5章 お疲れさま、はじめまして
胃の中身が飛び出してしまいそうなほどの浮遊感に襲われたと思ったら、すぐに背中から全身へ激しい衝撃が突き抜けた。ガラスが割れる音と金属の擦れる音が耳元で響いて、一瞬遅れてから人の声がする。
たしか、三階から落下した。たしかに落下したはずだが、意識がはっきりしている。俺はもう幽霊になっていて、幽霊というのが実は普通の人間と変わらないような触覚や聴覚を持っているというのではない限り、アリシアが"死なない"と言っていたのは事実らしい。
頭がぼんやりする。耳鳴りがひどい。
なにかの上に仰向けに横たわっていた身体をゆっくりと起こすと、すぐ近くから悲鳴が聞こえた。
「……い、生きてる?」
「救急車、救急車早く呼んで!」
腕と足の感覚を確かめてみたら、どうやらちゃんと動く。霞む視界で上を見上げると、俺が落ちた三階の窓は、思ったより遠くにあった。あそこにはまだアリシアと店長がいて、死にかけてる警察官がいて、ナイフを持った藤崎がいる。
思ったより痛みがない。というか、アリシアに心臓を貫かれた時もそうだったが、ほとんど痛みを感じなかった。俺は痛みを感じない体質なのかと一瞬思ったけれど、これまでの人生で怪我をした時はちゃんと痛かった。ここらへん、たぶん魔族の何かが関係しているに違いないので、あとでアリシアに確認しなければ。
ともあれ、現時点で痛みを感じていないのは助かる。早いところあの部屋に戻って、藤崎をなんとかしなければ。
「殺す」
ふと、ぼんやりとはっきりしない頭のなかにそんな声が聞こえてきたような気がした。
声というか、意識というか、そんな気持ちのようなものが、頭のどこかに響いてくる。人を殺すだのなんだの、あんまり聞いていて気持ちのいいものじゃない。
頭に響く声の主は、探すまでもなくあの三階の部屋にいる。窓を見上げると、その声はよりはっきりと頭のなかでこだました。
どういうわけかため息が込み上げてきて、それを吐き出すと、口から血が溢れた。ちょっと疲れた。空を飛んだり、ナイフで刺されたり、三階から落ちたり、今日はとことんついてない。もう帰りたいのに、三階は大変なことになっている。
「……行かないと」
立ち上がり、脇腹に刺さったガラスを抜き取る。よく見たら、俺が落ちたのはパトカーの屋根の上らしい。これって弁償しなきゃいけないんだろうか。
「ちょっと、君……」
潰れたパトカーの上に立った俺を見上げて、青い顔をした警察官が声をかけてくる。周りには、さらに数名の人がいた。
「大丈夫なのか?動いたらダメだ、何があった?」
「ああ、いや大丈夫ですよ、なんか大丈夫です」
身体をひねって、首と背中の骨を鳴らす。それだけで、ちょっと楽になった。もう怪我が治りはじめているものだから、自分の身体が恐ろしい。
早く行かないと。こうしている間にも、頭に響く声はどんどん強くなっていく。
俺はこちらを見上げている警察官に目を向けて、三階の窓を指差した。
「あの部屋に、ナイフを持った男が立て籠もってます。警察官がふたり刺されて、早くしないと死んじゃうんです」
「は?いやでも君は……」
「早く救急車を呼んでください」
目指すは三階。俺はパトカーの残骸の上で軽くジャンプして、三階のあの部屋をめがけて走りはじめた。
思ったより早く戻れた。というのも、俺の計算ではパトカーから地面に飛び降りて、再度署内に入ったら三階まで駆け上がり、会議室に戻る予定だったんだが、軽くジャンプしてみたら、そのまま三階まで届いてしまったのだ。
「やめとけ、そいつを離すんだ」
時間が短縮できたのはラッキーだったと素直にそう思うことにして、先程から俺の頭のなかで殺意をばら撒いている声の主の腕に触れる。
「見ろ、生きてるから大丈夫だ。死なねえって言ったのお前だろ」
「あら、早かったのね。大丈夫ですか?」
血だらけの顔を赤黒く膨張させた藤崎を片手で持ち上げていたアリシアが、俺を見るなり満面の笑みを浮かべた。落下する瞬間に見たあの顔とはかなり違う、いつもの笑顔だ。
俺が落ちてからずっと、殺してやる殺してやると藤崎を追い詰めていたくせに、俺が部屋に入ってきたらあっさりと藤崎を床に投げ捨てた。
