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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。

地球儀とランドリー

作者: 糸井槌
掲載日:2026/04/04

彼女が生まれた日は、冷たい雨の降る朝だったと聞いている。湿った落ち葉の匂いすらしてきそうな病室で、母親は懸命に陣痛をこらえていたのだという。その話を聞くたび、十代半ば頃の私は白くけぶった朝靄の中でふにゃふにゃと泣いている赤ん坊のことをなんとはなしに思っていた気がする。

そんな空想はいつの間にか固定されたものになり、細部まで形作られた。ベットサイドに置かれた青白い机に、窓辺に生けられたスプレーマム、引かれた緑色のカーテン。横たわる母親の横には小さな赤ん坊がさまざまなやわらかなものに慈しまれ眠っている。見たことも行ったこともない光景はもちろん、過ごした夜の狭間に紡がれたキーワードを繋ぎ合わせて作られた幻想なのだけれど。

毎年、この日を迎えるたびに今も思う。

その人は望む場所へ行けたのだろうかと、ずっと思う


喉仏というのはおもしろい器官で、触ればゴツッとしているのに、唾を飲めば滑らかに動き、ときに死んだように止まり、目に見える命として拍動をする。

キスをしながらそこを撫でるのが好きだという上客に自分の喉仏の素晴らしさを買われた二時間をかけて語られたことだってある。急所のひとつであるから仕事とはいえ苦しい痛いと怒りたくなることもあった。

じゃあ耳にしろ、唇、咥内、首の後ろ、背筋に腰、ひざの裏、気持ちのいいところは大抵が急所だ。血管が多く、触れれば温かく、埋め込めば泣きそうに悲鳴があがる。思えば自分の周りにはそんなふうに、急所ばかり探って近づいて、少しずつ傷ついていく関係しかないような気がした。


自分の身体のどこが気持ち悪くて、どこが淫靡で、どこが見たくもないほど醜いか、初めて気づいたのは中一の夏だった。義父がふかしている煙草の下敷きになった昼飯代の二千円を貰うためだけにひたすらしゃぶった。中学は弁当だったからそうするしかなかった。煙草の痕と傷と鬱血のカラフルな肌を暗い制服に隠して、進級した先の六月に自分が売り物になるのだと知った。倦んで嘲笑って無関心になって、それらの過程を繰り返してきて、ようやくすべてを無視出来るようになってきた。


「声かけておいてなんだけどさ、だいじょうぶなのそれ」

ユウキ、と名乗った年は同じか違っても三つもかわらないだろう男が、俺の身体を指差して平坦な声で言った。

薄黄色になりかけた内出血の横では真新しい青黒い痣が広がり、醜悪なグラデーションを成していた。ひときわ腫れた乳首は衣擦れだけで泣きそうになるし、その下の肋骨には黒ずんだ痣がいくつもある。

「なんか、そこまでいくと面白い女もいるんだねって関心するよ」

なにも言わず下着一枚になって歩を詰めると、動かないままでいる男の手を取り、拳を作らせ自分の腹に押し当てさせる。冷たく硬い骨が肌を押し込む感触なんて、今更どうとも思わないけれど。そうして相手のものより大きいこの痣を付けたものが女などではありえないことを悟らせる。俺よりよほど大きな男の拳、それが何度も、何度も殴らないと、こうはならない。

俺の視界を覆うように男はうつむいた。拳を引こうとしているらしい腕を掴んだ両手で拒む。

観念したらしい男は器用に指を捻ると、俺の手をいつくしむように撫でさすった。ぞっとするほど、手慣れた淫靡な手つきだった。

「肋骨のあたりって、骨と肉のバランスがちょうどいいらしいね」

発せられた声がやわらかいぶん、いっそうに言葉はおそろしく響いた。

「その辺りは肉がうすいから、殴るときちんと骨の感触がするんだよ。殴ってるって感じがするんだってさ。ぼくも一緒。ぼくのからだは特にその骨と肉のバランスがいいんだって。みんな褒めてくれるんだよね」

まあ君とちがって女が多いみたいだけど。

言うと男は顔をあげて、その目の深さに恐怖が背をなぞった。立ち尽くす俺へ、底のない瞳が曲げられ近付いてくる。

「ぼくはね、人なんかきらいだよ。特にきみみたいな人がいちばんきらい」

同族嫌悪ってやつだろうね。

ゆかいそうに聞こえる声はそれを発している男の表情となにも一致しなかった。かたまった俺の拳をなお擦り続けるつめたい指先。

「惨めでかわいそうな売女もどきさん。お金はちゃんと渡すよ」

そして突然なみぞおちの衝撃に、しゃがみ込んで頭を下げると酷い吐き気が頭痛を伴ってくらくらと気を遠くした。鼻の奥が焼けるほど痛い。磨耗したのど、下から胃を押し上げる伽藍の空洞、重たい、えずきながら滲んだ視界の真ん中で、男は完璧なほどいびつに笑っていた。


