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作者: 干干照り
掲載日:2026/01/12

なんちゃってハイキング

急に授業が休講にならなければ。


心臓が限界を超えて縮み、広がるのが分かる。肺がありったけの酸素を求めて呼吸をしろと訴えてくる。呼吸器官の細胞という細胞に、生ぬるい空気が触れていく。足元から香る湿っぽい土の香りが気持ち悪い。雲ひとつない青空が憎い。己の身体と気力を日光が容赦なく焼き焦がす。山に生える木々の葉がすこしは遮ってくれるが、その木漏れ日さえ痛い。


いま私は、K県のとある山を登っている。整備されているとはお世辞にも言い難い、道無き道だ。

なぜこんなところを歩いているのか。それはひとえに、己の性分のせいである。私という生き物は、お願いに弱い。今回もお願いというワードを出されて、一も二もなく飛びついた。


しかし今ならわかる。選択を間違えた。普段から外出といえば、家と大学の往復が主である。そんな私が、いくら本格的な登山ではないとはいえ、山道を登るのは無理があった。楽をするためのちょっとした反則も裏技も許されない。

最近このあたりで雨でも降ったのか。ぬかるんでいるせいで足元の土は、踏ん張るには若干心許ない。ただでさえ傾斜が着いていて登り辛い事この上ないのに、だ。


幸いにも一人であり、鼻水を垂らしながらみっともなく登っているところは見られていない。

不幸にも一人であり、こんな状況でも励ましてくれる人はいない。自分の意思で山を登りきらなければならない。


なぜ、今こんな所に。先程は自分の性分のせいにした問いを、改めて考え直す。他になにか理由はないか。きっかけはなんだったか。

考えてもどうしようもない。些事である。しかしそうでもしていないと、身体のあげる悲鳴につい意識が向いてしまう。


上半身を真っ直ぐに保ったほうがいいと分かっているが、重力に逆らってまで背骨を積み上げるのは困難だ。脚を持ち上げるたびに、どんどん力が入らなくなっているのが分かる。しかしこんなところで立ち止まる訳にもいかないので、嫌でも動かすしかない。

ああそういえば。こんなところにいるのは、部室で彼に会ったせいだ。


さらに、なぜ部室に行ったのかといえば突然教授が体調を崩したとかで、次の授業まで中途半端な空き時間が生まれたせいだ。


だからこれは、急に授業が休講になったせいだ。空き時間ができて、あそこで部室に行かず、同期に会わなければ。

あんな風に面白そうなことを言われずに済んだのに。



K県の西北に、知る人ぞ知る温泉がある。

サークルの同期が、そんなことを言ってきた。


休講によって突如生まれた自由時間。他にやることがなければ早々に帰るところだが、生憎まだ私には受けるべき講義がある。

とはいえ私は一人暮らしの貧乏学生としての生活を満喫する身。カフェで時間を潰す、なんて行いはブルジョワジーがすぎる。

というわけで、サークルの部室に顔を出した。ここは自由にエアコンが使えるため、夏は涼し冬は暖かしでまさに快適。加えて先人たちが持ち込んだ長編小説、マンガ、ゲームといった種々様々な暇つぶしが充実している。無為な時間を過ごすのに持ってこいなのだ。


そして意気揚々と訪れた部室には先客として時間を持て余している同期がおり、私の顔を見るやいなや、話をふっかけてきたわけだ。


「ふうん、で行ってきたんでしょ」


この同期は筋金入りの旅行好き、気になるところがあれば東奔西走。大学生のうちに国内の気になるところは行っておいて、社会人になって金を得たら海外に進出すると言って憚らない。この間も九州だかどこかへ船に乗り込んで行っていたはずだ。飛行機の方が早いと思うのだが、船旅ならではの見所があるとか、学生のうちでないと時間のかかる船になんか乗れないとかなんとか。


一方私は金がないというのもあるが、そもそも出不精のため旅行自体あまりしない。ただ人の話を聞くのは嫌いではないので、こうして空きコマなんかに出会ったときは、最近行った地方の話を聞かせてくれる。

