前編
届かないのなら、別に手に入れられなくてもいいと思っていた。
そんな軽い気持ちで本棚の一番上の段に手を伸ばしたら、案外届きそうで、私は思いっきり背伸びをした。
本と本の間に指をこじいれて、ハードカバーのその本を掴んだまではいいけど、体勢が不安定でうまく力が入れられない。何とか踏ん張って引き出そうとすると、今度は両隣の本も一緒についてきてしまう。それでも頑張れば取れそうなだけに、つい、意地になった。
「取ろうか?」
男の声がしたのは、本が手を滑り抜けたのとほとんど同時だった。
落ちてくる、と思って咄嗟に身構えたけど、鈍い音と低い呻き声に続いて足の裏に振動を感じただけで、覚悟した痛みは降ってこなかった。慌てて振り向くと、男が頭のてっぺんを押さえながら本を拾おうとしているところだった。
「すっ、すみません。大丈夫ですか?」
今いるのが図書館だということを思い出して、すんでのところで声をひそめる。
その男が顔を上げた時、私は再び声を上げそうになった。薄く愛想笑いを浮かべて、こちらに本を差し出してくる。昔は私と同じくらいの背丈だったのに、今は見上げるほど背が高い。
「ありがとう、ございます……」
本を受け取って、私のことが分かっていない様子の相手に名乗ろうかどうしようか迷っていると、彼は不意に人懐っこい笑顔を浮かべた。
「相変わらずアガサ・クリスティが好きなんだね」
本を目で指してそう言った。
「なんだ、わたしのこと気づいてないのかと思った」
「あはは。さっきからずっと気づいてたよ」
「そうなの?だったら声かけてくれたらいいのに」
つい責めるような口調になってしまって、「ていうか、」と話を切り替えた。
「今思いっきりぶつけたよね。大丈夫?」
頭をさすっている彼にそう尋ねた。
「うん。たんこぶできてるかも」
「え、ちょっと見せて」
心配する私に、彼は「大丈夫だよ」と言いながらも、身を屈めて素直にぶつけた場所を示してきた。髪をかき分けて確認する。見たところ出血は無さそうだ。指を這わせてコブを探しながら、いくら昔仲が良かったとはいえ無遠慮すぎたかなと思ったけど、今さら手を引っ込めることもできない。
「あ、ホントだ、たんこぶできてる。ごめんね、痛かったよね」
つむじの近くに不自然な膨らみを見つけて謝る。この本をどうしても読みたかったわけではなかったのに。
しばらくそのコブを撫でていたけど、何の反応も返ってこないので、不安になって手を離した。やっぱり失礼だったかもしれない。
ゆっくりと顔を上げた彼は、驚いたことに、目に涙を溜めていた。
「だ、大丈夫?病院行く?」
「ううん、違う。気にしないで」
再び手を伸ばした私を突き放すように、彼は手の甲で乱暴に涙を拭った。
「こっち戻ってきたんだね、ユメちゃん」
何事もなかったみたいに言う。
「あ、うん。二週間くらい前に。大学がこっちなんだ」
「そっか。じゃあ今はお父さんと暮らしてるの?」
「うん。一人暮らしするのは家賃がもったいないし」
「ああ、生活費もバカにならないよね」
深く納得したようにそう呟いている。
「カナタくん、わたしーー」
「兄ちゃん!」
メールを返さなかったことを詫びようとしたら、子供の声とパタパタと駆けてくる足音に遮られた。
「動物の図鑑ないよ」
小学校に上がるか上がらないかくらいの男の子が、叶多に向かって訴えている。
「もしかして、コウタくん?」
あの頃、叶多の家には幸多と名付けられた赤ちゃんがいた。四年前のことだ。
「だぁれ?」
いがぐり頭の男の子は、大きな目でこちらを見上げた。
「わたしはーー」
「俺の昔の友達だよ」
私の声に被せて、叶多が短く答えた。
「図鑑、あっちの本棚にもなかった?」
まるで追い払うみたいに後方の本棚を指差す。男の子は、叶多が指差した方へと駆けていった。
「今のコウタくんだよね?大きくなったね」
驚きと感慨深さを隠せない私に対して、叶多は「まあね」とそっけない。
「そっか、コウタくんのお守りで来たんだ。相変わらず良いお兄ちゃんだね」
本心から言ったのだけど、叶多は「そうかな」と首を傾げた。
「あ、もしかしてまた兄弟増えた?」
叶多のお母さんが赤ちゃんにかかりっきりなのかと思ったのだ。
でも、叶多はそれを否定した。そして、それっきり心を閉ざしてしまったのが分かった。
「じゃあ、俺そろそろ行くね」
一刻も早くこの場を離れたいみたいに、身体はもう斜め横を向いている。そんな相手を引き留めるような執着心を、私はとうの昔に失くしていた。
「うん、じゃあ」
小さく手を振ると、叶多も軽く手を挙げた。
「元気でね、ユメちゃん」
彼はそう言って微笑んだ。私に背を向けて、振り返ることなく、幸多が走っていった方へと大股で歩いて行った。
彼に会えることを期待して家の近くをウロついていた自分が、馬鹿みたいだと思った。この図書館に来たのも、彼の家がすぐ近くにあるからだった。自分がストーカーをしていたように思えて、底知れない決まりの悪さを覚えている。
叶多に気づかれないように、コソコソと踏み台を持ってきて本を本棚に戻した。彼と鉢合わせしないように時間を潰してから、逃げるように図書館を後にした。
***
翌朝目を覚ますと、何もかもが億劫になっていた。
大学に行くのを辞めておばあちゃんのところに戻ろうかと考えながら、ノロノロと新しいスーツに袖を通す。その時、部屋のドアがノックもなく開いて、父親がズカズカと入ってきた。
昔からこうだ。この人は、デリカシーどころか、普通の感覚全般を持ち合わせていない。悪い人ではないのよ、とお母さんはよく言ったけど、それ以前に常識がなさすぎて、善悪を測ることなど不可能だ。
「今日ぉ、あれよぉ、お前ぇ、入学式だろぉ」
いつものだらしない口調で尋ねてくる。この人に入学式の日にちを教えた覚えはない。おそらく私がいない間に部屋に入って書類を見たのだろう。そう思って激しい憤りを感じるけど、父親に何を言っても無駄だということを、私はお母さんの長年にわたる闘いから嫌というほど学んでいた。
「俺ぇ、行こうかぁ?」
娘に嫌われたり疎まれたりしているとは微塵も考えていない顔だ。
「来なくていいよ」
そう断ると、
「大学生だもんなぁ。入学式に親は行かねぇかぁ」
と、一人で納得したようだった。
もしかしたら仕事をわざわざ休みにしたのかもしれない。何の仕事をしているのか知らないが、シフト制のようで父親の勤務日は変則的だ。
「岸本優芽、なぁ」
無精髭の生えた顎をボリボリと掻きながら、父親は机の上の封筒を無造作に手に取って、宛名にある私の名前を音読した。触らないでと言いたいのを堪えた。中に大学からの重要な案内が入っている。
「優しさの芽かぁ」
自分が名付け親のくせに、今初めて知ったかのようにしみじみと呟いている。優しい世界を始められる人間であれ。父親は幼い私にそう繰り返したものだった。
「用がないんだったら出てって」
私の強い口調に、父親はあっさりと踵を返した。部屋を出て行く前に、
「大学行くなんてよぉ、ユメはマサミに似てぇ、頭いいんだなぁ」
と、お母さんの名前を口にした。
私は別に、大学に行きたかったわけではなかった。進学することを選んだのは、お母さんやおばあちゃんが私にそれを望んだのと、もう一つ。ここを逃したらもう二度と、この人と暮らすことはないだろうと思ったからだ。
私はただ、知りたかった。
お母さんの葬儀に現れた父親は、おばあちゃんに中に入れてもらえなくて、外で声を上げて泣いていた。お母さんの名前を何度も何度も呼んで、愛してた、愛してたんだ、と叫び続けた。
その時私は、おばあちゃんの腕の中で、笑い出しそうになるのを必死に堪えていた。いい気味だと思ったわけではなく、なじりたかったのでもなく、憤りとも憐憫とも悲しみとも違う、ざわざわとした感情が、ともすれば喉を突き上げて、笑い声に変わりそうだった。それ以来、私はうまく笑うことができなくなった。
父親と過ごしたら分かるかもしれないと思った。あの時の感情の正体も、父親が本当にお母さんを愛していたのかも、お母さんがなぜボロボロになるまで父親を見限らなかったのかも。
それは自分にとって、とても重要なことのように思えた。
だから私は、おばあちゃんの反対を振り切って、父親のもとに戻ることに決めた。家の近くの大学を選び、父親と、そして自分の感情と向き合うことに決めた。はずだった。
叶多と再会して一夜が明けた今は、全てがどうでも良いような気分だった。自分が無意識のうちに彼をかなり当てにしていたことに、今頃になって気づかされている。
ベッドに腰を下ろして放心していると、父親が開けっ放しにしていったドアからラーメン特有の脂っぽいにおいがしてきた。まさかと思ったのと同時くらいに、父親の呼ぶ声がした。
一階に降りると、予想通りテーブルの上に大きな丼が一つ置かれていて、父親がニヤニヤと見てきた。娘が喜ぶと信じて疑わない顔だ。突き返すのも面倒で、スーツの上着を脱いで油まみれの麺を啜った。
すっかり胃もたれした身体を引きずるように入学式の会場へ向かいながら、ますます憂鬱な気分になった。
***
見知った顔にぶつかったのは、学生証を受け取って帰ろうとした時だった。
その男は、相変わらず男女混合の集団の中にいて、昔と違うところといえば、着崩しているのが制服からスーツに変わったことと、鬱陶しい髪の色が黒から金色に変わったことくらいだった。
「ゆーちん?」
かつてこの男だけが使っていた私のあだ名だ。
「やべー、ゆーちんだろ?何?ゆーちんもここなの?てゆーか、いつ戻ってきたんよ?」
私の顔をまじまじと見て、確証を得たように馴れ馴れしく話しかけてくる。
「うん、心理学部。つい最近戻ってきて」
一方の私は、この男の名前をすぐには思い出せずにいる。チャラ木と影で呼んでいたから、木が付く名前だったと思うけど。
「ジュンペーの知り合い?」
派手なメイクをした女が、チャラ木と同じ色の髪を指で弄りながら尋ねる。
「そー、小中の同級生でさー。中二ん時に転校してって、こんなとこで会うとは思わねーからびっくりしたわ」
へぇ、と興味なさそうな相槌が周りで起きる。
「じゃあ急ぐから」
立ち去る口実でそう言ったら、チャラ木が肩を組んできた。この遠慮のなさが昔から苦手だった。
「ゆーちん、心理学部なんだ。すげーね」
何がだ、と心の中でツッコむ。適当なのも相変わらずだ。この男は言動の全てが軽い。
「俺、社会学部。んで、こいつとこいつも社会で、あの子が経済で、こっちが政治で、ん?お前どこだっけ?」
訊いてもないのに紹介してきた。名前も知らない人たちの学部を聞かされたって困る。
どうやらこの集団は、チャラ木の高校時代の同級生と、その辺で適当に声をかけたメンツで構成されているのらしい。幸いというべきか、私と同じ心理学部の人はいないようだ。
よく分からないノリが始まって、さっさとこの場を離れたいのに、チャラ木に肩を組まれたままで身動きが取れない。恐ろしいことに、チャラ木をジュンペーと呼んでいる女にさっきから睨まれているような気がする。
「わ、わたし、本当に急ぐから」
チャラ木の腕を強引にどけようとしたら、さらに強く組み寄せられた。
「まだいーだろ。昼、その辺で食ってこーぜ」
「友達と行けばいいじゃん」
「何だよ、つれねーな。俺、ゆーちんのこと割と好きだったんだぜ?」
聞き流した。まともに取り合うだけ無駄だ。
「そーいやゆーちん知ってる?長谷川が高校中退したの」
「え?カナタくんが?」
驚いてチャラ木の方を見ると、至近距離でニヤリと笑いかけられた。
「詳しく聞きてー?一緒に来たら教えてあげっけどな?」
そんな言葉で釣られては、ついていかないわけにはいかなくなった。
会場の近くの飲食店は、入学式帰りの新入生やその家族でどこも混んでいた。チャラ木たちは、しばらく歩いた後、どこにでもあるファストフード店に入った。大学生になったのがそんなに嬉しいのか、彼らは学生証の写真とかネクタイの結び方とかいった小さなことで延々と盛り上がっている。チャラ木は私にもしつこく話を振ってきたけど、気のない返事でやり過ごした。収穫といえば、この男の本名が吉木であることを思い出したことくらいだった。
一時間ほどしてやっと解散の流れになった。ゾロゾロと駅まで歩いて、改札やホームで散っていって、電車でやっと吉木と二人になった。マチョコと『チョ』にアクセントを付けて呼ばれていた金髪の女が、最後まで私のことを睨みつけていた。
「何か変わったな、ゆーちん。昔はもっと感じ良かったじゃん」
吉木が電車のつり革をブラブラさせながら言った。
「あんなつまんなそうにしてたら空気ぶち壊しじゃんよ」
そう非難してくる。呆れて言い返す気にもならない。
「あ、もしかして怒ってる?急いでるって言ってたもんな。ごめんて。さくっと食って出るつもりだったんだけど、あいつらがさぁ」
積極的に盛り上げていた張本人の癖に、この男は悪びれない。
「別に怒ってないよ」
ここで嫌みを言っても始まらないので、吉木の弁明を受け流した。急いでいるというのは嘘だし。
「それより、カナタくんが高校中退したってどういうこと?」
それさえ聞ければ、後はどうだっていい。
「あー、やっぱし気になっちゃう感じ?」
吉木が揶揄うようにニヤついた。まだもったいつける気かと思って睨みつけたけど、全く意に介していないようだ。それどころかさらに顔を近づけてくるから、吊り革一個分吉木から離れた。
「すげー仲良かったもんな。クラス違ったのにどこで接点あったんよ?」
あくまで話の主導権を握るつもりらしい。まあいい。降りる駅はまだ先だ。
「接点って言うほどのことはなかったんだけどーー」
叶多と初めて話した時のことを、鮮明に思い出すことができる。
中学に上がったばかりの頃、私は昼休みを保健室で寝て過ごしていた。毎日寝不足で、給食の後などはとても起きていられなかったのだ。
その日は午後の授業が始まってからも起きることができなかった。校庭で行われている体育の授業を遠くに聞きながら眠りこんでいた私は、五時間目が終わる頃、保健室の戸がカラカラと開けられる音で目を覚ました。ベッドを仕切るカーテンに映る人影は、しばらく保健室の中をウロウロしていたかと思うと、諦めたように長椅子に座った。そこで私は、保健室の先生が少しの間不在にすると言っていたのを思い出した。
カーテンをそっとめくると、上履きのつま先が見えた。その色で、自分と同じ一年生だと分かった。さらにカーテンをめくりあげると、体操服を着た小柄な生徒の横顔が見えた。
『どうしたの?』
そう声をかけたら驚かせてしまったようで、その子はビクッと肩を跳ねさせた。それが、叶多との出会いだった。
叶多は私に、体育の授業で鉄棒に頭をぶつけてしまって、一応保健室で診てもらえと言われたから来たのだと説明した。まだ声変わりをしていなくて、男の子にしては長めの髪と華奢な身体つきから、私は叶多を女の子だと勘違いしてしまった。その中学校は体操服が男女共通だったから、男女を見分ける術がなかったのだ。
『ハセガワ、カナタ、ちゃん?』
胸に書かれた名前を見てそう呼んだ私に、叶多はなぜか訂正しなかった。
「きっかけは、わたしがカナタくんのことを女の子だと勘違いしちゃったことだったかな」
そう答えたら、吉木はおかしそうに笑った。
「へぇ、あいつ女っぽかったんだ」
「わたしも寝ぼけてたから」
叶多をフォローするつもりでそう付け足したけど、正直なところ、寝ぼけていなくても男の子だと分からなかったかもしれない。知り合った頃の叶多は、本当に可愛くて、女の子みたいだった。
「そんで?どーやって仲良くなったんよ?」
しつこく訊いてくる。さっき吉木との間に空けた距離も、いつの間にか詰められている。
「廊下で会った時とかに話すようになって、家にも何回か遊びに行ってるうちに、自然とって感じ」
