黒水晶は紅(くれない)の涙を流す 9
51
「さっきのはおじいちゃんだった……」
「おじいちゃんって、君のお父さんかお母さんのお父さんってこと?」
メルルとポッチは丘の斜面に並んで座っていた。メルルの問いに、ポッチは首を振る。
「ううん。おじいちゃんはローズ姉ちゃんのお父さんだよ。ローズ姉ちゃんはボクたちに文字とか言葉とか教えてくれる先生だった。ほかには鬼ごっことか、かくれんぼに付き合ってくれたなぁ。村の大人たちはボクたちの相手をあまりしてくれなかったから、お姉ちゃんが代わりに相手してくれたんだ」
「そっか……」
「ボク、生まれたときにはお父さんはもう死んじゃってて、お母さんもボクが今よりもっと小さいときに死んじゃったんだ。パネラおばちゃんは、お母さんのお姉さんだからってボクを引き取って育ててくれたんだ。おばちゃんはボクを大事にしてくれて、レギストおじちゃんとルキラお姉ちゃんも大事にしてくれた……。ルキラお姉ちゃんはふたりの子どもだよ。ボクよりずっと年上だった。でも、ルキラお姉ちゃんはこの間、魔族が攻めて来たときにさらわれちゃって、けっきょく帰ってこなくなった。あれからずっと、おじちゃんもおばちゃんも優しい顔しなくなった。別にふたりから意地悪されたことはないよ。でも、なんか家にいたくないって感じになって……。
それに、村のみんなも優しくなくなってた。西の山のおじいちゃんが山にこもっちゃって、顔を見せなくなったのに、誰も気にもしないようでさ。おじいちゃんがちゃんとごはん食べられているか心配もしないんだ。おじいちゃんだってローズお姉ちゃんがいなくなったのにさ。
みんなおかしいよ。おじいちゃんはボクたちに文字とか、いろんなこと教えてくれたひとだったのにさ。誰もおじいちゃんに感謝も心配もしないんだもん。
だから、ボクがおじいちゃんの面倒を見ようって頑張ったんだ……。でも……」
メルルは丘の斜面を振り返った。丘の上には屍霊が飛び出した小屋がある。
「君は大好きなおじいちゃんが屍霊になったので、小屋ごと屍霊を封じてたんだね」
「ずっと心配だったんだ。お姉ちゃんが魔族にさらわれて死んじゃって、村の大人たちはご領主さまのせいだって言ってたんだ。おじいちゃんもその話を信じてたみたいだ」
「君は信じてないの?」
「わかんない。でも、大人たちが言うことが全部正しいってわけじゃないでしょ? そう思わない?」
「そうだね。で、おじいちゃんはその話を信じてどうしてたの?」
「おじいちゃんはずっと小屋にこもるようになった。ボクがごはん持って行かなかったら、何も食べずに死んじゃったかもしれない。ううん。せっかく持って行っても食べてくれないときもあった。きっと、おじいちゃん、そのせいで死んじゃったんだ。ボクが早く様子を見に行ったら、助けられたかもしれないのに……」
「毎日通ってたわけじゃないんだ」
「おじいちゃんのこと、村のひとは気味悪がって、ボクが山に行くのが反対なんだ。見つかると止められた。だから、大人に見つからないように行くしかなくて、でも、毎日は無理だったんだ」
村のどこか排他的な雰囲気はメルルも感じ取っていた。ポッチも子どもらしい鋭敏さでそれに気づいているようだ。村の人びとは、心を閉ざして引きこもった老人と距離を取り、かまうことをしなくなったのだろう。あの老人は、孤独のうちに命を落とし、ついに屍霊となってしまったのだ。
「この間、久しぶりにおうちに行ったら、おじいちゃんが小屋で倒れてたんだ。変な匂いがしていた。そばに寄ろうとしたら、変な声あげて立ち上がって、気持ちの悪い目で睨んだんだ。初めて見たけど屍霊だってわかった。それで、ボク、扉を閉めたんだ。かんぬきもかけて、かんぬきが外れないように小石を詰めたりして。でも、そのままだとかんぬきがゆるんではずれるかもしれないから、板とか釘とか用意して、戸を完全に動かないようにしようと思ったんだ」
ポッチは淡々と語っている。メルルはこれまでのポッチの行動や、小屋のかんぬきの謎がすべてわかった気がした。ポッチは屍霊が村へ降りてくると危険だとわかっていた。しかし、屍霊を攻撃しようとしたメルルへの反応を思い返せば、屍霊の存在を村人に教える気になれなかったのだろう。そうすれば、村人は手に手に武器を持って、この山に押し寄せるはずだからだ。屍霊を、いや、あの老人を討伐するために。ポッチはそうなることを恐れて秘密にしたのだ。
ポッチは人知れず屍霊を封印し、その身体が自然に朽ちるように考えたのだろう。大工道具は用意していたが、小屋を燃やす用意をしていなかったからだ。おそらく、ポッチは屍霊を燃やすことは、その肉体を地獄に送ることだと思い込んでいた。そんな彼が、屍霊を滅ぼさず、自然消滅を図ったのは自然な考えだと思えた。
村人や育ての親も、ポッチのことを、大人の言うことを聞かない厄介な子どもだと思っていたようだ。
でも、実際は全然違う。この子は他人を気遣う、誰よりも優しい男の子だ。
メルルはポッチの背中をやさしく撫でてあげた。最初は動揺し、泣き続けていたポッチもだいぶ落ち着いてきたようだ。彼はもう大丈夫だろう。
メルルは立ち上がると、小屋をめざして丘を登り始めた。ポッチはメルルを不安そうな目で見つめる。「お姉ちゃん?」
「ちょっと確かめたいことがあるの。君はそこで待ってて」
メルルは言葉だけ返して丘を登り続けた。小屋に着くと、ぶち破られた戸口から、中の様子をうかがう。小屋には腐臭が溜まっていたが、戸口から入り込む冷たい空気が洗い流すように外へ押し出していた。
小屋のなかは暗く、様子がわかりにくかった。メルルは炎の呪文を唱えて、片手の上に炎の明かりを灯した。明かりを高く掲げてなかの様子をのぞくと、床一面に巨大な魔法陣が描かれているのを見つけた。文様は焦げたような色をしている。村はずれで見つけた『魔獣除け』のプレートと同じように焼き切れたようだ。
「これは……」
メルルは自分のポケットからメモ帳を片手で取り出すと、あるページを探し出した。
「……あった。これだ」
メルルの手帳には魔法陣がひとつ描かれていた。それはフロレッタの首もとに刻まれていた魔法陣を写し取ったものだ。大きさがまるで異なるので単純比較は難しいが、それでも、この床に描かれた魔法陣と、フロレッタに刻まれた魔法陣は同じものだとわかった。
メルルはなぜか残念な気持ちになった。「あのひとがフロレッタさんを呪ったんだ」
「どうしたの? 何か探してたの?」
ポッチがすぐそばで尋ねてきた。待ってと言われていたにもかかわらず、ポッチはメルルのあとについてきたようだ。
「おじいちゃんは魔法使いだったのね」
メルルは教えるともなくつぶやいた。ポッチは部屋のなかをのぞくと、初めて魔法陣の存在に気づいたようだった。「なに、あれ?」
「魔法陣。人間がすごい魔法を使えるようにするものなんだよ」
メルルは簡単に説明しながら魔法陣にかがみこんだ。手帳をポケットに戻し、焼き切れた魔法陣の縁を指でなぞる。指先には『すす』がついて、指先を黒く汚した。
……やっぱりだ。魔法陣はもうすっかり停止している。術者もすでに亡くなっていた。それなのに、フロレッタさんは今も呪いで苦しみ続けている。この魔法は完全に『呪い化』してしまってるんだ……。