「まだ生きてるな」
「ええ、まだ足りませんよ」
「殺すな。もうじゅうぶんだろ」
さすがに、人殺しはよくない。藤崎がどれほどの悪人だとしても、アリシアが人間じゃないとしても、人殺しはさせてはいけない。人間の世界にいるなら、殺人はいけないというルールは絶対に守らせないと。
「でも琥珀が普通の人間だったら死んでたんですよ」
「生きてるだろ?」
「そうですけど……」
珍しくアリシアが口ごもる。俺の目の届かないところにいるうちに、よほど怒りを爆発させたんだろう。肩で息をしていた。たぶん、俺があんな目にあったからだが、俺が怪我をさせられるとこんなことになってしまうらしいので、これからはもう少し気をつけなければ。
「俺は生きてたんだ。こいつはちゃんと法律でしばかないとダメだ」
会議室の扉が大きく叩かれる。騒ぎを聞きつけて、誰かが来たんだろう。ちょうどいい。早く鷹宮たちを治療しなければならない。
「もういいよ、今日はもう帰ろうぜ」
関係者だし当事者だから、誰かがこの部屋に入ってきたら、きっとしばらく事情聴取なりなんなりで時間を取られる。それは当然なんだが、今日はもう早く帰りたくなってきた。これ以上何かに付き合う気はない。
「……分かりました」
きっと、俺たちの関わった部分はアリシアがなんとかしてくれるだろう。なんともならなかったとしても、それは後ほどなんとかなる。明日の俺がきっとなんとかしてくれる。早く帰りたい。
妙だ。なんでこんなにやる気がでないんだろう。
「ごめんなさい、琥珀。行きましょう」
アリシアが俺の手を取って窓から空に飛び出した。空を飛ぶのも、今は抵抗がない。
「全速力で頼む」
「ごめんなさい。ちょっと無理させましたね」
「もういいから早く帰ろう。ゴロゴロしたいんだ」
アリシアがやけに大人しい。大人しくてしおらしいと、アリシアは本当にそのへんの人間とはレベルの違う魅力があるように感じる。
たしかに、疲れた。
何もやる気がしないし、アリシアを見て普通に可愛いと思うようになっている気がする。
「だって、可愛いでしょ?」
「ああ、そうだな……」
もうなんでもいい。眠たくなってきた。
アリシアに手を引かれて部屋に入り、電気もつけずにとにかく真っ先にベッドへ倒れこむ。
柔らかい布団の感触が、いつも以上に心地いい。
「琥珀、頑張りましたね」
隣に寝そべったアリシアが、そう声をかけてくる。
「頑張ってねぇよ……」
刺されて落っこちただけ。身体中バキバキだし、倦怠感がひどい。
「ああ、事情聴取とかあるんだよな、どうしよう。めんどくせぇ……」
「なかったことにできますけど」
「それはだめだ……」
さっさと逃げてきたくせにこんなことを言うのはおかしいが、あの場には店長もいたし、目撃者もたくさんいた。なかったことにすると後でもっと面倒なことになる気がする。
「じゃあ、あの場からいなくなったことだけ誤魔化しときますね」
「できんのか?」
「できますとも。あの場でお巡りさんに帰っていいって言われたんですよ。そういうことにしときます」
「助かるわ」
重たい身体を起こし、寝そべったままのアリシアを見下ろす。
「ふふ、かっこいい。力を使うと琥珀はこうなるんですね」
アリシアが俺に手を伸ばし、視界よりも少し上にある何かに触れる。身に覚えはないが、たしかに触られている感触がある。
「気づいてなかったんですか?ふふ、寝て起きたら元に戻ってますよ。あとでコントロールのやり方を練習しましょう」
自分でもアリシアに触れられているところに手を伸ばしてみる。
たぶん、これは角だ。
色々ありすぎて、俺のなかの魔族の部分が出てきたんだろう。父親が魔族なんだから、角くらい生えても不思議じゃない。ただ、これを知るのが今じゃなかったら腰を抜かしていたと思う。
アリシアが俺の頬を撫でるので、俺も彼女の頬に触れてみる。暖かくて柔らかい。
「琥珀が無事でよかった」
ナイフで刺されて三階から落下することのどこが無事なのか分からないが、魔族の基準では何事もなかったのと同じなのかもしれない。
「ああ、お前もな」
