狭間に聖母は何を見る2
サリナは魔女という人物に心当たりは無かった。
あるとすれば、それは神の御技である回復魔法を無償で行ってくれた女性だけだ。
彼女の名前を聞いていなかったサリナは、村長宅の地下にいるという魔女とでああった旅人の女性を関連付けることはできない。
ましてや、自分があった人物は本来であれば地下に監禁されているはずの存在であるのだから尚更だ。
村長が村人の男を何人か選抜し、地下室に向かったが、少しばかりの時間の後に帰ってきた。
その顔が酷く青ざめていたことに、村人達は固唾を呑んだ。
「――魔女が逃げた」
わなわなと震える手で自身を抱いた村長の姿に誰もが冷や汗を浮かべる。
誰もがその事実に震えた。
この世界に於ける魔女とは、ゲームに於ける魔法の中位を扱える存在を示している。
魔法には低位、中位、高位魔法、さらに神域魔法というのが存在する。
低位魔法とは簡単に言えば火球のようなものだ。
火の球を魔力で生成し、任意の地点へ飛ばすという簡単な魔法ではあるが、この世界の住人は下位魔法の習得に、魔法適性を持ってしても一年から二年の時間を必要とする。
中位魔法は低位の魔法をある程度使えるものでも、一生をかけて習得できるかという話だ。
中位魔法に代表される炎の柱はそれだけで多くの者から尊敬の眼差しを向けられる。
そして、中位魔法を扱える魔法使いが悪行に走り、人の理から離れた所業を犯したものが『魔女』と呼ばれる。
中位魔法はそれだけで村一つ壊滅させるだけの力を持っているだけに、村に住むものであれば魔女という存在を恐れずにはいられない。
一瞬で村人全ての命を消し去れるからだ。
村長はゴブリンを使役しているように見えたマリアを魔女と認識したのは、王国で噂される『異形使いの魔女』という話を聞いたことがあったからだ。
その話はとても前に聞いた話であったが、魔女の多くは歳を誤魔化す術を知っているという俗説から判断してのものだ。
村の成人と変わらない見た目の、それでいて美しすぎた彼女が魔女でないわけがない。
村長は奥歯を鳴らし、村一体を捜索することを支持した。
それは既に遅いかもしれないと考えていたが、仕方の無いことだ。
捜索に向かった男達の誰もが遭遇したくないという思いを抱きながら、農具を手にして林へ向かう。
サリナはそれをボーっと身ながら、自分を寝かせた後にどこかへ消えた女性を思い出す。
「あの人は大丈夫かな?」
「どうしたのお姉ちゃん」
サリナは傍に背の小さな八つほどの歳の少女、イオナがいることに気がついた。
幸い、普段から早起きをしていたサリナが、母や妹が起きた時に部屋にいないことで騒がれることは無かった。しかし、姉の姿が見当たらず不安だったのか、イオナはサリナのチュニックを力強く掴んでいる。
「ごめんね。朝ごはん食べ忘れちゃった。なんだか皆忙しいみたいだから、おうちに帰ろっか」
妹を慰めるようにして頭を撫でたサリナは、昨晩旅人の女性から頭を撫でられたことを思い出す。
――お姉ちゃんか。あの人の手、とっても綺麗で、暖かくて良い匂いだったなぁ。
心の中に溜まった不浄が洗い流されたかのように、サリナの体は軽くなっていた。その足取りは軽快で、異常な出来事の中に一つの平穏な日常が窺える。
そんな彼女等の背を見た村人の幾人かは、複雑な表情を浮かべて見送った。
なんとしても、子供達に危険が降りかかってはいけない。そういった思いを抱いていた。
村人達の気持ちを微塵も知らないイレーネ姉妹は、家へ向かうと、何か慌しい屋内に不安の表情を浮かべて戸を開ける。
中には荷造りをした母の姿があり、父の形見である藁帽子やいくつかの着替えを麻袋に乱暴に放り込んでいた。
「お母さん、どうしちゃったの?」
妹が不安から耐え切れずに発した言葉に、サリナは強い視線で同じ気持ちを母に訴えかける。
「魔女が逃げたって。見ていないから私は知らないけど、獰猛なゴブリンを連れてこの村を襲いに来るかもしれないって隣の奥さんが言ってたわ」