スニーカーの踵を潰したままでずりずりと歩くりょーちゃんの四歩半うしろを歩く。姿勢が悪いせいかそれとも歩き方のせいかだめな男の子みたいだと思う。かわいらしい音なんてどこにもしないで、ずるずると、それでもいささか上機嫌そうな背中に雨上がりの風がふくと、余白のやたら多いTシャツがふくよかにたわんだ。まず、歩くのがそもそもへたなのかもしれない。コンビニ袋が足に当たるたび、安いビニールが擦れる音と発泡酒の缶がぶつかる音がごちゃごちゃと纏わりついている。

「りょーちゃんさぁ」

「んー」

「それどこで買ったの」

「んー? 」

だるそうに首周りに浮いた汗のあとをさわる指先にはさんだたばこが燃えると、じりついたやわらかい音になって聞こえた。本当はそれが気のせいに過ぎないことも、ちゃんとわかっていた。確かじゃないことは案外この世界にたくさんあるのだと思い出す。

「それってどれ」

「どれって、Tシャツ」

ええ、とか、これかぁ、とか、気の抜けた返事は青い風といっしょなって肌をなぞるだけでただのひとつも引っ掛かりはしない。

すぐ脇の環七を法定速度で走っていく車のくたびれたエンジン音とか、そのあいまにずるべしゃずるべしゃいいながら、もうほとんどサンダルみたいになっているスニーカーを引きずって歩く音。

そうして、だるそうに首をかしげて煙をこぼす時のうすい息継ぎに似た咳払いのような声だとか、そういうものだけが現実に空気を震わせる音であって、たとえばその声のうらがわにいたずらっ子の影が伸びる音とか、たばこの灰が落ちていくスピードで自分の心臓が軋む音とか。

雨のあがった気配にりょーちゃんがまばたきをする音だって、そんなふうに思うことをやめてしまうまでもなく、はじめからすべてはすっかり嘘にすぎない。

けれど、手に触れることもないささやかなそういうひとつひとつが、まざってからみあってあるいは溶けたりして、たしかなものだなんてどうせどこにもない世界を構成するのだと思っていた。いや、いまでもずっと。

いまだに、そう思っているのだった。ひとつの曲を飽きもせず聴きつづけるみたいに。

曖昧で不確かで信じられる、作り出すひとつひとつの瞬間がからまって世界やこの体になるのだろうと、そんなことを昔から思っている。

(きっとりょーちゃんは言葉にしない、だからそういうやわらかいところをさわりたい)

立ち止まって黙り込むと、りょーちゃんはしばらく先に進んだあとふと思い立ったように足を止めて振り向いた。へしゃげた顔で立ちつくしているのを見られたかもしれないと思い、気付かれない程度に頭を揺らしてひびだらけのアスファルトへと目をやる。だってそれは、見せたのとほとんど同じことだった。

「あー……あの」

とがらせた口元に夏のにおいをまとって、りょーちゃんの薄いくちびるの隙間からこぼれてうまれた、泡よりもやわらかい音が耳たぶにふれる。

不服そうにしかめている眼をゆるめて、それから、わがままをいうのに慣れていない大人びた子供みたいな声で、りょーちゃんが、それ、とくりかえす。

ひらいていたおよそ七歩ぶんのすき間をもう聞き慣れたずるべしゃの四歩くらいで埋めて、まばたきほどの間をおいてから、しおりさんが行くみたいな洒落たとこじゃないから恥ずかしいんですよねえ、なんてばかみたいな言葉を煙とともに吐き出して首筋をがりがりとかいた。

「裸足のすきまに風がとおるのってこれきもちいいんですねえ」

知らんかった、とへらんと目を曲げてやわらかに笑うと先に歩きだした彼女の細い背中を口を閉じられないまま、知らずにかしげていた首に気がつくまで見つめていた。

宵の淵、夜の間際の陽はまだ落ちきらない、。遠くぬるい初夏の音が汗ばんだ肌の上の髪を揺らしていた。


不愉快に人の色をした手首の内側、皮膚に透けて縦に通るいくつかの血管と浮いた骨を分断するように引かれた赤黒い線が主張する馬鹿げた悲劇をひもとこうなんて、今更どうしたっても思いはしない。