予想されていたことではあったが、こうもはっきりと事実をつきつけられると気分が重くなる。メルルは立ち上がりながらも肩を落とした。
「お姉ちゃん、どこか痛いの?」
ポッチが不安そうな顔でメルルを見上げている。その表情を見て、自分は今、泣いちゃいけないんだと思った。今、自分が涙を流したら、この子はまた、哀しみが伝染して泣き崩れてしまう。この子はそういう子なんだ。
メルルは笑顔を見せるとポッチの頭に手を置いた。
「ううん、私は平気。そろそろ村へ帰ろうよ。お姉ちゃん、寒くなってきちゃった」
52
ポッチを村へ送り届けたあと、メルルはまっすぐに城へ戻った。
ドニーを探し出すと、レトの部屋まで来てもらい、そこで自分が知りえたことをふたりに伝えた。
「そうか……。やっぱり、術者は死んでいたか……」
ドニーはうっすらと苦笑いを浮かべていた。予想通りとはいえ、落胆した気持ちを見せたくないのだろう。
「小屋に残っていた魔法陣はそのままにしていますが、それで良かったですか?」
メルルが尋ねると、ドニーはひらひらと手を振った。
「ああ、まったく構わない。もし、その魔法陣がまだ『生きて』いたら、そこに呪いを逆流させて魔法陣を無効化させる手もあったんだがな。すでに力を失っていたら被術者との接続は切れていて、それはただの模様でしかない。放っておいて問題ない」
「そうですか……」
「君はよくやったよ。気にしなくていい」
レトはベッドに横たわったまま、メルルにねぎらいの言葉をかけた。
「でも……、けっきょく、フロレッタさんの呪いを解くことには結びつきませんでした。一刻も早く呪いを解いてあげたかったのに……」
「そっちはオレの領分の話だ。お嬢ちゃんが気にすることじゃない」
ドニーもメルルに優しい言葉をかけてくれた。しかし、それでメルルの心は晴れなかった。「でも……」
「解呪の魔法陣は、ほぼほぼ完成した。今、主にやっているのは抜けや間違いがないかの見直し作業だ。今回の儀式は試運転的なことができないからな。一発勝負だ。失敗は許されないだけに、こっちとしては万全を期してやっているところさ」
「じゃ、魔法陣そのものは出来上がってるんですね?」
「だから言ったろ。『ほぼほぼ』さ。魔法陣の完成は、術式の中心にフロレッタお嬢様と黒水晶を据えて、そこで初めて完成だと言える。まぁ、それ以外は完成したと言っていいかな」
「と言うことは、術式の点検が済み次第、解呪の儀式を始めるんだよね?」
レトはドニーに尋ねた。
「そうするつもりだ。だが、今夜、明日にできるかはわからない。これも言ったろ。一発勝負なんだ。城全体に張った術式に綻びができていないか確認できないと儀式は行えない」
ドニーの説明は常識的なものだと思える。しかし、それでもメルルはドニーの言葉に不満が募った。
「もう少し早くできないんですか?」
「よせ、メルル」
レトはすばやくメルルをたしなめた。「ドニーは間違ったことを言っていない」
「もちろん、こっちものんびりするつもりはないさ。だがね、慎重に行動しないと、『妨害者』にこっちの動きがバレるかもしれないからね」
そうだった。フロレッタを呪った人物は明らかになったが、解呪の儀式を妨害しようとする者の正体は今もわからないままだ。呪いをかけた『ガンズ』という人物は、魔法を発動させてすぐ命を落としたと思われる。ドニーがこの城を訪れたのは、そのあとのことだ。ガンズがドニーに脅迫状を送ることは不可能だった。つまり、『妨害者』はガンズのほかにいるということだ。
「うかつなことを言いました。ごめんなさい……」
メルルはドニーに頭を下げた。ドニーは首を左右に振る。
「いいさ、気にするな。お嬢ちゃんにそんなしおらしい態度されると背筋がむずむずする」
あいかわらずの減らず口だが、メルルはそこにドニーなりの気遣いを感じた。メルルは小さく「ありがとう」とつぶやいた。
ドニーは困ったような表情で「どうも、調子が狂うね」とつぶやいて、レトにその表情を見せる。
「でも、メルルの心配ももっともだ。ドニー、実際に儀式を行なえる時期がいつか目途は立たないか?」
「正直、今夜やっても来週やっても、失敗のリスクは残る。とにかく点検を急ぐよ。少しでも成功の可能性を高めるために」
「黒水晶の力を使えば簡単だって言ってませんでした?」
メルルはドニーに聞かされた話を思い出しながら尋ねた。
「黒水晶の力があれば、オレでも解呪の儀式が行える、という意味だ。もし、黒水晶がなかったら、オレじゃ、あの呪いは簡単に解けない。あれはそれぐらいの難物なんだ。だからこそ、最初の魔法陣は、あんなに大きなものになってしまった。自分で壊したけどさ、あれが使えなくなったのは正直、痛かったんだ。まぁ、黒水晶があるから、『あれ』を簡単に諦められたんだがね。
とは言っても、黒水晶の解呪だって完璧じゃない。あれ単体で呪いを解くことはできないんだ。黒水晶の能力は、呪いを引きずり出す最後のひと押しを担い、引きずり出された呪いのエネルギーを吸収し、結晶化するまでのものだ。それ以外の工程、たとえば、呪いのエネルギーを包囲し、最初に引きずり出す工程は、こちらで術式を用意しなきゃいけない。そこでつまずいたら、黒水晶の出番までいかないんだ」
「ドニーの責任領域で失敗のリスクがあるってことか」
レトがつぶやくと、
「身もふたもない言い方だが、そのとおりだ」
ドニーは認めた。
「その魔法陣は、僕やメルルでも扱うことはできるのかい?」
レトの質問にドニーは顔をしかめた。
「藪から棒に何だよ。オレじゃ頼りないってか?」
「そうじゃない。妨害者の対策に、たとえば君がオトリになって妨害者を抑えている間に、こちらで儀式を行なうことができないか、または、君が負傷して、儀式の継続が難しいときに引き継ぐことが可能か知りたいんだ」
レトの説明に、ドニーは少し不満そうだったが、納得したようにうなずいた。
「まぁ、そういうことなら……。結論から言えば、それは可能だ。術式の発動はさっき説明したようにフロレッタお嬢様と黒水晶を設置して、先日、オレが教えた魔名を唱えるだけでいい。術者自身に資格や条件は必要ない。お嬢ちゃん、解呪の魔法陣の魔名は覚えているかい?」
メルルはうなずいた。「覚えています」
ドニーは満足げにうなずいた。「レトの旦那の助手は優秀だねぇ」
「助手見習いです」メルルは訂正した。
ドニーは不思議そうな顔でレトに振り返った。
「レトの旦那。どうして、この子を助手見習いなんて未熟者扱いするんだ? 旦那だってお嬢ちゃんが優秀だってわかっているだろ?」
「充分わかってるさ」
レトは身体を起こしながら答えた。メルルは慌ててレトの身体を支えようとする。「レトさん急に起きちゃ……」
レトは「大丈夫」とメルルの手を押しとどめ、メルルの顔を、そして、ドニーの顔に視線を移した。
「これは所長の考えだ。彼女には探偵以外の道に進みやすいよう、この仕事に縛り付けないようにしてるんだ」
レトの答えにメルルは目を丸くした。「私が、ほかの道に?」
「君は素直で、いろんなことが吸収できる性格だ。まだ16歳で人生を決めなくてもいいじゃないか。それに探偵は決して褒められる仕事でもない。ほかに選択肢があるなら、選ぶ余裕を残してあげたい。それが所長の考えだ」
