花を、君に。
五時間目の現国の時間。誰しもが一度は聞く文豪の作品で、恋愛が絡む内容だったからだろうか。
振り向いてもらえない主人公の描写に引っ張られて、僕の思考回路は彼女の存在にどっぷりつかることとなった。
右隣の列、三つ前の席に座っている特別な彼女。
とても賢く、とても優しく、とても笑顔が可愛い彼女。
小中高と同じ学校だった。同じクラスになったこともあるし、席が斜め前だったり一つ飛ばしの隣だった時もある。
けれど、その人は僕を見てくれることはなかった。
ずっとずっと、海を越えた遠い国の覚えにくい名前を持つ俳優が好きだった。
ずっとずっと僕が想っていたのに、それに気づく気配すらなく。彼女は永遠とその俳優を愛し続けた。
僕がクラスで位置づけられた席から見る彼女の後姿。桃色のシャープペンシルをくるりくるりと回している姿。
その目に、恋愛的な意味で僕が映ることは、決してない。
目頭が熱くなり、唐突に吐き気がこみ上げ、慌ててトイレへ駆け込んだ時。
僕の口から。
真っ赤な薔薇が、幾つも幾つも吐き出された。
そのまま授業をサボり、誰にも見つからぬ様に忍び込んだ図書館で得た情報は余りにも少なかった。
この現象はどうやら病気の部類らしく、花吐き病と言うらしい。
本当の呼び名は嘔吐中枢花被性疾患。片思いをこじらせ、苦しくなると花を吐く病。
室町時代に爆発的に流行し、現代まで続いていると知って驚いた。そんなに歴史があるとは、という的外れな感想を胸に抱く。
有効的な治療法ははっきりとしておらず、ただ言えるのは両思いになること。
両思いにさえなれば、この花吐き病からは解放されるそうだった。
ついでにこじらせる、ということについても国語辞典を引いてみる。
出てきた意味は、『無理をしたり処置を誤ることによって、病状を悪くする。対応を誤り字体を厄介な状態にしてしまう。ことを面倒にしてしまう』。
それらを知り、脳内で纏め、最初に浮かんだのは笑顔でも安堵でもなく嘲笑だった。
だって、片思いをこじらせた結果の、花吐き病だろう?
片思いの現状に無理をしすぎた。それなのに告白をせず、見続けるという行為を取った。彼女に対する態度を選び間違えた。そして、花吐き病を患い面倒なことになった。
これら全てに当てはまる恋愛を、どう成就させろと?
こみ上げる嘲笑は止まる気配がなく、その間に名も知らぬ花が一つ吐きだされた。
あいにく僕は、彼女に話しかける勇気すら持っていない。
もう一つ、花を吐きだす。今度は向日葵のようだった。
そんな僕なのだ、だからきっと――。
立っていられず、ずるずると座りこんだ。真紅のカーペットに向かって、辞典を抱えたまま言葉にも文字にもならぬ酷い声を上げる。その結果現れた花は、声とは正反対なとてもきれいなもので。
……僕の片思いは、そんなにきれいなものなのか?
……僕の片思いは、この花々に見合う程のきれいなものなのか?
そんな感情を持ちながら、溢れかえった涙はカーペットの紅を濃くして行き。
その間、幾つもの花が床に咲いて行った。
六時間目も図書館で時間を潰し、落ちついた頃に職員室へ向かう。担任の声が、咎め調子で降りかかった。
ごめんなさい、もうしません、と何度も何度も繰り返す。脳内では彼女のことを必死に考えない様にした。そうして花を吐くことが無い様、努めることに必死だった。
規則的な返答に、担任は僕がまだ気分が悪いと思ったのだろうか。体は大事にしろよ、と言い残して解放してくれる。
無言で一礼すると、手に持っていたスクールバックを肩にかけ直した。念のため口を押さえ、職員室を早歩きで退散する。
足元に目を向け、彼女のことを頭から除外しようと必死に努めた。が、人間の脳は何て残酷なんだろう。考えないようにしようとするほど、頭の中を埋め尽くして行く。
彼女の口から、またあの俳優の名前が出ているのだろうか。
これから帰宅する道で、俳優似の男を見かけてしまい恋心を抱いたりしないだろうか。
そしてそのまま彼女の恋は成就して――僕の片思いは惨敗という結末に終わるのでは?