真実を知ったとして一秒後には保証などされ得ない不確かな虚像と成り果てることは今や想像に容易いし、何より自分は知ることを望まない。そしてこれから先、望むこともないだろう。

開いたそれが真新しい傷であることを証明する赤黒さは醜悪にして生々しく、生命の雑役振りを嫌でも見せつけてくる。生憎その様を見て胸を痛めるような甘ったれた慈悲も持ち合わせていなかったので、取り立てて何を言うでもなく包帯の結び目から手を離した。


相変わらずひどく項垂れたまま喉の奥で笑って、小さく鼻を鳴らしている彼を私は見ようとはしなかった。目を閉じてもそれと知れるほど近く、彼の呼吸が聞こえていた。目を伏せるとひどい眠気を感じてひらくのがすぐに億劫になった。

彼と居るといつもそうだった。ただの馬鹿なガキかとあしらっているうちに、そういうにおいのする男だといつからか知った。夜とか、かわいたぬるい空気のような。

「先輩、もういいですよ」

なんで俺にかまってくれるんですか。しんどいだけでしょう。

目をやれば、癖の強い髪がうねりながら集まっているつむじが映った。

「押し付けるみたいですけど、俺、先輩と会うようになってから余計駄目になった気がするんです」

「駄目になったら駄目なの」

「俺は駄目です」

「そう。別にお前が駄目になった責任なんか、私にはどうってことないけどね」

うつむいた頬へ手をやればそこは濡れていて、いっそう惨めに思えた。

彼は泣いていた。私の衣服を剥いで、暴けぬ深奥に酔い、吸い込む汗のにおいの浅ましさに至る最後まで、声を潜めて泣いていた。

乱暴に扱われた衣服の散らばる寝具の上で、私はいくつかの赤い染みを見ていた。こいつが一人で肌を裂いた際に滴り落ちたものだろう。水玉模様のように点々と色づいたシーツが訴えるのは、馬鹿な後輩の悲哀ではない。懸命に生を掴もうと足掻く逞しさでも、命の無骨な美しさでもない。虚飾だ。

異常なほどに熱いてのひらが私の肌を掻いては抉るような苦しさに咳き込む以外、私は最後まで一切の声を発しなかった。ただじっと、まぶたを鎖してすべての光を断った。

人間の身体、慣れればこれぐらいの拷問はどうってことじゃない。ひとつの問題は、先程まで死を願っていた人間が獰猛に息を荒げ、煌々と目を開いて人肌を欲したことだ。

とはいえこれは毎度の話なので、その変わり振りに驚愕したとかそんな話ではなく、それが日に日に矛盾して感じられてしまうことで、私は同じ出来事が積み重なる度に明を理解出来なくなってしまう心地さえした。

こうした関係について、彼と私とはなにひとつとして約束をしたことはない。発端は遠く、繋がりは長い。それ以外ひとつも説明ができない。説明……否、言い訳なのかな。


随分と久しぶりに目を開けたような気がする。開け放されたカーテンからは橙色の返照が甘ったるい午後の余韻を連れて注がれるが、低血圧の自分の身にそれはただ煩いだけだった、幸いなことに。

背後からは先程までの息遣いが嘘のように穏やかな、規則正しい寝息が響く。背を向けて横たわっているため、その表情までは確認出来ないけれども、惚けた面をしているのだろうと思った。そうであってほしいと思った。

「すみません……俺、先輩がいなくなったらたぶん笑えないです。先輩といたら悲しくないんです」

眠る前にそんなことを彼は言った。私は何も言わなかった。


首筋を這う空気が内包している水は暗い。まどろみと親しくないのならたちまち居心地の悪さに変わるそれは苛立ちを助長して、わけもなく鼻の奥の柔らかいか細い粘膜をつつく。

気にいらないままもぞもぞと振り返って、馬鹿なのは私も同じなのだと知った。

シーツを足で遊びながら、不鮮明な網膜へ映している横顔に粒の細かいやわらかい黄色い日差しが滑って、殺風景な部屋の中で、いくらか暖かいにおいをかいだ気がした。きっともう間もなく西日が落ちる。夏にはまだ少し遠い、梅雨のくる前の春の終わり、五月の、いちばん中途半端な晴れ間。

