1章 運命のひと、はじめまして
ある日を境に、俺の人生は一変した。
信じていたもの、そうあって当然であると疑わなかったものが、世界に対する信頼が、音を立てて崩れ去った。俺にとっての絶対的な価値観、永遠に変わらないとされているものへの信頼を担保にしてまわっていた世界は、その価値を暴落させた。
その日、俺は近所にあるコンビニからの帰り道をひとりで歩いていた。時刻は、まもなく午前一時を過ぎようかという頃。勉強をしているのにもなんとなく飽きてきて、気晴らしのための散歩の帰りだった。
「ねぇ、そこの人」
すぐ目の前にある角を曲がれば自宅まであと数十メートルというところで、どこかから話しかけてくる声があった。ただ声が聞こえただけなら、自分ではない別の人に話しかけた声かもしれない。けれど、いまは真夜中。付近に人はいない。
真夜中に視界の外から話しかけてくるようなやつがまともな人間であるわけがない。そう思って、一度はその声を無視した。
「もしもし、そこのお人」
再度話しかけてくる声も無視して、そこを過ぎれば自宅が見えるようになる角を曲がってしまおうとした瞬間、俺はぞっとして足を止めてしまった。
「おーい、私の琥珀」
たしかに、名前を呼ばれた。琥珀という名前は、そうありふれたものではない。これまでの人生で、俺と同じ名前の人間に会ったことがない。人を呼ぶ声で琥珀と言われたら、それはつまり俺のことだ。
鈴を打ったように、背筋がぞっとするくらい高く澄んだ声は、足を止めた俺に喜んだのか、ふふ、と笑いながらまた名前を呼んでくる。
「琥珀、会いたかった」
「……なんだ?」
首を巡らせて、あたりを見回してみる。もちろん、静かな夜の住宅街でしかない。自分以外には誰もいない。
しばらくキョロキョロして、本当に誰もいないことを確認した直後、背後からまた声がした。
「こっちですよ」
思わず悲鳴をあげそうになった。声だけではなく、肩に何かが触れた。誰もいないはずの夜道で、変な声がして、肩に何かが触れた。跳ね上がってちぎれそうな心臓の鼓動を全身で感じながら、すぐに振り向いて確認したい衝動をなんとか飲み込む。
このまま振り向いて、何か取り返しのつかないことになったらどうする?
人間なら確実に変質者だし、そうでないなら、もっと大変だ。
「琥珀。ねぇ、私を見て」
背後にいる何かが、そう俺を呼ぶ。
女の声だ。
振り向きたくない。絶対にダメだと強く思っているのに、身体が言うことを聞かない。俺の身体は、本人の意思を無視して、ゆっくりと後ろへ振り向いていった。
「ばぁ」
振り向いた先にいたのは、そう言って笑いながら顔の前で手をひらひらさせている少女だった。
日付も変わった夜の住宅街。何もかもが眠りにつき、やかましさを感じるほどに何もかもが息を潜めた静寂のなか、振り向いた俺を見つめる少女がくすくすと笑う。
「ふふ、ようやく会えた。私の琥珀」
時間と場所と状況を考えれば、目の前に立つ少女のことは最大限に警戒しなければならないはずだ。それなのに、俺は一瞬前まで胸に抱いていた緊張感が解れていくのを感じてしまっている。
原因はきっと、その異様なまでの美しさのせいだ。身長は俺より少し低いが、それでも百七十センチはあるだろう。豊かな長い金髪と、丸くて大きな金色の瞳。白磁のように真っ白な手足は、モデルのようだ。腰の位置が高いので、自然と脚の長さに目が行ってしまう。赤いミニのギャザースカートから伸びる真っ白で健康的な太腿、膝まである編み上げの茶色いロングブーツ。
「……誰だ、お前」
先ほどまでとは違う意味の緊張で浅くなった呼吸の合間で、喘ぐように少女へと尋ねる。もちろん、こんな女に見覚えは一切ない。
俺が後退ると、彼女はにっこり笑って一歩前進した。
「私はあなたの妻です。お姫様です。あなたのご主人様ですよ。ふふ、まだ分からないの?」
子猫と子犬とハムスターを混ぜたみたいな顔で笑う少女は、それだけでも息を呑むほど美しい。薄いピンクのブラウスを膨らませる形の良い胸元も、パフスリーブから覗く白くたおやかな腕も、全てが俺の目を奪った。
しかし、と決死の覚悟で首を振る。美しさに呑まれてはいけない。いくら外見が美しくても、どれほど魅力的な声でも、この少女はどう考えても不審だ。真夜中に誰もいない住宅街の真ん中で、面識のない俺の名を呼んで突然現れた。手放しに受け入れてはいけないタイプの人間だ。
「……お前のことなんか知らない。俺はもう帰るんだ、どこかへ行け」
このままでは、何か良くないことが起こる。それはきっと、自分にとって都合の悪いことだ。詐欺か何か、きっと犯罪に巻き込まれてしまうに違いない。
「詐欺とは心外ですね。私はただ琥珀に会いたかっただけですよぅ」
少女がむくれたような顔をして口を尖らせる。
その瞬間、俺は全身のバネを駆使して自宅に向けて走りだしていた。
ありえないことだ。詐欺だ、などと声に出した覚えはない。たまたまだろうが、少女が頭のなかで思ったことと同じことを口にした。その偶然の一致が、やけに恐ろしい。
こいつと関わったら終わりだ、という本能的な衝動に突き動かされて、俺は自宅までの数十メートルを全力で駆け抜けた。
