第十六話 旧友の訪れと、追憶(Ⅲ)~紡がれた糸
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「なるほどね……。お父さんは生まれてすぐに失踪、お母さんはあんたが5歳のとき癌で。
それからは一人だけであの物騒な街の路地裏で。さぞかし……大変だったろうねえ……」
ラベンダー畑に囲まれた穏やかな園に建つ、ルルーアンティア孤児院。
その最奥の執務室で孤児院の院長、尼僧ラーニア・ギメルは机を介してトリスタンに相対していた。
後ろの方でソファに縮こまるのは、ナユタとエティエンヌ。
当然のようにラーニアに落雷のごとく激怒された二人だったが、今彼女らの関心はナユタの説得で連れ帰った男児、トリスタンに注がれていた。
ラーニアの見た目は、小柄な中年女性のそれでしかないが――。聖母の慈悲の外側に、それゆえの厳しさと迫力を発散している。彼女の面接を受ける子供は、少なからず居住まいを正し、緊張するものだ。
しかしトリスタンは、年齢にそぐわない不敵さと横柄さをあらわに、冷笑さえ浮かべた視線でラーニアを見返していた。椅子の背もたれに腕をかけてふんぞり返り、脚を組んで半身になってこれ以上ない態度の悪さを見せていた。
「あー、たいへんだったぜ? なにせ、あのタチの悪いグループのやつらや、大人のギャングどもだってあいてにしなきゃならないんだからな。でもおれは生きうまの目をぬくように生きのこってきた。うまくやってきたのさ。
そこのナユタってやつが、どうしてもっていうから付いてきてやったけど――。
なんなんだい、ここは。おれにいわせりゃぬるま湯だ。どいつもこいつもおめでたいボケた奴ばっかり。背なかがむずがゆくなってくらあ。
こんなとこより、ダネインにもどっておれの夢であるあのまちのトップをめざす方が、よっぽどしょうに合ってるけどなあ」
大声で、挑発的な口調でまくしたてるトリスタン。さすがに、治安の悪い雑踏でただ一人生き抜いてきただけのことはある。使う言葉も話す内容も、とてもではないが8歳児のそれではない。
野性的な見た目と行動力、何でも知っている博識。ナユタはひと目でそれに魅せられ、自分の元に連れ帰りたくなり説得したのだ。ここへたどり着く間も、見たこともない虫を採ったり花について教えてくれたりした。同年代の子供とは思えない様子に、ナユタは益々魅せられエティエンヌは難しい表情になっていったのだ。
ラーニアは、じっと10秒ほど、無言無表情でトリスタンの目を正面から見つめ続けた。トリスタンもまた、一切物怖じすることなくそれを見つめ返す。
そしてややあって、ラーニアは口を開いた。
「……いいや、あんたは、ウチに入るべき子だよ、トリスタン。あたしの長年の勘が、そう云っている。
たしかにあんたは、平和と無縁の場所で生き抜いた。虫だろうと喰らい、人を騙し物を盗み、もしかしたら殺しすらしたのかもしれないね。どこでも生きていけるのは本当なんだろう。
けどそれはねえ……あんたの真実の姿じゃない」
「へえ、なんで、そう思うんだよ?」
「あんた……何かつらいことがあると、首を強くかくクセがあるだろ?」
トリスタンは――。ここへ来て初めて、動揺したような表情となり、片手で自分の首を押さえた。
そこには、ラーニアが云うとおりに古傷から生傷まで無数の細かいひっかき傷が、びっしりとついていた。
「その傷の数が、あんたが苦しんできた証。そしてそれを耐えてこれたのは――。あんたのお母さんに対する思いがあるからさ」
「……ち…………ちがう……」
「あたしはね、あんたみたいな子も沢山見てきたからわかる。たぶん、お母さんはあのひどい場所で苦労してあんたを育てながらも、とっても愛情を注いでくれたんだろうね。
そして亡くなるときに、あんたに遺言を残したんじゃないか? 『自分がいなくなっても、強く生きて、つらいことがあってもいつも笑顔でいて、自分は天国から見守っているから』と。こいつは外れてたら謝るけどね」
「…………」
もはやトリスタンは貌を歪めて下を向き、両眼を潤ませていた。椅子に座る身体は力なく萎縮し、身体は震えている。その様子が――証明していた。ラーニアが話す内容が概ね的を射た真実であることを。
「あんたは、本当はお母さん思いの心の強い、とても優しい子なんだ。あんなひどい街でギャングになんかなるんじゃなく、ここで真っ当な光のあたる世界の人間になる。それがふさわしいとあたしは強く強く、思うんだよ」