「私が辞めたいと思ったら辞めやすいように、助手見習いという立場にしたんですか?」
「正式に助手となったら、辞めるのも難しくなる。助手と言ってもいろんな秘密や情報を扱うんだ。今以上に責任が重くなるし、辞めても今後のことに制約をかけられる恐れもある。今以上に足を踏み入れずにすむなら、すむに越したことはないんだ」
「私は、今のレトさんの立場に立つのはふさわしくないと……」
「そんなことは思っていない。ただ、君にその覚悟を問うのはまだ早いと思っている。これまでも君には危険なことをさせてはいるが、探偵になってしまえば、それ以上の危険を強いることになる。君にいつ死んでもいいかなんて僕には言えない」
……それって、レトさんはいつ死んでもかまわないと、その覚悟があるってことですか……?
メルルの目からひと筋の涙がつうっと流れた。メルルは急いでその涙をこぶしで拭う。
「メルル……」レトから声が漏れた。
「い、いえ、違うんです。この涙は」
メルルは涙を拭い終えると、レトに向き直った。
「私は、レトさんがそんな覚悟を持ってるんだと知って涙が流れたんです。だって悲しいじゃないですか。つらいじゃないですか。たしかに、今の私はいつ死んでもいいなんて覚悟は持てません。でも、探偵の仕事を、やり遂げるんだって覚悟は持ってるつもりです」
レトが何か言おうとするのをメルルはさえぎった。
「以前、レトさんは言ってましたね。『自分のやりたいに責任を持つ。それは重い言葉だ』って。あのときは単純にそう思っていました。そうですね。今もそうかもしれません。でも、私、今も思っています。探偵の仕事をするのに、責任を持っていたいと。
正義の仕事じゃないとも言われました。否定はしません。他人の秘密にずかずか足を踏み入れることがある仕事が正義だなんて傲慢です。探偵は正義を守るためにあるのじゃない。正義を守りたいひとを守るためにあると思うんです。そのために手段を選ばないこともあるかもしれません。レトさんのように、ときには相手を出し抜かなければならないこともあるでしょう。私、そういうこと全部はできません。割り切ることもできません。だから、きっと、私はどこか甘いんでしょう。足りないんでしょう。
だからと言って、自分の責任の範囲を小さくしたり狭くしたりするつもりはありません。さっきも言いました。私は自分のやりたいに責任を持ちたいんです。その覚悟だけは誰にも負けません。それがレトさんであってもです!」
ドニーはメルルの演説とも言える話を目を丸くしながら聞いていた。自分の軽い口調から始まったことで、ここまでの話になるとは思わなかったからだ。
レトは沈黙していた。メルルの言葉を否定しなかったが、肯定もしない。レトが何も返さないので、その場はしばらく誰も口をきかなくなった。
しばらくの沈黙のなか、言葉を切り出したのはメルルだった。
「ごめんなさい。私、昨日からきついことばっかり言ってますね……」
メルルは立ち上がると、扉に向かった。
「お嬢ちゃん?」ドニーが声をかけると、メルルは振り返らずに首を振った。
「皆さんの晩御飯をこの部屋に運んでくれるよう、お願いしに行ってます。私もここに戻ります。食事がすんだら、仕事の話をしませんか? フロレッタさんからどうやって呪いを無事に解いてあげられるか」
メルルはそのまま部屋を出て行った。バタンという扉を閉める音が、レトとドニーのいるところまで小さく響いた。
「さて……」
メルルが立ち去る足音が聞こえなくなると、ドニーは背筋を伸ばしながら声を出した。
「意外でしたよ、レトの旦那。ずいぶんと『お優しい』んですね」
レトは眉をひそめてドニーの顔を見つめる。「僕が、優しい?」
「あのお嬢ちゃんは、初めて屍霊を倒した。そうでしょ? 屍霊は、元は人間だ。『聖天炎柱』で天国に送ってやれたかもしれないが、それでも、人間の形をしたものに攻撃した、いや、殺した感触をあの子は味わってしまった。最初、ここで報告を始めたときは顔色が真っ青だったぜ。
でも、レトの旦那がお嬢ちゃんを助手見習いにしている理由を聞いてからは、顔色が戻ったし、苦しみもまぎれたようだ。下手な慰めなんかより、怒らせるほうが効果はあるからな。レトの旦那はあの話をわざとしたんだろ?」
「根拠は?」
「根拠と言えるほどじゃないが。レトの旦那があの話を持ち出したのは、どうも唐突だと思えたんだ。なにせ、わざわざ持ち出す必要のない話なんだからな。
屍霊と戦って帰ってきたお嬢ちゃんは明らかに荒れていた。ちょっとしたことにつっかかりぎみで、言うことがやや激情的だった。心の奥に鬱屈したものがあったんだろうよ。そのなかには自分を責めるものもあった。けっきょく、自分は呪いを解くことに役立たなかった。そんなことも考えてたかもな。
レトの旦那もお嬢ちゃんの心の内をオレと同じように推し量った。そして、わざと感情を爆発させる方向に持っていった。あの子の心に少しでも苦痛を忘れさせたかった。そうだろ?」
レトはため息をついて横を向いた。「君はいつ心理学者になったんだ」
「転職した覚えはないが、そっちに才能があるなら転職も考えるかな」
「呪術師は気に入らないか」
「一生する仕事じゃないね」
「じゃ、探偵にでもなるかい? 探偵も相手の心を推し量ることがある。君なら僕より向いてるかもな」
ドニーは目をぱちぱちさせた。「まじで言ってる?」
レトはドニーに顔を向けた。「半分は」
それを聞いて、ドニーはフッと息を吐きながら笑みを浮かべた。
「なるほど。じゃ、こっちも話半分で聞いておくよ」
レトもうっすら笑みを浮かべながらベッドに身体を横たえた。「じゃ、いつか転職したくなったらいつでも訪ねてくれ。所長に会わせるぐらいはするよ」
「その時点で探偵にする気はないって言ってるようなもんだな」
ドニーはしかめ面をした。「あのひとがオレみたいな男を採用するわけないでしょうが」
「そうかな?」
「そうやってはぐらかすんだよな、レトの旦那は」
ドニーはため息をついた。「その調子だと、ほんとに嫌われちゃいますよ、あのお嬢ちゃんに」
レトは真顔になった。「……メルルにか? 唐突に話を戻すんだな」
ドニーも真顔になった。「こうも話が逸れてきたら、真意も読めてくるものさ」
ドニーは身を乗り出してレトの顔をのぞきこんだ。
「あのお嬢ちゃんの言ったとおりだ。レトの旦那は、自分が嫌われ者になるのもあえて買って出るところがある。真意の読みにくい気の遣い方をする。他人に感謝されるのが苦手のようだな」
レトは何か反論しようと口を開きかけたが、ドニーは片手でそれを制した。
「まぁ、待てってレトの旦那。旦那には他人の思惑をいち早く見破ったり、他人の意図を先回りして汲み取ったりすることができる。それをうまく利用すれば、誰よりも出世するんじゃないか? そう思わせてくれるんだが、おそらく、レトの旦那はそれを望んじゃいない。そんなことができる自分を嫌悪さえしてるようだ。そう思うのは、せっかくの才能をお嬢ちゃんを怒らせるようなことに使ってるからさ。
何でも見透かせるレトの旦那が、所長の考えとやらをお嬢ちゃんに聞かせたらどう反応するか。それがわからないレトの旦那じゃないだろ?
