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ice

作者: 文鳥愛子
掲載日:2014/03/12

「俺は別にアイスが好きなんじゃなくて、食べなきゃどうしようもなくなっちまうから食べるんだよ」

 私の質問に対して、翠(みどり)はそう答えた。

「それが、翠がアイスを食べる理由なの?」

 何も言わずに、彼は小さく頷く。

「変なの」

 何か話してよ。

そんな思いを込めながら私が呟いても、翠は何も言わなかった。ただ静かに、シャク、という小さな音をたててアイスをかじるだけ。

「アイスは夏の食べ物だと思うんだけど」

「俺もそう思うよ」

 そこでぶっつりと、会話が途切れた。

 高校生になってから、というか、段々年齢が上がるにつれて、私と翠との会話の数は少なくなった気がしていた。

 翠との付き合いは小学生になる前からだけれども、小さい頃はもっとよく話していたと思う。

 けれど高校生になってから、会話の数も、一緒にいる時間もかなり減った気がする。

 クラスが違うからそうなるのも当然なんだけど、登下校の時くらいはもっと話せてもいいのにな、なんて思ったり。

 すれ違う。

 すれ違う。

 すれ違う。

 私の思いと翠の意識。

 ちょうど、さっきみたいに。

 ――どうして翠は、冬なのにアイスを食べているの?

 なんだか最近翠はアイスにハマっているようで、学校から帰るときはいつものように食べている。

 冬だというのに、だ。

 冷たい風を浴びながら、隅の方にまだ雪が残っている道路を、アイスを食べながら歩く。

 だからよっぽどアイスが好きなのかなって思ってこの話題を振ったんだけど、どうやら違うようだった。

 食べなきゃどうしようもないから、好きじゃないけど食べる。

 意味わかんない。

 大きくなって――。私の背丈を超すくらい、もう翠にチビと言えなくなるほど大きくなって、彼は変になってしまった。

 好きでもないアイスを熱心に食べるし。

 私との会話を避けるみたいに、口数も少ないし。

 私のことを、嫌いになってしまったんだろうか。

 嫌な考えが、私の頭の中で渦巻く。しかしそれはきっと、人通りの少ない暗い道を歩いているせいなんだと、無理やり自分に言い聞かせる。

 そうでもしないと、これから彼と一緒にはいられなくなるだろうから。

 それからしばらく私と翠は無言で通学路を歩いていくと、大きな上り坂に見えてきた。私達の最後の難関だ。

 お互いに家がこの坂の上にある住宅街にあるわけだから、どんな手を使ってもこの坂を上らなければいけない。小学生のうちから坂の上に住んでいるんだけど、幾つになっても、辛いものはつらいんだ。

 というか、高校生になってから、もっと辛くなった気がする。

「うひ~、今日もきつそ」

「そうか?」

 上り坂を見てげんなりする私に対し、翠はなんともない様子でずんずん歩いていく。

 小さい頃は私の方が先に歩いていたのに。

 そんな昔のことを引き合いに出しても仕方のないことくらい分かっているけど、それでもこの寂しさは、味わいたくはなかった。

 翠が離れていくような消失感を、この坂は私に与える。

 私が翠と一緒にいたいと思うようになったきっかけは、意外なことにこの坂だったりする。

さっき言った通り、小学生のころは翠の前を私が歩いていた。けれど中学生になって翠の背が私と同じくらいになると、今度は二人で並んで歩くようになった。

 その時、だったと思う。

 翠と一緒にいたいと、初めて本気で思った瞬間は。

 それまでは彼の前を歩いていなかったから全然気が付かなかったけど、隣を歩いてみて、やっと、気づく。

 肩が触れるか触れないかの距離なのに、なぜか彼の温もりが感じられてきて。

 並んで歩くために、互いの歩調を合わせたためであろうか。なんとなく、彼の心臓の鼓動と、私の心臓の鼓動が、シンクロしたように感じた。

 だからこそ。そんな思いを味わったからこそ、今の彼とのこの距離で、私は大きな消失感を覚える。

 もう彼は私と歩調を合わせてくれないんだ。

 そう思うと、無性に悲しくなってくる。

 だから、ほんとは翠に隣を歩いてほしい。だけど待ってよ、なんて言わない。

 彼はきっと、立ち止まってはくれても、私の方に駆け寄って、手を差し伸べてはくれないだろうから。そんな現実を目の当たりにすれば、きっと私は、そのうち声をかけても振り返ってはくれないんだろうな、なんて考えちゃうから、言わない。