そこには一切の余裕は無く、ただ聞いたままの話を説明するだけの人形のような、抑揚の無い言葉が返ってきたことに二人は複雑な表情を浮かべ、妹のイオナは今にも泣き出しそうであった。
「私達女のすることは、貴方達子共をつれて、この村から少しでも遠くへ逃げるのよ。隣村で二日はかかるけど、逃げないとお父さんよりも酷いことになるかもしれない」
ありのままに、最悪の事態を伝えた母から、サリナは母から一切の余裕どころか、この村を切り捨てるという選択しか無いことに驚愕した。
父と過ごし、記憶に遠い兄との思い出の詰まったこの村を何故捨てなければならないのか。
父の墓があるこの村から何故逃げ出さなければならないのか。
「優しくいってあげられなくてごめんね。でも、私にはもう貴方達しかいないのよ。こんな母を許して」
二人の表情を見て、母は涙を流しながら、姉妹の首に腕を回して包容した。その母の体は恐怖に震えている。
母だって、愛する父を失ったのだから。
そんな母に、少しでも怒りを覚えてしまったサリナは謝ろうと口を開く。
しかし、彼女の口から謝罪の言葉が述べられるよりも早く、村に悲鳴が轟いた。
同時に、昼の知らせで使われる鐘が何度も激しく叩かれた。
これは村長が村人全員に伝えていた、異形種が村に侵入した際の警鐘だ。
それを聞いたイレーネ家の一同は恐怖に互いの体を抱き寄せ合った。
息を殺して、家の周囲から聞こえてくる音に三人は注意を向ける。
「オークだ!オークが出たぞ!」
「数は十くらいだが、林の木々を押し倒して向かってるらしいぞ」
「早く女子共を村から出せ!」
「どっから逃がせば良いんだ!オークは林で散り散りになったと聞いたぞ!」
その言葉を聞いた二人の子を守ろうとする母は腰から力が抜ける気持ちになっていた。
オークという異形種を知らない二人の娘は母の震えが一層強くなったことに驚いていた。
オークは、その体が人間の倍に相当する。
森の巨人とも呼ばれる異形は、普段は物静かな害の少ない異形種として知られている。
しかし、彼等はゴブリンと共に人間を襲うことでも知られている。
つまりは、オークのほかにゴブリンが集まっていることが彼女には予想できたのだ。
王国の郊外に位置するこの村は、限られた範囲は自然に恵まれていて、時折異形種は出るものの林の加護なのか異形種と遭遇するのは非常に稀な村である。
極稀にゴブリンがやってくることがあるが、大抵はもっと他の村に現れることが多く、そういった争いからは縁遠い村だった。
それがどういった経緯か、多数の異形種に囲まれている状況に陥っている。
これは最早魔女が訪れた不幸を呪うほかに無い。
母は台所から包丁を人数分持ち出し、サリナとイオナに一本ずつ渡した。
「いざとなったら、これを使いなさい。両手で持って、切っ先を相手に向けるだけでもいいから」
二人に対して、すぐに教えられる相手に対する威嚇の仕方だった。
なんの足しになるかわからないが、もしかしたら時間稼ぎにでもなるかもしれないと、母は二人に一度だけ構えを見せて、皮袋を渡してポケットにしまいこんだ。
震えて言葉の出せない二人の手を取り、母は家の戸を開ける。
村には恐ろしいほどの静寂――警鐘が鳴り響いているが、それは恐らくオークの注意を引こうと必死に誰かが叩いているのだろう。しかし、人の声は一切聞こえなくなっていた。
イレーネ家は村の集落の外れにあり、すぐ近くは林になっている。
他の家と多少距離があるため、見晴らしが多少良い。
広場のある方角へ三人が目を向けると、口に手を当てた四人が身を屈めて林に向かっているのが窺えた。
あれは隣家のプロコペンコ家の人たちだ。兄である成人男性と、少しばかり皺の目立つ母と二人の弟を連れて林へと誘導している。
固唾を呑んで彼等を見守るサリナは、不意にその四人を覆うような影が、隣家から伸びたのを確かに見た。
――逃げて!
