幸運とクローバー(三十と一夜の短篇第27回)
学校公開日の帰り道、僕はタウと手を繋ぎながら歩いた。
タウは小学五年生。
この年で父親と手を繋ぐなんて僕には考えられないことだけど、タウは僕に対し未だに全力で甘えてくれるのだ。
もちろん、母親であるトキコに対する甘えっぷりと比べれば全然かなわないけれど。
タウは若草色の半袖に、最近お気に入りのモスグリーンのハーフパンツ。
僕は少し気が早いがTシャツの上にアロハシャツを羽織り、トキコも同じ柄で色違いのブラウス仕立てのものを着ていた。
昨日は肌寒いくらいだったが、今日は少し蒸し暑いのでおかしくはないだろう。
このお揃いのシャツは、数年前の七夕の日にトキコが買って来たものだった。
ライラック色のアロハを差し出された僕が「突然どうしたの?」と訊くと、「記念日のプレゼント」と満面の笑顔で彼女は言った。
きっとその瞬間の僕は「しまった!」という表情だっただろう。彼女に苦笑された。
たまたま、長期間の激務が終わってほっと気が抜けていたから――そんな言い訳が頭に浮かんだが、もちろん彼女もわかっているのだ。
なんとも情けない夫だ、と申し訳なかった。
七月七日は、僕たちが付き合い始めた記念日だ。
本当なら前日の六日が記念日になったかも知れない。短冊に書かれた互いの想いに気付いた日だったから。
だけどその時の僕には「付き合ってください」と言える勇気も勢いもなく、自分の気持ちをひと言も口にせず彼女を見送った。
翌日の七日、トキコに駅まで呼び出された僕は、ハンバーガーショップで改めて告白させられたのだ。
そりゃぁその時の恥ずかしさったらない。だけど彼女は「こういう区切りは大切なものだから」と真剣な顔で僕に訴えた。
それから僕たちは正式に恋人同士になり、結婚して今に至る。
今日はそんな日であり、学校に一緒に向かう機会もあったので、トキコがこのシャツを引っ張り出して来た、ということなのだ。
* * *
僕とタウはお喋りしながら、住宅地の間を縫うくねくね道を進んだ。
授業中の態度を軽くたしなめると、彼は誤魔化し笑いをして「ねぇパパ、そんなことよりさぁ」と話題を変えた。
一昨年くらいまでのタウは、こんな時は慌てて僕に甘え、話を中断させていた。
何故だか彼はずっと、叱られるのは嫌われるのと同じと思い込んでいたらしい。
注意しなければならないのに、必死にすがりつく彼の表情と「パパ、パパ。ぎゅって」とハグをねだる声で、僕は話を続けられなくなってしまう。
そのたびにトキコが「パパはタウのことが嫌いなんじゃないのよ。タウのことが大切だから、お話を聞いて欲しいの」と彼を諭し、落ち着いてからまた再開、ということを繰り返していた。
最近はようやくタウも違いを理解したようで、それと同時に『話を誤魔化す』という、ちょっとした高等技術も使い出した。
しょうがないなと思いつつ、彼の話に相槌を打つ。
「あのね、こないだトシローとハマちゃんと一緒に帰ってた時にね、四葉のクローバーみっけた」
重大な秘密を告白するような表情だった。こういう時の彼の眼はトキコによく似ている。
「へえ。すごいじゃないか。どこ?」
「ん~、あっちの方」
どうやら、どこかの家のポーチ付近にクローバーが生えているらしい。
この辺りは、小さな前庭や玄関ポーチのある住宅が多いのだ。
「確かこの辺だったんだけど」と指し示した先には、クローバーが群生していた。
「この中から探せってか?」と僕は呆れた声を出す。
そこは民家のすぐ脇にある空き地だった。一抱え程のコロニーがいくつも点在している。
タウが四葉を見つけたのは一番手前のコロニーだったらしいが、それにしても大した量だ。
「見つけた時、置いてかれそうになったから走ってさ、ハマちゃんたちに教えたら『なんで教えてくんなかったんだよー』って言われたけど。その時はそのまま帰ったから……どこだったかなぁ」
「摘んでくればよかったのに」
僕が言うと、タウは少し困ったような表情をした。
「……そんなに慌てて走ったのか?」
「そうだけど、そうじゃなくて」
「手が汚れるから?」と、今まで黙って聞いていたトキコが横から問う。
そういえば小さい頃の彼は、手が汚れるのを神経質なほど避けていた。思い返しながら、「そうなのか?」と訊ねる。
「ううん。それは大丈夫。ってか、またここに来たら見れるしって思った」
「あぁ……摘んじゃったら、他の人が見られなくなるものね」
合点がいったというトキコの言葉に対し嬉しそうにうなずくタウ。
その表情に僕は少し驚いた。
タウがそんな考え方を持っていたなんて。
僕なら何も考えずに、すぐさま摘んで持ち帰って母親に見せていただろう。
「まぁ、摘むのを忘れてたってのもあるけどね」
感心しているさなかの彼のひと言で、今度は脱力してしまう。
「なぁんだ。じゃあ今日――」
「えー? ダメだよぅ」
タウは慌てたように首を振る。やっぱり摘まない方がいいと考えたのだろうか。
「そうよぅ。わざわざ摘まなくても――」
