだろうし」
「はあ?本気で言ってんの?」
陽咲がスプーンをお皿に置いて叶多の方に向き直る。
「お兄ちゃんが言ったんじゃん。兄弟がバラバラになるのは絶対に嫌だって。そのために高校辞めたんじゃなかったの?だいたいお兄ちゃん、叔母ちゃんのこと嫌ってんじゃん。そんな人のところにコウタをやって平気なわけ?」
叶多はゆっくりと口の中のものを咀嚼して、飲みこんでから口を開いた。
「兄弟は一緒にいた方が幸せだって思ってたけど、そうじゃないかもしれないって思い直したんだよ。叔母さん、コウタのこと可愛がってくれるだろ。コウタは顔つきがあっちの方の血筋だもんな。向こうでは泣いてないって言うし」
「だからって、はいどうぞって渡すわけ?信じらんない。コウタが可哀想」
「俺だってコウタを手放すのは本意じゃないよ。でもーー」
「邪魔になったんだ、コウタのこと。そうだよね、お兄ちゃんだってしんどいよね。せっかくユメちゃんと……、ん、今のはナシ」
陽咲がバツの悪そうな顔をして取り消す。
食卓がシンとした。口を出すのも躊躇われて、居たたまれない気持ちでカレーを口に運び続けた。
早々と食べ終わった新が、隣に座る実采に早く食べろというように目配せをして、お皿を下げて二階に上がっていった。本当に気を遣ってばかりの子だ。
「大丈夫だから、ゆっくり食べな」
同じく食べ終わった叶多が、実采の肩に手を置いて優しく声をかける。
「ユメちゃんも、ゆっくり食べて。俺、シャワー浴びて着替えてくる」
そう言い置いて、台所を出ていった。二階に上がる足音がするから、新に何かフォローしに行ったのかもしれない。
「ごめん、変なこと言って」
叶多がいなくなってから、陽咲が謝ってきた。
「本当は嬉しいんだよ。あのアホ兄がやっと自分の気持ちに素直になったかって。なのに、余計なこと言っちゃう自分が本当に嫌だ……」
見るからに落ちこんでいる。宥めながら、ん?と思った。
「ていうか、素直になったって。気づいてたの?」
叶多は私に気があるような素振りを全く見せなかったのに。
「気づいてたに決まってんじゃん。ミコトだって分かってたよね?お兄ちゃんがユメちゃんのこと好きなのバレバレだったもんね?」
陽咲に問いかけられて、黙って食べていた実采が大きく頷く。
「だって兄ちゃん、ユメちゃんがいる時ちょっと機嫌良かった」
なんと。実采まで知っていたなんて。
「でも兄ちゃん素直じゃないから。見捨てないでやって」
実采がそんなおませなことを言うので、思わず笑ってしまった。何で笑うの、と実采がむくれて、慌てて謝る。この子だって真剣に叶多のことを想っているのだ。
「ミコトは、コウタに戻ってきてほしくない?」
カレーを口に運んだ実采に、陽咲が尋ねた。実采がモグモグしながら首を傾げる。
「あんたの大事な弟でしょうが」と陽咲。
「だってコウタうるさいんだもん」
「静かになって寂しいとか思わないの?」
「思わねーし」
悪態をつきながら、少し困っているようにも見える。
「ミコトくんも、カナタくんとおんなじかな?」
助け舟のつもりでそう声をかけた。
「素直じゃないだけかな?」
笑いかけると、実采はモジモジして黙ってしまった。否定しないのは、そういうことだろう。
「まったく、兄弟揃って面倒くさい奴らだな」
陽咲が呆れたようにため息をついた。
帰りは、ツナギを着た叶多が自転車を押しながら家まで送ってくれた。
「ヒナタに悪気はないんだ」
と、開口一番妹を庇ってから、叶多は私のことを質問攻めにした。転校した先での話を一通り訊いた後は、大学について、授業の内容から交友関係に至るまで詳細に知りたがった。千尋の話をしたら、いい友達だねと言ってくれた。
思い出話もした。叶多と同じ思い出を共有していることが確認できて、嬉しかった。
父親の記憶が正しかったことも証明された。『俺が愛をあげるから負けないで』と私に言ってくれた時のことを、叶多は恥ずかしそうに回想した。声変わりの最中でうまく声が出せなくて、伝えたいことがどんどん溜まっていって、一番伝えたいことだけを端的に言葉にしたらそうなったのだと、叶多は説明した。
その後はまた、今の私の話に戻った。叶多に興味を持ってもらえるのが嬉しくて、訊かれるままに話したけど、「どうして心理学部を選んだの?」という問いにだけは、本当のことを打ち明けることができなかった。「面白そうだと思ったから」という作り物の答えを返した私に、叶多は「そっか」とだけ言って、それ以上追及しなかった。
「みんなどうやってやりたいことを見つけるんだろうと思って」
追及しない代わりに叶多はそんな疑問を口にした。
「アラタの授業参観に行ったら、教室に将来の夢っていう作文が貼り出されててさ、アラタの奴、中学出たら働いて俺とヒナタに恩返しするって書いてた」
笑っているような息遣いに、笑うことで他の感情を抑えているのが分かった。
「それでベンチに座りこんでたの?」
私の父親に目撃されていたことを知って、叶多は「みっともないとこ見られちゃったな」と苦笑いした。
「授業参観の後に林間学校の説明会があったんだけど、アラタが三日間もいないの大変だなって思っちゃって。俺に余裕がないからアラタがあんなに気を遣うようになったのかなとか考えて、凹んだ」
気持ちを整理してから帰りたかったんだ、と付け足した。
「アラタくん、やりたいこと見つけられるといいね」
気の利いた言葉も見つからず、ただ叶多の想いをなぞった。
叶多は、そんな私の手を取って、反対側の手で押す自転車のペダルに足をぶつけながら、ゆっくりと歩いた。
***
土曜日は、叶多の叔母さんが幸多を連れて家に来るという。叔母さんはすっかり幸多を引き取る気でいて、幸多の荷物を回収するのが目的らしい。幸多を連れてくるのは、叶多がそうするよう頼んだからだそうだ。
叶多は、初めは幸多を手放すことを拒否していたけど、今は幸多自身にどうしたいか決めさせるつもりみたいだと、陽咲が苦々しげに教えてくれた。
そんな場に部外者の私がいたら邪魔なだけだろうと思ったけど、陽咲にいてほしいと懇願された。叶多は叔母さんのことを嫌っていて、会う度に突っかかってしまうのらしく、私がいれば少しは落ち着いて話ができるかもしれないから、ということだった。叶多も、私に来るなとは言わなかった。
それで、余計な口は出すまいと心に誓って、昼過ぎに叶多の家に行った。
陽咲と実采に出迎えられながら家に上がった時、二階から「俺に構ってないでさっさとユメさんのところに行ったらいいだろ!」と新が怒鳴っているのが聞こえた。
「お兄ちゃんがしつこいからキレてる」
少し驚いた私に、陽咲がいつものことのように説明した。叶多は、粘るのかと思いきや、あっさりと切り上げて降りてきた。
「おはよう」
新の態度を引きずる様子もなく、穏やかな表情だ。
実采にTシャツの裾を引っ張られて軽く屈むと、
「兄ちゃんね、コウタのもの全部、鞄に入れちゃったの」
と耳打ちしてきた。
「まだコウタを叔母さんの家にやるって決めたわけじゃないよ」
聞こえたようで、叶多が実采の頭に手を置いて諭すように言う。
「でも、コウタがそっちの方が幸せなんだったら、その方がいいだろ?」
叶多に問われて、実采が助けを求めるように私を見上げてきた。
「ちょっと。ミコト困ってんじゃん」
陽咲が実采の肩を抱き寄せて声を尖らせる。
台所に行くと、ダイニングテーブルの実采の席に食べかけのお皿が残っていた。ミートスパゲッティのようだ。
「ごめん、食事中だったんだね」
実采の食事を邪魔してしまったことに気づいて謝ると、陽咲は苦笑いして手を振った。