 待ってよ、なんて、言わない。絶対に。

「ああ、もう……」

 本当に、嫌になる。幼馴染なんて、中途半端な関係。

 誰よりも一緒にいたはずなのに。

 全然、彼と心が通じ合っているような感じがしない。

 


 次の日の放課後は雪が降っていた。

 それなのに、翠はアイスを食べている。

 それなのに、客を引き寄せるために余分に光を発しているコンビニの前で、私と翠は立っている。

「寒くない?」

「別に……」

 彼はそっぽを向いていた。

 私と目を合わせたくない。弱い私がそんな思いを、彼の仕草から自己中に汲み取る。

 彼の右手は空っぽだった。

 左手はアイスを持っていて、そしてその方向には、誰もいない。右手は、寒いのに手袋もしないで、コートのポケットにも入れないで、ただ無造作さに、下ろしていた。翠は寒くはないと言っていたのだが、彼の右手を見れば、それが嘘であることはすぐに分かった。

 手の甲が、真っ赤にかじかんでいた。

 自意識過剰な私が、それを自己中に解釈す

る。

そっぽを向いているくせに、右手だけは、無防備に私の方に曝している。

 変な期待、しちゃうじゃん。

 少しだけ、頬が赤くなったような気がして、マフラーでその証拠を隠した。

 手も繋いでいなくて、ただ二人で並んで立っているだけなんだけど、なんだか心があったかくなったような気がする。

 そんな不可思議な温もりを感じていると、

彼が食べていたアイスの表面に、雪がふわりと、翼のように、舞い降りた。その雪は解けずに、柔らかそうな、綿あめみたいな形を守ったまま、アイスの上に居座り続ける。それに彼は気づかないで、ぺろりと、舞い降りた雪ごとアイスを舐めとってしまう。 

「あっ」

 じっとそのことを眺めていた私は、思わず、声を漏らしてしまった。

「どうしたの?」

 不思議そうに言って、翠はやっと、私の方を向いてくれた。

 そして、視線が合う。

 しかしそれも一瞬のことで、すぐに彼は私から目を逸らし、今度はアイスにがぶりと齧りついた。

 そうやってから、彼はまた、聞き直す。

 私の方を見ないままで、

「なんか、あったの?」

「えっと……」

 彼に倣って、私も何気ない風を装った。視線の先は道路で、ヒュンヒュンと、光の残像が交差しているように見えた。

「その、なんというか」

 そういえば、私は何で、声を漏らしてしまったんだろう。

 私は何を、惜しいと思ったんだろう。

「雪がね……」

 そう、雪だ。雪から、始まった。

「雪が、翠のアイスの上に乗ったの」

 それを見たとき、同時に視界には、君の横顔も、入っていたんだよ。

 別に、意識して、見ようと思ったみたわけじゃなくて。

 ただ何となくアイスの上に乗った雪を見たら、たまたま翠の横顔が、視界に入っただけ。

 久しぶりにまじまじと見た彼の横顔はやけに大人びていて、思わず、見入ってしまった。

 だけどそんなことを言う勇気もなくて、臆病な私は、雪のせいにする。

「それを翠に教えてあげようとしたのに、君、気づかないで食べちゃったから、もったいないって、思っちゃったの」

 もったいないって思ったのは、ほんとだよ。

 でも、雪が乗っているのを君に教えてあげようとしたのは、嘘。

 だって、雪のことを教えちゃったら、君はすぐに、それを払っちゃうでしょ?

