鐘の鳴る方へ1
ゴブリンとは知性の低い異形種である。
それは、数あるゲームをプレイしたことのある者であれば理解できるだろう。
大体、ゲームの序盤で戦うことになるパターンがほとんどであり、Oratorioに関しても例外ではない。
ゴブリンは森や鉱山などに出没する低レベルのモンスターとして知られていて、醜悪な見た目に醜悪な性格をした存在だ。本来、プレイヤーを見れば集団で襲い掛かってくる、初心者プレイヤーからすれば少々厄介なモンスターとしても知られている。
だが、見た目こそゴブリン――ゲーム設定では平均身長130センチ――のリーダーたる者は、非常に人間に対して友好的である。
ゴブリンにもホブゴブリンという人間に非常に酷似した緑色の肌の異形種も存在するが、彼等は通常のゴブリンとは違った面が多々ある上に、人間を襲うゴブリンとは共に行動をしないのがオラトリオでは知られていることだ。
小さき悪魔や悪の妖精などという話もあるが、ゴブリンの知性はアップデート前とアップデート後では違った。
まず、ゴブリン・リーダーを除けば行動こそ普通のゴブリンである。しかし、前では集中したところで理解が出来なかったはずの言葉を話している。
次に、彼等は個性を持っている。
マリアは初めこそ『ガゴン』と名乗るゴブリン以外の見た目の判別や性格の違いの区別がつかなかったが、少しばかり長身でゴブリンにしては細身と思える『ングア』は、どこか気の小ささを感じさせる言葉を漏らしている。他にも、別段珍しくも無い小太りのゴブリン『ギグン』はおっとりとしていて、ガゴンへ尊敬の念を抱いているような言葉が発せられていた。
他にいるゴブリン達も同様で、少しばかり小柄のマリアに攻撃を仕掛けようとしていた『ギガゴ』はやたら気が大きく、人間を見下している等の違いがある。
マリアが村へ案内するように告げた時、真っ先に理解を示したのは彼等のリーダーガゴンであり、彼を尊敬しているようなギグン、ングアと徐々に納得したように「近クニ住ンデモイイナライイカ」と言った。
マリアからすれば、わざわざ自分に確認を取らなくてもよかったのだが、彼等は人間のような社交性を持っているかのようであった。
彼等の為に、マリアは素材としてたくさん余っていた木の角材を与えたところ、不審に思う者もいたが受け取って集落を作り始めた。
マリアの頭の中にはクエスチョンマークが幾つも浮かんでいたが、これが新たなゴブリンという種族の形なのだろうと無理やりに納得をし、現在は村の見張り台が見える位置まで移動していた。
「それにしても、ゴブリンが人と交渉をするなんてねぇ」
マリアは呆れたような声を漏らして、彼女を先導する一体の、一人のゴブリンに目を向ける。
大手を振って鼻歌混じりに歩いている酒悪な見た目の、犬歯が異様に伸びたゴブリン・リーダーの背がある。
「何をいっているのでしょう。俺達ゴブリンにだってそれくらいの知能はございますよ」
マリアの声が聞こえていたガゴンはとても嬉しそうに言葉を返した。
「でも私が知るゴブリンはもうちょっと凶暴というか、人の言葉を話すどころか、人間を見ただけで襲ってくるけど」
「それは当然でしょう。俺達だって生きるか死ぬかなんですよ。武器を持った人間や食べ物を持っていそうな人間を見たら、持っている物くらい欲しくなりますし。一番知っておいて欲しいのは、ゴブリンだって意思疎通ぐらいできますよってことですね」
そうか。当然なのか。とマリアはゴブリンの一言を心のメモ帳に記した。
つまりは、人語を話せて当たり前ということだ。これはマリアにとってもっとも重要な知識であると考えられた。
マリアはアップデート前112レベルという顕界突破のスキルによって強化されている。それは実際のところどの程度の強さか説明すると、サポート特化の職業である彼女でも100レベルの火力職に劣らないだけの魔法攻撃力を持っている。
一度だけマリアは他の殿堂入りプレイヤーと攻撃力の検証をしたことがある。その際、手伝った者のレベルは118とマリアよりも高レベルであったため攻撃力はマリアが圧倒的に低かった。しかし、その者は「100レベルの平均的な火力レベルじゃない?」と言った。
火力特化クラスのプレイヤーと比較すると、それこそ雲泥の差はあったものの、通常の顕界レベルのプレイヤー火力には至るという点に、マリアは自信持っていた。しかし、現在は魔法は愚か、物理攻撃力もレベルアップ時に自動取得される筋力増加を考えれば、ゴブリンに後れを取ることはないはずだった。けれども、幻想が打ち砕かれたかのように、無情にもマリアはゴブリンよりも弱かった。
そんな彼女であるからこそ、交渉ができるのであれば危険を回避できるのではないかと考えた。
実際、怖がりさえしなければスキルを使うだけでどうにでもなりそうな気はするけど。