レトの旦那の『うかつ』はただのうかつじゃないんだ」
「やれやれ。ずいぶんと高く買ってくれる」
レトは横になったまま息を吐いた。「そんなに高く評価してくれるなら、ひとつお願いしてもいいかな?」
「なんだい、レトの旦那?」
「今した話は、彼女にはしないでほしい。決して」
今度はドニーがため息をついた。
「今度は、こっちが『やれやれ』だ。そんなに怖いんですかね」
「僕が、何を怖いって?」
「ひとに愛されることを」
レトは目をぱちぱちさせた。「そうなのか?」
「自分のことでしょうが」
ドニーは本当に呆れたように言葉を吐き出した。
それからふたりの会話は止まってしまった。やがて、メルルが食事を持ったシャーリーを伴って戻ってきたので、3人はそこで食事を摂った。
53
「では、そろそろ話を進めたいと思うのですが、レトさんはお身体の具合はいかがですか? 疲れてはいませんか?」
食事を終えると、メルルはレトに話しかけた。部屋を出て行く前に見せた激情の様子はない。ただ、言葉使いは丁寧だが、どこか冷ややかな印象を受ける。ドニーは心の内で「ほら見たことか」とつぶやいた。
「僕は大丈夫だ。始めよう」
レトはベッドから身体を起こした姿で答えた。
「始めるって、結局、何をだい?」
ドニーは少し困惑ぎみに尋ねた。レトとメルルはわかりきっている雰囲気だが、ドニーは今ひとつつかみきれていないのだ。
「『妨害者』の正体について整理を始めるんです」
メルルは説明を始めた。
「フロレッタさんを呪っていたのは、西の山に住んでいたガンズさんという方でした。ですが、その方はすでに亡くなっています。亡くなったのは、おそらくフロレッタさんに魔法をかけてまもなくだと思われます。ポッチくんの証言で、そう推察できます。ただ、そうなると、ドニーさんに脅迫状を送りつけた人物はガンズさんではありえないんです。脅迫状が送られたのは、ガンズさんが亡くなったあと、ドニーさんがマイエスタに訪れてからのことになるからです」
メルルの説明に、ドニーはうなずいた。「まぁ、その点に異論はない」
「では、誰が、ドニーさんに脅迫状を送りつけたのか?
これは城内にいる誰かであることは間違いないと思います。
根拠のひとつは、単純な理由です。もし、犯行が外部の者によるならば、侵入の難しい城内に侵入し、誰からも気づかれずに脅迫状をドニーさんの部屋に届け、また、誰にも見つかることなく脱出した、ということになります。危険性を考えれば、実行性に難があります。
もうひとつは、そもそもドニーさんの居室を『妨害者』はどうして知っていたのかという疑問です。『知っている』ということはドニーさんが何者であるかも『知っている』ということです。村の方がたはドニーさんが何の用でここを訪れたのかご存じありません。それは村の方がたの反応でわかりました。ドニーさんの目的が何であるかわからない以上、ドニーさんがどの部屋にお泊りなのか詮索することもないでしょう。『妨害者』は、ドニーさんが何者で、何の目的でマイエスタを訪れたか『知っている』人物ということです。
おおよそ想像されてはいましたが、これだけ条件が整えば、『妨害者』は内部の者、と考えていいと思います」
「そう考えるわな、やっぱ」
ドニーは苦い表情だ。「ま、オレもそう思っていたけど。ただ、こうもハッキリ言われると気分が重くなるね」
「そうなれば、内部の者、つまり、この城にいる誰が『妨害者』なのか。それを検討しなければならない」
レトは表情も声も静かだった。「君はどこまで整理できている、メルル」
「正直、城内の人物すべてわかっているわけではありません」
メルルは手帳に視線を落としながら答えた。
「確信できるものがないうえに、誰もが怪しく思えて……」
「誰もが? 怪しくない者もいるだろ。たとえばオブライエン候とか」
ドニーが軽く口にしたが、メルルは『オブライエン候』の名前にぴくりと肩が動いた。
「お嬢ちゃん?」
ドニーが不思議そうに見つめていると、メルルは少し首をかしげながら視線も誰とも合わさないように動かした。「実は……」
「どうした?」
「あの、立ち聞きするつもりはなかったんです。
レトさんの治療とか、いろいろお世話になったので、フロレッタさんにひと言お礼を伝えようと、フロレッタさんの部屋にさっき、行ったのですが……」
「さっき、食事をもらいに行ったときか」
メルルはうなずいた。「そのとき……」
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「どういうことですの、叔父さま!」
扉をノックしようとしたメルルの手がその姿勢のまま硬直した。室内からフロレッタの大声が聞こえてきたからである。
「まぁまぁ、気を鎮めなさい、フロレッタ」
アーネストは目の前で立ち上がったフロレッタに向かって、両手で押さえるように動かした。ふたりは背の低いテーブルをはさみ、向かい合ってソファに座って話していたのだった。
「落ち着いて座りたまえ」アーネストは視線でソファを示しながら言うと、フロレッタは怒りの目をアーネストに向けながら腰を下ろした。
「改めて説明してください、叔父さま。材木の出荷量を倍にするとはどういうこです? この山は樹々の成長を考え、伐採する場所や樹の本数を決めています。倍にしてしまうと、最初に伐採したあとに植えた樹の成長が、次の伐採時期までに間に合わなくなってしまいます。領民の大部分は林業で生活しているのです。農地に向かないこの土地では林業こそが経済の基盤です。叔父さまはその基盤を壊すおつもりなの?」
「壊すというかねぇ……」
アーネストは自分の顎を撫でながら少し考えこんでいるようなしぐさを見せた。
「マイエスタの将来と、お前の将来を考えたうえでのことなんだがね」
「ですから、それがどういうことですの!」
「考えてみたまえ。ここはほかに産業も特産物もない。貧しい土地柄だ。そもそも、ここは国家防衛のために砦が建てられ、そこを中心としてできた国だ。経済的に潤う目がないのだ。いや、まだ口を挟まないでくれ。最後まで説明を聞いてくれ」
ふたたび立ち上がりかけたフロレッタをアーネストは慌てて片手で制した。
「私はね、お前をここから連れ出したいのだよ、フロレッタ。姉上がこの家に嫁ぐのは私は反対だった。なにせ、見た通りの辺境だからね。都会暮らしに慣れた姉上にはつらい環境だと思った。私の懸念は杞憂でなかった。姉上は幼少のお前を残して若く逝ってしまった。この環境は姉上に過酷だったのだよ。