 そんなことしたら、私が君の横顔を見れる理由が、なくなっちゃうじゃない。

 でもこんな本音、言えるわけなくて、静かに胸にしまうことにする。けれど本音は彼の心に迫りたくて、私の胸の中で暴れまわる。

 ドキドキってね。



 胸の高鳴りはほんとに騒がしくて、翠の耳にも届いていないかって心配しちゃうくらいのものだったけれども、隣にいる彼はそれに気づいていないようだった。

 だから私は、安心して、その音に耳を澄ます。ドキドキっていう賑やかな心音が、私が翠にコイシテルって証拠。

 その音と、翠がアイスを食べる、シャク、という音が混ざり合って、とても心地よく聞こえた。

 たまには何も話さないで一緒にいるのもいいかも、なんて思っていると、私と彼の、心地よい音がプツリと、途切れた。

 声だ。

「あれ、翠と一緒にいるのって、もしかしてヒトヒラじゃない?」

 ウチの学校の近くにあるコンビニにいたのがまずかったのかもしれない。ここは当然、私と同じ高校の生徒の溜まり場になるわけで、知り合いと会う確率も結構高いのだ。

 私は、なんだか熱くなっている頬を気にして、マフラーの位置を確かめた。さっき鼻の辺りまで上げたはずなのに、もう顎の下にまでずり落ちている。

 近づいてくる友達に今の状態を知られたくなくて、マフラーの位置を調整してから、私は彼女に向き直った。

「ん? もしかしてさっき部活終わったところ?」

 友達は、そうだけど、とテキトーに私の逃げ道を潰した。そんなこと、今は彼女にとってどういでもいいらしい。

「それよかさ、ヒトヒラ。アンタもしかして翠君と付き合ってるわけ?」

 かなりずけずけとした質問だったけれど、特に悪い気はしなかった。それは彼女が割と気心の知れた友人ということもあったし、それに何より。

 客観的に見れば、私と翠は付き合っているように見えるということが分かって、嬉しかったからだ。

 まあ、でもそれでも、簡単に肯定なんてできなくて、思わずちらりと、翠の様子窺ってしまう。見たところ彼も今の私と同様の状態で、返答に困ったように苦笑いしていた。

 お互い困り果てて苦笑いし合って、どっちが返答するか探り合った末、結局答えたのは。


「それは、誤解だよ」

 

――翠だった。

「え?」

 友達と同じ反応をしなかったことは、私の忍耐力を褒めてあげたいと思う。

「俺とヒトヒラの間にそういうのはなくて、ただ、昔から仲が良かったからその延長で、今も一緒にいるだけ」

 吹っ切れたように、翠の口から言葉が紡ぎだされる。

 昔から仲が良かったから、その延長で今も一緒にいる。

 つまりそれは、さっきまでの時間は、彼にとってはついでだったってことだ。

 バカみたいだと、私は自分に吐き捨てた。

 そんなついでみたいな時間に、彼と心を通わせることを求めて、そしてやっと、彼と心を通わせられたと勘違いして、勝手に喜んでるのなんて。

 バカバカしいにも、程がある。

「そうなの? ヒトヒラ」

「そうだよな、ヒトヒラ」

 二人に同時に聞かれて、私は返答にためらってしまった。

 翠の言葉を肯定してしまうと、今まで感じた暖かさや、ドキドキが、全部泡のように消えてなくなってしまいそうで、嫌だったから。

 だからと言って、今ここで彼の言葉を肯定しないと、私はきっと。

「そうだよ、そうに決まってるじゃん」

 泣いてしまうだろうから。

 私は、彼の言葉を肯定することで、自分の恋を、だました。

 泣きたくなくて、翠の前では強がっていたくて、私は自分の思いを、押し殺した。

「私と翠は、単なる友達だよ」

 それは現実逃避のように、やって来た。

 不思議なことだけど。

 悲しみを色で表現するのなら、ずっと青が一番合ってると思ってた。でも実際には、違う。

 涙を流す寸前の、この目頭の熱さと。

 涙をこらえるために、無理やり自分を励まそうとする、この吐き気のする熱気は。

 色で表すのなら。

 絶対、赤だ。



 嘘をつくことは良くないと言うけれど、確かにその通りだと、昨日実感した。

特に、自分の気持ちを誤魔化すための嘘は、一番タチが悪い。

「あ~、やだやだ」

 昨日の出来事のせいで、なんだかまた、翠との距離が広まった気がする。もう幼馴染でもなんでもなくて、単なる友達。

 今まで一緒にいたからっていう、冷めた理由の延長上で一緒にいるだけの、乾いた関係。

 そんな言葉を翠の口から直接聞いてしまったから、今日学校に来るときはいつも以上に会話がなかった。ひょっとしたら私はおはようとしか、学校に来るまでに言えなかった気がする。

