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境界線の判断─Silent Organ【四葩の月・外伝】


 きみの境界線が、俺の潜在意識の下にフラッシュを()いた。


 俺の境界線はどこにあるんだろう。


 ねえ、あの日なんでずっと笑ってたんだ。どうしてあんな顔で笑ったんだ。それなのなに、どうしてあんなに泣いてたんだ。


 きみの境界線が、俺の意識下を捉えて離さないのはなぜなんだろう──。





シロツメクサと五つ葉

─────────────────

 研修医となった二年間で、表だった死に触れたことが幾度となくあった。


 良性腫瘍でも腫瘍マーカーが上昇する場合があり、また月経周期や腹痛等の症状によっても変動がある。そのため一回の検査では判定できない場合が多くあり、あくまで補助診断であるというのが現状だった。


 輝元(てるもと)(あおい)は手術前の検査で卵巣の腫瘍は良性ないし、最悪でも境界悪性腫瘍と予想されていた。


 術前予定通り、術中迅速診断が執り行われた。卵巣脳腫からの組織を採取し、十五分程度で病理標本作製するのだ。


 迅速診断標本は、手術によって切除もしくは摘出された未固定検体から、目的に応じて通常一ないし二カ所の組織を採取し、凍結切片を作製して行う。採取された組織は包埋剤と共に専用の容器入れ、液体窒素やドライアイスなどによって急速凍結する。次に、凍結組織をクリオスタットで薄切した切片をスライド硝子に貼り付けた後、ホルマリンで固定し、ヘマトキシリン―エオジン染色を行い標本が完成する。


 術中迅速診断を行うことで、術前に得られなかった病変の組織学的な性質の確認、切除断端部における病変の有無、リンパ節転移の有無などを調べることができる。


 しかし、その迅速診断で予想を呈する結果となった。


 境界悪性腫瘍と疑われた病巣は、境界悪性群に属する卵巣胚細胞(らんそうはいさいぼう)腫瘍であった。


 卵巣の中にある胚細胞に悪性がん細胞が認められる病巣だ。この腫瘍は、体内の生殖細胞(卵子)から発生する。通常、卵巣胚細胞腫瘍は、十代の女性や若い女性に多く、ほとんどの場合、卵巣の片側のみに巣食う。卵巣胚細胞腫瘍の早期発見は困難だった。初期がんでは無症状が多いことが、要因としてあげられていた。直ちに開腹手術が行われた。


 若年で妊孕性(にんようせい)の温存(子宮・片側卵巣の温存)を希望する患者が適応を満たせば、妊孕性温存手術を施行する。その場合は、初回手術ではまず片側卵巣、卵管および大網の一部の摘出(場合によってはリンパ節生検及び腹膜生検)を行うことになる。永久病理組織検査(一~二週間)の結果によって方針を決定する。


 しかし妊孕性温存の適応となるのは、基本的には組織型が境界悪性腫瘍、または高分化型上皮性悪性腫瘍、ステージ1A期の一部の患者が対象になっていた。


 治療法は、未分化胚細胞腫瘍かそれ以外の卵巣胚細胞腫瘍かにより異なっている。輝元碧の場合、片側付属器切除術とその後に化学療法を行うことが決定付けられた。


 手術後当日は、指導医の多賀(たが)が輝元碧の術後診断に行き、桐生(きりゅう)は医局に残った。卵巣胚細胞腫瘍の文献を隈なく読み漁り、電子カルテに目を通した。可能な限りの知識を、頭に叩き込む必要性があった。なぜなら研修医とはいえ、桐生は輝元碧の担当主治医であるからだ。それ以外の何者でもなかった。



「なんだ、まだいたのか」

 多賀から声がかけられた。


「帰宅しても起きているなら、医局に残ってた方がいいかと思って……」

「レジデントになってから、ローテートでがんに罹患した患者とも、当然出会ってるだろう」

「──それはそうですが」

「コーヒー飲むか」

「あ、僕が入れます」


 桐生が立ち上がって、医局の隅に置いてあるコーヒーメーカーのスイッチを入れた。


「卵巣胚細胞腫瘍はな、化学療法と放射線療法がよく効くんだ。十〜二十歳代の患者がほとんどだ。とうぜん未婚、未産の割合いも高い。進行した症例でも手術はできるだけ腫瘍のある側の卵巣・卵管の切除に留め、術後にMEP、VACなどの化学療法を行うのが一般的で、多くの例で妊娠の可能性を温存して治療が得られている」