そして、今回の呪い騒ぎだ。どうにか呪いを解いてあげたいと本気で思っている。だがな、もし、あの呪術師が解呪に失敗しても、私はこれまでと同様、お前の後見人であり続けようと思う。お前に今以上の苦痛のない、平和な暮らしをさせてあげたい」
「それが、この国を破綻させることとどうつながるんですの?」
「さっきも言っただろう。この国は貧しいと。その原因は、林業以外に経済の手段がなく、肝心の木材で稼ごうにも出荷量が制限されるから、それでは潤わないのだ。この国に豊かな未来などない。それならいっそ、金になる木材を短期間で売り尽くし、お前はこの国を離れればよい。資源が枯渇してから領地は王国にお返しするのだ。王国であれば、残される領民の面倒をみてくれるだろう。お前は蓄えた財を持って、我がバイエルに来ればよい。経済都市コリントのすぐそばで、今も発展を続けている。そこであればお前も安心して暮らしていけよう。ここのように冠雪期のつらい寒さや豪雪に悩まされることもない。私はお前の今後を見据えたうえで、この国の今後を決めたのだ」
「決めたですって? そんなこと、村のひとたち、いいえ、領民の皆さんは承知したのですか? 彼らは愚かではありません。出荷量を倍にすれば、いずれ山から樹がなくなってしまうことぐらいわかっているはずです!」
「たしかに、わかっている者もいたかな」
アーネストは天井を見上げた。「だが、やつらのなかには、収入が倍になると教えたら目を輝かせる者もおったぞ」
「それは目先のことしか見えていない一部のひとたちだけです!」
「一部でもやつらはやつらだ」
アーネストは冷静な声で反論した。
「最終的な決定はやつらがする。私はやつらに今より収入が増える道を示したにすぎん」
「その危険性について説明したのですか?」
「むろん、するわけがない。わざわざ説明する話でもないだろう」
「名門と名高いバイエル候が他国の領民を欺くおつもりですか?」
「私が欺く? 言い方に気をつけるんだ、フロレッタ。やつらだって、この国の貧しさに飽き飽きしているのだ。少しでも収入が増えるのであれば、それに越したことはないのだ。仮に、私がやつらをだましているとして、やつらもまた、それを承知でだまされたふりをしているのだよ。やつらにとって大事なのは貧しいまま続く未来のことではない。目の前の現実、今なのだよ。
それに、出荷量を倍にしたことで、資源が完全に枯渇するのは何年も先のことだ。今日明日のことではない。そんなことに、いちいち気をもむ者もおるまいよ」
「将来のことに予想のつかない領民はそうでしょう。ですから、私たちレドメイン・ノーズ家は、資源が枯渇することがないよう、適切な管理を心掛けてきたのです。領民もまた、そういう領主を信頼して支えてくれたのです。こうして築き上げた信頼関係を自ら壊そうなどと!」
「その信頼関係は、もうとっくに壊れているだろう?」
アーネストの冷ややかなひと言は、フロレッタを凍りつかせた。
「お前は『信頼関係』と言った。だが、今、領民はレドメイン・ノーズ家を信頼などしていない。魔候軍の襲来から領民を見捨てた薄情で臆病者の領主だと、憎み、蔑んでいる。その証拠に、今、お前は呪われておるではないか!」
アーネストは語気を強めた。フロレッタからは反論はない。うつむき、口をぎゅっと閉めている。
「探偵の小娘から報告を聞いただろう?
お前を呪ったのは村はずれの山に住む男だったと。残念ながら、呪いを解くことは叶わなかったがな。あの話を聞いてどう思った?
腹は立たなかったか?
こんなところはもう嫌だとは思わなかったか?
やつのやったことは単なる逆恨みだ。しかも、見当外れのな。呪うべきは直接娘の命を奪った魔候軍のやつらで、百歩譲ってもお前の父までだ。なぜ、お前が呪いの対象になる?
やつらは愚かでどうしようもない。そんなやつらの将来のためを考えても、やつらは感謝などしない。貧しくとも国が破綻せず続いているのが、レドメイン・ノーズの徹底した資源管理にあると理解もできんのだ。そんなやつらのことなど、もうどうでもいいじゃないか。
この国をお金に換えて、お前はバイエルへ来い。そこで、楽に暮らそうではないか」
フロレッタは無言のままだ。うつむいたまま肩をわずかに震わせている。その様子を見て、アーネストは困ったように顔をしかめた。
「……まぁ、これまで、お前に何の説明もせず話を進めたのは悪かった。謝る。
だが、私がお前のためを思ってしたことに嘘はない。それだけは信じてくれないか……?」
扉の外にいたメルルは、そっとその場から離れた……。
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「……ということなんです」
メルルは説明を終えた。ドニーは自分の顎を撫でながら天井を見上げる。
「なるほどねぇ……。今の話だと、オブライエン候はフロレッタ様の解呪はそこまで執着していない様子ってことか。むしろ、彼女の体調不良を口実に、領内のことを勝手に決めて掻き乱しているってわけだ。領民のレドメイン・ノーズ家への不信感も利用してね」
「私はオブライエン候の誠実さに疑念があります。あのひとが『妨害者』である可能性を、私は捨て去ることができません」
メルルは不快そうな目で、アーネストに対する不信感をあらわにしていた。
「解呪の儀式がうまくいかないほうが、オブライエン候に都合がいいという考えか」
レトは腕を組んだ。
「でも、それであれば、そもそもドニーに解呪の依頼なんてしないだろう。術師が見つからないとか、適当なことを言っておいて、ずるずると解呪の儀式を先延ばしにするんじゃないかな」
「ドニーさん。ドニーさんが詐欺の疑いで捕まったのはどこのことでしたか?」
メルルはドニーに顔を向けた。ドニーは唐突な質問に戸惑った表情を見せた。「コリントだが」
「そうでしょうね。詐欺事件の話を聞いたとき、相手のことを『コリントの大物』とおっしゃっていましたから。でしたら、コリントでのドニーさんの評判はよくないんじゃありませんか?」
「実際に聞いたことはないが、いいとは思えないね」
「では、オブライエン候はどうしてドニーさんに解呪の依頼をしたのでしょう?