掘り下げられるのも煩わしくて、適当にそう説明したけど、叶多に二回目に会った時のこともよく覚えている。
保健室で初めて話した日からしばらく経って、学校の昇降口でばったり会ったのだ。学ラン姿の叶多を見た時の衝撃は忘れられない。一瞬、何か事情があって男の制服を着ているのかと思ったほどだ。
自分の勘違いに気づいてひたすら謝る私に、叶多は家に遊びに来ないかと言ってきた。
その時はずいぶんと唐突な誘いのように感じたけど、叶多にとって友達を家に呼ぶことのハードルが低いことはすぐに分かった。彼の家にはいつも子供がたくさんいた。ただでさえ兄弟が多いのに、叶多のお母さんが近所の子供たちに習字を教える傍らケーキやクッキーを焼いていたから、習字教室の生徒や匂いにつられた叶多たち兄弟の友達が、しょっちゅう出入りしていたのだ。
自分の家にはない陽だまりのような空間に、私もいつしか、彼の家に入り浸るようになっていったのだった。
「ふーん」
私の当り障りのない答えに、吉木はつまらなさそうに相槌を打った。
「そんな仲良かったのに、転校した後は連絡取ってなかったんだな」
そのもっともな指摘に、「まあね」と短く返した。
私が転校したのは、中学三年生になる春のことだった。お母さんと一緒に母方のおばあちゃんの家に移ったのだ。
叶多は毎日のようにメールをくれた。でも、当時の私は、新しい環境に慣れるのに必死だったり、体調を崩したお母さんのことが心配だったり、何より、自分の父親がしでかしたことが恥ずかしくて、彼とのやり取りに積極的になれなかった。
最初のうちはメールが来れば返していたけど、返す頻度が減って、返したとしてもごく短い言葉になって、しまいには全く返さなくなった。それでも叶多からの連絡はしばらく続いていたけど、高校に上がって半年ほどが経った十月の中頃を最後に完全に途絶えた。彼からの最後のメールには、今度私のところに遊びにいくと書かれていた。
「あいつ、親が事故で死んだらしくてさ」
何の前置きもなく、吉木が本題に入った。
「え、死んだって……え?」
悪い冗談かと思った。
「違う高校行ったから俺も詳しいことは知んねーけどさ、父親も母親もいっぺんにって」
吉木にしては珍しく深刻な口ぶりに、信じたくないのにジワジワと現実味が増していって、鳥肌がたつのを感じる。
「あいつ、兄弟多いんだろ?そいつらのこと養わなきゃなんねーつって、高校辞めて働いてんだと」
私はいよいよ言葉を失った。
昨日、叶多は一言もそんなことを言わなかった。あの優しいお父さんと、愛情に溢れたお母さんがもういないなんて、匂わせることすらしなかった。ただ、私ともう関わりたくないみたいに、すっかりよそよそしかった。
私がメールを返さなかったから嫌われてしまったのか、あるいは私の父親のことを知ってドン引きされたのかと思っていたけど。
「それって、いつ頃のこと?」
「いつだろ……高一の秋とか冬とかそんぐらいじゃね」
叶多からの最後のメールの時期とも一致する。むくむくと、焦燥にも似た罪悪感が湧き起こった。
「それじゃあ、カナタくんは今も働いてるの?」
「じゃね?詳しいことは知んねーけどよ」
「でも、昨日の夕方カナタくんに会ったけど、全然、仕事帰りって感じじゃなかったけどな……」
叶多のラフな格好と、幸多を連れていたことを思い出してそう呟く。
「会ったのかよ」
吉木は露骨に面倒くさそうな顔をした。
「休みだったんじゃね?知らねーけど」
そう適当に片付けて、また私の肩を組んできた。
「ゆーちんさぁ、昔は仲良かったかもしんねーけど、長谷川のことはもう忘れなって」
耳元でそう囁いてくる。
「あいつはもう俺らとは違げーんだよ。会ったのに何も教えてくんなかったんだろ?それって、向こうも仲良くする気はねーってことだろ」
痛いところを突かれてムカッとした。私の身体がこわばったのが分かったのか、吉木は私の顔を覗きこんできた。
「そんなことよりさ、せっかく大学一緒だし、いっぱい楽しいことしようぜ。な。月曜はゆーちんのとこもガイダンスだろ?何時の電車乗ってく?あ、連絡先教えて。つーか、俺たち付き合っちゃう?」
一転して軽率な口調になっている。怒りを通り越して心配になった。
「誰にでもそういうこと言うの、やめときなよ」
吉木のことは苦手だけど、昔からの知り合いとしての情はある。
「そういうのは、本当に好きな子だけにしとかないとさ、いつか後悔するよ」
自分の父親と重なった。あの人もある意味、誰にでもいい顔をした結果、家庭を壊した。
吉木は、乾いた笑い声を漏らして、私の肩から腕をどけた。
「優しいのは変わらないね、ゆーちん」
この男がそれを優しさだと受け取ったのは、少し意外だった。
「ゆーちんはどーなの?ホントに好きな奴に好きって言える?」
気まずくて軽口を叩いているのかと思って吉木を見ると、思いのほか真剣な顔をしていた。
「ゆーちんは、長谷川のこと好きだった?」
電車のアナウンスが降りる駅に到着することを告げている。
答えないままやり過ごそうかと思ったけど、吉木のまっすぐな視線がうやむやにすることを許してくれなくて、「忘れた」と小さく答えた。
「否定しないんだ」
吉木がニヤニヤしてくる。
「肯定もしてないよ」
私の方が気まずくなって、俯いて言い返した。
分からない、というのが正直なところだった。叶多のことを異性として意識したことが、全くなかったわけではない。雨の中、私を家まで送ってくれたことがあった。叶多が差す傘の中で、家に帰りたくないと弱音を吐いた私の手を、彼はギュッと握ってくれた。その時、心が大きく揺れ動くのを感じた。でもそれはほんの一瞬のことで、それよりも家の問題の方が重くて、私はその気持ちについて深く考えなかった。私にとって叶多は、恋愛の対象というよりも、かけがえのない大切な友達だった。
電車を降りてからは、吉木が中学時代の同級生の近況について話すのを聞き流しながら歩いて、分かれ道で別れた。
***
家に帰ると、玄関に私のものではない女物の靴が置かれていた。その横に子供の靴が並んでいて、私は来客が誰なのかを理解した。
引き返そうとした時、「おかえり」という女の声に捕まった。リビングの方から小さな男の子が現れて、何度も後ろを振り返りながらこちらに歩いてくる。
「こんにちは、レンヤくん」
観念して、腹違いの弟に挨拶した。
蓮哉はもじもじして何も言わず、遅れてやってきた母親の後ろに隠れてしまった。
「大きくなったね、レンヤくん」
恵梨香にそう社交辞令を述べた。昨日叶多にも幸多のことで同じ言葉をかけたけど、そこに抱く感情は全く違う。幸多の成長は純粋に微笑ましく思えたけど、蓮哉の成長にはゾッとするものを感じてしまう。この子に罪はないと、頭では分かっているけれど。
「ホント。もうすぐ四歳だよ」
恵梨香は母親の顔をして答えた。
「どっか行ってようか?わたし邪魔でしょ?」
ドアを指差して尋ねる。むしろ行かせてほしいと願った。
「ううん、もう帰るところだから。ユメちゃんを待ってたの。こっち戻ってきたんだね」
「ああ、うん。大学近いから」
「今日入学式だったんでしょ?おめでとう」
全く心の込もっていない声だ。
「ありがとう。エリカちゃんはお父さんに何か用事だったの?」
用が済んだのならさっさと帰ってほしかった。私たちの間に交わすべき言葉など、何一つない。
「まあそんなところ。ところでユメちゃんって、ここにタダで住んでるの?」
私の問いをはぐらかして、恵梨香が逆に尋ねてくる。意図が見えなくて戸惑った。
「タダで、って?」
「だって、居候してるわけでしょ?家賃を入れるべきじゃない?」
本気で言っているのだろうか。
「だってここ、わたしの家だし……」
「でもマサミさんについていったわけじゃない?マサミさんが死んだからって、のこのこ戻ってきて住まわせてもらって当然って顔するのは違くない?」
自分の主張が正しいと信じこんでいる様子だ。そもそも恵梨香に口を出される筋合いはない。
「何その顔。ヒロアキさんの代わりに言ってあげてるんだからね」
「お父さんがそう言ってるの?」
「あの人は何も考えてないよ。ほら、お金のこととか無頓着でしょ。でもそれじゃああたしは困るの。レンヤにこれからお金がかかるんだから」
養育費のことを心配しているのかと納得した。
「じゃああたしは帰るけど、ただでさえヒロアキさんの稼ぎは少ないんだから、余計な買い物とかしないようにユメちゃんもしっかり見張ってよ。ここに住むんだったら、ちゃんと家賃入れなさいね。ヒロアキさんに何か買わせたりなんかしたら承知しないから。レンヤ、帰るよ」
言いたいことだけ言って、恵梨香は蓮哉をつれて帰って行った。
どっと疲れて、ぐったりしながらリビングに行くと、父親がソファーで寛いでいた。私に気づいて、「おう」と手を挙げる。テレビでサッカーの試合をやっているようだ。
「エリカちゃん何の用だったの?」
娘が恵梨香から理不尽なことを言われている時に呑気にテレビを見ていたのかと思うと腹が立って、声が尖った。
「ああ、今月分の金払うの待ってくれっつったらよぉ、待てねぇっつうからよぉ、ユメの部屋にあった十万、渡しといたぞぉ」
「……は?」
耳を疑った。
「え、嘘でしょ?」
確かに机の引き出しの中に十万円の現金が入った封筒をしまっていた。それは、おばあちゃんが持たせてくれたお金だった。困ったらいつでも戻っておいでと、そう言って。
「嘘じゃねぇよぉ。引き出しに入ってたからよぉ」
「だからって、何で勝手に盗るわけ!?」
自分が馬鹿だったのだと思った。お母さんがこの人にお金や物を盗られて怒ったり悲しんでいる姿を何度も見てきたのに、さすがに娘のものは盗らないだろうと甘く考えていた。
「怒るなよぉ」
こちらの怒りを逆撫でするようなトーンで父親が言う。これも何度も聞いた。その度にお母さんが逆上していたのを思い出して、私はかえって冷静になった。
「しょうがねぇだろぉ。エリカがよぉ、金がなくてレンヤに食わせるもんも着せるもんもねぇっつーからよぉ。可哀想だろぉ」
可哀想というのが、父親の行動原理なのだ。
「あげちゃったものはもういいけど、お金はお父さんが返して」
怒りを押し殺して、淡々とそう要求した。
「いやぁ、そんなこと言ったって俺ぇ、金ねえからよぉ。お前ぇ、金持ってんだろぉ」
悪いことをしたという意識は全くないようだ。
「ユメが帰ってくるっつーからよぉ、家のクリーニングとかぁ、マットレス買ったり、うまいもん買ってよぉ、金使っちまったんだよぉ」
「頼んでないよ、そんなこと。お父さんが勝手にやったんじゃん!」
冷静を保つのは無理だった。
「親の愛情をそんなふうに言うことないだろぉ」
「そんなの愛情じゃないから。ただの自己満足だよ。わたしは何にも嬉しくない。二度としないで」
そう一方的に怒鳴りつけて、二階に駆け上がって自分の部屋に閉じこもった。
情けなくて仕方がなかった。父親と暮らすにあたって、ある程度覚悟はしていたつもりだった。でも、まだまだ甘かった。
父親は、私が金銭に余裕があるかのような口ぶりだった。確かにおばあちゃんは、弁護士だったおじいちゃんがそれなりに財産を遺したから、私に一人暮らしができるくらいの仕送りをしてくれる。同じく弁護士だったお母さんも、私が大学に行けるだけのお金を遺してくれた。でも、そこには想いがある。おばあちゃんは、贅沢できるだけのお金を持っているのに私のために節制してくれている。お母さんも、私に少しでもお金を遺したいと高額な治療を頑なに拒んだ。恵梨香に渡してよいお金なんて、一円もないはずなのだ。父親のしたことは、おばあちゃんやお母さんの想いを踏みにじる行為だ。
お母さんがなぜ父親を見限らなかったのか、さっぱり理解できない。ここで暮らしていた頃、部屋や引き出しに鍵を付けることをお母さんに提案したことがある。そうすれば大事なものを盗られなくて済むと思ったからだ。そしたらお母さんは、『そんなことをしてはダメよ』と諭すように言った。『お母さんはお父さんを諦めないし、信用していたいの』と言った。そうやって信じたせいで、父親に裏切られる度に余計に傷つくハメになるというのに。
しばらくベッドに座って脱力した後、とりあえず着替えようとスーツを脱いでいると、階段を上がってくる足音がして、勢いよく部屋のドアが開けられた。
「何かうまいもん食いに行くかぁ?」
こっちが下着しか付けていないのもお構いなしで、部屋の中に入ってくる。
「ちょっと、入ってこないでよ。出てって」
「なんだよぉ、別にいいだろぉ」
「良くない。本当に出ていって」
服で身体を隠しながら、本気で身の危険を感じた。私の同級生だった恵梨香を、十四歳で妊娠させたような男だ。
「まだ怒ってんのかよぉ」
「そういう問題じゃなくて」
「そんじゃあ、もう怒ってないのかぁ?」
そういうことじゃない、と言いかけたのを飲みこんだ。今は追い払えるのなら何だっていい。
「もう怒ってないから!」
怒鳴るように言ったら、父親は目に見えてホッとした顔になった。
「そっかぁ。ユメに嫌われたら俺ぇ、悲しいからなぁ」
「分かったから、あっち行って」
「おう。晩メシ何食う?」
「後で考えるから出て行って!」
そう叫んだら、やっと父親は部屋を出ていった。急いでドアを閉める。落ち着かない気持ちで服を着ながら、やっぱりこんなところでは暮らせないと思った。
「出かけてくる。晩ごはん要らないから」
父親にそう声をかけて家を出た。とても夕食を一緒に取る気にはなれなかった。
「おう」
行き先も聞かずに、父親は一つ返事で応じた。この人は結局、他人に関心がないのだ。私を怒らせたことも、もう忘れているに違いない。
駅に出るつもりが、足が勝手に叶多の家へと向かっている。歩きながらずっと訪問の口実を探していた。両親へのお悔やみを言わせてほしいというのも、昔みたいに仲良くしてほしいというのも、昨日の叶多の様子からは受け入れてもらえるとは思えなかった。
答えが出ないまま叶多の家の前に着いてしまった。【長谷川】という手作りの表札は昔のままで、でも、あの頃と違って花壇に花は無く、賑やかな子供の声も聞こえてこない。
臆病風に吹かれて家の周りをウロウロして、また家の前に戻ってきた。迷った挙句、おっかなびっくり呼び鈴を鳴らした。昔と変わらない大きなベルの音に、心臓が飛び出そうになる。
インターホンからの応答を待っていると、家の中から駆けてくる足音がして、ガラガラと勢いよく玄関の戸が開いた。
「あ、昨日のお姉ちゃん!」
幸多だった。私を見上げて愛嬌たっぷりに笑いかけてくる。昨日チラッと会っただけなのに、私の顔を覚えているのらしい。
「こんにちは、コウタくん」
屈みこんで挨拶する。
「勝手に出たらダメって言われただろ」
奥から別の子供の声がした。戸の裏にいるようで姿は見えない。
「でも、知ってる人だもん」
幸多が振り向いて一生懸命に言い返している。
「出る前は知ってる人か分かんないだろ」
言いこめられて、幸多がシュンとする。
「ミコト、そこで言い合ってたらお客さんに失礼だろ。いいから兄ちゃん呼んできて」
別の声が囁くのが聞こえた。幸多を引き入れて、十歳くらいの男の子が顔を出す。
「弟たちがすみません。兄がすぐに来ると思うので」
その男の子のことを、私はよく知っていた。幼い頃の面影が残っているのに、その所作はすっかり大人びている。
「アラタくんだよね?わたしのこと、忘れちゃったか」
最後に会った時、この子はピカピカのランドセルを背負って、家の中を走り回っていた。
新は、私の顔を見て困ったように眉を下げた。
「すみません、お名前を聞いてもいいですか?」
そう丁寧な口調で尋ねてくる。
「あ、ごめんね。岸本優芽と言います。アラタくん小さかったから覚えてないのも無理ないよね。わたし、カナタくんの友達で、昔よくここにーー」
