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黒水晶は紅(くれない)の涙を流す 8

41


――これは、――


自らの無力を呪い、他者の無情を憎み、


ついには自らのすべてを怨嗟の感情で塗りつぶした、


とある男の憤怒、あるいはその慟哭……


****************************************


 「ガンズ魔導士長、お久しぶりです」


 ガンズは長い廊下を歩いているところを、背後から呼びかけれて足を止めた。振り返ると、がっしりした体格の男が近づいてくる。

 ガンズは少し顔をしかめた。「君か、ザバダック」

 「あれ、何かイヤそうな顔されてません?」

 ザバダックと呼ばれた男は朗らかな笑顔でガンズの前に立った。


 ザバダックは近ごろ話題の中心にいる男だ。高い魔力を持ち、あらゆる属性の魔法も使いこなす、魔法使いのなかでもひときわ優秀と評判だった。術式に対する分析能力も高く、いくつかの古代魔法の術式を解析してみせたこともガンズは知っている。

 ここディクスン城での王宮魔導士たちの間でも「ザバダックは別物」とささやかれていた。ザバダックは3年の地方魔導士長の任を得て、南部アスラン地方へと赴任していたが、最近、任期を終えて帰ってきたことも知っていた。

 ただ、ガンズにとって、ザバダックは顔を合わせたくない『苦手』な男だった。できることなら城内でも出くわさないよう気をつけていたのだが……。


 「いや、そんなことはない。君に会えて嬉しいよ、ザバダック」

 ガンズは心にもないことを口にした。


 「よかった。魔導士長にまで嫌われていたら、俺の居場所なくなりますからね」

 ザバダックは自分のあごひげを撫でながら言った。現在は30代半ばではないか。若いわりには貫禄がある。ガンズはザバダックから距離を取ろうと身体の位置を変えた。ガンズは自分の貧相な身体に劣等感を抱いており、それもまたザバダックを『苦手』だと感じる理由でもあった。


 「君は城内で嫌われていると言うのかね?」

 「嫌われてますね、しっかり」

 「根拠でもあるかね?」

 「いろいろありますが、最たるものがアスラン赴任の件ですね。あれね、実はロックスフォットが務める予定だったんです」

 「ロックスフォット? 貴族派の?」

 「ええ。ですが、南部の辺境任務はイヤだとゴネましてね、だったら誰に押し付けるって話になって……」

 「君に白羽の矢が立った」

 「そういうことです」


 ガンズは顔をますますしかめた。その人事は自分が魔導士長に就任する前のことだ。だから、それを決めたのは自分ではないが、人事の事情について何の引継ぎもされていないし、情報も入っていない。そもそも、自分が魔導士長になったのは「たまたま」としか言いようのない理由だった。


 「貴族派は最近、『貴族連合』なる政治団体を立ち上げていると聞く。知っているかい?」

 ガンズはザバダックに尋ねた。

 「ええ、ポール・マクダネル卿とジェームズ・シャーヘッド卿が代表を務める新興政治団体。マクダネル卿は最近跡を継いだばかりでいろいろとやる気になっておられるようですね。ただ、あのふたりは反目しているとかで、一枚岩といかないようで」

 ザバダックの口調は少し皮肉っているようだ。

 「しかし、我ら貴族階級でない者と対するときは団結する。侮れんよ」

 「それはそうですね」

 ふたりは並んで歩き始めた。

 「君には悪いことをしたな」

 ガンズはぽつりと詫びた。ザバダックは不思議そうな顔をする。「何がですか?」

 「私は君の赴任を栄転だと思っていた。不本意な人事であれば、私が魔導士長に就任したときに呼び戻しておけばよかった」


 「いえいえ、お気になさらず。

 戻ってきても、けっきょく今みたいに厄介ごとを引き受けさせられるんですから、地方勤務のほうが気が楽ですよ」

 「そう言われてみれば、私は今の君が何に就いていいるのか知らないな。いや、この人事にも関わらせてもらっていない。やれやれ、魔導士長という立場も落ちたものだ」

 「それは違いますよ。俺は国王陛下に直接任務を命じられたんです。

 魔導局はまったく関与してませんよ」

 「そうなのか? じゃ、君は今何を……」

 「家庭教師です。ルチウス王子のね」

 ガンズは思わず立ち止まった。「ルチウス王子? まさか」

 「そのまさかなんです。ご存知のとおり、あの王子様はやんちゃでね。これまでも多くの学業優秀者を家庭教師に据えてみたようですが、あのやんちゃぶりには誰もが手を焼いてけっきょくみーんな辞めちまってるんですよ。

 困り果てた我が国王陛下は、荒療治として俺を教師として選んだ、というわけでして」

 「君を家庭教師にすることが荒療治かね?」

 「俺はあいにく、王家に対する畏敬の念が薄いのでね。

 俺の教育方針に逆らおうというのなら、実力で覆してみろって煽ってやりましたよ。

 王子はノリノリでその挑発に乗ってきましたね」

 「おいおい、王子はまだ10歳になったばかりだろ? 子ども相手に本気のケンカでもしたのか?」

 「本気のケンカ? まさか。楽勝でひねってやりましたよ」

 ザバダックはそう言うと愉快そうに笑い声をあげる。ガンズは呆れたように首を振った。


 「今、王子はどうされている? 心に傷を負ってはおられぬか?」

 「こてんぱんにしてやったのですがね。なかなか面白い王子ですよ、ルチウス王子は。勝負に負けたからと大人しく授業は受けるようになりました。ただし、それ以外の時間は俺に仕返ししようと、あの手この手で挑んでくるんですよ。おかげで毎日退屈せずに過ごせています」

 「王子がそんなことを?」

 「負けん気の強さじゃ、ひょっとすると王国一かもしれませんね。その一方で、国王陛下、妃殿下の前では礼儀正しく、老人や女性、いわゆる弱者と呼ばれる者には優しい気遣いを見せるんです。俺はあの王子を気に入ってますよ。将来はいい王様になりそうです」

 ザバダックの発言に、ガンズは慌ててあたりを見回した。

 「こ、こら。めったなことを言うもんでない。国王陛下は自身をつなぎの国王だと思っていらっしゃる。次期国王はカリナス様に譲られるおつもりだと聞いている」

 「どうですかね。あの陰気で心の狭いお坊ちゃまに、国ひとつを任せられますかね。たしかに、嫡流であったキュリアス様の血を引く唯一の人物ですが、キュリアス様のような雄々しさ、豪胆さは皆無。周りから意見を言ってもらえないと何も決められない優柔不断なところは、施政者には向かないですね。もっとも、傀儡かいらいにするには適当な人物でしょうが」

 せっかくガンズがたしなめたにもかかわらず、ザバダックの毒舌は収まりそうにない。

 「まぁ、宰相閣下はカリナス様を次期国王に望むかもしれませんがね。傀儡が欲しい宰相にはうってつけだ」

 「だから、めったなことを言うなと……。あの方はどんなに離れていても悪口は聞き逃さないと言われている。下手なことを言えば、地方任官程度ではすまないぞ」

 ガンズは額に汗を流していた。やはりこいつは苦手だ。まるで物怖じすることなどしない。その豪胆さがうらやましく思える。しかし、魔導士長の地位についてもなお、強気な姿勢などできない。自分がこの地位に就けたのは、前魔導士長が不祥事を起こしたからであり、後継の有力候補であった2名の魔導士が互いを蹴落とすため、違法な政治工作を派手に行なったためだ。結果、ふたりとも失脚するという事態になり、何もしなかったガンズにその地位が転がり込んできたのである。世間では無欲の勝利と評するが、何ということはない。周りが勝手に自滅しただけの話だ。

 そんな背景もあり、自分の勢力基盤は脆弱で、何かあればすぐ失脚するだろうという恐れにつきまとわれた。国王陛下に「お前に辞退されると後がない」と泣きつかれなければ、こんな大役など引き受けるつもりもなかったのだ。

 実のところ、『魔導士長』などただの飾りだ。魔導局を実質的に支配しているのは貴族派の連中であり、ガンズは彼らが差し出す書類に判を押すだけの存在だった。彼らを下手に刺激しないかぎり、自分に危険はない……。それが彼なりの処世術であった。権力の座を追われた前魔導士長や、追放処分を受けたふたりの魔導士たちの末路を知っているだけに、地位を失うことは恐怖そのものだった。だからこそ、彼は貴族派の魔導士たちが陰で冷笑していることを気づかないふりをして、今日まで過ごしてきたのだ。


 「いいかね、ザバダック。私はこれまでの話はひと言も耳にしていない。君もそのつもりでいてくれ。念を押すが、これは互いの安全のためでもあるのだ」

 ガンズの真剣な表情に、ザバダックは笑みを消した。ぼりぼりと頭をかきながら「はぁ、わかりました」と、つまらなそうにつぶやいた。


 「私とて、ルチウス王子の成長は楽しみだ。だが、玉座だの政治だのにからめて口にするのは控えるのだぞ」

 ガンズはそう言い残すと、ザバダックを置いて先へ歩いていった。そのまま進めば魔導局のある部屋だ。ガンズが扉の前に立つと、扉のわきに控えていた兵士が扉を開いた。ガンズを見送っていたザバダックはその後ろ姿が扉の向こうへ見えなくなると、ふたたび頭をかきながら息を吐いた。「はぁあ……。やっぱ、嫌われてるかな、俺。まぁ、そんな気はしてたけど」



42


 『魔導局』と聞いて、どんな場所か想像できる者は少ないだろう。実のところ、特別際立った特徴はない。たとえば、真っ赤なあぶくの立った鍋をかき回している者などいないし、床に怪しげな魔法陣を展開して呪文を唱え続けている者もいない。飾り気のない部屋に、特徴のない事務机に椅子、魔導士らしい服装の者たちが座っているものの、彼らがしているのはさまざまな帳簿や書類に目を通して、ひたすら書きこむ、当たり前の事務処理風景だ。彼らは魔法使い協会の帳簿の確認や、魔法使いギルドの法的な訴えの確認などに追われていた。魔法の研究など、魔法使いらしいことをしている者はひとりもいない。