たしか、オブライエン候の治めるバイエルはコリントの南部近くに位置するところですよね?
オブライエン候は、ドニーさんの『評判』を知らなかったんでしょうか?
そんな近くに住んでらっしゃるにもかかわらず」
「……つまり、オブライエン候はオレを詐欺師かもと思いながら依頼したと?」
「フロレッタさんには表向きはいい顔だけしてみせて、本心は呪いからの解放など願っていないのでは?」
「それはどうだろうな」
レトは腕を組んだままだ。「ドニーのことを詐欺師だと思っているのなら、なおのこと脅迫状を送りつけたりはしないと思う。少なくとも『妨害者』はドニーが解呪の儀式を成功させるかもと思っている人物じゃないか?」
メルルは顔をしかめた。それはレトの言うとおりだ。
「だが、のちにドニーの実力が本物だとわかって、途中から危機感を抱いた、ということならメルルの説もありうるか。可能性は低くとも排除するのはやめておこう」
レトは肯定的なことを言ったが、メルルは自分の説に自信を無くしていた。
……やっぱり、私はレトさんのようにいかない。考えの足りないところが多い……。
だからといって、すべてレトの考えに従う気持ちになれない。部屋を出て、食事を摂り、ある程度時間を空けた。それなりに心を落ち着かせたつもりだったが、やっぱり、レトのあの話は許せない。いや、認めたくない。自分が探偵になることが歓迎されていないことを。簡単に認めてもらえるとは思っていない。でも、まさか、『将来の可能性のため』なんてわけのわからない『気遣い』で探偵になるのを諦めさせられてたまるかと思う。絶対認めさせたい。とくに、レトには……。
「では、オブライエン候のことは保留で。次に、執事のガッデスさん。この方はフロレッタさんが呪われていることにいち早く気づきました。このことでドニーさんが城へ招かれることになりました。もし、呪いを解いてほしくないのであれば、そもそも『呪われている』など指摘しなければいいはずです。ガッデスさんが『妨害者』であれば、行動が破綻しています。よって、ガッデスさんは『妨害者』ではありません。私はそう考えます」
メルルは気を取り直して、一気に説明した。説明を終えると、大きく息を吸って、胸の奥を落ち着かせる。
「たしかにガッデスが『妨害者』というのはつじつまが合わない。僕もその考えだ」
レトがうなずいて肯定する姿勢を見て、メルルの心が少し楽になった。ほんの少しだが認められたような気持ちになったのだ。
「次に庭師ガルドさん。私は、この方も『妨害者』ではないと考えます。ガルドさんは城の皆さんと違い、敷地内の小屋に住んでおり、城内に立ち入ることがありません。そんな方が、城内に忍び込み、脅迫状をドニーさんの部屋に送りつけるのは難しいと思います。目撃されれば不審に思われますし、すぐ露見してしまいます。そんなリスクを負って実行するひととは思えないんです」
「ほかには?」根拠が薄いと考えたのか、レトはさらに求めた。
「ほかって……。レトさんは逆にガルドさんを容疑者から外せない理由があるのですか?」
「ガルドの妻はメイド長を務めるロッタだ。
ロッタであれば、ドニーの居室を把握しているだろう。ガルドは何かの折にロッタから部屋の場所を聞き出せたかもしれない。ロッタに意図を悟られないようにね。いや、もし、ふたりが共犯関係にあれば、なおさらドニーの居室の情報を得るのは簡単だ。その可能性があるかぎり、ガルドはもちろん、ロッタも容疑者から外せない。脅迫状の送り主はガルドである必要はない。ロッタにさせるのが確実で簡単だからね」
「で、でも、ロッタさんはフロレッタさんのために献身的に働いています。そんな方が『妨害者』になりえるのですか?」
「それは私的な観測で、根拠にならない。ロッタの献身は見せかけで、本当はレドメイン・ノーズ家を不幸のどん底に叩き込もうと、すぐそばで機会をうかがっていたと聞かされても僕は驚かない」
「……レトさんは意地悪な目でひとを見るんですね……」
「そうするのが必要だからだ。探偵としてね」
メルルは黙ってしまった。そんなメルルにレトは静かだが、容赦のない言葉をかける。「次は?」
「次はシャーリーさんです。
彼女は魔法陣の警備をしていたホプトさんとネッドさんに、こっそり酒をふるまったりと、魔法陣の監視を邪魔しています。この一点だけでも容疑者から外せません。フロレッタさんへの接し方もどこかぞんざいな感じがして……。いえ、悪意みたいなものを感じました」
「『感じ』はともかく、酒の一件は正しい。シャーリーも容疑者だ」
レトは同意した。
「次は、守備隊の皆さんです。
総勢20名とのことですが、すべての方とお会いできていません。名前だけでもわかっている範囲では、ホプトさんとネッドさんの夜勤で魔法陣を警備しているふたり。クルト・ヒューズ隊長。レイ・ブルースさん、ディエゴさん、ドノヴァンさん、ランスさん、ヒギンスさん、アッシュさん、ペインさんの10名です。
残り9名を把握できていないので、兵士の方がたは保留と言うべきでしょうが、私は、兵士の方がたが『妨害者』の可能性は低いと思っています」
「理由は?」
「動機がありません。
領主に忠誠を誓う騎士が、フロレッタさんの解呪を妨害する理由があるでしょうか?