「なんだあれ、なんだあいつ……」
部活動で鍛えているというほどではないが、時間があればランニングをしている。だから、走るのには慣れている。そんな俺が息苦しくなるほどの全力疾走だったにも関わらず、自宅の小さな門の前にはすでに少女が立っていて、準備運動なしで全力ダッシュをした俺を見つめている。
「なんなんだ、お前……」
心臓が破れそうなほどに脈を打ち、乱れきった呼吸に喘ぎながら、しゃがみこんでしまいながらもなんとか首を振って声を絞り出した。すると、少女はまた目眩がするほど整った笑顔を見せて、俺の震える手を握る。
「私はアリシア。はじめまして、ですね。ずっと会いたかったの。愛してる、私の琥珀」
アリシアと名乗った少女が膝をつき、急に顔が近づいてくる。甘い香りがして、気がついたらお互いの唇が触れていた。
すると、急激に身体が軽くなり、視界が滲む。やはり、何か良くないことが起こった。ものすごい勢いで遠のいていく意識のなか、ほとんど見えていない視界の向こうで、アリシアが微笑んでいるのを感じる。残念ながら、やっぱり美しい。
何が起こっているのか分からない。キスをするのは初めてだ。様々な考えが頭のなかをぐるぐると駆け巡って、俺はとうとう意識を失った。
目が覚めると、視界にはよく見知った天井があった。見慣れた照明も今は明かりを少し落として、薄暗いオレンジの光を小さく注いでいる。馴染んだ感触のベッドから身体を起こさなくとも、俺はここが自分の部屋だとすぐに理解できた。ここは間違いなく自分の部屋で、閉めたカーテンの隙間が真っ暗なのを見ると、まだ夜中らしい。
ベッドのすぐ近くに置いてある時計に手を伸ばして、文字盤を照らす小さなライトを点灯させる。時刻は、まだ三時。
時計をもとの場所に戻して、いちど深呼吸をする。頭のなかで、かすかな痛みとともに軽い混乱が生まれた。意識を失う前のあれは、なんだったんだろう。変で、不審で、怪しい少女が出てきた。たしかアリシアとか名乗った気がする。
ただ、こうして自分の部屋で寝ているところを見ると、あれはもしかしたら……。
「……夢」
「なわけないですよねぇ、現実ですよねぇ」
すぐ隣から聞き覚えのある声がして、俺はベッドから跳ね起きた。
「お前、なんなんだよ!」
「おっきい声だしたらダメです。みんな寝てる時間ですよ」
上半身を起こしてベッドから降りようとする俺の手を軽く掴んで、アリシアと名乗った少女が目をこすりながらあくびをする。
「ねぇ、まだ寝ていてもいい時間でしょう?あしたは学校もお休みじゃないですか。バイトもないし、ふたりで一緒に寝ましょうよ」
アリシアの細く白い手から想像もできないくらい強固な力で、俺の手はがっちりと掴まれている。ぴくりとも動かせない。夢でないのだとしたら、先ほどは全力疾走する俺の先回りをして自宅の前に現れていた。一本道なのに。
目の前で眠たそうに首を傾げているアリシアを見て、胸に恐怖がこみ上げてきた。
「……お前、なんなんだよ」
震える声でそれだけ絞り出す。
「あなたに会いたくてここまで来たの」
アリシアは絵画のように美しい笑みを浮かべて、俺の手を離した。
「琥珀に会いたかった。小さい頃から、ずっと琥珀のことを想って生きてきたんです。ようやく会えたのに、冷たくされると悲しくなっちゃう」
俺の頬に手をあてて、上半身を起こしたアリシアがキスをする。その瞬間、俺の胸で渦を巻いていた不信感と恐怖と混乱があっという間に溶けて消えてしまった。
アリシアが何者なのか、どうしてこんなところにいるのか、なぜ自分のことを知っているのか。分からないことだらけでも、今だけはとりあえず棚上げにしてもいいかと思ってしまうような、不思議な魅力がある。
やはり、まだ夢でも見てるような気分だ。
「ふふ、夢じゃないんです。私と琥珀はこれからずうっと一緒にいるんですよ」
唇を優しく離したアリシアがそう囁いたのと同時に、一瞬で目が覚めてアリシアから身体を離した。ベッドから降りて、アリシアと距離をとる。
「待て、だめだ。なんだお前、なんだ、誰だ」
夢みたいだと思ったが、夢みたいだと言った記憶はない。それなのに、アリシアは夢じゃないと言った。外で会った時もそうだが、彼女は口にしていない、頭のなかで思っただけのことにも言及してくる。どう考えても、まともじゃない。
「何者なんだよ」
「流されなかったかぁ……」
とりあえず頭に浮かんだ疑問をぶつけると、アリシアもベッドから降りて、笑みを浮かべたまま軽く頭を掻く。
それから、俺をまっすぐに見つめて顔の前で人差し指を立てた。
「ねぇ、琥珀」
本当は名前を呼ばれてるだけでもかなり不審だし軽く恐怖なのに、もはやそれくらいではあまり驚かなくなってきた。こんな時にこんな事でも慣れてしまうというのは、あまり良い傾向ではない。
「……なんだよ」
人差し指を立てたアリシアを見返して先を促すと、彼女は目を閉じてまたベッドに寝そべった。
「あと一時間だけ寝かしてくれます?地味に長旅だったんですよ。もう超疲れた」
「いやちょっと待てよ」
「うわ、くっさ。あ、でもこれが琥珀の匂いなんですよね。オホホ、やだ興奮してきた」
「待て待て」