 ガンズが部屋に現れると、その場にいた者は全員席から立ち上がると、「おはようございます、ガンズ様」と頭を下げる。

 ガンズは鷹揚に手を振って応えると、「どうぞ、仕事を続けたまえ」と言って奥へ進んだ。そこには代々の魔導士長が座ってきた豪奢な机がある。

 身体がすっぽり沈むのではと思えるほどふかふかの椅子に座ると、白髪の男が近づいてくる。魔導士科学長を務めるシュティフターという男だ。大きな紙ばさみを抱えている。

 「おはようございます、ガンズ魔導士長」

 シュティフターは丁寧にお辞儀した。

 「おはよう、シュティフター。さっそくですまないが、例の報告を聞かせてもらえるかな?」

 「はい、こちらに用意できております」

 シュティフターは紙ばさみを開くと、いくつかの書類を机の上に並べていく。


 「第3実験棟および第6実験棟におきまして、動物実験の成果が認められました。

 これまでの回復魔法ヒーリングでは叶わなかった、再生治癒魔法リカバリーの完成に一歩近づけたと言えます」

 「そうか。具体的にはどんな成果だ?」

 ガンズは資料に目を通しながら尋ねた。自分が魔導士長に就任してから取り組んできたのがこれだった。

――医療魔術の進化――

 そのなかでもっとも力を入れてきたのが『再生治癒魔法リカバリー』の研究だ。魔族との大規模な戦争は百年以上起きてはいないが、小競り合い程度のことは日常茶飯事である。そのため、負傷者も多い。たいていのケガは回復魔法ヒーリングの重ね掛けで対応できるが、深手を負うと回復魔法ヒーリングでは対応しきれなかった。人命救助にかかわる魔法の開発は誰もが望むもので、実現できれば魔導士長になった甲斐もあるというものだ。


 「第3実験棟ではウサギに腹部を切り裂き、腸が出るほどの負傷を与えたうえで魔法をかけたところ、傷跡が残らないほどに修復することに成功しました。ただ、昏睡状態から回復せず、2日後に死亡しています。

 第6実験棟ではサルの腕を切断し、魔法で腕を再生させる実験を行なってきました。

 この実験では6頭のサルが使用されましたが、うち4頭に切断個所から腕が生えることが確認できました。現在、手の再生までは果たされておらず、引き続き実験を進める必要があります」

 「ウサギの死亡理由は?」

 「傷口から敗血症などの感染症を引き起こしたか、極度の貧血に陥ったことが原因でないかと考えられていますが、結論は出ていません。

 理由が前者の場合、傷の修復だけでなく、免疫力の増強も同時に行なわなければならないですし、後者の場合は血液の再生、あるいは生産の術式も必要になるかと」

 「あるいはどちらも必要か、だな」

 「おっしゃる通りでございます」

 「ウサギの件は残念だが、まずは死亡原因を徹底究明してくれたまえ。術式の見直しも忘れずにな」

 「かしこまりました」


 「ところで、第10実験棟の報告書が入っていないな。あそこはどうなっている?」

 ガンズは書類をめくりながら顔をしかめた。ほかの実験棟の報告書は入っている。いずれもかんばしくない報告のものだったが、第10実験棟は報告書すらないのだ。ガンズは実験での失敗を責める考えはない。失敗もまた成果のひとつだと考えているからだ。そう考えるからなおさら、報告ひとつ返さない第10実験棟の連中に不信感と不快感を抱いた。

 たしか、あそこの責任者は……。ガンズの頭にある人物の顔が浮かんだが、それ以上深く考えることはしなかった。


 「あそこは、衰弱して瀕死になった者の生気をよみがえらせる実験を行なっていましたな。ただ、衰弱して瀕死になった動物の確保が難しく、実験に取り掛かることそのものが難しいようです。決して実験を進めていないわけではないのでしょうが、実際に行なわれたものもないということでしょう。つまりは報告しようにも何もない状態ということでは?」

 シュティフターはかばうような口調だ。ガンズは不快感の消えない苦い表情で横を向いた。「それにしても今後どう実験を続けるかの報告ぐらいはできるだろう。君から第10実験棟の連中にしっかり注意してくれんかね」

 シュティフターは深々と頭を下げた。「仰せの通りに」


 「まぁ、私も成果を求めて急かしているわけではない。もちろん、魔法の完成は早いほうがいいに決まっている。しかし、これまでの魔導士長は魔導局に政治的なことしかさせてこなかった。おかげで、王国内で魔法の研究で一番遅れているのが魔導局と言われる始末だ。

 魔法研究を推し進めることで、王宮魔導士たちの魔法レベルを上げさせるのは余計な策であろうか?」


 シュティフターはゆっくりと頭をあげた。表情は無に近いもので見た目では肯定なのか、否定の表情なのかはうかがえられない。


 「あなたが魔導士長に就任されて、魔導局は活気づくようになりました。このことでは感謝いたしております。また、魔導局が活気づくと、若手の入局志望者増加にもつながります。実は、わたくしの愚息もこの春に入局いたしまして、雑務係を懸命にこなしておるところです」

 「ほう、君の息子が……」

 「わたくしのような学者肌ではなく、どちらかと言えば官僚的な性格で、何が面白いのか事務作業ばかりに没頭しております……」

 「いずれにしても良かったではないか。今後が楽しみだな」

 「畏れ多いことで……。ですが、正直、少しだけ思っています」

 シュティフターはそこで初めて笑みを浮かべた。笑みと言っても、口のはしだけをわずかに上げただけだったが、ガンズもつられるように笑みを浮かべた。

 「君も父親だったねぇ」



43


――父親――


 それはガンズもまた同じだった。

 城内ではそんな顔を見せることのない彼でも、家に戻ればごく当たり前の、ひとりの父親だった。


 「お帰りなさい、お父様」

 「おや、ローズ。どうして?」


 仕事を終えて帰宅したガンズを出迎えたのは娘のローズだった。娘を見て彼が驚いたのは、娘も王都で暮らしているが、彼女は女学院の寮にいるはずだからだ。

 「いやですわ、お父様。今日は週末ですのよ」

 「ああ、そうだったか」

 ガンズは上着を脱ぎながらつぶやいた。女学院の寮では、月に一度、週末に自宅へ一時帰宅することが許されている。ローズはそれで帰ってきたのだ。

 「すまないね、今日が何曜日かも認識していなかった」

 「お忙しいのですね」

 娘は父親から上着を受け取ると微笑んだ。ガンズはその笑顔を見ながら、世間の者が自分たちを見ればどう思うだろうとふと考えた。シミとしわだらけで干からびた老人と、10代で若々しさに満ちた少女が親子であると、誰が想像できるだろう。せいぜい、祖父と孫だと見るのが普通だ。

 事実、ふたりは祖父と孫ほどに年齢の離れた親子だった。彼にとって最初の子どもであるローズが生まれたとき、彼はすでに50歳を過ぎていたのだ。


 一方で、妻はかなり若かった。

 もともと彼女は家政婦としてガンズに仕えていたのだが、孤独な生活を送る彼に対し、使用人以上の感情を抱くようになったらしい。ガンズもまた、彼女の存在を一使用人として見ることができなくなっていた。ふたりは世間の好奇の目を気にすることなく結ばれた。

 結婚によって、ガンズは孤独の人生から抜け出したが、その暮らしは長く続かなかった。娘ローズを生んだあと、妻は産後の肥立ちが思わしくなく、ほどなく命を落としたのだ。

 ガンズは悲嘆にくれたが、いつまでもそうするわけにいかなかった。彼には生まれてまもない娘がいたからである。

 彼は娘のためにあらゆる手を尽くした。乳母の手配、乳児の世話係の確保、そのために必要となるお金……。特にお金のために、彼は老年にさしかかる身を鞭打って働いた。まさに「悲しんでいる時間もなかった」のだ。

 娘ローズは、ガンズが心配したような身体の弱い子どもではなく、健やかに育っていった。娘には最高の教育を受けさせたい……。そう願った彼は王国で一番とされる女学院に娘を入れた。それにかかる学費はこれまでかかった額を上回るものだったが、彼はためらわなかった。彼はすでに60歳を過ぎており、いつ死ぬかわからない。自分が生きている間に、娘がひとりになっても困らないよう手を尽くすのは当然のことだと彼は考えていたのだ。それで彼自身がいくら困窮しようとも構わなかった。


 一時は辞退しようと思っていた魔導士長就任を引き受けたのも、国王からの要請だけではない。王宮魔導士としてはそれなりの地位と収入を得ていたが、魔導士長の報酬とは比べようにないほどだからだ。

 ローズは自分のために父親が無理をしていると気づいており、気にかけていた。彼女が父親の出世を喜んだのは、父が国に認められたことだけでなく、ようやく無理をさせずにすむと考えていたからだった。ローズは決して世間知らずではなかったが、父がこれから就く役職が苦難に満ちたイバラの道に通じているなど想像してなかったのだ。


 もちろん、ガンズは城での不穏な情勢や空気感を家に持ち帰ることなどしない。こうして出迎えた娘には優しく微笑むだけである。ローズはその笑みに疲れがにじみ出ていることにすばやく気づき、表情が曇った。

 「お疲れですね」


 「そりゃそうだ。あと数年で70歳だ。さすがに体力的にはこたえるな」

 ガンズは声だけ陽気に返した。今取り組んでいる研究などで成果を上げられれば、再任されるかもしれない。彼の任期は残り2年。その2年で何も成果をあげられなければ、次の魔導士長はふたたび貴族派の誰かになるだろう。いや、そのことはいい。できれば、娘の卒業までこの役職を維持し、娘にいい条件の嫁ぎ先を見つけてやりたい。彼にも欲が出始めていた。体力的にこたえるからと言って、この地位から降りるつもりはない。娘に心配もかけたくない。


 「まぁ、疲れやすくはなったが、ごらんの通り私は元気だ。この調子ならあと10年は平気だな」

 ガンズはそういいながらやせ細った腕で力こぶを作ってみせようとする。ローズは苦笑した。

 「もう、お父様ったら、無理はやめてください」

 「無理なもんか。私より周りの若い連中のほうが元気のない始末だ。

 新しく魔法を開発しようという気概すら持ち合わせておらん。私が役を退いたあとのほうが心配だ」

 娘の前で強気を見せたが、本心でもあった。ガンズのように研究にもっと力を入れるべきだと考えるのは少数派で、特に若手がいなかった。これまでの偏った人事で、魔法研究の今後を託せる人材が育っていないのだ。若手の大部分は城内の政治に関心が高い者ばかりだった。まだ会ってはいないから決めつけてもいけないが、シュティフターの息子もおそらくそのひとりだ。