「アラタ、いいよ」
奥から呼ばれて、新は私にぺこりとお辞儀をして家の中に入っていった。
「ユメちゃんか」
出てきた叶多は、私を見て眠そうな目をこすった。髪はボサボサで、ダボダボなグレーのスウェットを着ている。
「寝てたの?ごめんね」
「まあね。どうしたの?」
真正面からそう問われて、言葉に詰まってしまった。何を言っても拒絶されそうな気がして、叶多に拒絶されたらもう、どうしたらいいか分からなかった。
重い沈黙の後で、叶多は私の前からゆらりと身を引いた。
締め出されるのかと思っていると、
「お茶でも飲む?」
と、彼は頭を掻きながら言った。
玄関に入ると、上り框に立っている末っ子の幸多と目が合った。新に手を繋がれて、来客に興味津々といった様子で目を輝かせている。
彼らから少し離れたところにもう一人、いがぐり頭の男の子が立っていた。手元のゲーム機に目を落としている。三人いる叶多の弟のうち、真ん中の実采だろう。だとすれば、この春に小学二年生になるはずだ。でも、見かけはもう少し幼く見えた。叶多が幸多のいがぐり頭を撫でると、チラッと目だけ上げて、拗ねたような顔をした。
「座ってて」
台所に通されて、ダイニングテーブルの椅子を勧められた。かつて、ここでよく家族の食卓に入れてもらった。あの頃と物の配置は変わらないのに、今はひどく物寂しい感じがした。
「ユメちゃんにもう一度会いたいと思ってたんだ」
幸多にまとわりつかれながらヤカンを火にかけて、叶多が言った。
同じ気持ちだったんだと嬉しくなったのも束の間、彼は続けて言った。
「ヒナタが喜ぶと思ってね」
陽咲は、叶多の二つ年下の妹だ。
「今、ヒナタに帰ってくるように連絡するね。あ、時間大丈夫?」
ガラケーを片手に訊いてくる。頷くと、慣れた手つきでカチカチと何やら入力し始めた。昔はスマホを使っていたから、きっとメールアドレスも変わってしまっているのだろう。こっちに戻ってくる時に叶多に連絡しようか迷ったけど、送ったところで届かなかったんだなと、叶多の横顔を見ながら思った。
幸多は、叶多のスウェットの裾を掴んで、しばらく私のことを見ていたけど、新にお茶の間から手招きされると、パッと表情を明るくして台所を飛び出していった。私たちの邪魔にならないように幸多を連れ出してくれたのらしい。新は、会わないうちにすっかりお兄ちゃんになってしまった。
「ヒナちゃん元気?」
叶多がケータイを閉じて尻ポケットにしまったのを見て、そう声をかけた。二人だけの空間に少し気まずさを感じている。
「元気だけど、あいつには困ってるんだ」
急須に茶葉を振りかけながら叶多が言う。
「困ってるって?」
「会えば分かるよ」
そう濁して、詳しくは教えてくれなかった。
ふつりと会話が切れて、叶多がお茶を淹れてくれるのをしばらく黙って見ていた。
「今日ね、入学式だったんだ」
沈黙に耐えかねて口を開いたのは今度も私だった。
「ああ、そうだったんだ。それはおめでとう」
表面的な返しをして、叶多はお茶の入った湯呑みを私の前に置いた。
「チャラ木って覚えてる?」
心が折れそうになりながら、何とか会話を続けようと試みる。
「覚えてるよ。吉木でしょ」
私と違ってすぐに名前を出してきた。それが何か?という顔をしている。
「入学式にね、チャラ木がいたんだよ。学部は違うんだけど大学一緒でさ。びっくりしちゃった」
「そうなんだ」と叶多が気のない相槌を打つ。
「相変わらずチャラチャラしててさ、すっごい馴れ馴れしくって、付き合っちゃう?とかいきなり言ってきーー」
会話を続けたいあまり、余計なことまで口走った。慌てて口を閉じて、ますます気まずくなった。
「本気だったんじゃないの、吉木は」
調理台に寄りかかってゆっくりとお茶を啜った後、叶多が興味なさそうに呟いた。
「まさか。そんなに喋ったことないし。冗談に決まってるよ」
「そう?」
同意してもらえなくて、寂しい気持ちになった。昔は叶多も一緒になってチャラ木と呼んでいたのに。
「でね、チャラ木が言ってたんだけど」
核心に触れる前に唾を飲みこむ。
「おじちゃんとおばちゃん、亡くなったって……」
「うん、死んだよ」
叶多はうっすらと笑みを浮かべて、食い気味に肯定した。
「ごめんね、わたし知らなくて、昨日無神経なこと言ったかも……」
「何とも思わなかったよ。気にしないで」
被せるように叶多が言う。この話題を続けたくないという意思表示のように感じた。あるいは、そもそも私との会話自体を終わらせたいと思っているのかもしれない。
「ごめんと言えばさ、メールも返さなくてごめんね」
とりあえず話題を変えた。
「しつこくメールしたこっちが悪いんだよ」
「そんなことーー」
「いや、反省してる。今なら分かるよ。しんどい時にしんどい思いしてない奴から連絡来たら鬱陶しいし、気休めなんか言われたら腹立つよね」
否定しようとしかけて、言葉に詰まった。叶多からのメールを本当は心待ちにしていた、なんて、メールを返さなかった理由を言わない限り信じてもらえるはずがない。
そして、再会して初めて少し饒舌になった彼の言葉が、私を拒絶するものに聞こえて、なおさら言葉が出なくなった。暗に私のことを鬱陶しいと言っているようだ。
「ヒナタが大学に行かないって言うんだ」
何も言い返せないでいると、叶多がサラッと話を変えた。
「ユメちゃんからも、大学行った方がいいよって言ってやってよ」
困ったもんだ、と言いたげに眉根を寄せている。
「そうなの?でも行かないって言ってるってことは、ヒナちゃん他にやりたいことがあるんじゃないの?」
私の知る陽咲は、弟たちの面倒をよく見るしっかり者のお姉ちゃんだった。
「あいつは何も考えてないよ。ユメちゃんも会えば分かる」
そんな風に言われたら、陽咲にまだ会っていない私には反論できない。
「どうしてヒナちゃんに大学に行って欲しいの?」
代わりにそう尋ねた。
「そりゃあ、父さんたちが生きてたらそうしてるはずだからだよ」
叶多が当然のことのように答える。彼の抱えこんでいるものが、垣間見えた気がした。
「だけどそんな、何もかも亡くならなかったのと同じようにってわけにはいかないでしょ」
余計なお世話だと思いながらも、諭さずにはいられなかった。
「わたしだって、お母さんが死ななかったらこっちに戻ってこなかったと思うし、カナタくんだって、高校辞めーー」
「俺はーー」
ほんの刹那、彼の目から激しい感情がほとばしるのを見た。でも、すぐに穏やかな表情に戻った。
「ユメちゃんのお母さん、亡くなったんだ」
「あ、うん。おととしの冬に」
「そっか。それは大変だったね」
その言葉にはいくらか心が込もっているように感じられた。
それを聞いて、私は再びあの感覚に襲われた。お母さんの葬儀で父親の泣き叫ぶ声を聞いた時と同じように、笑い出したくなった。冷静な自分が慌ててその感情の首根っこを掴もうとしたけど、さざ波が引くみたいに、それは無の中へと溶けていった。
また会話が途切れて、もう自分から始める気になれず沈黙に耐えていると、玄関のガラス戸が勢いよく開く音がした。
「ああ、帰ってきた」
叶多がそう呟いて再びヤカンの火をつける。廊下を走る足音の後、台所に制服姿の女の子が駆けこんできた。
「ユメちゃん!」
「……ヒナちゃん?」
記憶の中の少女とはあまりにもかけ離れていて、おずおずとそう確認した。
「会いたかった、ユメちゃん!」
その笑った顔で、やっとその子が陽咲であることを認識した。ウェーブした金色の髪を腰のあたりまで伸ばして、真っ赤なリップを塗っていても、笑顔は昔のままだった。
「久しぶりに見たな、ヒナタのそんな顔」
急須を手に叶多が言う。その顔がびっくりするくらい優しくて、ドキッとした。
「うざ。てか、そんなジジくせぇの飲まねーし」
対する陽咲は反抗的だ。言葉遣いも昔からは考えられない。
「そう?」
叶多の方は、慣れているのか動じない。
「ね、ユメちゃん、外行かない?」
と、陽咲。
「うん、外で話してきたらいいよ」
と、叶多が同意する。
「うっざ。晩ごはん、あたしが作るから勝手に作んなよ」
「別にいいのに」
叶多とそんなやり取りをした後、陽咲は「行こ」と私に声をかけて、さっさと台所を出ていってしまった。
「あ、じゃあ、お邪魔しました」
叶多に向けて軽く頭を下げたら、
「お構いもせず」
と、彼は微笑んだ。
「今日は学校だったの?」
駅の方へ歩きながら、制服姿の陽咲にそう問いかけた。スカートの丈があまりにも短くて、下着が見えそうでハラハラする。
「ううん。あ、これ?これは、友達んちに遊びに行くのに私服選ぶのが面倒くさくて」
陽咲は着ている紺色のブレザーの裾をつまんで、笑って制服の訳を説明した。
「そうだったんだ。友達と遊んでたのに切り上げて帰ってきてくれたんだね」
「そりゃそうでしょ。ユメちゃんに会いたかったもん」
当然でしょという口ぶりで言い放つ陽咲を見て、失望していないだろうかと不安になった。私はこんなに地味で、何も持っていない。
陽咲は、私が一時的に戻ってきたのだと思っていたようで、大学に通うためにこっちで暮らすのだと言ったら喜んでくれた。その笑顔が可愛くて、どうしてそんなに濃い化粧をしているのだろうと不思議に思った。
「兄貴に、大学に行くようにあたしを説得しろとか言われなかった?」
大学の話の流れで、陽咲が嫌そうな顔で訊いてきた。嘘をつくわけにもいかず苦笑いを返すと、
「やっぱそうなんだ。何でもかんでも押しつけるのホントうざい」
と、不機嫌になってしまった。
「ヒナちゃんは大学に行きたくないの?」
ますます怒ってしまうだろうかと思いながら、恐る恐る尋ねてみた。陽咲は足を止めて、ムキになったように口を尖らせた。
「行きたくないなんて言ってない。大学行くかはあたしが決めることで、兄貴に押しつけられることじゃないって言ってるだけ。そうでしょ?」
同意を求められて頷くと、陽咲はホッとしたような顔をした。
「ね、そこでクレープ食べない?」
明るい陽咲に戻って、前方にある店を指差す。昔からあるクレープ屋さんだ。
「何年ぶりだろ。全然変わってない」
店内に入ると、陽咲は嬉しそうな声をあげた。お金が自由に使えなくて来れなかったのかもしれない。そう思って、年上を理由に陽咲の分もまとめて払おうとしたら、「あたし結構リッチなんだよ」と断られた。
「クレープって自分じゃ作れなくってさ」
できたてのクレープを幸せそうに頬張りながら、陽咲がモゴモゴと喋る。
「コウタが食べたいって言うから一回作ったことあるんだけど、うまくいかなくって薄いパンケーキになっちゃった」
そんな他愛もないことを話すのを、相槌を打ちながら聞いた。昔もこんな風に陽咲との時間を過ごしていた。当時の空気を思い出して、やっと陽咲に会えたような気がした。
「あ、もうこんな時間」
高校での話をひとしきり聞かせてくれた後、スマホを見て陽咲は慌てたように水を飲み干した。店の壁にかかっている時計を見上げると、十七時を少し回ったところだった。
「ユメちゃん、うちで晩ごはん食べてかない?」
クレープの包み紙をきれいに畳みながら陽咲が言う。遠慮して断ろうとしたら、彼女は縋るような目をした。
「でも、カナタくんが許してくれるかな」
彼のよそよそしい態度を思い返して躊躇うと、陽咲はムッとしたようだった。
「兄貴なんか関係ないよ。それとも、ユメちゃんの家に迷惑かかる?」
首を横に振った。父親には夕飯不要だと伝えてある。陽咲と別れてからどこかで適当に食べて帰ろうと思っていた。
「じゃあ、いいでしょ?」
陽咲に押し切られて、自分の分の食事代を払うという条件で、言葉に甘えることにした。
スーパーで買い物をして、再び叶多の家に帰ってきた。
「あ、さっきのお姉ちゃん!」
玄関で幸多が私を指差すのを、実采が「人を指差したらダメ!」と払いのけている。
「カナタくんはいないのかな?」
一応了承を得た方がいいかと思ってそう尋ねると、
「僕のお部屋で寝てるよ」
と、幸多が教えてくれた。幸多と一緒に遅い昼寝をしたまま、まだ起きてこないのらしい。さっきも叶多は寝起きのようだった。体調が良くないのだろうか。そう思って心配になったけど、陽咲を怒らせそうで何も訊けなかった。
夕飯はハンバーグにするようだ。陽咲が玉ねぎを手早くみじん切りにするのを、手伝うこともできずに横で見ていると、突然、「何すんだよ!」と叫ぶ声と、そのすぐ後で子供の泣き声が聞こえてきた。
「いつものことだから」
後ろを気にした私に、陽咲が手を止めずに言う。
「でも……」
「アラタが何とかするし」
そうは言っても、子供は大きな声で泣き続けているし、叶多も目を覚ましてしまったに違いない。
「やっぱり、ちょっと見てくるね」
陽咲に断って、泣き声がする方へ向かった。
彼らは習字部屋にいた。かつて叶多のお母さんが習字を教えていた部屋だ。泣いているのは幸多で、その横で実采がムスッとした顔でランドセルを抱きかかえている。
声をかけようとした時、後ろから新がやってきた。
「ミコト兄ちゃんがぶったの」
新に向かって、幸多がそう訴えている。
「コウタが俺のランドセルを投げたんだ」
実采が負けじと主張する。
「だからってぶつことないだろ」
新は幸多の頭を撫でながら実采をたしなめて、
「ランドセル触りたかったら俺のにしとけって言っただろ」
と、幸多に言い聞かせた。そのまま、幸多の手を引いて部屋を出ていった。
実采は、ランドセルを抱きしめたまま立ち尽くしている。
「ミコトくん」
名前を呼んだら、ビクッとして顔を上げた。私の存在に今気づいたようで、睨みつけてくる。
「びっくりさせちゃったね。ごめんね」
いつも怒られているのだろう男の子のそばに屈みこんだ。
「すごい、ピカピカだね、ランドセル。綺麗に使ってるんだ」
光沢を放つランドセルは、傷ひとつなく、まるで新品のようだ。
「別に。これぐらい普通だし」
畳の上に大事そうに置いて、タオルハンカチでランドセルの表面を拭いている。側面に、魚のニモをかたどったあみぐるみが吊り下げられている。
「普通じゃないよ。物を大事にできるのはすごいことだよ」
褒められ慣れていないのだろう。実采は目をキョロキョロさせた。
「別に。兄ちゃんが一生懸命働いて買ってくれたんだから、大事にするのは当たり前だし」
この子はとても純粋で、正義感の強い子なのだろうと思った。叶多にも昔、そういうところがあった。
「そっか。じゃあ、勝手に触られたら嫌だよね」
「いっつもだよ。コウタは言うこと聞かないんだ。ベタベタ触るし、振り回したり投げたりするし、乱暴なんだ」
少し気を許してくれたのか、実采の言葉数が増える。
「ミコトくんは我慢してちゃんとお兄ちゃんしてるんだ。偉いね」
「そうだよ。俺、いっつも我慢してんのに、いっつも俺だけ怒られる」
やっとこっちを見てくれた、と思ったら、実采はハッとした顔で私の斜め上を見た。
「またコウタを泣かしたのか」
後ろから叶多の声がした。振り向いた私を押し退けるようにして、叶多は実采の前に立った。
「カナタくん、ミコトくんは……」
庇おうとした私に、冷たい作り笑いを向けてくる。部外者は口を挟むなと牽制するかのようで、私は口をつぐむしかなかった。
「コウタはお前にとってたった一人の弟だろ。優しくしないとダメじゃないか」
叶多に叱られて、実采は口をへの字に曲げて俯いている。
「あー、バリカンしてあげようかと思ってたけど、そんな顔してる奴にはやめとこうかなぁ?」
叶多の試すような声に、パッと実采が顔を上げた。そんな実采の頭を、叶多がグリグリと撫でる。
「コウタに謝れるか?」
実采が小刻みに何度も頷く。よし、と言って、叶多が実采を抱き上げた。叶多の肩越しに、実采が満面の笑みを浮かべているのが見えた。その顔は、驚くほど昔の叶多に似ていた。