「先生、患者の病期は──」

「ステージIII Aだ」


「なぜ術式は妊孕性温存なんでしょうか、ステージⅠA期の一部の患者が対象ではないんですか?」


「III期以上に進行したがんで、基本術式が行えないような場合でもできるだけ腫瘍を摘出し、残った腫瘍を小さくすることが、その後の化学療法の効果を高めることになるからだ」


 多賀が表情ひとつ変えず、桐生からコーヒーの入ったカップホルダーを受け取った。





「あのひとは、桐生先生の──恋人?」


 中庭の天然芝にはシロツメクサが一面に広がっている。輝元(てるもと)(あおい)が屈み込んで四つ葉のクローバーを探し出してから、もうどれくらいの時間がたったんだろう。


「まさか」


 きょうは親しい知人の外来受診日だった。昼休憩に院内の書店で立ち話しをしたから、そのことを言ってるんだろう。しかし広い大学病院内でよく見つけられたものだ。


「細くて綺麗な人だね。顔、あんまり見えなかったけど……売店のパン屋に行った帰りに見たんだ」


 屈み込んだままの碧は、桐生と視線を合わせようとしない。


「そう? 高校のときの先輩だよ」

「あのひとは桐生先生とずっと一緒にいられるから、いいね」


「どういう意味で?」

「だって、私はがんでしょう? ()い先短いからさあ」


 投げやりな口調で碧が(こぼ)す。無感情な声はむしろ彼女の最大限の(あらが)いにも思えた。


「いまはそう簡単にひとは死なないんだ、なにか勘違いしてないか」


「慰めてるの」

 下から見上げる大きな目が桐生を捉える。


「ほんとうのことだ」


 碧が乱暴にシロツメクサをむしり取る。

「四つ葉じゃ足りない、五つ葉じゃないと」


 這いつくばるような姿勢で多年草の中に手を伸ばす碧の背中に入り日が当たり、長い夕日影が落ちている。


 黙りこくる桐生は感情を表に出さない。輝元碧は自分の元患者だ。患者の感情を受け止めつつも、適度な距離が必要だった。

 

「あーあ、そのうちAIが病気を治してくれないかなあ。わたし来年の二月八日で十七歳なんだ。まだ恋愛もしたことないよ。先生は三月になったら、二十六歳になるんだよね?」


「うん……そうだよ」


「同情して勘違いとか言ってくれるんだ。イケメンなうえに優しいんだねえ、桐生蓮(きりゅうれん)センセイ」


「あのさ、冷えてきたから病室に帰ろう」


 日中の気温は、八月並みの体感温度だった。しかし六月初旬の夕暮れどきは肌寒かった。半袖シャツの袖から伸びる碧の長く細い腕は、ひどく頼りなさげだ。点滴や採血の際の皮下出血が無数に混在している。


「先生と初めて出会ってからもう二ヶ月かあ。先生私ね、キスもしたことないんだよ。貴重でしょう? 簡単に死ぬわけにはいかないよ」


「とりあえずというか、戻ろうか」

 桐生が味気(あじけ)ない返事で返す。返さねばならない。


「十六歳は子どもなのかなあ」

「ガキだよ、だから早く戻ろう」


「顔はイケてるのに、やっぱり性格は悪いのね」

「ガキは苦手だよ」

「先生だって、二十五歳ならまだガキじゃない。患者をガキ呼ばわりするなんて、ガチで餓鬼(ガキ)っぽいよ」


 桐生が思わず苦笑った。

「それだけ饒舌(じょうぜつ)なら、長生きできるよ」


「ながいき──私、長生きなんかしたくもないよ、長く生きてなにか得があるの? この十六歳のいちばん綺麗なときに散って骨と灰になるなんて、光栄で仕方がないよ。桐生先生は長生きがしたいの? 長く生きれば、それだけ欲しくもない苦しみも付随するんじゃないの? そんなものいらないよ。私には、今の苦しみがFULLでしょう? このうえない現状じゃない? フルマックス与えられたくらいだから、これで観念しろって啓示だよね? いるかどうかもわからない神からの──ねえ、先生違う?」