「ていうか一緒に寝ましょ。私ねぇ今日はすんごいの履いてるんですよ。琥珀に見せるためにね、おろしたてのエッグいやつ」
「ちょっと待ておい!マジで寝るな!」
うつ伏せのアリシアが頭まで被っていた布団を剥ぎ取り、顔の下で潰れていた枕も取り上げる。
「ひどい」
「なんなんだよ」
とにかく正体不明だ。それだけが全て。にも関わらず、アリシアはこの場にいるのが当然であるかのような顔をしてベッドに寝そべっている。何が何やら分からないが、とにかく何かしらの説明を求めようとしたら、アリシアはため息をついて身体を起こした。
「んん……もう、分かりましたよ。仕方ないな、分からせてあげます」
それから、こちらを真っ直ぐに見つめて微笑んだ。
「では、琥珀は自分のことをどれほど理解していますか?」
「は?」
「はい。あなたが自分のことをどれくらい理解しているかで、これから話す内容もちょっと変わります」
アリシアは相変わらず優しい笑顔で俺を見つめているが、意味が分からない。自分のこと、とはどういうことだろう。
「俺は……」
何の変哲もない、普通の高校生だ。成績は良い方だと自負しているし、運動もそれなりに好成績を残している。
「やっぱりその程度ですね。そうですよ、琥珀はすごく格好良くて、頭が良くて、運動もできて、女の子からキャーキャー言われて人気があるわりには彼女ができないことを気にしてる童貞丸出しの高校生です」
「てめぇこの野郎」
「でもね、あなたはそんな普通の高校生じゃないんですよ」
人が気にしていることを遠慮なく指摘してくれたアリシアが、ベッドから降りて俺の左肩に手を置く。口に出していないことにリアクションを取られるのは、残念ながら慣れてきた。
アリシアの手が暖かい。
「ううん、それどころか、琥珀は人間じゃないの」
「……は?」
触れられている肩が熱をもってくる。
お互いの体温とかではない。
もっと直接的な、はっきりとした熱が、アリシアに触れられている肩から首にかけてじわじわと広がってくる。
「なに言ってんだよ。俺は人間……」
「違いますね」
俺の言葉を遮ったアリシアが、肩に乗せた手をそのまま斜めに下ろす。触れたまま、肩から心臓にかけて、アリシアの手が俺の身体を抉った。
「お前……」
心臓に突き刺さったアリシアの手が、一瞬で真っ赤に染まる。この赤は言うまでもなく血液だし、この血液は他でもない俺の心臓から噴き出している。
震える手でアリシアの腕を掴んでも、力が入らない。あっという間に目が霞んできて、足も萎えてきた。
アリシアに心臓を貫かれたままその場に座り込む。すぐにその姿勢すら保つことが難しくなって、倒れ込んでしまった。
心臓を抉られると、逆に痛みは感じないらしい。
「ねぇ、琥珀。あなた死んじゃうと思う?」
心臓に手を突っ込んだまま床に寝そべったアリシアが、鈴を鳴らすような声で囁く。
「……し……しぬ……」
声がうまく出せない。喉に溢れてきた血液を嘔吐するように吐き出すと、口のなかに血の味が広がってくる。
急激な耳鳴りと、ほとんど保てなくなった視界。意識があるのかどうかも分からないくらいぼんやりとした頭で、死ぬということをなんとなく理解したような気がした。
ここで死ぬ。
あっけないというか、理不尽というか。
もっと何かいろいろとやりたかったことがあったような気もするが、それすらも考えられなくなってきた。
すると、見えていないような視界の向こうで、アリシアがくすくすと笑った。
「すごい。まだ動いてる」
真っ赤に染まった手を胸から引き抜いて、アリシアが俺の頬に触れる。
「ほら、血があったかいでしょう?琥珀の心臓はこんなになってもまだ止まらない」
アリシアはゆっくりと身体を寄せて、血が噴き出している俺の胸に顔を埋めながら、嬉しそうに囁いた。
「琥珀は普通の人間じゃない」
アリシアが胸から顔を上げて、真っ赤な顔で笑う。
「今までよりももっとたくさん楽しいことをさせてあげるから、私と一緒にいてくれますか?」
霞みきった視界にぼんやりと映る血塗れの笑顔は、気が遠くなるほど美しい。
自分が人間ではない、という話をどれくらい信じるかというのは置いておくとしても、大きく切り裂かれた胸の傷は、驚くべき速度で塞がっていった。
「……なんなんだ」
少しずつ意識がはっきりしてきて、ゆっくりと身体を起こしながら胸に触れる。ほんの少し前までは穴があいていたとは思えないくらい、いつも通りの自分の身体だった。幼い頃から、怪我の治りが早い方だとは思っていたが……。
「でしょ?怪我してもすぐ治るし、風邪もほとんど引かなかったでしょ?」
「ああ、まあそうなんだけど……」
アリシアの言葉に頷きつつ、どうしても拭い去れない違和感に頭を抱えた。
「どうしたんですか?」
「なんていうかな、いや、大したことじゃないんだけど」
「うんうん」
ためしに、違和感のもとを口には出さないでおいてみる。つまり、先程からどう考えても、俺が頭のなかで考えているだけのことに対してレスポンスを返してきている。アリシアが意味不明なのはもうこの際諦めるとして、こればかりは早いうちになんとかしなければならない。
「そんなに変ですか?ひとつずつ口に出して会話したい?」