トキコはスマートフォンを手に取り、カメラを起動させた。そして、空いている左手をクローバーの中に差し入れる。
「こうやって持って帰れるじゃない?」
「え? もうみっけたの? ママすごい!」
タウが隣にしゃがみ込む。僕もつられて上から覗き込んだ。
「ちょっとぉ、パパ、そこにいたら陰になっちゃう」
「あ、あぁごめん」
慌てて反対側に回り込んで眺めると、彼女の手の中に大きめのクローバーがあった。
一枚だけ他の葉より小さめで、踊るように身をよじらせている。
それが四枚目の葉なのだろうか。
無意識のうちに僕も、カメラを起動させたスマートフォンを手にしていた。
「ママはねぇ、四葉を探すのと、虹を探すのは得意なのよ」
「えーすごい。どうやって探すの?」
「うーん? 見ていたらふっと目に入るから」
「えー? そんなんじゃわかんないよぅ」
タウが口を尖らせる。
「でも、最初に見つけたのはタウでしょ?」
「あ、そっか。オレみっけてた」
母子の笑い声につられるように、笑みがこぼれる。そのまま画面を覗き、タウたちの姿を収めた。
きゅっと小さく丸まった背中と、つやつやした髪にひかりの輪を載せたトキコの後ろ姿。ランドセルを背負って、母親の手元を覗き込むタウ。
「あ、ちょっとぉ、今あたし背中出ていなかった?」
シャッター音に気付いたトキコが僕を見上げる。少し怒ったような、恥じらったような表情だ。
僕は相変わらず、彼女のそんな表情にドキドキさせられる。彼女が母親になってから、もう十年以上経つというのに。
「パパぁ?」
タウが不思議そうな表情で立ち上がる。
「あ、うん、大丈夫。出てなかったよ……その、なんかさ、幸せだなぁって」
タウが笑顔で同意する。
「四葉のクローバーって幸せになるんだよね!」
『ママ』ではない一瞬の彼女の表情は、僕だけのアルバムにそっと閉じ込めた。
「さて四葉も撮ったし、お昼どうする?」
「オレねぇ、おそば屋さん行きたいな」
「えーまたぁ? 先月の時もでしょ?」
「でもさぁ……」
月に一度、土曜日に行なわれる学校公開。いわゆる参観日だが、タウはその日の昼食は外食すると決めていた。
贅沢したいのではなく、特別な気分になるのがいいらしい。
「ランドセルを置いたら、今日は駅前の方でハンバーガー食べない?」
「えぇ? オレハンバーガー好きだけどさ、あっち行くの遠いよぉ」
タウは真剣な表情になった。
そこそこ好物の蕎麦と、かなり好物のハンバーガー。脳内の天秤は激しく揺れ動いているに違いない。
「そんなに遠くないよ。十分くらいだし、お散歩しながら行こう?」
でも今日に限って何故だろう。いつもなら彼女の方が遠出を嫌がるのに。
「ママねぇ、オニオンリングが食べたいな」と彼女は僕に目配せをした。
「あ、じゃあオレ、トマト入ってるやつ。パパは?」
「えっと……どうしようか」
どこに行くのか見当がつき、タウの気持ちは決まったようだ。でも僕は昔のことを思い返していたせいで焦ってしまう。普段は気にしないのに。
何故なら、そのバーガーショップの一番奥の席で、僕は彼女に告白したのだ。
「――でね、帰りに駅に寄ろうかなって」
「駅? どっか行くの? お買い物?」
「どこも行かない。駅にだけ。今は駅に大きな笹飾りがあるからさ、それを見に行こうよ」
笹飾り――途端にまた思い出に引き戻される。
「七夕の? オレ知ってる! でも駅なのに?」
「あるのよ大きいのが。でね、短冊にお願いを書いたらそれが叶うの」
「えー? うそだぁ」
「嘘じゃないよ。だってママのお願いは叶ったもん。パパのも。ね?」
「ほんと? パパぁ」
「え、えっと……」
僕はうろたえ、咄嗟にうなずけなかった。
「ほらぁ、パパはないって」
「いやあるよ、ある。うん」
慌てて訂正するが、子どもの前だというのに赤面しそうになる。
トキコは僕の様子を見てニヤニヤしていた。いたずらが成功した時のタウみたいだ。
でも彼女の頬だって少し赤い。
「それから、今日はパパとママの記念日なの。特別な日なのよ」
「え……そうなんだ? なんの記念日?」
「ちょ、ト、ママ――」
「それはねぇ、内緒。というわけで駅前まで歩こうねぇ」
彼女との出逢いは、いくつもの偶然が重なっていた。
あの時短冊を書かなければ、今ここにタウがいなかったかも知れない。
もしも僕が時間を間違わなければ。もしも彼女が、友人の誘いを断っていれば――きっと全然違う『今』になっていた。
こんな風に、幸せは偶然を積み重ねて作られるのだろう。
「参ったなぁ」
いつまで経っても彼女は彼女だ。
親になっても、十年の時が経っても、こんなにも僕をどきどきさせる女性。そんな彼女に巡り合えた僕。
これを幸運という言葉以外で、なんと表せばいいのだろう。
いつまでも彼女は彼女のままでありますように。そしてこの幸せがいつまでも僕のものでありますように――
僕はそう願わずにはいられなかった。
四葉のクローバーの花言葉は『幸運』。
それからもうひとつ、『私のものになって』というものもあるそうです。