救えない物書きのお話
興味を持っていただきありがとうございます。
最後までお付き合いいただければ幸いです。
「結局のところ、僕には才能がないんだよ」
唐突に口を開いた僕に、彼女は目をぱちくりさせた。
「どうしたの、急に」
小洒落たカフェの一席、その机には薄っぺらいノートパソコンが一台置かれている。
それを挟んでこちらを見つめ、彼女は小首を傾げながらそう問い掛けてきた。
「急に思ったんだからしょうがないだろう」
大部分が白い画面に目を落としながら、僕はぼそりとそう返す。
「そっか。それはそうだね」
彼女はくすりと笑って、ぽつりと返事を寄越した。
その笑みが何だか僕を見透かしたようなものに見えて、むっつりと顔をしかめる。
「……面白くない。何度書いても気に入らない。頭の中に話は浮かんでも、それを他人に上手に伝えられない。それは、才能がないという話だろう」
「そうかもね」
吐き捨てる、と言うには余りに弱々しく愚痴を並べる僕を、彼女は先程と変わらない笑顔と気軽さで片付けた。
なんとも慣れた様子で腹立たしく、しかし同時に毒気を抜かれる。
「でも、私は好きだよ?」
そのうえ、そんなことをさらりと言うのだから敵わない。
「……ファンがこんなの一人きりだなんて、救えない話だな」
「あっ、ひどーい」
照れ隠しの台詞を吐くと、彼女は頬を膨らませながら机をぱたぱたと叩いた。
なんとも行儀が悪く、子供じみた行動だ。それが可愛らしいと思ってしまうのは、これまたしょうがないことだった。
「……嘘だよ、ありがとう」
緩む頬のまま、僕はするりと言葉を発した。
彼女の頬がさっと朱に染まり、それもまた可愛らしい。
「よし。もうひと頑張りしようか」
そう言ってキーボードに指を添えた僕に、彼女はまだ赤い顔のまま「うん。頑張って」と優しい声を掛けてくれる。
その声に押されるように、僕の指は言葉を紡ぎ始めた。
*************
僕は、しがない物書きだ。いや、それは正確な表現ではない。
正しくは、物書きのようなことをしている、どこにでも居る平凡な会社員だ。
具体的に言うと、それなりの企業に勤めながら、空いた時間で「小説家になろう」というサイトに気ままに投稿をしている。
歳は二十七。言い逃れようもない立派な「アラサー」でありながら、未だに自分が子供のような気がしてならない。
自分が小さい頃に見た二十七歳たちは、もっと立派な大人に見えていたものだが。
夢に向かって邁進するでもなく、家庭を持って仕事に打ち込むでもなく。
仕事を叱られない程度にこなしながら、趣味と夢との狭間のような領域で、小説らしきものを書いている。
中途半端。未練たらしい。なるほどそれも正しかろうが、「子供」という言葉が一番しっくり来た。
結局僕は、未だに子供のように夢見ているだけなのだ。
夢を見るだけ。具体的なプランもなく、目標もなく、ただ漫然と遠くの楽しそうな光景を想像してみているだけ。
そこには責任や信念といった、明確なモチベーションがなかった。
そんなことだから、行き詰まることはしょっちゅうだった。
続きが浮かんでこない。良い表現が思い付かない。格好良い台詞回しが考えられない。
そのたびに落ち込み、焦り、狼狽える。そうして、筆が止まる。まるまる一週間何も書けないなんてこともざらだ。
そんな僕が、こうして細々と、それでも書くことを辞めていないのは、ひとえに彼女のお蔭だろう。
「面白くって、びっくりした」
僕がこのしようもない秘密を打ち明けた時、彼女はそう言った。
あっという間に僕の書いた拙い話を読み切り、開口一番に。
その時の僕の喜びようといったら、傍から見たら可笑しくて仕方なかっただろう。
頬はだらしなく緩み、目尻が垂れ下がり、しかし爛々と目を輝かせながら、面と向かって座る女性に、早口に埒もないことを語り続けていたのだから。
しかしそんな僕を、彼女は優しく見守りながら、しきりに頷いてくれた。
僕はその時まで知らなかった。自分の物語を褒められることが、こんなにも嬉しいことだなんて。
たぶん、僕はそれを実際に口に出したんだろう。
「じゃあ、私がファン一号だね」
はにかんだ彼女の顔がきらきらと眩しくて、僕は直視できなかった。
*************
それから彼女は、僕が小説を書く度に、欠かさず読んでくれた。
どころか、しばらくすると「書いてる姿が見てみたい」なんてことまで言い出した。