「……やっぱりか」
「琥珀はまだこういうのに慣れてませんからね。まあ仕方ないですよ。ゆっくり慣らしていきましょう」
なぜ諭される感じになっているのかは分からないが、アリシアはこういうやつだ、ということを受け入れて話を進めなければ、この先のもっと重要な話についていけなくなる気がするので黙っておくことにする。
「それがいいですよ」
「相槌だけちょっと減らしてもらっていいか」
「分かりました」
アリシアがわざとらしく口元に手をやって、「おくちチャック」などと言いながら唇を塞ぐジェスチャーをする。こんな風に会ってなければもう少し好意的に見ることができたかもしれないくらい可愛らしい仕草だ、などと思ったところで彼女が嬉しそうに笑ったので、俺はため息をついて自分の胸に触れた。
「さて、じゃあ本題な」
「さすがですね。なんかもう慣れてきてるの。さっきまで血がドバドバしてたのに」
「それについて聞きたい」
さっきまで血がドバドバしてたというのに、俺はもうピンピンしている。ちょっと頭が混乱しているくらいで、身体はもう健康そのものだ。怪我の治りが早いとかそういうレベルではない。
「なんでこんなにすぐ治るんだ?どう考えても死ぬやつだろあれ」
出血量もおかしいし、そもそも心臓を貫かれたのだから、いくら怪我の治りが早いとはいえ、死んでいなければおかしい。
「分かりますよ。びっくりしますよね」
俺からの問いに、アリシアが微笑んで頷く。
「ではお答えしましょう。椿××郎のラストシーンみたいになってたのになぜ生きているのか」
「おい」
「実は琥珀の身体にはヒ××ン×××クターみたいなのがあるんですよ。ほら、あのウ××ァリンと同じやつ」
「まってまって、急に新しいネタ放り込んでくるのやめて」
「なんですか?」
怪我がすぐ治ったのも気になるが、また新しい違和感がアリシアの口から飛び出してきた。さすがに、ちょっと無視はできない。
「その……なに、ピーっていうの、どうやって発音してんだよ」
アリシアは、喋りながら何かの単語を言うときに謎の機械音を発している。ちょうど、テレビで放送禁止用語が流れた時の規制音のようなものだ。いくらなんでも、これはやりすぎだ。一晩で経験していい違和感の限度を超えている。
疑問を投げかけると、アリシアが手を口元にあてて上品に笑う。
「ホホ、だってちょっと面倒じゃないですか?」
「なにが?」
「使っていい言葉とダメな言葉の線引きがね、面倒なんですよ。らりるれろみたいなもんだと思って流してください」
「意味が……」
そんな漫画みたいな自主規制があってたまるか、と思ったが、やはり「アリシアはこういうやつ」という風に受け入れるしかない。たぶん、いちいち驚いていたら話が進まない。
「……分かったよ。じゃあなんだ、俺は死んじまうレベルの怪我をしてもすぐ治る体質ってことか?」
俺は自分で口にした言葉に、自分で笑いそうになる。そんな馬鹿な話があるか。とはいえ、心臓を貫かれても生きているのだから、そんな馬鹿な話でも本当にあるらしい。
「ざっくり言うと、そうです」
アリシアも、俺の言葉に対して大人しく頷いた。それから、俺の胸に手を当てて呟く。
「でもそれだけじゃないんですよ」
「それだけであって欲しかった」
まだ何かあるらしい。
「だってね?怪我がすぐ治るなんて、普通はありえないでしょ?」
「ありえないな」
「でもそんなことができちゃうんだもの。そんなすごい琥珀がそれだけで済むわけないじゃないですか」
アリシアがなぜ俺のことをここまで評価しているのか全く分からないが、この際だから黙ってそのまま先を促す。顔の良い女の子に褒められて悪い気はしない。たとえ相手が正体不明の意味が分からない謎の人物だとしてもだ。
すると、アリシアが俺の手を取ってベッドに横たわる。
「ほら、教えてあげますから、こっちに。教えて欲しかったら添い寝してください」
何も言わずに話を先へ進めようと思ったはいいものの、同じベッドで横になるというのはさすがにためらわれる。アリシアは不審者だが、俺は男だ。それに、胸から吹き出した血をそのままにしてしまっているから、こんな血だらけの身体でベッドに入るのは抵抗がある。
「大丈夫です。掃除しときました」
まだ何も言っていないのに、またアリシアが勝手に声を出す。そして、自分の胸元に目をやった俺は、脱力してため息をついてしまった。
傷が綺麗になくなっているのはこれまでの話でなんとか納得できているとして、その周囲には、血が全くついていない。服も綺麗だ。くらくらする頭を動かして視線を投げると、先程まで血まみれで横たわっていた床も、綺麗に掃除されている。
「……なんだこれ」
「こういうことができる子です。あなたのアリシアです」
これはまずい。刺激しない方がいい。人の心臓を裂いたり、心を読んだり、一瞬で血痕を消したり。そんなことができるやつに逆らったら今度こそ殺されかねない。というようなことを自分に言い聞かせて、俺は大人しくアリシアの隣に寝そべった。一応、それなりに理由をつけないと、俺のような十代の男が若い女と同じベッドに入るのは勇気がいる。
「つかまえたっ」