たぶん大丈夫だったんだろうが、アリシアにも怪我がなくてよかった。あと、藤崎を殺してしまうようなことがなくて本当によかった。
「ねえ、きて、琥珀」
疲れていると、何もする気が起きなくなってしまう。いつもなら抵抗なり文句なりあるんだろうが、今日はもうなんでもよくなってきた。唇も舌も、いつのまにか全部アリシアに委ねているというのに、特に嫌な気分ではない。
今は人間よりも魔族の部分が前に出ているから、きっとお姫様には逆らえないんだろう。そうに違いない。ぼんやりとした瞳で俺を見つめるアリシアがやけに愛しく見えるのも、きっと彼女が魔族のお姫様で、俺が魔族だからだ。
ふと気がつくと、締め切ったカーテンの隙間からうっすらと光が差していた。ぼんやりとグレーに染まっている天井をしばらく眺めて、いつものように時計に手を伸ばす。この明るさは、きっと五時前くらいだろう。
「……なぬ」
ベッドのすぐ近くにある時計へといつものように手を伸ばしたら、いつもはそこにないはずのものに触れた。アリシアが寝ている。それ自体は、いつものことだ。ただ、いつものポジション的に、ベッドの上の時計側に寝ているのは俺だから、少しだけびっくりした。
しかしそれ以上にびっくりしたのは、アリシアが明らかに服を着ていないことだ。
「まさかな……」
まさかそんなことはないだろうと身体を起こしてみると、俺も上半身が裸だった。下着は身につけている。
「まさか、な……」
「あ、おはようございますぅ」
「待て起きるな、おい起きるな!待って!お願いだからまだ起き上がらないで!」
目をこすりながら起き上がろうとするアリシアを必死に制止する。このまま起き上がられると、たぶん何も身につけていないであろうアリシアの上半身が露わになってしまう。ベッドの上でそんなものを見ると、大変な事実を突きつけられてしまいそうで怖い。
「どうしたんですか?」
布団を胸元で押さえながら起き上がったアリシアがあくび混じりに首を傾げる。
どうしたもこうしたもない。なんでこんな姿でふたりともベッドに寝ていたんだ。
「ああ、昨日の夜の盛り上がりについて詳しく知りたいパターンのやつですか」
「察しがよくて助かりますね」
昨日の夜の盛り上がり。昨日の夜だ。昨日の夜はえらい目にあった。店長の兄に刺されて、三階から突き落とされて、パトカーの上に寝そべったまま、ああ、早くお巡りさん達を助けに行かないとって思ったあたりから記憶が曖昧なんだが、たしか……。
「あ、角……」
ぼんやりと記憶を辿りながら、たしか頭に角が生えてたんじゃなかったかと思い出して手をこめかみのあたりにやってみたが、そこには何もなかった。
「寝て休んだから元に戻ったんですよ」
アリシアが微笑む。たしか、夜にもそんなようなことを言われたような言われてないような。だめだ、全然覚えていない。ただ、ものすごい疲れたことは覚えている。何に対してもやる気と興味を失っていくような倦怠感だけ妙にはっきりと覚えているんだが、他のことが思い出せない。特に、帰ってきたあたりからの記憶がさっぱりだ。
つまり、俺もアリシアも服を着ていないこの状態について、なんでこんなことになったのか、記憶がすっぱりと抜け落ちている。
「なぁ……」
「ん?どうしました?」
俺の頭のなかを覗いているから、きっと何を言いたいのか分かっているであろうアリシアが、意地悪な顔で笑う。
「なんていうか、その、あれ、ほら……」
まさかとは思うが、状況的にありえないとも言い切れない。というか、そんな大事なことを忘れているのも、なんかもったいないというか。こういうとき、何と言って切りだしたらいいか分からない。なぜなら俺は誇り高き童貞だから。まあ童貞かどうかはちょっと怪しいが、それを確認するためには何と言って切り出したらいいか分からないしで、頭が混乱してきた。
そんな俺を見て、アリシアが楽しそうに喉を鳴らす。
「ヤッてませんよ」
「濁すのも優しさだよ!?」
まさかのど真ん中ストレートだった。つまり聞きたかったのはそういうことだが、そこまではっきり言うのもちょっとダメそうな気がしたから悩んでいたというのに。