「ううう……うええ……えええ……ええええ……」
トリスタンは堰をきったように泣き出していた。
そしてそれを見たナユタとエティエンヌも涙していた。
「……トリスタン……」
彼女らはトリスタンと違い、母親の貌どころかそれが誰かすら知らない身だ。だが辛さは同じ。トリスタンの辛い身の上と悲しみに思いを馳せずにはいられなかったのだ。
「すまないね……。ダネインの首長は、昔あたしが世話してやった奴で懇意で――働きかけちゃいるんだがすぐには街も良くならない。あんたみたいな子が沢山いるのは知りつつも、自分の無力を呪ってたんだよ。
今回はせっかくの縁。身勝手だけどせめて、あんた一人だけでも救ってやりたいんだ。ウチに来てくれるかい、トリスタン?」
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こうして、トリスタン・リュードネードはルルーアンティア孤児院の一員となった。
野良猫と飼い猫の差のごとく、過酷な生活で鍛えられた強いトリスタンはたちまち孤児院のカリスマとなり、卓越した能力と牽引力でヒーロー的存在となった。
遊ぶのも、院の手伝いをするのも、遠出をするのも――。何から何までトリスタンがリードし指示を与え、皆が喜んでそれについていった。ラーニアもそんなトリスタンを信頼し、様々なことを任せた。院内はそれまでと段違いに活気づき、皆が笑顔になり、幸福になった。
それだけパワフルで、ともすれば粗野で横暴とも見られかねない存在ではあるが――。トリスタンの不幸な過去、亡き母への思いと優しさを知るナユタとエティエンヌは、それ以来心からの友人として接した。トリスタンも、孤児院の中でも1,2を争うほど優秀な二人を認め、特に親しい友人として接した。3人はいつも一緒に行動し、それを率いるのは常にトリスタンだった。
そうして年月がたち、15歳の少年に成長した彼ら。
すでに思春期を迎えるころには、3人の中に当然のごとくに複雑な関係性が生まれていたのだった。
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ラベンダー畑の向こうにある小高い丘。ランダメリアの全景が見通せるそこは、孤児院の子供たちの憩いの場となっていた。その中腹に、佇む少女が一人。
ナユタだ。彼女は、そこで何かに集中していた。
魔力を、収束させているのだ。
己の中に集約される、裡なる力。それを開放に導こうとする。
イメージを浮かべ、脳内の神経を一つずつ、通過させていく。
酸素。それに起こされる化学反応。燃焼という猛烈なエネルギーに姿を変えさせ、渦をまく巨大な槍、“火槍”に脳内像を変化させる。膨大な魔力を高効率で変換させる高度な技術に加え、より殺傷力の高い攻撃的形態をもって出力させる、凄まじい技量。一個小隊の軍を壊滅させることも可能であろう。天才にしかなしえない業をもって、まさに中空に向かって力を開放しようとした、その瞬間――。
「――ナユタ。ここにいたのか。何してるんだ?」
事前に誰も来そうにないのを確認していたにも関わらず、背後からかけられた声。ナユタは心臓が胸から飛び出そうなほどに仰天し、即座に魔導を引っ込めた。
「ト、トトトト、トリスタン!!?? ななななな、何でもないよ! ちょ、ちょっと一人で考え事をしたくて――」
異常に慌てふためいて振り向いたナユタの前で、1m径ほどのささやかな炎の輪が展開される。
――今自分が放とうとした魔導の10分の1にも満たない「弱さ」の、“火輪”だ。
「……どうだ? また強力になったろう、俺の魔導は?」
気障な物言いの、低い声とともに――現れたトリスタンは、有無を云わさずナユタの唇を、奪った。
「――ん! ……んん…………んんん……」
トリスタンとナユタ。二人の恋人同士はそのまま丘の芝の上に寝転びながら抱き合い、キスを交わし続けた。
ナユタの前にも、年上の女性などと数え切れぬ経験を重ねてきたトリスタンのリードは巧みで、ナユタの表情は恍惚とした愉悦に満ちていた。ナユタは名残惜しそうに唇を放し、潤んだ瞳でトリスタンを見る。そして同じく潤んだ唇から、吐息混じりに言葉を発した。
「うふ……。トリスタン……大好きよ……。トリスタン……。
あんたに会えて……あたし本当に、幸せ者……。ずっと……ずっと一緒よ……あたしたち」