隣に寝そべると、すぐにアリシアが抱きついてきた。
「おやすみなさい」
「こら」
「冗談です」
抱きついたまま俺の顔を至近距離から見つめ、アリシアが笑顔を浮かべる。今日のような出会い方をしていなかったら、きっとどうにかなっていたに違いない。いまの俺にとっては、アリシアの美しさや愛らしさよりも、若干だか警戒心や不信感の方が強い。
「さて、それじゃあ本題です」
まるで恋人のように俺の首に腕をまわして、アリシアが口を開いた。
「琥珀は本当はただの人間じゃない。同じように、私も人間じゃないんです」
「人間じゃないっていうのは、つまり?」
それこそが、最初からずっと聞きたかったことだ。俺はもう頭で考えるよりも前に、アリシアに尋ねた。頭で考えるだけでも彼女は答えてくれそうだが、口に出すよりも前に
話が進んでしまうと、無用な混乱を招く気がしたから。
「はい。私は魔界から来ました」
「ほう」
アリシアは、たぶん魔界と言った気がする。魔界という地名の土地がどこかにあって、そこの出身なんだろう。そうでなければ困る。
「魔界は魔界ですよ。悪魔とか魔物とか、怪物がいる世界のことです」
「ギブアップ」
「はやーい」
魔界と聞けば、やはりファンタジーなイメージの魔界を想像してしまう。俺にとって、そんなものはフィクションのなかの話であるわけだから、魔界から来たと言われてすんなりと信じられるわけがない。しかし、アリシアが先程から見せている意味不明な現象は、そんなフィクションじみた話を信じそうになってしまうくらいには説得力がある。
「そうでしょう?魔界、信じる気になりました?」
「せめて今だけは頭のなか覗くのやめてくれるか」
理解が追いついていない頭で必死に考えているのに、その考えを読まれて声をかけられるとパニックになってしまう。
そんな頭のなかを察したのか、アリシアが微笑んで俺の胸に顔を埋める。
「私は魔界から来ましたけど、でも琥珀は違いますよ」
「あ、そうだ。そうだよ、魔界どうこう言われても、俺の傷がすぐ治った説明にはなってない」
アリシアが魔界から来たとか、そもそも魔界なんてものが本当にあるとか、そういう話は百歩譲って信じてみるとして、だからと言って、俺の身体が不死身に近い治癒力を見せた説明にはならない。なぜなら、俺は魔界のことを知らないし、そんな話はこれまでフィクションだと信じて生きてきたからだ。
「俺は魔界関係ないだろ。なんであんな頑丈なんだよ」
「関係ないこたーないです」
アリシアが俺の胸から顔を上げ、あっさりと呟いた。
「琥珀のパパ、魔界の出身ですよ」
簡単に。
それが当たり前であるかのように。
「……は?」
父は、普通の人間だ。母親も普通の人間。今だって、同じ家のなかできっと普通の人間らしく眠っているはずだ。しかし、アリシアはそんなこと関係ないとばかりに首を振る。
「親父は普通の人間だぞ」
「普通の人間に見えるでしょう?それは私も一緒。私も見た目だけなら普通の人間だもの。まあ超美少女ですけど」
「だけど……」
「琥珀のパパはね、魔界から人間の世界にやってきて、琥珀のママと燃えるような恋をしたの。そうして魔族と人間の間に生まれたのが、あなたです」
俺の父は、俺の記憶が間違っていなければ、普通の人間のはずだ。朝に仕事へ出かけ、夜になったら帰ってくる。昔は一緒に風呂へ入っていたし、よく遊んでもらった。今でも勉強で分からないところは教えてもらう。これで父が人間ではないとしたら、それは俺にとって「人間」というものの定義が揺らぐのと同じだ。
「俺の親父は人間だ。間違いない」
アリシアにそう言いつつ、俺は父が絶対に普通の人間であると言い切れないような気がしてきた。自分が生まれる前のことは知らないし、仕事にでかけた父がどこで何をしているのか、本当の意味では知らない。生まれてからずっと一緒にいるのに、完全に全て知っているわけではない。
すると、アリシアは優しく微笑んで俺の耳元に口を寄せた。
「信じられなくても仕方ないですよね。完全に信じさせる手段もありません。どうしても気になるなら、パパに直接聞いてみたらいいんじゃないですか。でもね」
そのまま頬にキスをして、優しい笑顔のまま額をあわせる。
「パパがどうこうなんて、関係ないんです。魔界を知らなくても、パパが人間じゃなくても、大事なのは琥珀なんですよ。私にとって大事なのは、琥珀のことだけなんです」
俺は、混乱する頭で考えるのを少しずつ放棄することにした。まずは、アリシアに全部を話させた方がいい。情報の精査はそのあとだ。
「俺がなんなんだよ」
額をくっつけたまま、俺からもアリシアに言い返す。
「なんでお前は俺のとこにきたんだ?」
俺は人間ではなくて、父も人間ではない。アリシアは魔界からやってきた。ここまではいい。では、その目的はなんだろう。それも、俺のところへわざわざやってきたのには、それなりの理由があるはずだ。
俺からの質問に、アリシアがまた微笑む。
「琥珀に用があったからです」
「俺に?」
「はい。琥珀は人間と魔族のハーフで、人間でありながら魔族の力も持っている。ほとんど不死身みたいな身体もそうだし、多少は超能力も使えるんですよ。私はそんな琥珀にお願いがあるんです」