だから今回もてっきり、旅先の思い出話かと思ったのだが。


「それが違うんだ」

「それならこれから行くの?」

「と、いうか……行ったけど、無かったんだよ」


率直に思った感想をいえば、意外の一言に尽きる。

もちろん旅にはトラブルが付き物。到着が機材トラブルで遅れて行きたいところに行けなかったなんて話は何回も聞いた。美味しいと噂の定食屋に向かったら偶然にも臨時休業だった、なんて出来事も日常茶飯事。


それでも直ぐに旅程を組み直し、最低限目的の観光地は制覇して帰ってくる。別の美味しいお店を探して何だかんだグルメを満喫する。そうして大きな悔いなく旅行を終えて、トラブル込みで面白がって話してくる。


それが今は、眉間に皺を寄せ俯いている。よっぽど旅行は上手くいかなかったのだろうか。いや、コイツは不足の事態ですら、それも旅行だと飲み込んで楽しみ尽くす人間だ。それなのに今日は随分しおらしい。野菜庫で忘れ去られた萎びた野菜を思わせる。


「それで、お前に行ってきて欲しいんだ」


誰かが持ち込んだマンガを選ぼうとしていた手が止まる。


今なんと。


「旅行とかしないのは分かっているが、お前なら問題ない」

「いやさ」


一拍置いて、気になったところを挙げ連ねる。


「君は自分がどこかに旅行に行きたいのであって、人に行かせたがるタイプではない。似たような理由で、自分が行けなかった観光地があったとしても、それは自分の目で見て、感じることに重きを置いている。だから行けなかったとして、必ず再訪する。そんな君が、私に旅行しろと?しかも『問題ない』って何?危険なところなの?」


そんなところに人を行かせようとするなんて、普段の彼なら有り得ないのだ。道徳的にも、彼のやや妄執的とも言える旅行愛からしても。特に私は後者の狂気に相当の信頼を置いている。

競馬だったら単勝一倍、麻雀だったら安牌も安牌。それなのに、わざわざ自分が行きたい観光地に行けなかったという理由で、他人に先に行くように進める?

まさか、というわけだ。

しかしここまで言うのであれば、ただ思いついたことを言ってみた、というわけでもないだろう。


「大体、行けなかったならともかく無かった、って。温泉、閉業でもしてた?私にも行けって、無駄足を踏ませるわけ?」


じっと見つめれば、彼は堪忍したように短く息を吐く。


「そうだな、これはお願いだ」


お願い。

私にお願いをする、という意味は普通の人に頼み事をするそれではない。これでも私は普通の人よりもお願いというやつに対してシビアな生き物だ。


「分かっているね?」

「……もちろんだ」


彼は口を真横に引き締めて、私を睨みつけた。ただでさえ良くない目付きをさらに顰めさせ、恐らく口の中では強く歯を噛み締めている。それほどの屈辱、それほどの恥なのだ。

本音は間違いなく、私に頼りたくなんてない。


それでもなお、私にお願いをするというのは。


「たしかに温泉は無かった。代わりに俺が見たのは、直径何キロか分からないほどの、地面に空いた大穴で……底は地面ではなく、青空だったと思う」


私には言わねば解決しないような、摩訶不思議な事象に限る。


彼からのお願いに、つい頬が緩んだ。本性でも漏れ出たのか、随分胡乱げな目で見られる。

全く、この世で最も信じてはいけない生き物なのは百も承知だろうに。



そんなこんなで準備をし、話を聞いた次の土日にK県の東部の主要駅まで行き、乗り換えてから、更にバスに揺られてえっちらおっちら。

行く前から住宅街しかないと思っていたが、予想よりも遥かに長閑なところで、どんどん家の感覚は開き、畑が見えるようになっていく。本当にこんな所に彼が話していたものはあるのだろうか。疑う気持ちも湧くが、何かがあるのは間違いない。


