裏話その3:私のヒーロー、アタシの旋律
郊外にある古い屋敷。
周囲からはひときわ目立つくらいの大きな屋敷で、門などの近くには監視カメラが設置される程厳重な警備体制が敷かれている。
表札には『庭苗』と書かれている。
「ここがアタシとアルムの家。今はパパもママも居ないから、勝手に入って大丈夫にゃ。さて、鍵は…」
そう言ってポケットから鍵を探す、スラリとした体型に長いポニーテールを横に流した髪型の少女。
彼女の名は庭苗 在希。
“希望”が“在る”という由来で付けられた名だ。
現在、怪盗としての修行のため、そよぎ邸に住まわせてもらっている。
「うーん、ない…。置いてきちゃったかな、そよぎさん家に。もう、こうなったら門を壊して…」
アルマはそう言うと、門に向かって格闘術の型を構える。
「お、お姉様!鍵ならわたくしのがありますわ!今、開けますから壊すのはやめてくださいまし…」
そう言って鍵を出したお嬢様言葉の少女の名は、庭苗 在夢。
名前は“希望”が“在ある”であるアルマに対し、“夢”が“在ある”という由来で付けられた。
アルマの義妹で、活発そうな姉とは正反対のおとなしめな感じの少女である。
ただ、おとなしめなのはあくまで見た目だけで実際は激しい感情をストレートに出す積極的な性格をしている。
特に姉のアルマに対しては愛情に近い感情さえ抱いており、結婚したいと思っている程でそれを周囲に隠そうともしない。
さらにライブに対して少し変わった態度で接する事もあり、周囲には理解され難い面がある。
アルマとアルムは血筋が違えども、共に怪盗の血筋を引いており今では怪盗修行の一環としてライブとそよぎの怪盗仕事を手伝うメンバーの一人として活躍している。
庭苗邸へと足を踏み入れるライブ、そよぎ、オリーヴ、凝人、そして庭苗姉妹。
アルマとアルムはライブ達とは違う学校に通っているがそよぎ邸から直接学校に通うようになった為、実家には帰らないでいた。
だがもちろん学校に行くに限っての事ではないが、日常生活に私物は少なからず必要になる。
だから自宅から必要な私物を調達させる為に今日ここに来たというわけだ。
調達するのは私服や使い慣れた枕などその他諸々。
一同は広い屋敷の中の部屋を回り、庭苗姉妹の私物を整理するのを手伝う。
そして作業が一段落した頃――。
家のリビングでみんなとお茶の時間を楽しもうと、アルムは台所から紅茶の葉やお菓子、ティーセットを用意する。
すると、どこからかピアノの音色が聞こえてきた。
それを聞き急に懐かしい気分になったアルムは、用意していたティーセットを一旦置き、ピアノの音がする部屋へと向かった。
楽器などがいくつか並ぶ中、窓際にピアノがある部屋。
そこでピアノを弾いていたのは――アルマだった。
目をつぶり、ピアノで美しい音色を奏でているアルマ。
アルムがその部屋に入ると、気配に気付いたアルマが演奏を止める。
「アルム、どうしたの?そろそろお茶の準備するって、台所に行ったんじゃ」
「つい、懐かしくなってしまいまして。…そのピアノ」
「そっか」
短い会話を交わすと、アルマとアルムの二人はピアノの端の方にある少し目立つ傷を見る。
「…アタシは馬鹿だけど…こればっかりは忘れないだろうなあ」
「…お姉様…」
アルマはまたピアノを弾き始める。
休まるような、穏やかな音色を立てるピアノ。
アルムは演奏に聞き入っていたが、数分後に二人のいる部屋に他に入ってくる者の気配がすると、気配の方へと視線を向けた。
部屋に入ってきたのはライブとそよぎ。
アルマが演奏を一通り終えると、ライブとそよぎは拍手をした。
「アルマさん、ピアノ弾けるんだ…上手だね」
「ええ、上手だったわ、アルマさん。その曲、『twilight』ね?」