そう発しようとしたとき、母によって口を塞がれ、小さな呻き声に似た声が微かに漏れた。
次の瞬間、地面を陥没させるほどの力によって叩き潰されたプロコペンコ家長男と思われる血肉が辺りに飛散した。
そこからの展開は恐ろしいかった。
次男、母親、三男の順番で、大きな丸太のようなもので叩き潰される三人をサリナは目撃してしまった。
胃からこみ上げてくる気持ちの悪い何か。それを必死に喉で押し留め、母に誘導されて林の中に向かう。
幸い、妹は恐怖に声を漏らさなかった。見れば、母に耳元で何かを囁かれている。
それは童謡だっただろうかとサリナは非日常の中で日常を思い出そうとする。
混乱を意図的に作り出してしまうことで、サリナは他のことがあまり考えられないことに気がついた。つまりは、母が妹にしていることはそういうことなのだろうと考える。
一体母は何者だろうか。と不安と共に疑問を抱きながら、母を尊敬する。
父の話では、母は村を襲われて行き倒れていたところを隣村に拾われたと聞いた。
もしかすると、母も同じように母の母、祖母から助けられたのかもしれない。
林を抜けると、緑色の肌をした醜悪な見た目の小人が三人を出迎えた。
その中でも、特に醜悪な、犬歯が顎まで伸びた曲剣を片手に四足の鱗に覆われた土気色の怪物に跨ったゴブリンの姿は異形そのものだった。
母はその場で、微かに悲鳴を漏らして尻餅をつく。
イオナはその場で立ちすくみ、リザードに跨るゴブリンの長と思われる異形に睨まれていた。
状況を理解できないサリナは、母から受け取っていた包丁を取り出し、醜悪な怪物に向けて言葉を発する。
「・・・・・・うぁ」
やめろ!と言いたかったサリナだが、その言葉は発せられず、か弱い呻き声が辺りのゴブリン達の耳に届けられる。
それを聞いたゴブリン達はしゃがれた笑い声を上げて、地面を揺らした。
「静まれ!」
威厳とも取れる、重圧を長が発するや否や、一瞬にした静寂が訪れる。
「人間の娘。良い度胸をしてるな。俺は女神様を助けに来た」
その言葉にサリナは目を白黒させる。
今この怪物が何を言ったのか理解できなかった。それは他のゴブリン達も同じだったのか、どよめきが上がっている。
「本来は・・・・・・だがな。俺は俺達の仲間を踏み潰したあのクソオーク共を打ち殺すためにここにきている。それで、女神様。黄金の髪を持つ、心優しき女性は見なかったか?」
女神という言葉に眉を顰めるサリナだが、金髪で優しい女性というのは村には一人もいない。
金髪の女性は非常に珍しいのだ。
そこで、暗がりのなか出合った女性が、金髪であったような気がして、彼女の事を思い出した。
「えぇ・・・・・・」
今もまともに言葉を発することができないサリナを見て、ゴブリンの長は訝しげな顔をして頭を左右に振った。
「知っていたら頷いてくれれば良い。俺もこんな見た目だからな。人間が恐れるのも仕方ないだろう。だが、人間に危害を加える気は今は無いと言っておこう。女神様が俺を帰したのは人間を恐れさせないためだと思うからな」
この言葉を聞き、魔女が連れていたゴブリンというのが彼であることにサリナは気がついた。
そして、ゴブリンの話を信じるのであれば、村長や他の村人が恐れるような人物、魔女ではないというふうにも考えられえた。
だが、目の前の異形が真実を語っているとは限らない。
父は嘘を吐かない優しい人だと信じていた。しかし、その父でさえ嘘をついていたのだ。ましてや異形が嘘を吐かない保障はどこにもないのだから。
そもそも、武器を持った異形に微塵も信頼を抱くことが出来るはずも無い。
しかし、そんなサリナの感情は、ゴブリンの長が発した言葉とその表情により、変化することとなる。
「だから頼む。女神様は無事なのか?」
その者の瞳は、目尻に涙を浮かべていた。
それほどまでに大切に思っている存在なのだろうか。
何故彼のゴブリンがそのような感情を抱いているのかサリナには理解できない。
しかし、そこから抱いたゴブリンへの感情は、どこか自分と重なって思えた。
