4.彼と彼女の日常は彼にとっての異常。
シエルに対して“敵”宣言したジンは、その日から自室の侵入者を阻む結界を強化した。結界を幾重にも重ね、高レベルな結界解除の魔術を何時間にも渡って使用しなければいけないほどの、一般家庭にかけるには不釣合な結界だ。
それもこれも、シエルが忍び込むのを防ぐため。今まではなんだかんだ言いながら、シエルが忍び込むのを容認していた訳である。
窓から部屋に入れなかったシエルは、朝一からしょんぼりとお行儀よく正面玄関から迎え入れてもらった。ジンのシャワー待ちをしようとしたが、シエルが来た午前六時にはもう既に学院に行った、とジンの母から聞き、項垂れながらもちゃっかり朝ごはんは食べてから学院に向かう。
既にジン不足により酸欠状態のようになりながらフラフラと教室に辿り着くも、いつもは勉強している時間なのにジンの姿はなかった。
シエルは崩れ落ちた。手が震えているのはジン中毒症状である。
ジンがいないという絶望に沈んでいる今の彼女には誰かに絡む余裕もなく、教室には平和が訪れていた。
「シエルさん、おはよう」
「……おは、よう。ノイン君……」
掠れた声で目も合わせず挨拶をするシエル。少し震えながら(中毒症状)視線を落としている姿は庇護欲をそそられるものがある。見た目だけは可憐で儚げに見える不思議に、ノインはまんまとひっかかり、心の中でほくそ笑む。しかし、同時につまらないな、とも思った。
まさか、あんなに効果覿面だとは思っていなかったのだ。少し仲良くしているように見せかけただけで、あんなにあっさりと彼女の事を切り捨てるなんて。もう少し粘ってくれると思っていたのに。
彼女もそうだ。ノインが仕入れた情報には、どんな熱にも溶けない幻の鉱石で出来ている心の持ち主だとあった。それなのに、この彼女の様子はただ彼から別れを告げられて嘆くだけの普通の女の子のようではないか。
まあ、いい。と、ノインは心の中で嘆息する。さっさと仕事を終わらせるために、シエルの心も揺さぶろうと、彼は彼女に囁いた。
「ジン君は何を考えてるのかな? 君を“敵だ”とか言うなんて……。僕なら、キミにそんな悲しい思いなんてさせないのに……」
「え?」
「え?」
シエルは、『この人何を言ってるんだろう?』といった感じでポカンと口を開けた。まさかの反応に、ノインもポカンと口を開けてしまう。
彼は自分の容姿の価値を知っていた。どんなに男に興味が無さそうな女でも、彼が優しく囁くだけで頬を染めてしまうのが当たり前だったのだ。それが弱っている女相手だとことさら効果倍増であった。
それなのに、彼女は至近距離で彼と見つめ合っている形であるのに、少しも動じないどころか、この彼を見る彼女の目は一体どういう事だろう。
『ジンが考えてる事? そんなの決まってるじゃない。むしろ、そんな事も分かんないの? はっ(嘲笑)』
そんな理不尽な嘲りがノインに向けられていた。彼は混乱した。
何故だ。ジンに“敵だ”と言われて落ち込んでいたのではないのか。何故そんなに『私は彼の事ならなんでも分かっているのよ』みたいな目をしているのだ。そのドヤ顔は何だ。何故だ。一体何に落ち込んでいたというのだ。
ここで時は少し遡り、班決めを行なっていた時の事をシエル視点で追ってみよう。
「シエルさん、良かったら僕と組まない?」
ノインに声をかけられたのは、今度もまた一人でやるんだろうなぁ、と思っていた時だった。
彼の誘いに戸惑った。シエルは自分の強大な力を上手くコントロールできない事も、人と協力し合うといった行為ができない事も理解していた。
だから、どんなに寂しくとも、一人でいた方がいいのだと理解していたのだ。
困ったように笑い、答えを言い淀む彼女に、彼はジンがこちらを向いているのを確認してから耳元に近づいた。
「僕は意外と頼りになると思うよ? こう見えて国際魔術師一級を持っているんだ」
彼が囁いたのは、ただ、それだけだった。
しかし、絶賛眼鏡を曇らせ中のジンにはイチャついているようにしか見えず、その後のシエルの嬉しそうな笑顔が更にジンの勘違いを深めてしまったのだ。
シエルは喜んでいた。国際魔術師一級を持っているなら、実力はシエルに多少劣りはしても、自分が何か失敗したとしてもフォローなり避けるなりしてくれるだろう。間違っても、大怪我を負わせてしまう事など無いはずだ。
一人じゃ、なくなる。
それがとても嬉しく思えて、溢れる笑顔を抑える事ができなかったのだ。
ここで彼女が犯した大きな失敗は、ジンと組むという事を欠片も考えなかったという事である。