ぞっとする結末。動悸が激しくなり、息苦しさを感じる。口を開くと、花特有の甘い匂いが鼻孔をくすぐった。
慌てて手で押さえつける。出てくるなと必死に願うが、喉元まで花は持ちあがってきて、容赦なく口の中に形を現し始めた。
また、むせる様な吐き気が僕を襲う。
意識に反して現れた咳によって、花弁が一枚宙を舞った。薄桃色、彼女のシャーペンの色。慌てて掴み取ると、ポケットに突っ込んで何事もなかったかのように廊下を走りぬけていく。
口の中に何度も湧き出てくる花は、頬を限界まで内側から押して行く。噛みしめた歯の間から、様々な色彩の花弁が存在を主張し始めた。
げた箱で革靴に履き替え、挨拶をしてくる同級生に片手を上げて無言で返答した。彼女が所属している園芸部が、手入れで斬られた枝を捨てるごみ箱を目指して走って行く。
今日は活動がないのだろうか。無人のそこにぽつりと立っているごみ箱にすがりつき、無理矢理蓋を開ける。枝や葉がたくさん捨ててある中に、口を大きく開いて吐き出す。
数分で収まった花吐き病は、ごみ箱から溢れる程の花を生んだのだった。
帰り道。持ち金を確認しながら本屋へ寄る。目的の本がありそうなコーナーへ向かって行く。本棚の中、埋もれかけていた『花ことば』の本を手に取った。
花吐き病で生産された花は、何か意味があるのだろうか。そう疑問に思った、結果の行動だった。
記憶をたどって思い出される花は、赤い薔薇と向日葵くらい。それぞれの花ことばは『愛情、情熱』に『私の目はあなただけを見つめる』だそうだ。関わりがあるようで、ないようで。
これから先の参考になるかもしれない、と気晴らし程度に購入を決定する。ふらつく足取りで、レジへと向かって行った。
家へ帰り、吐き気がするからと親が作り置きしていた料理を新聞紙にくるんで捨てる。見つかったら言い訳が厄介だと考え、奥へ奥へと押し込んだ。
部屋へ籠り、僕専用のパソコンの電源を入れる。世界的に有名な検索サイトを開くと『花吐き病』と打ちこんだ。……ネットの話は信用性が薄いが、この際仕方がない。
そこで得られた情報は、図書館とはさして変わらないものだった。諦めてパソコンを閉じようとした瞬間。ある一文が目に飛び込んでくる。
思わず画面に顔を近づけてしまう程の好情報。それは。
僕のこの病が、治るかもしれない。手助けになるかもしれない一文だった。
思いがけぬ好情報。それを元に解決策を頭の中で練って行く。行けるかもしれない、解決するかもしれない、作戦。
唇を舌で軽く舐めると、一人声を殺して笑いだす。
あぁ、何だ。僕の心配は全部全部杞憂だったのか。
調べている最中に出来あがったクレオメと言うらしい花にそっと口付けをする。
そうとわかれば、やることが決まれば。
――行うしか、ないだろう。
翌朝。開門と同時に学校へ入ると、園芸部が手入れをしている花壇へ向かった。園芸部は毎朝決まった人間が水やりをすることになっていて、今週は彼女の当番のはずなのだ。
不確かな情報は正解だったらしい。暫くしてに彼女が到着する。思わぬ先客に目を丸くするが、すぐに笑顔を繕うと地面に雑に置かれたホースに手をかけた。
蛇のようなそれを持ち上げ、数メートル先にある蛇口をひねる。数秒後彼女の手元から放たれた水は、陽光を受けてキラキラと光りながら花々をうるおして行く。
それを黙って見ていると、沈黙に耐えかねたのだろう。彼女の視線が花から僕へ動き、花が好きなの? と問うてくる。
昨日から好きになったかな、と言うと何で昨日? と笑った。その笑顔はどんな花にも負けない程素敵だった。
この花に出会ったからだよ、と言ってポケットの中から一輪の花を取り出す。今朝、ようやく口から零れ出た花。
流石園芸部と言うべきか。彼女はそれを暫く眺めると、あぁ、ヒャクニチソウ! と嬉しそうに名前を告げる。笑顔で肯定の頷きを返した。
花ことば辞典と向き合って、彼女のことを考え続け、胸を痛め続けて生み出し続けた花々。
アゲラタム、朝顔、ホオズキ、山吹、ムスカリ、野薊、紫のライラック、駒繋、サンピタリア、山葵、ランタナ、連翹、桃色のチューリップ、蓮華草、ナナカマド、花菖蒲、ストロベリーフィールド、福寿草……。
様々な花が僕の目の前に現れた。僕の口からあふれ出た。けれど願っている花は現れない。
苛立ちを覚えながらも吐き出し続ける。現れた花を本と見比べ、違うならば投げ捨てた。
そうした夜通しの努力の甲斐あって、朝日と共に零れ出た紅のヒャクニチソウ。
それを差しだすと、彼女の顔は淡くほころんだ。くれるの? という問いかけにもう一度頷く。
満面の笑みを浮かべて、ありがとう、と言いながら手を伸ばして来る。
昨日得た花吐き病の特徴を思い出しながら、早く触れてくれ、と願った。
早く。
花吐き病を治す手立ては現在はたったひとつ。『両思いになること』。
早く。
そして、花吐き病者が吐き出した花に触れた者は――問答無用で花吐き病にかかるということ。
あぁ、早く。
あぁ早く、触れてくれ。君がこれに触れたら、花吐き病に感染するんだ。
感染したまま一生を過ごすのは、嫌だろう?
けれど両思いになるには、海の向こうに居る俳優は遠すぎる存在だろう?
だから君は、選ぶしかないんだよ。
目の前の、君への思いをこじらせて花吐き病を発症したこの僕を愛することを。
君が僕を好きにさえなれば、両思いとなり花吐き病は収まるのだから。
簡単な、解決策だろう?
ずるくたって、構わない。それで、君が僕の物になるのなら。
だから、早く、さぁ早く。
彼女の白磁の手が伸びてくる。ためらうことなく、これから先のことなど知らぬまま伸びてくる。
どうか、決して離れることのない『絆』となり得ることを。そんなことを願っていると。
ヒャクニチソウを、彼女の汚れなき手が、掬いあげた。