 ローズは不安そうに父親の顔を見つめている。我に返ったガンズは娘に笑顔を見せた。

 「さぁ、私の上着をしまってくれんかね? 早く食事にしよう」


 娘との久しぶりの夕食は心が弾んだ。油断のできない職場に身を長く置いていると、身体より心が疲れてしまいそうだ。娘と過ごす時間はそんな疲れを癒してくれた。ガンズは複雑な気持ちになった。こんな時間を永遠に過ごせるならば今すぐ役を降りたい。一方で、娘の将来を思えば、岩にかじりついてでも今の地位にしがみつきたいのだ。どちらの気持ちも嘘ではない。自分のなかでせめぎ合う矛盾に近い感情を、彼はどう対すればいいかわからなかった。


 もっとも、そんな悩みなど、彼の運命には何の影響もなかったのだが。


 あれから数週間は何ごともなく過ぎていった。

 ガンズは忙しく動き回り、魔法の研究の推進、貴族派との折衝、予算会議の参加などをこなしていった。穏当で、周りを気遣いながら事を進めていくガンズの存在を、誰が煙たがるだろうか。少なくともガンズ自身は敵を作っていないと信じていた。


 そのため、ある日、ガンズの執務室に大勢の兵士が踏み込んできたとき、彼はわけがわからず、ただぽかんと口を開いているだけだった。彼は魔導士長の席に座り、多くの決裁書類を片付けている場面で、いきなり兵士たちに囲まれたのである。


 「失礼いたします、ガンズ魔導士長」

 銀縁の眼鏡をかけた若者が兵士たちの間から姿を現して、うやうやしく頭を下げた。


 「いったい、これは何だね? それに君は誰だ?」


 「お初にお目にかかります。私はアーダル・シュティフターと申します。魔導士科学長ベルト・シュティフターの息子です」

 「そうか、君が……」

 ガンズは呆然としながらもどこか腑に落ちた気分になった。言われて気づく程度ではあるが、アーダルは父と顔立ちに似た部分があったからだ。


 「いったい何なのです、何の騒ぎですか?」

 側近のひとりが兵をかきわけ、アーダルの前に立ちはだかった。しかし、アーダルは無言で合図を送ると、兵士たちのうち数名が側近を両側から押さえつけてそのまま連れ出してしまった。


 アーダルはそれを見送ると、ガンズに向き直った。彼は慇懃いんぎんだが、明らかに尊大な態度でガンズを見下ろしながら、まったく予想外のことを口にした。


 「ガンズ魔導士長。あなたには国家反逆罪の疑いがございます。

 ここにいる兵士たちはあなたを拘束するために来ているのです」



44


 「私が? 国家反逆罪?」

 日ごろ大声を出さないガンズも、これには声がうわずってしまった。

 「いったい、私が何をしたと!」


 「禁術の研究です」


 「禁術……」


 アーダルは持っていた書類をガンズの目前で広げてみせた。

 「第10実験棟において、亜人族の遺体を使って死者蘇生の魔法実験を行ないました。死者蘇生はもちろん禁術です。ご存じのはずですね?」

 「死者蘇生……」

 ガンズは口のなかでつぶやいたが、すぐ立ち直った。

 「バカなことを言うな。あれは死者蘇生ではない。あの亜人は日光を浴びると皮膚が爛れる病気にかかっていた。先天的なもので人間にも起こりうるものだ。私はその治癒魔法の研究を指示していた。先日、研究途中で亜人は死亡してしまったが、その蘇生など行なっておらん」

 「亜人で治癒魔法の研究ですか? なぜ亜人を?」

 「我ら人間は、死ねば屍霊化グールかすることは知っているだろう。人間では、研究対象者が死亡すればすぐに荼毘してやらなければならない。亜人は死亡しても屍霊化しない。遺体を解剖し、死因など研究することができるのだ。亜人たちも、医学と魔法学の発展につながるならばと協力してもらっている。我らの医療魔法が彼らにも効くようになれば、王国各地の辺境で暮らしている亜人族の者たちとも良い関係が築くことができる。

 これは王国の安寧を願う国王陛下から託された大事な研究なのだ。それを禁術などと!」


 「勘違いされては困ります。医療魔法の件は国王陛下が望む研究なのでしょう。ですが、我々が指摘しているのは、医療魔法にかこつけて禁術の研究に手を出している、ということです」

 「いったい、何を根拠に、いや、どんな証拠があって、死者蘇生の魔法実験を行なったなどと」


 「第10実験棟の責任者はシモン・グノーシス。間違いないですね?」

 「そうだが」

 「昨夜、亜人の遺体が暴れる事件が発生しました。屍霊化しないはずの亜人の遺体が」

 「何? そんな話、今朝出仕したときに聞かされていないぞ」

 ガンズは周りに目をやりながら困惑の表情を浮かべた。しかし、周りの魔導士たちも同じような表情で首を振るばかりだ。

 「我らがかん口令を敷いていたからです。

 異常事態の対処のため、実験棟に兵士が踏み込んだら、床にはおぞましい魔法陣が残されておりました。責任者のグノーシスは混乱にまぎれて姿を消しております。魔法陣は解析したところ、一部が文献に残されている死者蘇生の術式と一致しました。術式の解析はできておりませんが、死者を一時的に復活させるものであることは断片的にですが確認できています」

 「そんなバカな! シモンは長年、私とともに研究をしてきたが、彼が禁術に手を出したことなど一度もなかった! 何かの間違いだ!」


 「間違いなどではございません。

 第10実験棟は、死んだものを生き返らせる。その研究のみを行なっていたのです」

 「だから間違いだと」

 「これをごらんください」

 アーダルはかたわらの兵士にうなずいてみせると、今度はひとつの瓶をガンズの目の前にぶら下げてみせた。


 「わかりますか? 瓶のなかにはネズミの死がいが入っています。ですが、皮膚が破れ、そこから新しい肉体が漏れ出ています。死者蘇生のことを研究していなくても、その歴史についてはご存じのはず。これは……」

 「肉体の異常増殖……。死者蘇生の魔法で起きるとされる副作用……」

 ガンズのつぶやき声を聞くと、アーダルは満足そうな笑みを浮かべた。「正解です、ガンズ魔導士長」


 「これが、第10実験棟から見つかったと……」

 「そのとおりです」


 ガンズの全身から力が抜け、彼は肩を落とした。第10実験棟では、これまでも実験の報告書が提出されていなかった。その理由を善意で解釈していたが、実は、禁術の実験が行われていたためだとしたら……。当然だが、そんな報告があげられるはずもない。

 シモンとの関係は親友と言えなくても、親しい関係だと思っていた。シモンは研究熱心な男で、ガンズが魔導士長に就任したとき、真っ先に王宮内の魔法研究に力を入れるべきだと彼に訴えていた。あのときはこの国での魔法研究のあり方を議論したものだったが……。


……私は裏切られていたのか? よりにもよって友人だと思っていた者に……。


 「事態が飲み込めましたでしょうか? ガンズ魔導士長。あなたはこれまで行われてきた魔法研究推進の責任者です。あなたを拘束し、真相を追及するのは当然のことだと思われるのですが、いかがでしょうか?」


 「君は……、君の父親は、どうなんだ。彼もまた魔導士科学長という、魔法研究推進の中心人物だぞ……」


 「父はすでに魔導士科学長ではありません。今朝、事実を知った父はみずから毒をあおり自決いたしました」

 「何だと!」

 ガンズは思わず立ち上がった。すると、兵士たちが彼の両腕を押さえて身動きできなくさせた。ガンズは顔を真っ赤にさせてもがく。

 「は、放せ! 君たちはわかっているのか? こいつの異常さに! この、目の前にいる男は、父親が自殺したばかりだというのに平然としているのだぞ!」


 「父は立派でした。潔く罪を認め、これ以上シュティフター家の名を汚さぬようみずからを罰したのです。それにひきかえ、今のあなたの見苦しい態度ときたら……。父が生きておれば、あなたの姿にさぞ落胆したことでしょう。やはり、あなたは魔導士長の立場にふさわしくない人物だったというわけですね」


 アーダルの言葉に、何か閃く感覚が走った。ガンズは厳しい表情でにらみつけた。

 「やはり、とはどういう意味だ。君は何を知ってそんなことを言っている!」


 「さぁ。何をおっしゃっているのかわかりかねますが。

 言いたいことは王宮憲兵隊の方がたにお話しください」

 アーダルは周りにうなずいてみせると、兵士たちはガンズを拘束したまま部屋から連れ出そうとした。彼らの力は強く、ガンズの力ではどうすることもできない。いや、魔法を使えば逃れられるかもしれないが、そんなことをすれば自分は間違いなく反逆者にされてしまう。

 「ま、待て。もう少し待ってくれ。

 アーダル・シュティフター! お前は誰の指示で動いている! 最近入ったばかりのお前が王宮憲兵隊を率いるなどできないはずだ。おい!」


 「早く連れ出してください。私はこの部屋を封印するために残ります」

 アーダルは静かな声で命じるだけだ。こちらには背を向けて、ガンズに対して、すでに関心もない様子だ。


 兵士たちはアーダルの命令を従順に実行した。ガンズは軽々と持ち上げられ、彼は空中で足をむなしくばたつかせながら部屋から連れ出された。かろうじて後ろに目をやったが、無情にも扉が閉められ、室内の様子はすでに見えなくなっていた。



45


 それからの数日間、ガンズは厳しい尋問に耐えていた。

 「尋問」と言っても、言葉通りの意味ではない。この当時の尋問は「拷問」と呼べるものだった。このような「尋問」は、この後、ルチウス王子が王太子となり、摂政としてまつりごとを治めるようになるまで続けられた。「拷問」による取り調べが法によって禁じられるのは10年後のことである。そのため、この頃のガンズは連日殴られ、蹴り飛ばされ、ひたすら「自供」を強要されたのだった。

 「自供」の内容は向こうから用意されていた。つまり、ガンズがシモン・グノーシスに命じ、死者蘇生の禁術魔法の実験を行なわせた、というものだ。身に覚えのないガンズは頑強に否認を続けた。