噂通りの秘湯なのか、目撃された地の底に空いた空なのか、というだけで。


少なくともただの山登りにはならないと踏み、指定されたバス停で降りる。このバス停があるところが麓であり、ここから山登りをすればいいらしい。


バス停自体は、山の中にある地元の神社の参拝用に整備されているとのことだが、当然今回は寄らない。というか私と神社の相性は致命的に悪い。山を登る分には恐らく見過ごされるし、何かをする予定はないが。 ちょっとしたズルも考えていたけれどこの分だと良した方が良さそうだ。見たところ、幸い小学生でも登りきれそうなハイキング用の山と大差ない。


そんなこんなで健気に己の足で大地を踏み締めて登山すること二、三時間。はじめはかろうじて整備されていた山道も、どうも神社の関係者が使う部分に限った話なのか、途中から獣道にも似た有様になった。道標として木々と木々の間に紐が通されているが背の高い植物にたまに隠されてしまっている。そんな目立たない紐を、必死で見失わないように追っていく。正直紐の内側の藪か、外側の薮か、というだけで歩きにくいことこの上ない。


それでも温泉を、せめて彼の言っていた穴を見ずに帰る訳にはいかない。

彼が私に頼るのが屈辱的なように。私も受けたお願いを叶えられないのは我慢ならない。もしそんなことがあれば自分を許せない。


多少痛めつけられてもこの際いいかと、背中に力をぐっ、と込めたぐらいで、ちょうど視線の先が開けた。この登山中しばらく私の頭上に鎮座していた、木の葉と木の葉が重なり合って生まれた半透明の影が途切れている。似たような景色が続いて参っていたが、やっと目的を果たせそうでなによりだ。


「やっぱり自分の足で歩かないとね」


来るかどうか分からない目的に向かって進むより、明確な目標がある方が力も入るというもの。

見えた景色に向かって突き進めば、木々の先はちょっとした台場のようになっていた。見通しは、良いのだろう。本来であれば。

彼からの事前情報があるとはいえ、中々突飛な状況だ。


山と山の間、本来ならば薄暗い谷や勢いのある清流が流れていてもおかしくないようなところ。何もない。

いや、強いていえばクレーターのようなものがある。紀元前より前に落ちた隕石の痕跡、と言ったら、誰か信じるかもしれない。正確な大きさは分からないが、スケールとしてはかなり巨大である。


ただクレーターと言いきれないのは、同期の言っていた通り、底にあるのが青空だから。言い換えるのなら、底がないからだ。本来見下ろせないはずの存在が地面にある。あまりにも非現実的で、おぞましいといった感想を持つことさえできない。理解をするのが、まず困難だ。


ただ、彼の話には出ていなかったものがあり、それのせいで向こう側の山が見えない。あれさえ無ければ穴がもう少しよく見えそうなのに。


「なんだあれ」


見逃すわけがない。

宙に山が浮いている。


大地のものであるはずの山が地球から離れ、浮き、単独でそこに存在する。周囲の山々のように、緑溢れる野山ではなく、荒々しい岩山だ。

ついでに頂点はひっくり返っており、穴の先、空の方向へ向いている。山のとんがりが空を指す、そこだけは他の山と変わらない。

空中にあるせいで標高は分からないが、山の範囲は地面にある大穴の直径と一致していそうだ。


ならこれは、空が地面にある、同じくらいの山が逆さになっている、のではなく。そこにある山が空ごとひっくり返っているのだろう。


「山が浮いているなんて言ってなかったけどなあ」


とりあえず彼が言っている通りのものは確かにあった。あとは危なくないかを確かめるだけだ。まああんな大穴、うっかり覗いて足を滑らしたら、空に落ちるし危ないのは分かりきっている。底のない、終わりのないところに落ちる、となればいつまでどこまで落ち続けることになるのやら。


話の発端である温泉とやらもない。むしろ話になんの縁もなさそうな山があるが、温泉には何の関係も無さそうだ。もしあの空中山に温泉があるとしたら、登るルートを探さないといけないが、確実に地上とは断絶している。