「流石そよぎさん、知ってるんだ。じゃ、これは知ってる?」
アルマはさっきとは違う曲を弾き始めた。
さっきの曲とは違うが、これも休まるような音色をしている。
「ええ。…『新たな季節』ね」
「おお、正解!よく知ってるにゃー」
「うふふ、だって。『twilight』も『新たな季節』も、駅のホームで使われている曲じゃない」
「あ、そうなのかにゃ。あの子…。そういうしばりで曲を覚えてたのかも…」
「…あの子?」
ライブの問いかけにアルマとアルムははっとした。
ちなみに庭苗姉妹が通っている学校は送迎バス制で、アルマもアルムも電車に乗った経験は皆無なため、駅のホームの曲だと知ってはいなかったのだ。
「…お姉様」
「あ…うーん…別に隠す程の話でもないんじゃない?」
「まあそうですけど…」
「あ、その…話したくないなら話さなくていいよ?ごめんね、私、つい…」
あわてて話すライブを見たアルマとアルムは顔を一瞬見合わせ、頷き合う。
「…出会ったのはまだ、アタシが何にも将来の事なんて考えてない頃だったなー」
「わたくしもまだ、お姉様を義姉じゃなくて実姉だと思い込んでいた時期でしたわ。十年近く前でしたっけ」
アルマとアルムは語り始めた。
昔からアタシ――アルマは体を動かすのが好きだった。
喧嘩なら男子が束になってかかってきても勝てるくらいの自信があった。
いじめようとしてきた男子を逆に泣かせた事もある。
でも決して周囲に対して威張らなかった。
というより、人付き合いが苦手なアルムとよく一緒にいた事でアルム以外に話友達などろくにいなかったから威張りようもなかっただけだが。
でも結果的に『喧嘩は強いのに威張らない人』として認識され、周りから敵意を向けられる事はなかった。
その認識が自他問わず定着し始めた頃だったろうか――ある出会いが起きたのは。
アタシのママは元プロの画家で、画家を引退した後は自宅で絵画教室の先生をやっていた。
そこにある画家を志す人がやって来た。
その人は海外にいる両親に代わって幼い妹の世話をしている人で、名前は越静 梨尾、その妹の名は越静 流尾という。
姉の梨尾が絵画教室に通っている時、流尾は庭苗家の客室で姉の帰りを待っているのが日課だった。
ある日、アルムとボール遊びをしていたアタシは誤って客室の窓近くにボールを放ってしまう。
ボールを取りに行ったアタシはそこで初めて流尾の存在を知った。
窓の外から見る流尾は、客室にいつのまにか運び込まれたピアノを弾いている。
流尾の為に越静家から持ってきた物だと後で聞いたピアノだ。
それはとても綺麗で安らかな音色を立てていて。
アタシは子供ながらに感動というか、とにかく凄いと思った。
それゆえ、アタシは演奏の後思わず拍手をしてしまう。
拍手に気付いた流尾は、アタシに気付く。
――これが、アタシと 流尾の初めての出会いだった。
「アルマちゃん、アルムちゃん。遊びに来たよ」
髪は後ろで短く束ねられ、運動は苦手そうな挙動の遅さだがとても嬉しそうな様子で、庭苗家を訪れる度に挨拶する流尾。
流尾と友達になってからは私とアルム、流尾の三人で遊ぶようになった。
幸せな時間だった。
…けど流尾の姉である梨尾に流尾の置かれた状況を聞いた時から、少しずつ幸せにほころびが生じてきた。
「…あの子、流尾は先天性の特殊な体質があってね。普通に生活する分には命に別状は無いんだけど、身体を動かし過ぎると命に関わる可能性がある、とは言われてるの。
…だから遊んだりしててつまらないかもしれない、迷惑をかけるかもしれない。でもアルマちゃん達と出会って私ですら見た事ない笑顔をするようになったのよ。姉の我が儘で悪いんだけどこれからも仲良くしてあげてね」