実采を担いだ叶多が私の横をすり抜けていった後、一人、習字部屋に残された。この部屋も昔のままだ。長机がいくつも並べられていて、いろんな柄の座布団が、机の上に積まれたり床に重ねられたりしている。机の横に一人分の布団が敷かれているのだけが場違いだ。
壁には、生徒たちの書道作品が貼られていて、その一番上に、美しい字で書かれた叶多たち兄弟の名前が並んでいる。
『素敵な名前ね』
そう言って、叶多のお母さんが私の名前を筆で書いてくれたことがあった。そしてその半紙を、叶多の名前の横に置いてくれた。両親の言い争いを聞くのがつらくてこの家に入り浸っていた私に、『ここを自分の家だと思っていいのよ』と言ってくれた。どこまでも優しくて温かい人だった。私は彼女に救われたのに、お礼も伝えられなかった。
壁にはもう私の名前はない。片付けたのか、それとも捨ててしまったのか。当然だ。私はいっとき優しくしてもらっただけの居候で、家族ではないのだから。
出しゃばってはいけない。そう自分に言い聞かせた。いくら私にとってこの家の人たちが愛おしくても、彼らにとって私は部外者だ。彼らの領域に踏みこんではいけない。
きゃはは、と実采の嬉しそうな笑い声が聞こえてきた。陽咲の言う通り、私は何もしなくて良かったのだ。
台所に戻ると、陽咲が肉だねをこねているところだった。
「いつもヒナちゃんがご飯作ってるの?」
その慣れた手つきを見て尋ねる。
「最近はね。前は兄貴が作ることが多かったんだけど、夜勤始めたから」
それを聞いて叶多が寝ていた訳が分かった。体調が悪いのではなく、夜勤明けで寝ていただけだったのだ。
「カナタくんも大変だね……」
思わずそう呟いたら、
「別にそんなこと誰も頼んでないけどね」
と、陽咲が腹立たしそうに声を尖らせた。
台所の長方形のダイニングテーブルに兄弟全員が揃った。かつて叶多のお父さんが座っていた窓側の席に叶多が座って、叶多の両脇に角を挟んで幸多と実采が座った。そして、幸多の隣に陽咲が、実采の隣に新が座った。私には、テーブルの長軸を隔てた叶多の向かいの席を用意してくれた。
「良かったの?こんな時間まで」
どっちのハンバーグが大きいかで揉めている実采と幸多を宥めながら叶多が訊いてくる。
「ごめん、図々しく居座ってて」
「いいでしょ別に。食事代も出してくれたし」
私の言葉に被せるように、反抗的な口調で陽咲が言い返す。
「いや、そういうことじゃなくて、ヒナタのわがままに付き合わせたんだろうなと思って。ユメちゃんに払わせたのか。いくら?」
叶多が腰を浮かして尻ポケットから財布を出したのを見て、陽咲がうんざりした顔をする。
「うっせえな。あたしたちの間で決めたことにいちいち口出しすんじゃねーよ」
「そうはいかないよ。ユメちゃんはお客さんなんだから、払わせるのはおかしいだろ」
「お客さんって。そんな他人みたいな言い方すんな」
「他人だよ。ヒナタももう子供じゃないんだ。ユメちゃんに甘えるのはいい加減にしろよ」
私のせいで言い争いが始まってしまった。
「あの、ごめんね」
居たたまれなくなって口を挟む。叶多が私を他人だと言うのを、これ以上聞きたくないという気持ちもあった。
「ヒナちゃんはお金要らないって言ったんだよ。それをわたしが、そういうわけにはいかないって無理に押しつけたの」
叶多が立ち上がって、財布を開きながら私のところにやって来る。
「うん、気持ちだけありがたく貰っとくね」
そう言って、私が出した分を全額返してくれた。
「アラタ、お前も髪伸びたな。明日一緒に散髪行く?」
張り詰めた空気の中で、自分の席に戻る途中、叶多が新に声をかけた。新が無言で首を横に振る。
「でも来週始業式だろ。ほら、五年生つったらクラス替えもあるし。第一印象は大事だよ」
「別に。みんな知り合いだし」
新が短く返す。
「もしかして金の心配してるのか?そんなの気にしなくていいんだからな。あ、アラタもバリカンで刈ってあげようか?」
コップを乱暴にテーブルに置く音がした。陽咲だった。
「しつっこい。アラタがいいっつってんだろ。何でもかんでも思い通りにしようとすんな」
「そんなつもりはないけど、髪が目に入りそうだしさ。遠慮してるんだったらそんな必要ないんだよって」
「そうだよね。兄貴が好き好んで夜な夜な働いてるだけで、別にお金に困ってるわけじゃないもんね」
「そんな言い方はないだろ」
「じゃあ何?一人で全部背負ってますみたいな顔してさ、マジでうざい」
「やめないか、ユメちゃんの前で」
「そうだね、お客さんの前で失礼があっちゃいけないもんね!」
皮肉のように陽咲が言い放つ。新の様子を窺うと、ご飯を掴んだお箸に目を落として、歯を食いしばるような表情をしていた。
その後は、実采と幸多が時々言い合いをする以外は誰も喋らなかった。
あの頃、この家での夕食は笑いが絶えなくて、とても居心地が良かった。今はむしろ昔の私の家みたいだ。そう思って、悲しくなった。
夕食を終えて、叶多は実采と幸多をお風呂に入れに行った。
「ホントムカつく」
陽咲がお皿を洗いながらまだ怒っている。
「ごめんね、わたしのせいで」
手渡されたお皿を拭きながら謝る。
「全っ然ユメちゃんのせいじゃないよ」
「ありがとう。でも、そろそろ帰るね。ご飯美味しかった」
「もう帰らなきゃダメ?」
陽咲がまた縋るような目をしてくる。
「ダメってわけじゃないけど、あんまり長居したら迷惑でしょ」
「迷惑じゃないし。むしろ、いて。明日土曜日だし、いいでしょ?まだ話したいこといっぱいある。兄貴はあと一時間もしたら仕事に行くし」
陽咲につられて時計を見上げると、十九時半だった。
「まあ、わたしはいいけど……」
私は私で、父親のいる家に帰りたくはなかった。
洗い物を終えて、陽咲が小さな洋服を器用に畳むのを見ていると、グレーのツナギを着た叶多が二階から降りてきた。その身体にパジャマ姿の幸多が抱きついている。
叶多は、まだいたのかという顔でこちらを一瞥した後、「明日はバイト?」と陽咲に問いかけた。
「ん。午後から」
「俺は十時に散髪行ってくる。昼は適当に買ってくるよ」
「あっそ」
「もう遅いし、早めにユメちゃん帰すんだよ」
「はいはい」
「じゃあ、行ってくる。ユメちゃんも、ヒナタに付き合わせちゃって悪かったね。気をつけて帰って」
相変わらずの他人行儀な笑顔で流れるように言って、叶多は出かけていった。
見送りに出ていた幸多がお茶の間に戻ってきて、陽咲の膝の上にペタンと座る。口をキュッと引き結んで、泣きそうなのを堪えているような表情だ。一緒に戻ってきた実采も、幸多の肩をぐいぐい押しながら同じ表情をしている。
「カナタくん何時に帰ってくるの?」
火が消えたようにすっかり意気消沈している弟たちを見て、陽咲に尋ねた。
「六時すぎくらいじゃん?知らないけど」
陽咲がつまらなさそうに答える。叶多の睡眠を邪魔してしまったことを、改めて申し訳なく思った。
「夜勤はいつからやってるの?」
さらに尋ねると、
「三月二十三日からだよ。俺、終業式だったもん」
と、実采が正確な日にちを教えてくれた。まだ二週間も経っていない。この子たちは寝る時に叶多がいない状況に慣れていないのだろう。
「もう、いつまでしょんぼりしてんの。起きたら帰ってきてるよ」
陽咲がうんざりしたように言って、幸多を膝から降ろした。
「明日は兄ちゃんずっといる?」
「いるよ。何か散髪行くとは言ってたけど」
「僕もついてく」と幸多。
「お前がついてったら邪魔だろ」と実采。
また言い合いになりかけたのを、いつの間に来たのか新が制した。
「じゃあ、寝かしてくる」
「ん、おやすみ」
「おやすみなさい」
新は丁寧に私にも挨拶して、弟たちを連れて二階へ上がっていった。
「アラタくん、すっかりお兄ちゃんだね」
その姿を見送りながら、率直な感想を漏らした。私がこの家に出入りしていた頃は、まだ小学校に上がるか上がらないかで、何をするにも叶多にべったりだったのに。
「あいつは苦労性なんだ。気遣ってばっか」
「そっか。兄弟の中で真ん中だもんね」
「うん。あたしと兄貴の仲は最悪だし、ミコトとコウタもいつもあんな感じで小競り合いばっかしてるから」
夕食の席でじっと耐えていた新の姿を思い出した。まるで自分の存在を消そうとしているみたいだった。
「十円ハゲがあるんだ」
陽咲がぽつりと言った。
「アラタの頭のさ、ここら辺にぽっかり、髪の毛が生えてないとこがあんの。こないだ見ちゃったんだ」
自分の右耳の少し上のあたりを指差して説明する。
「兄貴に心配かけたくないから黙っててって、あいつ、言うんだ。病院行きなって言ったけど、首振ってさ、そのうち治るからって」
言いながら泣きそうな顔になっている。
「あたしが兄貴に突っかかんなきゃ、余計な気苦労させなくて済むのかもしれないけど。あたしだって、平和に暮らしたいけど。だったら黙って兄貴に従ってりゃいいの?あたし、兄貴と二つしか違わないのに、全部兄貴に背負わせて、本当にそれでいいの?」
興奮している陽咲の背中を撫でると、しがみついてきた。甘ったるいような香水の匂いがした。
「あたし、もうどうしたらいいか分かんないよ」
陽咲の悲鳴に似た声に、胸が締めつけられそうになった。抱きしめ返してあげたかったけど、私のことを他人だと言った叶多のことを思うと、彼女の背中に触れたまま身動きが取れなかった。
「頑張ってるね、ヒナちゃん」
迷いながらそっと囁きかけた。
「ごはん作って、弟たちの面倒も見て、その上、バイトまでしてるんでしょ?」
この子だってまだ高校二年生になったばかりなのだ。私が陽咲と同じ歳の頃は、全てのことをおばあちゃんにやってもらっていた。日に日に弱っていくお母さんを前に、どうすることもできず、何の気力もなく、ただぼんやりと過ごしていただけだった。こんな私が、陽咲にどんな言葉をかけられるだろう。
「バイトは、ホントは生活費の足しにしようと思って始めたんだ」
陽咲が鼻を啜って掠れた声を出した。
「こんな、髪染めたりメイクするために始めたわけじゃない」
私が相槌を打つと、陽咲は続けた。
「驚かせてやろうと思ってさ、高校に入ってから兄貴に内緒でバイト始めて、バイト代渡したの。そしたら、怒られた。こんなことしてくれなんて誰も頼んでないって。自分で使えって言って、受け取ってくんなかった」
意味不明でしょ、と陽咲は私に同意を求めた。
「相手のカシツが百パーセントだったんだって」
「カシツ?」
「うん、過失。お父さんとお母さんの事故さ、居眠り運転のトラックに轢かれて。相手が百パー悪くて。慰謝料が毎月入ってくるんだ」
陽咲は両親の事故について初めて話し始めた。
「それだけじゃなくて、生命保険だって降りたし、お父さんたちが遺してくれたお金だってあるし。だから、兄貴があくせく働かなくったって、生活くらいできるんだよ。少なくとも高校を辞めることはなかったはずだって叔母ちゃんが言ってた」
声に再び涙が混じった。
「それなのに、兄貴はさっさと高校辞めた。そのくせに、あたしからのバイト代は受け取らなくって、あたしには大学に行けって押しつけてくる。お父さんとお母さんが死んだこと全部自分が背負おうとしてるみたいに。だからムカつく。それこそ誰もそんなこと頼んでないし、兄貴の人生はどうなるの」
嗚咽を漏らして泣き出したのを見て、たまらなくなって陽咲のことを抱きしめた。この子は昔から変わらずに兄を慕っていて、だからこんなにも腹を立てているのだ。
叶多に釘を刺されなくても、他人の私には何もできない。こうして抱きしめること以外には。
「大変だったね」
そんな薄っぺらい言葉を口にすること以外には。
「突然だったから、全然実感が湧かなくてね」
鼻声で陽咲は話を続けた。
「兄貴とか叔母ちゃんがバタバタしてるの、あたし、他人事みたいに見てたんだ」
苦しそうに鼻をすすっている。
「何日も何日も過ぎて、それでもよく分かんなくって、忌引きが明けて学校通い出してからも、あたしまだピンときてなくて、あたしがこんなんだから兄貴は学校を辞めたんだ」
「ヒナちゃんのせいじゃーー」
「生理が止まったの」
絞り出すように陽咲は言った。
「それで実感したの。お母さんはもういないんだなって。三ヶ月くらい来なくて、誰にも相談できなくって、怖かった……」
しくしくと泣く陽咲の頭を撫でていると、二階から急に子供の泣き声が聞こえてきた。
陽咲が私から身を離して、涙を拭きながら小さくため息をつく。
「コウタ」
泣き声の主を告げて立ち上がる。たった今まで泣いていたとは思えないほど、しっかり者のお姉ちゃんの顔になっている。
陽咲についていくと、二階の子供部屋で幸多が新のことを叩いていた。その隣で実采が布団を頭まで被って耳を塞いでいる。
「兄ちゃん、兄ちゃあん」
幸多は、宥めようとしている新の腕の中でもがきながら、声を限りに叫んでいる。
「うるさいから何とかして」
実采が布団の中から陽咲に訴える。
「コウタ、大丈夫だから」
陽咲がそばに座ると、幸多はその首に抱きついた。叫ぶのはやめたものの、悲痛な泣き声をあげ続けている。
「戻っていいよ」
陽咲が優しく声をかけると、新はこくっと頷いて部屋を出ていった。
幸多はしばらく泣きやまなかった。陽咲が辛抱強く頭を撫でたり身体を揺らしたりしていると、そのうち嗚咽だけになって、やがて泣き疲れたように陽咲にもたれかかって眠った。
「去年の今ぐらいの時期にさ、二ヶ月くらい叔母ちゃんの家に引き取られてたの」
陽咲が声をひそめて言った。
「コウタくんが?」
「そう、コウタだけ。でも、今みたいに毎晩泣いたんだろうね。こっち戻ってきて。戻ってきてからもしばらく泣いてた。最近泣かなくなってたんだけど、兄貴が夜勤始めてからまた泣くようになった」
幸多の身体を優しく揺らし続けている。
「最初の夜なんて最悪だった。何やってもダメで、ずっと泣いてて。本当は兄貴がいいんだよ。でも、あたしで妥協することにしたみたい」
陽咲が幸多を布団の上にそっと降ろすと、まだ完全には眠っていなかったようで、陽咲のスカートの裾を掴んでぐずった。
「カナタくんはこのこと知ってるの?」
私がそう尋ねると、陽咲は首を傾げた。
「知らないんじゃない?言っても困らせるだけだし」
「そっか」
「ちょっとコウタ、離して」
陽咲がスカートを掴む幸多の小さな手を払いのけようとする。
「やだ」
廊下から入る薄明かりが、幸多の泣き腫らした目を照らしていて、痛々しい。
「ユメちゃんにバイバイしなきゃいけないから」
陽咲がそう言い聞かせたら、幸多は私のことだと認識したようで、膝に抱きついてきた。
「バイバイしないもん」
「わがままばっかり言わないの」
幸多がまた泣き声をあげる。声が枯れていて可哀想だった。
「いい加減にしてよ」
陽咲が引き剥がそうとするけど、強い力で私にしがみついて離れない。右手に温もりを感じて手元を見ると、実采が私の手を掴んでこちらを見上げていた。
「ミコトまで、いい加減にーー」
陽咲が気づいて振り払おうとするのを止めた。
「いいよ、ヒナちゃん」
不可抗力だと思った。
「一緒に寝る?」
幸多の頭を撫でて、実采の手を握り返してそう問いかけた。二人が大きく頷く。
「でも、ユメちゃん……」
申し訳なさそうにする陽咲に、父親と喧嘩して家に帰りたくないことを打ち明けた。それに、幸多の体温を感じているうちに一気に疲れが押し寄せてきて、できることなら今すぐ横になりたかった。
幸多と実采の間に身体を潜りこませたら、両脇から彼らに抱きつかれた。それが温かくて、布団がなくても十分なくらいだったけど、陽咲が別の布団を持ってきて被せてくれた。
陽咲が部屋を出ていって、まどろみながら今日の一日を振り返っていた。朝からラーメンを食べさせられて、大学の入学式があって、そこに吉木がいて、叶多の両親が亡くなったことを知った。家に帰ったら恵梨香と蓮哉が来ていて、父親が私のお金を勝手に渡してしまっていた。恵梨香に家賃を払えと言われたっけ……。