「どうしよ……」

 翠と会って話したいとは思ってる。今の時間帯は昼休み。クラスが違うけれど、今なら翠と会うことができる。今日の朝話せなかった分を、話せるかもしれない。

 でもだけど。

 心のどっかで私は、翠に会うことに怯えている。

 翠は隣の教室にいる。私の席は、教室の入り口付近だ。だから誰よりも早く廊下に出て、翠のいる教室に行ける。

 でも、そんなことをする勇気が湧かない。

 翠と出会ってまた、昨日みたいなことを言われるのが嫌だから。

 翠との関係が単なる友達だと実感するのが、怖いから。

 きっと私は、また嘘をつくんだろう。泣かないために、翠のことが好きではないと、昨日のように嘘をつくんだろう。

 試しに耳を、澄ましてみた。

 思いが暴れるドキドキは聞こえなくて、聞こえるのは、教室の喧騒だけ。

 自分についた嘘の効力に少し驚いていると、喧騒の中に自分の名前が紛れているのに気づいた。

「ねぇヒトヒラ、ちょっと良い?」

 いつの間にか私の席の前に、二人の女子生徒が立っていた。

 一人は昨日コンビニで話しかけてきた友達で、もう一人は、顔は何となく知っているけど、名前は知らないって感じの子だった。違うクラスの子なのかもしれない。

 友達は彼女のことを海咲(みさき)と呼んだ。

「あのさ、ちょっとヒトヒラに変な質問するけど、マジにヒトヒラは、翠君と付き合ってるわけじゃないんだよね」

 友達の質問に、ビクリと、静かに震えてしまった。

「えっと……、どう、なんだろう」

 嘘をつくことにも、はっきりと自分の思いを言うことにも怯えて、私は結局、言葉を濁してしまった。

「あのね、この子――、海咲がなんか、翠君のこと好きらしいのよ。それで、もしよかったらなんだけど、彼と仲の良いヒトヒラに、海咲が告るのを手伝ってほしいかな、なんて」

 私がはっきりと返答する前に、友人は勝手に話を進めた。卑怯だと思った。そんなことを言われれば、私はもう、自分の本心なんて、絶対に言えない。

 でも、と、私は海咲さんの方をちらりと見た。

 彼女には聞こえているんだろう。ドキドキという、自分の思いが暴れる音が。

 私はもう一度、耳を澄ましてみた。私にはもう、そんな幸せな音は聞こえなくて、聞こえるのは、やっぱり、教室の喧騒だけ。

 本当に卑怯なのは、私だと思った。自分を守るために自分の思いに嘘をついたから、バチがあたったんだ。

 私の耳に、もうあのドキドキは聞こえない。

 そんな私が、翠のことを好きだと言えるわけがなかった。



 私が海咲さんのためにする協力は、放課後に翠を中庭に呼び出すことだった。

「来るのかな、翠」

 一応彼には、放課後用があるから中庭に来て、という内容のメールを送っておいた。どうして呼ぶのか、という理由は、特に何も教えなかった。というか、教えたくなかった。   

自分が情けなくて、悔しくなってしまうだろうから。

中庭は私のクラスの教室の窓からよく見えた。ベンチや木があって、一応それっぽくはなっているものの、日当たりが悪く暗いため人通りが少ない。良い場所を考えたな、と思った。教室からは見えやすいけど、普段は誰も、あんな人気のない場所に意識を向けないだろうから。現に今だって、教室の窓から海咲さんを見下ろしているのは私だけ。協力を要請してきた友達は教室にいない。彼女に気を遣って見ないようにしているのか、それとも別のところから見ているのだろう。

海咲さんが中庭に着いてから五分くらいして、翠がやってきた。

そして二人で何やら話し始めるのだが、会話の内容はよく聞こえない。中庭への距離が割とあるのも原因なのだろうが、一番の原因は教室の喧騒だった。背後がうるさ過ぎて、何も聞こえない。表情から読み取ろうと思ったんだけど、海咲さんは私の方に背を向けていて、翠は翠でただ無表情でいるだけなので、二人の間でどのような会話がなされているのか全くよく分からない。