父が最初に倒れた時、医者に向けた自身の表情が同じだったのではないか。
イオナも母も医者に対して、同じ表情を浮かべていたことをサリナは思い出す。であれば、この異形の言葉は嘘偽りの無い、救いを求める表情は信じても良いのではないか。
サリナは頷いて帰した。
恐らく、あの旅人ではないのかもしれない。しかし、村長は魔女を処刑するといっていたが、その者は逃げ出したということだ。
そこで、サリナは魔女とゴブリンが主従関係ではないのではないかという考えに至る。
「あの――もしかして、村では魔女と呼ばれている方とは」
「住みかを追われた俺たちに、新しい土地をくれた偉大なるお方だ」
サリナの頷く姿を見ていたゴブリン・リーダーは、すぐさま仲間のゴブリン達に林を突破するよう指示をだしていた。
「あなたの名前は!」
「ガゴンだ」
掠れた声からの呼びかけに、ガゴンと名乗った男は片目を閉じてサリナの横を通り抜けた。
ゴブリンの四十ほどの群れは、地面を揺らして駆け抜ける。
呆気にとられたように母と妹がゴブリン達の背中とサリナを交互に見る。
サリナは自身の股が気持ちの悪い感覚に襲われ、失禁していることに気がついた。
だが、それを恥かしがっている場合ではない。
もしかしたら近くにまだいるかもしれない旅人のことを思い出し、母と妹の手を取り歩き始めた。
名も知らない癒し手の存在を求めて、夕刻の平原を歩く。
少女に向けてウィンクしたガゴンは、すれ違いざまに感じた異臭に眉を顰めた。
「やっぱり俺ってそんな怖いのか?」
異臭の正体はわかっていた。もようして草木に隠れて用を足したときに漂うアレの臭いだ。
それは、他の村で人間達の暮らしを観察している時に、偶々遭遇した人間も同じように股を濡らしていたからこそ分かったことでもあるだろう。
その時の村人に「命をお助けしてくだされば、私のお宝を差し上げます」と言われ、興味があったガゴンはその村人の家の近くまで着いていき、手に持つ曲剣を手に入れたのだ。
それからその村人とは仲が良くなり、剣の手入れなどを聞き、お礼に兎を与えていた。しかし、ある時を境にその村人とは会えなくなってしまったため、その時の悲しみを未だに鮮明に憶えている。
「ゴブリンと人間は相容れない存在か。人間の女はすっげ綺麗なのにな。女神様なんか最早人間の域を超えてるしな」
不気味な笑い声を漏らしながら、林を疾走するガゴンは木々の隙間から見える巨体――オークを見つけると、剣を大きく体の横に振って仲間達に指示を出す。
「目標は目の前だ。前のと同じヤツらなら、数は十だ」
えーと、とゴブリンの何人かが自分達の指を追って数えだし、それを見たガゴンは嘆息する。
ゴブリンの片手指は四本しかないのだから十は数えられないぞ。と思いながら、剣を開けた場所で人間を叩き潰して遊んでいるオークに向ける。
「あの残虐非道なクソったれを血祭りに上げろ。殺せ!」
「コロセ!コロセ!コロセ!」
殺戮の合掌が辺りに木霊する。
林の中で息を潜めている人間の女子共の存在に気がついているガゴンは、彼等の邪魔が入らないように言葉を加える。
「人間は殺すな。邪魔なだけだから無視しろ。俺たちの目的はクソッたれだけだ!女神様を見つけたら俺に報告しろ!行け!」
数にして四十のゴブリンがいっせいに一体のオークへ向かって走り出した。
先陣を切ったのは、普段は大人しくゴブリンの中でも大柄な男だ。
彼は大きな棍棒を手にし、自分の一回りも二回りも大きなオーク相手に臆することなく突進していく。
彼の一歩は背についてくる他の者達を震え立たせ、彼の一歩はオークの注意を引いた。
ドシンドシンというオークの重い足音が先陣を切るゴブリンに向かう。
そのオークに初めて一撃を加えたのは後列の弓隊だった。
四人のゴブリンによって構成されたゴブリンの援護射撃隊。それは、人と人の争いを見て学んだガゴンが考案した先頭陣形だ。
多くの人間同士が衝突する前に、無数の弓が相手の先頭に立つ者たちへ浴びせられ、多くの命を奪っていた。
数の有利はあっても、決して力ではオークには勝てないのがゴブリンという種族の弱さである。