気分が沈むよりも早く眠りに落ちていって、そこでその日の記憶は途切れた。
***
右腕が軽くなる感覚で目を覚ました。
目を開けると、誰かが実采を私から引き剥がしたところだった。
その誰かと目が合う。
「おはよう」
それはツナギ姿の叶多だった。カーテンの隙間から日が差しこんでいる。
「あ、ごめん」
状況を思い出して、慌てて頭を起こした。
「いや。重たかったでしょ」
「ううん」
首を横に振ったけど、確かに腕が痺れている。
「起きる?コーヒー淹れるけど」
「あ、うん」
今何時なのだろうと思った。ケータイは1階に置きっぱなしだ。
実采と幸多を起こさないようにそっと布団を抜け出して、先に行った叶多を追いかけるように階段を降りた。
「顔洗いたかったら、そこが洗面所……って、知ってるよね」
台所でヤカンに水を入れながら叶多は小さく笑った。
「うん。ありがとう」
言葉に甘えて、洗面所で顔を洗って口の中をゆすいだ。鏡の中の自分がくたびれて見えて、気休めに手櫛で髪を整える。鏡の横の時計は、六時十五分を指していた。
「ごめん、勝手に泊まっちゃって。帰るね」
お茶の間に置いていた鞄とコートを取って、叶多に声をかける。さすがにこれ以上長居するのは憚られた。
「コーヒー飲んでかない?ユメちゃんの分も淹れるよ」
意外にも引き留められた。考えてみれば全く意外なことではない。叶多は昔から優しい人だった。
「ミコトはなかなか人に懐かないんだ」
私に椅子を勧めて、叶多が言った。
「保育園でも最後まで先生に反抗してばかりでさ。親が死んで幼稚園から転園したから、馴染めなかったっていうのもあるだろうけど」
叶多は話しながらお茶の間に引っこんで、ツナギの上半身を脱いで袖を腰に結びつけた状態で戻ってきた。中に着ている白いTシャツが、汗で肌に張り付いている。
「だから、ミコトがユメちゃんにくっついて寝てるの見て、ちょっとびっくりした。ミコトのこと振り払えなくて泊まってくれたんでしょ」
叶多がヤカンからマグカップにお湯を注ぐと、コーヒーの香ばしい香りがたった。
「妹と弟たちがご迷惑をおかけして」
詫びるように頭を下げて、私の前にコーヒーを置く。
「砂糖とミルク要る?」
「あ、じゃあミルクだけもらえる?」
このままでは熱くてすぐに飲めない。叶多が冷蔵庫から牛乳を取って手渡してくれた。
「子供の頃は、砂糖入れないと飲めなかったよね」
自分はブラックのままで、叶多が調理台に寄りかかりながら言う。
「そうだったね。カナタくん、入れ過ぎておばちゃんによく怒られてた」
遠い日の思い出が、私たちの間を通り抜けていった。
「あの頃とはもう何もかも違うよ」
叶多の言葉が、空気をいっぺんに硬化させる。
「ユメちゃんは優しいから、吉木に俺の家のことを聞いて、心配して来てくれたんでしょ」
コーヒーを啜る間を置いて、叶多は続けた。
「でも、ユメちゃんには関係ないよ。昔は家族みたいに過ごしてたかもしれないけど、今はもう何の繋がりもない。だから、同情してくれなくていいよ」
突き放すような言い方ではなく、むしろ優しい言い方だった。だからこそ強い拒絶を感じた。それでも私は、彼の最後の言葉だけは打ち消さずにいられなかった。
「わたし、同情してここに来たわけじゃないよ」
そんな見下すような感情を叶多に対して抱いたと誤解されたまま、別れたくなかった。
「家にいたくなかったの。お父さんと喧嘩して。喧嘩っていうか、わたしが一方的にキレてるだけなんだけど。本当にあり得なくて。おばあちゃんからもらったお金をさ、引き出しに入れてたの。それはさ、本当にいざとなったら使おうっていう、お守り代わりのお金だったんだよ。それをさ、お父さんが勝手に人にあげちゃって。ひどくない?」
私が愚痴るのを、叶多は黙って聞いてくれた。
「怒ったけど、お父さん全然分かってくれなくて、もう何か、全部嫌になっちゃって、それで家飛び出して、でも行くとこなくて、それで……」
言いながら、自分は何をベラベラ喋っているんだろうと思った。それこそ叶多には何の関係もない話だ。
「ちょっと待ってて」
呆れたのか、叶多は飲んでいたコーヒーをテーブルの上に置いて、台所を出ていってしまった。
私が自己嫌悪に陥っていると、戻ってきて私の斜め横に座った。紺色のジャージに着替えている。
「俺には、ユメちゃんの家の問題を解決することはできないし、ユメちゃんも俺の家の問題を何とかしようと思ってくれなくていい。でも、」
叶多はまっすぐに私の目を見つめてきた。
「もしユメちゃんさえ良かったら、負担にならない範囲で、たまにヒナタの話し相手になってやってくれると助かる。あいつ、兄弟で一人だけ女だし、あいつがあんな嬉しそうな顔すんの、久しぶりに見たから」
改まって何を言い出すのかと思えば、ヒナタ、ヒナタって、この人は昨日からそればかりだ。
「ヒナちゃんのこと困ってるって言ってたけど、あの子はしっかりしてるよ」
一日越しに反論したら、「そうかな」と叶多は首を傾げた。
「そうだよ。大学のことだって、自分でちゃんと考えてるし。もしヒナちゃんが行かないことにしたって、カナタくんが責任を感じることないと思う」
叶多が黙ったから、また出しゃばってしまったとすぐに後悔した。
「そうだな。俺はヒナタにいろいろと押しつけすぎてるのかもしれない」
コーヒーをゆっくり啜った後、叶多は独り言のように言った。
「ヒナタには大学に行って欲しいんだ。それはもちろんヒナタのためもあるけど、ヒナタの後にアラタがいるからだ。アラタは遠慮する奴だから、もしヒナタが大学に行かなかったら自分も諦めるに決まってる。俺は、あいつらに何も諦めてほしくない」
そうやって一人で抱えこんでいる叶多に、私はどうしても口を出さずにはいられない。
「だからカナタくんは働いてるの?」
問いの意図が分からなかったようで、目で訊き返してくる。
「ヒナちゃん言ってたよ。カナタくんがそんなに働く必要はないんじゃないかって」
そう補足したら、「ああ、叔母さんか」と小さく呟いて、叶多は嫌そうな顔をした。
「生活くらいならできるだろうね。でも、俺が働かなかったら、あいつらにいろんなことを諦めさせることになると思うから。この先何があるか分からないし」
妹と弟たちのために、叶多は自分を犠牲にすることを選んでしまったのだと分かった。
「夜勤じゃなきゃダメなの?」
幸多は昨日の晩ひどく泣いた。弟たちのためだと言うなら、昼間の勤務にした方が良いのではないかと思った。
「うん。だって、夜勤なら学校の行事に出られるし、ミコトたちが体調崩しても一人にしなくて済むから」
叶多は明快に理由を述べた。それならもう、私に言えることは何もなかった。
コーヒーの最後の一口を飲んで、お暇することにした。
「そういえば、ヒナタのことしっかりしてるって言ったけど、何のバイトしてるか聞いた?」
玄関に向かう私に、叶多が後ろから話しかけてくる。
「カフェって聞いたけど」
「まあ、カフェはカフェだね」
含みのある言い方に、叶多の方を振り向いた。
「俺が言ったって知ったら、怒るだろうけど、」
叶多はそう前置きをした。
「あいつ、メイドカフェで働いてるんだよ」
「え?」
驚いて声をあげた私に、叶多は苦笑いを返した。
「俺が心配するの分かるでしょ?」
「うん……。ヒナちゃん可愛いし」
叶多が真剣な顔で頷く。シスコンなのは昔からだ。
「ヒナタは多分、寂しいんだ」
靴を履く私の後ろで、叶多はそんなことを言った。
「だから、本当に気が向いた時だけでいいから、話し相手になってやって」
躊躇うように語尾を弱めている。立ち上がって叶多の方を向くと、困ったような顔をしていた。私に頼み事をすることに気兼ねしているのだろうか。
「大丈夫だよ、わたしもヒナちゃんのこと大好きだし。連絡先交換したからメールしてみるね」
気にしなくていいと伝えたくてそう返したのに、叶多はまだ浮かない表情だ。
別れを告げようとしたら、叶多が視線を彷徨わせながら口を開いた。
「ユメちゃんのお父さん、俺は悪い人じゃないと思うけど、」
言葉を探すような間を空けて、彼は続けた。
「負けないでね、ユメちゃん」
その時、何かが記憶の琴線に触れた気がした。
叶多の家を後にして、帰り道ずっと、思い出しかけた何かを追い続けていた。大事なことを忘れているような気がして。
でも、思い出せないまま家に着いて、父親が寝ている部屋に直行した。
「お父さん」
布団で寝ている父親に声をかける。
「おう」
父親は薄く目を開けてこちらを見た。娘が朝帰りしたことに、気づいていないのか気にしていないのか、何も言わない。かといって、起こされたことに腹を立てる様子もない。
「あのね、お父さん」
父親のそばに正座して、話しかけた。
「わたし、お父さんがわたしのお金を勝手にエリカちゃんにあげたの、すごく嫌だった。おばあちゃんに貰った大事なお金だったから」
父親は半分寝ているのか、相槌も打たない。
「だから、二度とわたしのものを勝手に人にあげないで。あと、わたしの部屋に入る時は必ずノックして。いい?」
昨日は絶対に許せないと思っていた。だけど、叶多たちが抱えているものに比べたら、これは些細なことだと思えた。お金を盗ったことを許すつもりはないけど、私は父親と向き合うことを簡単に諦めない。今日はそう思えた。
「おう」
父親はいつものような軽い調子でそう返事した。
それから私はもうひと眠りするために自分の部屋に戻った。ベッドの中でうつらうつらしながら、父親を悪い人じゃないと思うと言った叶多の言葉を思い出して、会わせたことがあっただろうかと不思議に思った。
***
月曜日は新入生ガイダンスだった。大学の広い講堂に心理学部の一年生だけが集められて、大学の紹介や、大学生活を送る上で重要なこと、例えば履修登録の仕方や教科書の入手方法などに関する説明を受けた。
座席は出席番号順で、私は一番後ろの席だったから、講堂全体を見渡すことができた。他の学部と合同で行われた入学式ではあまり感じなかったけど、こうして心理学部の学生だけになると、圧倒的に女が多い。暗い色の髪の人が大半だが、中には派手な髪色の人もチラホラいる。私のすぐ前に座っている女もそうだ。金色の髪を編み込んでハーフアップにして、背中がざっくり開いた白いニットの服を着ている。
その明るい金髪を見ながら、陽咲を想った。メイドカフェで働く姿は、あまり想像ができない。あの子は昔、仲の良い人以外にはシャイなところがあった。特に異性に対しては奥手で、当時好きだった子になかなか話しかけられなくて悩んでいた。
陽咲は寂しいのだと叶多は言った。たくさん兄弟がいて、兄にあんなに大事に思われていて、高校の友達の話もたくさん聞かせてくれたのに、それでも寂しいのだろうか。
まあ、寂しいか、と自答する。あの子はお父さんとお母さんのことが大好きだった。小さい弟たちに注目を奪われて、むくれることもあった。そんな時は、叶多が黙って陽咲の頭を撫でていたものだった。
きっと私が異常なのだ。私も、お母さんを愛していたし、弱っていく姿を見るのはつらかった。でも、お母さんが死んだ時、寂しいとは思わなかった。涙ひとつ出なかった。私の心を支配していた感情は、悲しみよりも恐れだった。あの時私は何に怯えていたのだろう。今も分からずにいる。
「ユウメ、ちゃん?」
不意に声をかけられて我に返った。いつの間にか教員による説明が終わったようだ。前の席の金髪の女が、こちらを振り向いて私の名札を覗きこんでいた。
「あ、ユメと、言い、ます?」
急に現実に引き戻されて、しどろもどろになった。同級生なのだからタメ口の方が良いだろうかと思ったりして、語尾が不自然に上がった。
そんな私を見て、あはは、と彼女は笑った。見かけのイメージに反して気持ちの良い笑い方だった。
「ユメちゃんね。カッコいい名前だね。私はチヒロと言います。ごめんね、こんなギャルにいきなり話しかけられたら怖いよね」
彼女は『川崎千尋』と書かれた名札を示しながらそう名乗った。私が首を横に振ると、「良かった」とにっこりした。
「女子率高いよね。ユメちゃんは何でここにしたの?」
初対面にしては割と踏み込んだ質問だ。でも、親しみの持てる口調のせいか嫌な感じはしない。
「家から近かったのと、心理学が面白そうだったから、かな」
自分の心が知りたい、などと会ったばかりの相手に打ち明ける勇気はなく、表面上の答えを返した。
「分かる。心理学って謎に満ちてるよね」
千尋は馬鹿にすることなく受け入れてくれた。
「チヒロちゃんは、どうしてここに?」
同じ質問を返すと、
「カウンセラーになりたくて」
と、彼女はサラッと答えた。
「こんなギャルになれるわけないって思うかもしれないけど」
私の反応を伺うように自虐の言葉を付け加えてきたから、そんな顔をしてしまっただろうかと慌てて否定する。私はただ、目標がはっきりしていることを眩しく感じただけだ。
「私さ、死んじゃおうとしたことがあるんだよね」
千尋は唐突に打ち明け話を始めた。
「彼氏にひどいフラれ方して、もう生きててもしょうがないかって、手首切ってさ。あはは、馬鹿でしょ?」
彼女が長袖のニットをめくると、手首に引きつれた傷跡がチラッと見えた。
「親がすぐに気づいて救急車呼んでくれたから、今ここにいるんだけど。で、カウンセリング受けさせられて、このカウンセラーがすっごく良い人だったんだ。私、その人のこと尊敬しまくっててさ、それで同じ道に進もうと思ったんだよね」
カウンセラーを目指す理由を、千尋はそう説明した。その話を聞いて、浅い答えしか口にしなかった自分を恥じた。自分の心が知りたいという本当の理由も、千尋のものに比べるとひどく薄っぺらいものに思えた。
「この髪もさ、いい加減やめようとは思ってるんだけど」
金色の毛先を手に取って、彼女は醜いものを見るように口元を歪ませた。
「派手にしてないと不安でさ。自分が何の価値もない人間みたいに思えて」
意外だった。その容姿と話し方からは自信に溢れた女性という印象を受ける。それなのにその心はまるで裏腹で、私はまた陽咲を想った。あの子も不安なのだろうか。だから金髪にしてあんなに濃いメイクをしているのだろうか。
それと同時に、千尋のことを尊敬した。
「すごいね、自分のこと分析できて。わたしはカウンセラーの仕事のことあんまり知らないけど、向いてると思う」
私は全然ダメだな、と本音を呟いた。
「私はユメちゃんの方こそ向いてると思うけど」
千尋は私の呟きを拾って、思ってもみないことを言った。
「聞き上手って言われない?私、いつもはこんなベラベラ喋んないよ。何かつい喋ってた。ユメちゃんにはいい迷惑だろうけど」
さっきからこうして自分を軽んじるような言葉を挟むのは、不安だからなのかもしれない。
「ううん、迷惑なんてことないよ」
その一つひとつを否定しようと思った。
「知り合いの子がね、高校生なんだけど、久しぶりに会ったら思いっきり金髪になっててさ、どういう心境なのかなって考えてたところだったから、チヒロちゃんの話、すごく参考になった」
陽咲の話を出すと、千尋は優しい顔をして微笑んだ。
「やっぱりユメちゃんって、自分のことより人のこと考えちゃうタイプでしょ」
そんなことはないと思う。返しに困った私を見て、彼女はまた声を上げて笑った。
「私さ、髪の色を派手にする子って、自分のことが大好きなタイプと、大っ嫌いなタイプの二種類いると思うんだよね。その子はどう?」
千尋はそう自説を唱えて、私に問いかけた。
「ネガティブなことたくさん言ったり、共感したげたらホッとした顔する?」
「……ああ、うん、その感じはあるかも」
先日の陽咲との会話を思い出して肯定した。
「じゃあ、私と同じで自分のこと嫌いなのかもね。飾りたてることで自分を保ってるんだ」
