7・王太子と薔薇姫と妹姫
「フランシードさま」
執務室の扉が控えめに叩かれ、執務を終えて自室に戻ろうとしていた王太子は、不機嫌そうに眉を上げる。側仕えも丁度下がらせたところだった為、
「何用か?」
と問いかける。扉の向こうの人物の声は、よく聞いた事のあるものだった。何の企みかと、一日の疲れを溜めていた王太子は訝しむ。
「ご挨拶ですわ……入っても?」
「好きにするがよかろう」
女性を追い返すのも無粋と思い返答すると、入って来たのは意外な姿だった。
「そなた……ミリアローゼ?」
婚約者とそっくりな声……だが、入って来た女は、プラチナブロンドの髪を流行の型に結い上げ、薄桃色の女性らしさを強調した、それでいて上品なドレスを纏っている。
「はい。二人でこうしてお話しするのは、子どもの頃以来ですわね、フランシードさま」
「な、何故ここへ?」
マリアローゼのドレス姿は幾度も見た事はあるが、彼女はいくら艶やかに美しく着飾っても、贈ったどんな高価な香水をつけていても、どこか鉄のにおいを感じさせた。けれど、目の前の娘は、確かに同じ顔かたちなのに、『女性』以外のものは微塵も感じさせない。
(やはりこれが私の王妃……)
王妃は社交と出産だけをしていればよい。後は、夫を悦ばせる事を。
「いったいどうしたご用件かな? 姉上の代わりに私に文句でも? しかし姉上には申し訳ないが、私は貴女を……」
「文句などとんでもございません。姉が意地を張ってお詫びをしないと申すもので、わたくしが代わりに伺いましたの。殿下の決められた事に逆らうなど、とんでもないこと……なのに姉はあんな騒ぎまで起こしてしまって」
思いがけない言葉にフランシードは眉を上げる。
「これは意外な……。姉上からは、貴女に私の好意を受けて頂くのは難しいと聞いていましたが……そうでもないと思ってもよろしいのかな?」
「姉は昔から、わたくしを自分と同じと決めつけていました。でも、わたくしは姉よりは常識を身に付けているつもりです。……王太子殿下に見初められたと聞いて、嬉しくない女がどこにおりましょうか。姉はわたくしに嫉妬しているのですわ」
「で、では、婚約破棄が成れば、私の求婚を受けて下さるのか?」
ミリアローゼは顔を赤らめ、
「正式なお話を頂ければ正式なお答えを致します」
と答えたが、その恥じらいようは是としかとれなかった。
フランシードは大喜びで、
「まあ、では、お近づきの記念に夕餉を共にいかがかな? すぐに用意させよう」
と言いながら、ミリアローゼに近づき、私的な晩餐の間に案内する為、と己に言い訳しながら、その細腰に手を回そうとした。
(……ん?)
近づくと、結い上げた美しい髪の下に露わになった首筋が見える。そこに、フランシードは見慣れたものを見た……マリアローゼが子どもの頃に、剣の稽古の時についたという、ごく小さな古傷……。いくら瓜二つの双子でも、同じ場所に同じ古傷を持つなど可能性は極めて低い。
(なんだ! これは、マリアローゼなのか! またアルフリードと何か企んでいるのだな。上手く化けたものだが、詰めが甘い……)
まったく興ざめで、怒りがむらむらと湧いて来たが、すぐにはそれを表さず、微笑を崩さずに彼女を引き寄せると、彼女ははにかんだ笑みを浮かべてされるがまま。
(これが心からの態度であったなら、婚約破棄など面倒な事をせずともよかったものを)
しかし、マリアローゼはそんな女ではない事を、フランシードは知っている。ふざけた真似で王太子を騙そうとした罰を与えねばならぬ、と彼は考えた。
(そうだ……)
王太子は一旦彼女を離し、小姓を呼んで二人分の晩餐の準備を命じる。そして、令嬢と大事な話があるから呼ぶまで誰も近づけるなと命じた。
「支度まで少し時間がかかるでしょう。食前酒を一杯いかがかな」
と言いながら、彼女を座らせ、自身は棚に酒とグラスを取りにゆく。
「ありがとうございます。殿下のお勧めでしたら何でも頂きますわ」
「はは、飲み物のお好みの方は姉上に似られたのかな。姉上は随分お強いから……」