それはそうと、まあ、まだ大人になっていないというのは、ちょっと安心した。いや、ちょっと残念かもしれない。覚えていないことに変わりはないんだが。
「ヤッてないんですよ、昨日」
「おう、分かった。何回も言わなくていいぞ」
「ほんとにヤッてないんです」
「うん。変なこと言わしてごめんな。もう分かったら大丈夫だぞ」
「ヤッてないんですよ!信じられますか!」
「うるせえな!」
なぜか急にムキになったアリシアが、真っ赤な顔をして俺の腕を掴んだ。その腕を、なんとそのまま布団で隠した自分の胸元に潜り込ませる。
「うひゃぁい」
「あんなにまさぐっといて!あんなにぺろぺろしてたのに!寝ちゃったんですよ琥珀!信じられますか!」
アリシアがものすごく何か言っているが、正直それどころじゃない。柔らかいし暖かいし、世界平和ってこういうことなのかなって気がしてきた。
「あ悪い、聞いてなかった」
「ムキー!」
「なにをそんな怒ってんだよ」
俺はこんなにも、まさしく凪いだ海のように穏やかな気持ちでいられるのに、なにをアリシアはこんなに怒っているんだろう。自分でも触ってみればいいんだ、そうすればきっと気持ちが落ち着くに違いない。
「ああ、もう琥珀が元に戻っちゃったんですね……」
アリシアが、よよよとわざわざ口に出して泣き真似をする。その間も胸を触らせたままだから、今の俺たちは本当に頭がおかしい二人組に見えることだろう。
元に戻ったとはどういうことだ。いや、自分で言うのもおかしいが、いまの俺はちょっとどうかしている。
「昨日はあんなにも荒々しい獣のような目で私の身体をもてあそんだのに……」
「獣のような目」
「私の弱いところを探して責め立てるあの手つき、あの唇……」
昨日の俺はきっと俺じゃなかったんじゃないだろうか。だってそんなの俺じゃないと思う。
「もうヤられる!やった!待ちに待った卒業式!っと思ったその時でした」
あ、語りが始まってたのか。
「琥珀は私の胸に顔を埋めたまま急に眠ってしまったのでしたとさ」
「は?」
寝た?
「寝ちゃったんですよ」
アリシアが大きく頷いてため息をつく。
「信じられます?童貞が裸の女を前にして寝ちゃったんですよ。マジびっくりしましたよ。さすがにちょっと起こそうとしたんです、何回か。したらなんか死んだんじゃねーかなってくらいぴくりとも起きなくて」
「おお、それはそれは……」
それはもったいないことをした。いや、もったいないとかではないが、ちょっともったいないことをしたかな、なんて思わなくもない。ただ、やりきってたらやりきってたで、記憶がないのはそれはそれでもったいないが。違う違う、まず俺とアリシアはそういうんじゃないし、何事もなかったならそれでいいんではないだろうか。
よし、万事解決したからもうあと一時間くらい寝て、今日も元気に学校に行こう。
「もう、ずるい琥珀ですね」
「なにが?」
「全体的にです」
昨日あんなことがあったのに、学校へ向かう足取りは軽い。驚きの回復速度だ。ナイフで刺されて3階から落っこちたにも関わらず、怪我ひとつない全くの健康体で、むしろいつもより身体が楽な気がする。
「寝て休んだから体力が全快してるんですね。いつもはちょっと前日の疲れとか残ってるかもしれませんけど、いまはMAXで回復してるからいつもより元気なんですよ」
「へぇ」
魔族って恐ろしい。
それはそうと、当たり前のようにアリシアが隣を歩いているのが気になる。
「おや、一緒に住んでるんだから別におかしくなくないですか?」
なるべく学校ではアリシアと関わりたくないんだが、やはり叶わない願いらしい。
「ていうかなんで一緒にいたくないんですか?昨日あんなことまでしたのに」
「あんなことってなんだよ。なんもやってねぇだろ」
「人の乳をこねまわしといてようそんなことが……」
我ながら驚くほどのスピードでアリシアの口もとに手をやる。これが魔族のスピードか。
「あんまり大きい声で言わない方がいい気がするなぁ、そういうの」
「いつか必ずリベンジしますからね」
リベンジされても困るが、そういう機会がまたやってくるのも困る。