すらすらと考察を述べる。千尋の話をもっと聞きたくなった。
「その子、親を亡くしちゃってね、今、メイドカフェで働いてるらしいの。そんな感じの子じゃなかったのに」
「ああ、その子、親の代わりに可愛いって言ってくれる人のことを求めてるのかもね。そうやって自分の価値を確かめてるんだ」
千尋はすぐにそう返してきた。本当にすごいな、とまた感心する。それと同時に、千尋の言うことが本当だったらと考えて、悲しい気持ちになった。確かめるまでもなく、陽咲は大事な子なのに。
教員が講堂に戻ってきて、千尋との会話を中断した。
それからは、学長からのビデオメッセージを見て、学部長の楢崎がたっぷり三十分間プレゼンテーションを行うのを聞いた。
いわく、心理学とは心について科学的に研究する学問であること。心理学は、実験等を通して心のメカニズムやその原理を追求する基礎心理学と、基礎心理学で得られた知見を社会に還元する応用心理学の二つに大別され、さらに基礎心理学は、認知心理学、発達心理学、異常心理学などといった項目に、応用心理学は、臨床心理学、犯罪心理学、家族心理学などといった項目に細分化されること。心理学のルーツは古く、古代ギリシャにまで遡れること。などなど。
楢崎は、心理学部で学ぶ教科についても一つひとつ丁寧に説明してくれた後、卒業生の進路や接続する大学院を紹介して、話を閉じた。
なお、卒業生の進路は、一般企業への就職が大部分を占め、大学院への進学が一割程度、高齢者や障害者向けの施設で働くのが一割弱、公務員、病院、教育関係がそれぞれ数パーセントずつだそうで、卒業後も心理学に直接的に関わる人は意外と少ないのだなという印象を受けた。
楢崎の平坦な声のトーンに、新入生があちこちで舟を漕いでいて、私も昨日ちゃんと寝ておかなければヤバかっただろうなと、何度も頭を振っている千尋の後ろ姿を見ながら思った。
楢崎の話が終わると、教員が再び壇上に現れて、数点細々とした補足説明をした。
そして。
彼は束ねたファイル類を、整えるように教卓の上に打ちつけた。静まり返った講堂にその音はよく響いて、居眠りしていた新入生たちの目を覚ました。
「さて、ガイダンスはここで終了ですが、」
それまでどこか気だるげに説明していた口調とは打って変わって、ハリのある声で彼は言った。
「最後に、先輩として、僕からみなさんに短いメッセージを送ります」
遠目に何となく四十代くらいかと思っていたけど、その声は若く、三十そこそこかもしれない。
「みなさんが、貴重な大学生活で学ぶ学問として心理学を選んだ理由は、さまざまかと思います」
そう切り出して、宮澤という名前の教員は講堂をぐるりと見渡した。
「面白そう、自分のことが知りたい、あるいは他人のことが知りたい、コミニュケーションスキルを磨きたい、心理学を屈指してモテたい、どんな動機でも結構だ」
モテたい、というところで、前の方で女たちの忍び笑いが起きた。
「たとえば僕は、通っていた高校でひどいイジメが行われていたことがきっかけだった。そのイジメは、教師を巻き込み、親をも巻き込み、人間の醜い部分を全て煮詰めたような、実に凄惨たるものだった」
そこで宮澤はひと呼吸置き、再び口を開いた。
「僕は傍観していた。イジメが行われていることを知りながら、見て見ぬ振りをした。自分がいじめられたくないからだ。僕だけじゃない。クラスの全員がそうした」
その結果どうなったか、と彼は言葉を繋いだ。
「一人、二人と、体調を崩して学校を休む者が出てきた。いじめられている生徒ではなく、傍観している生徒に、だ」
もはや講堂に居眠りをしている人はいなかった。誰もが彼のよく響く声に聞き入っていた。
「僕も体調を崩した。夜眠れなくなった。食欲がなくなり、ひどい頭痛に悩まされた。不思議だった。自分が直接危害を加えられたわけではないのに、なぜ自分はこんなに苦しんでいるのかと」
彼はゆっくりと教壇の上を移動した。
「人には、他人が酷い目に遭っている時に、あたかも自分がそれを体験しているかのように感じる共感力が備わっている。これは人だけではなく、サルやマウスでも観察されることだが、思いやりと呼ばれる行動の元になるものだ。
イジメを見て、僕らは被害者に共感した。しかしそれと同時に、自分はいじめられたくないという利己的な感情をも抱いた。良心と利己的な感情とがぶつかりあって、心の中に葛藤が生じた。起きている時間の大部分を過ごす学校で、イジメを目撃して、絶えず葛藤する。その結果、心が疲弊して、身体に不調を招いたわけだ。心と身体が繋がっていることを、僕はその時、身をもって体験した」
宮澤は教壇の端で人差し指を立てた。
「ここで一つ疑問が生じる。たとえそれが自分を傷つけることになったとしても、人は思いやりを、良心を捨てることができないのか。また一方で、加害者によるイジメや、それに加担した大人の所業は、悪の為せる業としか思えないものだったが、イジメを行う者たちの中には良心がないのか。
人間の本質はどっちだ。全てを取り除いていったときに残るのは、善なのか、悪なのか。その答えが知りたくて、僕はこの世界に入った」
教壇の真ん中に戻り、彼は教卓に手をついて再び講堂全体を見渡した。
「残念ながら、心は目に見えない。心理学の世界では明確な答えが得られないことの方が多い。それでも僕らは問い続ける。心理学の研究では、自らの心を見つめ直すことが必要になることもある。時には自分の中のトラウマ的な体験を掘り起こして、向き合わなければならないこともあるだろう」
宮澤と目が合った気がした。そんなはずはないと分かっていても、射抜かれたように身動きができなくなった。
「当然その作業は苦しい。しかし、忘れないでほしい。心理学という学問が目指すのは、心というものを理解して、豊かに生きることだ。だから、どうかその苦しみから逃げないでほしい。みなさんが悩み抜いて辿り着いた答えを、聞かせてもらえるのを楽しみにしている」
まるで、覚悟しろと言われているような気がして、私は宮澤から目を逸らせないまま、底知れない恐怖心を抱いていた。
「それから、友人を大事にすることだ。一人では行き詰まってしまっても、友人と話しているうちに答えが見つかることもある。これまで出会ったことのない種類の人や、合わないと思うような人とも、積極的にコミュニケーションを図ってみてほしい。案外そういう人が生涯の友になるものだ。そして、そういった友人は歳を取るごとに得にくくなる」
宮澤は、講堂の壁にかかるアナログ時計を見上げた。11:43と表示されている。ガイダンスのしおりによると、午前の部は十一時四十五分までとなっている。
「余談だが、僕は高校を休学して、半年ほど療養していた。みなさんの中にも、つまづいた経験を持つ人がいるだろう。大事なのは、失った時間ではなく、これから何を成すかだ。苦しんで、あがいて、それでも考え続ける糧とするなら、その経験はあなただけの宝物だ。
僕は今、楢崎教授の研究室で、発達心理学を専攻している。心理にまつわる議論は大歓迎だ。いつでも気軽に訪ねてきてほしい」
宮澤は、そんな熱い言葉で、五分以上に渡った演説を締めくくった。時計はちょうど11:45を指していた。
その後は、六、七人の小グループに分けられて、担当教官のところへと赴いた。グループ分けの方法は不明だが、出席番号順でないことは確かで、千尋とは別のグループだった。誰かが「入試の成績順かもね」と推測した。男女比は各グループで揃っているようだから、男女それぞれで振り分けているのかもしれない。
私たちの担当教官となる比較心理学の教授に挨拶して、軽く自己紹介をした後、教授と別れてそのメンバーで学食に行き、昼食を取ることになった。
「なんか、宮澤先生熱すぎだったよね」
私の向かいに座る、大きなフレームの眼鏡をかけた女が言った。
「それな。短いメッセージて、全然短ないし」
私の右隣の大阪出身の女が、関西訛りで同調した。
「思った。五分以上喋ってたし。シーンとしちゃってさ、私お腹鳴りそうでヤバかったもん」
斜め向かいで、金髪の女も笑いながら同調する。先ほどクスクス忍び笑いしていた集団にいた気がする。
同じグループの男二人は、まとまった席が取れず、少し離れた所で食べている。
「ぶっちゃけ私、モテたくてここ来たクチでさ、宮澤先生がそれ言った時笑っちゃった」
それでかと納得した。この子は千尋に言わせると自分大好きな金髪ということになるのだろうか。
「うちは、就職が有利になるんかな思て。心理学部でコミュニケーション力磨きましたゆうんがアピールになるて、進路情報誌に書いてあったんよね」
「岸本さんは、どうして心理学部を選んだの?」
相槌を打つだけの私に眼鏡の女が振ってきた。
「わたしは……、面白そうだなと思って」
千尋に言ったのと同じ答えを口にした。
「私も。何かさ、他の学部は何勉強するのか何となく想像つくけど、心理学って何?って感じだよね」
眼鏡の女が、私のありきたりな答えに同調した。
「何か、あんまし聞いてへんかったのやけど、いろんな分野があるゆうてたな。発達心理学とか、何するんか想像できひんわ」
「あー、宮澤先生の?てか、宮澤先生って楢崎教授のとこの助教なのかな?」
「指導教官じゃないの?助教にしては若くない?」
宮澤の話に戻ったようだ。
「何か、楢崎教授と宮澤先生が話し出したら長そうじゃない?話終わらなさそう」
金髪の女が言って、残りの二人が笑った。
「何かでも、宮澤先生、割とイケメンじゃない?」
「えー、あんなんがタイプなん?」
「いやいや、顔だけ。顔だけだから」
「指輪してなかったから独身じゃん?アピっちゃえば?」
「無理無理。デートとかしてても研究の話しかしなさそうじゃん」
三人でキャーキャー盛り上がっている。
残念だな、と思った。人の熱意をそんな風に揶揄いの対象にするなんて。
会話に参加する気になれず、愛想笑いを顔に貼り付けながら何の気もなく反対側を向いた時、すぐそばの丸テーブルに一人で座っている宮澤と目が合って、声を上げそうになった。いくら周りが騒がしくても、この距離なら彼女たちの会話は丸聞こえだろう。
彼は私にいたずらっぽく笑いかけて人差し指を口に当てた。
「はっ」
向かいの眼鏡の女も気づいてバツが悪そうな顔になる。残りの二人も黙ってしまった。
「ごめんごめん、邪魔しちゃって」
宮澤が笑って謝る。
「いいんだよ。今後一緒に大学生活を送る者同士、自由に意見を交換するべきだ。僕も率直な感想が聞けることを期待してここに来たんだからね。悪趣味だと思うかな?人間観察も仕事のうちなものでね」
彼女たちの陰口など全く気にしていないかのように、宮澤は楽しそうに言った。
「ちなみに僕は准教授で、三十五歳独身で彼女もいないよ。確かにデートで研究の話をしちゃダメって言われたらキツいかな」
私の向かいで眼鏡の女が赤面している。
「楢崎教授と話し始めると終わらないっていうのは大正解。素晴らしい推理力だ」
金髪の女に大袈裟に拍手を送っている。皮肉のつもりはなさそうだ。
「君の意見も聞きたいな。さっきの僕の話、どう思った?岸本さん」
名前を呼ばれてギョッとした。
「ああ、君だけじゃないよ。新入生の顔と名前は全員覚えている。横峯さんに、長田さん、藤村さん。大丈夫、評点には響かない。僕にそんな権限ないからね」
宮澤は、私もうろ覚えだった彼女たちの名前をそらんじて、微笑んでみせた。そして、私に視線を戻す。
「それで、君はどう思った?」
「わたしは……」
あまり真面目なことを言って彼女たちとの関係を悪くするのは避けたいし、でも彼の熱意に少しは報いないと申し訳ない気もした。
「怖くなりました。心理学を勉強するの、甘く考えていたというか、全然覚悟とかしていなかったので」
当たり障りのない程度に正直な感想を返したら、宮澤は「そうか」と言って立ち上がった。
「君は、もう少し覚悟した方がいいな」
「……え?」
「じゃ。午後はオリエンテーションだね。楽しんで。履修登録、不備がないように。事務局の人に怒られるの僕だからね」
そう私たちに釘を刺して、宮澤は食べかけのトレーを持って違う席へと移っていった。
「はあ?何かさりげなく岸本さんのことディスってったよね?」
金髪の女が声を尖らせた。
「ね。岸本さんの何を知ってるのって感じ。嫌な感じ」
「前に会うたことあるん?」
「ううん、初めて会ったと思う……」
何だったのだろう、と思った。君は、と彼は強調した。彼女たちと比べて私だけが特別覚悟が足りないとは思えない。私の何かが気に入らなかったのだろうか。仮にそうだとしても、個人的な感情で嫌味を言うような人には見えなかった。
「忘れなー」と、金髪の女が軽い調子で言った。
「そうそう。宮澤先生、絶対変な人だし、気にしてもしょうがないよ」
三人が口々に慰めてくれて、その話はそれきりになった。
午後のサークル紹介は、席が自由だったので千尋と一緒に聞いた。心理学部は可愛い女の子が多いというのがこの大学における通説らしく、熱心な勧誘を受けたけど、どのサークルも私にはピンと来なかった。千尋は手話サークルに興味を持ったようだった。
翌日は健康診断とITオリエンテーションだった。視聴覚室のパソコンを使って、学内システムの利用方法を教わった。帰りに千尋と一緒に教科書を購入して、その分厚さと値段の高さに目を丸くしたりした。
そして、その次の日から講義が始まった。一年目の必修科目には、心理学の基礎を学ぶ心理学概論、心理学研究法、心理学研究によって得られたデータの分析手法を学ぶ心理学統計法、心理療法について学ぶ臨床心理学概論、認知心理学、社会心理学などがある。宮澤が担当する発達心理学も必修で、その授業は無駄に緊張した。また、心理学実験実習が週に一度あり、レポートが課された。教養科目は選択必修であり、外国語や、現代哲学や思想史、政治、経済、物理、化学、生物、数学、スポーツ等といった多岐にわたる分野の選択肢が用意され、その講義は他の学部と合同で行われる。
大学生活はすべてが新鮮で、陽咲と一日に一回はメールをして、父親とは揉めながらも距離感を掴んでいって、こんな日々が続くなら、この先もやっていけそうな気がしていた。
***
陽咲から電話がかかってきたのは、講義がほぼ一巡した月曜日の四コマ目の授業中だった。教養科目として選んだ倫理の教室に吉木がいて、憂鬱に感じていたところだった。
授業を抜け出して陽咲からの電話に出た。
『急に電話してごめん。メールしたんだけど……』
スマホから聞こえる陽咲の声は怯えているようだった。メールに気づかなかったことを詫びる私に、陽咲は大学の正門の前に来ているのだと告げた。ただごとではないと感じて、「すぐ行くね」と伝えて電話を切った。
「帰るの?」
後ろから声がして肩が跳ねた。吉木だった。
「ああ、うん」
何でお前まで抜け出してきたんだ、と心の中で毒づく。
「サボりかー。いーなー。俺も抜けちゃお」
「え、吉木くんは授業受けていきなよ」
「ううん。だって退屈だしー」
吉木と言い合う時間がもったいなくて、それ以上は言い返さず荷物を取りに講義室に戻った。吉木がマチョコと呼んでいる金髪の女がジロリと睨んでくる。
一緒に授業を受けていた千尋に帰ることを伝えて講義室を出ると、吉木と、何故かマチョコまでついてきた。
「ちょっと、何でついてくるの?」
吉木に向かって文句を言った。
「だって、ゆーちんが誰に呼び出されたのか知りたいし」
「カナタくんの妹だよ。吉木くんが会ってもしょうがないでしょ」
「えー、まだあいつと関わってんの?」
「カナタくんとは関わってないよ。妹と仲良いの」
振り切りたくて本当のことを言ったのに、諦めてくれない。
「吉木くんまで来たらヒナちゃんびっくりしちゃうから」
「へえ、ヒナちゃんって言うんだ。長谷川に似てる?」