人間と魔族のハーフ、という部分は、この話の流れでは事実として扱うことにした。仕方ない。
「私は、人間の世界で社会勉強をするためにやってきました」
「社会勉強?」
「はい。お姫様なんですよ、私。パパが魔界の王様なの」
魔界だのなんだのの話のあとでは、父親が王様とかいう程度の話ではもはや驚かなくなってきた。違和感をもたずに先を促すことができたのは、アリシアとの会話では初めてだ。
「それでね、人間と交流するためには、人間のことをよく知っている人に手伝ってもらう必要があるんです。ほら、こっちのルールとかよく分かっていないせいで、変に事件とか起こしたらめんどっちいでしょ?」
たしかに、何も知らないまま人間の社会に飛び込んだら、色々と面倒があるだろう。いきなり人の心臓に手を突っ込むようなアリシアならなおさらだ。
そこで俺は、ようやく自分に求められている役割に思い至った。
「ああ、人間と魔族のハーフだから、俺ならちょうどいいってことか?」
たしかに、俺ならこれまで人間として暮らしてきたから、人間社会のルールはきちんと理解している。しかし、だとすればひとつ懸念がある。
「魔界の存在をついさっきお前から聞いたばっかの俺が、お姫様の社会勉強を手伝えるのか?」
人間のルールは完璧。でも魔界のルールは一切知らない。そんな俺が役に立つんだろうか。
「大丈夫。私は琥珀と一緒がいいんです。あなたは私を知らなかったけど、私はずっとちっちゃい頃からあなたに会うのを楽しみにしてたの」
「……なんでまた」
すると、アリシアがようやく額を離して俺の顔を覗き込んだ。
「昔ね、琥珀のパパが話してくれたんですよ。私と同じ歳の息子のこと。写真も見せてくれて、私はそれからずっと琥珀に会いたかった。いつか人間の世界に行ったら、いちばん最初に会うのは絶対に琥珀って決めてたんです」
「親父と知り合いなのか?」
「今のはキュンとくる場面じゃないんですか?そういう細かいとこ気にします?」
わりと大事な部分だ。俺の父とアリシアが知り合いなら、現実離れした色々な要素から目を逸らした場合、様々な話の辻褄が合う。ような気がする。それでも納得できない部分も多いが。
すると、アリシアは俺の顔をまっすぐに見つめたまま少し困ったような顔をした。
「あ、ごめんなさい琥珀。もう限界なの」
「なんだ、眠いのか」
「いやいや、子供じゃないんだから」
俺の言葉に満開の笑顔で首を振ったアリシアが、そのまま目を閉じてキスをしてきた。これまで一度も経験がなかったのに、アリシアと会ってから一晩でもう何回めだろう。
「この距離に琥珀がいるとね、どうしても色々と持て余してしまうんですよ」
「よし、出てけ」
「強がる童貞なのであった」
「ぶっとばすぞてめえ」
「お、やります?ぶっとばせると思ってんですか?あーし魔界で最強ですけど?」
俺が起き上がると、アリシアも笑いながら身体を起こす。そもそも、今日会ったばかりの相手とどうこうというのは、少し気が早すぎる。なんてことを考えていると、アリシアが鼻で笑って呟いた。
「童貞ゆえの紳士的な発想ですね。愛と運命があればそんなものはどうにでもなるのに」
頭のなかの考えに勝手に返事をされるのは、もう完全に慣れてきた。慣れてくると、それを踏まえた上で会話を進められるようになる。あまり嬉しい成長ではない。
「俺はあんまり軽そうなタイプは好みじゃないんだよ」
すると、アリシアが口を尖らせてこちらをじっと見つめる。
「軽そうとは失礼しちゃいますね。積極的な女性をヤリマンと捉えるのは童貞の悪いところですよ。私はこれまで琥珀のことしか考えてこなかったのに。初キッスも琥珀なのに」
「……童貞、童貞って何回も言うもんじゃないぞ」
「童貞じゃないんですか?」
「童貞じゃない」
嘘をついた。
「言ってて悲しくなりません?」
しかも一瞬でバレている。頭のなかを読まれるんだから当然か。
「お互い探り探りの卒業式もいいじゃないですか。めくるめくような夢のひとときをね、ずーっと会いたかった憧れの琥珀と仲良しダンスしたいんです私、仲良しさんになりましょうよ」
アリシアが身体をくねらせながら俺に抱きついてきて、赤い顔で首筋に唇を寄せる。魔族ってこうなんだろうか。
「魔族の性欲が特に人間と比べて強いわけではありません。私がガッツリスケベなだけです」
「誇らしげに言うな」
無駄な抵抗かもしれないと思いつつ、アリシアの肩を掴んで身体を引き剥がす。すると、拍子抜けするほど簡単に離れた。てっきり、魔族の怪力でがっちり掴まれているものだと思ったのに。
「ねぇ……」
にこにこ笑いながら俺にべったりだったアリシアが、急にしおらしい顔をして首を傾げる。俺よりも少し低い高さから上目遣いで見つめられると、それだけでちょっとどきっとしてしまう。
「な、なんだよ」
「琥珀、いえ雪村琥珀。いーえ雪村琥珀さん」
「なんだよ、そんな言い直さなくていいだろ」
「好きです。これまでずっと好きでした。これからもずっと好きです。愛してます」
急にそんな言葉を口にしたアリシアが、言い終わるなりすぐに優しい笑顔を浮かべて、ベッドに腰掛けた。
「おぅ……」