 数日もの「尋問」を受けていたガンズは、ある日意識を失い、しばらく生死の境をさまよった。

 かろうじて意識を取り戻したとき、ガンズは病院のベッドに寝かされていたことに気づいた。自分がなぜ入院しているのか、まったく思い出せないほど衰弱していたが、手厚い治療を受け、順調に回復していった。

 この頃になってようやく、ガンズにとって事態が好転していた。


 王宮内で禁術の研究が行われていたというのは、世間に知られるのは非常に不都合な不祥事であった。そのため、事件そのものが隠蔽された。つまり、そんな事件は起こっていないとされたのである。

 ベルト・シュティフターの自殺は急病による死亡、シモン・グノーシスの逃亡は単純な職務放棄によるものとされた。


 このため、ガンズに対する罪状は、部下の精神衛生管理および監督の責任を問われる内容に変えられた。罪状と言うより、単なる解任の理由付けである。


 ガンズは退院すると、そのまま家に帰された。退院前には城内への立ち入りが禁じられたほか、これまでの経緯を他言しないことを誓わされた。無実の者を拷問したことを訴えようものなら、今度こそ社会復帰できない目に遭わせるという「条件」もつけられて。


 自宅に戻ったガンズは居間のソファに沈み込むと、深い息を吐きながら天井を見上げた。

 今回の事件は、シモンが起こした不祥事に乗じて貴族派が勢力回復を図ったものだと考えられた。官僚的思考の若手を手なずけて、ガンズを追い込む役目をさせたのもやつらに違いない。城内の最大勢力である貴族派が背後にいるからこそ、あの若いシュティフターは魔導士長である自分に、あのような上からの態度ができたのだ。


 しかし、そのあとの始末については別の思惑が介在している。そう考えるのは、貴族派はあくまで自分も抹殺するつもりだったと思うからだ。しかし、この件に別の力学が働いて、自分は追放処分だけですんだのだ。別の力学――、おそらく宰相が噛んでいるだろう。

 現在、宰相を務めるヘンリー・リシュリューは長年その地位にいる王国内での大物だ。年齢は自分と同じぐらいのはずだが、はるかに若々しく、そして力がみなぎっているように思える。政治的立場としては国王側に寄り添いながらも、貴族派や非貴族派のいずれともつかず離れずの関係を保ち、絶妙な調整能力で城内の政治的均衡を保っていた。

 今回の件は、貴族派に花を持たせつつ、それでも貴族派に権力の天秤が完全に傾かないよう、宰相が手を回した結果ではないか。このことで宰相側の誰とも接触がなかったが、真実はそうであろうとガンズは確信していた。彼自身は政治的な立ち回りは不得手であったが、それでも政治的状況を「読む」ことには長けていたのだ。


……いや、真相のことなど、どうでもいい。どんな真相を知ったとしても、今の私にはどうすることもできない。貴族派の連中に殺されなかっただけ、私は運が良かった。そう思うことにしよう……。


 ぼんやりと天井を見つめながらガンズは思った。


……さて、これからどうするか。職は失った。王都に私の居場所はあるまい。このまま居続けても下手をすると貴族派の連中に命を狙われるかもしれない。やつらが敵とみなした者を生かす理由はないからな。

 では、王都を離れてどこへ落ち延びる?

 私は子どもの頃に王都へ上った。以来、生まれ故郷に帰っていない。生家はとうに失われ、故郷はすでにないに等しい。そんな私に行くあてなどあるものか……。


 「お父様」


 自分を呼びかける声が聞こえ、彼は頭を起こした。居間への扉が開かれ、そこにローズが真っ青な顔で立っている。


 「……ローズ」


 「お父様、ご無事ですか?」

 ローズは父親のもとへ駆け寄った。ガンズは自分にとりすがる娘を呆然と見下ろした。

 「どうした、ローズ。なぜ、ここへ? 今日は週末じゃないだろう?」


 「私、寮から出ました。いえ、女学院を退学することにしました。私、帰ってきたのです」

 「何だと、それはいかん!」

 ガンズは娘を引き剥がして大声をあげた。娘の顔を見ると、その目から涙があふれていた。


 「いいえ。私、女学院には戻りません。あんなところなど……」


 「どうした。お前に何があった?」


 「私、あちこちから言われたんです。不適格者の娘だと。みんな、お父様のことなんか何も知らないくせに、お父様が解任されたことを不適格者だったからと嗤うのです。生徒だけではありません。あそこでは教師でさえもあんな品格のない中傷を口にするのです。私、いいかげん腹が立ちましたわ。

 ですから、私は学校を出ることにしたのです。お父様を侮辱することを恥とも思わないところで何を学べるというのですか?

 それに、私はお父様のことが心配で心配で。居ても立ってもいられませんでしたわ」


 ガンズは娘の話に気持ちが重苦しくなってきた。

 「……そうか。すまない、私がふがいないばかりに……」

 娘を通わせている女学院は、貴族の子女が多く通うところでもある。ガンズに関する話など、簡単に流れてくるのだろう。

 「いいえ。私こそ、お父様が苦しんでらっしゃることに気づかず、恥ずかしいです」

 ローズはガンズに抱きつくと、その胸に自分の顔を押し当てた。ガンズはその頭を撫でながら、沈痛な面持ちで目をつむった。


……私はなんて愚か者だ。自分のことばかり考えて、娘が苦しめられていることに想像すらできなかった。私はどうやってこの子に償ってやればいいのだろう……。


 「お前は王都に残りたいと思わないか? ここにいればお前にはいい縁談が……」

 「何をおっしゃるんです? 私、王都も嫌いです。お父様を苦しめるところなんて全部嫌いです。私、一刻も早く、ここから出て行きたいですわ」

 ローズは顔をうずめたまま、憎々しげな口調で言葉を吐き出す。


 「そうか……。たしかに、私も王都にはいられないと思っていた。しかし、行くあてはないのだ。実のところ、私はそのことで途方に暮れていたところだ」

 ローズは顔をあげて父親の顔を見上げた。

 「では……、お母さまの故郷はどうです?」

 「なんだと?」

 「ですから、お母さまの生まれ故郷、マイエスタです。アルデミオンの北、いわゆる北方辺境と呼ばれるところにあると聞いています」


 ガンズはしばらく呆けた表情を浮かべた。まったく思いがけない話だったからだ。

 「いや、あそこもお母さまの実家はなくなっている。行ったところで何もないぞ」

 「何もないなら、なおさらいいじゃありませんか。そこではきっとお母さまのことはもちろん、お父様のこともご存知ないひとばっかりということでしょ? 当然、王都の話も……」


 そういうことか……。


 ガンズは理解した。この子の本心はあくまで彼を気遣うものだったのだ。母親の故郷を見てみたいと思う気持ちもあるだろうが、そのぐらいの辺境であれば、彼を追って、悪い噂が流れてくることもあるまいと考えたのだろう。たしかに彼女の言うとおりだ。あそこであれば、誰も自分たちのことなど放っておいてくれるだろう……。

 「よし、わかった。行くとしようかマイエスタへ。悪いが、すぐ引っ越しの準備だな」


 「そんな心配は無用ですわ。私、出かける準備はもうできてるんですから!」

 ローズはようやく笑顔で明るい声をあげた。



46


 ガンズが王都の自宅を売り払い、マイエスタへ向かったのは、それからまもなくのことだった。多少は恐れていたが、王都を離れることを妨害されることは一切なかった。城内ではガンズのことはすでに関心の外だったのだ。彼はそのことがわかって心からほっとした。


 妻の生まれ故郷マイエスタは思っていた以上に田舎だった。城下の村に着いたとき、ガンズは村だけでなく、その奥にそびえる城にも「小さい」と感じていた。

 ローズのほうはむしろ嬉しそうにあちらこちらを眺めていた。母親の故郷であるという思いが、彼女の気持ちを高揚させているのだろう。

 「マイエスタの村は木こりの村だ。ここに住む家が見つかるかどうか……」

 ガンズは不安そうにつぶやいた。都会暮らしに慣れたせいで、田舎での生活に自信が持てないのだ。当然だが、彼に木こりは務まらない。ここに来たのは、ただ隠棲するためだと思っている。

 「村を見回らないうちから決めつけてどうするんです?

 お父様、早く村を見に行きましょう!」

 ローズはガンズの手を引いて歩き出した。彼は娘に引っ張られることを少し嬉しいと思いながら娘に従った。

 村に入り、村長に会うこともできたが、住む家は見つけられなかった。妻の実家はまったく別の者の住居になっており、そこに住むわけにいかなかったのだ。


 そこで、木材の取引で出入りの商人が宿泊する施設にしばらく滞在させてもらい、ガンズはどこか住める土地を探すことにした。


 見つけたのは、村から西の山を登った丘の上である。そこには、かつての木こりの小屋が建っていた。長い間空き家になっていて、かなり傷んではいたが、修復すれば住居にすることができたのだ。

 ガンズとローズはそこへ移り住んだ。

 そして、つつましく、静かな日々が始まった。


 ふたりが移り住んだマイエスタという土地は、深い渓谷で隔てられているとはいえ、魔の森『ミュルクヴィズの森』にきわめて近い場所にあった。そのためか、山や森には猛獣というより魔獣が徘徊し、それほど安全な場所とは言い難かった。

 しかし、ここは魔の森に近いからこそ魔素が濃い。王都のように魔素がほとんどない土地では難しいが、ここでなら魔素を利用した術式で防御魔法陣を張ることができる……。そう考えたガンズは自分の持てる知識をふるい、自宅とする小屋を中心にした魔法結界を展開させた。

 これは結界というより獣の忌避剤と表現するほうが近い。効果は魔獣のように魔素を体内に多く含んだ生物に吐き気や頭痛をもたらすものだ。森全体に結界を展開させるため、効果の威力が下がってしまうのは致し方がない。だが、効果はテキメンと言えるもので、結界を展開してから、彼らが山で魔獣と出くわすことはなくなった。

 さらに、村との間につながる道にも魔獣除けの魔法陣を仕掛けることにした。これは、村との交流を望む娘のためだ。彼女は、生活物資の購入だけでなく、ひととのつながりを求めて村を訪れている。少なくともガンズの目にはそう映っていた。こうした対策によって、村の西にある山はこのあたりで一番安全な場所となったが、娘との静かな生活を望む彼は、自分がしたことを娘にさえ教えなかった。ここが安全だと知れれば、誰もが勝手に立ち入るようになるだろうし、村にも結界を展開させるよう要求されるかもしれない。ガンズはそうしたことで煩わされることを嫌ったのだ。