「こいつがダラダラ食べてんのが悪いんだよ。もう、早く食べないと叔母ちゃん来ちゃうよ」
陽咲に半ば強引に椅子に座らされて、実采はうんざりしたようにため息をついた。
「ミコトくん、ミートスパゲッティは好きじゃないの?」
可哀想になって声をかける。
「好きじゃないっていうか、カレー以外の時は絶対文句言うの、こいつ」と陽咲。
「そんなことねーし。姉ちゃんはいっつもこれなんだよ」
実采が負けじと言い返す。
「じゃあ何なら文句ないわけ?」
陽咲に訊かれて、「唐揚げ」と実采が即答した。
「唐揚げは油が跳ねて怖いから作らないって言ってるでしょ」
ピシャリと撥ねつけられて、実采がむくれる。
「今度作ってあげようか?」
私がそう言ったら、実采はパッと表情を明るくした。可愛い。
「唐揚げだったら俺がまた作ってやるよ」
奥に引っこんでいた叶多が台所にやって来て、実采の頭をぐりぐり撫でた。
「兄ちゃんのは硬いもん」
「あの時はちょっと失敗しただけだよ」
「いつもじゃん」と憎まれ口を叩いた実采は、叶多を見て、「あっ」と声をあげた。
「どっか行くの?」
叶多の尻ポケットにお財布が入っているのに気づいたようだ。
「目ざといな。ケーキ屋、一緒に行く?」
「行く!チョコレートのがいい」
「はいはい。コウタが好きなイチゴのケーキも買ってこような。行くんだったらそれ食べちゃいな」
叶多に言われて、実采はあっという間にパスタを平らげた。私も誘われたけど断った。ケーキ屋にはいい思い出がない。
「お兄ちゃんだって、コウタに戻ってきてほしいくせに」
叶多たちが出かけた後、陽咲がボソッと呟いた。
呼び鈴が鳴ったのは、帰ってきた叶多とお皿を洗っている時だった。お茶の間で掃除機をかけていた陽咲が玄関へとすっ飛んでいく。叶多も手についた泡をもどかしそうに洗い落としている。
ガラス戸が開く音の後、すぐにパタパタパタと廊下を走る足音がして、台所に幸多が顔を出した。
「おう。二週間ぶりだな、コウタ。元気にしてたか」
叶多が手を拭きながら声をかけると、幸多はみるみるうちに顔を歪ませて、その場で声をあげて泣き出した。
「あらあら、うちでは泣かなかったのに」
少し遅れて現れた女性が抱き上げようとしたけど、幸多はその手を振り切って、叶多に体当たりをするみたいに抱きついた。
「どうした、コウタ」
真っ赤な顔で泣きわめいている幸多を抱き上げて、叶多が優しく話しかける。
「やだぁ!やだぁぁ!!」
幸多は、叶多の首にしがみついて、泣きじゃくりながら叫んだ。
「叔母ちゃんちは、やだぁぁ!!」
「コウタくんが嫌がることなんて何もしてないでしょう」
女性が困ったように眉を下げた。確かに目元が幸多によく似ている。
「僕、いい子にするからぁ。ミコト兄ちゃん怒らせないからぁ!だからぁ、僕のこと捨てないで!」
「誰がコウタのこと悪い子だなんて言ったんだよ」
叶多は苦しそうに上下する幸多の背中を優しく撫でた。
「叔母さんはコウタのこと可愛がってくれるだろ。向こうにいた方がおいしいもんいっぱい食べられるし、新しいおもちゃだって買ってもらったんだろ?」
幸多が何度も何度も首を横に振る。
「やだぁ!僕、あっちだと、一人ぼっちだもん!」
「そんなことないだろ。リョウコちゃんだってヒデキくんだっているじゃんか」
「やだぁ!ここがいい!」
「もういいでしょ、お兄ちゃん」
陽咲が、見ていられないというように口を挟む。
「叔母ちゃんも、コウタはここじゃないとダメだって分かったでしょ。これ見ても連れて帰るって言うの?」
「そんな言い方。まるで私が悪いみたいじゃない」
女性はムッとしたように陽咲に言い返した後、私の方を見た。
「お友達?」
叶多と陽咲を交互に見て、そう尋ねている。
「まあ、とりあえず座ってください」
叶多は答えずに椅子を勧めた。
「コウタ、分かったからもう泣くな。もう叔母さんのとこに行かなくていいから」
首に抱きついたままの幸多に、背中をポンポン叩いて言った。幸多がしゃくりあげながら「本当?」と確認する。
「勝手に決めないでちょうだい」
女性は、ため息をつきながら椅子に座って、陽咲が用意した冷たいお茶を一口飲んだ。
床に降ろされて二階の新のところに行っているよう言われた幸多は、必死に叶多にしがみついていたけど、実采に「行こ」と手を引かれると、泣きじゃくりながらも意外とすんなり従って、二人で台所を出ていった。
「電話で話した時は、叔母さんにコウタをお願いしようと思ってました」
女性の向かいに腰を下ろして、叶多はそう切り出した。
「そうよね。その方がいいって、あなたも納得したわよね」
女性が、押しつけるような口調で同意する。
「コウタくんだけだったらって、主人も言ってくれてるのよ」
「叔母さん、コウタに何か言いましたか?」
女性の言葉に被せるようにして尋ねた叶多の声は、ゾッとするほど冷たかった。
「俺、至らないところはたくさんあったかもしれないけど、コウタのこと大事に育ててきました。そのコウタが、自分が悪い子だから捨てられたなんて、誰かに吹き込まれたんじゃなきゃ考えるわけがない」
「私何も言ってないわよ」
女性が声を高くして否定する。
「何が何でも私が悪いことにしたいのね、あなたって」
「今まで叔母さんが俺たちにしてきたことを考えると、仕方ないと思いますけど」
叶多が全身に怒りをまとっているのが、横で見ていても分かった。
「俺、叔母さんがコウタに母さんの悪口吹きこんだの、許してないですから。三歳の子供を置いて温泉に行くなんて母親としてありえないとか、何を考えて五人も子供を作ったんだとか、他にもいろいろ言ったそうですね」
「そんなことーー」
女性に反論を許さず、彼は語気を強めて続けた。
「ヒナタのバイトだって、よく確認もせずにサインして。ヒナタにいい顔をすれば、味方になってもらえると思いましたか?そんなにコウタが欲しいんですか?」
「お兄ちゃん、叔母ちゃんはあたしのためにーー」
「ヒナタは黙ってろ」
怒鳴りつけられて、陽咲が私の横で肩をビクつかせた。
「叔母さんはコウタが可愛いんでしょうね。コウタはヒデキくんが小さい頃にそっくりだし、素直だ。でも、アラタやミコトまで引き取る余裕はなくて、それで勝手にアラタたちを施設に預けようとしたこともありましたね。後見人だからって、俺たちの気持ちを蔑ろにするにも程がある」
「こっちだって好きで後見人になったわけじゃないわよ」
叶多よりも強い口調で、女性が言い返した。
「いきなり五人の子供の面倒を見ることになったのよ。それでも私は一生懸命責任を果たそうとしたわ。それなのにあなたは、文句ばかりで感謝の言葉一つないんだから」
「感謝?何を感謝しろっていうんですか?俺は十八歳になるのが待ち遠しかった。早く叔母さんの監視下から抜け出したかったから」
「じゃあいいじゃないの。もう抜け出したんだから。好き好んでヒナタちゃんたちのことも引き受けちゃって。あなたみたいな子供に後見人が務まるとは思えないけど」
「コウタはまだ叔母さんが後見人のままじゃないか。コウタを返せよ。もう俺たちのことは放っといてくれよ!」
叶多の声は懇願にも似た響きを帯びていて、女性は発しようとした言葉を、お茶とともに飲みこんだようだった。テーブルの上にコップを置いた後、静かに口を開いた。
「あなたって、兄さんにそっくりね」
その声はいくらか落ち着いていた。それだけでなく、少しだけ温かみのあるものに感じられた。
「あなたのお父さんも、そうやって自分の主張を絶対に曲げなくて、しょっちゅう喧嘩したわ」
女性の言葉に、叶多の硬直した身体から力が抜けていくのが見えた。
「ごめん」
叶多はテーブルの上で握りしめていた手を、膝の上に移した。