俺はというと、いきなり正統派な言葉を向けられたものだから、全身に妙な熱がこもってきて、目眩がするくらい暴れだした心臓の鼓動に意識を持っていかれそうになっていた。さっきまで穴を開けられて血を垂れ流していたくせに、こういう時だけ熱心に働く心臓が憎い。
というか、どうしていいか分からない。
俺がこれまで勉強や運動に精を出していたのは、はっきりと言えば女子にモテたいからだ。その甲斐あってか、女子から黄色い声援を向けられることは多い。それなのに、こんな風にはっきりとした言葉をかけられたことはないものだから、こういう時に何をすればいいのか、何と言えばいいのかが分からない。
「悩む童貞……そそりますね」
アリシアが手を口元に当ててそんな風に言うので、俺もつい軽く言い返してしまう。
「冷めるからやめろ」
言ってから、ちょっとまずい事を口にしたと反省した。
「お、冷めたくないってことは?」
「いやいや、違うよな?いーんだよな?冷めていーんだよ」
「琥珀、私はあなたが大好き。ずーっと琥珀だけを考えて生きてきたんです。他の誰よりも琥珀だけが大好きですよ」
「ときめかそうとすんな!」
「ときめきます?童貞ちょれぇムホホ」
アリシアがわざとらしく茶化す。彼女の会話のテンポに慣れてきたのか、ちょっと心地よくなってきたのがむかつく。
すると、ベッドに仰向けに倒れながら、アリシアがため息をついた。
「あー、あーあー、楽しいな」
首だけを持ち上げてこちらを見るアリシアが、言葉通りの楽しそうな笑顔で俺に手を振ってくる。
「ねぇ、琥珀。もうやらしいことしないから、一緒に寝ません?」
「なんだよ急に」
「いいから」
もういやらしいことをしない、というのがどれほど本気かは分からないけれど、なんとなくそれを信じてもよさそうな気がして、俺は言われるままにアリシアの隣に寝そべる。
隣にいくと、アリシアは天井を見上げたまま、手だけ俺の手に触れて呟いた。
「ねぇ、私ほんとに幸せなんですよ」
「よかったな」
なんだかしんみりしたような声だし、本当に何もしてこなさそうな雰囲気なので、今のうちだけは俺も普通に返事をする。
「琥珀に会いたかった。ずーっと会いたかったのはほんとなんです。ずーっと好きだったのもほんと。変ですよね、会ったこともないのにね」
「そうか?」
「私はずっと琥珀が好きだったから変だなんて思わないけど、変なんですよ。うん、きっとそう」
「……そんなことないんじゃないか」
普通に話していれば、アリシアは平均的な人間と変わらない。それどころか、過剰なくらい俺に好意を向けてくれているみたいだから、普通の人間よりもちょっとは接しやすいというか、我ながら現金とは思うが、ちょっと嬉しい。
「そうですか?」
今のは、俺の言葉に対する返事だろうか。それとも、頭のなかに対する返事だろうか。
いずれにしても、答えは同じだ。
「そうだよ」
俺がそう答えると、アリシアは何も言わずに俺の手を強く握った。言葉はなかったが、彼女の手の熱と、笑ったように吐き出された柔らかい呼吸で、少しくらいは気持ちが読めたような気がする。
「それじゃあ、明日からよろしくお願いしますね!」
「は?」
読めてなかった。
「琥珀も受け入れてくれたことだし、今晩から私ここに住みますので。琥珀パパには言ってありますので。琥珀ママにも言ってありますので!ウシャシャシャ!」
「まって……」
「さあもう寝ましょう!」
交通事故にあったみたいに理解が追いついていない俺に抱きついて、胸に顔を埋めたアリシアが満足気に深呼吸する。信じられないことをいきなりするアリシアが、改めて少し怖い。さすがに匂いとか気にしてしまう。
「大丈夫、人間はマジゲロくっせぇけど琥珀はいいにおいするから。琥珀、いいにおい」
「やめて」
「なにを?」
「……全部?」
「却下でーす」
楽しそうな笑顔を俺の胸元に押しつけてぐりぐりしているアリシアは、結局そのまま俺を離してくれることはなく、あっという間に寝息を立てはじめてしまった。
あの晩以来、本当にアリシアは俺の部屋で寝起きしているし、本当に両親は承諾済みだったし、本当に父は魔族だった。
かつて魔界最強と呼ばれたほどの戦士で、母と結婚して以降は魔界の学校で教師をしているんだとか。もう意味が分からん。魔族なの?って聞いたら普通に答えてくれた。じゃあなんで今まで黙ってたんだ。
「生まれた瞬間に教えて欲しかったですか?分娩室でママからポーン!出てきた瞬間にパパは魔族だぞー!ハッピーバースデー!みたいな?」
アリシアは頭がおかしいので、俺が部屋でちょっと考えただけなのにそんなことを笑いながら言ってきた。すごく怖い。魔族は倫理観がぶっ壊れている。
なにが恐ろしいって、こんな狂人ともう一ヶ月も寝食をともにしてしまっているという点と、こいつが明日から俺と同じ学校に通うという点だ。
「琥珀のテンションが低いです、ママ」
「あらぁ、何か不安でもあるの?」
頭のおかしいアリシアを学校に解き放ったら確実にトラブルを引き起こす。俺はそれが不安で仕方ないのに、夕食を囲む食卓で、母はアリシアとにこやかに談笑している。