アタシの前では流尾はそんな様子、一切見せなかった。
そんな動揺もあり、話をされた時は正直どう返事したらいいかわからない。
けど、その場のアタシはただ頷いた。
梨尾の言葉が頭の中から離れないでいるアタシは、気を遣いながら流尾と遊ぶようになった。町に連れ出したり、家の中で色んな事をしたり。
でも所詮は子供の考える程度の気遣いだったようで、加減が判らず流尾に無理をさせてしまった事がある。
その時は確か、町に二人でいる時だった。突然倒れた流尾と、慌てるアルム。アタシは迷わず流尾をおぶって病院まで運び、流尾は何とか一命は取り留めた。
夜、流尾は病院で全てをアタシに打ち明けてくれた。
「今まで黙っててごめんね、アルマちゃん。…私の体質はお医者さんにもどうしようもないんだって」
「…うん」
アタシは病院のベッドで、痛々しいくらい大量の機械にコードで繋がれている流尾を前に、梨尾の話の時と同じ、ただ頷く事しか出来なかった。
知っていたはずなのに無理をさせてしまった事に深く後悔しつつも、アタシは流尾の話を聞きながら心の中で必死に流尾の為に何かできないかと考えていた。
流尾の将来の夢はピアニストになること。
流尾の憧れのピアニストのこと。
流尾が、初めて友達になってくれたアタシとアルムにとても感謝していること。
流尾が倒れた時、おぶって病院まで運んだアタシがまるでテレビのヒーローみたいに格好良かったこと。
…今思うと、ただ私は必死だっただけなんじゃないかと思う。
身体を動かす事が何より自分の信じる事であったアタシと、多く身体を動かす事が出来ない友達。
その事実が何より抗い難いとその時のアタシですら気付いていたからこそ、無意識的に足掻いてみたいと思ったのかもしれない。
話を聞き終え、病室を出たアタシはしばらく黙り込んでしまっていた。
流尾の状況を病室で話されてから数日。
流尾はなんとか持ち直したようで、少し気分が良くなった日に庭苗家にピアノを弾きに来た。
流尾はいつも通りの安まるような良い音色をピアノで奏でていた。
だが、小休止していた流尾が言った一言でその安らかな音色に残酷さを感じるようになる。
「私…このピアノを弾きながら死ぬの」
流尾はあはは、と小さく笑いながら言った。
症状の悪化に苦しみ、病院で手厚く看病された事が子供の流尾には相当堪えたのだろう。珍しく流尾が吐いた弱音だった。
だがアタシにとってはピアノを弾き続ける限り、流尾は死ぬ事ばかり考えてしまう――そう思えたのだ。それが冗談交じりに言った言葉だとしても。
病院に戻ろうと部屋から出た直後、アタシはピアノを壊す事を考えた。
ピアノを修理する間は少なくとも流尾は生きようとする――そう思ったからだ。
アタシは手近にあった椅子を持ち、ピアノに向かって振り上げる。
そして振り上げた直後――。
ガチャリ、と部屋のドアが開いた。
アタシはとっさにそれに反応したが、振り上げた椅子は止まらず、ピアノをかすめて、ピアノの端に方に少し目立つ傷を残すくらいで床に落ちた。
でもまだ壊したりないと思ったアタシは椅子を再び振り上げようとする。
「…何…してるの…」
だが、それはかすれた声に阻まれる。
忘れ物に気付いた流尾がアタシのいるピアノの部屋に戻って来たのだ。
「………」
アタシは凍りつく。
「…アルマちゃ…っ!!!」
流尾は肩を震わせ、アタシをにらむ。今まで見た事のない表情だ。
「ひどい…ピアノを…壊そうと…」
「だって…だって流尾が」
「…アルマちゃんなんて知らないっ!!!」
流尾はそう言い残し、部屋から出て行ってしまった。
アタシはそれを追いかける。
体力がない流尾にはすぐに追いつき、アタシは流尾の腕を掴む。