二であれば一を超えられるというのが人間の考えかもしれない。しかし、それは一が一であるという前提があるからだ。
もしもその一が実は三であったり四、もしくは十であるならばそれを上回る数を用意しなければならない。
ゴブリンとはオーク一人を一としたとき、五人でやっと一なのだ。となれば、オーク十人に対して、四十のゴブリンはたったの四十しかいないとも言える。
それを補うために、武器が重要に成ってくる。
オークは基本的に幹の低い木々を乱暴に引っ込ぬいて棍棒のように扱う。
巨体ということを考えれば、普通のゴブリンからすれば近距離と中距離に匹敵しかねない武器であると言える。
ならばこそ、遠距離の武器が必要になってくるとガゴンは考えていた。
もちろんオークとの戦闘を想定して弓を扱えるものを育成していたわけではない。しかし、オーク以外にも自分達よりも背丈が大きい存在は無数にいる。人間もその一種だ。
自己防衛のために、人間とは争いたくないというのがガゴンの根底にはあるのだが、時として戦わねばならないだろう。そういった際に、知能が低いと思われるゴブリンにも遠距離で戦える存在がいると知られれば、それだけで相手も警戒をしてくれるだろう。
本来であれば、弓を扱えるゴブリンは五十ほどいたのだが、友好的な存在であったオークに多くが蹂躙され、その数は十ほどしかいない。
恨むべきやつ等のために仲間を総動員して戦いたかったという気持ちが、ガゴンの中にはあった。
しかし、ゴブリンのリーダーである彼は、集落のことも考えなければいけないため、半数以上の弓兵を集落防衛のために残してきたのだ。
とは言え、消耗品である矢はかなりの数を持って来ている。
オークに矢はそこまで効果的ではない。現に、オークに刺さった矢はあまり外傷を与えられていないのだ。
ガゴンはそれも理解している。
オークは飛んで来る矢を鬱陶しげに棍棒を振り回して身を守っている。その後ろ、先頭を走っていたはずのゴブリンが何人かを連れて回り込んでいた。
手には鋭利な石が括り付けられた木の棒――槍が握られており、タイミングを見計らっている。
降り注ぐ矢に一歩、オークが足を引いたその瞬間を狙って、ゴブリンの槍が膝裏目掛けて差し込まれた。
木々を揺らすほどの叫び声がオークの口から発せられ、思わずガゴンは両耳に手を当てた。
それを合図といわんばかりに、弓兵は射撃をやめ、控えていた三十のゴブリンが体勢を崩したオークに群がった。
それからは一方的な暴力。
殴る、切る、突くの攻撃に、ゴブリン達の殺意の合唱が村に木霊する。
何人かのオークは叫び声を聞きつけて集まり、その恐ろしい殺戮現場を目の当たりにした。
息も吐かせぬように、弓兵が弦を引いて掃射を浴びせる。
今度の攻撃はオークの恐怖を増長させる攻撃だった。
矢が浴びせられたオークの下に三十のゴブリンが殺意に満ちた合唱を奏でて走り寄ってくる。
いくら力が自慢のオークでも、三十の数は恐ろしかったようだ。
だが、全てのオークが怖気づくわけでもない。
三十のゴブリンに対して、勇敢に立ちはだかる、より巨大なオークがいた。
「っち。オークの長もやっぱりいたか」
ガゴンはその者に明確な殺意を向け、声を張り上げた。
「オークの長よ。俺はお前に決闘を申し込む」
オークもゴブリンと同じくらいに知能の低い異形種である。
しかし、その長は同族を治める者としてのプライドがある。
ゴブリンの長とは面識があるため、言葉が理解できなくとも、彼の言葉の意味を理解した。
地鳴りのような足音を響かせ、オークはガゴンのもとへと歩み寄る。それを確認したガゴンは近くに控える弓兵を散らしてリザードから降り立った。
体格が大きく離れた二人、二体の異形種は睨みあい、誰から見ても二体の間には火花が散っていた。
それを林から見ている村の者達は固唾を呑んで見守る。
どうやら人間には危害を加えないと宣言していたゴブリンが勝つことを祈っている。
しかし、誰の目から見ても、ガゴンが勝つとは思えないほどに、一対一でははっきりとした体格差があった。