「こんなひどいこと言うつもりじゃなかった」
そう謝って、小さく頭を下げた。それからお茶をゆっくりと口の中に含み、喉仏を上下させて、深く息を吐いた。
「叔母さんは俺たちのことを心配してくれてるんだって、分かってる。分かってるからコウタを託そうと思ったんだ。だけど、」
叶多はちらりとこちらに視線をよこした。
「思い出したんだ、俺。ヒナタの隣にいる子ね、俺の中学の時の同級生で、ヒナタたちに対してずっと一方的だった俺に、受け取ることを教えてくれた。それで、思い出したんだ。父さんと母さんはいつもお互いのことを尊重し合ってて、俺はそれを見て育った。そんな両親が好きだったし、すごく憧れてた」
叶多は今、まっすぐに叔母と向き合っていた。
「だから俺は、コウタたちに伝えたい。父さんと母さんがどんな人で、俺たちのことをどういう風に育てようとしてたのか。父さんたちの想いをちゃんと繋げたい。だって、そうじゃないと俺がいる意味がないでしょ」
鼻を啜る音が聞こえた。横を見ると陽咲が顔を歪めていて、その背中に手を当てた。
「でも、これは俺のエゴなのかもしれないとも思う。叔母さんに育ててもらった方がコウタは幸せなのかもしれないって思う気持ちもあって、俺、どうしたらいいのかーー」
「兄さんは、ホノカさんに会って変わったわ」
迷いを口にする叶多を遮って、女性が言った。
「あなたが生まれて数ヶ月くらいの時に、私、あなたに会いにいったのよ。まだこの家を建てる前で、狭いアパートの部屋だったけど、兄さんはとても幸せそうで、この人こんな顔して笑うんだって、初めて知った」
女性は優しい眼差しで叶多のことを見つめた。
「あなたのことを抱かせてもらったわ。赤ちゃんを抱っこするのなんて初めてだったから、おっかなびっくりよ。まだ首もちゃんとは座ってなくて、簡単に壊れちゃいそうで。そんな私の気も知らずに、あなたは笑いかけてきたの。本当に可愛かった」
女性は少しの間目を閉じて、その時のことを思い出しているようだった。
「私、あなたの中にまだあの赤ちゃんを見てるのね。しなくていい苦労まで背負いこんでるように思えて、つい手を出したくなったの。でも、余計なお節介だったみたいね」
叶多は、首を縦に振ることも横に振ることもせずに、言葉を探すように目を泳がせている。彼の言葉を待つことなく、女性は続けた。
「コウタくんのこと、目一杯可愛がったのに、あんなに泣かれたら力抜けちゃうわ。あなたが面倒を見ると言うならそうしなさい。ただし、大変になったらいつでも私に相談すること。いいわね」
「え、」
声を上げたのは陽咲だった。
「コウタ返してくれるの?」
「人攫いみたいに言わないでちょうだい。私はただ、あなたたちのことを想って引き取ろうとしただけよ」
陽咲に向かってそう言い返した女性は、横に立つ私の方に視線を移した。
「あなた、お名前は何とおっしゃるの?」
不意を突かれて反応が少し遅れた。
「あ、岸本優芽です。すみません、お邪魔しています」
落ち着きなく挨拶する。
「ユメさんね。カナタとは付き合ってるの?」
肯定していいのか分からなくて叶多の方を見ると、彼は微かに顎を引いた。
「あ、はい……。お付き合いをさせていただいております」
妙にかしこまった言い方になってしまった。
「そう。この人はものすごく頑固だから、苦労するわよ」
真顔で忠告されて、笑うべきか迷いながら、
「し、知っています」
と、我ながら蚊の鳴くような声で返した。ふ、と叶多が笑ったのが分かった。
「それならいいわ。カナタのことをよろしくね」
叶多の叔母さんはそう言って、私に微笑みかけてきた。
私は知っていた。叶多の中にはまだ、叔母に対して根強いわだかまりがあることを。それでも。
「ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします」
差し出がましいのは承知の上で、深く頭を下げた。
叶多の叔母さんが今までずっと叶多たちのことを守ろうとしてくれたのは、紛れもない事実だろうと思った。そして、きっとこれからもそうであり続けるのだろうと思ったから、私は感謝を伝えずにいられなかった。
「ああ、疲れたぁ」
叔母を玄関まで見送った後、叶多はお茶の間の畳の上に倒れこんで、大の字に寝そべった。幸多と実采に乗っかられて、「ぐえ、重てぇ」と悲鳴をあげている。かと思うと、「コウタ、おかえり!」と、実采ごと幸多の身体を抱きしめた。
「兄ちゃん、遊びに行こ」
さっきあれだけ大泣きしていたのに、幸多はすっかり平常運転だ。
「今から?兄ちゃんもうクタクタだよ。コウタも疲れたろ。明日にしようよ。どこ行きたい?」
「動物園!」
幸多が即答する。
「コウタばっかズルい。俺まだ水族館連れてってもらってないのに」
実采が口を尖らせる。
「水族館はまた今度な。ミコトは食べるもの決めてよ。何食べたい?」
宥めるように叶多が実采の坊主頭をぐりぐり撫でる。
「唐揚げ!ユメちゃんの唐揚げ。明日のお弁当!」
「そりゃまた大変な……」
「いいよ。作ってくるね」
私が屈みこんで請け合ったら、実采は機嫌を直したようだった。
「アラタも何かわがまま言いなよ。何したい?」
台所で水を飲んでいる新に叶多が声をかける。叔母から帰り際に髪が伸びすぎていると注意されていた。確かに耳が完全に隠れていて今の季節には暑そうだ。
「いいよ、俺は」
「遠慮するなって。何でも言ったらいいんだよ」
「じゃあ、」
新が切り出したから、叶多は意外そうに目を丸くした。
「動物園は、一人で回りたい」
不安げに発された新の望みに、叶多は何かを言い返そうとしたけど、それよりも先に陽咲が割りこんだ。
「いいよ。アラタだってたまにはゆっくり満喫したいよね」
陽咲に説き伏せられて叶多が渋々承諾すると、新の顔に、困ったような申し訳なさそうな感情とともに、微かに嬉しそうな色が浮かんだように見えた。
「兄ちゃん、ケーキ!」
実采が思い出したように叫ぶ。
「おお、ケーキね。叔母さんに出すのすっかり忘れてたな。みんなで食べるか」
「うん!」
実采と幸多が元気よく返事する。起き上がって台所へ向かった叶多が、出ていこうとする新を呼び止めた。
「アラタの分も買ってきたよ。食べるだろ?」
当然一緒に食べるものだと信じ切っているような叶多の顔が、新に断られて寂しげに沈む。
弟たちに急かされながら、叶多はしばらくの間、二階へ上がっていく新の足音を追うみたいに、階段の方を見つめていた。
***
私が迂闊だったのだと思う。
家に帰って、動物園に持っていくお弁当用に唐揚げを作って、父親が食べたいと言うからいくつかあげて、それでも十分な量を作ったはずだった。それなのに、翌朝起きたらタッパーごと冷蔵庫から消えていた。
「え、まさか全部食べたの?」
三十個以上は残っていたはずだった。明日持っていくから食べないでね、と確かに念を押したはずだった。
「ああ?」
先に起きていた父親が、ソファーですっとぼけている。
「今日持っていくって言ったよね。何で無いの?」
パニックだった。唐揚げだけじゃなくて、お弁当用に作ってあったポテトサラダも、卵焼きも、タコさんウィンナーも、朝炊けるようにセットしたごはんも、ことごとく消えている。
「ああ、ヤマダさんたちにあげた。美味い美味いってみんな喜んでたぞぉ」
「誰、ヤマダさんって」
「ヤマダさんは、あれだぁ、ジョギングん時に会う人でよぉ」
父親がジョギングをしているなんて初耳だったが、そう言われればたまに洗濯カゴにビチョビチョのTシャツが入っている。
「何で食べ物なんかあげるわけ?走ってる時にもらったって向こうも迷惑でしょ」
