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秘密よ、さようなら

作者: 山田誠

 甲高い電子音と喧騒とタバコの煙が狭く暗い室内を満たしている。晴れだろうが雨だろうが、どんな天候でもここの空気は変わらない。やかましいほどの音があふれては地面に積もっていく。

 「くそっ!」財布から百円玉をとりだし、投入口にぐいっと押し込む。これで何回目だろう。画面に表示された数字はどんどん小さくなっている。俺はこんなことをいつまでやり続けるのだろうか、と減っていく数字を見ながら考える。こりゃまるで死へのカウントダウンだな、そんな思いがこのコンテニュー画面を見ると頭によぎる。が、それも一瞬のことだ。ゲームが始まればそんな考えはタバコの煙と共にどこかへ飛んでいってしまう。

残り4秒のところでカウントダウンは止まった。息抜きも大切だよな、楽観的な結論に達して意識を集中させる。世界が狭まる。喧騒はまったく気にならない、次は負けない。


 「ただいまぁ」

 「おかえり晃治、ゴハンできてるわよ。今日も一日お疲れ様でした」

そういって妻の智香はよく冷えたビールをついでくれる。彼女の料理は絶品だ。そこらへんのお店の何倍も美味い。なんというか味があたたかいのだ。

 妻には、仕事をクビになったことは一言も伝えていない。今日も仕事から帰ったと思っているんだろう。ダメな夫はゲームセンターで時間もお金も浪費してきたというのに、優しく迎えてくれている。仕事をクビになったことを知ったらどうなるだろうか。この暖かな生活はなくなるんだろうか。早く新たな仕事を見つけないといけないことはわかっている。でも…。

 「どうしたの? 神妙な顔つきして。もしかして料理失敗しちゃった?」

 「そんなことないよ、いつも通り美味しかった。ちょっと仕事のことでね。うん、いつも美味しいご飯をありがとう、ごちそうさま」

 「どういたしまして。お風呂いってきたら? 眉間にシワをよせちゃってさー。ずーっと気を張ってると疲れちゃうわよ」

 「シワよってたか? とりあえず、そうだな、風呂いってくるよ」

 俺はそそくさとその場を立ち去り、ゆっくりと湯船に身体を沈めた。

 ――ちょっと仕事のことでね

 何を言っているんだよ、無職が。なんで嘘を突き通しているんだ。全て言ってしまったら楽になるんじゃないのか。こんな思いをいつまで感じ続けるんだ。

 怖い、この生活を壊すことが。妻を失うことが。いなくなってしまうことが。

 でも…このまま無職のままなら遠くない将来必ず破局が待っている。生活するためには働いてお金を得ないとダメなことなど小学生でもわかっていることだ。

 風呂からあがり、寝室でしっかり髪の毛を乾かし育毛剤をふりかける。最近額が以前よりも広くなってきた気がする。だからヘアケアには余念がなくなってきた。効果があるのかどうかはまだわからない。

 鏡に向かっていると、背中から甘い声が聞こえてきた。

 「ねぇ、今夜、久しぶりに……」

 鏡越しに目が触れ合う。魅力的で豊満な体を鏡は映し出している。本当に魅惑的な女だ。

 「ごめん、最近忙しくて疲れてるんだ。またにしてくれないかな……」

 今の俺に智香を抱く資格など無いのだ。仕事もせずゲームセンターに入り浸っている俺が女を抱く資格など。抱きたくないわけではない。抱きたい。だが、ここで抱いてしまってはダメなんだ、と自分自身に言い聞かせ我慢する。一体何のための我慢なんだろうか。我慢することで、自己犠牲をしている気分に浸り、職探しをしていない自分を慰めているだけだ。

 「そっか……。お仕事大変なんだね。ごめんね。おやすみなさい」

 智香は少しだけ顔を赤らめていはいたが、落胆していることが声色からありありと伺えた。

 何で謝るんだよ、謝るのは俺のほうじゃないのか。

 ベッドに横になりながら明日こそなんとかしようと考える。横では穏やかな寝息が規則正しく続いている。明日こそなんとかしよう、明日こそ。考えをめぐらしているうちに眠りの甘い誘惑に全身を包まれた。


 翌日昨夜の決意とは裏腹に足はゲームセンターに向かっていた。何をしているんだ、俺は。ダラダラとゲームをし、正午になった。昼食をとろうと近くの定食屋に向かう。何もしなくても腹は減る。学生時代からお世話になっている定食屋だ。チェーン店だがまぁまぁうまいし、何より安い。

 「日替わり定食を」いつものように注文をする。日替わりなら何も考えなくてすむので、毎日決まっている。満腹になったところでまたゲームセンターにむかう。太陽は出ていたが、風が冷たかった。

 ふと、よく知っている匂いが鼻腔をくすぐった。いつも智香がつけている香水だ。人気のある香水だからな、と思いながら周りを見回してしまう。

 こんなところにいるはずないだろうという思いはあっさりと打ち消された。やや前方に小綺麗な格好をした智香をみつけた。どうしてこんなところに。ここから自宅までは結構な距離がある。だからこそ、誰にも見つからないこのゲームセンターを選んでいるわけなのだが。