マリアは、キャラクターの能力として唯一使える『スキル』の存在を思い出して平常心を保つ。
彼女は不安なのだ。
態度こそ良いものの、自分を袋叩きにし自尊心をへし折ったゴブリンという種を恐れていた。
「あ、そうそう。頑張って硬い喋り方はしなくていいからね。私もそうさせてもらうから」
「はい。あ、いやわかりやした。ん?こんな感じでいいですかね」
境界線がはっきりとしないような口調のガゴンに対して、マリアは頷いて返した。
「貴方、『ホブゴブリン』じゃないわよね」
「はて、初耳ですな」
どうやらホブゴブリンを知らないようだった。
レイレン平原と呼ばれるアラン王国郊外に当たる場所に、ジュレイ村はあった。
特産品も無く、管理する貴族のいないその土地の村は裕福ではない。
だからこそ、村人の多くは農業に励み、単価は低いが農作業に従事していた。
村の子供達の中では年長者のサリナ・イレーネもその一人である。
日の出と共に起床し、近くの林にある小川、水場に足を運ぶ。
小さな盆を持った彼女は、その盆いっぱいに水を汲んで家へと向かう。それを三回。
家にある桶に、汲んできた水を入れる。それから彼女は朝食の仕度をする母の手伝いを始める。
その頃になると、八歳になったばかりの妹が薪を持って台所まで足を運び、炉へくべ始めた。
一番最後に起きてきた父を確認した母は、娘達に木の器や匙を用意させ、器に並々とスープを入れる。
今日の朝食はニンジンのスープに少しの干し肉と木の実のパンだ。
一日の始まりを祝うように、一家団欒の時を過ごす。
食事が終われば畑仕事が待っていた。
母は村の女性達と共に壁の建設の手伝いに向かう。
「今日も頑張ってくるから、イオナはお父さんの言うことを聞くこと。サリナはあんまり無茶したらダメよ」
「はーい」
サリナはイオナの姉であり、常に背を見られていることを意識して生活している。絶対に妹に便りのない姿を見せてはいけないと思い、日々研鑽している。
そんな彼女の気持ちを知る父も、あまり無茶をされないように次女であるイオナよりもサリナを心配していた。
燦々と照らされたサリナの肌には汗が浮かんでいた。
火の月は陽光の強さに倒れる人までいるくらいだ。サリナは度々父と妹の様子を確認しては顔色の変化を窺っていた。
「たしか、汗が出なくなるんだったっけ?」
昨年父が倒れた時、十日毎に訪れる医者が言っていたことを思い出す。
熱い中で水を飲まずに仕事をしていると汗が出なくなる時があると言っていた。
「私が守らなくちゃ」
それは使命感にも似た強いものだった。
彼女には兄がいる。
歳の離れた兄であるが、彼は家族を助けるために王都へと行ってから何年たっただろうか。
兄からの仕送りで何とかなっているが、父は昨年体調を崩して以来、あまり働けなくなってしまった。
その事から、村の中でも彼女の家庭は貧しくなる一方だ。
村の中央から、昼の知らせが届いた。
カン、カンと青銅鐘を打ち鳴らして村中に広がる鐘の音に、気がつけば腹も音を上げている。
「お父さん!お昼!」
「わーい、お昼!お昼!」
「こらこら、二人とも。早く手を洗ってきなさい」
はしゃぐ妹を見て笑顔を浮かべた父は、家へと向かい、母が朝食の時に作ってくれていたお昼を取りに向かっていった。
父の後姿をサリナは目で追いながら、走り寄ってくる妹に抱きつかれ、体が土だらけになってしまた。
「もう。お洋服を洗うのだって大変なんだからね。お姉ちゃん怒るよ?本当に怒るよ」
「ごめんなさーい」
これで叱るのは何度目だろうかとサリナは昨日のことを思い返すと、同じやりとりがあった。
午後になれば、家族の洋服を洗うのが彼女の仕事だった。
妹のチュニックの汚れに溜息を漏らしながら、悪あがきに叩いてみるも、汚れが落ちる気配はない。
今日も大仕事になりそうだと愚痴を飲み込み、妹を近くの水場へ連れて行く。
この時期の水場には村の子供達が集まり水浴びをしていた。
サリナの歳頃は成人間近。子供達と一緒に遊べる年齢ではないが、妹は違う。
熱気立ち込める畑の中、労働をしている妹が村の中では異例なのだ。本来であれば、目の前で遊ぶ子供達に紛れて、暑さを忘れて水遊びに励んだことだろう。
恨めしげに子供達を見つめる妹の手を引いて、冷たい小川に手を漬けた。
「ほら、感じるでしょう?水の神様が私達の疲れを癒してくれるのを」
「うん!神様は優しいの!お父さんもきっと良くなるよね!」
妹は村人達の誰よりも神という存在を信じている。
それは、父を見てくれた医者が王国神官と同じ力を持つ方だったからだ。
神の身業と呼ばれる治癒魔法で父は一命を取り留めたのだ。
その力のおかげで父の命はあるのだが、その性で一家は苦しんでいるという事実を妹はまだ知らない。