完全に悪ノリだ。とりあえず放っておくことにした。
正門に行くと制服姿の陽咲が待っていた。その横顔は、どうしたらいいか分からず途方に暮れているように見えた。でもそれは一瞬のことで、すぐに私に気づいて笑顔になった。
「ユメちゃん!……と、お友達?」
吉木とマチョコを見て、戸惑ったような顔で首を傾げている。
「ごめん、この人はーー」
「はい、お友達です」
私の声を遮って吉木が一歩前に出た。
「実はお兄さんの中学時代のお友達でもあります。吉木順平。以後お見知り置きを」
吉木が芝居がかった調子で名乗ると、陽咲は何かを思い出したような顔をした。
「あ、もしかして、チャラ……」
失言に気付いたのか途中で言葉を切る。でも、吉木には伝わってしまったようだ。
「イエス。ここにいるゆーちんがチャラ木と呼んでいた男です」
最悪だ。知らないと思っていた。
「長谷川に似ず可愛いね。さすが女子高生、輝いてるわー」
「そう言う吉木さんもこないだまで高校生だったんじゃないですかー」
陽咲が笑って言い返す。そのノリの良さを見て、メイドカフェで働く姿がやっと少し想像できた。
「いやー、一歩大学に足踏み入れたらもう、ヤバいね。今俺たちの間には明確な線があるわけよ。ヒナちゃんには見えないだろーけど」
吉木が、陽咲との間に空で線を引いてみせる。
「じゃあ、大学行かなかったら一生その線越えずに済むんですか?」
陽咲にそうツッコまれて、
「うわ、こりゃ一本取られたわ」
と、吉木が額に手を当てた。そして、「やばい、この子俺より頭いい」と、わざとらしい真顔を私に向けてくる。そりゃそうだろ、と思った。
「じゃー、俺たちは退散するか。行くぞ、マチョコ」
気が済んだのか、吉木がマチョコの肩に手を掛けて言った。やっぱりこの男は誰にでもそういうことをするんだなと思って、少しホッとする反面、また心配になった。
「ごめんね、追い払いたかったんだけど、ついてきちゃって」
邪魔が入ったことを謝ると、陽咲は笑って首を横に振った。
「噂のチャラ木さんに会えて良かった。中学で一年間被ってるはずなんだけど、最後まで分かんなくって」
噂のチャラ木って。私は吉木の話をそんなに頻繁にしていただろうか。
「そういえば、何で吉木くん、わたしが影でチャラ木って呼んでたの知ってたんだろ」
「あはは。聞き耳立ててたんじゃない?チャラ木さんってユメちゃんのことが好きだったんでしょ?」
「え、そんなことないよ。誰が言ったの?」
「兄貴」
そう答えた時、陽咲が一瞬痛みを堪える顔をしたように見えた。
「何それ。違う違う」
短く否定して、その話を終わらせた。
「それより、どうした?何かあった?」
陽咲の顔を覗きこんで問いかける。
「うん……」
陽咲は答えず、私の手をギュッと握った。
「何か、甘いもの食べたい」
「そっか。この辺のお店まだ開拓できてないんだよね。調べてみよっか」
私の言葉に、陽咲がこくりと頷く。
近くに有名なパンケーキ屋さんがあることが分かって、陽咲と二人で向かった。ちょうどおやつ時で、学生のものと思われる列が延々と伸びている。他の店にするかと尋ねたら陽咲が首を横に振ったので、その列に並んだ。
待っている間、陽咲はいろんな話をしたけど、終始どこか上の空で、時々時間を気にする素振りを見せた。何があったのか聞き出したかったけど、自分から話してくれるのを待つことにした。
一時間ほど待ってやっと席に案内された。注文したパンケーキが運ばれてくるのに、さらに三十分くらいかかった。
「うわ、ふわふわ」
一口頬張って、陽咲は嬉しそうな声を上げた。この一瞬だけは、気にかかっていることを忘れたみたいに、あどけない顔になった。でも、すぐに表情を曇らせて、あまり喋らずに食べた。
「今日さ、」
アイスティーのストローを吸った後、陽咲が躊躇いがちに口を開いた。
「ユメちゃんの家に泊まっちゃダメ?」
上目遣いでそう尋ねてくる。やっぱり叶多と何かあったのだろう。
「ごめん。それは、無理」
陽咲が傷ついた顔をしても、それだけは叶えてあげられない。
「うちね、父親が変な人なの。ヒナちゃんに嫌な思いさせたくないから、ごめん」
父親には、娘と同い年の女子中学生を妊娠させた過去がある。たとえそれが合意の上だったとしても、万が一にも危険があるなら、そんな場所に陽咲を連れていきたくない。
「先生、もう帰ったかな……」
陽咲は食い下がらず、ぽつりとそう呟いた。
「四時に来るって言ってたから」
今はもう十七時近い。
「先生に会いたくなかったの?」
言いづらそうにしている陽咲に、水を向けるつもりで尋ねると、彼女はふるふると首を横に振った。
「軽蔑しないで聞いてくれる?」
怯えたような目をしている。頷くと、陽咲はもぞもぞと居住まいを正した。
「あたし、兄貴と二人になりたくなくてさ、友達の家で時間潰してたんだ」
小さな声でそう話し始めた。
「その友達さ、親が忙しくていつもいないんだ。だから、バレないと思ってた。てか、そいつがバレないって言った」
陽咲は落ち着かない様子で、ストローの袋を指に巻きつけたりしている。
「だから、そいつとヤってた。別に好きとかじゃないんだけど、ヤってると落ち着いて……」
陽咲の告白に、血の気が引くのを感じた。
「そしたら、そいつの親にバレた。枕にあたしの髪の毛が残ってて、痕跡も見られたって。問い詰められて、そいつ、あたしの名前バラしたんだ。そんで、そいつの親が学校に電話して、先生がうちに来たってわけ」
「じゃあ、カナタくんが……」
「そう。兄貴がさっきから鬼のように電話してきてる」
陽咲が手元に目を落として言う。テーブルの下に隠していて、私のところからは見えない。
「先生と兄貴、どんな話したと思う?怒られたかな、兄貴。どんな教育してるんだって。親がいないからダメなんだって言われたかな。兄貴は謝ったのかな。いやでも謝るのは変だよね?こっちは女だし、どっちかというと被害者?ああでも、あっちの親、あたしがたぶらかしたとか言ってるかも」
自虐するような笑みを浮かべて、早口で捲したてる。
「しょうがないよね。あたし、こんなんだし。親いないし。兄貴には突っかかってばっかだし。誰も庇ってくれないよね。たぶらかしたつもりはないけど、拒否もしなかったわけだしさ」
千尋の言葉を思い出す。可愛いと言われることで自分の価値を確かめているのかもしれない、と彼女は言った。この子は、好きでもない男に抱かれることで、自分を保っていたのだろうか。だとしたらそれは、あまりに悲しいと思った。
「ヒナちゃん、家に帰ろう」
陽咲に呼びかけた。
「心配してるよ、きっと」
耳を澄ますとスマホの振動音が聞こえる気がした。陽咲は少し躊躇った後、スマホをテーブルの上に置いた。着信画面に【お兄ちゃん】と表示されている。しばらく待ったけど、陽咲が電話を取る様子がないので仕方なく私が出た。
『どこにいるんだ』
叶多の焦った声が耳に飛びこんでくる。
「カナタくん、岸本優芽です」
嫌がられるだろうなと思いながら、渋々名乗った。
「ヒナちゃんはわたしと一緒にいるから心配しないで。今からそっちに連れて帰るね」
少しの沈黙の後、震えるような息遣いが聞こえた。
『うん。お願い……』
その声はとても心細そうで、胸が詰まった。
「大丈夫だから。待ってて」
そう告げて電話を切った。
「怒ってなかった?」
不安そうな顔で陽咲が尋ねてくる。
「怒ってないよ。すごく心配してたと思うよ」
伝票を取って支払いを済ませた。ノロノロと歩く陽咲を何とか駅まで連れていった。
電車の中で、陽咲は吊革に掴まったまま一言も喋らなかった。降りる駅に着いて、覚悟が決まったのか今度は普通の歩調で家まで歩いた。
その足が、家の前で止まった。ガラス戸の前で、足が地面にくっついてしまったみたいに立ち尽くしている。
「ヒナちゃん」
私の呼びかけに、小さく肩を震わせて緩慢な動作で戸を開けた。一歩中に入って、陽咲が再び足を止める。中を覗くと、上り框に叶多が立っているのが見えた。
二階から幸多が「下に行くー!」と叫んでいるのが聞こえる。おそらく新が引き留めているのだろう。
叶多は裸足のままたたきに降りて、陽咲の頬を平手でぶった。パンッと乾いた音がした。
「何でお前まで俺を困らせるんだよ」
ぶたれた頬を押さえて俯く陽咲の肩が、小さく震えている。
「ヒナターー」
叶多が何かを言いかけたのと同時に、陽咲が勢いよく顔を上げた。叶多が動揺したように口を閉じる。
「悪かったなぁ、恥かかして。あたしだって嫌だったよ!兄貴がいる家に帰りたくなかったから、そうやって時間潰すしかなかったんだろ!全部兄貴が悪いんだからな!」
陽咲はそう言い放つと、こちらを振り向いた。目にたくさん涙を溜めている。出ていくつもりかと思って身構えたけど、陽咲は私の手を掴んで家の中に引き入れた。そのまま二階の陽咲の部屋に引きこまれた。
「言ったじゃん。やっぱり帰って来なきゃよかった」
陽咲は部屋のドアを閉めると、自分の身体を抱きしめるようにしてうずくまった。
「見たでしょ?兄貴、あたしのこと憎くてたまらないって顔してた」
そう言って、苦しそうに嗚咽を漏らして泣き出した。
「ヒナちゃん」
その背中に手を当てて、私はかける言葉を慎重に選んでいた。
「本気で言ってるの?」
私は間違えずに伝えられるだろうか。
「本当は分かってるよね、カナタくんの気持ち」
陽咲は自分の膝に顔をうずめたまま、何も応えない。
「知ってると思うけど、わたしは昔からヒナちゃんのことがすごく可愛くて、いつでも味方でいたいと思ってる」
その前提だけは誤解してほしくない。
「だけどね、それと同じくらいカナタくんも、わたしにとっては大事な友達だから、カナタくんの気持ちを分からない振りしてるヒナちゃんには、腹が立つ」
陽咲がゆっくりと頭をもたげてこちらを見た。不安そうな表情をしている。
「カナタくん、憎くてたまらない顔なんかしてなかったよね。最初からものすごく傷ついた顔してたよね。ヒナちゃんの言葉で、もっと傷つけたよね」
陽咲が、全部兄貴が悪いんだと言った時の叶多の顔が、目に焼きついて離れない。彼のあんな顔を、見たくなかった。
「ヒナちゃん、悲しい理由をねじ曲げちゃダメだよ。ヒナちゃんは、カナタくんに嫌われたから悲しいんじゃないよ。カナタくんを傷つけちゃったから悲しいんだよ」
賢い子だから、私に言われなくてもきっとそのうちに自分で気づくだろうけど、それでも口に出さずにはいられなかった。
「……うるさい」
陽咲が、膝に目を落として、唸るように言った。
「ユメちゃんなんか、嫌い。……大嫌い。出てって」
膝にぽたぽたと雫を落としている。ちゃんと分かっている。そう、信じた。
「わたしは大好きだよ。ヒナちゃんのことが可愛くて可愛くてたまらないよ」
彼女の背中にそっと触れて立ち上がった。
「またね」
そう声をかけて、陽咲の部屋を後にした。
一階に降りて叶多の姿を探した。お茶の間にも台所にもいなくて、習字部屋でやっと見つけた。畳に正座をして、壁に貼られた書道作品を見上げている。声をかけたかったけど、邪魔してはいけない気がして、黙って引き返そうとした。
「ヒナタは?」
私の存在に気づいていたようで、叶多がこっちを見ずに訊いてきた。
「泣いてるけど大丈夫だと思う。追い出されちゃったし、わたし帰るね」
叶多に伝えたい言葉はたくさんあるけれど、私の声ではどれも届かない気がした。後ろ髪を引かれる思いで立ち去りかけた時、叶多が再び言葉を発した。
「ヒナタのこと、ぶっちゃった。一生許してくれなかったらどうしよう」
途方に暮れたように、自分の右手に目を落としている。
「カナタくんも分かってないんだね」
思わずそう呟いたら、叶多がゆっくりとこっちを向いた。目が真っ赤で、一人で泣いていたのかと思ったら、胸が痛くてたまらなくなった。
「ヒナちゃんは今だってカナタくんのことが大好きだよ。大好きだから、カナタくんが無理してるんじゃないかってずっと心配してるんだよ」
私も心配だというのは、心の中だけに留めて。
「でも、つい言いすぎちゃうから、それでカナタくんにあまり会わないようにしてたんじゃないかな。あの子は、カナタくんに大事に思われてることをちゃんと分かってるし、だから今回のことで傷つけたのが、苦しくて仕方がないんだよ」
部外者なのにまた出しゃばっている。そう自覚しながら、止められなかった。
叶多は私の話を黙って聞いていた。と思ったら、立ち上がって私の方に歩いてきた。
「どうしたらヒナタは幸せになれる?」
縋りつくように私にそう尋ねてくる。私に訊かなければいけないくらい、この人は追いつめられているのだ。
「何であいつは自分を安売りするようなことをするんだ。俺のせいなのか?俺のせいでヒナタは家に帰れなかったのか?俺は、ヒナタに幸せになってほしいだけなのに……!」
涙が頬を流れたことにも気づかないように、叶多は私に答えを求めるのだ。
「ヒナちゃんは多分、カナタくんばっかりが大変な思いしてて、何にもできない自分が悲しかったんじゃないかな」
「そんなこと。ヒナタはよくやってくれてる。ヒナタがいなかったら、俺たちはやっていけてない」
叶多が強く反論してくる。
「そういうことはさ、わたしじゃなくてヒナちゃんに言いなよ」
当事者同士で話すべきだと思ってそう言ったのに、叶多はまるで突き放されたような顔をした。
「あ、ああ。そうだよね。ごめんね、巻きこんで。暗くなるから帰って」
叶多は私に背を向けて、涙を拭いながら謝った。
突き放したわけではないと訂正したかった。でも、訂正したところで、どうせ私たちはすれ違い続けるのだろうとも思った。叶多にはもう、私の言葉は届かない。
だから、すれ違ったまま、叶多の家を後にした。
心がずっと、寂しい、寂しい、と叫び続けている。
***
それから一週間近くが経った日の晩、陽咲からメールが来た。
『このあいだはごめんなさい』
そんな謝罪の言葉で始まるそのメールには、自分が間違っていたと、もう二度と心配させるようなことをしないと、真摯な言葉で綴られていた。
そして、ゴールデンウィークの翌週の土曜日を最後にメイドカフェのバイトを辞めること、女の子でも気軽に入れるカフェだから一度友達を誘って遊びに来てくれると嬉しいと書かれていた。追伸として、『お兄ちゃんは絶対にNG』と但し書きが添えられていて、頰が緩んだ。
千尋を誘ったら二つ返事でオーケーしてくれた。そして、千尋は何を思ったのか吉木にまで声をかけた。千尋と吉木は、週に一度倫理の授業で顔を合わせるだけの仲だ。私が文句を言うと、『メイドカフェなんだから男もいた方がいいと思う』『ユメちゃんが塩対応する吉木という男に興味がある』と主張した。後者については面白がっているだけに違いない。
ゴールデンウィークはおばあちゃんの家に帰省した。
ちゃんと食べているのか、父親に嫌な目に遭わされていないかと、結局会っても会わなくても心配するおばあちゃんを安心させるのに苦労した。
おばあちゃんは、私のために毎日手の込んだ料理を振る舞ってくれた。私が手伝おうとすると、いいから休んでなさいと言って、何もさせてくれなかった。
父親と違って、何も言わなくてもしたいことや欲しいものを分かってもらえて、私は久しぶりに心安らぐ時間を過ごした。
ただ、千尋の写真を見せた時に、「もっと頭の良さそうな子と仲良くしたらいいのに」と言われたのだけは、悲しかった。
あっという間に一週間が過ぎて、別れ際、おばあちゃんは皺くちゃの手で私の手をギュッと握った。心配ばかりかける不孝者の孫を責めもせず、困ったら帰ってくるんだよと言って、私に交通費を握らせた。私は最後まで、おばあちゃんに貰った十万円を父親に盗られたことを、打ち明けることができなかった。
陽咲が働くメイドカフェは、電車で二駅行ったところにあった。
大学の近くに部屋を借りている千尋は反対方面のため、現地の駅で集合することにした。
