1-2 壁の向こうで女の子が倒れた夜、俺は千円札を持って廊下に出た
※この作品はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
壁の向こうが、急に静まり返る。
とたんに目覚まし時計のコッ、コッという音が戻ってくる。
三巡目に入ったはずの歌が、途中でぷつりと途切れたのだ。
代わりに聞こえてきたのは、やけに生活感のある独り言だった。
『……あかん。もう無理。腹減って餓死するわ』
次の瞬間。
ドタン。
漫画みたいな音が、振動付きで壁越しに響いた。
「……大丈夫かよ」
思わず立ち上がって、ベッドに上がり、壁に耳をあてる。
数分待ってみたが、歌も、声も、物音も聞こえてこない。
売れないシンガーソングライターの孤独死。
そんなニュース映像が、勝手に頭に浮かんだ。
今どき、音楽だけで食っていける人間なんて、ほんの一握りだ。
ましてや、この下町のボロアパートで、夜中に一人、感情むき出しで歌っている女の子。
「……」
あわてて点けた照明が、やけにまぶしい。
少し目を細めながら、バッグの中から財布を取り出し、千円札を一枚抜き出した。
バイト代の振り込みまで、あと一週間。
正直、余裕はない。
でも、これくらいなら、何とかなる。
昨日まで壁を叩いていた、その償い。
それと……あの歌が、確かに心に届いたという事実。
机の上にあったメモ帳に目を向けると、横に置かれた渡しそびれた合鍵が目に入る。
「……」
『察してよ』
宮脇早苗の言葉が過る。
メモを一枚破り、ペンを走らせる。
『いい歌でした。いつもうるさいって壁たたいて、ごめんなさい。隣人より』
書いてから、少しだけ後悔した。
いや、正確には、書いた瞬間から、もう後戻りできない気がしていた。
アパートの廊下に出ると、夜の空気が少し湿っていた。
横並びに並ぶ、同じ形のドア。
水回りの関係で、隣同士は鏡に映ったようなレイアウトになる……
不動産屋がそう説明していたのを思い出す。
押し入れの位置を考えると、きっと隣人さんのベッドは、壁一枚隔てた向かいにあるのだろう。
必然、騒音被害は俺の部屋。
それはつまり、彼女の生歌が聞ける特等席、ということでもある。
ドア横のプラスチック製の表札。
これでもかというほど大きな字で書かれた、
星野音和
というマジック文字が、少しかすれていた。
郵便受けの上には、『押し売り・勧誘・宗教お断り』と書かれた、古いカレンダーの裏紙。
……下の名前を書かずに、姓だけにしておけばいいのに。
女性の一人暮らしだって、すぐにバレるだろ。
完全に余計なお世話だと分かっていながら、そんなことを考えてしまう自分に、苦笑いが浮かぶ。
郵便受けを開き、千円札とメモを、そっと中に押し込んだ。
……俺、何やってんだ。
ストーカーみたいに見られないだろうか。
今までの自分なら、絶対にしなかった行動だ。
そういえば、早苗さんとの付き合いが始まったのも、彼女の方からの告白だった。
自分から踏み出すことを、ずっと避けてきた人生。
郵便受けに押し込んだ「素直な気持ち」は、もう物理的にも、取り出すことができない。
でも、不思議と後悔の気持ちは消えていた。
人に対して、自分から行動を起こした。
それだけで、胸の奥が、少しだけ熱くなった。
アパートの手すりの向こうで、月明かりが、咲き始めの桜の木を照らしている。
「さむっ」
浩太は、肩をすくめて、自分の部屋のドアを引いた。
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<次回予告>
1-3 郵便受けに入れた千円札が肉まんとビールとなって隣人と共にやって来た
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※全話執筆完了、ミュージックビデオ(MV)作成済み。
エタらず、必ずハッピーエンドで完結します。