 妻は喫茶店に入っていった。誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。オシャレな感じの店だ。雑誌などで紹介されてもおかしくない店構えをしており、外から見ただけでも繁盛しているだろうということがわかった。

 どうせやることもないんだし、好奇心からその店に入ってみることにした。

店内は外から見ただけではわからないほど広く、ずいぶんと席には余裕があった。店内には最近売れてきたアイドルの曲が流れていた。客層としては若い女性が多く、他はデートらしい大学生も数組いた。男が一人で来るというのは珍しいのかもしれない。

 妻からは見えないが、何を話しているかは聞こえる絶好の席に座った。

 ホットコーヒーを注文し、新聞を読むふりをしながら妻の様子を伺う。どうやらまだ相手は来ていないようだ。まるで探偵だな、と自嘲気味にコーヒーをすする。

 スッと冷たい外気が流れ込んできた。目を入り口の方に向けるといかにも今風といった若い男性が店内に入ってくるところだった。

 「お待たせしました、智香さん」

 「い、いえ。私も今来たところですから」

 一体全体どうなっているんだ。なんで顔を赤らめているんだ。どうしてそんなに嬉しそうな顔で笑っているんだ、智香。ずっと以前の思い出の中にしかなかった顔をしているんだ。

 世界が遠くなる。サァーっと何かが去っていくのが実感としてわかった。二人で何を話しているのかまったくわからない。耳には入ってくるが内容が理解できない。ただただ目の前にある現実を受け入れたくなかった。

 アレハダレナンダ。

 その言葉だけが世界となり、景色となった。

 気づいたときには、百円玉を取り出して、いつものように投入口に押し込もうとしている自分がいた。目の前のコンテニュー画面で数字がゼロに近づいている。死へのカウントダウン。やっぱり、だめだな。


 「ただいま…」

 「お帰りなさい、今日も疲れたでしょう。寒かったもんね」

 「なぁ、アイツ誰だよ」

 「え? アイツって?」

 「わかっているだろ! 昼間、喫茶店で会っていた男だよ!」

 ついつい語気が強くなってしまっているが止まらない。もうどうにでもなれ。

 「…どうして」

 「浮気だろ! お前はそんな女だったのかよ! 最近俺が抱かなかったからか、なぁ?なんとか言ってみろよ」

 「違うよ!! あの人は浮気なんかじゃない。その……」

 声は段々と弱々しくなっていた。なんとか喉を通しているという風に。目は潤んで今にも泣きそうな顔をしている。

 「実はね…」

 ぽつりぽつりと喋り始めた。その声はか細く、集中して聞かなければ聞こえないほどだ。

 「仕事をすることにしたの…。あの人は、仕事を紹介してくれた前の会社の同僚よ。浮気なんかじゃない。浮気なんかじゃ。ただ…就職できて、嬉しくて、彼にはたくさん協力してもらったからお礼がしたかったの。それで…」

 「それで、体で満足してもらおうかってか?」

 「違う! 違う! 違うッ! 肉体関係なんかないッ! 信じて、私を! 喫茶店でお礼を言っただけよ」

 「どうして仕事なんか…」

 時計のかち、かちという正確なリズムを刻む音だけがその場を支配した。俺も智香も喋らない、喋れない。もしかしたら、と思い彼女に眼を向けると一筋の涙が流れていることに気づいた。

 「知ってたの」

 あぁやっぱり。

 「晃治が仕事いってないって」

 智香はずっと前から気づいていたんだ。それなのに気丈に振舞ってくれていたんだ。

 「最近ずっと服にタバコのにおいが染み付いていておかしいなと思ったの。タバコの臭いがしたことなんてなかったのに。それに、様子がずっとおかしかったし」

 言うべきだったんだ。俺だけがツライ思いをしていたんじゃない。智香のほうが、もっと。あんなにあたたく迎えてくれていたのに。

 「待っていたの。いつか晃治から喋ってくれるって。でも…」

 「そんな時、偶然彼に会ったの。親身になって話を聞いてくれたわ。そして、私が働いてみたら、という話になったの。彼の友人が最近始めたネイルサロンを紹介してもらって、それで」

 「俺に何の相談もなしに…か」

 「言えなかった…傷つけてしまいそうで」

 世界中で最も愛している人に何も言えなかった自分の卑しさ。ゲームセンターと家の往復の生活に対する後悔。家計のために働こうとしてくれた妻の優しさ。それらがひとつの感情になって溢れでていた。

ただただ涙を拭うこともせず、妻を、智香を力強く抱きしめた。



 「いってらっしゃい、仕事がんばれよ」

 「いってきます、家事がんばってね」

 お互いに照れくさそうに言いあった。逆の立場で言う日がくるなんて思いもしなかった。

 玄関から入った穏やかな風が優しく俺たちの頬をなでていった。


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