思いと想い
冬と言うのは飲食店にとって、最も忙しい時期なのだが、ウチの店も例外では無い。
12月に入ると忘年会が開かれるので、ウチも予約がかなりあるし、座敷は連日その流れなのか満席が続いていて、テーブル席の方も結構賑わっていた。
俺はと言えばその中でも刺身の練習をしていた。
いつもの様にこんにゃくを使って刺身を引く様に練習をするのだ。
お陰で、圭吾は連日まかないにこんにゃくを使うはめになっている。
たまにだが、板長が刺身用の魚が余ると俺に引く様に言ってくれる。有り難い事だ。
そんな中でも柴崎さんが遅くまで残って飲んでいる時に俺がその刺身用の魚で刺身を拵えて柴崎さんに出す事がある。
柴崎さんは「食べて死なないだろうな?」等と言いながらも何時も残さず食べてくれる。
「ああ、酷い刺身食べちゃったから、もう帰ろう」
そう笑いながら言うのだ。
何時も心の中で感謝をする。
年内の営業は12月29日で終わりだ。営業が終わりまかないも終わるとそれから大掃除が始まる。
最も調理場だけなのだが、ホールは正月の5日の夕方からなので、その日の午前中にホールの人間だけで掃除をするのだ。
俺たちは2時に店に入ればよい。
11時半ごろから掃除を始め、なんだかんだ冷蔵庫の掃除まで終わったのは3時に成ろうかと言う頃だった。
「じゃあ、これから皆で忘年会に行こうぜ」
店長がそう言って板場6人と一緒に飲みに行く。
飛鳥も女の子だが関係なく連れて行く。
店からしばらく歩いた隣町に店長が行きつけの店があり、そこは朝まで営業しているので、
そこに行くのだ。
3時過ぎだというのに店の中はまだ人がかなり居た。
「7人だけどいいかな?」
そう言って店長は遠慮なく空いてる席に座ってしまう。
注文をして、飲み物が出されると、店長と板長の挨拶があって「お疲れ様でした!」の声で乾杯する。
「あー労働の後の一杯が最高だな!」
由さんがにこにこしながら楽しそうに言う。
「あれ?圭吾と飛鳥は二十歳になったんだっけ?」
善さんがトボケて意地悪にからかうと飛鳥はムキになって
「なりましたよ!来年は成人式なんですよ!お祝い下さいね!」
そう言ってやり返す。
善さんも苦笑いだ。
すると圭吾が「俺誕生日2月なんで未だ19なんですよ」
そう言って小さくなるのを由さんが
「よし、黙っててやるからこれからは俺の言う事を聞けよ!」
そう言ってからかってる。
皆、暫く仕事から離れるので陽気になっている。
それでも5時を過ぎると各自「それじゃ良いお年を」と言って帰って行く。
最後まで残ったのは、親方の板長さんと俺だけだ。
朝になって始発も動き出したとは言え、未だ外は真っ暗だ。
板長はそんな表を気にしながら
「何時迄だっけ?」と店の人に訊く
「5時半オーダーストップで6時半閉店です」
「じゃ未だ大丈夫だな」
時計を見ながらそう呟くと俺に向かって
「お前も大変な人に魅入られたものだな」そう言って俺の飲み残しのグラスにビールを注ぐ。
俺はそれに口を付けながら
「どうしてですか? まあ今だから言えますけど……」
そう言う俺に板長は
「柴崎さんな、前は結構若い奴に色々とやっていたんだ。お前にした様な事な。
まあ大抵はメガネには叶わなかったがな」
そうだったとは初めて聞いた事だった。
「柴崎さん後で俺に言ってたよ。『特別に才能があるとか器用だと言うのでは無いが、集中力が普通では無い。そこが不可能を可能にする力を秘めている。道を間違わなければ、それなりの板前になる』ってな。そう言ったんだ」
言われて俺は自分でも恥ずかしくなった。
「最近、お前が残りで作った刺し身を出すと、柴崎さん綺麗に食べるだろう?」
「はい、そうです。下手くそだから残されると思っていたのですが……」
「柴崎さんよっぽどお前の事気に入ったんだな。期待を裏切るなよ」
「はい!がんばります!」
そう俺が言うと板長は
「来年からは焼き方もそうだが、広く店の仕事を覚える様にしろ」
「何故ですか?」
「それはな、お前、ずっとウチの店だけでずっと行く積りか? そうじゃあるまい。何時かは他所の店に行くだろう。その時に困らない様に間口は広げておけ。健のやつ居るだろう?」
板長は以前焼き方をしていて、同じオーナーの店に移った先輩の事を話題にした。
「あいつな、今、お客の前でステーキを焼いてるそうだ。結構大変らしい、なんたってお客の目の前で焼くから姿勢とか良くしてカッコ良くしないとならないからな」
そうか、そう言う見てくれも大切なのか。
「ウチはオープンキッチンじゃ無いから、調理時の姿勢が問題になる事は無いが、客席から調理場が見える店の場合はそうじゃ無い。見せる事も大事になって来るんだ。だからお前も将来そう言う店に行った時の事もそろそろ考えた方が良い。それが俺から来年に向けた言葉だ」
それを聞いてしみじみこの親方の下で良かったと思った。
何回も礼を言って、夜明けの街を家に帰る。
来年はどんな年になるのかと思いながら……
