.親方の引退
店の方は順調に営業していた。
俺と真理ちゃんの結婚式がちょっと話題になり、申し込みも何件かあり、問い合わせはかなりの数だという。
そんな事もあり店は新規だったがモールのレストラン街でも売上上位を占めていた。
気がつくと開店から1年が過ぎていた。
モールでは1周年という事でセールをやったが、レストラン街では割引のサービスを期間限定でしたぐらいで特別な事はしなかったと思う。
店というのは実は開店して1年後からが勝負だと言われている。
1年経つと、お客さんも飽きて来て、他所の店に行ったりするからだ。
それは何処の店でも起きる事で、その分新規のお客さんを入れれば良いのだ。
それはウチの店では成功していると思う。
新しいお客さんの顔を見る事が増えて来たからだ。
そんな時、大問題が起きたのだ。
本店、俺が以前いた店だが、こう呼ばせて貰う。
以前、飛鳥が話していた事だが、新店舗も順調に推移しているので。
本店の親方が来年の3月一杯で辞めたいと言って来たというのだ。
俺は正直驚いた。飛鳥の話しだと未だ先だと思ったからだ。
俺は飛鳥に
「なんだ、早く無いか?」
と言うと飛鳥も
「早いですねえ。私まだ本店の煮方出来ませんよ」
そう言うのだ。問題はそこじゃ無いだろう。
俺がそう思っていると飛鳥は
「正さん本店に戻るかも知れませんね。人材的に見たら他に見当たりませんからね」
などと、早くも親父さんが居なくなってからの事を考えている。
「あのなあ、そうじゃ無くて、親父さんが止めたら料理の質が変わらないかという事が問題なんだ」
俺は飛鳥にそう言うと飛鳥は
「きっと善さんが花板になりますよね。でも善さんなら問題無いと思います。大事なのはその下で皆をまとめる事が出来る人材です。それは正さんしかいないと思いますが……」
そう言って俺を見るのだった。
「新日本料理の健さんは?」
「もう新日本料理が長いから本店は辛いでしょう」
俺の問に飛鳥は的確に答える。
「じゃあここはどうなるんだ?お前が煮方になるのか?」
「多分、この前だって煮方そのものは出来ましたから……」
飛鳥は少し自信ありげに俺に言った。
俺は飛鳥に「刺し身の練習しておけ」
そう言って何が起きても良いように準備しておくのが良いと言うのだった。
その年は忙しいうちに暮れ、正月となった。
モールは今年は3日から開店と昨年より早まった。
俺たち板前は2日の午後から仕込みに入ったが食材が昨年の保存していたものなので、正直市場が開く5日までは辛かった。
なので、暮れに温泉に行こうとしていた計画は中止せざるを得なかった。
真理ちゃんは「今度行けば良いよ」と言ってくれたが俺は辛かった。
旅行にも連れて行けない甲斐性なしだと自分で思った。
元旦は朝、お袋と3人で祝い、午後から水海道に出向いた。
向こうで夕飯をご馳走になり家に帰ったのは深夜だった。
温泉も何もあったもんじゃ無い。
お袋からも真理ちゃんの親からも言われたのは
「孫はまだかな?」という強烈な要求だった。
こればかりは神様の思し召しだから仕方ない。
そんなこんなで年が明けた。
店は新年ということでモールも華やかな装いで賑わっていたし、良い雰囲気で店も営業していた。
そんな時、昼休みに、オーナーと櫻井店長と本店の店長と三人に呼び出された。
モールの個室のある喫茶店に4人は座っている。最初にオーナーが
「正くん、実はね3月一杯で本店の親方が辞めたいと言って来てね。まあこれは前から時期が来たら引退したいとは言われていたんだ。そこでね、親方が引退した後の事なんだが、花板は善さんにやって貰う。これは了解を得たんだ。次に煮方だが、ウチの店3つを見渡して本店の煮方が務まるのは、正くん君しかいないんだよ」
オーナーはなんのてらいも無く淡々とそう俺に言った。
次に櫻井店長が
「正、お前なら本店の煮方が充分務まると思うんだ。どうかなやってくれないか?」
そう言う。俺は
「俺に本店の煮方が務まるかどうかは判りませんが、ウチの店の煮方はどうするんですか?飛鳥を昇格させるんですか?」
そう櫻井店長に迫った。すると本店の店長が
「なあ正、この前の結婚式の時だってあいつは充分務まったじゃ無いか。色々とあるかもしれんが任せても大丈夫だと思うがな」
そう言って俺の顔を見る。
二人がそう言うなら俺がこの事で言う事はないが、果たして本当に俺が本店の煮方が務まるのだろうか?
本店の煮方は今の店より格段に手のこんだものを出している。
それが俺に出来るのだろうか?
普通の時なら問題は無いだろう。
だが何かイレギュラーがあった時に対処出来るのだろうか?
漠然とした不安が俺を襲う。
それに……
「新しい店も1年以上過ぎてやっと軌道に乗りこれからだという時に移動ですか」
そう俺はちょっと毒づいてみた。そうしたらオーナーが
「まあ、そう言うな! 報酬もそれなりにするから」
そこまで言われたら引き受けなくてはならないだろう。
俺は3人を前にして「宜しくお願いします」と頭を下げた。
すると本店の店長が
「いや、引き受けて貰ってよかった。実はこれは親方の希望でもあったからね」
そう言うではないか、俺はその事を問い正した。
すると本店の店長は
「ああ、親方はね。自分が辞めるその後の事も心配していてね。煮方をどうしても正にやらせて欲しいと言っていたんだ。あいつは俺の弟子だからとね」
そうか、そうだったのか、俺は親方から弟子だと思われていたのか……
その気持が判った今、俺に断る事は出来ない。
もう一度本店に戻って頑張るしか無いと俺は思うのだった。