「おい、琥珀」
なるべくアリシアとは距離を置くように歩こうと思って少しスピードを上げた瞬間、背後から聞き覚えのある声がした。それはもう聞き覚えのある声で、ぞっとして振り返ると、そこにはやはりお馴染みの顔があった。
「おいおい、やっぱ仲良しなんじゃねーか」
俺とアリシアが並んでいるのを見て、ミミが不機嫌そうに呟く。
「あら、なんだっけ琥珀のネット上の友達のハナちゃんでしたっけ?」
「幼馴染のミミちゃんだ馬鹿やろう」
「同じようなもんでしょ?喉ちんこちゃん」
なぜかアリシアがケンカ煽りモードになっている。見間違いじゃなければ、いま地面に唾を吐いた気がする。
「下品だぞ、そういうの良くない」
朝からとんでもない空気に巻き込まれてしまったようなので、とりあえずアリシアに注意した。すると、アリシアが俺に満開の笑顔を向けて首を振る。
「なにもしてませーん」
「したろ、いま完全にペッてしたろ?」
「そういう風に見えました?ぴーっぴっぴっぴっ」
どうして朝からこうなんだ。
というか、アリシアとミミはここが初の会話なんじゃないだろうか。はじめましてでこれはちょっとおかしい。
「あ、そうでしたね」
アリシアが小さく手を打って、ミミに顔を向ける。
「はじめましてケツ毛ちゃん。私は琥珀のフィアンセのアリシアちゃんです」
おっと、喧嘩がはじまる。ミミがすごい顔をしている。
「おいおいなんだよ琥珀よぉ、水臭くない?転校生と付き合ってんなら言ってくれても良かったじゃねーか」
まさかの俺にきた。なんで俺にくるんだ。
「いや付き合ってるとかじゃ……」
「朝からふたり一緒に仲良く登校するなんてなぁ、手が早いな琥珀は」
ミミが俺の肩に腕を回しながら意地悪そうに笑う。そもそもなんでミミはアリシアをこんなにも敵視してるんだろう。初めて会ったのは昨日のはずなのに。
「あのねぇ、私ってばこの子のこと生理的に受け付けないんですよ」
「気が合うな。私もだ」
「馴れ馴れしくすんなチンカス」
「なんだとコラ」
あ、いけない。俺にはこれはどうしようもない。ミミの顔がどんどんえらいことになっている。アリシアが悪い笑顔でミミを呼ぶ時の名前も、どんどんひどくなっている。
「……俺、先に行くわ」
他人の喧嘩に巻き込まれたって何もいいことなんかない。それに、イラついてる時のミミは昔から苦手だ。
頭のなかで、妙な力でミミに物理的な危害を加えないようにとアリシアに向けて軽く念じてから、伝わったかどうかは確認しないでさっさと歩きだす。これ以上このふたりの睨み合いに巻き込まれたら、きっと胃が穴だらけになってしまう。
学校に到着して、こんなにホッとしたことはない。あのふたりを置いてさっさと学校へ逃げると、そこはいつもと変わらない学校だった。いつもと変わらないのが、いまは本当に助かる。
「あっ、琥珀くんおはよう」
「先輩、おはようございます!」
「幸村、元気?」
「死ねカス」
「今日もかっこいいね」
そうだ、俺には朝から可愛らしい声を投げてくれる子たちがこんなにもたくさんいるんだ。あんなのに付き合って神経を擦り減らしたあとだから、学校はまさに天国みたいなものだ。右を見ても左を見ても天使しかいない。
「天国って最悪ですよ」
先輩後輩関係なく色んな可愛い子たちから癒しの声を投げかけられて気分が良くなっていたところへ、その癒しを台無しにする声が聞こえてきた。
「もうきたんだ……」
教室まであと少しの廊下で、置いてきたはずのアリシアがすっと隣に並んできた。あんなにも可愛かった素直な視線が、次々に驚きの目に変わっていく。
「天国なんて、ミミちゃんみたいなのばっかりですからね」
「あいつがお前に何をしたんだよ……」
アリシアと並んで歩いていると、みんなから変な目で見られているのがすごくよく分かる。ここへきてようやく男子生徒の視線にも気づいたが、女子も男子も俺を見て考えていることは同じだ。
あいつ、もう転校生に手を出したのか。
みんな完全にそう考えながら俺を見ている。というか、普通にそう囁いているのが聞こえた。たまたま一緒に並んで歩いているだけ、という可能性が最初から排除されているのは、アリシアが俺の腕に抱きついているからだろう。