「いやいや、ヤマダさんたちは走ってねえよぉ」
頭が痛くなってきた。
「じゃあ誰なのヤマダさんって」
「だからぁ、住んでんだよぉ、公園によぉ」
ホームレスか。
「信じらんない。お父さんが自分のものあげるのは勝手だけど、何で人が作ったものを持っていくの?」
「お、怒るなよぉ。だって可哀想じゃんよぅ。食うもんなくてよぉ」
「じゃあわたしは可哀想じゃないわけ?」
「だって、ユメは金持ってんだろぉ。また作りゃあいいじゃねぇか」
「そういう問題じゃないよ!」
怒鳴ったところで何の解決にもならないのは分かっていた。こんなところで時間を潰すくらいなら、コンビニにでも走っていって出来合いのものを買って来る方が遥かにマシだということも分かっていた。でも、どうしても怒りが収まらなかった。
「お父さんにはわたしのことを大事だって思う気持ちはないわけ?他に困っている人がいたら、娘のことはどうでもよくなるの?」
「だ、大事だよぉ、そりゃあ、ユメのことは」
「大事だっていうのはさ、目の前にいない時も、他の人といる時も、その人のことを想うってことだよ。お父さんは、人を大事にすることができないんだよ。お母さんのことも全然大事にしてなかったじゃん!」
「そんなことねえよぉ。俺ぇ、マサミのことも大事にしてたよぉ」
「じゃあ何でお母さんを傷つけるようなことばっかりしたの?お父さんがひどいことばっかりするから、お母さんは病気になったんだよ。お父さんがお母さんを殺したんだよ!」
いくらなんでも言いすぎた、と思った。でも、今さら撤回することはできなかった。
父親はソファーから立ち上がって、台所にいる私の方へ身を乗り出してきた。
「愛してたよぉ。俺は愛してたんだよぉ。マサミを傷つけるつもりなんかなかったんだよぉ」
それを聞いてますます腹が立った。
「愛してたとか軽々しく言わないで」
父親に人を愛せるわけがないと思った。
「そんなこと言うなよぉ。ユメのことだって愛してるよぉ」
「じゃあ、ヤマダさんのことも愛してるんだね。ていうか、会う人会う人全員、愛してるって言うんでしょ。そんなの愛じゃないから。お父さんは結局、自分のことしか好きじゃないんだよ」
「や、野郎は愛さねえよぉ」
脱力した。話が通じなさすぎる。
「もういい。わたしここ出ていくから。お父さんがどこで何しようがもう知らない。この家も売れば?レンヤくんのためにお金が必要なんでしょ?お母さんとの思い出が大事?自分は何にも失わないで、人のものばっかり奪って、都合が良すぎるよ!」
「い、家は売らねえって言ってるだろぉ」
私が出ていくことについてはどうでもいいみたいだ。
自分の部屋に駆け上がって、スーツケースを広げた時、少し冷静になった。出ていくと言ったものの、大学があるからおばあちゃんの家に帰るわけにもいかない。迷いながら、昨日聞いたばかりの叶多の番号にかけた。
『そんなの全然気にしないで』
唐揚げのことをまず謝ると、叶多は思った通りのリアクションを返してきた。
『大丈夫?お父さんと喧嘩した?』
気遣うように訊いてくる。
「お父さんと暮らすの、もう無理……」
どうしようもなくて、そう漏らした。
『ユメちゃん、今、家?』
そう問われて肯定した。電話の向こうで幸多のはしゃぐ声が聞こえる。
『じゃあ迎えにいくよ。お父さんにも挨拶したいし』
「え、でも……」
『大丈夫。すぐ行くから待ってて』
そんな優しい声とともに電話が切れた。申し訳ない気持ちが胸の中に広がっていく。叶多の負担にはなりたくないのに。
荷造りをしていると、下でガタゴトと物音がした。かと思うと、玄関のドアが開け閉めされる音がした。窓から見下ろすと、父親がガニ股で歩いていくのが見えた。方角的に叶多とすれ違うことはないだろう。やっぱり父親は私のことなどどうでもいいのだなと、悲しい気持ちになった。
インターホンが鳴ったのは、一階に降りて顔を洗っている時だった。出迎えた私に微笑みかけてきた叶多は、自転車を飛ばしてきたらしく、汗だくで息を切らしている。
「大変だったね」
父親が出かけてしまったことを告げて謝る私に、叶多は思いやりの言葉をかけてくれた。
じんわりと目頭が熱くなって、彼の手を取って家の中に引き入れた。叶多の後ろでゆっくりとドアが閉まる。その胸に顔をうずめた。彼の上下する胸の中で、心臓がドクドクと鼓動を打っている。
「俺、汗臭いでしょ」
叶多が私の頭に手を置いて言う。おでこを押しつけるようにして首を横に振った。
「カナタくんの匂い、好き」
抱きしめてくれることを期待したけど、叶多は私の頭から手を降ろしてしまった。
「そんなこと言われたら俺、どうしようもなくなるよ」
引かれたかと思って顔を上げると、頬を掴み上げられた。叶多が顔を寄せてくる。
「え?なっ……」
唇に確かな感触があった。
「こないだちゃんとできなかったから」
至近距離で見つめられて、もっと求めている自分に気づく。
「お、おお弁当、何とかしないと」
「ヒナタに頼んだから大丈夫だよ」
「で、でも、コウタくんたち待ってるでしょ」
「そうだね」
叶多は小さく息をついて、私の頰から手を離した。
「どうする?俺んち来る?荷物持ってく?」
「あ、う、うん、ぅ上から持ってくる」
急にキスされたせいで、我ながら動揺丸出しの声だ。叶多に笑われて、ますます顔が熱くなる。
「上がってもいい?荷物持つよ」
「あ、おね、お願い」
頭の中が真っ白だ。
「な、何かもう、カナタくんのせいで、全部忘れた」
「あはは、ごめんね」
ギクシャクと思うように動かない足で何とか二階に上がった時、父親の部屋が目に入った。恵梨香と行為に及んでいた光景を思い出して、スンと冷静になる。
「さすがに部屋に入るのはやめとくね?」
後ろで叶多が確認するように言った。
「別にいいのに」
遠慮しているのかと思ってそう返したら、
「ユメちゃんさ、俺のこと男だって分かってる?」
と、当たり前のことを訊いてきた。振り向くと、立ち止まって苦笑いを浮かべている。
「うん。そりゃ、そうでしょ」
「そうでしょ、じゃなくてさ」
苦笑いを引っこめて、彼は真剣な表情になった。
「俺、ユメちゃんと、キスの先もしたいって思ってるよ」
「え?」
びっくりして聞き返した私に、叶多は慌てたように手を振った。
「今はしないよ。今はまだしないけどさ、ユメちゃんもちょっとは弁えてくれないと困るっていう話」
あの汚らわしく思えた行為が、急に生々しく自分の身に迫ってくる気がして、叶多の前から逃げ出したくなった。
「わたし、カナタくんとそういうことするのは……、無理かも」
逃げ出さない代わりに、声に出してそう呟いていた。
「そっか」
叶多は、にっこりと受け止めてくれた。
「変なこと言ってごめん。忘れて」
あっさりと引き下がって、何もなかったみたいにその話を終わらせた。
大学の教科書も詰めたら結構な荷物になった。叶多は、スーツケースに入りきらなかった分を自転車のカゴに載せて、そこにも載せきれなかった分を肩に担いで、自転車を押して歩いた。叶多の家に向かいながら、叶多は仕事のこととか一緒に働いている人の話をしてくれたけど、私がスーツケースを引いているからか、何となく私から距離を取って歩いているように感じた。
梅雨空が、どんよりと分厚い雲を浮かべていた。
案の定、実采は私が唐揚げを持ってこなかったことを知ると怒った。約束していたのだから、実采が腹を立てるのは当然だ。父親に対してまたムクムクと怒りが込みあげてくる。
実采は、動物園に行かないとか、陽咲が買ってきた冷凍の唐揚げなんか食べないとか、ブツブツ文句を言っていたけど、私が当面ここで過ごすと知って、何とか機嫌を直してくれたようだった。