人の血がこびりついたベッドで眠るのは趣味が悪いと思ったけれど、もうそんなこともどうだっていい。

理不尽なのは彼じゃない。私の方だ。例え死んでも死にきれないのは、私の方。

そして、不用意に私の末端を結んだり綻ばせたりする後輩を、さみしい奴なんだ、と初めて思った。


この先どうしていくのだろう。これからどういきてゆけるのだろう。いや、案外、明が消えたら私も消えれば済んでくれる話なのかもしれない。

あおぐろい窓からさす斜陽が湿った肌を乾かすまで考えてみることにした。



いつの間にか更けた夜の内側へ戻ると、遠くで蝉と、蝉でない、ころころとした虫のかぼそい鳴き声を聞いた。じとりと肌にまとわりつく空気はそれでも幾ばくか酸素をはらんで膨らんでいる。水分の多い重たい呼吸であえいで路地裏の静寂に上を見上げれば、金色の火花が降り注ぐ星を焼き殺して遠く消えた。いつの間にか更けた夜。知らないあいだに、気づかないうちに、なにもかもすべてが見違える世界。ゆらいだ熱に見失うことがある。だけど、たとえばあとについて歩く目の前の、その肩幅の広い背中が見た目より華奢なことくらいは知っていると思った。少なくともその程度の事実になら簡単に手が届くところには居る。


「あ」


焦げ付いた匂いがくすぶっている軒先、数軒先にぽかりと空が抜けているそこに、ずどおんと腹の底まで抜けて落ちるような音が響いた。花火、と明が言う。


「平日なのに」

「見ていきますか? 」

「まあ帰りながらでいいんじゃない」


暗い軒先の向こうに屋台の提灯の明かりが見えた。あまり人気のない路地を砂利をすりつぶして黙って歩く。星の知らない夜。明が無骨な指に挟んでいる火をつけた煙草で虫をはらって、青にすら見える夜を進んでいた。瞬きをするとまつげの先でどこかの遠い火花が燃える。


ほしいものなんかない、これ以上がほしいわけじゃない。

(……わらっちゃうね)

ずどん、と、また金色の花が散った。


「こことか見やすいんじゃないすか、ほら」

隣接するアパートのすきまに、ぽっかりとあいた空があった。

スニーカーの底で砂利を蹴って隣に並ぶと、明は煙草を新しく持ち替えてそれを私へ寄越しながら、やっぱりちゃんと見て帰ったらよかった、とひとりごとみたいに言った。所在ない右腕をぶらぶらさせてからポケットにしまうと弾みで音もなく肘がぶつかって、居心地が悪くてわざとまたぶつけた。

明が口をへの字に曲げてこちらを見下ろし、なに、とにやにやした笑みをこぼす。聞き慣れてきた機嫌がいいときの声。たぶん、さっきの飯が気に入ったんだろう。

知っているのは、なにも背中の華奢なことだけじゃなくて、機嫌がいいときの笑いかたとか、話しかけられたくないときの呼吸とか、ひとりに飽きてかまってほしそうにあたりを見渡す瞬きの仕方とか。

「なんだよ」

「いや、寝る前に先輩なんか言いましたよね」

知らないとかぶりを振ると、持っていた空き缶で煙草の火を消しながら明は何か言ったけれど、花火の上がる音に被ってなんにも聞こえなかった。

うっすらとした光を浴びる頬の上、まつげのかげの伸びる横顔がうつむいて薄く笑う。


奥歯で甘い苦いじゃりじゃりした苛立ちを噛んでみた。苛立ち……もしくは水辺の縁に立って水の面に鳥が飛ぶのを見ているときの遠いあこがれに似たそれ。

風は凪いだまま、光もない夜の水面は平坦な静謐に包まれてつめたい。

覚えていないならいちばんいい。そうしてなにかを心臓の影でそっと手を出して握りつぶした。忘れると知っていたから言ったくせにちょっとくらい動揺してほしかった、なんて。

なんだかもうずっと、安っぽい望みもない救えない言葉にするんなら今この瞬間をフィルムに焼き付けて時間ごとずっとアルバムに挟んでいつまでも触っていたいような気がして、それから酷く長いため息をついた。

「知らねえって、夢でも見たんじゃない」

耳の後ろを掻きながら、こいつが自分にはすこし優しいことをやっぱり知っていた、と思った。明がおもしろそうに笑ったのを見てすぐ、すたすたと先を行って情けない顔をすれ違う人達に気付かれないよう隠してじっとうつむきがちに歩いた。夜道の地面には金の火花が細かい影を散らしていた。


