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無知性の凱歌: オリジナル  作者: 宮沢弘
第四章: 幸せ
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第172日

 20日ほど前に、向いに女性が越してきた。研究所に着任した人だった。何回か研究所でも見かけている。近い棟にいるようだ。

 彼女が引越しの挨拶に来た時には雷に打たれたように感じた。

 それは、劣情の雷だった。いや、別の言葉があったな。そう発情だ。いやいや、それも違ったか。欲情だ。そう、欲情だ。

 もちろん冗談だ。これは恋だ。だが、どれも同じものだろう?

 朝、玄関を出る時にも何回か出くわした。

「おはよう! そして会えなかったときのために、こんにちはとこんばんはも!」

 どこかで聞いたことがあるのだろう。そう挨拶をした。会った時には、だいたい同じような挨拶を。

「おはよう、アキさん」

 彼女はそう答えてくれた。

 彼女の声はいくぶん高めで、滑らかで、耳から心臓へと転がるようだった。このような言い方は失礼なのかもしれないが、あまりに女性的すぎない印象が、また良かった。

 彼女の声を思い出しながら、研究所へと足を進めた。軽い足取りで、心地良く。もちろん、実際に歩いていったわけではないが。

 そして、今、玄関を開けたところで、ちょうど彼女も玄関の前に出ていた。

「おはよう! そして会えなかったときのために、こんにちはとこんばんはも!」

 彼女は振り向き、挨拶を返してくれた。

「おはよう、アキさん」

 私は微笑み、いや素直に言おう、にやけた。

 次の言葉を出そうとして、何度か口を開いては閉じた。

 彼女は、私から目を外さず、歩き出すこともなく、目の前にいた。

「あの」

 やっとそれだけを言えた。顔が赤くなっているのが自分でもわかる。

 彼女はうなずき、まだ目の前にいた。

「もしよかったら、私の車で行きませんか?」

「お邪魔でなければ」

「もちろん」

 そう答え、私は右手を階段に向け、歩き出した。彼女も一緒に歩き出した。

 車の中での会話は、一つを除きほとんど覚えていない。よく運転できたと思う。正直に言えば、アシストがほぼ動かしていたのだが。ハンドルに手を置き、運転している様子を演じた。

 車の中では、夕食の約束をした。それよりも、軽い昼食をとも思っていたのだが。なぜか、今夜夕食を一緒にすることになった。

「こっちに来てから、まだいろいろと店を探しているところですよ」

「このあたりには、まだあまり店という感じのものもないんじゃないですか?」

「うーん。そうかもしれませんけど。それでも案外あるものですよ」

 そんな会話をしていた。

 研究所に入り、駐車場の入口で彼女を降ろす時には、何やらわからない気持が湧き出した。彼女の手を取ってみたいような。

 帰りにまた駐車場で待ち合わせる約束をし、彼女は歩いていった。

 私は車を停め、自室へと向かった。


   * * * *


 夕方、駐車場の前で彼女を待っていた。

 どうせ向いに住んでいるのだし、少しは飲むだろうということで、車を置いてから改めて出掛けようと、朝の車で話ていた。

 彼女がやって来るのが見えた。手を振り、車へと向った。

 こういう時には格好をつけた方がいいのだろうか。

 そういうことはわからないので、まぁゆっくり歩く程度しかできなかったが。


   * * * *


 その後、楽しい夕食を摂った。会話も楽しかった。

 これだけ会話を楽しんだのは久しぶりだと思う。

 会話を楽しんだことがないわけではない。だが、何か楽しさが違うように思う。それをどう表現したらいいのかはわからない。何とか言葉を見付けようと考えてみてはいるが、どうも思いつかない。

 そうやって、二時間ほど言葉を探してみた。

「ミルフィーユ」

 計算機の前で、その言葉を思い出し、見付けた。

 一言一言が多層であったように思う。一言一言が、他の様々な事柄を含んでいた。あるいは、他の様々な事柄に繋がっていた。

 今もそうではあるのかもしれない。だが、どうだっただろう。そんなミルフィールのような言葉を使う必要などなかった。

 ただ、楽しい会話をすれば、出来れば、それでよかった。


〔初出 Dec 06, 2015 〕


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