だが流尾はアタシを払いのけて、咳きこみながらもアタシから逃げようとする。
それが分かるといつのまにかアタシは流尾を追いかける事を止めてしまっていた。
――というより出来なくなってしまったのだ。流尾の信頼を壊すという取り消しのつかない事をしてしまった罪悪感で。
その後は流尾と顔を合わせられなくなってしまった。
ほぼ毎日聞こえていたピアノの音も聞こえなくなってしまった。
それどころか、庭苗家に梨尾が来る事があっても流尾が来る事はなくなってしまったのだ。
始めのうちは『流尾なんて…』と流尾に対して怒っていたアタシだけど、時間が経つ度に流尾に謝りたい気持ちが膨れ上がってくる。
ある時アタシは、パパから裏社会についての話を聞かされていた事を思い出し、ある考えを思いついた。
その考えとは、表社会の人達が医療を受けるのとは別に、秘密裏に裏社会に人達を相手に医療行為をする裏医者に流尾の身体を診てもらう事をきっかけに仲直りをする、というもの。
裏医者とは、警察沙汰になるような大怪我でも金次第で証拠隠滅をして治療してくれるという、裏社会になくてはならない存在である。
裏社会の医療技術は表社会の医者よりも遥かに優れている。越静姉妹は完全に表社会の人間だから縁は無いだろうが、パパなら何か裏社会に関わりがある。
もしかしたら流尾の症状を良くさせる方法があるかもしれない、という可能性が表社会の医者よりもある上、上手くいけば仲直り出来る。
だが当然リスクもある。
今まで裏医者に流尾を紹介しなかったのは、パパが関わっているであろう裏社会に、表社会の人間を関わらせたくなかった…というよりもパパに主て社会の人間を裏社会とは関わらせると碌な事が無いから止めろと厳命されていたからだ。
しかし、今アタシにとって重要なのはパパの叱責よりも友達との関係回復だ。
――本音を言うと、裏社会に少し興味があった事もあるけど。
そう思ったアタシは、パパの部屋に忍び込み、裏医者の所在を突き止めたのだ。
とある病院の裏口から入ると、『立ち入り禁止』の札がある。
アタシはそれを無視して入り、奥のドアをノックする。
「――誰だ?立ち入り禁止の文字がわからんのか?」
ドアの向こうから聞こえてきたのはぶっきらぼうな若い男性の声。
「――『わかりません。だって私は強盗で、バズーカ一丁を持ってきてるんですから』」
アタシはパパから聞いた事のある暗号を駄目元で言ってみる。
暗号の意味は裏医者に対して、『貴方に任せたい仕事が一件ある』という意味らしいが…。
「…入れ。人目についちまう」
ドアを開けて、アタシを見下ろす裏医者と思わしき若い男性。
とりあえず話は聞いてもらう事は出来そうだ。
「ほれ、飲めよ。俺は医者だ、毒なぞ混ぜんよ」
裏医者は、アタシに作りたてのホットミルクを渡してくれた。
そして椅子に腰掛け、タバコを咥える裏医者。
「…で、だ。どうやって今の暗号を知った?」
裏医者がタバコにライターで火をつけながらアタシに問いかける。
「パパから。意味はよく知らない」
アタシはズズーッとホットミルクを飲みながら答えた。
ため息まじりに手元にある何かの名簿をパラパラとめくる裏医者。
「…全く。これだから裏で妻子持ちはまずいって言っても聞かない奴は…」
裏医者はタバコを灰皿に置いて、アタシに向き直る。
「まあ娘に盗み聞きか何かかされている時点でそのパパ親に非がある。請求はそっちでいいか。…お嬢ちゃん、用件は?」
「病気を治して欲しいの。…この病院で治療を受けてる越静 流尾って子の」
「…この病院に俺のような裏医者が居てよかったなって言っておこう。越静 流尾、と…」
さっきの名簿とは別の名簿を取り出した裏医者は、流尾の事を探しているようだ。