父は表では気丈に振舞っているが、ある日の晩、サリナは神に許しを請う父の姿を目撃してしまった。『もしも、神様の使いが私の命を助けなければ――』という言葉はサリナの耳に呪いのように付きまとっていた。
「そうね。じゃあ水筒に冷たいお水を入れてお父さんにあげよっか」
大げさに頷く妹の姿に、姉は思わず笑みを溢した。
――できることなら、妹には何も知らないでいて欲しい。
妹には、すくすくと真っ直ぐに育って欲しい。そんな願いの込められた言葉を胸の奥で呟く。
妹に持たせていた牛の胃袋を加工して作られた皮袋に水を入れさせ、とても大事そうにそれを抱くイオナの頭をそっと撫でた。
一枚絵にしてしまいたい。そう思えるほどに可愛らしい妹の笑みに微笑みを返したサリナに、不穏な空気が近寄ってくる。
地面を這いよるようなそれにサリナの背筋を凍りついた。
「お姉ちゃん。叔父さんが何か言ってるよ?」
もちろんサリナの耳にも届いていた。しかし、意識がそれを拒絶しているかのように、認識していない。
妹の言葉に「え?」と溢したサリナの声は、微かに震えていた。
「サリナちゃん、親父さんが!」
サリナの顔は、まるで吸血鬼にでも吸われてしまったかのように青くなり、嗚咽にも似た声が漏れた。
「おとうさんが・・・・・・?」
妹の手を乱暴に引いて、その場からサリナは走り出した。しきりに「痛い痛い!」と妹の涙声が聞こえてくるが、気にかけている余裕は無い。
お父さん。お父さん。と心の中で叫び、サリナは一目散に家へとたどり着く。
そこには、十人ほどの村人に囲まれた、地面に倒れた父の姿があった。
「お父さん!」
サリナとイオナは近くの村人を掻き分けて、父の下へ駆け寄った。
サリナは決してイオナの前で涙は見せないと誓っていた。それは妹が生まれたときからだ。かつての兄がそうであったように、妹から姉となったサリナは兄を真似たのだ。昨年父が倒れた時でさえ我慢した。けれども、今回ばかりは無理だった。
父の顔は青ざめ、消え入りそうなほどに弱い息。そんな父を間近に感じてしまっては、十四歳の少女に耐えられるはずもない。
村人達の中に医者はいない。応急手当に薬草を使うことはできるが、それは切り傷や打撲痕に対してだ。ましてや神の身業を使えるものなどこの村にはいない。
サリナ達より送れて、顔が土気色になった母が現れた。母はその場で泣き崩れ、村の人々は何かを悟ったかのようにその場から離れていった。
その事実を受け入れられないイオナは擦り切れたような声で村の大人達に声を上げた。
「なんでそっちにいっちゃうの?おとうさんをたすけてよ」
大人たちは互いの顔を見合わせていて、サリナには何かを擦り付け合っているようにも窺えた。
そんな彼等の間を縫って、年老いた男性がイオナへ歩み寄る。
「イオナちゃん。お父さんはもう助からないんだ」
村の長が非常な現実を、まだ八つの妹に告げた。
それを否定することは出来ない。なぜならば、火の月とはそういう季節だからだ。
毎年一人は倒れ、もしくは亡くなる。それは十二歳を超えた者は必ず知っている。だが、子共には死というものを教えるには早すぎるという村長の取り決めで、妹はまだ知らないのだ。
人の死というものがどういうものなのかを。
もちろん、すべての村の子供達が死を知らないわけではない。
村の外に行って兎を狩る者を父に持つ子共は、もっと早く死というものについて教えられ、人にも死が訪れることを知っているだろう。けれども、農家で畑仕事以外を知らないイレーネ家ではそういった教えは村長の下で学ばされていた。
それでも、死を知るサリナでさえ死を受け入れることはできなかった。
この日ほど神を恨むことは無いかもしれない。妹の大好きな神様がどうしてお父さんを連れて行くのかと。
「村長!村の近くにゴブリンが!」
村の若頭として将来を期待される青年が、村長に何かを伝えに走ってきていた。しかし、サリナにとってそれはどうでもいいとさえ思えていた。
「まだ塀はできていないというのに。数はどれくらいだ」
「それが、一体と人間が一人同行しています」
「何?」
「ゴブリンに捕まったと思われ・・・・・・」
「村長!」
「今度はなんだ」
「そ、それが、ゴブリンを連れた人間が話をしたいと」
村の大人達はサリナ達の前から消えていた。
村長から父の死を宣告された妹は、わんわんと大声で泣いている。
母は声を漏らしていないが、顔を伏せて虚空を見つめている。
サリナは妹を後ろから優しく抱きしめ、たった一言告げる。
「大丈夫よ。神様がついているもの。お父さんはきっと光の国に連れて行ってもらえるんだから」
生と死を司り、善なる者を導くとされる光の神。彼女はその存在を信じてはいない。しかし、妹のために言わねばならない。彼女が一歩、大人になるために。