 一方で、ローズは父が対策したことで道が安全になったことを知らず、ただ、城の守備隊が巡回しているおかげだと思っていた。


 王都を引き払う際、自宅などを売り払ったことでそれなりに蓄えがある。ぜいたくさえしなければとうぶん暮らしに困ることはない。けっこう甘やかせて育てていたが、ローズはぜいたくに興味がない娘で、粗末な服を身に着けることも平気だった。辺境の田舎暮らしを嫌がるかとガンズは心配したが、むしろ自分のほうが早々と音をあげていた。さまざまなことで不便を強いられる暮らしは、王都暮らしの長かったガンズにはこたえたのだ。


 それなりに蓄えがあるといっても、何十年も働かずに暮らせるほどでもない。ある時期からローズは村で働くようになった。仕事は特に決まっていない。村に出向けば、いろいろな頼まれごとがある。

 手紙の代筆……。教養の深い彼女にはうってつけだ。

 ひとり暮らしをしている老婦人の入浴を手伝ってあげる……。体力のある若い女性にしか頼めないことだった。

 村の子どもたちの面倒を見てあげる……。ローズは心優しく、子どもたちは皆ローズのことが大好きだった。彼女が村に訪れることを子どもたちはいつも待ち望んでいた。

 村人たちの衣服の修理をする……。ローズは女学院で裁縫も習っていた。腕前はたしかで、仕事も早い。村人にはわざわざローズに頼む者もいた。


 ローズはこうした要請に丁寧に応え、いくばくかのお金を手にしてきた。ガンズはそのお金を受け取ることは断り、それは自分のために取っておくよう伝えた。将来、彼女がこの村を出るとき、先立つものがなければ困るだろうと思ったからだ。初め、ローズは不満そうな顔を見せたが、反論することはなかった。


 村での暮らしを始めて数年、ガンズは王都から持ち出した本を読みながら余生を過ごしていた。すっかり体力は落ちてしまったが、気力は衰えていない。あの事件の捜査のために、これまで取り組んできた研究の資料はほとんど押収されていたが、わずかに持ち出せた資料と記憶を頼りに、やり残した研究も続けていた。もし、誰も編み出せなかった新しい医療魔法が完成すれば、彼はこれを手土産に王都へ戻ることも考えていた。

 その目的は娘のためだ。ガンズはこの王国では普通の価値観を持っていた。つまり、娘の幸せのために、良い嫁ぎ先を見つけてやりたいと考えていたのだ。ローズはすでに20代半ばになろうとしている。こんな辺境暮らしを続けていては、良い嫁ぎ先に巡り合えないまま娘の婚期を逃してしまう……。ガンズは早くこの暮らしから抜け出さなければと焦り始めていた。それとは逆に、ローズは父親がそんな焦りを抱いていることをまるで気づいていない様子で、村での暮らしを楽しんでいるようだった。


 「なぁ、あんな連中にいつまで付き合うつもりだ?」

 ある日、父は娘に問うた。たいした稼ぎにもならない、仕事とも言えないことにどれほど時間を費やすのかと。こんな辺境の村に良い縁があるとは思えない。ここには一時的に身を寄せただけであり、早くここから去らなければならないのだ。


 そんな父の主張を娘は否定しなかった。しかし、ローズはにっこり微笑んでこう返したのである。

 「ここの暮らしはお父様には退屈かしら?

 でも、通ってみれば村には新しい発見がありますわ」


 「新しい発見?」


 「たとえば、村一番のやんちゃ少年、ポッチくん。あの子は誰の言うことも聞かないようなところがあるけど、私やカイナの言うことには文句ひとつ返さないの。まだ10歳にもならないのに、女性を立てることをする子なのよ。面白いでしょ?」


 「そんな……」

 取るに足らないことを。ガンズは最後の言葉は飲み込んで口に出さなかった。


 「ポッチくんだけではないわ。

 この村の男のひとたちはみんな親切。お城の兵隊さんたちも私によくしてくれるわ。私、どのひとのお嫁さんになったらいいか迷いそうだわ」


 「な、何だって!」ガンズは顔を真っ赤にさせた。

 「ろ、ローズ! お前に言い寄ってくる男がいるのか!」

 「さぁどうでしょ?」

 娘は父親の追及を軽くかわした。

 「お父様ったら、『お前に良い縁を、良い縁を』なんておっしゃるくせに、いざ、そんな縁がありそうになったら嫌がるんですの?」


 「ち、違……、私はだな、お前が嫁ぐのは、その、もっとだな……」

 「お金持ちであっても、性格のひどいひとはごめんですわ、お父様。

 私、王都から離れることになって本当に幸運だと思ってるの。あそこで出会う男の方は、みんな浅ましくて、意地汚くて……。あそこの生活を続けていれば、そういう男性としか縁がございませんでしょうね。

 お父様もたまにでもいいから村を訪ねてほしいですわ。

 そうすればきっと、あそこのひとたちの良さがきっとわかりますわ」


 そんな話をしているローズの顔はいきいきとして輝いて見えた。この田舎暮らしを心から満喫しているように思える。気まぐれで移住を決めた場所であったが、娘にとってはいい選択だったかもしれない。そうであるなら、ガンズにとって不満に思うところではないはずだ。

 しかし、彼は不安だった。ここでの暮らしに慣れないだけではない。この村には、彼を心から安心させない、胸をざわつかせる『何か』があった。ただ、それが何であるか、博識の彼でもわからなかった。


――お父様もたまにでもいいから村を訪ねてほしいですわ――。


 ローズにそう言われたからではないと、自分自身に言い聞かせながら、ガンズは村を訪れた。最後に顔を見せてから2年は過ぎていた。

 王都と違い、この村の変化は乏しい。王都では昨日と今日とでまるで風景が変わったのではと思えるほど、変化のスピードが速い。流行の変遷は目まぐるしく、ガンズではまるでついていけなかった。

 それにひきかえ、この村はどうだ?

 あそこの家は、2年前と同じように窓枠から窓がはずれかかっている。あれから誰も直そうとしなかったようだ。反対側に建っている家は空っぽの鳥小屋が放置されている。あれも2年前と同じだ。さっさと片づけるなり、新しい鶏を飼うなりすればいいのに、そんなことをしようとも思っていないらしい。その証拠に、鳥小屋のなかは落ち葉などでいっぱいで、ずっと掃除すらしてないからだ。

 まったく何も変わっていない。変わったとすれば……。


 「あ、ローズのおじいちゃんだ!」


 背中から元気な子どもの声が飛んできた。ガンズが忌々しそうな表情で振り返ると、思った通りそこに立っているのはポッチだった。


 「私はローズの祖父ではない。父親だ」

 ガンズはいかにも怒っているような顔で訂正した。しかし、ガンズのささやかな『演出』はまるで効果がなかった。ポッチはニコニコしながらガンズのそばへ寄ってきたのである。


 「知ってるよ、おじいちゃん。おじいちゃんはローズ姉ちゃんのお父さん。わかってるさ」


 ポッチの無邪気な笑顔を見ながら、ガンズは心のなかでため息をついた。

……変わったと言えば、このポッチがずいぶんと大きくなったことだ。私たちがこの村へ越したとき、この子は母親の背後に隠れてこわごわとのぞいているだけの幼子おさなごだった。今では、私のことをまるで恐れる気配も見せず、平気な顔で話しかけてくる……。


 「ポッチぃー。どこー?」

 間延びした少女の声が聞こえてくる。ポッチは声のしたほうを振り返った。

 「カイナぁー、こっちー。ガンズ『まどしちょう』が来てるんだー」


 小屋の陰から少女が顔をのぞかせ、ふたりを見つけると、こちらもニコニコ顔でやってくる。

 「ほんとだー。『まどしちょう』のおじいちゃんだー」

 『まどしちょう』とは『魔導士長』のことだろう。ローズが教えたようだ。ガンズはその役職に未練も誇りもない。間違った発音で呼ばれても、それを正そうとは思わなかった。しかし……。


 「さっきからおじいちゃん、おじいちゃんと気安く呼ぶでない。私は老齢だが、君たちのおじいちゃんではないぞ」


 「別にうちのおじいちゃんだと思ってないよ。とっくに死んじゃって顔も知らないけど、おじいちゃんのこと、うちのおじいちゃんと間違ったりしないよ」

 ポッチは「当然でしょ」の顔で返すと、カイナと顔を見合わせた。「ねー」


 ガンズは諦めて首を振った。まったく、子どもには理屈が通じない。こっちが言いたいのはそういうことではなくて……。

 ガンズはそれ以上は話すことなくふたりを置いて、先へ進もうとした。いつまでも相手などしてられない。


 しかし、ガンズの思惑などかまうことなく、ふたりは彼の後ろをついて歩く。『まどしちょう』が、なぜ村を訪れたのか興味津々なのだ。当然だが、ガンズが放つ「こっちに来るな」オーラなど微塵も感じていない。


 こうして、ガンズは村の子どもふたりを子分のように従えた格好で、村の通りを歩いていった。彼はもう、子どもたちを追い返すことは諦めていた。


 やがて、一軒の家の前で足を止めたとき、子どもたちは互いを見やって首をかしげた。それはマッタおばさんの食堂だったのだ。


 ガンズは窓からそっとなかの様子をうかがう。


――いた。ローズだ。


 狭い厨房にエプロンに三角巾を身に着けたローズの姿があった。ニコニコしながら包丁で何かを切っている。


 娘に料理を教えたことはない。自分ができないのだから。そういうことは家政婦に頼んできた。落ちぶれてこの村に流れたとき、自分はパンだけの生活になることを覚悟していた。

 しかし、気がつけば自分の食卓にシチューなどが並ぶようになっており、つつましいながらも食生活は豊かになっていた。まさかと思っていたが、あのシチューは村から買ったのではなく、娘が作っていたものだったのだ。雑用のような仕事を引き受けながら、料理も覚えていったのだろう。


 想像していたから意外ではなかったが、それでもガンズには衝撃だった。自分が引きこもりの生活をしている間、娘は着実に「村の娘」へと変わっていたのだ。それも誰かに強制されるわけでなく、自分の意志で。