僕は「つまらないから、やめておけ」と言ったのだが、彼女があんまりにもしつこいので、つい行きつけのカフェを教えてしまったのである。
以来、時折彼女はふらっと現れると、コーヒーを頼んで勝手に僕の前に座り込む。
僕はほとんど、何もしない。彼女がやって来た時に、「やあ」と声を掛けるくらいである。
彼女もほとんど、何もしない。「やあ」と返事をした後は、コーヒーをすすりながら、ノートパソコン越しにぼんやり僕を眺めるのである。
猫舌なのか、彼女はコーヒーを飲むとき、ずるると音を立てる。行儀が悪いことではるが、僕はその音がなんとなく好きだった。
その音を聞きながら、僕はキーボードを叩く。時折滞りながらも、かたかたと音を立てて。
かたかた、ずるる。かたかた、ずるる。
無言の会話のような、何か通じ合っているような、そんな錯覚に陥る。
その感覚がなんとも心地よく、僕は目を細めながらその時を楽しむのである。
平日は二時間。休日は、場所を変えながら六時間ほど。
「終わったよ」
ノートパソコンを畳んだ僕が声を掛けると、彼女はぴくりと目を開けた。
流石に、二時間も何もしなければ眠くもなる。僕が一通り書き終えるころには、彼女は大概うたた寝をしていた。
その寝顔が「退屈そう」でなく「心地よさそう」に見えるのは、僕の都合良い色眼鏡なのだろうか。
「ん、お疲れさま」
大きく伸びをしながら、彼女がそう言う。
「よだれがついてるよ」
「うそっ!?」
顔を赤くしながらおしぼりに手を伸ばす彼女に、「嘘だよ」と言って笑う。
「もう!」
彼女は僕に向かって手にしたおしぼりを投げ、むくれた顔をする。
「ごめんごめん。じゃあ、帰ろうか」
さっとキャッチしたおしぼりを手早く畳みながら、僕はそう言って立ち上がった。
「あ、待ってよ」と言いながら、彼女も帰り支度を始める。
「お会計、九百円になります」
店員のハキハキとした声に、僕は千円札を一枚渡す。
コーヒー一杯四百五十円、二人分で九百円だ。
「いやぁ、いつもすまないねぇ」
「いえいえ」
おどけてそう言う彼女に、僕もまたおどけて返す。
「別に、自分の分くらい払うのに」
そう言う彼女に、僕は店員から釣りを受け取りながら目線を送る。
だが、僕はふるふると首を横に振った。
「こう見えて、ちゃんと社会人だからね。これくらいは払うとも」
金額にして、たったの数百円。それは、僕の小さな見栄っぱりだった。
まるで、そこは子供じゃないぞ、と主張するような。
「ごちそうさま」
そんな僕を見て、彼女は苦笑しながらそう言うのだった。
*************
「やっぱり、僕には才能がないんだよ」
二人で過ごす時間が当たり前になり、僕はよくそんな弱音を吐くようになった。
才能がない。誰にも必要とされてない。もう書けない。そんなありきたりで、詮の無い戯れ言を。
「そうかもね」
彼女は決まって、そう答えた。決して否定はせず、しかし肯定もせず。
「でも、私は好きだよ」
それは、彼女が言える最大限の優しい言葉だったのだろう。
嘘ではない。そして、根拠の無い慰めでもない。ただの事実で、けれど僕がこの上なく励まされる一言。
単純な僕は、そのたった一言に励まされ、騙されて、今日もぬけぬけと小説を書く。
懲りもせず。飽きもせず。
だが――それは彼女に甘えているだけだと、甘やかされているだけだと。
この時の僕は気が付いていなかったのだ。
*************
『面白くない。奇を衒っただけの出オチ設定。脈絡のない展開。どこかで見たようなテンプレートな、型落ち二番煎じのキャラクター。丁寧な文章ではあるが、それだけ。文章にも面白みがなく、これでは小説として書く意味がない』
――ほんの、出来心だった。
最近は調子が良かった。文章に詰まることが少なかったし、彼女も楽しそうに読んでくれていた。閲覧数も少し伸びていたし、「面白かった!」という感想すらあった。
だから、勘違いしてしまったのだ。
もしかして、自分にも何かをできるんじゃないか、と。
もっと面白い話を書きたい。実力を上げて、人気を得て、それで――。
そんな浮ついた気持ちで利用したのは、批評サイト。依頼をすれば、感想欄に真剣な批評を書いてくれるというサイトだ。
そこは辛口だということで有名だったが、どうせやるならと軽い気持ちで依頼を掛けたのだ。