ほしいものなんかない。ほしいものなんかないのだけど意識の中に入れたらいい。

そうして落ちない跡をつけて、ときどき思い出してもらえたらいい、と傲慢が首を擡げて傾けた腕を抱いたまま不機嫌な溜息を吐きだして今日何度目かの舌打ちを鳴らした。

こんなことを最近繰り返している。そろそろ自分がきらいになりそうだ。だってなにもいやなことなんかないはずなのに。

朝に、めんどくせえと首筋をかいて、頬杖をつきながら明がほとんど落書きみたいなことばかり書き込んでいたメモ帳だけが置かれている。

誰もいなくなった部屋の中で腕を枕に顔を伏せれば頭はすぐにうつらうつらとまどろみはじめる。

深く息を吸って、止めて、わなないた横隔膜の内側、痩せた胸の中のずっと向こうに沈めてあるそれは小さくて尖っていて、それは臆病でもろいと知っていた。テーブルは散らかっていてひじを伸ばせないから曲げたままの腕は頭を抱えるみたいになっている。窮屈に息を吐き出せば、嫌味なくらいため息に似ていて、ざわり、と肺の底にある浅い水辺にまた砂利がたまったようだった。そういえばそろそろシーツだって洗わなきゃいけないな、と思い出してまた自分にうんざりした。なにもいやなことなんかない。なにもいやなことなんかない。


ぽつぽつと軒下に出来た水溜まりをまたいでランドリーの扉を押す。振り返った頭部はずいぶん白く脱色されていて、たっぷりとした白いTシャツが揺れるたびに蛍光灯を受けてはその色味を替えた。

「なんか、珍しい」

いつも色入れてたのに。

隣に並んで声をかければ、言わんでよ、と笑う灰色の華奢な腕が隣の洗濯機のふたを開ける。また刺青増やしたのかあ、とやわらかにしなるそれを視界の端で追いながら自分も荷物を洗濯機に詰める。軽い声が静かに膨らんだ夜の中を泳いで、上機嫌らしいそれが小さく曖昧な鼻歌を歌うのが聞こえて、気怠さにまかせて伏せた瞼の内側で、ひとり透明な呼吸をした。

粘膜をなぞっておだやかにおちてゆく声が耳の骨に沿って流れてくる、それが触る道筋を追って、ふと気づく。

やさしいものならきっと世界中、どこにだってあきるほどある。

そうだけど、そんなものが欲しくて不機嫌な顔をしているわけじゃない、やさしくなんかしないでいい。優しくてもそうじゃなくても、べつに、たぶん、なにもかわらない。反射運動みたいに小さく舌打ちを鳴らすと、彼女は鼻歌をふつりと途切れさせる。

「ねえ、今までもさあこんな夜中に洗濯とかしとったんですか」

言うと、小さくほほえんで空気を揺らした。


跡をつけて、そうして平然とそばにいたい。べつに赦されたくなんかないし優しくされたいわけでもなくて、いや、ちがう、多分それはなくすのがこわいだけなんだけど。

ぼけっと突っ立ったまま、あーあ、とのどを鳴らしてうっとうしそうに眉をひそめ肩甲骨の間接を鳴らした。なまぬるいランドリーの空気が瞼が重たくなって少し眠たい。

なんにも欲しくないなと思った。それでもただなにか残してやりたい。それはまるっきり自分のために、だけどそのせいで明が傷つかなくてもいいやり方がいい。なんてのはただのきれいごととほとんど一緒でなにかを愛しいと思った瞬間から傷つける行為は始まっているのかもしれないけど。

あーあ、だなんてわざとらしく息をついてから、りょうちゃんはさあ、と思い出したふりで声をかければ、携帯端末をいじり始めたきれいな横顔が振り向いた。

「なんか欲しいものとかないの」

「はい?いや、わたしの誕生日先月でしたよ? 」

急に方向の変わった問いかけに首を傾げる彼女を見届けてから、知ってる、と返してもう一度おなじことを問えば、鼻のまわりをくしゃとゆがめてひどく簡単な優しい声で、あるよ、ない人なんかおらんでしょ、とのどをふるわせられる素直な人がひどく楽しそうに笑った。

「そりゃいっぱいありますけど。くれるんですか?」

「そういう話じゃない」

「なーにそれぇ」

ぽす、と音を立てて背もたれに頭を乗せた彼女が揺らす笑い声の振動が鼻先のしゃぼんをぱりぱりと割って夜を静かに泳いでゆく。そこに安心してゆっくりと目を伏せる。それはもうこれ以上話す気はないのポーズで、意を汲んだらしい左隣でゆっくりと呼吸が膨らむ音がした。