 窓から離れたガンズの両肩はがっくりと落ちていた。

 娘には反抗らしい反抗をされたことはない。

 しかし、ここまではっきりとガンズが望み、考えるものとは違う人生を歩んでいることに、彼は落ち込んだ。認めたくはなかったが、自分の誤りを悟るしかない。自分が娘に望んだものは、決して娘にとっての最良でなかったのだと。


 身体の向きを変えると、ガンズは子どもたちが不思議そうな顔で自分を見上げていることに気づいた。「なんだ? まだいたのか」


 「おじいちゃん、泣いてるの?」カイナが心配そうな顔で尋ねる。


 反射的にガンズは自分の顔に手を当てた。たしかに目から涙がこぼれている。しかし、それは悲しみによるものなのか? ガンズは首を振った。「いいや」


 「見ろよ。おじいちゃん、泣きながら笑ってらぁ」

 ポッチはカイナに教えようと話しかけた。



47


 あの日から、ガンズの生活に少し変化があった。


 これまではまったく村を訪れなかったが、たまに村へ出て村人との交流をするようになったのだ。とはいえ、彼は自分の過去を知られたくなかったので、魔法が使えることも教えなかった。村人の好奇心を抑えきれず、王都に住んでいたことだけを語ったのみである。


 娘のように村になじむことは厳しかったが、彼は彼なりに村へ歩み寄ろうとしたのだ。彼は娘の代わりに村の子どもたちに文字や言葉を教えるようになっていた。ローズは村人たちから引く手あまたで、いろいろな用事を頼まれていたので忙しかったのだ。


 ある日、ガンズが家に帰ろうと通りを歩いていたら、村人のひとりに声をかけられた。村一番の大男であるレギストだ。

 「あんた、村に住む考えはないか?」

 なぜ、今になってそんなことを言うのだろう? ガンズはそんなことを思いながら首を振った。「あの山での暮らしは嫌ではないよ。どうしてかね?」


 「昨日聞いたんだが、戦争が始まった。いや戦争自体はもっと前に起こってたみたいだが」

 「戦争? この国がどこと?」

 ガンズが目を丸くすると、レギストの答えで彼をますます驚かせた。「魔国だ」

 「マイグランだと!」


 「魔国の何たらとかいうお偉いさんが大軍率いて攻めてきたらしい。ここで一番近いところでアングリアが落とされたそうだ」


 「アングリア……」

 王国中東部では一番北にある城塞都市だ。小さいとはいえ、マイエスタの砦と変わらないくらい高い城壁に守られた街だ。それが落ちたとは……。

 「あんた、もっと詳しい話を知らんかね? 戦況はどうなってるとか」


 「うーん。おれも又聞きなんでな。言えるのは、ほかにポラトリスやセルネドとか、魔の森付近の街が落とされたってことだ。それで、城の兵たちは次はアルデミオンが危ないと噂しているみたいだ」

 噂の出どころは城からか。落とされた街の名前が具体的であることといい、嘘や誤情報と決めつけられるものでもなさそうだ。


 「ここも危ないのではないのか?」

 ガンズは不安そうに谷へ視線を向けた。谷の向こう側には、アングリアなどと同じように巨大な魔の森が広がっている。


 「さぁな。おれはそのあたりのことはわからんね。

 ただ、この谷は2百メルテを超える絶壁だ。いくら魔族が腕力バカでも、この壁を登って攻めたりはできんよ。それができりゃ、とっくに攻めているさ」


 レギストの考えはもっともだ。それに、ここには木材以外に資源があるといえず、地政学的にも軍略的にも占領する価値はない。魔国がここをわざわざ狙うとは考えにくかった。


 「ただな、じいさんよ。今後も大丈夫とは言い切れねぇ。若い娘がいるんだ。みんなが近くにいる村で住むほうが安心じゃないか?」

 レギストは素朴な優しさでガンズたちを気遣って声をかけてくれたのだ。ガンズはそれに気づいて胸が少し熱くなった。今さらだが、ローズの言う『村人たちの良さ』がわかった気がした。

 しかし、それでもガンズは首を振った。「いいや、その気持ちだけ感謝しよう。私は大丈夫だ」

 魔獣が忌避する結界は、魔族にも効果がある。ただ、こちらを攻める意志があって踏み込んでくる場合は、それを阻めるほど強力ではない。だが、漠然と攻めてくるのであれば、結界の内側に入り込もうとする魔族はいないだろう。そうだな。この機会に村にも結界を張っておくか。あの家一軒を守るより手がかかるからすぐにはできないが、今日から取り掛かれば一週間で必要な数のプレートは造れるだろう。ただ、このときのガンズは別のことも考えていた。


 「私はあの家で充分だが、娘は村に住まわせたい。どこかあてがあるかね?」


 「そうか。実はな、あんたの娘さんに介護してもらっている婆さんがいるんだが、あの家に住み込んでもらえればと考えている。あそこなら広い寝床もあるし、すき間風が入り込まない快適な家だ。娘さんには安心して住んでもらえるし、婆さんも助かる」


 ガンズは少し考え込んだ。レギストの提案は娘の介護を期待しての申し出だとわかったからだ。

 「まぁ、決めるのは娘だ。話は伝えておくが娘が遠慮したらそれまでだ。それでどうかね?」

 「もちろんだ」


 数日後、ローズは父親のことを心配しながらも村で暮らすことになった。ガンズは娘の住む村のために、急いで村にも結界を張っておいた。これでひとまず安心だ。そのときの彼はそう思っていた。


 しかし、それがガンズにとって痛恨の出来事となる。村にアルタイル軍が攻め込んできたのだ。



48


 こなごなに砕けた扉。無造作に放り出された家具。ところどころに見える血痕……。


 ガンズは村に入るや、目の当たりにした光景で立ちすくんでしまった。

 ポッチとカイナが彼の家に駆けこんだのは夜になってのことだ。明かりのない夜道を駆けてここまで来たのか。ガンズは驚いてふたりを迎え入れた。

 ポッチの要領を得ない説明と、カイナの必死の説明で、どうにか、魔族が村を襲ったことを知った。ポッチとカイナのふたりは、村の外で遊んでいたときに襲撃のことを知り、魔候軍の追跡をかわしながらどうにかここまでたどり着いたのだった。

 「樹の真ん中がポウッと明るくなってるのがあって、それをたぐればおじいちゃんの家に着くって知っていたから」

 ポッチのたどたどしい説明を整理すれば、彼らがどうやってここへたどり着いたのかわかった。


 「村はどうなった? 娘は?」


 ふたりはわからないと首を振ったが、「でも、兵隊さんたちが村を走り回って、城へ逃げろって叫んでいたから、みんなそっちへ逃げたと思う」とカイナが答えた。


 あの城はもともと魔族との戦争を想定して造られた要塞だ。堅固さではアングリアよりも上だろう。そこへ逃げ込んだのであれば大丈夫だ。


 村の様子は気になるが、夜の山道を歩くのは危ない。明かりを灯せば進むのは楽になるが、それでは周囲にいるかもしれない魔候軍に見つかってしまう。

 ガンズは焦りの気持ちを抑えながら、ポッチたちと夜が明けるのを待った。子どもたちは逃避行の疲れもあって、ローズのベッドで並んで眠ってしまったが、彼は眠ることができなかった。

 夜が明けると、ガンズはふたりを起こし、決して家から出ないよう言い残して山道を下っていった。ふたりは戸口からガンズが駆け下りるのを不安そうな瞳で見つめていた。


 村はひと気がなく、静かだった。大勢いたという魔候軍の姿はまるで見当たらない。物陰で様子を見ていたが、安全だろうと判断し、ガンズはようやく村へ足を踏み入れたのだが……。


 思っていた以上の惨状だった。


 点々と散らばる血痕は誰のものなのか。兵士たちが斬った敵のものなのか。ガンズはそうであってくれればと願い、城へ向かおうとした。

 少し先へ進むと、武装した兵士たちの集団と出会った。


 「おう、あんたは無事か」

 大柄で、ほかとは形状の異なる鎧で身を包んだ男が声をかけてきた。ガンズは急いで男のもとへ駆け寄った。

 「わ、私はガンズという。娘を探しに来たのだ。娘は城へ避難しているのか? 無事なのか?」

 ガンズは額から汗を流しながら尋ねた。兵士たちは無言で互いを見やっている。その表情は何かいいにくそうな、困ったようなものだ。ガンズの不安感が一気に増した。

 「俺の名前はクルト・ヒューズだ。娘さんの名前は?」

 クルトと名乗る男の質問でガンズは我に返った。「ろ、ローズだ」


 クルトは背後にいる兵たちに振り返った。しかし、全員が首を横に振る。

 「昨日避難してきた者の名前をみんな知りません。いるかもしれませんが、いないかもしれません」

 兵士のひとりが小声で答えた。ガンズはその答えに目を見開いた。

 「いないかも……。全員避難したわけでないのか?」

 別の兵士が首を振った。

 「無事に逃げてきたのは村の半数です」


 ガンズはそれ以上兵士たちと話してはいられなかった。彼らをかき分けると、全速力で城へ向かう。足がもつれ、ところどころでつまずきながらも、彼はどうにか城へ駆け込んだ。

 「ローズ! ローズ!」

 ガンズは娘の名前を叫びながら城のなかを駆けまわった。何人か村人らしいものに出会うと、その肩をつかみ娘の無事を尋ねるが、誰も首を横に振るばかりだ。誰もが一様に「姿を見ていない」と答えた。


 娘が世話をしてた老婦人の姿もなかった。ガンズのなかで不安の気持ちがますます大きくなった。娘の足なら城へ逃げきれただろう。しかし、あの子がもし、足の不自由な老婦人と一緒にいれば……。