彼が知っているのなら、他の人間も安全に行ける道のりがあるはずなのだ。地上からいけないのなら、もしや空かと考えてみるが、しかしヘリコプターか何かならあの山に行けると仮定しても、結局逆さまの山に人はいられないし、重力があの山に向かって働くとすれば、そもそもヘリなんてもので向かった日には、空中で地面に激突する羽目になるのではないだろうか。いくら運転に慣れた人でも、飛行中に重力が急に変わることは経験したことのないはずだ。


温泉自体眉唾ものだったのだろうか。だとすればこのまま汗まみれの鈍重な身体で、三時間ほど掛けて下山するしかない。逆さの山なんて面白いものは見られたものの、それだけのために草木をかき分けさせられたと思うと癪である。


「骨折り損のくたびれ儲けというやつか」


疲労も溜まりに溜まったことだし、少しへたりこむくらいは許されたい。ここは日が差すからか登ってきた道中の土とは違い、さらりと乾いて砂っぽくなっている。多少汚れるが、立ち上がった時にはたけば大丈夫だろう。


それにしても不思議な光景だ。

逆さの山、逆さの空。やはり何かしらの異常があるのか、山のそばには鳥も飛ばず、穴の中の空にもいるようには思えない。そもそも鳥だってあんなものに近づきたくはないだろう。周りの山々は至って普通で、試しに目を少し閉じれば葉と風が擦れて囁きあう様が耳に入る。服の裾を行儀悪く広げれば新鮮な空気が、汗ばんだ嫌な熱気を勢いよく持って行ってくれる。あの山さえなければ、ただただ無名の山を踏破した、ほんの少し誇らしい思い出の一コマだ。


そうして少しぼけっとしたものの、時間が経っても特に何か特別なことは起きない。私の体力が回復しただけだ。気力の方も持ち直している。上りより下りの方が筋力を使うと聞いたことはあるが、神社とバス停という分かりやすい目標がある分なんとかなるだろう。下山に対しての意欲があるうちにさっさと下ってしまおう。


勢いよく立ち上がろうとしたが、思ったより疲れていたのか、みっともなく転んでしまった。少しは日頃から運動した方が良かったか、と力を込めるために両手を大地につく。と、手に違和感を覚えた。


「……」

大地が脈打っている。

有り体に言おう、揺れている。こんな所で地震にあうとはついていない。せめて小さな揺れで治まるよう祈るも虚しく、揺れはどんどん増幅し、あっという間に立つことなんて意識の外にいくほど強く揺れはじめた。


この辺りは開けているが、周囲には立派な木々が生えている。彼らがこちらへ向かって倒れぬことを信じて、ひたすらに這い蹲った。しかし数分経っても揺れがおさまる気配がない。まさかここの当たりが震源地なのか。思わず舌打ちをして悪態を示せば、何かの耳にでも入って気を損ねたのか、それはそれは低い唸り声が聞こえてきた。


思わず反応し顔を上げた途端。目の前で鮮烈な光が弾け、視界が真っ白に塗りつぶされる。先程の唸り声の比ではないほどの轟音が鼓膜を通り越して脳を揺さぶり、思考することも許されない。


いつ終わるともしれぬ天変地異は、体感ほどは長く続かずあっという間に収まった。まぶたの奥で瞬く光の名残が消えるのを待って、恐る恐る目を開ければ、先程の揺れ、光、そして音の正体が一目瞭然であった。


山の頂上から空へ向かって光の帯が伸びている。


もちろん、逆さの山から大穴の空へ伸びている。光は一見真っ白に見えるが、赤、青、緑と様々な色相が垣間見えた。山から空へ、勢いよく出るものといえば。


「活火山……いや、光が吹いているなら活光山か?」


先程の揺れや唸り声は噴火がもたらした予兆や結果だった、というわけだ。


「一応、逆巻上火山と呼ばれています。人が生きる上で、選ぶ、ということは避けられません。あれはこれから選ばれるかもしれない選択肢、選ばれず零れ落ちたものを集め、限界が来たら噴き出し、世に後悔や希望をばら撒くのです」