母は父が魔族というのを知っていたし、あの晩の翌朝、アリシアに会っても特に驚くようなリアクションを取らなかった。それも俺にとって少しばかりショックだったが、それ以上にショックだったのは、話の流れで母が昔ガチのヤンキーだったという衝撃の事実をカミングアウトされたことだ。いつも笑顔を絶やさない、ゆっくりとしたペースで話すあの母が、だ。
「お父さんに出会った頃はちょっと荒れててねぇ、ふふふ」
「あの最強の戦士をワンパンで沈めた人間がいると、今でも魔界の語り草ですよ」
「ははは、いやぁ懐かしいなぁ。まさか人間に素で力負けするとは思ってなかったんだ。油断してたなあの時は」
俺の価値観が片っ端からひっくり返されていくあの朝の会話は、恐らく死ぬまで忘れられないだろう。
そんなことよりも、いま大事なのは、アリシアが明日から学校に行くという点だ。もともとこっちの世界の社会勉強のためにやってきたのだから、学校に行くというのは当然といえば当然ではあるものの、いざ本当に明日から通うとなると、不安で仕方ない。
この一ヶ月、たった一ヶ月で、俺はアリシアに散々振り回されてきた。
動物と話せるとか言いだしたかと思えば、自宅の上空におびただしいほどのカラスを集めてみたり、魔界では有名な家庭料理だと言ってトカゲを生きたまま茹でてみたり。家にいるだけでこれなんだから、学校に行ったらえらい事になる。街に出かけてみた時にも、急に通行人と談笑をはじめたりして、そいつがよく見たら明らかに人間じゃなかったりして、とにかく理解が及ばない。
「ねぇ、琥珀は私が学校で問題を起こすんじゃないかって心配してるんですよね?」
食事と入浴を終え、俺が自室で参考書を眺めていると、ベッドの上で何語か分からない本を読んでいたアリシアが声をかけてきた。
「お前は意味の分からないことをするからな」
「大丈夫ですよ。琥珀の迷惑にならないようにします」
「迷惑ね……」
迷惑というと、ちょっと語弊がある。たしかに困ることもあるし、驚くが、実害があるかというと、そういうわけでもない。ただ、単純にアリシアが学校でどんな事をしてしまうか分からないから心配なのだ。俺の心臓を引き裂いたように、そっち系のトラブルも絶対にないとは言い切れない。
「あら、私は琥珀のお友達を殺したりなんかしませんよ」
「学校にいるのはお友達だけじゃないんだぞ」
学校には、意味もなく嫌がらせをしてくるような連中もいる。俺のことが無条件に嫌いなやつらだ。そんな連中が俺と一緒にいるアリシアを見たら、彼女に対してもどんな嫌がらせをするか分からない。
「おや、琥珀ったら……」
アリシアが急に顔を赤くして頬に手をあてる。
「当たり前のように学校でも一緒にいてくれるんですね」
「……失敗したわ」
なぜか普通に学校でもアリシアと一緒にいることを考えてしまっていた。一ヶ月も同じ部屋で寝起きしていたからだ。よく考えたら、学校では他人のふりをしていればいいだけではないだろうか。というか他人だ。
「私と琥珀は同じ家から出て同じ家に帰るのに?」
「うん。出る時間をずらそう」
「ふふ、絶対に嫌です」
「アリシアよ、これはお前を守るためなんだ」
「えっ」
俺はベッドに歩み寄り、アリシアの肩に手を置きながら続ける。
「俺は人気者だ。それだけに意味分からん嫌がらせとかもある。俺と一緒にいたらお前まで嫌がらせを受けるかもしれないだろ。だからなるべく学校では一緒にいない方がいい」
「自分で人気者とか言っちゃうのはなんていうかさすが琥珀ですけど、優しいんですね。今のはちょっと嬉しいですよ」
肩に置いた俺の手にキスをして、アリシアが微笑む。それから、その笑顔のまま、俺をまっすぐに見つめて呟いた。
「でもね、私はそんなの嫌です」
アリシアの手が俺の手に重ねられた。初めて会った日以来の、ぴくりとも動かせない強力な力で掴まれている。
「私は琥珀と一緒にいたいんです。明日からようやく学校でも一緒にいられるんだから、離れたくないんです。格好良くて頭も良くて運動もできる琥珀に嫉妬してるようなちっちゃい人間が嫌がらせしてきたからってなんですか。そんなのは……」
掴まれた手を引っ張られ、俺もベッドに腰掛けてアリシアに先の言葉を促す。
「……そんなのは?」
俺の言葉に、アリシアが小さな声を出して笑った。
「ふふ。内緒です」
ろくなことじゃない気がする。
「私は魔族のお姫様ですから。やられたらやり返しますよ。魔族なりにね」
ほらみろ。
「暴力はだめだぞ」
「もちろんです。暴力はだめですよ」
暴力はだめ、とか言いつつ、単純な殴る蹴るなんかしなくても、アリシアならよく分からない超能力的なもので陰惨な仕返しをしそうで怖い。
「そういうのもその気になればできますけど、琥珀がダメだっていうならやりません」
「絶対にダメだ」
「はぁい」
ため息がでた。
これでは先が思いやられる。本当に、アリシアが学校で何も問題を起こさなければいいが。常に一緒にいられるわけじゃない以上、どうしても俺の目の届かない瞬間は絶対にある。そんな時にトラブルに巻き込まれてしまったら、俺には守りきれない。
「あぁん、私を守ってくれる優しい琥珀がマジで大好きです」
「守りたいのは他の生徒の安全だからな」