気持ちが昂ぶっているのか、トリスタンも貌を紅潮させ、目を潤ませてナユタを見つめ返した。
トリスタンは子供時代の特徴はそのまま、大人びた美男子に育っていた。
エティエンヌほどまでは整っていないが男らしい貌だちであり、短く刈った黒髪が似合っていた。小麦色近くにまで焼けた肌の下は引き締まった筋肉で覆われており、同世代の少年としては長身の175cm超の体格を誇った。大人の女性に近い身体に成長したナユタも、すっぽりと抱きしめられる深い懐が彼女は好きだった。
身につけた黒のシャツと綿のジャケット、白いスリムなズボンも極めてセンスがよく、まさに非の打ち所のない男性であった。
「ナユタ……いつも可愛いこと、云ってくれるよなあ。俺も、愛してるぜ……。
いずれここを出たら……結婚しよう。俺の、夢の実現。その第一歩を踏み出したらな」
ナユタは目を見開いた。幾度となく愛の言葉をささやいてくれたトリスタンだが、これまでの中で最も具体性を持った言葉であったからだ。
「嬉しい……! すっごく嬉しい! それじゃ、第一歩――正式な魔導士として大導師府を卒業できたら、あたしを迎えにきてくれるってこと……?」
「ああ、そうだ。そして、俺が大陸最強の魔導士になれるようにサポートしてくれ。良い嫁さんとしてな。俺なら必ず、お前を幸せにしてやれるからな」
そう、トリスタンの現在の夢は、皇国の花形である魔導士、その「大陸最強」になることだ。
すでに地元のリネリット魔導学校で2年の間学んでいる彼とナユタ。その中ではトリスタンはトップの成績を誇っていた。1ヶ月後に中退し、魔導士にとっての聖地――「大導師府」の門を叩く腹積もりなのだ。
「もう俺は、魔導学校なんて狭い世界には収まりきらない。一流にふさわしい世界に迎え入れられ、その中で真の才能を開花させるべきなんだ。
見ていろよ……“爆炎の大魔道士”トリスタンの名を、すぐに大陸全土に広めてやる。そして大導師を超え、大陸最強になるんだ。俺になら、それができる。
それが……死んだ母さんの供養にもなると信じているからな」
己に酔いしれた表情の中に哀しみを漂わせ、トリスタンは遠くを見つめて云った。ナユタは微笑んで彼の胸に貌をうずめたが――。内心、一抹の不安を持っていた。
ナユタから見て、トリスタンの魔導は正直話にならないほどの低レベルであったからだ。
――ナユタはこのとき既に、己の異常なまでの魔力と魔導の才能に気付いてしまっていた。
トリスタンと一緒にいたくて始めた魔導学校に学んで、すぐに。何を教わっても1を10以上にできたし、こっそり行った試技は驚異的な威力を示した。オリジナルの技もたやすく作り出せた。ランダメリアで時折見かける、一流と持て囃される魔導士の技も、自分に問題なくできる児戯にしか見えなかった。とにかく何度も試技をやめられないほど魔導が楽しく、そのたび自分の技量が上がるのを感じた。
トリスタンは、星の数ほどある魔導学校の中で、底辺にあたるリネリットの中でトップであるに過ぎない。そのトップでいられるのも、トリスタンを落ち込ませたり、嫌われたくない一心でナユタが徹底して力を隠しているおかげでしかないのだ。
まず大導師府に受かるのかすら不安があった。だが恋する少女のナユタは、盲目的なほどトリスタンに心酔しきっていた。彼には間違いなく才能がある。今は開花していないだけで、きっと大導師府も見抜いて受け入れてくれる。大導師府に入って鍛錬すればたちまち一流になる。そのときこそ、自分は隠していた事実を打ち明ける。ひいては夫婦として魔導士を目指すことができたら夢のようだと考えていたのだ。
「うん、絶対大丈夫だよ、トリスタンなら……。あたし、信じてる。人生かけて、応援してる。お母さんもきっと、見てくれてるって思う。
あんたをサポートするって約束するから……。受かってね、大導師府に」
「ああ……ありがとう……。お前、本当にいい女だよ、ナユタ……」
そして二人は、互いに昂ぶった身体を、重ねていった。
遠くからそれを見ていたエティエンヌは、苦痛の表情で貌を反らし、孤児院への道を早足に歩いていった。
女性のように美しい貌は歪み、目からは涙がこぼれおちていた。
その足は、ラーニアのもとに向いていた。この辛くてたまらない一方通行の、報われない恋を打ち明け、自分の進むべき道について仰ぐために――。