体の大きな者は大きな力を持つのは自然道理。控え目に言っても、ゴブリンのリーダーの背丈はオークと戦えるようなものではない。
見れば、先ほど先陣を切っていたゴブリンの方が力も背丈もあるように見える。
であれば、あのゴブリンは何故余裕な表情を浮かべてにらみ合っているのか。と、人間の関心を集めるガゴンは不敵な笑みを浮かべてオークに言葉をかける。
「言ってもわからねぇかもしんねぇが。オークのお前らには力しかない。圧倒的な力しかな」
「チカラ。チカラゼッタイ」
その声は、嘗て神が生み出した命とは思えないような、冒涜的な声音がオークの口から発せられた。
「俺は人間の戦いを見てきた。それは体格に差があっても勝利するだけの力があった。お前のような頭の中が空っぽなクソヤロウとは違ってな」
「オマエ、コロス」
「あぁ。俺もそうしてやるよ」
ゴブリンの持つ曲剣が微かに光を帯びる。
それはガゴンの左手が、刀身を沿うように当てられた結果なのだろう。
辺りが少しだけ暗くなり、その光が高まるのを辺りの者達は感じていた。
「魔法って知ってるか?」
それはOratorioを知る者からすれば低位の初歩的な魔法であることを知っているだろう。
補助魔法に分類される武器への魔法付与だ。
風の力が凝縮され、バチバチと閃光を煌かせたそれは刀身の中に吸い込まれていく。
風の魔法が付与された武器をゴブリンは半身になりオークから隠すようにして構える。
それは他のゴブリンがしないような、王国の兵士や戦士が行う『構え』だ。それを見た多くの人間は一瞬もガゴンから目が離せないというようにその場から動くことが出来ないでいた。
ゴブリンとは知能が低い異形種であるが、本来はその数から恐れられている。
商人からすれば、ゴブリンの集落に間違って踏み入ってしまえば、荷物をかなぐり捨てて逃げ出すだろう。
通常、ゴブリンが集団で敵を襲うとき、百や二百の数を持って争うと言われている。
村に来ているのはもしかしたらそんな集団の精鋭かもしれない。ましてや魔法を使うゴブリンなど見たことも聞いたこともない村人からすれば、興味と恐怖のどちらも抱いてしまう。
さらに、そういった情報を数人で王都へ知らせ、王都から確認されれば報奨金と討伐隊が組まれることになっているため、情報を得なければならないという使命感が村人達の心にはあった。
オークはゴブリンのその姿を見て笑っていた。
「ニンゲンマネタ。オマエオモシロ」
暴力などは生ぬるい表現となってしまうだろう。
オークの長の一太刀、棍棒の一撃は一瞬にしてゴブリンの頭蓋を割るように地面を穿った。
辺りに矢よりも高速に飛び散る石つぶてに木が穿たれ、何人かの村人を貫いた。
悲鳴が上がり、叫びとなって木霊する。
その合唱を耳にしたオークは満足気に土煙のたった地面に視線を向ける。
これで殺した。木っ端微塵だと考えたオークは、そこから浮かんできたゴブリンの影に眉間に皺を寄せた。
「ナゼタッテル」
もう一度棍棒を振り下ろし、再度土煙が立ち上った。
今度はゴブリンの姿は無く、そのことに満足したオークは天を仰ぎ、高らかに冒涜的な笑い声を上げた。
「ア?」
オークの目には夕暮れの鮮やかな空だけが見えるはずだった。
しかし、目の前には剣を構えた緑色の小人が、自分を目掛けて落ちてきている。
理解し、行動しようとしたときには遅く、風の力を纏った一太刀がオークの後頭部から背中に掛けて真っ直ぐに切り裂く。風により強化されたその一太刀は、傷口を何度も傷つけたかのように無数の斬り後を残す。
すぐさま反転をして横薙ぎの一撃を振るうと、土煙が上がった。
地面を叩いていないはずなのに上がった土煙りの中に、ドロ人形のようなゴブリンの頭部が一瞬だけオークの目に止まる。
「案山子って魔法さ」
オークは再び上空からガゴンの姿を確認した。
オークが棍棒で上空を、空間を抉るような大きな横薙ぎを行おうとしたとき、緑の小人が恥部隠しから何かを取り出すのを見た。それは土だった。