でも、それで良かったんだと思う。

他の子がどんな風に翠に好きと言うのかなんて分かってしまったら、きっと私は、どうにかなってしまっただろうから。

「嫉妬深いのかな、私」

 でも、それならそれで、構わない。

 それはまだ、私が翠に恋できてるっていう、証拠だから。

 二人の会話は本当に短くて、ほんの数分で終わってしまった。海咲さんが中庭で翠を待っていた時間の方が長いくらいだ。

 最後に何か二、三言彼女に言って、翠はふと、上を見た。というか、私の方を、見上げた。

 まるで、最初から私がここにいることを、分かっていたかのように。

 目が合ってしまったが、今回はすぐには逸らさなかった。

 お互いに。

 私も、翠も、ずっと、目を合わせていた。

 ドクンと、心が、鳴った。

 けれどそれが罪悪感によるものであることは、すぐに分かった。



 耳を澄ませば、自分の心臓が鳴る音だけが、聞こえていた。

 それはきっと、翠の目に、非難の色が込められていたからだろう。

 私に対して何を怒っているのかは分からない。でも、視線で彼が文句を言っているのかは、よく分かった。

 罪悪感が、乱暴に、私の心を鳴らして。

 叫ぶ心は、締め付けられるように、苦しかった。

 そうして、その苦しみに耐えきれなくなって、ようやく私の耳に、教室の喧騒が届いた。

 我に返って翠から目を逸らし、何でもない風を装うために、ひとまずは空を眺めた。太陽は沈みかけていて、青空は少しだけ、赤らんでいた。

 少し心が落ち着いたので、窓から一番離れた自分の席に戻って、カバンを手に教室を出た。

 今日は翠と帰る気は全くなかった。というか、帰れるはずがなかった。

 あんな、裏切られたような、悲しそうな目をされたら、一緒にいられるはずがない。 

 慌てて廊下を歩いて、階段を下りて、そして昇降口に着いた頃に、

「ちょっと待てよって」

 翠に会った。

 中庭から走ってきたのだろう。息が荒くなっていて、肩も激しく上下している。

「あの、今日の昼休みにくれたメールの用って、ああいうこと?」

「ああいうことって?」

「海咲が俺に告るってことだよっ!」

 声を荒げたことを後悔するように、翠は小さく舌打ちをした。

 それから右頬を強く引っ掻いてから、下唇を小さく噛んだ。昔からの、翠の癖だ。翠は優しい人だから、怒りを誰かにぶつけたくなくて、自分にその矛先を向ける。一つの自傷行為のようなものなんだろう。

 翠のそんな一面を知っていたから、私は彼が怒っていることに気づくのは簡単だった。

 でも、どうして怒っているのかは分からない。

 色々と考えていると、翠は大きなため息をついて、話し始めた。

「昨日俺が言ったこと、マジだと思ってんの?」

「昨日?」

 私が考える前に、翠は勝手に話を進める。

「あ~、ほんとサイテーだよ、ったく」

「え?」

 聞き返す私に対して、翠が返した仕草は不機嫌なことを示すそれだった。頬を引っ掻いて、下唇を小さく噛む。そして私に聞こえるか聞こえないのかの小さな声で。

 まだ気づいてねぇのかよ、と呟く。

「思わず期待しちまったじゃん、俺」

 さらりと言った翠の言葉を聞いて、まず先に感じたのは、ドキドキという、胸の高鳴りじゃなくて、カッ、と一瞬にして高まった、胸の熱さだったと思う。

 それを感じて、ようやく胸がドキドキと高鳴りだす。

 その高鳴りは、さっき感じた罪悪感のドキドキとは全然違くて、熱くて、熱すぎて、私の中にある気持ちの悪い何かも含めて、すべてドロドロに溶かしつくしてしまう。どれがどれなのか、原形が分からなくなるくらいまで溶けて、すべてが、混ざり合う。

 だから私は、一瞬、呆けてしまった。

 翠の言った言葉しか、考えられなかった。

 視界には、翠しか、入っていない。

 それくらい呆けていたから、私は、もっと深く彼に聞けなかった。

 君は一体、私に何を期待したの?