正月休みは俺はTVを見てコタツで一日中過ごしミカンをを食べてお袋の作ってくれた雑煮を食べて過ごした。
ただ、それだけ……
真理ちゃんとは逢っていない。
なぜか。と言うと、真理ちゃんの先生が何人かで5日に新春ファッションショーをするのでその準備にかかりつけになっているのだ。
とても俺となんか逢ってる暇は無いのだ。
今なら携帯でメールぐらいはするだろうが、この頃、昭和の時代はまだ無いのだった。
1月の飲食店は何処も忙しい。
もちろんウチの店も大忙しで、俺達も気の抜けない季節だ。
冬と言えば鍋のほかに特に出るのが日本酒だ。
ウチの店では2種類用意してある。
一つは甘口の飲みやすい酒。
もう一つは淡麗辛口の酒だ。
これは好みで選んでも良いし、初めは甘口で飲み始めて、途中から辛口に変える飲み方もある。
だが、ウチで出してる淡麗辛口の酒は京都の伏見の酒蔵の酒で最初からこれだけでも非常に飲みやすいし、変な癖が無いので、料理との相性もバッチリなのだ。
俺はそんな事も今年からは勉強して行かなければならない。
常連のお客さんの趣向も気にしなければならない。
それには自分でもある程度飲まないとならないのだが、今はそんな暇は無い。
毎日終電間際まで店に居るからだ。
やることが非常に多いから、帰るのも遅くなるのだ。
家に帰ると風呂も入らずに寝てしまう日も少なく無かった。
ある日、いつもの様に店で仕込みの仕事をしていると、飛鳥が
「先輩、最近真理さんと連絡とっていますか?」
そう訊いて来たのだ。俺は不思議に思いながらも
「ここの処は取って無いな。第一真理ちゃんも忙しかったハズだし。やっと暇になってのんびりして居るんだろう? 下手に電話なんかしたら休め無いじゃ無いのかな?」
そう俺が言うと飛鳥は呆れて
「ああもう!何言ってるんですか!乙女というのはですね。好きな人の声をいつでも聞きたいものなのですよ。判ってないですねえ。女心を……」
言うじゃないか飛鳥よ。それは俺は真里ちゃんとつきあっている、と言う関係かも知れないが、まだ深い関係にはなっていない。この前の(もうあれは夏か!)キス止まりなのだが……
くそ!飛鳥の奴知ってるな!
俺は心の中でそう思うのだった。
「先輩!兎に角真里さん絶対に先輩の電話待ってますから電話して下さいね」
そう言われてしまった。
女ってなんで余所の事まで言うのだろうか……
でもそう言われるとしなくてはイケナイ気分になって来る。
余り遅くなると不味いので、皆がまかないを食べてる間に電話をした。
何回かの呼び出し音の後で電話が繋がる
「もしもし、敬愛寮ですがどなた様でしょうか?」
ここの寮はある程度の遅い時間になると、寮生が電話等を管理する仕組みで、古参ほどその係りになるそうだ。
「わたし、田中正也と申します。鈴木真理さんを……」
そこまで言った時に
「あたし」短くも嬉しそうな声がした。
「今、大丈夫?」
「うん平気だよ。正さんは大丈夫なの?」
「少しの間なら大丈夫だよ。みんなまかない食べてるから」
「忙しいんでしょう?」
「そっちだって正月休み返上だろ」
「うん、でも終わったから」
「そうか、じゃあ、次の休みに逢えるかな?って月末だけどね」
「大丈夫!月末の日曜は休めるから!」
「そうか、じゃあその日予定入れておいて、また電話するから」
「うんありがとう……あ、それから今月は私、電話当番だから大丈夫だよ……」
真理ちゃんの言う意味を俺は十分に理解した。
「判った、必ず電話する。真理ちゃんも気にしないでしてくれて良かったんだぞ」
「そう俺が言うと真里ちゃんは電話の向こうで
「でも、やっぱり私は待ってしまうかな……」
そう言ったのが印象的だった。
真理ちゃんはずっと俺からの電話を待っていたのだ。
しかも、今月は電話番だと言っていた。
今日まで何回も掛かって来た電話を、俺からかも知れないと思いながら落胆して他の人に取り次いでいたか……
全く豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまった方が良いとさえ思った。
「ごめん……」
それしか言葉が出て来なかった。
「ううん、いいの。私も悪いから……」
それから少し話して受話器を置いた。
気がつくと後ろの方で飛鳥と圭吾がニヤニヤしていた。
俺は「バカ!」と小さく叫んだが、飛鳥とすれ違う時に
「ありがとうな」と短く小声で伝えた。
俺は本当に不器用だと思う。
色々な事を平行して出来ない。
きっと器用な奴は、こういうのも平気なんだろうな。
まあ、今まで女の子にモテた事など無い俺だから、こう言う事は初めてだった。
1月の宴会は陽気だ。
それは新しい年に皆期待をしているからだ。
だから店の中も陽気になる。
でもそれは人々の希望と期待が混じった想いなのだ。
俺達はそのお手伝いができれば良い。
お客さんがいい気持ちで家に帰れればそれで良いのだ。
そう思いながら今日も焼き台の前に立つ。
皆に支えられながら……