ほんとこういうのくむのうまいよねりょうちゃんね。

なんて声に出す前にゆるんだ唇からはただ生ぬるいあくびだけがこぼれて、ゆらゆらとまどろみ始める。まもなく、洗濯が終わったのを知らせる明るい機械音がなっても、彼女はそのままなにもいわないでいた。

りょうちゃんはやさしいよね、と言いたくなったけれど、その優しさに拒絶されるのも、甘えるのも、それを汚すのも、自分は一ミリものぞんでなんかいない、と思う。衛生的な匂いが鼻先でまるくはぜて、耳の後ろがくすぐったいような、ひりつく痛みが心臓をひっかいて消えた。サンダルが裸足の足の裏に吸い付いて軽い摩擦音を立てる。夏の音はどれも透明で尾を引いてどこかに消えていく。

目を閉じると肩幅の広い薄い背中と、それ越しで金色に散らばる火花が見えた。それも次第にうっすらとぼやけて記憶のどこかに溶けてゆくだろう。熱を持たない残像は淡く、そこにあることを忘れてしまうなだらかな影に似ている。

そうしていつしか、また曖昧な鼻歌が聞こえて。


それから乾燥機が回って、彼女の出て行く足音がするまではずっとそこにいて動かなかった。ずっと顔を上げないまま、静かに規則的な呼吸をしていた。こんなとき泣けたらきっとかわいいのに、でも私がやっても気持ち悪いだけなんだろうし、だいたいそんなの似合わないとか今更だし、まぬけすぎてばかみたい。

(あ……乾燥機、もういっかめんどくさい)

そうして愚痴を混ぜたためにくぐもった吐息をずぶずぶとひき延ばしながら、すこし残っている明の血の染みを爪で掻いて、酔いの醒めない悪い夢を思った。


完璧な人間なんていないだなんて、使い古されて、背の擦り切れた文庫本のようによく聞く言葉だけれど、その実態を目にみて手に触ったことのある者がどれだけいるだろうとこの年になって思う。

時々、雨の日のランドリーに彼女を見かけた。

そしてそんな時は即座に踵を返して、扉に手をかけるのもやめていた。

やさしいものならきっと世界中の、どこにだって飽きるほどあった。そうして、それらをどれだけ考えてみても、結局いらないものだった。ましてや自分の両手を眺めてみれば、そんなものはこれっぽっちもありはしなかった。

でもさ、やさしいものってなんか信用できなくないですか?と嘯いてやる気なく笑う彼女の、そういうさみしそうなところが手のつけようもないくらいにどうしようもなくて、きっとすきだった。

もしもなにか、きれいなあたたかいかわいい、そんなものを持っていたのなら、それとも彼女がもっと力ないよわい生き物だったら、昔彼女がしてくれたように、しあわせなんて持ち合わせていない手を、気紛れで伸ばすことも出来たのかもしれなかったけれど。

なにもかもがつるりとして表面に凹凸をもたず、ただきれいに笑っていられるひとがいる。けれど、ねえ、そういうひとはたいてい小さな嘘と破綻を抱えている。

俺を連れ出してくれた人のこと。そしてそのまま、どこかへ行った人のこと。


「あー、悠木さん」

呼ばれて振り返ると、昔の後輩がこちらへ近付いてくるところだった。軽く手をあげてやれば、彼の表情の膜が一枚はがれる。

「松戸くん?久し振りだね、俺これから飯行くんだけど」

いっしょに行かない、とこちらが言い切る前に、行きましょう、と嬉しそうに言う彼に苦笑しながら若いなと思った。

この間観たらしい小さい舞台のこと、そこで印象的だった芸人のこと、松戸くんはとりとめもなく話して、俺はそれにあいづちを返す。

そんなやり取りを何度かしてから彼は同じような口調でそれを放った。

「あとねえ、俺振られちゃいました。ずっと好きやったんですけど、ずっとっていうか今も好きで……正しくないのってやっぱりだめなんですかね、俺も、あの人もたまたま男やったってそれだけなんですけど、ね」

変わらず笑って話す松戸くんの表情にまた膜が戻りはじめて、足が重くなった気がした。


三時間もすれば日付が変わる時間、行くつもりの店まで歩くには面倒で松戸くんが勧めてくれた深夜カフェに入った。

地元から随分離れた都会にはいつでもどこにでもひとがいて、その雑多さに紛れればなんでも話せる街だと改めて思う。濃い色の木壁に寄りかかって、煙草の灰を落としながら、松戸くんは、会った時とは似ても似つかない笑みを浮かべた。