「俺、メイドカフェって初めてだわ」
待ち合わせたわけでもないのにホームで遭遇した吉木は、鬱陶しいほどテンションが高い。その隣には当然のようにマチョコがいる。この二人の関係性がよく分からない。いつも一緒にいるけど、付き合っているわけではなさそうだ。
電車に乗りこんで、ドア付近に固まって立った。
「マチョコちゃんまで付き合わせることなかったのに」
吉木はまだ叶多と接点があるからいいけど、マチョコには何の接点もない。申し訳なく思って吉木を咎めたら、マチョコに睨みつけられた。
「いーじゃん、面白そーだし。暇してたろ?」
吉木が呑気にマチョコに尋ねる。
「えー、情報処理のレポート書かなきゃだし」
マチョコが金色の髪をいじりながら答える。
「あんなの楽勝っしょ」
「ジュンペーの班のテーマはそうかもしんないけど、うちの班はめっちゃ調べないとでさぁ」
「その話やめよーぜ。ゆーちん分かんないじゃん」
愚痴りだしたマチョコを吉木が制した。空気がピリついて、たった二駅が遠い。
「社会学部ってどんなこと勉強するの?」
気まずい沈黙に耐えかねて、二人に尋ねた。
「社会についてだよ」
吉木がそんな漠然とした答えをよこす。
「うん、そうなんだろうけど、社会って広くない?」
「そうだよ。だからいろんなテーマやるよ。高齢化とか、教育のこととか、メディアとか、あと歴史とか。あ、二年目に心理学の授業もあるよな。俺、楽しみなんだけど」
「えー、でも心理学って悪趣味な感じしない?」
マチョコが私に対する当て付けのように言う。
「そう?俺はそうは思わねーけど」
「だって、人の気持ちを見透かしてやろうとかそういうことでしょ、心理学って」
「そんなことはないよ」
心理学に対する誤った認識を正したくて思わず否定すると、また睨みつけられた。どうしても私のことが気に食わないようだ。今日もきっと来たくもないのに吉木に強引に誘われたに違いない。そう思ってマチョコに同情した。
「まぁでも人の心が読めたら最強だよなー」
この空気をどう思っているのか、張り詰めた空気に気づいてすらいないのか、吉木が能天気に言う。
「ゆーちんは何で心理学部にしたんよ?」
軽い調子でそう尋ねてきた。
「自分のことをもうちょっとよく知ろうと思って」
いつものように面白そうだからなどと答えたら、マチョコにますます誤解されそうだと思って、本当のことを答えた。
「へー」
ドアに寄りかかっている吉木が、面白そうに眉を上げる。
「俺もゆーちんのこともっと知りてーな」
「またそんな思ってもないこと言って」
「本気だよ?」
真面目に答えるんじゃなかったとすぐに後悔した。
「ゆーちんはさぁ、本当にヒナちゃんが働いてるとこ見てーだけなのかよ?」
質問の意図が分からず訊き返す。
「ヒナちゃんの向こうに長谷川が見えちゃってんじゃねーの?」
「だから違うって言ってるじゃん。昔からヒナちゃんとも仲良かったの」
吉木が本気で言っているのか揶揄っているだけなのかよく分からない。
「そんな風に割り切れるもんかね。長谷川とあんなに仲良かったじゃん」
「その話、マチョコちゃんに分かんないでしょ」
そう返したら、吉木はやっと口をつぐんだ。それと同時くらいに降りる駅に到着して、その話はそれきりになった。
千尋はすでに待ち合わせ場所で待っていた。金色の髪を綺麗に編み上げて、ストライプのミニワンピに、長袖のジャケットを羽織っている。ヒールの高いサンダルを履いた足の爪には、鮮やかなピンク色のネイルが光っている。適当な格好で来た自分が恥ずかしくなった。
「マチョコちゃんも来たんだ」
千尋が気さくに話しかける。千尋は、吉木とマチョコの関係性について、マチョコからの一方的な好意を吉木が受け流しつつキープしている状態だと推測している。
「マチョコってあだ名だよね?本当の名前は何ていうの?」
千尋に訊かれて、マチョコが短く「本間」と答える。
「そうなんだ。あたしもマチョコって呼んでもいい?」
彼女の親しみやすさにマチョコも少し心を許したようで、軽く微笑んで頷いた。
「マチョコも吉木くんも社会学部なんだよね?二人は高校も一緒だったんだっけ?」
歩きながら千尋が尋ねている。社交的な彼女の存在がありがたかった。
「そ。んで、俺とゆーちんは小中一緒で、今から会いに行くヒナちゃんは、中学ん時一緒だった長谷川って奴の妹。ややこしーね」
吉木が自分で言って自分でウケている。
「へえ、ユメちゃんと吉木くんって小学校から一緒なんだ。幼馴染なんだね」
「ううん、仲良かったわけじゃないから」
私が否定すると、千尋がおかしそうに笑って、吉木が「つれないよなー」と大げさに嘆く芝居をする。
「小学生の時からお互いのことは知ってたの?」
千尋がさらに訊いてくる。私と吉木の関係に興味津々なのだ。
「まあ、いるってことは知ってたし、挨拶くらいは」
吉木が答えるかと思って少し待ったけど、何も言わないので私が答えた。
「良かったー。小三ん時から同じクラスだったし、認識すらされてなかったら俺、泣いちゃうとこだったぜ」
吉木がそう応じる。いちいち軽口を叩いてくるのが鬱陶しい。
「吉木くんって、ユメちゃんのこと好きだったでしょ」
千尋までそんなことを言う。
「ピンポン、大当たり」
吉木も悪ノリしている。
「適当なこと言わないでよ。あんまり話したことなかったでしょ」
マチョコの手前、強く反論した。
「嘘じゃねーって。クラスにすげー性格悪い女子がいてさ、みんな敬遠してたんだけど、ゆーちんだけ仲良くしたげててさぁ、それ見て良いなーって密かに思ってたわけよ、この吉木少年は」
吉木は急に昔の話を出してきた。
「何て名前だったっけ、あいつ。モトス……、ああ本栖恵梨香だ。中学は私立に行ったんだよな。全然名前聞かねーけど、ゆーちんは今も連絡取ってんの?」
思い出さないでほしかった。恵梨香が私の父親との子供を産んだ、なんて言えるわけがない。
「ああ、いたねそんな子。忘れてた」
嘘をついた。千尋は私の様子を少し気にする素振りを見せたけど、放っておいてくれた。
千尋が話題を変えてくれて、マチョコも振られれば会話に参加したりして、そうやって歩いているうちに目的地に着いた。
そのメイドカフェは、ホームページで見た写真よりも落ち着いた外観で、土曜日のお昼時という時間帯もあって混んでいた。三十分ほど並んだ後、クラシカルな黒色のメイド服を着た女の子から熱烈な歓迎を受けながら店内に案内された。私たちを席に案内してくれた子のスカートは中が見えないか心配になるくらい短かったけど、他の店員を見るとスカートの丈は人によってまちまちで、席に案内された後すぐにやって来た陽咲のスカートは膝下まであって内心ホッとした。
「来てくれてありがとう、ユメちゃん。吉木さんも、ありがとうございます!」
陽咲は、千尋とマチョコにもにこやかに挨拶して、メニューの説明をしてくれた。そして、受けたオーダーを通しに一度奥に引っこんで、飲み物を手に戻ってきた。
「すげー似合ってんね、メイド服」
ファンシーな飲み物を受け取りながら吉木がデレデレしている。
「ありがとうございます!あたしもこのメイド服が好きでここで働くことにしたんです」
一見シンプルだけど、よく見ると胸元のエプロンに凝った刺繍が施されていて、上品な印象を与えている。
「じゃあ美味しくなる魔法をかけていきますね」
そんな陽咲のメイドっぷりを楽しみながらランチを食べて、記念撮影もして、一時間ほど滞在した後、店を出た。
店を出る時、陽咲に「しばらくこの辺にいる?」と訊かれた。頷くと、「夕方になると思うけど帰る時連絡する」と耳打ちしてきた。
「思ってたよりもしっかりした子だった」
千尋は陽咲をそう評価した。千尋には、陽咲が前に話した金髪の高校生だと伝えてあった。千尋が陽咲のことをそう評価したことが、自分のことのように嬉しかった。
それから吉木の提案でボーリングをした。私が初めてだと言ったら、吉木が張り切って手取り足取り投げ方を教えようとしてきて、鬱陶しかった。それでも、ピンが倒れれば嬉しくて、マチョコは上手すぎて、千尋と吉木はデッドヒートを繰り広げていて、何だかんだ盛り上がった。
二ゲーム終えてお手洗いに立った時、鏡に映る自分の口角が上がっているのに気づいて、ふと叶多を想った。彼はこんな風に友達と遊ぶことも諦めてしまっているのだなと思ったら、途方もなく寂しい気持ちになった。
その後、さらにもう一ゲームやって、ボーリング場に併設されているゲームセンターで少し遊んでから、吉木たちと別れた。千尋は、陽咲を待つ私に付き合って残ってくれた。
陽咲は、十七時頃になって、私と千尋のいるカフェに現れた。
「もう大丈夫になったんだね」
彼女の姿を見て言葉を失った私の代わりに、千尋が優しく声をかけた。制服姿の陽咲は、髪の色を黒に戻して、メイクを落として、あどけない少女に戻っていた。ストレートのさらさらな黒髪が美しい。
「金髪のメイドさんも可愛かったけど、今のヒナちゃんも可愛い。すごく素敵だよ」
千尋の言葉に何度も頷いた。陽咲は緊張が解けたように頰を緩ませた。
「そっかぁ、ユメちゃんに一番に見せたかったんだねぇ」
カフェを出て駅に向かう途中で千尋にそう言われて、陽咲は少し照れくさそうに、はにかんだ。
「こないだは本当にごめんなさい」
千尋と別れて、電車の中で陽咲は再び謝ってきた。
あれから叶多と話して、陽咲が知らない男からいかがわしい目で見られているんじゃないかと思うと耐えられないという兄の本音を聞いて、メイドカフェを辞めることにしたのだそうだ。
「でもね、そんなつもりでメイドカフェで働いてたわけじゃないんだ」
そう陽咲は言った。
「あのお店ね、ちょっとくらいだったら制服をアレンジしても良くって。事前相談は必要だけど。だからあたし、エプロンに刺繍入れたり、他の子の制服にリボン付けたり、結構好きなようにやらせてもらってたんだ。お店にある小物も作ったりして」
あの凝った刺繍が陽咲の手によるものだったのかと驚いた。もともとそういうデザインかと思っていた。
「お兄ちゃんは大学に行けって言うけど、あたし、正直勉強とか興味なくって、ファッション関係の仕事がしたいと思ってる。制服ばっか着てるのも、その辺で売ってる服で妥協したくないから」
それを聞いて、陽咲と一緒に叶多のお母さんから編み物を教わったことを思い出した。叶多のお母さんは、書道だけでなく手芸全般も得意で、陽咲によく手作りの洋服を着せていた。
「そっか。ヒナちゃんはファッションに興味があるんだね」
陽咲が好きなことをちゃんと持っていて、それを私に教えてくれたことが、嬉しかった。
叶多は知っているのかと尋ねたら、陽咲は首を横に振った。
「話してみなよ。カナタくん、ヒナちゃんにやりたいことがあるって知ったら喜ぶと思うよ。そういうことを専門に学べる学校だってあるでしょ?相談してみたら?」
「でも、ファッションなんてって、思わないかな」
陽咲が不安そうに呟く。
「お兄ちゃん、勉強すっごくよくできたでしょ。行ってた高校もめっちゃ進学校だったしさ。すごい大学行って博士にでもなるんじゃないかって、お父さんが期待してた」
知らなかった。叶多とは同じクラスにならなかったし、叶多の両親も同級生の私の前ではそういった自慢じみた話を避けていたのかもしれなかった。優しい人たちだったから。
「だから、お兄ちゃんを差し置いて大学に行くのが心苦しくて。それも、理系とか文系とかじゃなくてファッションを勉強したいなんて」
陽咲がギュッと学生鞄を抱きしめる。実采のランドセルに付いているのとお揃いの、ニモのあみぐるみが揺れている。
陽咲が申し訳なく思う気持ちは理解できた。でも、そのせいで陽咲が自分の道を狭めることの方が、叶多にとってはよっぽどつらいだろうとも思った。
「カナタくんは、ヒナちゃんのこと応援したいと思うな」
叶多は、口を開けば陽咲のことばかりだから。
陽咲の方を見ると、まだ浮かない顔をしている。
「分かるよ。わたしも正直、カナタくんのことは心配。無理して身体壊さないかなとか、もっと自分のことも考えたらいいのに、とは思う」
本音を口に出したら、陽咲は何度も頷いてきた。
「でもさ、カナタくんは今、ヒナちゃんたちのことで必死だから。ヒナちゃんは遠慮しないでやりたいことをやったらいいんじゃないかな。その方がお互いに幸せだと思うよ」
今の叶多には、自分を大事にしろと言ってもきっと伝わらない。少なくとも私の言葉では。寂しいけど、せめて彼が必死に守ろうとしている妹と弟たちが、幸せであってほしいと願う。
「……いいのかな、それで」
まだ迷っている様子の陽咲に大きく頷きかけた。それを見て陽咲も、自分に言い聞かせるように、一つ小さく頷いた。
叶多の家には寄らないつもりだったけど、連休中に叔母さんの家に行った時のお土産を渡したいと言われて、玄関先までのつもりで立ち寄った。
「あ!姉ちゃん、髪の毛黒くなってるー!」
玄関に出てきた幸多が、陽咲の頭を指差して叫んだ。それを聞きつけて、奥からドタドタと菜箸を持った叶多が走ってきた。陽咲を見てホッとしたように微笑んだ後、私に気づいてあからさまに目を逸らした。自分が彼にとって邪魔者であることを再認識させられて、悲くなった。
「じゃあ、帰るね」
居たたまれなくなって陽咲に声をかける。
「あ、待って待って。今お土産持ってくるから」
陽咲が慌てて家の中に駆けこむのを、叶多が追いかけていって、
「晩ごはん食べてくか訊いてみたら?」
と声をかけているのが聞こえた。私を露骨に避けてしまったから後ろめたいのだろうかと、思考がネガティブな方向に落ちていく。
「ああ、ミコトくん」
いつの間に降りてきたのか、実采が階段の前に立っているのに気づいて、慌ててネガティブな思考を停止させた。
「帰らない?」
二メートルほど離れた場所から訊いてくる。
「ん?」
「今度は勝手に帰らない?」
どうやら、私がここに泊まった時に、実采が寝ている間に帰ったことを怒っているようだ。この間ここに来た時も、実采に声をかけそびれてしまった。
「ごめんね。今度からはちゃんと、帰る時ミコトくんに挨拶するね」
「うん、そうしてっ」
実采はそれだけ言うと、戻ってきた陽咲とすれ違うように二階へと駆け上がっていった。陽咲が、何かあったのかと目で問いかけてくる。
「こないだわたしが勝手に帰っちゃったから、怒らせちゃったみたいで」
「ああ。しばらく拗ねてたな。反抗期なのか、前からややこしかったけど、もっとややこしくって」
「ヒナちゃん」
やんわりと咎めた。実采に聞こえるかもしれない。
「あ、そうだ。もし良かったら晩ごはん食べてかない?」
断るつもりだったけど、実采に釘を刺されてしまったし、言葉に甘えることにした。さっきまでのマイナス思考は立ち消えていて、心というのは不思議だなと思った。
叶多が作った焼うどんは美味しかった。
実采は、陽咲が反抗期だというのも頷けるくらい、食事中もずっと不機嫌で、帰る時に「またね」と声をかけたら、プイッとそっぽを向いてしまった。
幸多を抱っこした叶多が、家の前まで見送りに出てくれた。
「ヒナタのこと、ありがとうね」
叶多がそうお礼を述べると、
「ありがとうね」と幸多が可愛く真似をした。
日が長くなって、十八時過ぎてもまだまだ明るい。
「またいつでも遊びに来て。家に居づらい時とかさ」
あやすような歳でもないのに、幸多のことを小さく揺らしながら、叶多はボソボソと言った。地面に目を落としていて、そこにある感情や思惑を読み取ることはできない。彼の真意を確かめたかったけど、こっちをじっと見つめてくる幸多の前では、それも憚られた。
「うん」
素直に頷いて、笑顔で手を振った。
叶多に見られているかもしれないと思うと、何だかうまく歩けないような気がした。
***
(中編に続く)