 冗長(じょうちょう)吐露(とろ)したものが、碧の足元に吹き溜まりを作った。脚が固まり、抜け出せず動けなくなった。父親に頼んで買ってきてもらった、気に入りの部屋着の胸元を強く掴んだ。


「──悪かった……ごめんよ」


 立ち上がった碧が、桐生の肩越しに空を見た。アンバーの瞳が、夕映えの空と桐生の姿を切り取った。


「……どうしてあやまるの? 私、先生が謝るようなこと言った? いってた?」


 興奮で火照らせた碧の頬から、目を伏せた。

「戻ろう」


「桐生先生、あたし、好きな人は中学のときにいちどだけ。手も繋がなかったよ。でも、にどめの好きなひとができたんだ。もう直ぐ死ぬってのに。可笑しな話しでしょう?」


「元気になって退院したら、恋愛なんてたくさんできるよ。そのにどめに好きになったひとと、恋愛もできる。それには早く病室に」


「ねえ、桐生先生」

「……なに」

「ガキから、不埒(ふらち)なお願いがあります」

「なんでしょうか?」


 桐生は嘆息を洩らすと、腕時計に目をやった。十七時を回っていた。詰所の中年看護師の、皮肉った冷淡なことばをいちいち浴びるのは面倒だった。


「私の灰を、ひと握りもらってくれませんか?」

 腕時計から目を離した。碧と視線を交差させる


「灰? ──どうして」


「桐生先生がいつか死んだときに、あたしの灰を先生の柩に入れてくれませんか?」

「さっきも言ったけど、きみは死なないから灰にはならない」


「気休めはいいから。先生よりは私が先に逝くと仮定して」

「あのね……俺の話しを」


「嫌なんだ? やっぱりね。他人の灰なんか御免だよね、だから不埒だと言ったでしょう? 桐生先生は正直だね」


「きみの灰と俺を、一緒に燃やすの?」

「そうだよ」


 真っ直ぐに碧を見た。赤みがかった茶色で艶のある髪が、微かに風に(なび)いた。(うそぶ)いてみせる彼女の色素の薄い瞳は、琥珀色の中に(うる)みを(まと)っていた。


「いいよ──きみが望むのなら……でも親御さんの承諾や……」


 碧が一重の大きな目を見開いた。躊躇(ためら)いがちに笑みを浮かべた唇が震えた。瞬く間に赤みを帯びた瞳から、涙が溢れた。


「馬鹿にしてるの? 私が……私のひと握りの灰なんか……桐生先生が、ずっと持ってるわけないでしょう? 先生は、たまたま研修で婦人科に居ただけでしょう? 直ぐ違う科に行っちゃったじゃない、なのに──どうして……そんな(こく)なことが……」


 碧が肩を震わせながら桐生に近づいた。


「私みたいなガキと出会ったことなんか、月のチリと変わらないくらいでしょう? 桐生先生には恋人がいるのに、私が死ぬから……死んだらどうせ分からないと思っていい加減なこと言わないでよ、二十五歳がガキじゃないなら、嘘の約束なんてしないでよ!」


(はな)から灰を俺に託すつもりもない癖に、そんなことを軽々しく言うな」


「なによっ、いつもクールに決めちゃって、カッコ良くもなんともないッ」


 桐生の胸を叩く拳が力強かった。しばらく叩いていた両手首を掴んだとき、ハっとなった。

 あまりに華奢だったからだ。力に反して、肉体があまりにも脆弱(ぜいじゃく)だったからだ。


「あんたなんかに、何が……わからないよ……私がもうすぐ灰になる、気持ち……桐生先生にあたしの気持ち、わからないよおっ」


「痛いよ、碧」


 碧の拳を受け止めた。折れそうな手首の先には、細くてしなやかな指先があった。綺麗に揃えられた爪の先からは草の香がした。





六の華

─────────────────

 あの白いケースに刻まれたきみの名前を見たときに、雪を彷彿(ほうふつ)としたんだ。


 おかしいだろう? だって、医局の窓から見える桜が散ったばかりだったのに。雪なんか()うに解けて、消えて無くなっていたというのに──。





 

【四葩の月】創作過程で不採用ボツにしたエピソードです。加筆改稿して投稿してみました。

ジャンルは推理ではないのですが、【純文学】だと本編との繋がりが解りにくいので【推理】にしています。


読んでいただき、感謝します。

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