運ばれたアイリッシュコーヒーを口にする。あまいアルコールがぷんと抜けて、それはかつて俺の部屋にいた彼女をすこし思い出させた。

「恋なんてさ」

肩すかしをくらったように俺をみる松戸くんへ目を戻す。なんら特徴のない店内は賑やかしくて、すぐ隣のテーブルでは大学生らしき集団がビール片手に笑い合っている。すぐ後ろからは注文をとる店員の声。BGMは静かめのクラシックで、ログハウス風の店内にはちょっとミスマッチだと思ったけれど、そもそも俺はこの店が何をメインにやっているのかすら知らない。

コーヒーとお酒、量の多い料理と適当なつまみをだすバー。壁にはフランスとブラジルの国旗が並んでかかっている、節操のない、どこにでもある店。

その小さな世界……おそらく彼は慣れたこの世界……誰の幸も不幸も置き去りにして回される世界で、松戸くんは傷ついたまま、俺はなにもしらないまま、恋について語ろうとしている。

だけど、きっと言葉なんて重要じゃなかった。

「こうやって、いつでも、なんにでもさ、誰かを思うことだけでもう、それは恋なんだっていえるのに、なんで俺たちは始まりも終わりもわからないんだろうね」

言葉を切れば、入れ違いに沈黙が落ちる。周りがどれだけうるさくても、沈黙は作り出すことが出来る。どれだけ仲がよさそうにみえてもそれが虚構であるように、外に目を向けなければ平穏でいられることを知っているように、人はいつだって安定を手に入れられる。

そんなことは松戸くんもきっと解っていてるのだろうけど、愚かなほど誠実で正しい彼はそれをよしとしない。まだ長い煙草を潰してカフェオレを飲んで、口を薄く開く松戸くんに、俺は小さく笑った。そうしてそっと、期待した。歯がうすく覗いて、整ったその表面が剥がれるように、そっと舌が動く。

俺は、それをみている。

彼が崩壊する瞬間と、俺が安堵する瞬間のために、それをみている。

ふるえるように喉仏が上下して彼はいう。

「俺のことはちゃんと好きっていってくれました、それで、だから別れようって。別れたら、忘れないでいられるから、一生そのままいきていけるから別れようって」

「うん」

「そうしないとあの人は駄目になるから、そんな苦しませてまで一緒にいるなんて、俺もしたくないから」

「だいじょうぶ、わかるから」

堰を切ったように、でも、言葉を探るように松戸くんは話した。寄った眉根、目はテーブルの一点を強く捉えていて、そこだけが焼けつきそうだと思った。息を吸う。喧騒が肺に落ちてゆく。こんなこと、と唇をなめて、彼は黙った。テーブルは二人用にしては広くて、それはこの店の料理の品数が多いことに関係があるのかもしれないけれど、俺が身を乗り出さなくてはいけないほど俺たちの距離は遠く、それでも、その間を埋めるように俺は手を伸ばした。頬をぬぐわれて顔をあげた松戸くんをみて、初めて、ああこの子も老いたのだと思った。燦々とかがやくような若さが粒になってこぼれて、そこに残ったのはただの擦りきれた男だった。老いは彼を変え、切り刻んで、感情を燃やした。その涙も、目元の震えも、俺は歓迎したかった。それを愛しいと思った。彼の傷ついた心の歪さを、怒りを、足を取られて抜け出せなくなっているその沼を、懐かしく、うつくしく思った。俺の顔に何をみたのか、松戸くんの瞳、光が消えかけている表面に、波がせりあがってくるのがみえた。

俺は、何もいわない。

今、いえる言葉はすべて、彼がもっているはずだった。今や、みてとれるほどに震えながら、彼はいった。

「恋って、ここでもできるもんでしょう。俺は、すきでおるだけでいいですっていったのに、それすら許してもらえんかった。すきだなんて、そんなこと最後にいうくらいなら、嫌ってほしかった。それもできんのなら、一緒に崩れてほしかったんです。それなのに、なのに、なんで」

悠木さん……縋るみたいに俺の名前を吐くと、祈るようにして手のひらで目元を覆った松戸くんが、そのまるっこい頭をさげる。俺はそれをみている。

つけっぱなしのテレビでは、サッカーの中継が始まって、あちこちでしゃべり声が大きくなっている。わっと盛り上がる店の中、その隅の世界で、少年を過ぎた彼が弱い声をあげて泣きだすのを、俺はただみている。


小雨の降る音で明け方目が覚めると、背中に薄い胸部が触れていた。やわらかい布地が皮膚に触って、わけもなく鼻の奥が痛んで、たばこに伸ばした指を曲げると再びきつく目を閉じて眠った。