結果、僕の小説の感想欄には、そんな調子の長文が書き連ねられていた。
よく読めば、肯定的なことも書いてくれていた。しっかりとした批評で、具体的にどこが悪いのかも指摘してくれていた。
後から考えれば、内容は厳しくとも、良い批評だったと思う。
だが、ちっぽけなプライドを打ち砕かれた僕は、ただただ怒り狂った。
――違う。こんなもんじゃない。コイツは分かっちゃいない。僕の実力はこんなもんじゃない。認めてたまるか。負けてたまるか。
そんなちゃちな怒りのまま、僕はただ書き殴った。
家に籠もり、まるで駄々を捏ねるように、ひたすらにパソコンに向かった。
義務的に仕事に行く以外は、それこそ寝食を忘れる勢いで。
そうして、書いて、書いて、書き続けて、書き尽くして――気が付いてしまった。
気が付いて、しまったのだ。
*************
その日、僕は久しぶりに、いつものカフェへと足を運んだ。
店に入って中を見渡すと、そこには彼女が座っていた。いつも僕が座っていた席で、一人でコーヒーをすすりながら。
僕が入ってきたのを見て、彼女は驚いた表情で固まっていた。
「……やあ」
いつも通りを装った挨拶をしながら、僕は勝手に彼女の前に座った。彼女は返事を寄越さず、僕からそっと目を逸らす。
「その……ごめん」
そんな彼女の様子を見て、僕は思わずそう言った。そんなことを、言いに来たはずではないのに。
「……心配した」
「読んだよ」、と彼女は言った。それは言わずもがな、あの批評のことだろう。
「私、落ち込んでるんじゃないかと思って……ずっと待ってたんだよ? 連絡も入れたのに、全然返事くれないし。でも既読は付いてたから、会いにも行き辛かったし……」
「……ごめん」
僕は、もう一度繰り返した。だって、それ以外に何が言えるだろう。
「きっと、すごく辛かったよね。私は小説なんて書いたことないし、何にも分かんないけど……」
「でも、」と彼女は顔を上げた。
「辛い時こそ、一緒に居たかった。傍に居て、少しでも助けになりたかった」
彼女の瞳は真っ直ぐに僕を向いていて、それは僕の目から脳へと入り込み、どこにあるか分からない心を抉った。
もちろん、彼女にそんなつもりがないのは百も承知だ。だが、僕にはそれくらい、彼女の真っ直ぐな感情が辛かった。
何故なら――
「ごめん。……でも、気が付いたんだ。……思い知ったんだ」
「何を?」と訊ねる彼女に、僕は震える息を飲み込んで答えた。
余りにも身勝手で、残酷で、錆びた刀のような鈍な答を。
「――君は、僕の助けにはならない」
彼女が、引き裂かれたような表情を浮かべた。
僕の拵えた鈍に、じりじりと傷付けられたように。
「それは――私のことを、嫌いになったってこと?」
彼女の言葉が、声が、唇が震える。
唐突に告げられた非情な言葉に、彼女は完全に打ちひしがれているようだった。
「いや、それは違う。……ごめん、今のは言い方が悪かった」
物書きなんて名乗っておきながら、言葉選びも満足にできない自分を呪う。
人に何かを伝えるというのは、どうしてこうも難しいのだろうか。
「じゃあ、どういうこと?」と彼女に訊ねられ、僕は自分の考えをたどたどしく口にした。
「あの批評を見て、僕は悔しかった。悔しくて悔しくて悔しくて、悔しくて死にそうで。それで――」
「それで?」と促されるまま、僕は語る。
「それで、小説を書いたんだ。きっと、生まれて初めて、本気で小説を書いた」
そう、本気で。全力で。負けてたまるかと、歯を食いしばりながら。
小説を書くという行為は、自分の中の深い場所に潜っていく行為だと僕は思う。
自分の中に潜り込んで、真っ暗い中を手探りで這いずり回り、自分の語りたい言葉を拾い集める――そんな行為。
もちろん、外的な要因はある。何かを見て着想を得ることもある。何かを書くためにそれについて調べることもある。
しかし、文章を書くという段に当たった時、出てくるのは自分の中にしっかりと落とし込まれた言葉だけだ。
そうして、気が付いた。
「――結局は、自分がやるしかないんだって」
書くのは、動くのは、決めるのは、自分だ。他の誰でもなく、自分でしかないのだ。
「もちろん、君には今まで助けてもらってきた。励ましてもらって、甘えさせてもらった」
行き詰った時、辛い時、やる気が起きない時。
彼女の言葉が、彼女の笑顔が、彼女の優しさが、僕を勇気付けた。それは動かない事実だ。