 彼女も老婦人とともに逃げなかったかもしれない……。


 ガンズは城を飛び出すと、ローズが下宿している家に向かって走った。70歳をすぎた身体で走るのはつらいことだが、彼は目がかすんでくるのもかまわず走り続けた。


 目的の家に着いたとき、ガンズは絶望的な気持ちになってくずおれそうになった。

 彼の目の前にある家は完全に叩き壊されていた。扉はひしゃげた姿で横たわり、家の壁はこなごなに砕けている。部屋のなかはむきだしで、そこには誰の姿も見えない。


 「ローズ……」

 ガンズはふらふらと家に向かうと、家の残骸を取り除き始めた。まるで、その陰に娘が潜んでいるか確かめるように。

 「ローズ、ローズ、ローズ……」

 いつの間にか目に涙をためながら、ガンズは娘を探し続けた。床板をめくって、その下も探してみたが見つからなかった。


 娘は連れ去られていた。


 時間が経てば、いろいろな情報がもたらされてくる。そのなかには連れ去られた人びとのものも含まれていた。

 そのなかには、娘が日ごろ着ていた服と同じ服装の若い女が老婆とともに連れ去られたという目撃情報があったのだ。

 ガンズはその情報を静かに聞いていた。いや、反応する気力を失っていたというのが正確なのだろう。両肩を落とし、力なく座り込んだ姿に、先ほどまで娘の姿を探し求めて駆けずり回った力強さはまるでなかった。そこにあったのは、ただただ疲れ果てた老人の姿だった。


 「殺すつもりなら、その場で殺していたはずだ。やつらは目的があって村人をさらったのだ。彼らが生きている望みはある」

 クルトはまるで確信しているかのように説明していたが、その言葉に希望は見出せなかった。何を言っている――。そんな考えしか頭に浮かんでこない。


 だが、それでも、ガンズはその言葉を信じた。信じる以外、できることがなかった。生き残った村人たちは、破壊された村の残骸を片付け、住居の立て直しを始め、村としての復興はすでに動き出していた。

 ガンズはそんな村に毎日のように通い、連れ去られた者たちの安否情報を尋ねた。得られる答えはいつも「何もない」だった。彼は肩を落として山へ戻るのが日常になっていた。


 魔候軍によるマイエスタの襲撃からひと月近く経ったころ、ガンズのもとへポッチが興奮した表情で駆けこんできた。


 「魔候軍がやっつけられて、みんなが帰ってきた!」


 ガンズはせっかく教えに来てくれたポッチを置き去りにして山道を駆け下りた。村に着くと、大勢の村人が通りで抱き合ったりして騒いでいる。抱きしめられているのは、いずれも薄汚れた服をまとった者たちだ。ガンズはそれが拉致されていた者たちだと瞬時にわかった。


 「ローズ! そこにいるのか!」

 ガンズは村人たちをかきわけながら娘の姿を探した。「ローズ、ローズ! どこだ!」


 「あんた……、ローズさんの親御さんかい?」


 見つからない娘の姿に焦りを隠せないガンズに、後ろから声をかける者がいた。振り返ると、みすぼらしい服装の男が立っている。50代ぐらいか。額に古い傷跡がある。誰だかわからないが、何日もヒゲを剃っていない様子から、この男もまた拉致された者のひとりだろうと想像できた。


 「あんたは?」

 ガンズが警戒心の目を向けるが、男は気にする様子もなく歩み寄ってきた。襲撃されたときに負傷したのか、右足を引きずっている。


 「おれの名前なんかどうでもいいだろう。おれはあんたの娘と同じように魔候軍に捕まっていた者だ。娘さんのことだがな……」


 男はガンズが聞きたくない事実を告げた。


――あんたの娘は死んだ。

 あの日、村の西に住む婆さんと一緒に捕まったとき、娘さんは婆さんをかばって大ケガをした。婆さんも大ケガした。

 ふたりは歩くのもままならない状態だったのに、無理やり連れて行かれて、まず婆さん、次に娘さんが力尽きた。

 ふたりの遺体は、屍霊化グールかするのを恐れたゴブリンたちに首をはねられて森の道端に捨てられた……。


 男が語ったのはここまで簡潔にまとめられていなかったが、要約すれば数行で足りる内容だった。


 「何を言っている。そんなバカな話を信じられるわけがないだろう!」

 ガンズは怒鳴り声をあげたが、その肩をつかむ者がいた。怒りの目を向けると、そこにいたのはレギストだった。


 「じいさん。おれも同じ気持ちだ。おれも娘が帰ってきていない。死んだなんて信じられない。でもな。みんな見てたんだ。娘がくたばるところを。首をはねられてゴミみたいに捨てられるのを。じいさんの身内だけじゃないんだ。そうなったのは。受け入れられねぇが、そうするしかないんだよ……。そうするしか……」

 ガンズの肩をつかむレギストの手はぶるぶると震えていた。ガンズは弱々しくその手を払いのけた。レギストは村で一番の力持ちだが、その手は簡単に払いのけることができた。


 どこかで「うわぁあ」と泣き叫ぶ声が聞こえる。そちらに目を向ければ、食堂のおかみが汚れた布切れを胸にかかえて泣き崩れていた。彼女の肩に手を置いた男が、取り戻せたのは服だけだったと説明している。彼女の夫も帰らぬひととなっていたのだ。


 「くそっ、くそっ、くそっ!」

 誰かが悪態をつきはじめた。

 「こんなに犠牲が出たってのに、城の連中はひと言もないのかよ!」


 「一緒に連れていかれた兵士は無事だったと聞いているぞ」


 「あいつら、自分が良ければそれでよいのか!」


 「許せない! 城の奴ら、全員!」


 村人たちは怒りの感情を爆発させて、口々に領主に対する罵り文句を吐き散らかしている。誰もが怒っていた。誰もが泣いていた。そこに穏やかな気持ちの者はひとりもいなかった。もちろん、それはガンズも例外ではなかった。


 しかし、ガンズはひとり、声をあげる村人たちの輪から離れて歩き出していた。血走った目で地面を睨みつけ、重い足を引きずるようにしながら家のある山道に向かっていた。途中、ようやく山を下りてきたポッチとすれ違ったが、彼は何も言わなかった。ポッチも彼に何か話しかけようとしたが、その顔つきを見て口をつぐんだ。あのときのポッチには、ガンズを見送る以外、何もできなかった。



49


 村から戻ったガンズはふたたび『引きこもり』の生活になった。


 小屋の窓には板を打ち付けて外から明かりが入らないようにした。誰からものぞかれないようにしたとも言えるが。


 ガンズはまともに食事をとることもせず、ひたすら書物に書き込みをしながら何かに没頭していた。暗闇のなか、ひたすら机にかじりついている姿は異様で、尋常と呼べるものは何もなかった。血走った目を左右に走らせ、書物の文字を追いながらぶつぶつと何か呪文のようなものを唱え続ける。そんな日が続いた。


 ガンズのもとへ、食料を届けるのはポッチだけだった。村人のなかに、ガンズのことを気にかける者がいなかったわけではない。しかし、彼の家の場所を知っているのはポッチだけだ。ポッチは彼の家を訪れるたび、顔を見たくて扉を叩いたが、それは叶わなかった。ポッチでさえ会おうとしない彼のもとへ、ポッチはほかの誰かに彼の家を教える気持ちにはなれなかったのだ。それに、あえてガンズの家を探し訪ねようとまで考える者もいなかった。


 ある日、山を下りてきたガンズの姿を見て、それがガンズだとすぐに気づいた村人はいなかったのは、村人たちが彼のことを忘れかけていたこともあるだろう。

 ガンズは小柄で痩せていたが、さらに瘦せ細り、顔つきも別人のものになっていた。頬骨は尖り、頬や首のあたりは皺くちゃで、皮が垂れ下がっていた。とぼとぼと歩く姿は、ほんのひと月まえに山を駆け下りてきた男と同一人物には見えなかった。


 しかし、そんな姿になっても、ポッチだけは彼が誰であるかすぐに気づいた。ポッチは彼のもとへ駆け寄り、「おじいちゃん」と声をかけた。


 ガンズは無言でポッチを押しのけようとしたが、腕力の落ちた身体ではそれができなかった。ガンズは恨めしそうな目つきでポッチを見下ろした。「何の用だ?」


 「おじいちゃんこそ、どうして村へ? お腹すいたのならボクが届けてあげるのに」

 ポッチの視線はガンズの腕に注がれていた。そちらも顔同様に痩せて皺くちゃだった。こうも衰えた姿に、ポッチは怯えていた。


 「村に用はない。領主に会いに行く」

 ガンズはどうにかポッチを押しのけると、先へ進もうとした。ポッチは立ち去るガンズの背中を見つめながら悲しそうな表情になった。

 「おじいちゃん、ご領主さまには会えないよ」


 それを聞いてもガンズは立ち止まらない。ポッチは続けた。「死んじゃったんだ、もう」


 ガンズの足が止まった。「何だと?」


 「死んじゃったんだ、戦争が終わる少し前に。あの日からずっと病気だったんだって。で、けっきょく治らなかったんだって」


 ガンズはポッチに駆け戻ると、その肩を両手でつかんだ。「そんなバカな! 私はまだ何もしていないぞ!」


 「バカって言われても……。ほんとの話だよ。大人たちもみんな知ってる」

 ポッチは痛そうに顔をしかめながらつぶやいた。実際に、ガンズの細い指はポッチの肩に食い込んでいた。


 「嘘だ。嘘だ。嘘だと言ってくれ。嘘だと言ってくれ……」

 ガンズはがっくりと両ひざを地面につけてうなだれた。うなだれた頭からは嗚咽のような声が漏れている。

 ポッチはどうすればいいかもわからず、ガンズと同じようにうなだれてしまった。


 がらがらと馬車の車輪の音が響いてきたのはそのときである。ポッチは慌ててガンズの身体を揺さぶった。

 「危ない、馬車が来てる!」

 ポッチはなんとかガンズを立たせると、通りのわきへ連れて行った。ふたりが立っている目の前を1台の馬車が駆け抜けていく。


 「あれが、お嬢様の馬車か」


 ふたりが何の考えもなく馬車を見送っていると、ひとりの男がつぶやきながら近づいてきた。ガンズは男に振り返った。村でたまに見るきこりのひとりだった。

 「お嬢様って?」


 「先月亡くなったご領主様の娘だよ。

 生まれてずっと王都暮らしで、ここに来るのは初めてだって話だ。王都の女学院に通っていたって話だったかな」


 それを聞いて、ガンズの眉がぴくりと動いた。「王都の女学院だと?」


 「淑女を育てる名門だってな。領主のやつ、おれたちから集めた税で娘に金をつぎ込んでいやがったんだ」

 男の声は忌々しそうな苛立ちが滲んでいた。馬車を見つめる目も同じような感情でギラギラしている。


 「許せねぇよな、実際。おれたちは家族を失ったりして苦しんでいるのに。領主は普通にベッドで死んで、王都で贅沢暮らしをしていた娘は領地に帰ってくるだけで跡が継げるんだからな」