「サカマキガミ、ねえ」


「はい。言わば可能性や運命の墓場とゆりかごです。そうして運命を集める過程で時空が歪み、我々から見たら逆さに見えます。」

「だとしても、空も逆さなのはおかしくない?」

「噴火とは地から天へ貫くもの、でしょう。それ自体は変わらない。だからあの山は空ごと己がひっくり返るのです。ただの火山が空すらひっくり返す。だから逆さに運命の渦巻く場所、として逆巻上火山と呼んでいます」


逆さの山から光……運命が吹き荒れる。世に希望も後悔もばら撒くと言うが、あの穴に掃き出したところで、どこに散るのだろうか。それとも、穴も逆さになっているだけで、ほかの空と繋がっているのか。なら見えないけれど、今も頭上から様々なものが降っているのかもしれない。


「とはいえ可能性を過分に集めるせいか、存在する、しないが変動してしまうみたいで。あの火山があるのかないのか、辿り着けるのか辿り着けないのかが都度変わるのです」

「詳しい説明ありがとう、助かったよ。ところでお姉さんはどなた?」


どこからともなく現れて、火山の詳細を説明してくれた親切なお姉さんをじっと見つめる。着物に下駄という軽装だ。山登りには明らかに適していない。しかも山を登ってきたにしては、汗ひとつかいておらず、膝ほどまである髪の毛は綺麗に括られていた。これでは居なかった者が、突然現れたようだ。


「私はこの辺りで信仰されている神ですね」


登り口からすぐそばに神社があったでしょう、と微笑む彼女。

私が下山をしていないのに逆巻上火山も噴火したから、双方の様子を見に来たらしい。この山に社を構える神ならば、多分私の登山中、ずっと落ち着かなかっただろうに。人に例えるなら、自分の腕を蟻がうろついている状態が数時間続くようなものだ。そんな虫けらの様子も気にしてくれるとは慈悲深い。


「それはとんだ失礼を」

「いえいえ、それにかしこまらずとも。今の私もまた可能性なのです」

「はあ」

「あの山のように、私もただの神であったりそうでなかったり可能性が揺らぐのですよ」


さあこちらへと、無理やり彼女に経たせられる。その細い腕のどこに、と思わせるほどの剛力で引っ張られる。神の御前だからか、山の木々も彼女も避け、先程まで道のなかったところに道が生まれていく。


「お客様、上りでは木々に道行を邪魔されてましたね」

「神様なら邪魔しないよう言い聞かせてくださいよ」

「人間だって、肌に生えるうぶ毛の向きだとか伸び方は操れないでしょう」


返す言葉が思いつかず、無言で引っ張られ続ける。とてつもなく痛いが、多分、掴まれていないと直ぐに木々に神を隠されてしまうため、大人しく引きずられる。

それよりも今、どこに連れていかれているのだろうか。上りよりもややなだらかで歩きやすいとはいえ、人のペースに付き合わされて歩くのは思ったより辛い。


「とにかくお客様は他の方よりも遥かに大変な道を登られました。ならきっと喜びもひとしお、というもの。気に入っていただけますよ」


着きました、という声と同時に現れたのは、確かに今まではなかったはずの木造の平屋建て。建物の向こうから、清流の流れとも異なる水音がする。気のせいでなければ、山の中よりも湿気と熱気に満ちている。


「火山といえば温泉でしょう」


神、いや女将が手を組み恭しく礼をした。


「ようこそ逆巻上温泉へ。あなたは逆巻上火山があり、水源があり、私が女将に収まるという可能性が満ちた日に訪れました。ゆえにあなたはお客様。どうぞごゆっくりお過ごしください」

「あー、その、効能、とかは」

「それは入ってからのお楽しみです」


様々な可能性がありますので、とどこからともなく桶と手ぬぐいを出してきた女将は小さく笑いながらそう言った。



「……というわけで、君が温泉を入れなかったのはタイミングの問題でーした!いやあ、私に相談せずに行っていれば良かったのにね?」

「くそっ」


というわけで顛末を聞かせてあげる。


「しかも温泉自体は安心安全。君だって平然と浸かれたはずだよ。私なんかを頼るから行けないんだよ、お天道様に背いちゃいけないの」

「日和った……ぬかった……」


好奇心の化け物、というべきか。

彼は自分が気になったところがあれば、どうしても自分の目で光景を見たい。音を耳で聞きたい。香りを鼻で嗅ぎたい。味を舌で判別したい。感触を手で確かめたい。そういう人種である。