領主に従えないのであれば、城を出て、ほかに仕える領主のもとへ行けばすむはずです。騎士の皆さんはこの城に縛られている様子は見られません。比較的自由に辞められると思いますから」
レトは首をかしげた。
「それだけで動機がないと判断するのは早いと思うな。
復讐目的で城に留まっている可能性が残されるから。
それと、彼らには犯行が可能という点もある。
それは、ドニーがどの部屋に泊っているか、彼らが『知っている』ということだ。
来賓客などがどの部屋に泊っているかの情報は兵士には共有されているものだ。そうしないと、いざ、『誰それの部屋に急行せよ』なんて命令があったときに困ってしまうからね。警備、防衛に必要な情報は常に把握されてないといけない。
脅迫状を送りつけた人物は、ドニーがどの部屋に泊っているか知っている。この条件が満たされている者は、容疑者から外せないな」
「じゃ、あと10名、確認します……」
「頼む」
「容疑者がどんどん増えていくな……」ドニーは面倒くさそうな表情だ。「検証する者は、まだいるか?」
「城付きの料理人、グーリックさんと、料理見習いのトーマスさんのおふたりが残っています。
ただ、このおふたりは容疑者から外せると思います。
さっき、レトさんが指摘した、ドニーさんが泊っている部屋の場所を知らないはずだからです。兵士でもない方が、宿泊者の居室情報を共有することはありません。それと、ドニーさんは食事を食堂で摂っておられませんから、あのふたりと面識もありません。そうですね?」
「たしかに、料理人とも見習いとも会ったことがない」ドニーは肯定した。
「まったく接点もなく、宿泊者についての情報も持っていない。そんな人物が脅迫状を送りつけるとは考えられません。いかがですか?」
「現時点では、そうだね」
慎重な態度は崩していないが、レトは認めた。
「けっきょく、容疑を外せる者はわずかしかいない、ということか」
ドニーはやれやれというように首を振った。「先の長い話になりそうだ」
「現時点で僕たちが把握している情報はこれぐらい、ということで、絞り込める要素が少ないんだ。
今後、どういう人物が『妨害者』でありうるか、その条件をあぶり出すことが必要になるね。
まぁ、もし……、『呪われる側』、『呪う側』双方の事情を詳しく見ている者であれば、あたりをつけるのは可能だと思うけど」
レトが話をまとめるように言うと、
「それ……、神様でないと無理じゃない?」
ドニーが困り顔でぼやいた。
54
『妨害者』の正体について話し合いを終え、メルルとドニーのふたりはそろってレトの部屋を出た。問題点以外についても話をしていたので、時間は夜半を過ぎていた。明かりの灯っていない廊下は暗く、ふたりはそれぞれ自分の片手に炎をあげる魔法で廊下を照らした。
「なにか、モヤモヤします……」
廊下を歩きながら、メルルはポツリともらした。隣を歩くドニーはメルルを不思議そうに見下ろした。「モヤモヤって、何が?」
「フロレッタさんを呪っていたのはガンズさんというひとで、その事情はおそらく、前の戦争で娘さんを亡くされたことだと思われます。それはポッチくんの説明によれば、ですが……。ただ、それが真実だとしても、どうして、ガンズさんはフロレッタさんを呪う必要があったのか。
そもそも、ひとはどうしてひとを呪ったりするのでしょうか?」
メルルはまったく理解できないというように首を振ったが、ドニーは前を向きながら「そりゃ、簡単な話だ」と言った。
え? という顔でメルルがドニーを見上げると、ドニーは前を向いたままつぶやいた。
「楽になりたかったんだろ」
メルルはその答えに理解が追いつかなかった。「楽……に……?」
「人間の究極の欲望、欲求は『楽になりたい』さ。
それは働かなくてもいいとか、そういう身体的なことだけでなく、精神的なものも含まれる。
この世には、生きるのにつらいことが多すぎる。
人間関係、仕事関係、人生観、死生観。何に生きがい、やりがいを持つとかもそうだけど、人間てのは『生きる』がそのまま『悩む』に直結している生き物だと思うな。
逆説的なことで言えば、『悩みがないのが悩み』なんてひともいる。人間は悩む生き物なんだ。
ただ、苦悩というのが、人間を生物的に成長させたとも思う。これはほかの動物ではなかったことだ。人間は苦悩することで哲学を生み、あらゆる技術を開発した。文学もそうだ。絵画、彫刻などの芸術もそうだ。始まりは苦悩なのさ。苦悩を経て生み出されるからこそ、文学や芸術は尊いものなんだ。
ただ、苦悩に耐えるってのは誰にでもできることじゃない。苦悩から新しい何かを生み出す、あるいは見出すなんて前向きなことは、いろんな苦悩を乗り越えた先で得られるもので、なかなか乗り越えられない者にとって、苦悩はただ苦痛でしかない。
苦痛に耐えられなければどうすればいい?
そんな方法や道具が、もし、簡単に手に入るものであれば、それに手を出したりはしないだろうか?
この世には『麻薬』というものが存在する。心の苦痛を忘れさせ、さらに快感を得られる薬さ。ただ、脳にダメージを負わせることで快感を得られるので、その末路は悲惨なものでしかないがね。
『麻薬』以外なら『宗教』がある。神様のお恵みによって、魂の安寧を得るってやつだ。あれもけっきょく、苦痛から解放されたい、楽になりたいってことだね。少なくともオレはそう考えてる」
「ドニーさんは神様の教えを麻薬と同列に扱うんですか?」
メルルの口調は非難めいた感じだ。
「信仰心が道徳的、倫理的であるという面は否定しないさ。ただ、前向きだとは考えていないかな。自分の生き方、生きるという責任に、神様を巻き込んでどうする?って話さ。神様の教えに従えば魂は救われる? いやいや、そんなこと自分で考えろよ。自分の魂を救いたければ自分でどうにかしな。なにせ、自分の魂だろ?ってね」
「ドニーさんは強いひとなんですね」
「強い? まさか。オレだって楽なほう、楽なほうを選ぶ人間だよ。
ただ、そうやって自分の生き方ってやつに折り合いをつけてるのさ。神様なんかに頼らずにね。少なくとも、オレの生き方に救いを求めるのに、神様の恩恵は要らないかな。もし、そういうのがあるなら、ほかのひとに恵んでやってくれと思う。ただ、本当にあるならな。
まぁ、オレみたいに適当なやつはそうやって、苦悩とやらをのらりくらりとかわして生きていられるが、かわすことのできない者はいる。麻薬にも宗教にも救いを求められなければ、どこに救いを得る……、心を楽にしてあげられる?