でも――
「結局、優しさっていうのはドーピングみたいなものなんだよ。麻薬、と言ってしまってもいいかもしれない」
訳が分からない、という顔で彼女は首を横に振る。
だから僕は、彼女に説明するための言葉を探す。
「優しくされれば、人は頑張れる。元気になるし、やる気も出る。でもそれは一時的なもので、いつか必ず、効力が切れる」
優しさを糧に頑張って、踏ん張って、努力して。
しかし一人でいると、いつしかそれが消えていることに気が付くのだ。
「そうすると、自分が寂しいってことに気が付くんだよ。そして、優しさが欲しくなる。欲しくて欲しくて、堪らなくなる」
今まで満たされていた分、余計に辛くなる。耐えられなくなる。
「人間ってのは欲張りな生き物だからね」、と僕は乾いた笑みを浮かべた。
「行きつく先は転倒さ。頑張り続けるために優しくしてもらっていたのに、いつしか、優しくされるために頑張るようになる」
本末転倒。主客転倒。目的と手段が、あべこべに転倒してしまうのだ。
そうなってしまってからでは手遅れで、今のうちに気が付けた僕は、きっと幸運だったのだ。
だって、そうでも思わないと、やってられない。こんな――
「だから――今日は、お願いに来たんだ」
「……お願い?」
しばらく黙って僕の話を聞いていた彼女は、消え入りそうな声でそう呟いた。
咄嗟に言葉が出ず、僕は頷いて言葉が帰ってくるまでの時間を稼いだ。
そして、痛みだとか苦しみだとか、そういう要らないものを引き連れて僕の奥から帰ってきた言葉を、僕は口から追い出した。
「――もう、僕に優しくしないでほしい」
――こんな、痛みを味わうなんて。
こんな痛みを乗り越えないと、人は夢を掴めないものなのか。
涙が零れそうになるのを、僕は必死に堪えた。ここで涙を流す資格なんて、僕には欠片もありはしないのだから。
さりとて彼女を直視することもできず、僕は項垂れるように目を伏せる。
長い沈黙が続いた。
時が止まったんじゃないかと錯覚するほどに長い間、二人は何の音も立てなかった。
本当に、救えない話だ。
これ程までに辛い思いをして、辛い思いをさせて。そうまでして僕は、小説なんてものを書きたかったのか。
今となっては分からない。そしてもう、考える意味も無い。吐いた言葉は、二度と飲み込めないから。
やがて沈黙を破ったのは、ずるる、という音だった。
顔を上げればそれはコーヒーをすする音ではなく、彼女が鼻をすすった音だった。
「……本当に、私じゃ君を助けられないのかな?」
きっと彼女は今、懸命に涙を堪えている。だって、彼女は優しいから。
さっきの音は、そんな彼女がつい漏らした本音だった。だが僕は、それを聞かなかったふりをして。
「人は人を、救えないんだよ」
そう言って、このお話を終わらせた。
僕の耳に、本をパタンと畳む音が聞こえた気がした。
「そうかもね」
彼女はいつもと同じ言葉を置いて、席を立った。
その顔を見るのが怖くて、僕は目を瞑って彼女の足音だけを聴く。
その静かな音を最後に、彼女は店を出て行った。
「あ――」
そこでようやく目を開けて、僕は気が付く。
机の上に光る、一枚の大きな硬貨の存在に。
それは彼女が置いて行った、一枚きりの五百円玉だった。優しく律儀な、彼女らしいことだ。
だが――僕は困ってしまう。
「五十円、どう返せばいいんだよ――」
僕は硬貨を手に取って、触れて、握りしめて。
困ってしまって、顔をくしゃくしゃに歪めた。
困ってしまって涙を流すのは、仕方のない事だろう。
頬を伝った雫に、僕は一人言い訳をした。
****************
それから僕は、更に小説にのめり込んだ。
憑りつかれたように書き続け、書いて書いて書きまくった。
そうして二か月ほどが経って、僕は一本の話を書き上げていた。あの批評から書き続けた熱が、全て籠った原稿だ。
この話は、「小説家になろう」には投稿していなかった。かと言って世に出さないという訳ではなく、小説賞に応募しようと思ったのだ。
何故かと言えば、逃げ場を無くしたかったから。
小説賞の批評は、ある意味でプロの批評だ。給与と引き換えに責任を背負った編集者たちが、真剣に仕事として読んでくれる。
そこで受けた評価は、言い逃れようのないもののはずだ。
「――怖いなぁ」
口に出してみて、それは避けようのない感情だと理解する。