例えば夜の内側に月があるのならいつだってそれは消えないままだって、時として信じられこそすれ、いつからか舌をのばして輪郭をなぞることなど忘れてしまうような怠惰だ。

あの頃とかわらないいとけない痛みをまばたきで数える、それは後ろから回される腕を素知らぬ顔で享受することとなにひとつ差違のない行いに違いない。筋張って、骨の当たる長い腕。

最近また痩せたようで、あがる自嘲を呑み込めばあばらが軋んだ。


携帯に目を落としたまま、江夏はこちらをみない。俺も喋らない。続きを待つというポーズに隠して、口を開きたくなかった。江夏と二人きりになることは、回数こそ減ったが月に一日……それが喫茶店での僅かな数十分だったとしても必ず作る。かつてと違う空気のなかで、どちらも喋ることのない時間がただ積もって、そうすることで俺たちはあの日を背負っていくのだと、漠然と思っていた。だから、会話がないことは喜んでもいいくらいだった。

それは俺たちを遠くする。たまたま相席しただけの、そんな他人になる。婚姻届に涙したような過去を忘れて、いつか形式ばかりな会釈に微笑を混ぜて顔すら思い出せないような、そんな日に近くなる。俺はそれを望んでいた。

ひたすらに、今は、その日を待ちわびていた。

それだけが俺の救いだった。


「私ね、ずっと好きだった……ううん、憧れてた人がいるの」

耳をふさぎたかった。やめてくれ。

「江夏汐里、私の姉さん。あんなことなら、もっとあなたに会わせておけばよかった、後悔してる」

姉さん、とても綺麗な人だったのにそれを私しか知らないなんて馬鹿みたいでしょ。

目蓋を伏せた江夏はいつもの癖で爪を噛む。晒された手首の細さに目を背けたくなるのを堪えて、江夏の分まで俺が今を生きなければならないとまた思う。

未来を拒み彼女はうつくしいつくりものの花に水をやる。そしてきっと、枯れない花のせいでその水が腐っていることに気付かない。

「知ってる、溶けかけた氷みたいな人だった」

「だから溶けたのかな、私なんかが持ち続けたせいで。許してくれるかな、姉さん、また、私に……」

細すぎる声は空調にさらわれて、最後はもう聞き取れなかった。

まばたきの隙間に捉えた光彩は変わらずあの日からなにもみていない。江夏の立ち止まった時間に、なにも出来ない俺は何度もえづきながら同じ言葉を飲み込む。

「見舞いに行こう、汐里さんだって江夏に会いたいってさみしがってるよ。あんなに……君のこと大事にしてたんだ」

江夏が小さく、けれど何度もうなずく。その背中からカーテン越しに差し込む午後の陽が影に揺らされてこまやかに散らばる。


彼女を抱き締めた時、俺はずっとこれが欲しかったんだと思った。

諦めていた人並みの幸せに触れられるんだと、手が震え、言葉にならない感情で、ただいっぱいだったことがよみがえる。


「姉さん、忘れていいって言ったの。あなたとの結婚式の時に、忘れて、幸せになってって。あの人を忘れてまで生きる必要なんか私にはないのに……ねえ、いつか私を忘れたらあなたは覚えていてくれる?私じゃなくて、忘れたっていうことだけでもいいから」

おぼえていて、姉さんのことと……あなたと過ごしていたとき幸せだった私がいたこと。

息をゆらして、江夏がやっと笑う。それを見てこんなかなしい顔をさせるはずじゃなかったなんて、いまさら、そんな資格なんてもうとうに俺にはないのに。

「忘れない、死ぬまでずっと覚えてる」

覗き込むようにして俺も笑って返す。もう交わることがない江夏の暗い目がまぶたに閉ざされていく。それを見届けて俺もまぶたをおろす。



おぼえてるよ。

君といった場所も、食べたものも、ブラスの指輪も、抱き締めるだけで終始出来た関係も、無縁だと諦めていた家族というものも、始まりの日から、俺と江夏だけの家族が終わった日まで、ぜんぶおぼえてるよ。

笑顔も、くるぶしの傷も、彼女の前で項垂れた背中も、何もみていない睫毛の先も、振り返る歪んだ瞳も、俺を殺しつづける言葉も、ぜんぶおぼえてる。


虫が湧いたハンバーグ、俺を踏む母親、増えていった傷と痣、目の前で肉になった人、勝手に売られたモザイクのない写真や、骨と肉のバランスの取り方。


忘れたいことは、ぜんぶおぼえている。

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