ガンズという人物が、娘を失うという喪失感から立ち直れず、生きてきた意味を見失ってしまったのであれば、その苦悩、苦痛から解放されるため、『呪い』に手を出した。と、考えるんだけど、それはある意味、必然じゃないかな。ガンズは、他人を呪うことで自分を苛む苦しみから逃れようとしたんだ。自分の呪いによって憎い相手が苦しむのであれば、その分だけ自分の苦しみは和らげられる……楽になる、ってね」
メルルの足が止まった。ドニーもそれに合わせて立ち止まる。
「それ……、哀しいですね……。救われないというか……」
メルルは泣き出しそうな顔になっている。
「当人はもう死んじまってるから、心が救われたのかどうか、それこそ『神のみぞ知る』だ。ただ、お嬢ちゃんのように、憐れんでくれるひとがいるんだから、ガンズっていう爺さんは、それだけで幸せ者さ。世の中には憐れんでもらうこともなく、苦悩、苦痛にまみれながら死んでいく者のほうが圧倒的に多いんだ」
メルルはドニーの言葉を否定したくなって口を開きかけたが、そのままつぐんでしまった。どう反論すればいいかわからなかったのだ。ただ、ドニーの考えは一方的だと思った。しかし、心のどこかでドニーの考えを納得してしまった部分もある。
『楽になりたい』……。それは自覚こそしていなかったが、自分にも当てはまるところがあったからだ。ただ、そのすべてを受け入れられないところもあるのだ。
「ドニーさんの考えはわかりました。理解できたところもあります。
ですが、私は、その考えに納得しないというか……、したくありません。
人間のすべてが『楽になりたい』という願望のために行動する生き物だなんて……。そこまで人間を単純化して考えることができません」
「それでいいと思うよ。オレだって、その考えを押し付けるつもりはないし。このことは、お嬢ちゃんが一生かけて悩み、考えればいいことさ。
ま、けっきょくのところ、オレの考えに行きつくだろうがね」
メルルはぷうっと頬をふくらませた。
「もう! ドニーさんは私をおちょくりたいだけのひとですか!」
ドニーは「あはは」と笑うと首を振った。
「いや、たしかに、からかい甲斐はあるね。でも、おちょくりたい『だけ』、じゃないよ。正直、心配しているところもある。君ってさ、何にでも誠実に、真剣に考えようとするだろ。
でも、そんなんじゃ、心がすり切れてしまうぜ。どこかさ、オレみたいにのらりくらりとしたほうが楽に考えられることもあると思うんだがな」
メルルは目をぱちくりとさせた。「私を心配してるんですか?」
「なんだよ、意外そうな顔をするなよ。
たしかに、知り合ってまだ間もないが、お嬢ちゃんのことはもう大事な仲間みたいなものだと思っている。
大事な仲間を気にかけるのが、そんなに不思議なことかい?」
メルルは顔を赤らめてうつむいた。「い、いいえ……」
なんとなく話を続けるのが恥ずかしくなって、メルルは歩き始めた。ドニーはその後ろをゆっくりと歩く。
階段に着いたところで、ドニーはメルルの肩を叩いた。
「じゃ、お嬢ちゃんおやすみ。今日はいろいろあって疲れてるだろ。疲れを残さないようにな」
メルルは階段を昇りかけていたが、びっくりして振り返った。
「ええ? ドニーさんの部屋も上でしょ? 今からどこか行くんですか?」
ドニーは意味ありげに『にやり』と笑みを見せる。
「魔法陣の最後の調整と点検だ。
今夜中に片づけなきゃな」
「今夜中に?」
「魔獣の件も問題だが、時間を置くと『妨害者』に何をされるかわからない。敵が動かないうちに魔法陣を完全に仕上げて、明日の夜にお姫様の呪いを解いておさらばするのさ。呪いを解いちまえば、あとで『妨害者』が何をしようと無駄になるってわけさ」
「だからって、こんな遅くに……」
「ひと目につかない今だからいいんだよ」
ドニーは手を振りながら階段を降り始めた。
「私、何かお手伝いしましょうか?」
メルルはドニーを心配そうに見下ろしながら尋ねた。
「心遣いに感謝だ。だけど、今夜はいい。さっきも言ったけどお嬢ちゃんのほうが疲れてるはずだぜ」
メルルは言い返せなかった。たしかに、今日は魔力をかなり消費する魔法を使ったりと大変だった。かなり疲れているのは本当だった。
「それに、明日、解呪の儀式を行なうとなったら、お嬢ちゃんにオレたちの護衛を頼みたい。レトの旦那はあの状態だからな。あまり無理をさせられない。城の騎士たちは信用できないからな。頼りにできるのはお嬢ちゃんだけだ」
そう言われてしまうと本当に何も返せない。
「……気をつけてくださいね……」
メルルはそう返すのがやっとだった。
ドニーはすでにメルルから背を向けて階段を下っているところだったが、片手をあげて応えた。「わかってるって」その手はそう言っているようだった。
メルルはドニーの姿が見えなくなるまで見送ると、ゆっくりと階段を昇りだした。ひとりになって緊張の糸が切れてしまったのか、強い疲労感に襲われたのだ。
「ドニーさんの言うとおりだ。ちゃんと休もう……」
メルルは自分に言い聞かせながら階段を昇った。
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「異常なし。問題もなし。完璧だ」
ドニーは満足げにうなずいた。
ドニーが立っているのは1階の道具部屋だった。レトとメルルがシャベルを見つけた部屋だ。
彼が満足げに見つめているのは、壁にかけられたシャベルなどの道具だ。シャベルのひとつには紐が結び付けられ、複雑な結び目が一種の文様のようになっていた。
「『掘るもの』、『掘り下げるもの』を象徴する……。まんまだけどな」
ドニーはシャベルの結び目に触れながらつぶやいた。
「まぁ、これが魔法陣の外円を形作る要素になる。『妨害者』さんも気づくまい……」
ドニーはふたたびうなずくと部屋から出て行った。真っ暗な廊下を魔法で灯した小さな炎で照らしながら進む。
……順調に事が進んだが、本当の勝負は明日だ。今回の仕事を無事やり遂げたら……。
「本気で転職するかな」
ドニーは天井を見上げながらつぶやいた。
レトの誘いに乗るのも悪くないと思い始めていたのだ。
……しかし、オレが探偵? オレを知ってる連中が聞いたらひっくり返るかもしれないな……。
でも、そのほうが面白い。ドニーはそう考えて笑みを浮かべた。彼は周囲を驚かせるのが好きなのだ。
……その場合、問題は女所長だな。あのひとは恐ろしいって評判だからな。レトの旦那より所長のほうが有名なのは、怖いエピソードに事欠かないからだし。そんな所長の面接を受けるのは怖いよな、やっぱ。そこは誘ってくれたレトの旦那からうまく口添えしてもらって……。そうだな、あのお嬢ちゃんにも援護してもらえれば……。なんだかんだ、あのお嬢ちゃんとうまくやれてるし、協力してもらえそうだよな……。
ドニーはつらつらと考えながら廊下を歩いた。炎のゆらめきもあって、自分の影が足もとでゆらゆら動く。壁だけの廊下を過ぎれば、小さな階段に着く。そこから上が兵士たちが寝泊まりしている階に通じている。誰からも目撃されたくなければ、そこは通り過ぎ、遠回りになるが、一度、城の外側に抜けて、改めて別の扉から城内に戻らなければならない。実際、行きはそうして道具部屋に向かったのだ。その間も誰とも行き会わなかったし、目撃もされていない。この調子でいけば、数分後には自分もベッドのなかだ。
背中を突き飛ばされるような衝撃を受けたのはそのときだった。
ドニーはつまずいて転びそうになるのをこらえながら数歩進んだ。
「な、なんだ……?」
全身から力が抜けるような感覚に襲われ、立っているのがつらい。背中と腹がやけどしたような熱を感じる。
……ど、どうした、オレ。どうなってる……?
ドニーの立っているそばに窓があった。新月の前夜なので、外はほとんど暗く、わずかな星明かりだけが窓から差し込まれていた。ドニーは星明かりを頼りに自分の腹を見下ろし、そして、硬直した。
腹部は真っ赤な色に染まっていた。さらに赤い液体がそこから床に向かってあふれ出し、赤い水たまりを作っていたのだ。