当たり前だ。あれだけの覚悟をして、大切な物を手放して、ようやく書き上げた小説なのだ。
それが酷評されてしまったら、今度こそ僕は駄目かもしれない。
何もかもを諦めて、失意のうちに自殺するまである。
しかし同時に、楽しみでもあるのだ。
これからの展望が、僕には少し見えるようになった気がしている。
そして何より、もう一つ見つけた感情があった。
「やっぱり――小説が好きだ」
本気で書いた。全力で悩み、真剣に考え、懸命に書いた。
だからこそ、分かった。僕がどうしようもなく、小説というものに魅せられているということに。
――この感情があれば、僕は生きていける。
カシャンと景気良く鳴ったポストの投函口に、僕は微笑みを向けた。
****************
それから更に二か月ほどが経った、ある日のこと。
僕はいつも通りに、いつものカフェでノートパソコンに向かう。軽快にキーボードを叩き、時々コーヒーを口にする。
あれから、彼女は一度も現れていない。
そのことにも、もう慣れた。それが時間のお蔭なのか、それとも小説のお蔭なのかは分からないけれど。
ともかく、僕は今日も小説を書く。
「――やあ」
――はずだった。
聞き慣れた、しかしあり得ないはずの声を聞き、僕はびくりと顔を上げた。
「久しぶり、だね」
彼女の声は穏やかで、顔にはいつもの笑顔が浮かんでいた。
戸惑う僕は言葉が出ず、ただ口をパクパクさせて彼女を見つめる。
そんな僕をくすりと笑い、彼女は何事も無かったかのように、勝手に僕の前に座り、コーヒーを注文した。
「……どうして」
ようやく口にできたのは、たったそれだけだった。
「一つは、『おめでとう』を言いに、かな」
彼女は悪戯っぽく微笑むと、僕に向かってスマホを突き出した。
「びっくりしちゃった。本当に名前が載ってるんだもん」
そこに映し出されていたのは、とある小説賞の結果発表のサイトだった。
言わずもがな、僕が投稿した小説賞だ。
「すごいね。頑張ったんだね。本当におめでとう」
「別に……まだ一次選考に通っただけだよ」
まるで自分のことのように嬉しそうに祝福の言葉を投げる彼女に、僕は気まずそうな顔をしてそう答える。本当は彼女に祝ってもらえて、飛び上がりたいほど嬉しいくせに。
「ほほう、一次で止まる気はないと。強気ですな」
彼女が茶化すようにこちらを覗き込んできて、僕は緩みかけた頬を誤魔化すためにコーヒーをすすった。
タイミングよく彼女にもコーヒーが運ばれてきて、ずるる、という音と共に一息ついた。
「……それで?」
「ん? ああ、うん。もう一つはね」
僕が訊ねると、彼女はコーヒーカップを置いて話し始めた。
彼女がここに来た、もう一つの理由とやらを。
「君の間違いを、正しておこうと思って」
「僕の、間違い……?」
訊き返す僕に、彼女は大きく頷いた。
「『人は人を救えない』って、君は言ったよね」
「それは……」
直截にそう言われ、僕は言葉に詰まった。
もちろん、その考えは今も変わらない。安易に変えてはいけないとも思う。
「でも、それは間違いなのです!」
さらに直球で放たれた言葉に、僕は目を白黒させた。
彼女の様子は自信満々で、一体どういうことかと頭を捻る。
「もちろん、とっても難しいことなのは分かってるよ。でも、一つだけ方法がある」
「――方法?」
僕が続きを促すと、彼女は大きく頷いた。
「君は言ったよね。優しさっていうのは、いつかは効力が切れちゃうものだ、って」
そう問われ、今度は僕が頷くしかない。
確かに言ったし、今でもそう思っている。優しさで頑張れるのは、あくまで一時的なものだと。
その瞬間は助けられたとしても、それは根本的な救いにはならない。
「確かにそうだなって、私も思ったの。でも、だったらさ――」
言いつつ、彼女は何やら持っていた鞄をゴソゴソと漁り始めた。
一体何を始めるつもりか、と思っていたら――
「だったら、定期的に与えてあげればいいのです!」
鞄から取り出した一枚の紙を僕に突き付けて、彼女は渾身のドヤ顔でそう言った。
面食らいながらも、勢いに負けて僕はその紙を手に取る。
「いや、定期的にって……」
大きめの紙は綺麗に折りたたまれていて、僕はそれを広げながら言い返す。
無くなるならその都度補充なんて、そんな小学生の屁理屈みたいな。それがどれだけ難しいことが、分かっているのだろうか。