いつもは鬱陶しいくらいにジンにまとわりついている彼女であるのに、こういう誰かと組むような授業になると、サッと身を引いてしまう。いまだ恋する乙女の奇跡は続いており、『ジンの迷惑になってはいけない』と、思いやりという名の奇跡を起こしていた。
だがそれも、やはりいらない所で発揮されている訳だが。
班登録が済んで、ジンに今度は一人じゃないという喜びを伝えに走ったのだが、彼は彼女の言わんとする事を既に分かっていたようで、さすがジン! と惚れ直す。
そして、ジンのあの言葉である。
「今日から、またおいかけっこだな☆」
何やら事実とは少し違う気がしなくもないが、確かに彼女の耳にはそう聞こえたのだから、世の中不思議で溢れている。
おいかけっこと聞いた(幻聴)彼女の脳裏には、ジンに『敵だ』と認定され、追い掛け回されていためくるめく情熱的な日々。
なるほど、と彼女は心の中で力強く頷いた。
初心に返り、あの頃の情熱を取り戻す事によって、マンネリを打破するつもりなのだ、と、マンネリがどういう意味であるのかも知らず、したり顔で頷いたのであった。
ちなみに元気が無かったのは、ジンに会えなくて寂しいから、ただそれだけである。
ノインの色々なプライドに罅が入りかけた時、ようやくジンが教室に入って来た。
「ジンっ!!」
先ほどの儚げな様子もどこへやら。花が教室を埋め尽くさんばかりの雰囲気でシエルが立ち上がる。その次の瞬間、彼女の姿がノインの前から消えた。
「――っ!?」
突如消えた彼女に驚愕すると同時、彼の背後からけたたましい破壊音が轟いた。振り返ると、パンツ丸出しでうつ伏せに倒れているシエルと、その上に崩れた教室の壁。すぐ横では、それを冷めた目で見下ろしながら眼鏡をくいっとするジンの姿。
シエルの自重しない飛びつき→軌道は一直線→シエルの声が聞こえたと同時に一歩ズレるジン→シエル壁に激突。といった学院内では見慣れた流れであった。
しかし、見慣れない者が一人、ジンのあまりにもの冷めっぷりに愕然としている。
――いやいやいや、瓦礫に埋もれている彼女を、何故そんな冷めた目で見ているんだ!? 怪我の心配をするのが普通だろう!?
だが、そんな彼の心配など無用のものだとばかりに、シエルが平然とした顔で身を起こした。
「もう!! どうして避けるの!?」
「……お前は俺を殺すつもりか? それよりも、早くパンツを隠せ」
四つん這い状態で起き上がった彼女のスカートはめくれたままであった。指摘されたシエルはあまり恥ずかしがる様子もなく、てへ☆とおどけてみせる。それにジンの眉間の皺がギュギュンッ!! と深まった。
「俺以外のヤツにパンツ見せてんじゃねぇよ!!」
(デレた!!)
(そのデレ方なんか違う!!)
(今日も、うぜぇデレ方しやがって!!)
(爆発しろ!!)
安定のバカップル加減にクラスメートたちが胸焼けを起こしている中、ノインの混乱だけが深まっていく。
「だぁいじょーぶ!! ジン以外にはパンツのなか……」
「黙れ!!」
「え~? ジンもいらないの?」
「ぐっ……!? そ、それは……、はっ!! そ、そんな事よりもだ!!」
(いるんだろ)
(否定しろよ)
(話ムリヤリ変えたな)
「お、俺とお前は今は“敵”同士なんだ!! 演習が終わるまで寄るな触れるな近づくな!!」
その言葉に、ノインは開いた口が塞がらなかった。
――なんだ、つまり、別れるといった訳ではなくて、集団演習での“敵”として、自分の恋人を本気で倒す気満々だという訳で……。つまり、演習が終われば、元通りになると言っている訳で……。
「くっ、ふはっ。あははははは!!」
突如、腹を抱えて笑い出すノインに、教室中の視線が集まった。ジンもまたノインに目をやる。
「あはは……。キミたち、面白いね。なんか、凄いやる気が起きてきたよ」
――その、歪みの無い関係を壊してみせる。
ノインの挑発的な視線を受け、ジンの目が鋭くなる。
その眼差しの強さに、ノインは得もいえぬ快感に身を震わせた。
【国際魔術師資格】
国によって使用禁止魔術があり、それを際限なく使用できるようにするためのもの。
十級から特級までがあり、四級までは少し優秀な者なら比較的簡単に取れる。
しかし、それ以上は才能と三級以上の資格者の推薦状が必要なため、一気に取るのが困難となる。
三級以上は、才能・知識・人格が必要なため、資格保持者は羨望の眼差しで見られる。
シエルは才能しか無いが、どうせ使用禁止のものをどこでも関係なくぶっぱなすから、後々の面倒を避けるために持たせてしまおう、という協会の投げやりな意向である。
ちなみに、ノインは旦那に先立たれた熟女に取り入って推薦状を貰った。