「とりあえず離せ」
「やーん」
腕を引っ張ってアリシアを振り払おうとしても、笑顔の彼女はがっしり俺にしがみついて離れない。でた、魔族のあれだ。
「いや離せよ」
「にゃーん」
「なんなん?」
朝からなんだこいつは。
初対面から三日後くらいに感じた鬱陶しさがちょっと蘇ってきた。ようやく慣れてきたのに。
「学校では俺に関わるなって言ったな?」
「言ってました。聞いてました。承諾はしてませんが」
「こいつ……」
なんなんだ。昨日は時間を止めてベタベタしてきたのに、今日はみんなそのまま引っ付いてくる。時間を止められた方がまだマシだ。
すると、急に頭のなかに声が響いてきた。
「夜の仕返しです。午前中くらいは根に持っといてやろうと思いまして」
なんてやつだ。
とはいえ、声に出さないで言ってきただけまだマシかもしれない。と思うようになってしまった自分が悲しい。
結局、教室に入って、全員から好奇の目で見られながら席につくまで、アリシアは俺の腕から離れなかった。
昼休み。
休み時間のたびに俺のところへやってきていたアリシアに最大限の警戒を払いながら、俺は弁当を食べている。アリシアが来ませんように。もう午後になったから許されてますように。
「おい」
「ひぃ!」
アリシアにばかり気を取られていたら、隣の席からものすごく刺々しい声が聞こえてきた。
すっかり忘れていたが、ミミがいたんだった。
「琥珀てめぇあの女とどういう関係なんだよ」
めっちゃ怖い。すごい声が低い。なんでこんなに怒っているのか……まあ分かるが、なんで俺にこんな当たりが強いんだろう。
「……し、知り合い?みたいな?」
しどろもどろになりながら答えると、ミミの眉間に皺がひとつ増えた。
「昨日転校してきたばっかのやつと並んで登校しときながらタダの知り合いなんて言わねーよな?」
久しぶりにこんなキレてるミミを見た。あの後、アリシアに余程気に障ることを言われたんだろう。お察しする。
「あのォ、ほら、あれだよあれ、ちょっと話す機会があってね?ちょっと話したんだよ、ちょっとだけ」
我ながら何を言ってるのか分からない。ミミが怖いからだ。
「私に隠し事するときの琥珀はアホ丸出しになるんだよな、昔っからな」
それはあなたが怖いからです。なんて言えるはずもなく。かといってアリシアは魔界のお姫様で実は俺も半分魔族なんだ、なんてもっと言えるわけがないのでどうしようか悩んでいると、ミミがおっかない顔のまま立ち上がって俺の弁当から唐揚げをひとつつまんだ。
「あ、この野郎」
「あ?」
「なんでもないです」
唐揚げくらいなんだ。文句言ったら殺されかねない。唐揚げひとつで済むなら幸せではないか。
「お、どっか行くんか」
そのまま教室の扉に向かおうとするミミに向かって、何の気なしにそう呼びかけてみる。べつに、トイレだろうとなんだろうとなんだっていいが。足を止めたミミがこちらへ振り返り、唐揚げをもぐもぐしたまま答えた。
「ムカつくから後輩ぶん殴ってくる」
「やめてあげよう、そういうのは」
「ウソだよ。ちょっと昼休みに会う約束してるんだ、あいつ」
後輩とは、きっと文芸部でいちばんミミにこき使われているあの後輩のことだ。何回か会ったことがある。怖い人たちに舐められないようにしたい、とおどおどしながら言っていた、見るからに大人しいあの後輩だ。こんな不機嫌丸出しのときのミミに会うなんて、ちょっと同情するし、これまでも何回かそういうことがあったんだろうと思うと、その忍耐力を尊敬する。
「あんまいじめてやんなよ」
「あいつ琥珀と違ってスレてねーからな。素直でいいやつだぞ。気が小さいから驚かすと面白いんだ」
最後の方に不穏な発言があったような気がするが、きっと冗談だろう。
「じゃあな、おばさんの弁当超うめえな」
ちょっとだけ顔が穏やかになったミミが、俺に軽く手を振って教室から出て行った。最後に俺の弁当から卵焼きをつまんでいったが、ちょっと機嫌が良くなってきたみたいだから、ここはひとつ不問にする。これ以上怖い顔を向けられるのは精神衛生上よろしくない。