未知を開拓したいとか高尚なものではない。超主観主義、というと大袈裟かもしれない。ナルシズムの亜種というには自己愛とは程遠い。


人が感じたものを自分ならどう感じるか。そこへの疑問が、人よりちょっと強いのだ。だから各地に行って、気になるものを確かめる。


とはいえオカルトに興味があるかと言えばそうでもなく。意味の分からないことで命を落とせばこの世を満喫できないから、とこれまた今を謳歌する人らしい理屈を並べ、人智の及ばぬ事象には近づかない。

ただその過ぎた好奇心がたまにオカルトに接近してしまうことがあり、そういう時は必ず私に頼ってくる。

私はオカルトには滅法強い、というか。正確にはオカルトそのものというか。


私は悪魔なのだ。

普段は貧乏大学生をしているが、立派な角と羽も生えている。人の家、もとい神社のそばでなければ、今回も山登りをして数十分しないうちに空を飛んで悠々と見下ろしていた。他所の国とはいえ神は神。神罰は恐ろしい。

人のお願いを聞き、対価を受け取る。そういう生き物だ。


とはいえ神罰以外のことは大抵大丈夫だ。悪霊なんぞ所詮人。魂が残っていれば食べられる。妖怪、怪異の類ならどうか分からないが、狩場を台無しにするような真似をして刺激しなければ大丈夫だ。少なくとも私、なら。悪魔は彼らの食事になるような魂はない。


だから彼はオカルト関連の出来事があれば私に頼る。安全か、危険かを確かめさせるのだ。悪魔に死という概念はないため、調査させるにはうってつけの人材、悪魔材である。


ただ私だってタダで調査する訳では無い。

悪魔といえば魂と引き換えの契約。もっとも最近は魂をかけた契約というのは警戒されるので、彼とのやり取りにも魂は絡まない。最近は魂が揺らいだ結果生まれる、感情のブレを食べるのが主流だ。


そして彼とのお願いの対価は、調査結果を話すこと。つまりはネタバレである。それが、自分自身で全てを確かめたいという傲慢な人間に対して、最も効く攻撃になる。


既に様々な人が見、聞き、踏みしめた観光地に行くのはいいのに、いざ気になっていたところのネタバレをされるのは癪である、という心情は理解できないけれど、悔しがった時の負の感情のブレが他の人間に比べても美味しいので、充分である。


しかし私という悪魔と接しているのに、オカルトを避けたがるなんて矛盾してはなかろうか。もちろんお願いされる方が嬉しいので指摘はしないけれども。


「……その温泉地、普通に数ヶ月とか居座ったらどうなるんだ?」

「たまたま行って、やってるかどうかという可能性を引くという前提が崩れるから毎日行くのはダメじゃないかなあ」

「いや、可能性を強引にひとつに収束させるように、毎日行くという強い信念が効くんじゃないか?次は麓に泊まって連日登ってみるか……」

「ちなみに温泉の効能はね」

「それは自分で入って確かめるから聞きたくない!」


ちなみにこの後、お土産として温泉水を渡した瞬間の彼の顔が面白くて腹を抱えて笑ったら、後日聖められた温泉水をぶっかけられて死ぬかと思った。

旅行先の出会いが産んだ縁、とか言ってたけど。どこで産んだんだよそんな縁。

悪魔なので本当なら空を飛びたかったけど、まあ変なものが空を飛んだらそこの偉い人に怒られるよね


だから大人しくハイキングしてるんだけど、そこら辺の偉い人の土地に不審者がいたら、住民が警戒するよね


だからめちゃめちゃ「私」は木々に妨害された道程のハイキングなので普通に登る数倍大変だったと思います

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