「…ふぅむ…こりゃ厄介だな。完治はすぐには無理かもしれんが、良くなる可能性がないわけじゃないな…ほら、この薬だ」
「本当なの!?」
アタシは裏医者から薬の名前が書いてある紙をひったくる。
「ただ厄介なのはその薬、日本じゃ臨床実験もされていない…つまり日本では使用不可の薬なんだよ。俺みたいな裏医者ならそれぐらい用意してやりたい所だが…あいにく、その薬は日本国内じゃ品切れ状態。手に入るのもかなり先の話になっちまう」
「そんな…」
「む…だが確か、この町の役所近くにある研究所に在庫がまだ残っているかもしれん。そこに行けばあるいは…ん?」
アタシは裏医者が話し終える前に、研究所から薬を盗み出す為にその場から去っていた。ホットミルクを全て飲み干して。
研究所の窓の中を覗く。
通信ルームと思われる場所に浸入し、通信機器のコードを切り、通信ルームから研究所のさらに奥へと進む。
物陰に隠れながら進むアタシ。
だが、突然ゆっくりと近づいてくる足音がした。
その足音の主は警備員。暗闇でよく見えないが、警備服っぽい物を着ているから分かる。
アタシは意を決してその警備員にタックルする。
タックルされた警備員は倒れた。
「何だ、子供だと!?」
その叫びに気付いたのか、二人目の警備員が来た。
捕まえようとする警備員達をアタシはかわす。
そしてアタシは拳を後頭部にヒットさせようと構える。
――だが突然、後ろから鈍い痛みがアタシを襲う。
やって来た三人目の警備員がアタシの後頭部を警棒で殴りつけたのだ。
アタシが痛がっていると、警備の一人がアタシの腹に蹴りを入れる。
「子供が…やりやがったな」
「かはっ…」
アタシはえずく。今度は頭を踏みつけられた。
「…くっ…ええいっ!」
とっさにアタシの頭を踏みつけている足を掴み、警備員を転倒させる。
「ちっ…」
警備員は舌打ちと共に、掴まれていない足でアタシを蹴った。
その衝撃でアタシは吹っ飛ばされ、倒れこむ。
「……っ…助け…る…んだ…」
アタシはよろめきながら立ち上がる。
しかし、警備員の一人が立ったアタシの横っ面を殴った。
アタシはバランスを崩してまた倒れこむ。
…だけどまだ意識はある。
ここで諦めるわけにはいかない。
その一心で這いずりながら警備員の足を掴む。
アタシの腕が警備員の蹴りを何度もくらう。
けどアタシは掴んだ手を決して離そうとはしなかった。
その後、しばらくして蹴りが一瞬止んだかと思うと顔を思い切り正面から殴られた。
アタシは口の端を切ったのか、口中に鉄のさびたような味が広がる。
「通信機、壊されてます。多分、コイツの仕業じゃないかと…」
警備員達の話声が聞こえる。
だがアタシの意識ははっきりとせず、途切れかけていた。
(もう駄目だ。アタシ、死んじゃう…)
「――子供相手にやり過ぎだとは思わんかね?」
聞きなれた声がした。だがいつもの聞きなれた声の中に、静かな怒りがある事ははっきりとわかる。
「パ…パ…?」
アタシはかろうじて顔を上げる。
警備員達に向かっているのは…アタシのパパ、庭苗 暦治 (にわなえ れきじ)だったのだ。
警備員達が構える前にパパは右手で警備員の一人の顔を掴み、壁にめり込ませる。
――まるで壁が柔らかくなったようなめり込みぶりだ。
壁にめり込んだ警備員は一発で意識を失った。
そしてパパは次々に警備員を壁にめり込ませていく。
――ほんの数秒だった。
ほんの数秒でその場にいた警備員は全て意識を失った。
そしてパパはアタシを抱き上げ、口の端から出る血をハンカチで拭ってくれる。
「…パ…パ」
「しゃべらんでいい。話は全て聞いた、お前の訪ねた裏医者からな」