 その日のコンビニは、私の他にも同じ制服の高校生を見かけた。ふと気になって腕時計を見たが、まだ下校時刻よりは大分時間がある。今頃は部活の練習中のはずなんだけど。

 それでも知り合いはコンビニの前にはいなかったので、私は気にせずにそこで翠を待ち続けた。

 耳を澄ましてみれば、ドクン、という心の音が聞こえた。さっきから――、昇降口で翠に会った時から、心はずっと鳴り続けている。

 ――思わず期待しちまったじゃねぇかよ。

 そんな彼の言葉が気になって仕方がなくて、私は結局、そのまま家に帰らずにコンビニで翠を待っていた。

「来るかな……」

 翠はアイスが好きだから、きっと帰り際、このコンビニに寄ってアイスを買うだろう。そう見込んで、私はここにいる。ついでに翠のお気に入りのアイスも用意して。

 その日は雪は降っていないけれど、風がとても冷たくて、強かった。風が吹くたびに耳がキンと冷えて、鼻の頭がカサカサと乾いて冷たくなる。

「寒いよ……」

 一人ぼっちだからなのか、いつもよりもずっと、風が強く感じた。隣に誰もいない寂しさは、体よりも心に染みる。

 冷気だけを運んでいればいいのに。

 冬の風は、嫌な予感も、運んでくる。

 やっぱり、単なる友達なのかな。

 風が吹くたびに、まるで凍っていくかのように、胸の高鳴りが静まっていく。

 風が吹くたびに、固まって、段々静かになっていって。

 そして。

 そして。

「何してんだよ、そんな所で」

 ドクンッ、と。

「風邪、ひくだろ」

 私の恋は、まだ、終わらなかった。



「寒いのにこんな所で突っ立って」

 ぶつくさと文句を言いながらも、けれどしっかり、翠は風を受けてずり落ちていた私のマフラーを直してくれた。

「何? 友達でも待ってんの?」

 翠はもう怒っていなかった。よほど強く引っ掻いたのだろう。白い線が、微かに彼の右頬に残っていた。

「これ……」

「ん?」

 アイスを手渡すと、彼はそれを見て少し驚いたような表情をした。

「食べるんでしょ? 今日も」

 翠はなぜか、少し戸惑ったような表情をした。けれども、ありがと、と小さな声で言ってから、受け取る。

「結局、アイス好きなんだっけ、嫌いなんだっけ」

 翠はアイスの袋を開けて一口食べた。ガリゴリという氷を噛み砕く擬音が似合うアイスなのに、彼の一口はとても小さくて、シャク、という音しかしなかった。

「アイスは別に嫌いじゃないよ。まあ、好きでもない。あれば食べるって感じ」

 でも、と翠は続ける。

 さっきよりも、大きな口でアイスをかじって、

「アイスを食べてる時は、割と好き」

 私は首を傾げた。

「どうして?」

 聞くと、彼はまた、アイスを齧った。さっきよりも、更に大きな口で。

「ヒトヒラと、一緒にいれるから」

「え?」

 ドクン、ドクン、と心は鳴り続ける。冷たい冬の風が頬に当たる感触はないのに、向かい側の木が、大きく揺れた。

「ほんと、女々しい話だけどさ、アイス食べてなきゃ、俺、恥ずかしくてヒトヒラと一緒にいれねぇんだよ」

 ドクン、ドクン、と心が鳴る。

 シャクリ、シャクリと、彼はアイスを齧る。

「ヒトヒラと一緒にいると、なんでか知んないけど頭と心が熱くなって、どうしようもなくなるんだよ。だから少しでもその熱さを解消するっつーか、誤魔化すためにアイス食ってるんだけど……、分かんねぇよな。こんな、変な癖」

 照れくさそうに、彼は笑った。

 だけど、私は首を横に振る。

 ううん。分かるよ。私も君と同じだから。

 ドクン、ドクンと高鳴る胸は、私の頭と心を熱くする。

 その熱さは私を冒して、君のことだけしか考えられないようにしてしまう。

 なるほどほんとだ。この熱さは冬の風とか、雪とかなんかじゃ全然足りない。確かにアイス、欲しくなるかも。

 そう思ったから私は、

「ねぇ、翠」

「ん?」

 翠の唇を、ぺろりと舐めた。

 アイスを食べていた翠の唇は、ひんやりと冷たくて、ほんのり、甘かった。

 私の彼は、アイスみたいだ。



 


こちらでの投稿は初めてとなります。文鳥愛子という者です。

至らない点が多々あると思いますが、読んで頂ければ嬉しいです。

よろしくお願いします。

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