 男はなおも恨み言をぶちぶちとこぼしている。ガンズは最後まで聞きたいと思わなかったので、そこから立ち去ることにした。しかし、胸の内にあるものは、その男が吐き散らかしているものと同じだった。

 「許せない。ああ、そうさ、許せない。あいつらは罰を受けねばならない!」


 ガンズは小声でつぶやきながら自宅のある山道に向かって歩き出した。その背中を、ポッチは悲しそうな瞳で見つめるだけだった。


 自宅に戻ったガンズは床にじっと視線を注いでいた。そこには大きな魔法陣が描かれている。小屋にこもって完成させた、領主を呪う魔法陣だ。


……この魔法陣はすでに役立たずだ。標的が存在しないのだからな。だが、まったく使えなくなったわけではない。標的を娘に変えればいいのだ。むろん、そのために魔法陣は大幅に書き換えねばならないが……。


 ガンズは身をかがめて魔法陣のはしに触れた。

……それだけではダメだな。村まで行って思い知ったが、どうやって呪いを標的にぶつけるか、私の目論見は甘すぎた。直接標的を前にして呪い魔法を打ち込めばよいと思ったが、どうやって会うことができるか、結局考えが至らなかったからな。目的を達するためには、標的を目視できなくても命中させることのできる遠隔式の術式を組み込み、着実に標的を呪わなければならない。


……呪いの内容も再検討するべきだ。強力なものだとすぐに死んでしまう。領主が死んだと聞いて思った。簡単に死んでもらっては困るのだと。苦しんで、苦しんで、苦しんで、死にたいと思うほど苦しんで。それでも解けることのない苦しみを、苦痛を与えなければならない。それには苦痛はともなうが、すぐには命に影響しないものがいい。だが、果たして、そんな「呪い魔法」は存在したかどうか……。


 そう考えながら、ガンズは自分の机に目をやった。そこにはこれまでの研究についてまとめられた資料が山積みになっている。

 山を見つめているうちに、ガンズの頭の奥に閃くものがあった。


 「あれならどうだ?」

 ガンズは苦労して描いた魔法陣を踏みしだきながら、自分の机に向かった。一番古い資料を手にすると、大急ぎでめくり始める。


……あった! 太陽の光を浴びると皮膚が爛れてしまう奇病。この病気が起きるメカニズムの解析だけは大まかに終わっている。本来は、それを治すための研究だったが、その症状を魔法で再現できれば、これは強力な呪いとなる!


 ガンズはどこか軽いめまいを感じながらも、自分の考えに夢中になり始めていた。


……このままですませてたまるか。必ず呪いをかけてやる。

 生涯苦しめばいい。娘は結局、自分の幸せをつかむことなく死んでしまった。娘の命を、未来を奪ったのは、お前たち施政者が無力だったせいだ。他人をどうにかできる権力を持っているのなら、その力を正しく使うべきなのに、結局そうすることもできなかった。村人も私も、お前たちのプライドだのメンツだのどうでもいいのだ。施政者をやりたいのならやらせてやるさ。だが、そのために果たすべき責任はとってもらう。お前たちは罰を受ける。当然受けるべき罰だ! そして、苦しめ、苦しめ、苦しめ! 私が受けた苦しみの何倍もの苦しみを! そうでもなければ、私の魂は地獄に行くことさえできない!


 ふたたび机にかじりついたガンズの目はらんらんと光り、一種の熱を帯びていた。

 ガンズが新たな術式を構築するために手にしていたのは、『禁術』の疑いをかけられたために失われた、本来、人びとを救うために研究された記録だった。



50


 どれだけの時間を費やしたのか……。


 日の差さない部屋で日夜研究に打ち込んでいたガンズには時間の経過がまるでわからなくなっていた。しかし、時間をかけただけ、新たに構築された魔法陣の完成度は以前と比べ物にならない域に達していた。


 床に描き直された魔法陣を見つめ、ガンズは満足げな笑みを浮かべた。彼が笑みを浮かべることなど、しばらく絶えて無かったことだが、それだけ自分の『成果』に満足したのだ。

 本当は懸念すべき問題点は存在した。


――呪い系魔法は本来、術者の生命力をいけにえに発動する――。


 呪術を研究している者であれば常識とされるものだ。

 むろん、たとえ自分が死ぬことになろうと、この魔法陣は起動させるつもりだ。だが、呪う対象の末路を見てみたい。せめて、やつらの苦しむ姿を自身の目に焼き付けてから死にたい――。


 ガンズはそう考えるようになっていた。領主を呪い殺そうとしたとき、自分が死ぬことも確定していたが、時間が経って、少し冷静な部分ができたかもしれなかった。


……呪い系は、相手の命を標的とするのが明らかなため、代償とされるものも「命」とされる。ただ炎を放つとか、冷気をぶつけるとか、たとえ相手を攻撃する目的であっても、現象そのものは「攻撃」ではないため、命の消費は行われない。


 ガンズは首を振った。

……今回構築した魔法陣は、現象としては「状態異常」に類するものだ。効果が強力なため、大量の魔力を必要とされるが、生命力までは要求されないはずだ。それに魔力も、この土地に浸み込んだ魔素を消費すればよい。私の肉体に影響を及ぼすことはないだろう。


 では、なぜ、今、自分はためらっている。


――時間をかけて構築した魔法陣の発動が失敗に終わることを恐れて?

 違う。そうなれば、また新たな魔法陣を構築すればよい。魔法の完成まで、私が諦めることなどない。


――顔すら見たこともない領主の娘を呪うことに、後ろめたさがある?

 違う。対象の人物を知っているかどうかは関係ない。彼らも私たち親子のことなど知ってはいまい。いや、私たちの存在を知らなかったからこそ、やつらは私たちが理不尽な目に遭うことを防げなかったのだ。彼らの無知は、呪わない理由にならない。


――この呪いで復讐を遂げたとしても、娘は生き返ることはない。それがわかっているからこその虚しさからか?

 それは多少あるかもしれない。この復讐によって、娘を取り戻せるわけではない。もし、自分の真の願いがそれであれば、こんなことは『無駄』のひと言だ。

 しかし、自分はそんなこと、とっくにわかっている。わかりきっている。そうだ。だからこそ、相手を呪うのだ。真の願いを失った者に残されたのは、もうこれぐらいしかないのだ。


 ガンズはふたたび首を振った。これ以上考えても無意味だ。ためらいの気持ちの正体に気づいたとして、自分はこの復讐をやめることなどありえるのか? そんなことなどありえない。いや、今もなお、胸の奥でもやもやしているものの正体に気づかないうちに、魔法陣を発動させるのが最良だ。危険な予感はつきまとうが、それでためらっていたら、彼はこのあと二度とこの魔法陣を発動できなくなるかもしれない。彼は不安を払拭するように、痩せ細り、骨の浮いた手を魔法陣にかざした。


 実験的な試運転は何度か試している。魔法陣の発動に不安はない。自分の命が「いけにえ」にならない条件もクリアしているはずだ。だが、なぜだ。なぜ、自分の手はこうも震えている? これから行なうことに自分は今さら罪の意識を感じているのか?


 「ルー、ステラス、フォン、デネ、ストラムス……。我、汝に願うは太陽の恵みへの拒絶。その者が持つ盾の力を奪い、その魂をむき出しにさらしたまえ。その罰は、その者の死まで決して許されず、永劫のものとしてこの大地に刻め。その者に与える罰の名は……」


 ガンズは大きく息を吸った。「不条理烙印アブサード・スティグマ!」


 ガンズが魔名を唱えた瞬間、魔法陣は青白く輝き出した。その明かりは、小屋の暗闇を振り払い、ガンズの全身をそこにさらした。ガンズはすでに骨と皮ばかりに瘦せ衰えて、立っているのがやっとのような姿だったが、この瞬間、この時間だけは倒れてはなるまいと、力いっぱい両足を踏ん張っていた。

 彼の顔は恍惚に近い表情で、どこか別のところに意識があるようだ。


 やがて、彼はひざから床にくずおれた。全身からなけなしの力が失われるのが感じられる。


……なぜだ? 私から力が失われていく。私の命が奪われているのか? ただの状態異常魔法であれば、呪い系のような代償は不要ではないのか?


 ガンズは薄れゆく意識のなか、必死で分析を試みた。分析にかかった時間は刹那ともいえるほど短いものだったが、それでも、彼は答えを得ていた。


……そうか……。呪い系を成立させるのは、その「目的」にも条件があった。私の魔法はただの状態異常ではなく、相手の生命を害することを「目的」としたものだった。現象がどんなものであるかは直接的に関係なかったのだ。


 呪い系魔法について、新しい見識、発見だ。この事実を後世に伝えれば、呪術の研究において、より冷静で知性的な研究が行われるだろう。ひとを呪うための呪術ではなく、ひとを救うための呪術として、この見識は役立つはずだ……。


 ガンズの顔に皮肉な笑みが浮かんだ。


……今まさに命尽きようとする瞬間に、私は何の発見に心躍らされているのか……。滑稽だ。私はこんなときまで魔法使いだったのだ……。


 身体を支えることができず、床に倒れ伏してもなお、ガンズの顔から笑みは消えなかった。


……そうか。こんなくだらないことに気が回るのは、私はすでに目的を達したからなのだな。すでにレドメイン家を呪うことは目的でなくなっていたのだ。私がここまで生き続けていたのは、この魔法の完成を見届けたいだけだったのだな。先ほどまでの不安は、この呪いを発動させたあと、私は生きる目的を本当に失ってしまう。その予感に、私は不安を抱いたのだ……。なんと業の深い……。私は娘の復讐さえ、生きるために利用していたというのか……。


 ならば、結果は問うまい。この魔法が成功しようとも失敗に終わろうとも、もう気にはすまい……。


 ガンズは目を閉じ、眠るように意識を失った。彼の命はそのまま尽き果てたのだった。


 魔法陣が放つ光は、とつぜん何かが焼き切れたかのように煙とともに消え失せ、そこは闇に沈んだ……。

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