後から聞いた話だが、アタシの訪ねた裏医者が子持ちの裏社会人にアタシの情報を流し、パパがアタシの行動に気付いたという事だ。
そしてこれも後から聞いた話だが、パパは裏社会で『変容の魔術師』と呼ばれ恐れられている戦闘屋をやっている程の実力者だったのだ。
パパに助け出されたアタシは訪ねた裏医者の病室で治療を受けた。
『運が良かったな、どこの骨にもひびは入っちゃいないし、内臓にも大した損傷はない。まあ身体に残った痣はしばらく消えんだろうが』とのことだ。
それだけ話し終えると裏医者はベッドの周りのカーテンを閉め、カーテンの外に行ってしまった。
何分か経って聞こえてきたのはパパと裏医者の話す声。
「今回の事は俺にも落ち度がある。半値にしとくよ」
「いや、全額支払おう。色々と手間をかけた。…それと、これを」
「…へぇ。流石だな…裏で名高いだけはあるな。これでお宅のお嬢さんの努力は無駄じゃなかったってわけだ」
(…何…話してるんだろ…)
アタシはそう思ったが、その直後に体力の限界で寝入ってしまっていた。
「………」
アタシはまぶたをゆっくり開ける。
日差しがまだまぶしく、目をこすりながら身体を起こす。
どうやらアタシは裏医者の病室から普通の病室に移動させられたようで、寝付いた時とは違う病室で目を覚ました。
「…起きたか」
アタシはビクッとして、声の主の方へ顔を向ける。
するとアタシの予想通り、声の主は怒り心頭、といった様子のパパだった。
「この…馬鹿者がっ!!!」
一喝。
(ああ…やっぱり怒られる…)
アタシは内心でひどく落ち込む。
「無謀な事を自分だけで判断し、勝手に行動する。それが必ず良い結果になるなどと…現実はお前が思う程、簡単ではない!!!…だが」
ぴたっ、とパパの怒り声が止まる。
「だが実際、お前の無謀な行動が意味を持った。今回ばかりはな。…入ってきてくれ」
ガラリとドアが開く。
そこから入ってきた人物を見て、正直アタシは固まった。
「…アルマちゃん」
うつむき加減に入ってきたのは流尾だった。
なにか紙の束のようなものを持ってもじもじとしている。だが意を決したように口を開いた。
「…アルマちゃんがピアノを壊そうとしたのは私が後ろ向きな事言ったからだって、お姉ちゃんや周りの人に言われて気付いて…ずっと謝りたかったの!だから…ごめんなさい。あの…これ」
流尾はアタシに持っていた紙の束を渡す。
中を見るとそれは楽譜だった。しかし普通の楽譜に丁寧に細かい解説が至る所に記されている。これを見ながらなら今のアタシでもピアノが弾けそうなくらい丁寧だ。
アタシが流尾に出来た事なんて何もないからお礼なんてもらう資格はない。そう思ったアタシはパパに視線を向ける。
「…お前が危険な所まで行って薬をとって行こうとした事、そして裏社会に流尾嬢を関わらせてしまった事自体は無謀だから褒められた物ではない。だが、今回の一件を無かった事にして薬の事を忘れ、また流尾嬢のような表社会の住人の為に馬鹿娘に似たような無茶をされたのではかなわんから、この薬は流尾嬢のご家族に許可を取ってから流尾嬢に使う事にした。結果的ではあるが、この薬を流尾嬢に持ってきたのはアルマ、お前だ」
「うん、アルマちゃんのお父さんから話は聞いたの。アルマちゃん、ひどい事言ったアタシなんかの為に一生懸命頑張ってくれたって。…本当にありがとう」
結局、パパは流尾の為にアタシが盗みきれなかった薬を代わりに盗み出して来てくれたのだ。薬の代金を研究所にこっそりと律儀に置いた、というのは後から判った事だ。
「…流尾…ごめんなさい…アタシ…」