と甘い声で応えがある間に、王太子は朗らかに酒を注ぎながらも、行っている事は陰湿そのものであった。
彼は、丁度懐に持っていた小瓶を、見えないように取り出して、中身をグラスに数滴落としたのだ。それは、あの、セシルに飲ませたのと同じ薬……。
庭園に匿名の呼び出し人が誰か探りに行くよう命じた翌日、それまで自身の手足のように忠実で、しかも女としても充分に満足をさせてくれていた側近のセシルが、挨拶もせずに体調不良を理由に実家に帰ってしまった事に、恐らくアルフリードが関わっているに違いないと立腹していた。今はまだ本当に心身の状態が良くないのかも知れないが、いずれ元気になって生き証人になられては困る。セシルはいずれ手の者をやって処分してしまわなければならない。
しかし、アルフリードには、そのつけを払って貰おう。即ち、行動を共にしている様子のマリアローゼを、セシルの代わりにするのだ。処分しようと思って隠し部屋の薬棚から持ち出しておいて良かった。マリアローゼにはセシルの倍の量を飲ませて、正気を失わせてしまおう。もしも副作用で死んだって構わない。本性を見せたアルフリードも、もう一人の弟と同じように殺してやるつもりなのだから、自分を疑う者はいなくなる……。
「さあどうぞ」
「ありがとうございます」
薬の入っていない自分のグラスと、薬入りのグラスを運び、彼女に薬入りを勧める。自分を虚仮にしようとした事を、せいぜい後悔するがいい……。
彼女は一口グラスに口をつけたが、すぐにグラスをテーブルに置いた。
「どうなさった?」
「……なんだか、苦しくなってきました。さっきまで、どうもなかったのに……」
流石に、倍の濃度の効き目は早いようだ。彼女は顔を赤くして胸を押えている。
「この酒が体質に合わなかったのだろうか。済まない、少し横になるといい」
「お願いします、医師を呼んで下さい。身体が熱くて……」
ソファに彼女を横たえようとする王太子に彼女は懇願したが、そこで彼はにやりと笑い、
「私がそなたの医師になってやろう。苦しみから解き放ってやる。私に従え、マリアローゼ。それが、そなたへの罰であり、長年尽くした褒美でもある」
「な……何を仰いますの? わたくしはミリアローゼだと……」
「白々しい芝居はよせ、マリアローゼ。ふふ、そうだ、姉妹で正妃と側妃にするのも悪くない……側妃ならば私に意見など出来ぬだろう」
「何を仰っていますの。ああ、触らないで。姉と間違えてわたくしに何か飲ませたのですね。そして無理やりに……なんてこと」
「芝居はよせと言っているだろう!」
王太子は嗜虐の笑みを浮かべて彼女の胸元に手を伸ばす。ドレスを引き裂いてしまいたいが、それでは体裁が悪い。
「いや……お姉さま!!」
彼女が悲鳴を上げたその時。
王太子は、首筋に冷たいものを感じた。冷たい、刃。
いつの間にか、音も気配も消して、いつもの男装のマリアローゼが背後に立っていた。
「まさか……本当にミリアローゼ?!」
組敷いた女を見ると、さっき触れたようで古傷は消えかけている。偽装だったのだ。
「それにしても、王太子に剣を向けるとは何事だ! 処刑されたくなくば、すぐにその刃を収めろ!」
「あら、これは、決闘の続きですのよ。陛下に許可を頂いて来ました。ミリアに無体な事をするなら、いつでも続きを始めて良いと。夢中になって背後をとられたのにも気づかないとは、先日の勇姿からは想像できませんでしたわ」
そう言いつつも、一応マリアローゼは刃をひく。
「如何に王太子殿下でも、婚約者の妹、宰相の娘に、薬を盛って手ごめになさろうなどとは……。我が父は陛下に抗議致しますし、陛下は廃嫡をお考えになるかも知れません事よ?」
「貴様ら……姉妹で、ぐるであったか!」
怒りで顔を真っ赤にするフランシードには見向きもせず、ミリアローゼは起き上がり、姉に抱きついた。
「姉さま!」
「ごめんなさいね、危険な役を任せてしまって。何も飲んでないでしょうね?」
「勿論よ。それに、わたくしが、やるって駄々をこねたんですもの!」
―――
この件は国王に報告され、王太子は、正式な処分が決まるまでの謹慎となった。