幸多の方は、兄の不機嫌などどこ吹く風というようにハイテンションで、背中に小さなリュックサックを背負い、首から水筒を提げて、すっかり準備万端だ。髪だけが、寝癖なのか大きく跳ねていて、愛らしい。
「コウタくんは動物が好きなの?」
台所とお茶の間を行ったり来たりして陽咲に鬱陶しがられている幸多にそう問いかけると、幸多は肯定して、「アラタ兄ちゃんも好きだよ」と教えてくれた。
それについて詳しく訊きたかったけど、チンと音を立てた電子レンジに気を取られているうちに、幸多は向こうへ行ってしまった。
「ヒナタ、カメラどこにあるか知らない?」
シャワーを浴びてきた叶多が、タオルで頭を拭きながら台所に入ってきて尋ねた。卵焼きを焼いている陽咲が、今度はお前かというようにうんざりした顔をする。
「知らないよ。あたしカメラなんか使わないし」
「そうだよね。どこいったかな。ヒナタは行かないんでしょ?俺のケータイ画質悪いしな……」
「え?ヒナちゃん行かないの?」
驚いて尋ねる。てっきり兄弟全員で行くのかと思っていた。
「姉ちゃん行かないの?何で?何で?」
叶多の後をついてきた実采も驚いている。
「あれ?ミコトに言ってなかったっけか。来週期末テストでさ。さすがに勉強しないと」
後半は私に向けた言葉のようだ。
「そうなんだ。残念だね、ミコトくん」
「姉ちゃんも行かなきゃダメだよ」
また機嫌が悪くなりそうな実采の側に、幸多が駆け寄った。
「姉ちゃんはお勉強だから行けないの。我慢」
弟に言い聞かされて、さすがの実采も何も言えなくなっている。
「後で何の動物見たか教えて。ね?」
綺麗な卵焼きを完成させた陽咲が、実采の坊主頭を撫でた。実采は不承不承といった様子で小さく頷いて、不意に何か良いことを思いついたみたいに目を輝かせた。
「今日の夜みんなで一緒に寝よ。ユメちゃんも」
「それはダメだ」
叶多が必要以上に強い口調で却下して、実采がビクッとなる。叶多が、しまったという顔をして、すぐに実采の方に屈みこんだ。
「俺は一緒に寝るから。な。それでいいだろ。ユメちゃんには、母さんたちの部屋を使ってもらおうな」
優しい声でそう言い聞かせたけど、時既に遅しで、実采は走って台所を出ていってしまった。
「あー、もう。馬鹿」
陽咲に怒られている。
「何想像したわけ?お兄ちゃんの変態」
「変……、いや違、だって一緒に寝るわけにはいかないだろ」
妹に責められて叶多はタジタジだ。
実采はほどなくして新と一緒に戻ってきた。手にカメラを持っていて、機嫌が直っている。
「あ、カメラあった。どこにあったの?」
叶多が新に尋ねる。
「林間学校の荷物に入れてて」
「ああ、貸したな、そういや」
「うん。じゃ、俺行くね」
「え?もう行くの?」
叶多と一緒に私も壁にかかっている時計を見上げた。八時半だ。
「確かにもうそんな時間だな」
叶多が納得したように呟いて、尻ポケットから財布を取り出す。
「三千円あれば足りる?」
「いいよ、小学生はタダで入れるし」
「でも昼ごはん食べるだろ」
「いいって。お小遣いあるし、俺がわがままで一人で行くって言ってるんだから」
「アラタ」
叶多が新の腕を掴んで引き留めた。
「遠慮ばっかりすんな。ほら」
千円札を何枚か押しつけている。
「ありがとう」
新は素直に受け取って、先に出かけていった。
「早く行こうよぅ」
幸多がピョンピョンと飛び跳ねている。
「分かった分かった。行く前にその寝癖直そうな。ミコトは靴下履いて、雨降るかもしれないからレインコート……」
叶多がバタバタと準備を始めた。
「そっか、もう期末テストの時期か」
一緒におにぎりを握る陽咲に話しかけた。
「忙しいのにお弁当作らせちゃってごめんね」
「ううん。あのややこしいチビ達押し付けて、こっちこそごめんねだよ。お兄ちゃん、アラタにわがまま言わせようキャンペーンしててさ。あたしにもわがまま言えって、テスト近いんだったら行かなくてもいいよって言うから」
話しながらも、陽咲は手際良くおにぎりをお皿に並べていく。
「そっか。だったらカナタくんも何かわがまま言わないとだね」
そう言ったら、陽咲はいたずらっぽく笑った。
「お兄ちゃんは、あたしたちよりもユメちゃんに聞いてほしいんじゃないの?」
返しに困っていると、叶多が子供用のリュックサックを手に戻ってきて、どうかした?と目で問いかけてきた。
降り出しそうな空模様にもかかわらず、動物園は賑わっていた。親に連れられてはしゃいでいる子供たちを見て、実采や幸多が寂しい気持ちにならないことを願った。叶多も似たようなことを思ったのか、「アラタは一人で大丈夫かな」と呟いた。
「コウタ、あっち!ゾウがいるよ!」
「わあ、本当だ!行こ!」
私の心配をよそに、彼らは嬉しそうな声をあげて、駆け出していった。
「ああしてると仲良しな兄弟なんだけどねぇ」
弟たちの背中を目で追いながら、叶多が目を細める。
実采と幸多のそばに行くと、二人とも口をぽかんと開けて象を見上げていた。それが可愛くて叶多に教えようと思ったら、叶多も同じ顔をして象を見上げていて、ますますこの兄弟が愛おしくなった。
実采は、写真を撮ってもらう時以外はカメラを手放さなかった。カメラは少し年季の入った大きめのもので、実采が首から提げるには重そうだったから、叶多が途中で何度も持とうかと言ったけど、実采は頑なに譲らなかった。本当に意思がしっかりしている子だなと、微笑ましく思った。
動物の写真を撮るのにひとしきり熱中していた実采は、一度だけ思いついたように私と叶多のことを撮ってくれた。写真に映るために身を寄せた時、叶多がわずかに身を引いた気がして、少しショックだった。
王道の動物をひと通り見て回った後、広場の芝生の上にレジャーシートを敷いてお弁当箱を広げた。朝ごはんを食べ損ねて空腹だったこともあって、陽咲の作った卵焼きが頬が落ちそうなほど美味しかった。
叶多たちと交代でお手洗いに行った帰りに、サル山のところで新を見つけた。声をかけずに通り過ぎようと思ったけど、変な人に絡まれているように見えて、慌てて駆け寄った。
ボロボロの服を身に纏ったボサボサの白髪頭の男が、新に向かって大きな身振りで何やら話している。父親の言っていたホームレスのことが頭をよぎった。
「アラタくん」
男の話を遮って新に声をかけた。新は私に気づいても反応が薄くて、絡まれて困っていたわけではなかったようだった。でも、だからといってこのまま立ち去るわけにはいかない。
「知り合いの方?」
男を指して新に問いかける。
「いえ。さっき会って、動物のことをいろいろと教えていただいていたところです」
新が丁寧に答えた。何の目的で新に近づいたのだろうと思って男の方を見ると、皺くちゃの顔で笑いかけられた。八十代くらいだろうか。身体つきがガッシリしているから、遠目からはもっと若く見えた。
「姉ちゃんは?坊ちゃんの知り合いかい」
のんびりした口調で尋ねてくる。
「兄の彼女です」
新がすぐに返した。
「姉ちゃんってわけかぁ」
男は顔中の皺をさらに深くした。
「なに、怪しいもんじゃあない。なぁんて言っても、こんな身なりじゃ怪しいやな。わしは、もともとここで飼育員やっとったもんでな。あのサルたちん中にゃあ、わしが育てたのもいるもんで、たまぁにこうして様子を見に来んのよ。したら、この子がえらぁく熱心に眺めとるからな、つい声かけちまったのさぁ」
ゆっくりと話す男の説明を聞いて、男の印象が薄汚い男から世話好きの老人へとシフトする。
「すみません、いろいろと教えてくださっていたんですね」
思いこみで強引に割って入ってしまったことを詫びた。