「ううん、いいの。あ、それとねその楽譜…アルマちゃん、楽譜が難しくて読めないけどピアノを弾いてみたいって言ってたの思い出して…私が楽譜が読めなくてもピアノを弾けるように書いたの。私の覚えてる曲の全部の楽譜。本当はもっと良い物をプレゼントしたかったんだけど、お金とか持ってないし私の出来る事ってこれぐらいだから…」
「流尾っ…!」
アタシは楽譜を大事に抱えながら、ベッドから立ち上がり流尾に抱きついた。
「ありがと…流尾…」
「うん…。…やっぱりアルマちゃんは私のヒーローだよ…」
アタシと流尾はしばらく抱き合っていた。
数日後。
薬を投与された流尾は病状が軽くなり、その薬を使った本格的な治療ができる数少ない表社会の医療機関がある外国に行く事になった。
実を言うと投与された薬が効くかどうか、何かリスクはあるのかなど詳しい事は裏医者にすら確証はなかったのだが、奇跡的に上手く事は運んだ。
梨尾は絵画の勉強の為日本に残る事になり、アタシとアルムと共に流尾を空港へ見送りに行った。
アタシはその際にピアノを流尾から譲り受け、練習して弾けるようになったら流尾に聞かせる事を約束した。
ピアノを譲られた理由は、外国に行ったら流尾は治療に専念する為、ピアノもろくに弾けなくなる事もあったのだろう。
――それから何日か経って。
飛行機事故で流尾が帰らぬ人となった事をニュースで知った。
アタシは泣かなかった。
アルムや梨尾、パパやママ、色んな人が泣いたがアタシは泣かなかった。
アタシを哀れむ人もいたがちっともその人達の言葉なんて耳に入らない。
学校も休んだ。食事も喉を通らず、ろくに眠れない日々が続いた。
それでもアタシは泣かなかった。
しまいにはどんどん衰弱していくアタシが今度は医者に診てもらった方がいいという話にまでなった。
だがある日、ふと流れていたテレビからの曲を聞いてアタシは反応する。
その曲をピアノで弾いていたのは流尾が憧れだと言っていた演奏家だったのである。
安らげるはずの音色。だけどアタシは安らぐ事ができない。
――あぁ、そっか――。
アタシは腹立たしかったのだ。
今まで生きてきて味わうどころか想像もできないような腹立たしさ。
腹立たしさの根源にあるのは果てしない喪失感。流尾の曲は、もう二度と聞く事ができないのだ――。
火にくべられた氷の様に、『今まで泣く事が無かったというプライド』が急速に溶けて無くなっていく。
今までずっと必死に保っていたプライドの無意味さが、痛いくらいに胸を締め付ける。
「…馬鹿だ…」
つ…とアタシの頬を涙がつたう。
「…アタシは馬鹿だ…何にもわかってない、とんでもない馬鹿だ…」
それだけ言うと後は何も考えられなくなった。
ただ泣くだけ。
声を上げて、泣いた。
今まで泣いた事もないようなアタシがはっきりと自分の意思で泣いた時だった――。
「…まあ、こんな事があって」
アルマとアルムは語りを終えた。
「お姉様は流尾ちゃんの楽譜で必死にピアノを覚えたんですのよね?」
「うん、流尾の演奏を忘れないためにね。完全に再現するのは無理だけど、演奏の雰囲気はそうしないと覚えてられないから。ほら、アタシ馬鹿だし」
あはは…と笑うアルマ。
「ま、流尾に言われたヒーローって言葉は馬鹿なアタシでも覚えていられたけど。まあだからアタシは…困っている人の為に盗みをする怪盗の夢を諦めきれなくなったんだよなー」
「アルマさん!」
突然アルマの手を取るライブ。
「アルマさん…頑張ろうね。流尾さんに恥じないくらい…」
手を握られているアルマは少し驚いたが、ライブの言葉に頷く。
「まあライブさんとそよぎさんのおかげで今、こうして怪盗仕事やってられるし…頑張るにゃ」
ライブはうんうんと頷く。
その夜。
そよぎの提案でトラック業者を使ってまでそよぎ邸の地下室に運ばれたピアノの音色がそよぎ邸に響いた。