大体――
「それって、一生――」
「続けるつもり?」と聞こうとして、僕は言葉に詰まった。いや、どころか息が止まった。
紙を開ききった僕の目に、その文面が目に入ったから。
四角い枠が連なって、その中に印刷された細かい文字が書いてあって。
そして大きく、彼女の名前が書いてあったのだ。
「そう、一生!」
彼女は底抜けに明るい笑顔で、そう言い切った。
その手にはペンが握られていて、僕に向かってそれは突き出されていた。
「…………ねぇ」
しばらく呆気に取られていた僕は、何とか口を動かすとぽそりと呟いた。
目を瞬いて続きを促す彼女に、僕は丁寧に言葉を紡ぐ。
「こんな、この歳になって、小説家になろうなんて夢見ちゃってる、かなり痛いアラサー男をさ」
「そこまで言うか」
彼女は呆れ声でそう言うが、僕としてはこれでもまだ甘い。適当に仕事をしている駄目男とか、付け加えればキリが無かろう。
「こんな僕を――一生、面倒見るつもり?」
手にした紙を、彼女が差し出すペンを、僕は怖い物でも見る目つきで見つめた。
「そんなこと言ったら私だって、そんな駄目男に入れあげてる、見る目ゼロの駄目女だよ?」
「そこまで言うか」
彼女も大概、容赦がない。
しかし彼女は、「駄目男でも、駄目女でもいいよ」と言を翻す。
「頑張って夢を追いかけるって、素敵なことだと思うから」
そして口にしたのは、そんなありきたりな台詞だった。
ありきたりで、しかしどうしようもなく甘美な台詞。
「……追いかけてたって、叶うかどうか分からない。途中で挫折して、道を見失って、どうしようもない底なしの沼に沈んでしまうかもしれない」
「それでも、いいの?」と、僕は最後の抵抗をした。
彼女の甘さにとろとろに溶かされた、柔すぎる抵抗を。
すると彼女は一口、ずるる、とコーヒーをすすって。
「その時は、一緒に沈もう」
子供みたいに無邪気な笑顔で、そう言ってのけた。
――ああ、やっぱり敵わない。
いや、きっと僕に、始めから勝ち目などなかったのだ。あの日、彼女が僕のファン一号と豪語した、その瞬間から。
それはなんとも――
「救えない話、だな」
僕はゆるりと笑って、彼女のペンを受け取った。
危うくペンネームを書きかけたことは、一生秘密にしておこうと思う。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。よろしければ感想いただけると嬉しいです。
最後にもう一度言っておきますが、作者にこんな素敵な彼女は居ません(血涙)
そして以下、全てを台無しにする蛇足。
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「はい、書いたよ」
僕は彼女にペンを返し、ノートパソコンを畳むとその上に紙を置いた。
「ありがとう」
二人分の名前が書かれた紙を、彼女は幸せそうに見つめる。
その文面に目を通し、僕もまた満足げに頷く。
「それでこれは、いつ?」
僕がそう訊ねると、
「入金が確認できればすぐに」
と彼女は答えた。
僕は「そっか」と一人ごちると、居住まいを正して彼女に向き合った。
「それじゃあこれから、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げると、彼女も「こちらこそ、よろしくお願いします」と頭を下げた。
何とも言えない空気が流れ、二人して照れくさそうにはにかむ。
「これからは、いろんな挑戦ができるね」
不意に彼女がそう言ったので、僕は改めてその文面に目を落とす。
一番上に、目立つように印刷された文字は――
「先立つもの、とはよく言ったものだね」
――『契 約 書』。
お金は大事。保険に入っておけば、万が一があっても安心だ。
保険が、あなたを強くする。しかも――
「一生涯、続きますから」
彼女は、得意気にそう言った。
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えっと、あくまで蛇足なので、本文とは関係ない落書きですすいません。真面目な話を書いた反動で無理矢理なオチを書きましたすいません。
もう一度言いますが、本文とは切り離してお考え下さいすいません。(でも、笑ってもらえたら嬉しいです)
今度こそ終わりです。最後までお付き合い、ありがとうございました。