「いいってことよ。じゃあね、坊ちゃん」
「ありがとうございました」
去っていく老人に向かって新が頭を下げる。
「ごめんね、邪魔しちゃって」
新にも謝りながら、今頃になって足が震えてきて、サル山の柵を掴んだ。
「怖かったんですか?」
見抜かれてしまって、苦笑いを返す。
「アラタくんが変な人に絡まれてるのかと思っちゃって」
「そうだとしても別に……。僕なんか、兄ちゃんの弟だってだけなのに」
助けてもらう筋合いはない、と言いたげだった。
「そうだよね。アラタくん、わたしのこと覚えてないんだもんね」
柵から手を離して、新の方に向き直った。かつてと比べれば身長差がだいぶ縮まったけど、それでもまだ新の背丈は私よりも頭ひとつ分低い。
「わたしはね、アラタくんがちっちゃかった時のこと、よく覚えてるんだ。だから今でもアラタくんのことが可愛くて、放っとけないの。お節介でごめんね」
新はおずおずと顎を引いた。
「カナタくんも、アラタくんのことが可愛くて仕方ないって感じだね」
何とか新との会話を続けようと試みた。
「兄ちゃんは僕のこと、いつまでも子供のままだと思ってるから」
拗ねたような顔をしている。
「アラタくんは、大人扱いしてほしいんだ?」
「ていうか、もう僕に構わないでほしいです」
「カナタくんのことが鬱陶しい?」
立て続けに尋ねたら、新は困ったように俯いた。
「そうじゃないけど、ミコトとコウタで大変なのに、僕のことまで気にしてたら、兄ちゃんの身が持たないので」
やっと新の口から本音が聞けた気がした。
「アラタくん、昔から良い子だったよね」
私の言葉に、新はキョトンとした顔でこちらを見た。
「わたしね、五年くらい前、アラタくんの家によく遊びに行かせてもらってたんだ。あの頃、ミコトくんがまだ赤ちゃんで、アラタくんは今のコウタくんよりも小さかった。それなのにアラタくん、お母さんに甘えるの我慢してて」
そのうちに幸多が生まれて、ますます新はお母さんに甘えるのを遠慮するようになった。叶多のお母さんはそんな新のことをよく、ママの大事な大事なアラタちゃんと歌うように言って、抱きしめていたものだった。
「その代わり、カナタくんにはいっつもベッタリだった。カナタくんが何をするのもついていって真似して。カナタくんの方も、アラタくんのことものすごく可愛がってさ。アラタが嬉しかったら俺も嬉しいって言って、何でもあげちゃうの」
ひとりっ子だった私にはそれがとても羨ましかった。そんな感情を持てることも、向けられることも。
「兄ちゃんはいつも一方的なんだ」
新がぽつりと呟いた。
「思い出した。時々遊びにきてたお姉さんがいたの。ユメちゃんって、確かに呼んでた気がする」
私を見上げて、新は続けた。
「僕だって、兄ちゃんのために何かしたげたい。そのことが兄ちゃんには全然分かってないんだ。兄ちゃんは僕たちのために色んなこと諦めてんのに、わがまま言えって言われたって、そんなの……」
つらそうに眉根を寄せて、言葉を切った。
「カナタくんが我慢してるから、アラタくんも我慢しなきゃって思った?」
そう尋ねたら、新は小さく頷いた。
「だけど兄ちゃん、ユメちゃんといると嬉しそうで、それはそれで、何か分かんないけどムカついた。僕、ユメちゃんが家に来るのも、本当は嫌だった。うちと関係ないくせに引っかきまわすだけの人だって思ってたから」
「ごめん。アラタくんのおうちなのに」
慌てて謝った。
部外者が家に入り浸る嫌悪感を、私も知っている。妊娠した恵梨香が、彼女の母親に家を追い出された後、うちで暮らしていた時期があった。自分のテリトリーが侵されたような気がして、苦痛でたまらなかった。新に同じ思いをさせてしまっていたなんて。
「いや、もう平気なんで。兄ちゃんのそばにいてやってください」
新はそう言って頭を下げてきた。
この子も昔から変わらずに叶多のことが大好きで、その表現の仕方が変化しただけなのだと分かった。
「一方的に感じるかもしれないけど、」
そう切り出したら、新は顔を上げた。
「カナタくんだってアラタくんに助けられてること、たくさんあると思うよ」
私の言葉に、新が腑に落ちない顔で首を傾げる。
「カナタくん言ってたよ。授業参観の時にアラタくんが林間学校に行く話を聞いて、アラタくんが三日間もいないの大変だなって思って、そう思っちゃったことに立ち上がれなくなるくらい落ちこんだって。自分に余裕がないからアラタくんに気を遣わせちゃってるのかなって反省したって。カナタくんは、アラタ、アラタって、わたしと話しててもそればっかりだよ」
新の眉間の皺がゆっくりと溶けていった。
「馬鹿だな、兄ちゃん」
新は少しだけ笑って、そう呟いた。
「アラタくんが良い子だから、ついつい頼りすぎちゃうって」
「そんなの、兄弟なんだから……」
新はそこで言葉を切った。それで私も指摘せずに頷いた。叶多と新の間にあるものは決して一方的なものではないと、自分でちゃんと気づいたはずだと思ったから。
「だからね、アラタくん。そんなに遠慮しなくてもいいんじゃないかな。迷惑かけるかもなんて気にしないで、アラタくんがやりたいことを見つけたらいいんだよ」
思いやるのと遠慮は紙一重で、だから大事な人にこそ言葉が必要なのだろう。自分にそれができているかは棚に置いて、そう思った。
新はサル山の方へと目を向けた。何頭ものサルが密集して、あるいは一頭だけ離れて、思い思いのことをしている。
「やりたいこととかは、まだ分からないけど、」
自信なさげな消え入りそうな声で、新は言った。
「動物を見てるのは好きだ。ニホンザルとかは、上下関係がハッキリしてて、人間みたいにクヨクヨ悩んだりしないから、見てて安心する」
新がサルの動きを追うように首を動かすと、耳にかけた髪がパサッと落ちて耳を隠した。彼自身がたくさん悩んで疲れてしまったのかもしれない。
「確かに、動物見てると癒されるよね」
私も新と並んでサルたちを眺めた。サル山の中腹で毛繕いをしているのは親子だろうか。山の上の方では時折、キッキッと小競り合いが起きている。
「アラタくんは、人間と動物の違いって何だと思う?」
そんな問いを投げかけたのは、大学の心理学概論の講義での教授の言葉が耳に残っていたからだ。
「動物は喋らないし、感情も持ってないから、そこが違うと思う」
新はスラスラとそう答えた。教授が生徒から引き出した答えも、そのようなものだった。
「うん、わたしもそう思ってたんだけどね」
私の逆接に、新がこちらに視線をよこしたのが分かった。
「わたしね、大学で心理学っていって、人の心について勉強してるんだけど、そうするとよく人間と動物の共通点とか違いの話が出てくるんだ」
その教授の専門は比較心理学だ。それは、人間と動物の行動や認知機能を比較することで人の心を理解しようとする学問である。
「それで、授業で先生が言ってたんだけどね、昔は動物には感情がないって思われてたけど、今は動物も感情を持ってることが分かってきてるんだって。人間ほど複雑じゃないだろうけど、動物も悩んだりするんだって」
だから動物をいじめてはいけませんよ、と教授は言った。
「じゃあ人間の何が動物と違うのかって話だけど、その先生の考えではね、他人の立場に立って考える能力なんじゃないかって。気を遣ったりするのって、動物にはできないんだろうね。だから、優しくて気遣い屋さんのアラタくんは、動物に惹かれるのかもしれないね。でもね、」
それはきっと、悪いことばかりではなくて。
「相手の気持ちを知りたいって思ったり、その気持ちに寄り添って泣いたり笑ったりできるのって、わたしは素敵なことだと思うな、なんて」