口を微かに動かしたゴブリンは、左手に掴んだ土を離す。そうしてみるみるとゴブリンそっくりの土人形が生まれ、それを足場に跳躍した。
オークの一撃は土人形に辺り、土の煙がオークの周りに広がった。
それがオークの攻撃避けた手段だったのだ
だが、それを見ていた村人はどうやって真っ直ぐの一撃を避けたのか気になった。
横薙ぎの攻撃であれば、今自分が見たように土人形を踏み台にして高く飛ぶことができるかもしれない。では最初の一撃はどうやったのだろうか。と、そこで村人は、一度距離をとったゴブリンの身体を注視した。
その体が左半身――オークに向けている方は綺麗であったが、良く見れば右手の辺りに血が滲んでいて、僅かに地面を濡らしている。
「さすがに一撃がでけえな」
ガゴンは自身の右半身が悲鳴をあげ、今にも剣を落としそうな右手を凝視する。
余裕を見せてはいるが、オークの一撃をすぐ近くで回避し、石つぶてをゼロ距離から受けた右半身は無事なはずはなく、見られてしまえばどれだけ追い詰められているのか知られることだろう。
ガゴンはつぶてをあえて受けた後に、案山子を使って土人形を生成し、起こったオークが再度棍棒を振り上げるタイミングにあわせて棍棒に乗った。
そして、そのまま跳躍してオークの頭に一撃を与えたのだ。
ガゴンの意識は遠くなっていき、視界に捉えるオークの姿は霞が掛かっている。
――あぁ、女神様。もしも生きていらっしゃるなら、この哀れな俺を助けてください。
ガゴンは振り上げられたオークの棍棒に意識が及ばず、糸が切れたようにその場に倒れた。
「?!」
それに驚いたのはオークだけではなく、その場にいたゴブリンも同様に、林の中で息を潜めている無事な者たちだった。
攻勢に見えていたゴブリン・リーダーがなぜかいきなり地面に倒れたのだ。
オークの長が勝ったと思った何人かのオークがその場で手を掲げた。その隙をゴブリンの群れは見逃さず、攻撃に打って出た。
それはより一層凶悪さを増した攻撃。彼が倒れたことに驚きはしたものの、悲しむ姿や怖気づいた様子はない。
そのことにオークの長は恐怖した。
もしかしたら、これも作戦なのかもしれない。という恐怖。ゴブリンの演技だ。
知能が低いオークといえど、オークの長は他のオークに比べれば幾分か頭が働く。
それは、ゴブリンが攻撃を回避し、魔法という人間種で何人か使っている者を見たことがあったオークには、次ぎにゴブリン・リーダーが何を企んでいるのか予想が出来なかった。
初めは、たかがゴブリン。たかが小人だと侮っていたオークは、その虚を突かれて後頭部から背中にかけて大きな傷を作られた。
そのことがゴブリンに最後の一撃を戸惑わせている要因となっていた。
「――ッ!!!」
疑念。
オークの長は初めてゴブリンという存在を考えた。
今まではゴブリンとは近くの縄張りで狩りをしたり共存していた関係だったが、小さい者を養っている、動物を従えているような感覚だった。
しかし、そんな世界に強大な力を持った存在が降り立ったことで、オークは肌で死を感じ、ありったけの食料を得て縄張りを広げることを考えた。
それは命を繋ぐ、繁栄させるための本能的な行動だった。
その時、確かに今まで共に生きてきたゴブリンを殺すことに躊躇いはあった。しかし、自分達種族の命を考えれば当たり前のことだと感じていた。
しかし、そんな自分達の行動は、間違っていたのかもしれない。
死を体感したオークは、低い知能が徐々に高まっているのを感じ、同時に頭が熱くなるのを感じる。
目の前に横たわる存在も、もしかしたら死を身近に経験し、魔法を使えるだけの知能を持ったのかもしれない。
尊敬に近い念を抱いたオークの長は、棍棒を手から離した。
だが、それは戦いを放棄したのではない。
近づくことで、命を一瞬にして奪われる可能性を考慮しての――投擲。
旋風にも似た風が起き、横たわるゴブリンを目掛けて飛んでいく丸太は命を刈り取る破壊力を持っているのは、ソレを目にしている者には一瞬で理解できる。
――シンデクレ。
オークの願いが込められた一撃。
その願いは叶えられた。