何だか偉そうに喋ってしまった気がして、最後は冗談めかしてしまった。
新はサル山をじっと眺めていた。これ以上邪魔するのも悪いかと思って立ち去ろうとした時、彼は口を開いた。
「僕は時々、人間をやめたくなる」
小さく吐き出されたその呟きは、こちらの胸に重く響いた。
「人の気持ちとか、何にも考えたくなくなる」
耳を澄ませないと聞き取れないような小さな声で、新は続けた。
「隣のクラスでイジメがあるんだ。四年生までは僕も同じクラスだったんだけど、先生、何にも気付いてなくて、いじめてる子たちといじめられてる子を、また同じクラスにしちゃった」
唐突に始まった打ち明け話に、私は相槌を打つのが精一杯だった。
「僕、気づいてるのに、ずっと見ないふりしてる。先生に言ったりしたら、今よりもっとひどいことになりそうな気がして、そしたら兄ちゃんに迷惑かける気がして、何もできなくて……」
ぽつりと水滴が頰に当たった気がした。すぐに、ぽつぽつと腕にも感じて、雨が降ってきたのを知った。新は気にする様子もなく言葉を続けた。
「クラスが別になって、正直ホッとしたんだ。これでもう見なくて済むって。だけど、見えないとますます気になって。今もひどいことされてるのかなって、ずっと頭から離れなくて。そのいじめられてる子、前仲良かったんだ。お父さんとお母さんが死んだ後、一番仲良くしてくれた子なんだ」
鞄から折り畳み傘を取り出して差しかけた時、初めて雨に気づいたようで、新はそれっきり黙ってしまった。
「それは、つらいね」
情けないことに、それ以外にかける言葉を、私は持ち合わせていなかった。ただ新の隣に立っていることしかできなかった。
「何か鳴ったよ」
新に言われて鞄から携帯を取り出す。叶多が雨が降ってきたのを心配してメールしてきたのだった。
「ごめん、遅くなって。アラタくんと話してて」
電話して謝った。
『ああ、アラタお昼食べたって?お弁当残ってるけど』
「訊いてみる」
そんなやりとりをして電話を切った。訊くとお昼はまだだと言うので、新と一緒に叶多たちのところに戻った。戻る途中で、イジメのことを叶多に言わないでほしいと頼まれた。
「アラタ兄ちゃんだ!」
黄色いレインコートを着た幸多が、こちらに気づいて嬉しそうな声をあげる。青いレインコートを着た実采も一緒に駆け寄ってきた。
「アラタ兄ちゃん、ゾウ見た?あのね、鼻ブラブラーンってして、そしたら他のゾウもブラブラーンってして、お話してるみたいだった!」
幸多が手振りを交えて一生懸命に説明している。
「そっか。それはすごいな」
新の相槌に、幸多が満足げに大きく頷く。
「アラタ兄ちゃん、俺いっぱい写真撮った。後で一緒に見よ」
実采が幸多に負けじと話しかける。
「うん。後で見せて」
そんな短い返しに、実采も満足げだ。
「ユメちゃんと話してたのか」
叶多が新に傘を差しかけながら尋ねる。
「うん。俺が変な人に絡まれてると思ってユメちゃんが助けてくれた」
「絡まれたのか!?」
「ううん。わたしの勘違いだった」
「それなら良かったけど、ユメちゃんも無茶したらダメ……今ユメちゃんって言った!?」
新の呼び方の変化に気づいて驚いたようだ。
「ユメちゃんのこと思い出したから。それよりお弁当は?お腹すいた」
「ああ、うん。屋根があるところに行こうか」
「兄ちゃんたちまで来なくて良いよ。雨降ってきたけど、まだ動物見て回りたいでしょ?」
後半は実采と幸多に向けた言葉だ。
「ううん、アラタ兄ちゃんと一緒がいい!」
実采と幸多が口を揃えてそう答える。
「俺もアラタと一緒がいい」
叶多も彼らの口調を真似して言った。
アハハ、と新が声をあげて笑った。その弾けるような笑顔を見ながら、苦しんでいる新に何も言ってあげられなかった自分の非力さを、静かに噛み締めていた。
午後は、新も一緒に五人で回った。閉園時間まで過ごした後、叶多の家に帰って、陽咲が作ってくれた夕飯を食べた。幸多たちを追いかけまわしたりしたわけではないのに、倒れこみたいくらいヘトヘトで、叶多たちはすごいなと改めて思った。
お風呂に入って、用意してもらった二階の部屋で早々と寝ようとしていたら、泣きそうな顔をした陽咲がやってきた。
「数学がまったく分かりません」
胸に数IIの教科書を抱きしめている。
受験に使ったし、と甘く見たのが間違いだった。そういえば私は数学が大の苦手だった。
「ね。なんでここがプラスになるか分かんないでしょ?」
「本当だね……」
陽咲の部屋で、二人で途方に暮れた。サインとコサインが並ぶ数式を見ているだけで、意識が遠のきそうになる。
「お兄ちゃんは数学得意だったけど、一年生の時に高校辞めてるからなぁ」
「カナタくん数学得意だったんだ?」
「うん、いっつも満点だったし。あー、どうしよ。公式も覚えられる気がしない。サインコサインコサインサイン?」
懐かしい呪文を唱えている。部屋のドアがそっと開いた。
「もうちょっと抑えて。起きちゃう」
叶多がドアの隙間から顔だけ出して口に人差し指を当てる。一緒に寝るという実采との約束から抜け出してきたようだ。
「あ、ごめん」
陽咲が素直に謝る。
「数学?」
叶多が覗きこんで尋ねた。
「そ。何でここがプラスになるのかって話」
陽咲の言葉に、近くまでやって来てさらに覗きこむ。
「ふーん、三角関数か」
「お兄ちゃん習ったことないでしょ」
「ないけど面白そうだなと思ってたよ。あ、これ見ていい?」
床に無造作に置かれている数IIBの参考書を拾い上げて叶多が言った。陽咲が興味なさそうに頷くと、彼は私たちから少し離れたところに腰を下ろして、参考書を開いた。
「てか、数IIもだけど、数Bもやばいの。等差数列」
陽咲が鞄の奥の方から教科書を取り出して、焦った声を出す。兄の存在などそっちのけだ。
「等差数列、って何だっけ?」
数Bは習ったけど受験に使わなかったからな、と自分で自分に言い訳をしている。
「こういうの」
教科書を広げて見せてくれた。Σをはじめとするギリシャ文字が、まるで暗号文書のようだ。
「数学のテストは、いつ?」
コメントを控えて、代わりにそう尋ねた。
「木曜日」
「それまで一緒に勉強しよっか」
まさにそれは、私も復習しなければいけない分野だった。心理学部の必修科目である心理統計学を理解する上で、Σが何なのかを思い出す必要があった。
ただ、そう提案したはいいものの、ヘトヘトで全く頭が回らず、見ているそばから数式がグニャグニャとねじ曲がっていく。
「ヒナタ、これ借りてってもいい?」
叶多の声に、ハッと我に返った。
「良いわけないでしょ。テスト勉強に使うし」
「そっか。一晩借りたかっただけなんだけど」
叶多は立ち上がって参考書を陽咲に返した。
「一晩で読み終わると思ってんの?嫌味?」
「そんなつもりはないけど。そういえば、さっき言ってたプラスがどうとかは解決した?」
「するわけないじゃん」
「いばらなくても」
陽咲が、どうせ分からないだろ、という顔をしながら、先ほどの問題を叶多に見せた。すると叶多はその問題の解き方をすらすらと説明してみせた。しかし残念なことに、公式を使わない彼の説明は、我々には難解すぎて理解できなかった。
怒った陽咲に追い出された叶多は、隣の新の部屋に行ったようだ。微かに話し声が聞こえてくる。
「すごかったね、カナタくん」
かっこよく思えて陽咲に同意を求めたら、呆れた顔をされた。
「すごいっていうか気持ち悪いでしょ。ちょっと読んだだけで。しかもこんなことも分かんないのかって小馬鹿にする感じでさ。説明も意味分かんないし」
「小馬鹿にはしてないと思うけど、確かに難しかったね」
それからしばらく苦戦して、やっとΣと他のギリシャ文字との関係が分かってきた頃、叶多が新の部屋を出ていく音がした。
「ユメちゃんも、もういいよ。ありがとう」
何も教えられなかった私に陽咲はお礼を言って、数学の参考書を差し出してきた。
「今晩はもう使わないからさ、お兄ちゃんに渡してきてくれない?」
「あ、うん。分かった」
今渡されても叶多ももう寝るのではないかと思ったけど、何も言わずに受け取った。
下に降りて習字部屋に行くと、戸が開いていて叶多がパソコンを操作しているのが見えた。
「寝ないの?」
部屋に入る前に、そう声をかけた。
「ああ、ユメちゃん。うん、今寝ちゃうと後で寝れなくなるから、もうちょっと起きてるつもり」
明日からの夜勤に向けて生活リズムを調節するのらしい。陽咲もそれを知っていて私に参考書を託してきたのだろう。
「カメラの写真をドライブに取りこんでるんだ」
そばに行った私に叶多はそう説明した。キリンの前で実采と幸多が肩を組んでニカッと歯を見せている写真が、パソコンの画面に映し出されている。
「いい写真だね」
「うん。ミコトがこんなに笑ってる写真は貴重だ」
叶多は満足そうに頷いて、カメラからケーブルを抜いた。
「古いでしょ、このカメラ。父さんが使っててさ。このカメラで撮ると、レンズ越しに父さんたちが見たかったものを届けられる気がして、ずっと使ってるんだ。タブレットで撮った方が画質は綺麗なんだろうけど」
カメラを両手で包みこむように持って、「そのうち壊れるかもしれないけどね」と笑って付け足した。カメラの液晶モニターに床の畳が映っている。
「ちょっと貸して」
叶多の手からカメラを取って、少し離れて構えた。
「おじちゃんとおばちゃんさ、カナタくんのことも見たいんじゃないかな」
モニターに映る叶多は、実物よりも小さく見える。
「頑張りすぎてるんじゃないかって、心配してると思う」
それは私の想いでもあった。でも、私にはこんな風にしか伝えられない。私の言葉で伝えたら、意図しないことまで受け取らせてしまいそうで。
「俺は大丈夫だよ」
叶多は液晶越しににっこりと笑いかけてきた。
抱きしめたい衝動に駆られた。膝立ちのまま近寄ったら、叶多はカメラを返すと思ったようで、手を差し出してきた。それで、カメラを脇に置いて彼の方に手を伸ばすと、目が合った。でも、すぐに逸らされてしまった。
「そういえば、俺に何か用だった?」
取り繕うように叶多が尋ねてくる。
拒絶を感じて手を引っこめた。言葉に詰まって、黙ってカメラを手渡す。
「あ、そうだ」
ここに来た目的を思い出した。
「これ、ヒナちゃんが一晩だけなら貸すって」
数IIBの参考書を見せた。
「ああこれか。ごめんね、ヒナタも自分で貸しに来たらいいのにな」
気まずいような、それでも嬉しさを隠しきれないような顔で、叶多は参考書を受け取った。
長居するのも迷惑だろうと思って腰を浮かせたら、呼び止められた。
「ありがとうね。アラタにいろいろ教えてくれたんでしょ」
さっき新と話したのだろう。
「ユメちゃんに心理学の話をしてもらったって聞いた。アラタの世界を広げてくれてありがとう」
イジメのことまでは聞いていないようだ。首を横に振りながら、叶多に伝えるべきか迷った。
「俺、ユメちゃんがいてくれるだけで幸せだよ」
新のことを考えていて、それが私のためにかけてくれた言葉だと理解するのに時間がかかった。
「疲れたでしょ。ゆっくり休んで」
何も言葉を返せないまま、叶多に寝るように促されて、
「うん。おやすみ」
軽く手を振って、自分の部屋に引き上げた。
***
翌朝は洗濯機の回る音で目が覚めた。時計を見ると六時すぎだった。洗濯物について叶多と取り決めたことを、布団の上でぼんやりと思い出す。毎朝叶多が洗濯機を回す。洗濯してほしいものは、それまでにネットに入れて洗濯カゴに出すこと。洗濯し終わったものはネットのまま返すので、自分で部屋の中か部屋の前のベランダに干すこと。というものだった。
本当にここに居させてもらって良いのだろうか、家族の時間を邪魔しているのではないか、などと考えているうちに目が冴えてしまって、二度寝をしても大学には十分間に合う時間だったけど、身支度を整えて一階に降りた。
「おはよう。起こしちゃった?」
眠そうな目をした叶多が挨拶してくる。
「ううん。カナタくんはずっと起きてたの?」
「結局ね。ヒナタの参考書が面白くて止められなかった」
「まさか最後まで読んだんじゃないよね?」
「いや、返さなきゃいけないから、一通り解いたよ」
何てことないように答える。
「え、等差数列とかも?」
「うん。等差数列は一番簡単だった」
信じられない。
「カナタくんって天才だったの?」
本気で言ったのに、笑われた。
「普通だよ。ちょっと数学が好きだっただけ。久しぶりにやって楽しかった」
謙遜しているつもりもなさそうだ。
ふと、思いついた。
「あのさ、大学で統計学っていうの習ってるんだけど、ほぼほぼ数学なんだよね。良かったら今度一緒に勉強しない?」
叶多が勢いよく頷いたから、びっくりして思わず後ずさった。
「するする。今日何時に帰ってくる?」
前のめりで訊いてくる。寝ない気か。
「きょ、今日は四コマ目まであるから、四時半くらいかな」
「そっか」
早まった自分を恥じるように、叶多はゆっくりとテンションを落として、近づいた分だけ私から離れた。がっかりさせてしまったのが申し訳なくて、軽い気持ちで提案したことを後悔した。
「水曜日は三時過ぎに帰ってこれると思うけど、その時間はまだ寝てるでしょ?」
「起きるよ」
叶多が食い気味に答える。
「統計学って確率とかそういうのでしょ?面白そうだよね」
そう思えるのがすごい。
「無理しないでね。ちゃんと寝てよ?」
釘を刺したけど、届いたかどうかは分からない。さっきまで眠そうだったのに、すっかり目を覚ましてしまっている。
陽咲が罪悪感を抱くのも分かるなと思った。叶多は勉強がしたかったのだ。何不自由なく高校に行ったくせにちゃんと勉強しなかった自分が、心の底から恥ずかしくなった。
その晩、叶多が夜勤に出かけた後、幸多が泣かないことに気がついて陽咲とそっと部屋を覗くと、実采が幸多に寄り添うようにして眠っていた。
彼らの心が変化していこうとしているのが分かって、こうやって子供は成長していくんだなと感慨を覚えた。
叶多が夜勤から帰ってくる時間に合わせて起きれば、案外、叶多と二人の時間を作るのは簡単だった。洗濯機を回した後は、二人で朝食を作った。
七時すぎに新が、実采と幸多を引きずるようにして一階に降りてくる。体育委員で早めに登校する新は、あっという間に朝食を済ませて家を出ていく。叶多が、まだ半分寝ている実采と幸多を急きたてながら、朝ごはんを食べさせて、身支度を手伝う。そのうちに陽咲が起きてきて、ご飯をかきこんだ後、実采と幸多を連れて慌ただしく出ていく。というのが、この家のルーチンのようだ。
陽咲たちがいなくなってから私が家を出るまでの三十分足らずの時間も、叶多と二人になれる時間だ。でも、食器を洗ったり洗濯物を干したりしていると、あっという間に家を出る時間が来てしまう。
約束した通り、水曜日は大学から帰った後、叶多と統計学の勉強をした。
叶多は、私がつまづいているところを難なく理解して、分かりやすく解説してくれた。講義を受けた私の方ができないなんて、と情けないやら申し訳ないやらで落ちこんでいると、好きな子と放課後に一緒に勉強してるみたいで俺は楽しいよ、と叶多は笑った。
好きな子、と言うけれど、叶多は依然として私に指一本触れようとしないのだ。
***
(後編に続く)